今、この瞬間を精一杯生きていますか?

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zoom RSS 過去の記録(仏典・論文等の書物)と現在の実態(日々の出来事)

<<   作成日時 : 2016/11/15 18:33   >>

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 釈迦の説法を再編した仏典を多くの人が解釈し、読み解きそれを布教してきました。そして阿弥陀仏の本願も話され、多くの人が信心を賜ってきました。ネパール・インドはもとよりアジアや世界中の国々に仏教は翻訳され広まってきました。翻訳は「膨張」していきました。その過程で、釈迦が説いたものと別の形になっていったものもあったでしょう。しかしながら、悟り救いが説かれ、六道輪廻や解脱が出来たのなら私はそれはそれで構わないと感じます。経典を編纂し解釈した時点で、釈迦の話からは離れてしまっています。いかに優秀な編者や解釈者が携わっていたとしても、ズレが生じるのは否めません。さらに、釈迦は将来仏典そのものもなくなり、阿弥陀仏の本願のみが残るであろうという予言を残しています。

 では、言語も解釈の違いも超越して仏教が伝わった要因は何かと考えました。それは悟り、目覚めといった廻心、自力から他力への心の人知には及ばず、説明できない境地に達した人たちが存在し、その人たちの口によって手によって話され記録されたものが語り継がれ残されたことではないでしょうか。つまり、人から人へ、胸から胸への伝わり方と、救われた体験の記録が書かれたものの熱エネルギーが後世へ綿々と伝わったのでしょう。

 ただ、翻訳や解釈の膨張によって逸脱した部分は元も仏典に戻って軌道修正したり、救いの話をしていて行き詰ったときにそれらに戻ってみるとか先人の業績を尋ねてきづきをもらうことは必要ですし、自己流でしていってはもっと混乱し、大きく悟りや救いから離れることになります。

 このように、過去の記録も現在起こっていることも全てが関連していて、疎かにはできません。ただ、どちらを優先させるかといえば、今苦しんで救いを求めている人の救済です。それありきで、そのことが成就されるにはどうすればいいかを考えて実践していくのが布教活動です。名誉やお金を求めて、学問の為の学問をしている暇はありません。そんなものは何かをした後におのずとついてくるものです。目的になってしまっては本末転倒です。お米を取れば藁もついてきます。藁を取ることが目的ではないことをゆめゆめ忘れてはなりません。常に何のために仏教を話しているのか、これが忘れ去られたときに、布教活動は無意味なものになります。
感謝してること
 覚悟という言葉を聞かせていただき、布教するものとしての覚悟ありきで私は生まれ、生きているのだという自覚が思い出されてきました。縁に触れ軌道修正されることは有難いことです。

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