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知音(ちいん)

2016/07/18 17:32
 「挚友」と別の分かり合える友だちの意味である「知音」を、これも中国人の友だちから教えてもらいました。

 

まるでもう一人の自分と向き合っているように時々感じる人がいます。おそらく、成長過程やその後で同じような心象を見て生きてきたのでしょう。一緒にいる時に起きているある事象について、その人が心の中で感じていることがふと分かる気がすることが多いのです。もしかしたら、私だけが思っているのかもしれませんが。「返事は要らないから、黙ってて」などと時々言ってしまいます。本当によく分かったから、もうこれ以上は何も言わなくてもいいという感じです。細かいところではずれているかもしれなし、微調整は必要なのでしょうが、大筋で合意が出来ているので、あとは何も言わず感じ合えたらということなのです。




いつまで私は生きられるかわからないし、留学もしくは海外で活動するようになったら、会えなくなるかもしれません。でも、生きている間にそんな人と出合えたことに対してとても嬉しく感じています。何もして欲しいことはありません。ただただ、その人と同じ時代に生きていられることだけで、その人が笑っている顔を見るか、幸せそうにしていると感じられるだけでいいのです。ほかには何も要りません。ただ、ひたすら、その人が使命を果たせることを願って止みません。

感謝していること

自分と同じような感覚を持っている人がこの世にいることは奇跡に近いと感じます。それだけで嬉しくて感謝できます。


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摯友

2016/07/18 17:27
中国人の友だちから「挚友」という表現を教えてもらいました。この言葉を見たのは初めてでした。

 本当の友だち、何でも話せる友だちという意味らしいです。日本の親友と似ているようで違うような感じです。




 お礼や感謝は「挚友」の間ではあまり言わないようです。社交儀礼になってしまうからのようです。ただ、口にしないとわからないこともあります。日本人の私は、その場でお世話になったお礼を言って、また後で嬉しかったことをメールなどで伝えたら、さらに共によろこべる気がします。




 彼は大学の講義のアシスタントをするような優秀な学生です。仕送りなしにアルバイトで学費や生活をマネージメントしています。

 学業が優秀なうえに、にこやかで優しく、礼儀正しく謙虚で申し分のない人格の彼は、大学を終えてから、韓国に留学して、今の大学院に来たそうです。かなりいろいろ苦労をしてきているようですが、そんなことは少しも感じさせないほど明るく穏やかで真摯な態度で誰にでも接しています。そう、裏表が全く感じられません。




 彼は重度の障害を持つ人の介護による出かけています。そこで命の尊さを肌で感じたことなども話してくれます。このようなことも含めていろいろ教えていただいて、私は自分が世界中のいろいろなことを知っているつもりでいたことが恥ずかしくなりました。




そんな彼は難解な私の仏教のレポートのペーパー2枚をわずか3分で理解してしまいました。おそらく、5分くらいしか時間を有しないと思っていた私の想定を軽く超えていました。3分はたぶん翻訳としての2点の疑問でしたので、レポートを読む以前から、この考え方をクリアしていたのかもしれません。

仏教を聞き求め、信心を賜った人だと事前に知っていた人以外ではこんな人に出合ったことがなかった私にはいい意味で本当にショックでした。

もしかしたら、私の投稿文で自分が救われていたことに気が付く人もいたのかもしれないし、これからもそういう人が出て来るかもしれません。




そう思うと、私のベルギーでの真宗ヨーロッパ会議の意義はさらに大きなものになります。私の発表を聴いて、同じような研究をしている人たちからのなんらかの反応があるかもしれませんし、いつか共同で何かできるかもしれません。私は3年で博士論文を書く予定ですが、来年の7月くらいからイギリスの大学に留学したいと考えるようになりました。まだどのような手続きをするのか調べ出したところですが、私のいつもの行動バターンからは、多分行けるんじゃないでしょうか。とにかく中国人留学生の友だちに刺激され、阿弥陀仏のお約束が、世界に伝わるようにしたいという気持ちに火が付きました。




