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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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阿弥陀さまに常に護られていると聞かされる人生

2019/03/28 22:46
  私は昨年の春頃から、京都の堀川通りの聞法会館で時間を見つけては聴聞させていただいております。日本全国の布教師の方が、その土地の方言も交えてお話ししてくださいます。ほんのたまにですが、お話が終わった後に、御説法のお話や、質問をさせていただいたりします。

  布教師の多くの方々がお寺に生まれられていて、祖父母と共に幼少期を過ごしているようです。そして、時々、法話で、特におばあちゃんの思い出を話してくださいます。おばあちゃんに手を引かれて法話に参ったこと、お浄土でまた再会しましょうと遺言を残されたこと、小さい子どもでも分かるように阿弥陀さまがいつも護ってくださっていることを何度も教えられた話などを聞きます。

  近年は、親子でも虐待があり、殺される子もあります。祖父母は遠くにいて、ほかの親戚と変わらない感覚の子どもたちもあります。そんな中、日本の仏縁の深い場所では、昔のように祖父母が阿弥陀さまが常に護ってくださり、本願を疑いなく信じたならば、臨終が来ても死ぬのではなく、お浄土に生まれるのだとお話ししてくださる人生を送っているのかもしれません。それは尊いご縁に恵まれた人たちなのでしょうが、仕合わせな人生だと存じます。

 子どもの頃、どのような話を聞いて育ったかで、大人になってからの人生は異なるものになります。上手くいかない時、いつも阿弥陀さまが護っていてくださると聞いたことを思い出せたら、きっとその逆境を克服することができます。心の支えがあるのと無いのとでは全然生き方が変わってきます。

 大好きな大人が信じている阿弥陀さまを自分も疑いなく信じられるようになりたいと聴聞され、信心を獲得されたなら、その先は、強くたくましい御恩報謝の生き方になります。死ぬのではなく、お浄土に生まれつつある人生を送るという自覚のある楽しく明るい人生を阿弥陀様とご一緒に歩いて行けます。

感謝していること。
  私のおばあちゃんも仏教の話をしてくれました。いつか、お浄土で再会できることを楽しみにしております。


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人間同士大差はないのになぜ比べるのか?

2019/03/28 21:41
 生きる目的を知らないから、もしくは自分の矮小さが分からない井の中の蛙だからでしょう。

 生きる目的は生死を超えること、今臨終がやってきても、泰然と死んでいけるいきかたができることです。生死出づる道も知らずにいる中途半端な輩が、若くて元気の有り余る時、いくら威張ってみても臨終には後悔の涙を流すのがオチです。

 ひとは長く生きれば、その間、病にも罹り、老化し、やがては自身の身体も含めて大切にしているものを全て置いて死んでいかねばなりません。人生の途中に、大金持ちになろうと、美貌を誇ろうとやがては衰えます。盛んなままで死んでいく人もあります。

 結局、さよならだけの人生です。そんな中、生死を超越できたなら、我が身の仕合わせを味わい、楽しみんで、その方法をまだできていない人たちにお伝えしてよろこびを増幅していけます。

今、多くの人たちが楽しんでいる死に面して消えて無くなるような脆弱で、他人と比べて優位性を誇るようなものではない、みんなでよろこびあえる広大で深淵な価値観の中で、安心・満足して人生を全うできます。

 誰かと比べなくても、そのままありのままを認め合い、お浄土への旅を共にする人たちと一緒に生きられたら、これほど有意義で満たされた人生はありません。

感謝していること
 死の不安がすっかり払拭され、自分が自分がという我欲もだんだんに収まり、自分は後回しでもいいという人が増えると、競争、攻撃もなくなり、特に贅沢な生活でなくても安らかに生きられる気がします。有難いです。


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知識が増えても・・・・・・

2019/03/17 17:35
宗教学・哲学・心理学などいくら座学を繰り返して知識量を増やしても、
本人が智慧も慈悲もなく、腐っていたらズルズルドロドロで何の役にも立たないばかりか、
周囲に腐敗臭をばら撒くだけです。
そんなものが集まるとさらに酷い状態を招きます。
きづいていないのは本人たちだけです。
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親子でも実はそこまでしてくれなくてもいいという線引きをして他人と同様に生きている現実

2019/02/25 23:37
 人間はその人の能力を超えることはできません。無理をすると身心が壊れます。肉体の病気に罹り、精神が狂います。だから、お互いに遠慮しつつ、様子を伺って生きています。乳飲み子でも放って置かれるのに慣れると、泣かなくなります。 

 歳を経るにしたがって、このような不条理さを身を以て体験する祖父母たちは孫たちに対して寛容であり、自身のできる範囲で願いを叶えてやろうとします。両親が激怒した時、後でなだめてくれる祖父母に小さい子どもたちはどんなに救われるでしょう。

  たとえ、両親のどちらかが欠けても、もう片方の親や祖父母が養育してくれることを感謝して有難く感じていたら、被害者にならずに生きられます。でも、周りを見渡すと、両親が揃って、何の憂いもなく安心して親に甘え切っている子どもたちを見るとどうしようもない悲しみに襲われます。けれども、それはどうにもならない仕方のないことなので我慢します。

