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いまだに分からないことがあります。 学者と呼ばれる大学の先生たちの学問への取り組みです。 全員とは言いませんが、学問のための学問をしている人にたくさん会いました。 なぜ学ぶのか? 一般の人にとっての答えは明確です。 それは「幸せ」になるためです。 究極の目的はこれしかありません。 どうやら、学者の中にはそうではない人もいるらしいのです。 自分の学説が正しいこと、議論に勝つことに命がけになっている人をたくさん見ました。 某有名大学で教えている社会学者が新聞の人生相談で言っていました。 「社会学者は性格が悪くなる」 私は思いました。 「この人は、もうこの時点で終わっている」 みんなに好かれるかどうか、受け入れられるかは別として、言動に明るさや光があり、心を軽くできる何かを含有してることが大事でしょ? 読んで気持ちが沈むことをなぜ言う? お金を払っている購読者を嫌な気分にさせる回答者を新聞社はなぜ選ぶ? 別に読者の媚びへつらえとは言わないまでも、このような疑問が頭を巡りました。 国立でも私立でも、政府から補助金をもらって大学は運営されています。 国は国民の「幸せ」のために最高学府である大学にお金を出していることをすっかり忘れた発言だと憤慨しました。 「何を勘違いしているのか?それなら、大学を辞めて、自分で稼いで評論家として意見を発表したらいい!」 仮にも人様からのお金で生活しているなら、その人たちの役に立たないといけません。 ここら辺が大きな勘違いの大元です。 科学の分野では趣味や議論に勝つ研究というより、この研究がどのように人類の幸福に貢献するかを考えます。 究極的に役に立たないことは、下手をすると、補助金の対象外となり、研究は打ち切られます。 それが人文科学では、多くの役にも立たない議論やかえって人を苦しめる議論が繰り返されるのはなぜなのでしょうか? ある大学の先生に、この思想家のこの理論の先は「幸せですか?」とたずねた時、 「happy」かどうかはわからないと答えられました。 また別の人は「この研究の行き着く先や目的が必ずしも幸福とは限らない」と言われました。 私は愕くとともに失望しました。 仮に研究を進めて、これは幸福に結びつかないということが分かっら、それは誤った方向だということを証明したことになります。 ただし、その結果が無益と分かって、幸せになる道に軌道修正できたなら、成功であり、その研究は無駄ではありません。 「幸せ」という目的がしっかり核としてあり、そこに向かっているかどうかがポイントです。 言い換えると、本当の無駄は、議論のための議論であり、「人間の幸せ」を抜きにした興味本位の研究です。 学者と実務家の役割は違うと反論されるかもしれませんが、どちらの立場であったとしても、「人の幸せ」を抜きにした活動は無駄であり、無意味だと私は痛感します。 人生は長いようで短いです。 お互い人類の幸福に資することにできるだけたくさんの時間を費やし、有意義に過ごしましょう。 よかったこと 寒くてなかなか咲かなかった梅が開花しはじめました。 |
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