古巣の大学院の博士課程に転入してから、手続きや奨学金の書類で2か月、真宗会議の原稿で1か月かかってしまい、肝心の博士論文がまだ1行も書けていません。これを嘆いていましたが、作家の友だちが、順調に進んでいるのではと励ましてくれます。学問を志して大学院に行くようになってから私は変わってきたと言います。自分ではどう変わったのかわかりませんが、ある意味、同じような考え方を文章で表明しようとしてる人なので信憑性があります。

最近では、私の遊び大好き・冗談好き・弾けているもう一つの側面を理解し出したのかとても付き合いやすくなったし、宗教家らしい気がすると褒めてもくれます。(直接会ったり電話で話したこともなく、もっぱらチャットやメールでしかやり取りしていませんが(笑))




 中国人の友だちの彼の一番素晴らしいは、年齢が倍くらいある私のことを「仕方のない人だな」と大目に見てくれるところです。チャットで「ははは」とそれを表現して、落ち込んでいるとき、くだらない冗談で一緒に笑ってくれる包容力です。

感謝していること

 中国人の友だちのほかにも「天然で丁寧な先輩」にも癒されています。彼の著書を拝読して、ナイーブでとっても優しい人だと知らされ、研究を続けている理由がわかるようになりました。私たち二人は彼のことを「敬慕」の念を持って、いろいろ教えていただいています。


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できることとそうでないことの見極め

2016/07/15 10:47
 迷いから覚めるとか、迷いの状態から抜けるということは本当に簡単なことです。
 知恵や才能といった能力は要りません。
 4歳の子どもでも可能です。
 そうでなければ命が無常である人間は助かる可能性が限りなく低くなります。

 何か真理のようなものを求める気持ちや関心があることや、無常観・罪悪観を持っているかどうかで、どれか一つでも持っていたなら、縁が来たら救われる時が来ます。
 小さい人や若者は「無常観」がとても強いです。死の恐怖を取り除きたいと考えますが、誰も教えてくれる人がなく、不安な時期を過ごします。

 一方、歳を重ねていくと、自身や周りが煩悩によって作る罪や悪を見ていくことになり、「罪悪観」が強くなります。そして、その罪悪感で苦しむことになります。それでも、その罪悪は三次元の身体を持っている限り、どうすることもできないことも分かってきます。身体を失わないで、罪悪観を克服することへの絶望感を味わうことになります。真剣に生きれば生き、自我を追求すればするほど苦しくなります。うつ病というような心理障害に陥ることもあります。
 それでも、罪悪感を拭い去ることへの困難さを教示してくれる人は見つからなければ、適度に自身をなだめて折り合いをつけていくような諦めを持って過ごさなければなりません。 

無常観・罪悪観を自分の心の中や他の人間たちからの示唆などで取りつめていっても、限際がありません。人間は自惚れが強いので有限な身体の中で、いろいろしていってもどんぐりの背比べであり、傷をなめ合うことくらいしかできません。
そこで、自分と縁のあった様々なものから真理を提示されることが必要になります。それも中途半端ではなく、徹底して自分を超えるところまで持って臨終までに持って行けることが出来たら、生まれてきたかいがあります。

そういうご縁を持てた人に聞くのが一番ですが、それぞれ得意な説明の方法がありますので、自分に合った人と出合うが大切です。
私は無常観の方が、罪悪観を語るよりも得意です。罪悪観を話すにはそこに入っていく必要があります。あまりにも辛い人生を思い出すことに蓋をしてしまっているのでそれはしたくないのかもしれません。蒸し返して誰か求めてきている人と一緒に関わることは難しいです。話は分かるし頭では理解できますが、私は得意ではないとわかりました。向き不向きがあることを指導教員の話からどうしようおもないほど知らされました。