 実の親でも、身心が病んでいる場合もあります。病んでいなくても、家事や子育てにストレスを感じたり、何もしないとか昼間から酒に溺れ、働きもせずギャンブルに嵌る親もいます。どこにも、完全な親などいないのです。どこかしら、不完全なのが人間であり、親だからといって、完全さを求めるのは間違いなのです。

 ましてや夫婦、恋人、友だちならなおさら様子を見ながら、そこまでしなくてもいいよといいつつ遠慮しながら付き合うくらいで丁度いいのです。自分のできることは自分でして、どうしても助けて欲しいことだけお願いしないと、負担になってしまい共倒れになる危険性があります。これは親子でも同様です。

 所詮、人間同士の間柄で、完全に依存することは無理です。それは宗教の仕事です。真理との邂逅でしか果たされないことなのです。ここを理解できない多くの人たちは、人やほかの何かに依存して、裏切られては、また別のものに依存することを繰り返して、迷いの中で一生を終えていきます。仕方のないことなのでしょうが残念で悲しく心が痛いです。

感謝していること
 全く何も気にせず、全てをゆだねられる真理との邂逅ができたことを有難く感謝いたします。


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人間の間は老病死から絶対逃れられないことにきづかせ、そのままで救われるの方向を示すが宗教の役割

2019/02/17 23:33
 生死出づる道に出た、生死を超えたといっても、この肉体が老いて病になり死なない身になる訳ではありません。人間として生まれたからには、老いも病も経験しない中折れはあっても、死は回避できません。

 加えて、また、煩悩の貪欲・瞋恚・愚痴によって、常に心休まることない一生が展開していきます。そんな中、生死を超える目的を目指して生きるなら、山奥に籠って修行するしかありません。釈迦族の王子であったゴータマ・シッタルダ(私たちは釈尊とお呼びしております)はそうした修業を経て仏陀となりました。その後もたくさんの修行者がでましたが、地球上で後にも先にも仏となられたのは釈迦牟尼仏ただお一人です。

 日本にも仏教が伝わり、蘇我氏や聖徳太子が仏教を守護し、浄土仏教は源信僧都、法然聖人、親鸞聖人と受け継がれていきました。親鸞聖人も9歳で出家なされ、29歳で比叡山を出て、法然聖人にお出合いになるまでご修行されました。お三方は皆、はじめ比叡山でご修行されました。法然聖人は山の上の仏教を全ての人が救われるものにしたいと比叡山を降りて、京都で身分の隔てなく御説法をされました。その御意向を継承された親鸞聖人の御教えを覚如上人、蓮如上人等のご活躍で私たちは浄土真宗の教えを聞かせていただいております。

 特に蓮如上人がご存命だった室町時代は戦や飢饉が多くあり、無常を目の当たりにした時代でもありました。そのご生涯で、お連れ合いやお子さまをはじめご門徒の方々の死の中にあった蓮如上人は「後生は一大事であるから、せっかく尊い仏法に遇わせていただいたあなた方は、また迷いの生を繰り返すことなく、一日も急いで生死出づる道に出よ」とご教導くださいました。真宗の通夜や葬儀では「白骨の章」が拝読されることが多くありますが、その場にいて、その内容を御説法で分かり易く聞かせて頂いたら、中には我が身の老病死にきづいて仏法を求めるかもしれません。ただ、求めたいという人が出てきたときに、教えを正確に生死出づる身にさせてくださる御仏との邂逅の直前まで話せる人に遇えるかどうかがとても重要になります。ご縁まかせとはいえ、大変なことです。

生死出づる道を求められる方に方向性を示し、御仏とのお出合いを真の意味でお手伝いさせていただくことが宗教、そして宗教家の役割であります。他は何もありません。老病死からも煩悩からも逃れることができずにいる人間の悲しみ痛みに寄り添いながら、道を示すことなのです。

感謝していること
 尊いご縁が陰に陽に次々やって来ては、未熟者の私にいろいろご教示くださいます。


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心身の快楽を悦び、他の迷った人間より優れていることを楽しむ慢心が夢幻だとなぜきづかないのだろう?

2019/02/16 21:47
肉体の快楽は一瞬のものです。スポーツを例に考えるとよく分かるでしょう。気分がいいのはほんの一時のことです。苦しい練習は嫌だけれど、それを経ないと上手くなれないジレンマなどいろいろな葛藤があります。趣味でしていても、いつも楽しい訳でもなく、怪我をしたり、疲労が襲ったりもします。男女の楽しみもしかり。簡単に手に入る異性はすぐ飽きるし、時間とお金と戦略を以て特別な相手を手に入れたとしても、日常生活を共にし始めるとメッキが剥げる部分を見ることも多々あります。たとえ、どんなに好き合っていてもどちらかが先に死にます。永遠など何もありません。

 骨と血と肉などで構成される人間に特別素晴らしい超人的な人がいるとも考えられません。周りを見渡せば似たり寄ったりの下らない名利に振り回される人ばかりです。そんな中、真理を求め、真理との邂逅を果たし、真理に生きている人は滅多にいません。そういう人をめざし、目標にし、自身の至らなさを反省するご縁にしたらいいのです。でも、自分が劣っているとは思えず、相手の欠点ばかり探して優位に立とうという気持ちはおそらく死ぬまでなくなりません。

