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真宗カウンセリングがターミナルケアにおいて果たす役割――心の叫びに応える――

2018/05/30 07:21
  同じテーマの論文を、一昨年の秋から準備して、昨年投稿の今頃、同じところに投稿しようと締め切りを前に同じように考えては書いていました。それでも思うようなものにならず、昨年は見送りました。そして、今年は別のところに学会発表して、論文を投稿しました。その論文の内容は概論的なものになりました。今回の文章はターミナルケアに絞ります。

「わたしはもうだめなんじゃないでしょうか」
心の叫びを打ち明けるクライアントへの真宗カウンセリングが果たす役割を書き切ります。明後日締め切りなのでかなり厳しいです。それでも、この論文の完成を心待ちにしてくれている人が背中を押してくださっています。

「わたしはもうだめなんじゃないでしょうか」
この切実な想いを誰にも打ち明けられずにいる、まだ見ぬ人のためにも書きます。
みなさまにも応援して頂けたら幸いです。

感謝していること
憶いをどこかに発表できることはすばらしいことだと有難く感謝しております。
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天の邪鬼と貧乏神

2018/05/28 21:16
 これらが実存するかどうかは分かりませんが、できればどちらとも近づきたくありません。でも、こういう性質を持つ人たちはたまに見かけます。見かけるだけじゃなくて、誰かに攻撃していたり、誰かをカモにして私腹を肥やしたり、ストレスを発散させているところを見てしまったりもします。最近は、天邪鬼や貧乏神のような言動を取る人たちとはあまり関わらないように距離を置き、避けるようにしています。

 少し様子を見ていて、どちらかのパターンを示すと、近づいたらいけない人たちなのだと気を付けて、親切心を出して、絶対直そうなどとは考えないようになりました。何かひどいことを誰かにしていても、理不尽なことを自分がされても、とりあえず、それをしている相手が故意にしていて、反省もなく、直す気持ちがないときは、事故を見た、事故に遭ったのだから仕方がないと水に流せることは忘れることにしています。いつまでも、恨みや憎しみを抱えていても栓がありません。そういう感情は手放すに限ります。

 それぞれについて感じたままに言いますと、まず、天の邪鬼のような性質を持つ人たちですが、幼少期やその後の育ちがよくなかったためか、わざと人が嫌がることをして楽しむところがあります。そんなことをしていたらどんどん周りの人たちは引いて行きます。それでも意地悪が快感なのでしょうか、止めようとせず孤独を深めます。恩も感謝の気持ちも子どもなのでしてもらっているばかりで、感じられない可哀想で気の毒な人たちです。
 
 貧乏神のような人たちは、初めはそれとは分かりにくいです。挨拶もし、親切で、口が上手いのですが、自分に都合の悪いことや損になることが分かった途端手のひらを返すように冷淡になります。彼らはとりつくというか、搾取する人を選びます。自分より弱そうは、大人しそうな、優しそうな、怒らないような人たちをターゲットにします。そして吸い尽くせるだけ吸い尽くして、何も吸い取るものが無くなると判断するとポイです。お互いさま、お蔭さまでという御恩が感じられません。貧乏、忙しいを常の言葉として、自分から周りに与えることができない人たちなので、感謝されることをよろこぶことも少ない、やはり可哀想で気の毒な人たちです。

 御佛のようにずっと命に寄り添うことはできませんが、それでも、気持ちがふっと変わって、法を聞かせてくれと言われれば、精一杯お話はさせていただく所存です。そういう日が来ることを念じております。
 でも、もしかしたら、天の邪鬼や貧乏神は佛さまの化身や福の神で、無限の慈悲に近づきなさい、大きな器になりなさいと教えてくれている有難い人なのかと感じる時もたまーにあります。
感謝していること
 いきなり、自分がされて嫌だったことは許せないかもしれませんが、時間が徐々に忘れさせてくれることを幼少のころから学んできました。また、自分が遭遇した気分のよくないさまざまなことは、絶対に他人にはしないと決意する反面教師になってくれています。有難いです。
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死後の世界、どこへ行くのか、どうなるのかが苦になるか否か

2018/05/27 23:07
 みながみな、後生を苦にするわけではないのですね。
 私は物心ついた時から、常に死のことを考え、怖れ続けていました。
 人は生まれたからには必ず死にます。
 遠いところに住む、知らない他人の死を見聞きしても、あまり驚きませんが、身近な肉親や友人がこの世を去るとどんなにか心が寂しくなります。そして自分もやがて、このように冷たくなって焼かれていくのだと頭では分かります。しかし、しばらくすると、生きるのに必死になり、死ぬことなどすっかり忘れてしまいます。

 飛行機が離陸したら、着陸する場所がなければ安心できません。降りる場所があって飛び立ち、飛行ができます。人生も生まれて生きていても、死んでから行く先が今ハッキリしていないと、人生そのものが不安一杯で何をしても満たされません。それでも、死を誤魔化して、美味しいものを食べ、旅をし、恋をして結婚し家族を持ち過ごしているとき、若くても死ぬこともあります。

 突然でも、分かっていても親しい人がこの世を去ることで、自身の死を直視して、生死を超える教えを求められたら、その人は佳き人生の先生となります。そういう人がいなくても死が気になる人はあまりいないのかもしれません。

 なぜ、死のことばかり書くのかと問われても、それを苦にして、解決を求め、今死んでも安心満足の身に救われ、行く先がハッキリしているからとしか答えられません。
 どうか、いま、ここで救われてください。
感謝していること
 死ぬことが怖くて苦しいと感じられたことが不思議で有難いと感謝しております。
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セクハラ・パワハラは権力・金を盾にした主に男性の甘え

2018/05/27 16:14
 「ハラスメントと取られるようなことは首から上には絶対出さないようにしています」。このように、大学院のある若手の既婚の先生は仰いました。

 公私混同を避けることに対して私もかなり厳密に生きています。
 京都の丹後で織ったシルクを扱う小売店を経営する責任のある仕事を長年してきました。子どもたちとも教師として向き合ってきました。その時に、一番してはならないことは公私混同です。常に自身の立場を念頭に置いていました。雇われ店長でしたので、毎月本社に売り上げの報告義務がありました。お金やその他もけじめをつけないとおかしなことになります。お客さまとの関係も同様です。私はそういう軸を持って仕事をしてまいりました。

心情としては、お客さま、子どもたちに対しても、自分がされて嫌なことは絶対しませんでした。それは負い目を感じさせることでした。真摯に一貫した誠意を全うし、決して粗雑に扱うことをしませんでした。なぜなら、年齢や立場が違っても、みんな等しくそれぞれが人生で学ぶ権利があり、それを互いにサポートするために出合ったのだという気持ちが根底にあるからです。

自分より立場が下の大人しい誰かが驚いて引くような、威圧感や猥褻な言動で脅かして、快感を得るのは職権乱用です。そんなことでストレス解消をするのは最低な人間のすることです。権力や金では人は靡きませんし、信頼関係は築けません。

それでは、風俗や酒を介しての店などで威張って、猥褻な言動をしてもいいかといえば、時代は流れ、違う関係を求められるようになってきています。相手が望まないことはしてはいけないのです。札束をいくら積まれても、嫌だと言われたらそこでゲームオーバーです。暴力を使ってそこから先に行こうとしたら犯罪に質が変わるのです。

ただ、看護士、介護士などの立場で、患者さんが病気や死の不安に苛まれているとき、縋るように手を握ってきたとき、その手を振りほどけるかどうかは、その時になってみないと分かりません。たぶん、そういう職業についている人たちはプロ意識を持っているので、そのままもしくは、自分から手を握ることも実践されていると思います。それはそれで尊いことと存じます。私はというと、感覚的なものか汗なのか分かりませんが、他人を触るといつもではないですが、蕁麻疹が出る体質です。そのままアナフィラキーショックで死ぬことも考えられるので、レイキも触らずしています。それくらい体質的にとても敏感ですので、身体的ケアの伴う職業は無理です。