 それでも、落ち込んでいては、阿弥陀仏への御恩報謝ができません。私ができることはあるし、得意なことをしていくしかないと改めて決意しました。
また、私ができること、してきたことを求めてくれる場所もどこかにあるのではないかとも感じます。できたら、来年の今頃からヨーロッパのどこかで、出来たらイギリスにいってしばらく活動をしてみたいと思うようになりました。ベルギーでの学会の発表や、そこでの出合いで新しい展開があるかもしれません。
感謝していること
自分の思っていることを言うとそれが受け入れられようとそうでなかろうと、何らかの返答があります。これは大切なことだと知らされます。大学院という環境は自分の考えを発表できる場所であり、有難いと感謝しています。
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研究者としての覚悟

2016/07/11 09:54
 卵から孵って一人前になったつもりだったけど、視界も開けたんだけど、目がまだよく見えなくって、周りの人に迷惑をかけ続けていました。あっちにぶつかって、こっちで頭を打って、本当に分からないことばかりで、でも気持ちばかり焦って、泣きたい気持ちを堪えてきました。

 そんな私を周りの人たちは優しくみまもってくれていました。

 みんな私の事よくわかってくれてたけど、あえて自分がきづくまで黙っててくれていました。生まれたての赤ん坊のような私をあやしながらお世話してくれていました。




 7月になって、体調も少し回復して、誕生日を境に頑張って自分の足で立って歩いていこうという覚悟が出来ました。まだ目もよく見えず周りの人たちには機嫌よく笑ってることくらいしかできないけど、ここからスタートしないと。

感謝していること

 お世話されるばかりの何もできない私を辛抱強く支えてくださる皆さまに心より有難く感謝します。


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とっても恥ずかしい、穴があったら入りたい

2016/07/10 19:02
 重度訪問介護従事者の資格を取る研修を2日間受けて、あとは実習を残すのみです。

 「下手・苦手・不器用・向いていない・ほかのことがしたい・アンタなんかしていらん」

 「こういう人は止めた方がいいです」と先生に講義の初めに言われて

「私、全部当てはまっちゃう」と思い当たり受講したことをいきなり後悔しました。

 しかし、目が見えなかったり、耳が聞こえない大学生・院生のノートを代理で取る活動もあると聞き、それならできるのではないかとちょっとだけ嬉しくなりました。

 実は自身の大学の援助の部門のノートテイクの登録は以前に済ませていました。

 

 いつもではないでしょうし、配慮があるのでしょうが、研修の話の中に基本的に同性の訪問介護だけれど、人手が足りない時、異性の利用者のところに行ったとき、身体を触られたり、いやらしい視線で見られたりしたこともあったと聞き、どこまでで切れちゃうかなと思いました。身体ではなく精神的な障害のある人だとセクハラか恋愛かに進むときがあるという話もありました。

私は異常に皮膚が弱く食器洗いなどは手袋をしないと皮がめくれます。保育士の資格があるのに他人の赤ん坊を抱くと汗のせいか蕁麻疹がたまに出たりします。大人には触れることはなくても、生理的に嫌だと感じると稀に出ることがあります。もし、訪問介護で蕁麻疹が出たらどうしようと思いました。




それから、粗忽者の私は呼吸器を誤って外しちゃって、大騒ぎするだけじゃなくて、時間が経ってしまって脳に障害が残ったらどうしようかなども考えてしまいます。

同僚の娘さんが1歳のとき自宅の浴槽で玩具を取ろうとして、頭から浴槽に落ちて水死したことがありました。今もお通夜に行ったときみんなが悲しんで、亡骸の唇に紅を何回もさしていた光景が目に焼き付いています。だから出産時、手伝いに来てくれていた母や連れ合いに娘を風呂に入れてもらい、結局、私は一度も入れませんでした。




40歳手前で産んで、産後も3か月動けない難産で、おんぶも抱っこもできないで、足腰がまた動かなくなるのといけないので歩くまでは、ラックに入れていました。座って抱くくらいでした。ベビーカーを学齢期までは海外旅行に持って行き抱っこしたことはありませんでした。2歳の誕生日にルーブル美術館に連れて行ったときにベビーカーをホテルにおいてきて、セーヌ川でタクシーが拾えず地下鉄まで歩いて以来そうしました。