 真理との邂逅を果たした人は、迷った人間ではなく真理と共に生き、真理に近づけるような生き方をし、肉体の死は単なる通過点で、同じような状態をその先もずっとしていくことになります。自身を後回しにして、迷っている人にきづいて欲しいと願い、できることを粛々としていく人生を送ります。

 迷っている最中は、欲しい、憎い、可愛いばかりが心の中に湧き起こってきて、真理の方向に向くことは難しいのでしょうか。私にはよくわかりません。

感謝していること
 欲・怒り・愚痴もほかもお腹一杯で生まれてきてしまい、どうしてこんな言動を周りの人たちはするのだろうかとずっと不思議でした。そんな中、誰かが死ぬことに対する悲しみ、自分や誰かがないがしろにされる痛みはくり返し、嫌というほど味わいました。だからそれには寄り添えます。寄り添えるように体験させていただいたのかもしれません。有難いです。


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生死を超える目覚めとは、無常・罪悪の中で生きる周りの悲しみ・苦しみ・悩み・痛みを感じる身になること

2019/02/14 23:50
 昨年の夏以降、私は友人を失う悲しみの中に身を沈め、どんなことにもよろこべず、体調が優れないことも手伝って、生きる意欲も失いかけていました。いまだに心身ともに傷ついて、万全の状態ではありません。それでも、何の不思議か、私には御恩報謝をさせていただきたいという気持ちが湧き出てきて止まることがありません。

 2016年に父を看取りました。その喪失感が癒えないまま、昨年の辛い経験からもいまだ立ち直れずにいます。20年ほど前に祖母が他界し、10年前には大学時代の同志ともいうべき友人がこの世を去り、悲しく辛いことがどんどん重なっていきます。他のことは取り返しがつきますが、生きている人が死ぬということだけは元に戻りません。もう姿も見えず、声も聴くことができないで、その人を思い出す度に、何とも言えない空虚な気持ちを抱えて生きていかねばなりません。

 特に昨年はほぼ半年泣き暮らしました。祖母の時と同じくらい毎日思い出しては泣いていました。だんだんに、死んだのではなく往生して、還相回向の身となって活躍されているのだと気持ちを切り替えられるようになりました。

 そして、今は、聴聞を重ねる中で、友人が私に悲しみを忘れるのではなく、悲しみに寄り添う人生を送って欲しいと身を以て知らせてくれたのかもしれないと感じられるようになりました。

 生死を乗り越えること、生死出づる道に出て、極楽に往生するまで御仏とともに歩くということは、周りの人たちの悲しみ、苦しみ、悩み、痛みなどに寄り添うことでもあると感じます。永い間、限りある命を持ち無常の影に怯え、罪悪に苦しんでいた私を見捨てることなく、ずっとご一緒くださり、今も離れず、そばにいてくださる御仏と同じ道を共に進んでいるようでもあります。周りの有縁の方々の、話を聞いてきづきの話をして、同じ身に救われることを念じる使命を粛々と果たしてまいります。

感謝していること
 大切でない命、無駄なことは一つもありません。ただ、一度に全てを為すことができないので、有縁の方からの御縁となります。本当に無常・罪悪で悲しみ痛む人たちの為にできることをしていきたいと前向きな気持ちになりつつあることに有難く感謝いたします。


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フォーカシングセッションでのきづき

2019/02/11 18:19
 話しの中でこんなことを言われました。「人を羨ましがること、嫉妬することが原因で、何もしていない他人を攻撃することがある」。どうしてそんな無意味で不毛なことをしてしまうのか私には未だによく分かりません。人生の可処分時間は短いのに、つまらないことに時間を無駄遣いするなんて。でも、羨むことで意地悪することを本人たちは快感でしょうし、止められないのでしょう。ただ、そういう暇な人もいるので、何も原因が思い浮かばない時はそうなのかなと考えることにしました。

 終りでの、今日のピッタリ言葉は、「ロケットを飛ばしたい」と「橋を何とか架けとしているのに繋がらない」でした。ロケットは真理なら、お伝えするのみということです。橋を架けようとして繋がらないのではなく、繋がらなくていいときはそれでいいと私は解釈しました。繋がるべき橋はしかるべき時に繋がります。自ら繋げようとしなくても何らかのきっかけで、簡単にふとつながるときもありますし、今は、特に躍起になって橋を架ける必要性は感じません。

私のピッタリ言葉は、「真理の中で安心して自由に生きられる今を楽しむ」でした。「ありのままのあなたでいていいし、何でも好きにやっていいよ、私が護り支えているから」という感覚を安心して満喫し、思うままに好きなように自由に生きている私がいます。

参加者の人と終ってから、話をしていて、つまる所やっぱり、どこで相手を信頼できるかというと嘘をつかないとか、自分の私利やお金儲けの為に相手を利用しないということを言われていました。理論的にカウンセリングの方法や適用で行きづまったとき、でももしかしたら、あの人の言うことはこんなことかもしれないと善意に解釈できるからということでした。悪いことで騙すことのない人だと信頼・信用できることが大事なのだと私もぼんやりと感じていましたので、言語化できてよかったです。そういえば、少し前にお話しした僧侶の方も同じことを仰っていました。

感謝していること
 しばらくピッタリ言葉と別の角度からも向き合う楽しみを得ました。有難いです。


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ふんわりした優しさを身に纏う素敵なお姉さま方のしなやかな強さ