 今朝どういう訳かもう他界してしまった尊敬していた先生に突然手を握られた夢を見ました。死ぬほど嫌ではなかったのですが、モヤモヤとして気持ちが出て来て、何も言わず、その場を離れました。おそらく、どんなときでも、私は、段階を踏んだお付き合いなり、過程なりがないと指一本触れられるのでさえ、気にしてしまい、軽く受け流すのは無理だと思います。
 たとえ、お互いが相思相愛と何となくきづいているときでも、誰も傷つかない、または共に傷つくことがあってもそれを引き受ける覚悟がないと、私はその場の雰囲気に飲まれることはない気がします。今日の夢のように、絶対そんはことはないと信頼して油断していた時は、仮にそういうことがあったとしても、多少の心の動揺で固まってしまうかもしれませんが、現実ではこれを教訓として、必死でそういうつもりは全くないと理解してもらえるよう努めると思います。病気やその他で弱っていても、きづきや悟りの話はできても身体的接触は私には難しいし、できないでしょう。ただの夢でしたが、そんな風に感じました。
感謝していること
 あなたの使命はこんなことなのですよと夢は知らせてくれたのかもしれません。
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既に起きたこと、今対面していること、未来に起ること

2018/05/26 21:28
 過去のことは落ち着いて、ああしたら、こうしたらと言えます。でも、今、起きていることは初めての経験です。そして未来も同様です。
 
 情報の先生から面白い話を聞きました。自閉症スペクトラムのネット上のコミュニティがあるそうです。その中ではアバターの形で、相談したりされたりのやりとりが頻繁に行われているとのことです。そして、どんなことにも的確に冷静に応えている人と、オフ会で会うことになったとき、そのアバターの操作人は、日頃、買い物をすることすらできない人だったということです。電車はかろうじて乗ってきたけれど、そのグループの中で、一言も話せないし、三次元の人間との今のリアルタイムの会話にどう対応したらいいか、分からないという旨を、アバターの人格としてでその場で語ったそうです。

 そのとき、コミュ障の教員のかなり多くが大学でコミュニケーションやカウンセリング、臨床心理学を教えてiいる実態を思い出しました。彼らも過去のことや今や未来の仮想事実は対応できるのでしょう。でも、今、生身の人間が、理不尽なことをいい、突然切れて怒り出すというような予期しない現実に対して為す術もないという話を聞きます。私自身も小売店やアルバイトで接客で商品を売っていたことがあります。臨機応変に対応してきました。お客さんの層がそれなりだったことや幸運が重なったため、嫌な思いをした記憶があまりありません。それでも、外国や初めて遇う人ばかりではなく、知り合いでも、意外性を楽しむ範囲を逸脱されると、私も一種のコミュ障のようになることがたまにあります。

 今からのリアルタイムで起ること、未来の予期せぬことも、自分にとって都合の悪いことも、苦しみも全て楽しめる大きな器でいようと決意しました。
感謝していること
 予想外のことがあるからこそ、人生は学べるのかもしれません。それでも大難が小難になっている気がして有難いです
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私も後で行くから、お浄土で待っていてね

2018/05/25 08:37
 「疑いなく阿弥陀佛を信じたら、浄土に参ることができます」。

 「私も後で行くから、お浄土で待っていてね」。

 このように信頼する僧侶、医師、看護師から終末期の患者さんが言われたら、ふっと救われることがあります。彼らは自分の力で救われる縁も手掛かりもないので、他力を信じるいちばん近いところにいるのです。もし、それらの職業の人たちがまだ救われていなくても、自身があたかも救われた気持ちになって自信を持って、佛の代官として、語りかけたなら、死を目の前にした人たちには「響く」ものがあります。患者が信頼する人たちの口を通して直の阿弥陀仏の召喚(呼び声)を聞くことになるのです。

  もしできるなら、それらの人たちは、生前に一日も早く患者さんより先に救われたらいいです。それは難しいことですが、願えばいつかは叶います。それ以前でも、教えを知ることで話ができるので、救われた立場として、話をされると患者さんにとっても自身にとっても死を逃げないで過ごすことができます。いくら死を見慣れていても、その先の救いなしに死の宣告をするのは誰でも辛いです。それを自分も死にゆく人たちも共によろこべるなら、僧侶、医師、看護師などの職業観は全く違ったものに転じ変わりません。

 ただ、中途半端な関わりや自信のない言葉では患者さんには伝わりません。その場では、自分が救われていると自分も信じ切ったつもりで、真摯にできれば患者さんの手を握りながら目を見つめて、しっかり役目を演じきってください。

 救われていなくても話はできます。言葉かけはできます。聴聞・教学があります。自分の信じる宗教がいまここで救われるなら、その宗教を話してあげても構いません。そう私は感じます。ただ、私は真宗で救われたので、それしか知らないので、阿弥陀佛の願いを、救いをお話ししております。

「私も後から行きますから、先に行って待っていてください。お浄土で再会するのを楽しみにしています」

 このような言葉を死に逝く人はどんなにか、有難く受け止めます。

感謝していること
 仏教を褒めること、疑うことともに深いご縁として響くことになります。


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観念の死と現実の死の大きな違い

2018/05/24 05:04
 我が身の後生が苦になり出してからが本当の人生です。それまでは、人生が始まっていません。肉親が不治の病に罹り、余命いくばくもないとき「私は死ぬんじゃないかしら」と聞かれた時どう応えますか?自分の命がもう残り僅かな時、同じように周りに聞いた時どう応えますか?これは人間としての問題です。理屈ではいくら考えてもわかりません。死を目の前に引き寄せて真剣に考えてみてください。どのように言って欲しいですか。そしてどのような救いを与え、与えて欲しいですか。

 観念の死と現実の実際の死は異なります。そこのところが分からない人だらけで、だからいろいろな問題が起こり続けるのかもしれません。

感謝していること

 生死の解決をさせていただくご縁になってくださった方々に有難く感謝します。


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人間にとって唯一平等なのは必ず死ぬ存在であること

2018/05/23 08:39
自分も必ず、絶対に死ぬときがくるのだという自覚があると、日常の些細なことはどうでもいいように感じます。どうせ臨終には何も持って行けないのです。それなら目の前にある物を十分堪能して少しでも優しい言葉を掛け合って生きようと分かってきます。

 いつまでも生きていられるという幻想から、競争し、お金や地位や名誉といったアクセサリーを取り込み飾り立てるのです。

 臨終の場面を思い浮かべてみてください。親しい人たちが周り集まってくれている自分が浄土に旅立つ別れのとき、浄土での再会を共に確信しつつ、しばしの別れだと言い合えることがどんなに心強いか。これは簡単によく分かる人には分かる、分からない人には全く分からない話です。臨終に自分が次にどこに行くか、生きている、いま、ここでハッキリ知らされることが大切なのです。それが分かれば、無駄に人間同士が傷つけ合わずに済みますし、優しく思い遣りを持った言動を続けて共に労わり感謝しながら充実した人生が送れます。

感謝していること 
 仮に今不治の病にあり、じきに死ぬとわかっても、多少の寂しさはありますが、これといった不安もなくいられるようになったことは、本当に不思議で有難いです。


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誰かが別人のようになってしまったのを感じたとき

2018/05/21 14:57
 少し逢わない間に、すっかり別人のようになってしまう人がいます。一方で、久しぶりに逢っても全く変わらない人もいます。よいように変わるならそれは嬉しい限りです。しかし、そうでなかったとき、何だかとても悲しく残念です。職業、地位、名誉などで外観は変わるかもしれません。その人の人となりが傲慢になるのを感じたとき、遣り切れない忸怩たる思いがします。人としての真摯さ、一貫性みたいなものが永続的に続くことは難しいのでしょうか。有頂天になり、他人を見下し、粗雑に扱うようになる人を横目で見ながら、今は関わったらいけない人なんだと距離を置く自分がいます。上から目線ではなく、こういうのは反面教師として教えてくださっているだろうかというきにもなります。