 自転車の前かごに娘を入れて自転車が滑って転倒し、彼女がかごから飛び出たことが一度ありました。ベビーカーもバスや電車や階段ではいつも苦労していました。だから、10キロくらいの子どもではない、大人の車椅子の介護は私にはとても難しいかもしれません。




 先日中国人の留学生の友だちが夜、介護に行っていることを聞きました。昨晩から今日にかけても行ったそうです。

彼は滅多に人の悪口や愚痴を言いませんし、我儘で考えなしの私が勝手なことを言っても困った顔で微笑んでいます。怒ることはありません。辛いときは冗談で笑わせてくれます

 彼が介護で行っている筋肉が衰える病気の人たちは心臓の筋肉も衰えるので補助の医療機器を付けてもどうにもならなくて、早逝するらしいです。

 僕が介護に行っている病気の人は生きるのに必死で、セクハラとかする人はいないと教えてくれたと言われました。

「昨日は七夕で短冊に『生きたい』と書いてありました。」




ほかの人がキャンセルしたというメールが入った時、勉強が忙しくてもやりくりして出かけていく姿を何度か見ていました。

私は恥ずかしくて、穴があったら入りたかったです。顔から火が出る感じでした。

感謝していること

私自身、死が怖くて救いを求めていた時、何もほかのことを考える余裕がなくて、最後には死ぬのと助かるのとどちらが早いだろうか、死にたくないと必死でした。間に合ってよかったと御仏に感謝しています。難病で死の恐怖に怯えている人たちに私は介護よりも仏教の話をします。そして、できるだけ早く真宗の救済原理の博士論文を仕上げ世界に旅立ちます。


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まるで赤ん坊の自立期?

2016/07/06 11:47
 「一人でそれをすると、すっごく時間がかかっちゃいそう」

 「こんなにたくさん作業したら、とっても疲れちゃいそう」

こんなことを何も考えないで、能天気にはしゃぎながら言っていたので、今まで、見るに見かねて誰かが手伝ってくれていたんでしょうね。




赤ん坊でも自分でスプーンを使って食べられる頃になると、介助者の手を払いのけて、「自分で食べる」と言う時がきます。




先生や先輩が親切に教えてくださっているのに、最近、生意気な私はこんな口答えばかりしています。

「わかりました」

「黙っていてください」(さすがにこのときは、「ごめんなさい」とすぐ言いました)

自分で何とかできるから、もし服を汚しても、何度もトライして、自分で食べられるようになりたいから、そんなに心配しなくても大丈夫だという気持ちをわかってもらいたい赤ん坊みたいです。




 愛情一杯の優しい大人たちがいてくれることが嬉しいくて、自分はこの人たちがいるから生きていられるのだと何となくわかっている赤ん坊同様か、それ以上に私も周りの人たちの御恩を強く感じています。




最近、体調が優れず咳き込んだり、寝込んだりしていたのですが、夕食後、ふと食べ終わった食器が目に入り、食洗機に入れていると連れ合いがこう言いました。

「僕の方が得意だから、僕がするよ」

感謝していること

 感謝の気持ちをどうしたら表現できるのか、口先だけじゃなくてと、この頃考えることが多いです。自分の得意なこと・役に立てることでご恩返ししてく所存です。もちろん、その時その時の細々としたことも同時並行でしていきます。今の赤ん坊状態から少しは成長したいですから。


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人間存在の最大苦すなわち死を超えること

2016/07/05 08:14
 「阿弥陀仏の本願という大いなる存在に自身の死を疑いなくゆだねられたときに、私たち人間には限りない安寧と至福の時が訪れます。」
 このように説かれる浄土真宗の阿弥陀仏の本願の教えに巡り合った18歳のときから、今まで世界中の人におそらく何万の人たちに直接か語りかけてまいりました。インターネットで発信した投稿記事も含めたら何十・何百万の人たちに来る日も来る日も「死を解決して人間に生まれてきてよかった」と心からよころんでもらえるように伝えてきました。
 