2019/02/09 23:04
海外旅行にご夫婦で来られるお姉さま方にハズレはありません。それぞれが、色々なところを乗り越えて、定年後にご旅行されているそれなりに裕福な方々を私はいつも尊敬のまなざしで拝見して、彼女たちのエレガントな言動を見習わせていただいております。さんざん、子どものような夫君や実子で手を焼かれたことでしょうと想像しながら。

たとえば、大声で話す人がいても「元気のいい方」と表現され、あからさまな言い方を聞くと、「あと、一呼吸お待ちになって、おっしゃればいいのに」と言われます。「だって、うるさいとか、一言多いといっても、ご本人はきっと分からないでしょうし」とあまり気になさらない様子で一緒に笑い合います。でもちっとも嫌味に感じられません。ややこしい場面や修羅場を通り抜けると、多少のことでは動じなくなります。波風を立てたくないのでそうしているのではなく、色々な人がいて、起こりうる現象は様々であると達観し楽しめる感覚が私は好ましく感じられます。

未熟者の私にはまだ到達できない地点で、辿り着くまで生きていられるとも思えませんが、こんな光景も団体旅行の醍醐味であり、一人や友人との観光では体験できないことです。

感謝していること
添乗員さんも的確な行動を促すサッパリした優しい方で、現地のガイドさんも人情味溢れ、運転手さんは笑顔が素敵でした。みなさんに助けられながら12日間無事過ごせました。改めて感謝いたします。


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世の中がよくならないのは政治家と研究者などが世間を知らないため

2019/02/09 19:03
 大学院の博士課程に身を置いて3年が過ぎようとしています。やっと学会誌に論文が一つ通り、もうすぐ世の中に出ます。ここで、ひとまず1年ほど休学して残り2つの論文を書き上げ、修了の運びとする計画を立てました。

 どうして、大学院に進んだかと面接で聞かれた時、大学で教師がしたいからだと答えました。先生方がどのように講義をするかを実際に受講することで学ぼうとしていました。大学院修士在籍時、院生は小人数で、主に学長、副学長、名誉教授の先生たちからの薫陶を賜りました。教師として学生の人格の涵養に重点を置いた講義を必死で受講していました。2年間は修士論文の完成のみならず、単位を取ることも必須であり、ほとんど睡眠や食事をゆっくり摂った記憶がありません。京都から夙川までの阪急電車の中では、英語の本を読み、英語の予習の続きをしていました。あんなに時間に追い立てられていながら、なおかつ充実した時はありませんでした。

 博士課程の講義は玉石混合でした。杖にも柱にもしていた研究科を立ち上げた副学長が一昨年他界してからは、一日も早く修了することが私の目標となりました。博士課程での講義単位取得は修士時代のものがそのまま移行したので必要ありませんでした。それでも、色々な教員の講義を受講したのは、修了後、自身がどのような講義をするかイメージを持つためでした。

 転入3年目からは、副学長以上の講義はほぼ聞けず、むしろ反面教師にする内容の講義を砂を噛むような忸怩たる気持ちで受けていると、こんなところで燻っていてもいいのだろうかと暗澹たる気分になりました。それは他大学の講義も受講することで何とか凌ぐことができました

 今現在は、私なりの参加型、もしくはワークショップの講義を世界各地でしていかなくてはならないと焦りを感じております。今年は専門である宗教の教義の理解の強化をしつつ、論文を発表し、修了後の地球規模のネットワーク創りをしていく所存です。

 修士・博士の期間、論文の合間の長期休暇に多く場所を旅しました。論文の為のフィールドワークで広島に1月滞在したのが最長でした。ある時は友人のところに、また別の時はツアーでと、いろいろなところに行きました。7日から2週間の間、欧州(英、仏、ギリシャ、露、ベルギー、トルコ)フィリピン、中国、インド、ネパール等に行きました。

 そこで、出合った現地の人たち、ツアーコンダクターや旅の仲間などから様々なことを教えていただきました。世界は広く、そこにはステレオタイプの人がいるのではなく、血の通った優しく穏やかで今を生きる人たちが私を迎えてくれました。普通の人が普通の暮らしをしている中でのことが尊く有難く感じました。この感覚を政治家や学者という立場にいるひとたちが知れば、もっと世の中は棲みやすくなり変わって行くのではないかというのが私が今、感じていることです。

 修士を修了した時、ある先生から言われました。

「あなたはこれから、博士論文やほかで周りの普通の人たちの声を論文に書いていく義務があるのですよ。普通の人たちが思っていること、言っていることをあなたは文章にして、世に知らしめることができる立場にあるのですから。」

感謝していること
愚鈍で怠惰な私ですが、自分で探し回らなくても、いつのまにか、周りの方々がいろいろなことを教えてくださいます。有難く感謝しております。


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ひとが救われていく課程の理解

2019/02/05 08:47
 「機の痛み」を脇に置いていないひとは優しく、温かいことを知りました。

 どうしてこんな辛いことばかりが次から次へとやってくるのだろうかと物心ついたときからずっと感じていた人生でした。楽しいときは一瞬で過ぎ去り、私の人生のほとんどが悲しくて、遣り切れないことばかりで、人生は苦しみの連続でした。