 人との関わりには、縁によって近くも遠くもなります。誰かと遠くなれば誰かと近くなることもあります。さよならとこんにちはの繰り返しが人生なのかもしれません。そう考えたら、まあいいか、仕方ないなぁとも諦めがつきます。あまり人や物に執着しない質なのですが、自分の心も変わり通しなのかもしれません。できるならよい方に変わって行けたらと存じます。

感謝していること
 誰がいなくても、当て頼りにならなくても、安心満足が継続して変わらないのは本当に不思議で有難いです。


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今生はもう残り僅かなので、誰かと逢うなら寛ぎ癒しの空間にする

2018/05/20 22:54
 誰かと一緒にいるときや電話で話したり、チャットをしているときは、ありのままで何も考えないでゆっくりしていたいです。誰かの問題を解決しようとも思いませんが、役に立てそうなことがあれば、こんなことを試してみたらとは言ったりしますし、時には手伝います。でも、できそうもない約束はしません。誤魔化したり、嘘もつきたくありませんから。これは自己一致でしょうか。無償のカウンセリングをしていこうとしてるみたいです。

せっかく時間を取って逢いに来てくれているので、誰も傷つけないたわいない冗談でも言って、笑い合っています。家族や仕事の話でも大袈裟に自慢してもらっても構いません。「すごいね、よかったね」ってよろこんで聞きます。これは共感とか受容かもしれません。

他人からよく思われようとも思わないので、自分を等身大以上に見せる演技もしません。馬鹿にする人、威張る人、雑に扱う人であれば、悲しい人なので、次からは距離を置きます。一緒にいて楽しくて楽な人とできるだけいたいです。耳の痛いことを教えてくれる人も、勝他の為じゃない人かどうかは分かるし、私のことを大切にしてくれる人は、それなりに言い方も考えたりしてくれます。モラハラ、パワハラ、セクハラ全部お断りです。そういう人はもういいかなって、十分学ばせて頂いた気がします。これからは逢うひととは明るく気分良く過ごしていきます。そう決めました。

感謝していること
みなさま、またお逢いして一緒にお腹を抱えて笑い合いましょう。そんな日が毎日続くように感じられることに感謝します。


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一人でも、何がなくてもよろこべる

2018/05/20 15:38
 誰かといなくて一人でも、自身の才能、知恵、美貌、物質的なお金や物、地位名誉、何もなくてもよろこべることが究極的な安心満足です。

 外界からさまざまなものが飛び込んできます。
綺麗なもの、美味しいもの、功績、勝者などなど。
何か違うと感じてしまうのは私だけでしょうか。そういうものをただの装飾品で、それも薄っぺらいものだと感じてしまいます。あっても邪魔にならないのかもしれませんが、さほど必要とも感じません。

 私にとって、本当に必要なものは、私の気持ちを全て御見通しの真理の存在との心の触れ合いです。これさえあれば生死を乗り越えられます。一度、気持ちが通じ合えば二度と離れることがありません。

 お誕生日を迎えた方や自分の誕生日にはこのことを共によろこび合えたらと存じます。

感謝していること
 ご縁に値えたことが不思議で有難く感謝します。


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真宗カウンセリングに法話を

2018/05/20 08:30
 僧侶の立場からすると法話をしてから、そこで聞いたことを示談や談合などで話すということが常であるかもしれません。ここでその発想を転換してみるのも一つかもしれません。まず、法話の前に、どのようなことを現在気に掛けていて、どういう話が聞きたいのかをあげてもらって、その要望に基づいて、法話の内容をその場か、後日決めて説法を聞いてもらう方法がよいように感じます。そして、聞き手の言われていたことを法話に盛り込んで話します。そしてまた、法話の後か後日にカウンセリングを行います。カウンセラーが話したいことを一方的に話すより、クライアントが聞きたい話をした方がさらに真剣に聞け、カウンセリングの効果も上がります。

 法話がなぜ必要かというと真宗カウンセリングだからです。至極当たり前のように感じられるかもしれません。教えを早いうちに前面に出すことはカウンセリングを成功させる秘訣です。真宗と銘打っているのですから、法話が間にあっても違和感はないでしょう。一つ一つの表面上の人間の問題というより、それらを超えられるものを獲たいと来られる方々に説法を抜きでは真の意味での問題解決は成しえません。僧侶の資格を持っている人でもそうでなくても法話はできます。クライアントがもし法衣を着てくれと頼まれるなら、そうしたらいいし、普段の格好でお願いしますと言われたらそのようにしたらいいです。クライアントの要望に一つ一つ答えて行ったらお互いの合意ができていくでしょう。カウンセラーが説法に不慣れなら、僧侶に同席することを依頼したらいいでしょう。

 できれば、カウンセリング、法話、カウンセリングのサンドウィッチのような形の方がよりクライアントがしっくりくる話になる気がします。聞きたいこと話を尋ねて(事前に手紙やメールで尋ねてもいいです)、法話を行い、それについて共に話をすることをセットのパターンで試みてみることも、真宗カウンセリングをより佳きものにできると考えました。

 話したら話し放し、聴き放しではなかなか理解が深まりません。クライアントの話を聞いて次回もカウンセリングが必要なら法話をその次にするとか、法話は毎回入れることにしても15分くらいの短いものにするとか色々なパターンを試してみるのもいいのかもしれません。

 カウンセリングの立場からすると、法話を取り込むということは奇異に感じるかもしれませんが、「真宗カウンセリング」なので、真宗の教えを熟知したひとが話す前提で、クライアントもそれを承知で来ているので問題はない気がします。むしろ法話がない方が「真宗カウンセリング」としては物足りなく感じる人もあるかもしれません。こんなことを思いました。

僧侶もカウンセリングを積極的に学んで、法話にカウンセリングを取り入れられるようになるといいです。

感謝していること
 法話を長いこと何度も聴きつづけた日々を思い出します。それはそれで有難かったです。人生には何一つ無駄なことはなかったと知らされます。


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真宗カウンセリングは一般のカウンセリングの限界を超える

2018/05/19 12:44
 人格の涵養には限がありません。もしカウンセリングに対して人格の涵養を目的とすることを期待するなら、相対的なことであり、一生涯これで完成したということはありません。それでも構わないなら、し続けたらいいでしょう。

 そうではなくて、目的が、自身の安心立命、満足な境地を永続的に獲ることであるなら、宗教的救済でしかそれはなしえないと私は感じます。宗教の中でも、私が慣れ親しんだのは浄土真宗であり、真宗カウンセリングでその境地に達することができることを紹介する論文を書いています。


 宗教にカウンセリングがなぜ必要であるのかは、人間の苦しみ悩みの元を知らせるためです。自分が苦しんでいるのは煩悩による表面的なことというよりも、根本的な迷いであり、それを仏教では「無明の闇」が晴れていないからだと説かれます。無明が苦しみの原因であるところまで行きつくには、説法と対話が必要です。その対話の部分を現代的な言葉で置き換えるとカウンセリングということになるのでしょう。蓮如上人は「信心の沙汰」といわれました。聴聞と呼ばれる説法を聞いている仲間の間でなされました。布教師と信者の一対一、もしくはグループで話し合いが持たれていました。

このように、無明を晴らすことのできる教えがあり、そのうえでカウンセリングをおこなわないなら、それはただの人格の涵養にしかならず、いつまで経っても安寧の境地に行きつくことはできません。一生求道だ、求められたということなど無いという人には何も申し上げることはありません。死の不安や無明を抱えながら一生不安なまま生き続けることは私には無理でした。