生きて生まれたからには人間は必ず死にます。
「そんなことは当たり前でしょ」
 何をいまさら敢えて確認する必要があるのでしょうか?
 そのように笑いながら多くの人は言います。
 死刑が確定した独房に入っている死刑囚だけに確実な死が迫っている訳ではありません。
私たち全てが「日にちが確定していない死刑囚」であるのです。
 死刑囚は一日のうちのある時間帯に、看守が自分の部屋の前に止まったときに死刑が執行されるので、その時間じっと耳を澄まします。
 一般の人たちはこういうことはなく、突然自分の死ぬ日が訪れます。ただこの差があるだけです。

この人間共通の問題である死んだ後どうなるのか、それが分からないと安心・満足して生きられません。
人生を終えた後のいく先が分からない不安は以下のようなものです。
飛行場を飛び立った飛行機が着陸する場所が確保できないこと。降りるべき場所が決まっているから安心して飛行機は離陸し、飛び続けることができるのです。降りるところが確定していなかったら、安心して機内食を食べ、映画を見たりすることはできません。着陸する場所を確保してこそ、飛行時間のあいだを楽しめます。

また長い休みに課された宿題を学校が始まる提出日ぎりぎりまでしないと休みを楽しむことはできません。できれば、休みに入ったその日に全部済ませてしまえば、あとは学校が始まるまで思う存分好きなことができます。

また、トイレのない長距離の公共の乗り物である電車やバスに乗る前には、好きなだけ食べたり飲んだりすることは控えます。なぜなら途中にトイレに行きたくなってもどうすることもできないからです。食べたものを出す場所を確保して、初めて私たちは思い切って食べることの楽しみを味わうことができます。

 「死の解決」ができる身に生きている「今ここでできるのか」と問われれば、「できます」と答えます。
 ただし、死んだ人が生き返って証言したわけではないし、心の問題であるので目に見えませんので、言葉で伝えるのは非常に困難です。
 言葉を超えたきづきのようなものを実際に身を以て体験してもらうしかありません。自分の力では死の解決が出来なかったと知らせされる体験です。だから身をまかせるしかないと気持ちが軽くなる体験です。
 
このきづきが訪れた時をターニングポイントと仮に呼ぶと、一度この境地を知るとずっと臨終まで変わりません。なぜか感謝の気持ちが出てきて命が終わるまで生きられるのです。私は浄土真宗でこの境地を知りましたが、ほかの教え方でも同じように死を乗り越えられることがあるかもしれません。地球は狭いようで広いのですから。
それが見つかったら一緒に協力していけばいいでしょう。この教えが一番と争う必要はありません。
とりあえず今は私は自分が知り得た方法をご縁のある方々にお話しするだけです。できるだけ分かり易い話ができるよう日夜精進していますが、言葉は限界があります。ぎりぎりのところまでは、お話しできますがあとは本人が大いなる力に身を委ねる体験を念じつつ黙って見護だけです。
感謝していること
このようなお話を有縁の方々にお届けするのが私にとって至福の時です。
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誰かに義理立てする嘘がある生き方はしたくない

2016/07/02 22:20
 誰かにこうしろと言われたことを、何も考えないで盲信することはありません。

 ただ、何かあるのではないかと感じて、今は自分もそうした方がいいと判断したとき、自発的に従うことはあります。




 まだ一行も書いていない論文を書き始め、本気で向きあえるようになったら変われるかもしれません。毎日、引用できるような論文を一本以上コンスタントに読み込めるようなリズムが出来たら、少しは自信が出て来るかもしれません。その時になったら、また元のように何の屈託もない状態に戻れるかもしれません。

 ただ、誰に遠慮している訳でもなく、自分に対して自信がないのだと思います。表面上は明るくしていても、私自身とても辛い日々を過ごしています。




人さまに対しては、私は一晩寝ても、不機嫌だとか怒っているということは、滅多に感じません。ほんの一時、残念に感じることはあっても、その人が自由にされていることを尊重し、活躍を念じています。

感謝していること

 ただ、絶対にお世話になった御恩は忘れてはいませんし、いつも、いつも有難いと感謝しています。

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