何で私ばかりこんな悲しみの疼きを真正面から受け止めてしまって、上手いこと交して避けられないのだろうか、損な生き方しかできないのだろうかといつも感じていました。周りの人たちは適当に苦悩や痛みに麻痺しているような発言を繰り返していました。私にはそれを理解できず、また、慣れっこになり理解することも嫌でした。

考え方を変えたら、楽に生きられるのかと試みましたが、「機の痛み」を脇に置くことはどうしてもできませんでした。辛い中で何を私は学んでいるのだろうかということが少しずつ、今回のトルコの旅で少し分ってきたような気がします。博士課程に転入してフィールドワークと称して、ロシアのエルミタージュ、インド、ヒロシマ、フランス、フィリピン、中国シルクロードいろいろなところに行きました。そして今回のトルコが博士課程の卒業旅行のつもりでやってきました。

 トルコツアーも今日と明日が終わると明後日は日本に帰って解散です。私はシルクロードの終着点のトルコで仏教的なものを何か見つけたいと探索しながら旅を続けていました。始めにトルコ人のガイドさんの日本人に共通する「機の痛み」を感じるアンテナを見つけました。ご家族も同じような感性を持っていることも話の端々に感じ、宗教は異なるものの、ウラルアルタイ語を話すトルコ人なら仏教を心で受取ることができるのではないかと、絹の繭の糸口を見つけたように嬉しく感じました。

 そして体調が思わしなったとき、ガイドさんや運転手さん、そして日本人ツアーの年配のみなさまのお心配りがとても身に沁みました。特に娘さんがご病気を乗り超えたお話をしたご夫婦が冗談めかして私を励ましてくださいました。さりげない温かさは、「機の痛み」に親子で真正面受け止めた経験からくることなのかときづきました。

 ささやかなことではありますが、私が直面して感じてきた「機の痛み」も、それを活かして真理との邂逅の話ができるのではないかと、新しい方向性を見つけた気がしました。ひととしての矜持、潔さ、自分を後回しにする真摯な生き方を目の当たりにする貴重な体験をさせていただきました。

感謝していること
 今までノンストップで休みなしの人生でしたが、トルコの「ハマム」で何も考えずに、苦悩もどこかに纏いながらホッと一息つく経験ができました。長いこと、父の臨終の言葉が分らず、リフレインしていました。「おまえはがんばって、がんばって、がんばってきたから・・・・・・」の続きの一つは、「たまには休んでもいいよ」だったのかもしれません。別の角度から論文が書けるかもしれません。


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トルコツアー6日目、7日目

2019/02/02 11:50
 今日明日はこの旅行のハイライトカッパドキア観光です。今までは人工物ばかり見てきましたが、自然の風景がたくさん見られるということでした。教育の場での串本の話の効果イランイラク戦争のトルコの飛行機により脱出やトルコ地震での双方の援助につながっているのには驚きました。
 トルコ人に親日家が多いのは言語構造の類似が関係しているようです。日本語を学ぶ人も多数有り、流暢な日本語を話します。
トルコの田舎では布団を敷いて寝るところもあるそうです。文化的・心情的共通点も多々あるのかもしれません。トルコに来ていろいろ知りました。
感謝していること
 ガイドさん、旅行参加者のみなさまに本当によくしていただいているころに有難く感謝しております。


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体験を追求しない宗教学って何?

2019/01/27 12:09
そもそも宗教学は宗教によって人間が救われる過程を解き明かす学問だと考えていた。キリスト教圏の宗教学はともかく、日本の宗教学において宗教過程論や宗教教育学の研究はまだ黎明期であることを知り、底の浅いことに愕然とした。これでは日本において救われたいと願い、実際救われる人も少ないのは自明の理である。当面は宗教過程論入門くらいでも書こうか。
 自分は宗教研究者、学者と偉そうにしている人たちに言いたい。菩提心のない宗教など何の役にも立たない。宗教とは実際人が救われていく実践・体験を含有したものであるから。自他の救いがない宗教など偽物だし、maまるで意味がない。
感謝していること
宗教的体験(邂逅)を果たし、味わいながら楽しんで研究できることを有難く感謝しています。
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ひとのいのちを奪う権利はほかの人間にも、ましてや国家にもない

2019/01/26 08:18
 20世紀は金銭欲を満たすための戦争の世紀でした。国家宗教を使って偽の死後の安寧を騙って多くの人たちが戦場で果てました。国家宗教の代わりに財力を持つ大きな団体によって、今世紀も戦争が引き起こされて、未だ大量の殺戮が止みません。一人一人の命の重みを伝えることでしか、このような状態は変わりません。私たちは真理からの目や耳を頂いて、もう争いや比較を止めて、繋がりませんか?