カウンセリングである問題が解決できても、また次の問題が惹起し、いつまで経ってもこれで安心満足できたということがありません。自己を超越する宗教的救済に値えば、より、相対的な個々の苦しみを凌駕できる身になれます。積み上げた先のより良い人格形成と宗教的自己超越は異なるのです。究極的な迷いの除去と広大なる知恵や慈悲との遭遇をめざすための、宗教的体験のためのカウンセリングの理論や方法はできるだけ向上していくものであり、相対的なものなので研究は進めていく方がいいです。また、宗教を説くものもカウンセリングの技術や考え方を学び、聞きに来られる方を尊敬、尊重できるようになり、何が今、引っかかって先に進めないのかを見極めて法を説くことが望まれます。

真宗カウンセリングは、話し手と聞き手が上手く相応するなら、対症療法では解決し切れない「無明の闇」を破り、迷いから覚め、生死を超える仏教の本来の目的にまで導くことが可能です。

感謝していること
先輩方の残された文章を拝読させていただきながら、同じような気持ちでカウンセリングについて試行錯誤されてきたことが知らされます。


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布教はまず相手の話を聞くことから始まる

2018/05/19 09:30
 真宗カウンセリングの論文を書いています。その中で、カウンセリングを学びながら布教活動をした人たちの文章に触れながら、自身の活動の振り返りをしています。

 初めは、阿弥陀仏の本願(真理)を前面に打ち出して話していましたが、それでは何だかちっとも前に進めない感じがありました。そのうちにきづきました。まず、どんな人も例外なく、自分の話をきちんと聴いて欲しいのです。聴いてくれる人が今までいなかったのです。何か話しても、途中で遮られたり、分析まがいのことをされて決めつけられたり、否定されたり、見当違いの励ましをされたり、勝他の為の質問をされたり、これでは話す気持ちが失せてしまいます。私自身も、求道中のほとんどの期間、他人にじっくり、ただ聞いてもらったことがほとんどありませんでした。ただただ、共感と受容をもって、正直な態度で聞いてもらうロジャーズ方式がよいのでしょうが、そういう訓練をしている人は稀です。どこかで聞いている人自身が出て来てしまい、話をする人は話すのを諦めてしまいます。

 ライフヒストリーでもいいし、その時感じていることでも何でも構いません。本人が気にかかっていることを打ち出してもらうのが始まりです。これが十分になされないと次に進めません。このことにきづいてからは、ひたすら、あたかも自身がその人であったならどのような気持ちでいるのかということだけに集中して聴き、確認し、その人が話し易いような質問を交えることに専念しました。一番大切なのは相手に対する尊敬の念です。負い目を感じさせることが少しでもあれば、そこで関係は切れます。ゲームオーバー、お終いなのです。信頼関係が無くなるとはこういうことです。

このような対話においては、デリケートで、ナイーブな関係を支える優しさかつ強さが、話し手である布教者するカウンセラーには要求されます。話し手の態度や人間観が前面に出てくるので、知識や技術のみでは太刀打ちできないのです。研鑽の途中でそれは痛感してきました。忍耐強さと諦めないで待つことも必要です。これは双方に言えます。話し手と聞き手の真摯な関係が維持できなくなったとき、人を変えるか、時を待つのかの選択が迫られる気がします。

 話し切った、聴き切った後、この段階で、真理との邂逅がふっと訪れます。つまり阿弥陀仏の本願を聞く体験を獲られます。本当に賢い方が人間で話してくれる人が誰もない場合は、稀に書物で救われることもあります。しかし、それは滅多にあることではないことを愚鈍な私は実感しております。何度も、何度も気が済むまで聴いてもらって、はじめて仏の願いにきづかせていただきます。

感謝していること
 本当にたくさん聞いてもうことができたことに感謝します。


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今を問うのがカウンセリング

2018/05/18 23:26
 カウンセラーという立場でお金をもらって仕事をしたくないのでしていません。それでもここ9年くらいそんなようなことを続けています。初めは仏教の「生死を超える話」・「きづきの話」のために仕方なくカウンセリングもどきをしていました。しかしながら、このカウンセリング的な聞き方を経ないと、仏教の話に進めないことがだんだんわかり、途中、カウンセリングや心理学の勉強をして、認定心理士や産業カウンセラーの資格を取りました。今でも、ときどき、カウンセリングのワークショップなどにも参加しています。

 勉強した結果は、自身がしていることの理論的裏付けができたことくらいでしょうか。実践で半分の年月を費やした後、カウンセリングと心理学の勉強をしたので、特に真新しい発見というのはありませんでした。結局、カウンセラーの最低限の技術面と、態度、そして人間観が大切だと知らされました。自身のことは誰かに聞いてもらわなければ、なかなか分かることではないのだというのは、仏教を求めた最後の方でそうしてもらっていたので、同じような聞き方をしていました。

「そうなんだ」「そういう風に感じているんだ」こう言うしかありません。自分がもしその人の立場なら、そう感じているまま、ありのままの共感を持って受け入れるしかあり編ません。否定や批判をすることもできますが、それをしても、今、分からないなら、言葉を重ねても無意味なので言わなくなりました。私はこう感じるというのは言いますが、それを受け止めようと受け止めまいとそれは仕方のないことだと考えながら言います。その人によります。聞き入れてもらえそうなときは言いますが、そうでないときは黙っています。

 なぜ、どうしてという質問をしても無駄で、結局、本人がきづいて変るのを待つしかありません。過去のことを問いただしても無意味です。否定も上辺の励ましもしません。分析もしません。その人が感じていることを鏡になって引き出す感じです。鏡がないと見えないことがほとんどですから。その鏡として歪みのないよう、最大限きをつけます。ただそれだけです。なによりも、今が大事で、今、縁が熟すようにならないと始まりません。今、聞けるなら聞ける、ダメならまたご縁があれば、そんな感じです。今生ではご縁がないのかもしれませんし。それでもその人ができるだけ早く真理との邂逅ができる話をする機会が来ればと願ってやみません。

感謝していること
 カウンセリングの文章を読んでいて、自分のしてきたことの振り返りができて、とても嬉しいです。


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他人との関係は常識なんて通用しなくて、毎回、白いキャンパスに共同で気持ちのいい作品を描く作業みたい

2018/05/15 23:44
https://www.msn.com/ja-jp/lifestyle/love/

 ほぼ大丈夫と感じて、似たような状況でも、全く初めてのことだとして、「どうしたい?」って、ちょっとでも迷ったら、面倒だと思っても、些細なことでもお伺いを立てるのが、早く仲良くなれる秘訣です。そこを省略すると喧嘩になり、険悪な空気が長く続くか、もしくは音信不通状態にいきなり突入します。心は眼に見えずが透明ではないので、自分が多分そうだろうと考えても、相手にとっては、全く違うこともありえます。慣れない内は、よそよそく、他人行儀で、しつこいように感じても、分からないものとして確認は大切です。何年付き合っても、確かめてもらうと大切にされているように感じます。怒鳴ったり、乱暴な言葉を吐くと要らないところに大きなシミをつけた様に元に戻すのにかなり時間が掛かりますので、お互い優しい言い方を心掛けましょう。

これは痛快でした。「好きな女性の気持ちを満たすこと自体が嫌いな下品な男であれば、すぐにでも別れてしまえば良い。だが、多くので男性は、好きな女性の気持ちを満たし、笑った顔が見たいものだ」。「下品」ですか。(笑)


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男性のある種の気持ち悪さは自分がモテていると勘違いしている自意識過剰が原因だと遅まきながらきづいた