 同様に、国家による殺人である死刑制度の廃止も訴えていかなくてはなりません。これは喫緊の課題です。人を殺していい法律など許してはいけません。


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どうにもならないこころの底からの叫び

2019/01/24 05:05
 心に刺さる説法を聞きました。「響く」というような甘ちょろい感じじゃなくて、「刺さる」でした。

 その方の話を私は「本物」だと感じました。その方も同様に感じてくださっていたようでした。本物の感覚を言葉で教えて欲しいという私の願いを大切なことと受け止め、「『機の痛み』を脇に置いていない」という表現で私に教えてくださいました。この世間の知恵では解決できない真理の叡智、言い換えると仏の智慧でしか重荷をおろして軽くできないことを有縁の方々にお話しするのが説法であり、布教活動です。

 本物を見抜く感覚を研ぎ澄まし、一日でも早い真理との邂逅を目指し、成し遂げることこそが人生の目的です。弥陀の本願の生起本末を疑いなく聞き開き、「機の痛み」を持つ私を、そのまま、ありのままを助ける本願だと信心一つで救われてください。

感謝していること
研究会の発表で、ゲストで来ていた真友が信心を賜ったときのことをみんなに話してくれました。当時のことを思い出し感無量でした。


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凡夫そのままのお助けと疑いなく聞く

2019/01/20 20:38
「自分の計らいではなく、凡夫そのままのお助けと疑いなく聞かせていただいております」
と電話口から張りのあるお声でよろこびを聞かせていただきました。
この世のどんなことよりも嬉しくて仕方がありません。
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最近の記事

2019/01/19 21:16
最近書いたものをまとめてみました

先日、信心の沙汰をした人と電話で話をしました。疑いが晴れたので、疑っているままで救われるのが尊い本願だと誤魔化すために称えていた念仏と違う念仏が出てくるようになったといわれていました。このまま、しばらく様子を見てくださいとお伝えしました。

「お手次ぎ」と「受け念仏」という概念を知りました。法座で話しの合間に合いの手のように念仏する老人たちにずっと違和感がありました。かつてのアイドル歌手の歌の合間に「〇〇ちゃ〜ん」と叫ぶ人たちに対する嫌悪を惹起し、今でも超苦手です。私は大切なおもいは内に秘めます。

「お経の中にその名号を聞くと言われたのは凡夫そのままのお助けということ」
これに対してどう受けるか?

 もしもう少し生きられるなら、若いひとたちが後世の役に立つことをするお手伝いができたら嬉しいです。そうなれるといいなぁ

 世の中には信心獲得の人と未信の人がいます。信心の人の中にも仏恩報謝のために、阿弥陀仏のご本願をお話しされる方も、自分一人で法話や念仏を慶ぶ方もあります。私は残り少ない今生のいのちを一人でも、一言でも多くの方々に弥陀ましまして、今ここで救われることをお話ししています。

 学問の世界でもどういう方から教えを受けるかで、その後の研究や影響が異なってきます。御恩報謝の道も、どのような方から話を聞くかで、信後の活動が違ってきます。法然聖人を師に持たれたからこその親鸞聖人の御活躍だったのでしょう。

 「生けらば念仏の功つもり 死なば浄土へまいりなん とてもかくてもこの身には 思いわずらうことぞなき と思いぬれば 死生共にわずらいなし」(『法然上人行状絵図』巻第二十一)

 宗教的体験(信心獲得)をもって生死超える道を未だ知らない世界中の学者たちが、どうして真の人生観・死生学など語ることができようか。アカデミック人生論を私は誠に遺憾に感じます。

 生死を分けて死生学や人生哲学を講義し論文を書く世界中の学者に物申す。あなたたちは何もわかっていない。ただ、金や名誉や地位の為のくだらない仕事にくみしているだけだ!必ず臨終に大きな悔悟の念を起こすだろう。よくよく反省しなさい。

 信心がない人のことを批判するばかりで、信心のない人たちに自ら歩み寄り、対話を重ねて信心を賜ってもらう研鑽を怠っている人たちが、私は残念で遺憾です。でも、仕方ありません。御恩報謝の気持ちがないひとにいくら何を言っても始まりません。せいぜい自身の信心だけよろこんで自慢する生き方を楽しんでください。

 御縁、仏縁、宿善の薄い人たちは真実の仏の願いを話すと、鋭い刃でこちらに切り付けてきます。「お断りします」「聞きたくない」「取るに足らない話をする時間泥棒」悲しみながらも、今私が逃げたらほかに話す人がないと耐えるのは本当に辛いことです。

 私ただの凡夫なので、謗られ罵倒され罵倒されようと別に構いません。でも真実の仏の願いを謗る罪を造らせるのは残念で悲しいです。謗ることもご縁になると教えられても、仏さまに申し訳が立ちません。悔しくあわれで、悲しい中を生きていくのが娑婆世界というところなのでしょうか?辛すぎます。

 今死ぬと思えないから、信心の話など聞きたくない、お断りしますなどと呑気なことが言えるのだ。もう人生の折り返しをとっくに過ぎていながら、まだ、金や名誉や地位が欲しいのか?迷いの六道をまた輪廻されるのでしょうね。曠劫を迷い続けると親鸞聖人は仰せです。

オックスブリッチだ、ハーバードだ、極東の東大、京大だと威張ってみても、生死を超える道に出ていなければ、ただの自己満足の構ってチャン。やがて特別養護老人ホームで、風船バレーやペットボトルボーリングをしている仲間たちを馬鹿にしつつ、孤独に死ぬ怖い未来が待っています。

「遺体や遺骨を遺族に受け取り拒否される人生って一体何?」自治体から身内の死亡の連絡を受け、火葬代だけ払い、火葬場で見送りもせず、後はおまかせ。電車の網棚や公衆トイレ等に遺骨を放置された人を誰が嗤うの?人生を考え直さないと。

 どこからきて、何のために生まれ、生きて、どこに行くかすら分からないくせに学生たちの仕分けをして偉そうに教える教員に嫌悪感と違和感、そして憐れみの混じった感覚を抱きます

 サイコパス、モラハラ加害者(自己愛性人格障害)とは関わってはいけない。彼らは内省も、感情を言語化することもできない。これらを価値のないコスパの悪いものだと切り捨てるロジックを振り回し、誤魔化して煙に巻くのが得意だから。

 本当に頭が良い人は永遠の安寧、生死出る道、真理の邂逅を目指す。本当に綺麗な人は、内面の美しさを追求し、外見の美しさを他人にきづかれ、心の目が曇ることで、嫌な思いをしないよう普段は美しさを表に出さずに隠して、決してひけらかさない。

 ほとんど勉強せず、トップクラスの成績で難関国立医学部に入って出て、医師をしている友だちが何人かいます。その人たちから見下されたことはいまだかつてありません。世間的な記憶力などの頭のよさよりも、ひととしていま、ここで楽しむ時間を一緒に過ごしています。

エネルギー、オーラと一緒にたまに感じる何かがあります。スティッキー:いわゆるねばった、剥がしても油じみが残るような後味の悪さがある感覚です。でも、最近は、はりつかないうちにスッと少しズレるか、高速風力で飛ばすか、ぼやぼやしていて、付いてしまっても、高圧水流のイメージで洗い流します。

「宗教観を持たない日本の東大をはじめとする有名大学の男子学生やOBの精神年齢は幼稚園以下」
 決して、幼稚園児を馬鹿にするわけではありません。幼稚園児の中にも宗教観が育つ環境にあり、真剣に人生と対峙している男の子がいることを幼稚園の教員資格を持つ私は知っています。彼らに対しては尊敬の念を持って未来に素晴らしい活躍をされることを願っております。

 馬鹿野郎という言葉があります。この言葉においては、馬鹿は男と相場が決まっているのかもしれません。女が寄ってたかって、男をいたぶり、「突起物の付属する物」扱いする場面は全くないとは言いませんが、極めて少ないです。ほとんどの女性はだだ生活するだけで、本当に困難な状況に置かれていて、二流紙民扱いをされ、家事ロボットとして家庭では夫や子どもに扱われます。馬鹿野郎にそんな扱いを受け、こき使われる女性ですが、仕返しをしません。
 なぜなら、女はくだらないことに関わっていられるほど暇ではないからです。学齢期にはスクールカーストで気を使い、大学でやっと勉強に専念できると思ったら、大学の後半では卒論と並行して、就職活動が待っています。
 かなりの差別を潜り抜け、上手いこと就職して後、資格があるとか特出した能力を持ち自身で会社を立ち上げるなどする特別な機会に恵まれる女性もいます。しかし、現在の日本において、ほとんどの女性は責任のある仕事を任せてもらえません。正社員にしがみつくのは、非正規になるとボーナスも出ず、時給千円以下のパートタイムの仕事しかないからです。だから結婚しても、家事子育で夫の協力をほとんどあてにせず、感謝もされず、当たり前のような扱いで、家庭のあらゆる役割を一人で引き受け抜け殻のように疲れ果てる人生を送ることになります。

 このように女性たちは常に生活の家事に追われ、さらに補助的な家族を賄う金銭を得るための仕事に疲れ果てています。だから、男性を玩具にして性欲を満たしたりする時間などほとんどありません。そんなことをするなら何もせずに寝ていた方がよっぽどましです。
 学歴を鼻に掛けない、本当に優秀な男性たちもいます。彼らはもともと天才的な能力を持っているので、それが当たり前で、誰かに褒めてもらおうとは思っていません。今さえよければいいという刹那的な考えばかりではなく、先を見通す能力もありますので、そんなことより人生の意味を考えたり、真理との邂逅を済ませて今生を終えることに専念します。

 同時に、今、このときを楽しむ術を常に考えています。元々頭が良いので、その場の空気や他人の気持ちをすぐに把握できるので、他人に引け目を感じさせることは避けますし、一緒にいてとにかく楽しいし疲れません。

余談ですが、女性でも本当に心の中からも滲み出る美しさを持った人たちはそれを自慢することはありません。むしろ外面を褒められることを嫌悪します。なぜ内面のことについて話ができる人が少ないのだろうかといつも疑問に感じています。そういうものなのです。

  宗教心もなく、中途半端な学歴信奉主義の親に育てられた、プライドだけ高い馬鹿野郎がサイコパス、モラハラ加害者(自己愛性人格障害者)になります。彼らの両親や先祖も同じカテゴリーの輩で、連綿と連鎖するのです。
その連鎖の外で生きている人たちは、彼らのことを理解する事は出来ません。少なくとも今生では無理です。だから、関わってはいけないのです。関わると、レイプされたり、慰めものとして性的恥辱を与えられたり、優越感を満たすために「頭が悪い」「馬鹿女」とほかでもない「馬鹿野郎」たちに愚弄されます。

宗教心がしっかりした家庭で育ち、人生の意味を真剣に考え、真理との邂逅を求めるひとたちの中では到底考えられないことが、ここ日本では起こっています。日本だけでなく世界中であるのでしょうが、宗教を信奉する人たちが政権や社会の中枢の重要な地位にある場合、サイコパスやモラハラ加害者は睨みをきかされて、大きな顔は出来ないのです。日本の場合、リーダー的存在にあるものが、無宗教であったり、おかしな考え方をするサイコパスやモラハラ加害者であることが考えられ、とても危機的状況であります。