2018/05/15 23:42
 今まで一度も、私自身がモテたいと願ったことがないので分からなかったのかもしれません。その時々に一番好きな人と相思相愛なら、ほかは関わりのない人たちは、男性の見かけをした女性、もしくは性別を取り払った友人だとしか認識できません。どうでも構わないのです。さほどよく知らない誰かから訳もなく好かれることも、見られることも何もかも嫌です。それぞれが、自分がこの人と決めた人とだけ向き合えば、きっと世の中問題は起らないのでしょうね。

 

まず、私なら、人として信用、信頼できて、それが尊敬の気持ちに変って、徐々にお互いのことが理解していく、上書き保存のようなことをある一定の長いスパンで続けることが基本です。それでも友だち以上には感じない人もあるし、本気で一途に好きになることもあるかもしれませんし、友だち関係に戻ることもあるでしょう。その時にならないと分かりません。




これは相手があることで、双方で構築する関係性なので、お互いの承諾なり、理解が必要です。一人で思っているなら、それは害にはならないでしょう。二次元のアニメキャラやアイドルに熱を上げているのと同じかもしれません。自分も相手も傷つかない代わりに、よろこびも少ないかもしれませんが、とりあえず、実害がないのでどうでもいいです。




ただ、勘違いする男性というのは質が悪いです。露出の多い、身体の線が出る、華やかで女性らしい服装などをしていると、男性の目を楽しませるためにそうしているのだと勝手に解釈するおかしな人が多いです。女性の自己表現だったり、趣味、好みだったりするだけで、男性のためにしていません。自分が気分のいい、心地よい服を身にまとっているだけです。この頃は、私こっちの服を自分のために選んで、着ていると自分でしっかり分かっていたらそれでいいのだと今は割り切れるようになりました。




服に限らず、態度でも、自分だけ特別扱いされている、どうしても勘違いとは思えない、真摯な気持ちでその人が必要だと感じるなら、頃合いを見はからって、聞いてみたらいいでしょう。そのときまでに信頼関係が築けているなら、たぶん、相手は本当のことを答えてくれるはずです。数々の段階を踏んで、途中を飛ばさないで慎重にしないと逃げられるかもしれませんが。お互いだけでなく、誰も泣かず悲しまない関係を目指していったら、本当にいい状況になっていく気がします。




感謝していること

誰かにどう思われても、自分軸がブレなければ、適切な関係が保てる気がします。自分がどうしたいか、したくないかをハッキリ選択し続けるのが人生なのかと知らされます。とりあえず今はまたスッキリすることが一つ増えて有難いです。


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なぜ、それほどモテたい?

2018/05/15 23:36
60歳になっても不特定多数の女性に「モテたい」と色気と勘違いしている気持ちの悪い何かを発散・露出する下品な男より 、女性の過半数は、一途で自分だけを大切にしてくれる真摯なひとに「モテ」ればいいだけみたいです。加えて、ホントにモテていると勘違いしている姿が、哀れで情けなくてくだらないと鼻で笑う余裕があるように感じますが。いかがでしょうか。
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それを縁というのか、波動というのかどうなんでしょう

2018/05/14 13:27
 誰かに対して「無理」と感じるのは縁が遠のいたのか、波動が合わなくなったのかどちらなのでしょう。いづれにしても、今、引き合わないということです。「今は無理」過去は尊敬できた世話になった部分もあり、この先は分からないけど、でも今は感謝して手放す、離れる選択を取ることが適切なのだと知らされます。

 だらしない、あまりよくない意味でいい加減な、遣る気が削がれる、自分が雑に扱われている、対等に渡り合える状況でない、安請け合いで引き受けたことの遂行を迫ると逃げるなどいろいろな感覚が混じりあうのでしょう。それでもどれでも「今は無理」なのだから、仕方ありません。縁や波動は直感と言い換えてもいいのかもしれません。気が進まないことはしないに限ります。相手に恩を着せ、自身の心身の不調を引き起こすことになりかねません。

 一つ、その状態から撤退するヒントがふと浮かびました。透明感のある清々しい感覚から遠いことです。濁っている、何か汚れている、雑然として散らかっているような感じのする人や物からは遠ざかることが肝要です。ふと、「あれっ」と感じる瞬間があるはずです。「何か違う」「以前と違う」とか、清潔でない雰囲気が少しでも漂って来たら、それは自分にとって良くないことが起こる前触れの時が多かったです。

その直感を無視すると、トラブルが発生します。立ち止まって関わり合いを今は断つ、別の道を行くなどしていけば、また、清々しい感覚で対象が自分の元に戻って来るかも知れません。自らは近づかないようにしつつ、遠巻きに様子を見聞きしていたら、それらが自分にとって必要なものかどうかは、そう遠くない未来に判明します。本当に縁があり、波動があっているなら、すんなり、気持ちのいい形で自分の前に現れます。そうでなかったら、二度と現れないでしょう。そんなものだと感じていると気が楽です。

感謝していること
日常、いろいろなサインで知らされることがあるので、それを見過ごさないで受け止めて、生かせるようになれということだと今更ながらに学べたのは有難いです。


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数年後の理想とする暮らし

2018/05/13 20:14
 とにかく静かに暮らしたいです。できればただいつも微笑んでいたいです。
 誰かと対話して、何かを見聞きして、読んで、書いて、創造するとか分かち合うことをしていたいです。
 研究やほかで悲しい人や物を見聞きしても、自分の家では、できるだけ落ち着いて自分の好きなように時間を過ごせたらと望みます。

 欲しいことなど何もないし、あまり食べなくてもいいし、嗜好品も取らなくても構わないので、ただただ静かにゆっくりとした時間の中で、残りの人生をだんだんに終えていきたいです。仕事は自分の能力を全て出し尽くして取り組みたいので、家ではのんびりしていたいです。きっと、こんな風に暮らしたいと望んでいれば、そうなれる気がします。根拠のない自信のようなものもあります。

 感謝していること
 死の不安はないですし、先々どうなるかということもあまり気になりません。不思議で有難いです。


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ずっと許せないかもしれないじゃなくて、今は嫌なだけ

2018/05/12 23:49
 ある出来事がそのことが起こった時点と今では違った感覚があるはずです。その時は強烈でも日々を経るにしたがって、徐々に許せないのが弱まるかもしれないし、仕方ない、お互いさまと思えるようになるかもしれません。未来はまだ来ていないのでわかりません。

大切なのは、今自分がどう感じているかです。この先、どんな展開があるか分かりませんし、そのことによって過去のその出来事の自分自身の感じ方が変わるかもしれません。

 

 でも、今が嫌なら、それはそれでそうなのだと認めたらいいだけなのだと、今日のリフレクティングのワークできづきました。自分が嫌なんだという気持ちを誤魔化して、考えないように蓋をするよりも、「嫌だったんでしょ。辛く哀しいことだったんだよね、今でも嫌でしょ」と許せない自分を許すこと、すなわち、自分の気持ちを自分で受け止めることが出来たら何となく心が軽くはなりました。




 嫌なことを嫌だと認める代わりに、嫌になっている理由を探し出してきて、嫌がっていることを正当化しようとする癖は苦しくなるばかりなので止めようと決めました。嫌な気分や泣きたい気分を味わいつくしたら、そのうち飽きるかもしれません。飽きるまで「嫌なんだよね」と頭なでなで、背中とんとんしてなだめてやるしかないのでしょう。自分を癒せるのはほかならぬ自分であって、ほかの誰かでは決してないのだと改めて感じることができました。




感謝していること

 花柄を着て行ったせいか、「ふわふわ」「お花」「引き寄せ」「癒し」という感じの中で今日のワークは終了しました。それが使命を果たす上で、誰かの何かの役に立つのなら有難い気がします。


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本当に頼れるのは解決の道筋を教えてくれる人

2018/05/12 08:53
 生死を超えることにしても、大学に受かることでも、身心の病が治ることでも、実際そういう身になれることを知っていて、どうしたらなれるかを教えてくれるひとでなければ役に立ちません。自分がなりました、できましといくら嬉しそうに語られても、一人で自慢して、よろこんでいる人は信用しません。

 どうしたら同じようになれるか知っていて、そうなりたい人を導けないと意味がありません。その人が教えられなくても、自分が導いてもらった、ほかの誰かや方法を紹介するなどできます。そんなこともできないで、ただ、よろこんでいるのでは情けないです。




 宗教家の役目は、生死を超えて、いま、いつ死が訪れても安寧の身にあることを諦観してもらうことです。これが一番です。医師やカウンセラーは心身の病を治すことです。高校の教師は志望校に合格させることが第一目的です。これらを外して、耳触りのいいことをいくら並べても、机上の空論にしかなりません。よくよく心得なくてはなりません。




 趣味や楽しみは別に何をしても構いませんが、もし、生死を超えることが人生の目的と的を絞っているなら、そのことに専念しないと短い今生は矢が飛んでいくようにあっという間に過ぎ去ってしまいます。そこのところを熟慮すべきです。




感謝していること
 人生の宿題も済んだので、同じ課題がまだ終わらない、進まない人のお手伝いをすることが私の今生の使命だと残りの人生を生きることができるようになったのは本当に不思議で有難いです。


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大学は教員を免許制にして研究者と分けたら?

2018/05/11 22:54
 大学で学生や教員がアカハラ・パワハラ・セクハラ・マタハラに遭うケースが報告されます。教員とは何なのか考えさせられます。

今日は子どもの高校の懇談会でした。担任の先生は大学院を出て中高一貫校の数学の教員となった人です。昨年の高校1年の時から連続で今年も担任をしてくださっています。まだ二十代ですが、本当に佳く生徒たちの面倒を見てくださいます。2年から文系と理系が分かれて少人数になったせいか、娘は数学がよく分かるようになったと言っていました。年齢は若くても、人としてとても尊敬できる先生です。子どもたちがどうしたら数学ができるようになるかいつも考えていると言われます。クラブ活動の顧問もしていらして、そちらも熱心に指導されているようです。

幼稚園から高校の教員になるには教育原理などを教職課程で学び、教育実習が必須です。現場で適性を考えて、実際、教員になるかどうか決めます。無理ならほかの仕事に就くことになります。向き不向きを自分自身で判断できるのが教育実習の期間です。私も幼稚園、小学校の教員の資格を取るためにそれらを経験しました。教員とは人格の涵養だと思い知らされました。

大学の教員はそういったことがなく、非常勤を経て、公募などで常勤になり、教員と研究者の二足の草鞋を履くようです。教員と研究者の両方の面で優れた人なら言うことはありません。しかし、教員としては素晴らしいけれど、研究がもう一つなのと、研究は素晴らしいけれど、ハラスメントを空気を吸うように繰り返し、学生の芽を摘む教員なら、害がない方に子どもを託したいです。ゼミの先生の外でも聞きに行くこともできますし、自分で研究を進めることもできます。

ハラスメントをする教員のために学校を止めないとならなくなったり、研究が滞るなどの実害の方が深刻な問題を孕みます。教員は知識を教えるだけではなく、人としてのお手本になるように人格を磨くことが、素晴らしい研究者を世に出すことにつながると私は感じます。でも、ハラスメントをしたり、整理整頓ができない、だらしのない格好をしているなどの教員でも研究が認められていると評価されます。先々、自分で自分の首を絞めることになるでしょうから、気を付けた方がいいとは思いますが、いい大人だし、敢えて口にはしません。

大学は、論文や研究指導をする教員と、研究専門にする人たちを分けたほうが、学生のためにはなる気がします。それが叶うなら、教員は高校までのように、教育の専門科目を履修するなど教職課程を取り、教育実習に行くべきです。あまりにも常識や優しさのない教育者として?がつくような教員の話を見聞きして憂う今日この頃です。

感謝していること
 中高一貫の私学に娘は通っていますが、先生方の温かいご指導に感謝しております。


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仮に瞑想などで人間人格最高峰を極めても、気を抜くと戻り、死の前で無効

2018/05/11 09:33
 瞑想などで、人格が優れたものになっても、気を抜くと戻ります。
人格の最高の極みに上っても、死の前では何も役に立ちません。
 なぜ、そのものズバリの死の解決をしないのでしょうか。
 方法を知らないからでしょうか。
 そこまで深い考えに至っていないからでしょうか。
 私にはよく分かりません。

  最期の最期に笑っていられるものでない、中途半端なものをなぜ求めるのか。
 財産、知識、名誉、地位、対人での癒しなどいろいろなものを求めても、無常の風の前では、ふっと飛んで行ってしまいます。 それなのに、根本的な解決を目指さないのはやはり縁なのでしょうか。

死刑囚がたとえ恩赦で牢獄から出られても、大病を患っている人が優秀な医者の施術か手術で元気になっても、近い将来死ぬに決まっています。死ぬのが少し延びただけです。ただそれだけなのに本人も周りも大喜びです。死ななくなるか、死が訪れてもその先が安心できるものでなければ本当によろこぶことなどできないはずです。よく考えなくても分かります。ただ、考えないようにしているだけです。結果は分かっているので、怖いから見ないようにしているのです。助かった人も、一緒によろこんだ人も死にます。

 人間関係やほかのものを求めるとは別の、二度と戻らない、死の解決の道はいろいろあります。たとえば、浄土真宗では正定聚の身に救われることが説かれています。不退転なので一度救われたら死んでも後戻りはしません。そういうものに縁がないと、色々他の雑多な元に戻るし、時間のかかる回り道をします。どういう人生を送ろうとそれぞれの勝手ですが、早く易しい方法で死の解決をいまここでされることを願って止みません。縁によりますが、聞法を重ねることが浄土真宗の道といえば道です。本人も救われた人から聞かせていただくとより速いです。そういう人に出合えるのも縁なのでしょう。そういうことがあるのだと強く信じて求めたらきっと出合えます。

感謝していること
 何の不思議なご縁なのか死の解決という目的からはぶれることなく、脇道にそれずに生きてこられたことを有難く感謝します。


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一人一人のしのぎ

2018/05/10 23:06
 人生のいろいろな場面で起こることも、もちろんですが、生死を超えることは周りがどのようにアドバイスしても、本人がその気になって,克服しなければならないと感じた時でないと始まりません。また、ほかの誰も、私も代ってあげることはできません。助けて欲しいと言われない限り、表立って何かするとあまり良いことにならないので、蔭ながら念じて、本人に分からないように見えないところでこそっと手を差し伸べるくらいしかできません。

 こんなことをしていると、きっとこういう結果になるだろうと思うことも、忸怩たる思いでただ見ているしかできないことも多いです。命に関わることなら身を挺して助けるかもしれませんが、そういうことは滅多にないので、気を揉みながら傍観するしかないことが多いです。

 一人一人のしのぎという学びなのでしょうが、迷いを抜ける気になるのは簡単なことじゃないと知らされます。広大無辺な智慧と慈悲の光、力がかかっているので、今、ここで救われることも可能です。各自救われる時は異なるので、それはご縁としか言いようがないですが、お声をかけてくだされば、出来ることはお手伝いさせていただきます。

感謝していること
 求めていればきっといつかは叶うことがあると信じて、長い間かかりましたが、生死を超えることができました。今は安心、満足の日暮しの中、満ち足りた人生が送れます。全てのご縁に感謝します。


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「なんとなく」「きもちわるい」

2018/05/10 09:28
 「なんとなく」「きもちわるい」このもやもやが「もうむり」になったときが、私が誰かとの関係が終わるときです。「もうむり」になるまで、小出しにして、いろいろ言ってみたりしますが、言い方が控えめでわからないのかもしれません。飽和状態になったとき相手との関係を凝縮する「キーワード」が決め手となり、「やっぱりこのひととはもうむり」となります。
 
「なんとなく」「きもちわるい」目つきなどの見かけとか雰囲気とかから始まりますが、だんだんに「攻撃モード」を感じるようになり、その人の「劣等感」「怖れ」などが響いてきます。それは私にはどうすることもできない、あなたが自分できづいて何とかするしかないと分かっているのに、優柔不断な私はそのままにしてしまいがちでした。

 恥も外聞も捨てて、聴きたい、教えて欲しいと頭を下げる正攻法のやり方で私に解決を求めるなら何かしら考えもします。そうではなく、自分の欲望だけを満たし、私に甘えて、傷つることで問題から逃げる時間がその人にとって遠回りになり、勿体ないと最近は分かってきたのでさっと身を引くようにしています。これは、決して上から目線ということではありません。熟慮の上の手放しとでも表現しておきます。

 本人が真摯な態度で私と向き合う覚悟が出来たら、謙虚になっているので、威張ったり攻撃することはなくなります。それが人間同士の本来の関わりかただと私は感じます。そうなったとき、「なんとなく」も「きもちわるい」も完全に払拭されています。
 冷たいようですが、「もうむり」なことを引きずっていても、共倒れになります。お互いのためになりません。最近は、私自身スッキリしているので、それでいいのだと感じます。
感謝していること
攻撃することもされることもない、優しく穏やかな日々を送れるようになりました。きがつくと笑っています。
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今生で迷いから覚めることなく、人間の関連の何かの追求で終わる残念さ・危うさ

2018/05/06 18:58
 せっかくのチャンスに、迷いから覚めることではなく、人間の何か役に立つことにばかり目が向くのは非常に残念で、危ういことです。よろこんであれこれしながら、崖に向かっている人たちに対して、何か示唆することは出来ますが、危ないところだったと認知して引き返すかどうかは本人次第です。無理やり押さえつけて、方向転換させるわけにもいきません。そう考えると無力感が胸一杯に広がります。危うい状況化を、仕方ない、どうにもならない現状を指をくわえてみているだけというのは何とも残念です。

 それでも、一人でもいい、きづく人があるなら、文章や話やワークショップなどで、迷いから覚めることができることを伝えられるのではないかと孤軍奮闘の毎日です。私自身が、危ういところで崖への道を引き返すことができましたので、余計に迷いの中、破滅に続く、暗い崖への道しか知らないひとたちが不憫でなりません。

人間の生活に便利なもの、病気を治すもの等を研究する人たちが偉いのかというと、それらを享受したとしても、人は死ぬんです。必ず。火の元に水をかけずに、火の粉ばかりに消火活動をしているようなものです。愚かとしか言いようがありません。もともと、自分が迷っているとは感じていないひとがほとんどです。暗くて人としょっちゅうぶつかり合い、文句ばかりの人生でも、こんなものかと割り切り、名利に走っては、損した得したと傷つけ合います。

 迷っている人間同士は他人に対して優しくなんてなれません。自分自身が苦しさを抱えていますので。その苦しみすらも見ないこと感じないことにして誤魔化して生きているので、数限りない悩みは途絶えることなくやってきます。

 一日も早く真理との邂逅を果たしてください。いま、ここでできます。

感謝していること
 苦しみの根本が何であるのかきづかさせていただき、すっかりそれがなくなったあとは、本当に見るもの聞くもの色鮮やかでハッキリ感じられます。モノクロの世界がカラーに代ったよりもっと劇的な変化でした。


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死後、通夜も葬儀も法事も墓もない人生って?

2018/05/05 22:53
 最近では、葬儀が密葬、家族葬という形で行われることもあります。身内がいないと行政が火葬して共同墓地に葬られるそうです。何とも言えない気持になります。たとえ自分がお葬式に行けなくても、ほかの人たちが故人を偲ぶセレモニーをされていたなら何となく気が済みます。

遠い親戚が老人ホームに入り、連れ合いが一年以上も訪れず、何も話すことなく逝き、家族葬でひっそり旅立ったと聞き、そういう人生は哀しいと母は言いました。その人は家族の外には親しいひとはいなかったのでしょうとも。

 生きてきた証は、自身が真理との邂逅を果たし迷いから覚めて、来世は悟りの境地に生きるという確信が持てることだと私は知らされました。思うんじゃなくて知っています。私の死を弔って、偲んでくれなくても全く構いません。でも、私がそういう心境にいなかったとしたら、葬儀も墓もなく死体を焼いて相済みという扱われ方は、何と悲しいことでしょう。

 目的が果たせていてもそうでなくても、元気で仕事が上手く行っているときは、誰も自分のことを気に掛けてくれていなくても平気かもしれません。若くて、何でも順調で、有頂天で困っていない時は、誰かの親切も煩いと跳ね除たりもします。それでも、病気になったり、もしくは仕事が面白くなくなったとき、自分のことを心から心配してくれるひとがいないのは何とも心細いことです。そうなる前に、家族同士、友だち同士、日頃から安否を尋ねて、親しくしていくと人生が潤い、気分がいいです。

感謝していること
 明日の昼は、中国人のお友だちの家でお好み焼きパーティをします。娘と一緒に行って作ってきます。楽しみです。


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今生を学び切る覚悟

2018/05/05 15:53
 だらだら過ごしても、覚悟や決意を持って過ごしても同じ一生です。

 今生で果たす目的を終え、その後の使命を私は生きてきました。

 それぞれの学びややり方があるのでしょうが、何だかつまらないし勿体ないように感じることがあります。余裕がある、力を出し切っていないもしくは出し惜しみしている。それはそれでその人の自由であり、口出すことではないのでしょうが、苦しみの原因がそこにあるとは気が付かずに、別の方向で頑張っていたり、他人のせいにしているのを見ていると遣る瀬無いです。

 私は最近、道についてよく考えます。自身が信じる道を行けば先が見えてきたり、開けていく気がします。それしかありません。誰かの考えや意見は参考にはなりますが、最後に決めるのは自分です。自分の責任における人生を歩んでいくしかないです。これは大人でも子どもでも同様のことです。人生の終わりにどうなっていたいか、そこまでの見通しを付けて生きていくしかないです。志半ばで終わってしまうかもしれませんが、それはそれとして、行きつけるところまでいったらいいだけです。

 中途半端なのと、自分の本音と実際の言動が一致していないことは苦しみを招き、ストレスが溜まり、それなりの成果は出るでしょうが、いつも消化不良で、達成感がなく何か足り心を抱えて過ごすことになります。それが今生の学びであり、そういう状態を甘んじて受けられるならそれでもいいです。でも、私はそんなのは真っ平御免です。そのようにいきてきましたし、これからもしません。

 ただ食べて寝て起きてが人生なら、それは無駄な消費活動であり、他人を傷つけ続けるサイクルにしかなりません。そこに真理との邂逅という要素が欠落しているのが問題です。真理との邂逅を目指す、果たす、その後、どういう生き方をするか自分で考えて道を開いていくことがない人生は迷いの苦しみの中で溺れているようなものである気がします。

 目的に向かって一直線に進む覚悟、今生の自分に課せられたことを学び切る決意がないから、逃げているから苦しい人生が、そこにあるのだとやっと知らされました。明らかに使命を果たすことに障害となり、目的違いの場合を除き、何らかの学びのヒントが隠れている気がします。

 とりあえず力の出し惜しみをすることやいい加減に誤魔化すことはそのままの結果が返ってくるので、極力しないようにすると決心しました。

感謝していること
大きめなモニターや目に優しい蛍光灯などを買ってきました。大学院での最終の学びを一日でも早く修了できる心強い味方になってくれそうです。有難いです。


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人生の最期はどうしたいですか

2018/05/05 09:52
 家族や親しいひとたちに看取られて「お浄土でまっているから、元気に仲良く暮らすように」と言って還るのが理想でしょう。それができたら自他共に今生の生を全うできたように感じられます。

 80歳を過ぎるといつ何時無常の風が吹き儚くなるか分かりません。心不全でおばあちゃんは夜中に一人他界しました。今日は妹の夫の父親の訃報が舞い込んできました。肺炎をこじらせたのが死因だったらしいです。普通に暮らして元気にしていたとのことです。ただ、施設にいて家族とは頻繁に逢えず寂しい思いをしていたと聞きました。夫婦といえど元々は他人であり、親子でも所帯を持てば親のことをそれほど気に掛けてはいられないこともあるかもしれません。今、まるで自分自身のことのように常々気に掛けてくれる誰かがいたなら、そういう人たちを大切にしていかれると臨終のとき少しは気分が晴れるでしょう。

 それよりも、還る先がハッキリしていることが大事です。これが人生の目的そのものです。ほかの誰よりも私のことをよく分かり、本当に大好きでいて、常に私だけを憶ってくださる懐かしいお方の待つ故郷にやっと還れるのだと嬉しい気持ちでいられます。この世のことは名残惜しくもあるけれど、明るい未来の行先を確信できていることが何よりも我が身には不思議で有難いと、今も私の心はいろいろなことを見聞する毎に感じられます。

感謝していること
 なぜこんな心境になれたのか、様々なひとや物の織り成す出来事を振り返り感謝の気持ちで一杯です。


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今生で目指すところ

2018/05/04 23:08
 心と言動を可能な限り一致させることです。

 本当はしたくないことを嫌々するのは苦手です。

そんなことをしているときの言動は視覚が機能していない人や、心が透き通っている人にはどう映るのかといつも考えてしまいます。




人間同士が疑心暗鬼になるのは、思っていることと言動が不一致である人たちと過ごさなくてはならない日常にあるかもしれません。小さい子どもたちは思ったままの言動をしますので、見ていて余りストレスになりません。けれど、歳を追うごとに隠し事や嘘や誤魔化しや見栄などいろいろな要素がからんで、相手の本心が分かりにくくなります。それで心が病んでいくことも多いようです。




誰か一人家族でもパートナー・友だちでも誰でもいいので、心の底から信頼・信用できる人がいたら、人生違った色や景色が見えるでしょう。ロジャース理論(仮説)の自己一致はとても大切であると私も感じております。




いつもは難しいですが、いま、ここで目の前の人と向き合う時、自己一致している瞬間を積み重ねて、心が透き通っている時を少しでも多く過ごすことを私の今生の使命の一つにしてまいります。それで心がお互いに救われるならよろこばしいことです。




感謝していること

 海外に住む日本人のお友だちと京都で来週逢えることになりました。大学やその周辺を案内するつもりです。短い滞在期間なのに、わざわざ逢いに来てくださることに有難く感謝いたします。


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生きる目的は人間関係の調和ではなく生死を超えること

2018/05/03 23:31
 いくら仲良く元気に暮らしても、いつかは老いて死んでいきます。

 生死を超える体験を少しでも若いときに済ませてしまったならば、残りの人生は特に何も望まなくなります。劣等感もその根底にある死に対する恐怖心もないので、他人に譲る気持ちがあるので、特にどうでもよくなります。




 生死を超えるというのは迷いを抜けて目覚めることで、死が来てもその先は故郷に還る感覚でいられます。生と死が断絶ではなくなります。還るべきところに還るのだと安心して生きられるようになります。




 精神の病は他人との関係の不調和からもたらされることが多いです。カウンセリングを学んできましたが、そんなことばかりです。人間関係に長じて、スムーズに世渡りが出来たとしても、生活も豊かで、元気で長生きできても、生まれたからには人は必ず死にます。行く先が決まっていたならば、残された家族にも先に行って待っているからと言い残して還れます。その様な境地に達することができるように真理を求めることが人生の目的です。




 人間同士が育て合う、育ち合うのではなく、真理にお育ていただくということなのでしょうが、そのことは真理との邂逅を果たさなければ、わかりません。




 人間の世の中は面倒ですが、これも真理に行きつく学びなのでしょうか。それにしてもかなり辛くしんどく哀しいことが多いです。そこまでされないと真理を求めようとは感じられない愚鈍な存在が人間というものなのでしょうか。




 それはともかく、死ぬときには、先に行って待っていると言い残して私も死んでいきます。だから悲しまないでください。待っていますから。

 感謝していること

 行く先の故郷が明るく感じられ、特にこの世に何の未練がなく、誰かと争ったりすることもなく、威張ることも、脅かすこともなく、生きられるのは不思議で有難いです。これを仕合わせというのかもしれません。


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究極的に帰する点は無・空、性質は菩薩心(慈愛・信愛)

2018/05/03 13:08
 他力は何もなく無であり、空っぽでした。

 華降るお浄土はあってもなくてもどちらでもいいです。

方便として見えることもあるかもしれませんし、見ることは無いかもしれません。

私にとって形としての姿は重要なことではありません。




ただ、他力のひととは今生が終わっても、また逢えるという気持ちがあります。

どこで再会しようと、すぐわかるのではないかと感じます。

そういう感覚があるので、今生の孤独も紛れますし、来世への不安はありません。

本当に不思議で有難い心境です。

感謝していること
心身が多少弱っていても、還るべき故郷があるので、なるようになると感じられます。死ぬ縁が来たら死んで、よろこび、よろこび故郷に還れます。


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口にすると、相手が完全に引いて、心の繋がりがプツンと音を立てて切れる言葉

2018/05/03 09:16
 「黙れ!」、「煩い!」、「(仕事の)邪魔だ!」

 「出て行け!」、「誰のお蔭で生活できている(食べられて いる)と思っているんだ!」

 明らかに「モラハラ」、「パワハラ」等の力で相手を押さえつける言葉です。こんなことを同じ人間なのに、大人が言われる筋合いはありません。子どもでも同様です。


 冗談でも、言葉は、一度、口から出たら戻りません。

  上記の言葉は、首の上に絶対出してはいけない言葉です。

  言葉で人を殺すのと同じくらいの効果を持ちます。

  もし、相手に投げかけたら関係は終わります。

二度と相手と関わりたくないのでしたら、反対に、これらを有効にお使いください。どうしても、相手と関係を修復したいなら、恥も外聞も捨てて、誠心誠意謝罪することです。許してもらえるまで何度でも。それでも無理なら本当に今生では縁がなかったと諦めるしかありません。

  もし、自分が言われたら、それはもうその人とは縁がありません。自分が言っていけないし、他人に言われたら、即、その人とは離れるべきです。私は「べき」という表現が苦手で、日頃、使わないようにしていますが、ここは「べき」です。

 自分を大切にする人は、他人も大切にします。
 特に、言葉遣いには慎重になります。
自分が他人を雑に扱わない人は、自分を雑に扱う人とは一緒にいられません。自分に何もなくても、生きているだけで幸せな人は、他人に幸せにしてもらおうとは思いません。わざわざ、不幸になるのを承知で、心が荒れていて、他人を粗雑に扱う人には近づきません。それは、なぜかいうと、自損損他になることを知っているからです。

誰かの言動で自身がどうこうなること、それはあまりありません。自分軸がしっかりしていたら、心が揺れることは一瞬あっても、戻りも早いです。自分のためにならないだけで、相手のためになるのなら我慢もしますが、両者にとって良くならないことからは身を引きます。相手が聞く耳も持たない、助けて欲しいと望んでないときは、離れて何もしないのが一番です。

感謝していること
自宅の庭の紅い薔薇が満開です。心がぱっと明るくなります。


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