直木賞作家の姫野カオルコさんは怒りを持って、『彼女は頭が悪いから』という小説を書きました。私も同様に怒っています。この行き場のない怒りを、多くの方々と共有したいと存じます。

感謝していること
世の中には真っ当な考え方を持つ人もいます。そういう人たちはもっと声をあげないといけません。姫野さんの小説でそれを痛感しました。

理不尽なことには怒っても構いません。許さなくてもいいです。目一杯怒らないと、いつまでも怒りの炎は消えません。怒りの原因の本人にぶつけるのが一番ですが、死んでしまっていたりなどでできない時は、反面教師にします。自分は絶対同じことは死ぬまでしないと決意します。

「出ていけ」、「黙れ」というハラスメントキーワードを発する人たちって何様?自身も家庭や学校や職場などで言われてきたの?大切に丁寧に扱われてこなかったの?これらを発した途端、相手との関係が終わるけどきづかない?サイコパスだからわざとなの?自分が言われても平気?

他人を尊敬・尊重できる人は同様生き方をするひとたちからは同じように扱われます。一方、サイコパスか粗野で自己中の人たちからはいくら心を尽くしてもとんでもなく酷い扱いを受けます。関わる相手を慎重に選ばないと、ボロボロの抜け殻になります。

「昨日のこと」
「最後の最後、何とかすれば何とかなれるという、自力我慢の心が抜けないその方に、私は何を話したらいいのだろうか」とこんなことを道中考えながら自転車をこぎました。衣笠の大学から、途中、朱雀の自宅でCDをカバンに入れて深草の大学の正門に向かいました。

 「まだ、楽がしたい。現世利益を求める気持ちが抜けません」と仰るその方に言いました。

 「いつまで生きているつもりですか。長綱をはいていないで、臨終を今に持ってきてください。今死んだら、大事にしている身体さえも焼かれていくのですよ。

 何もあてにならないものに、どうして頼ろうとするのですか。生死を超えるために何か一つでも役に立つ、間に合うことがあるのですか。

 地獄と聞いても驚かない、極楽に行きたくもない。この迷った娑婆が大好きで、救われたいなどと全く思っていない逆法の屍が私であり、疑いを自分の力で晴らすことなどできなかったと知らされたとき、このまま、ありのままの私を救ってくださる阿弥陀仏のご本願が賜れます。

 空っぼで何もないところに、仏智が満入します。まだ何かある、何かできる、間に合うものがあるというのは、阿弥陀さまの頭の上で、腐った脳みそをかき回して、あれこれ計らい、必ず救うという命懸けの広大無辺なお力に底を敷いているのです。私が救われないのは阿弥陀さまの能力不足と。 

 どうか、阿弥陀仏に、今、ここで救われてください。命がある内に本願を賜ってください。」

こんな話をした帰り際にその方は言われました。

「救われたらあなたのように遠くても、寒くても、いても立ってもいられず、救われたいひとに話に来られるのでしょうね」

「特別なことではありません。当たり前のことをしているだけです。私にとっての御恩報謝は、阿弥陀仏のご本願が生きて働いていることをお話しして、一人でも多くの方々と極楽に参らせていただくことです。能力のない私はまだ何もできていません。それが申し訳なくて、ご縁のある方があれば、少しでもお話しさせていただいているだけです。」

このように申し上げて、まだご本願を賜っていらっしゃらないことが残念でしたが、龍大を後にしました。夜でも朝でも聴聞ができるようにCDをお渡しして、ご縁を念じつつ、後はその方と、阿弥陀如来の間のことで、私はもうここまでと。

感謝していること
 最近は、御縁の深い方々が、途絶えることなく私の周りに集まって、阿弥陀さまのご本願を聞いてくださることが嬉しくて仕方がありません。

 宗教だけでなく研究において、直感等の感覚は大切です。何かが降りてくるというもの以外にも、何となく気が進まない、読む気がしないという対象は要注意です。それは研究に値しないものであることが多いです。そんなときは、さっさと切り上げるてほかにいく勇気も必要です。

 昨年の夏の十日間余り、私はどうしようもなく嫌な体験をしました。つまらない慢心から人間はこんなにも嫌な奴になれるのだろうかという驚きが今でもあります。それを反面教師にしたり、乗り越えようとしましたが無理でした。その痛みを死ぬまで持ち続けていってあげようと最近決意できました。

 教員やカウンセラーはまず、目の前の人が何を感じているのかを聞くことに専念します。取るに足らないこと、とんでもない誇大妄想を耳にしても、怒らず、決して黙れと言ってはなりません。なぜなら、黙れ、出ていけと言われたら、弱い立場のその人は、無言でその場を去らないとならないからです。

 未信の人たちの言葉は氷のように冷たく突き刺さります。腐った脳みそを掻きまわして出てきた言葉をそのまま、信心の沙汰をしてくれる他力を知った人に吐きだします。御仏と共に、信心の人は憐れみ悲しみながら涙をこらえ黙って聞きます。信後、初めてこの苦しみにをきづきます。

 どんなことをしても何とか救われて欲しいと願うこころを知らない未信の人たちは好き放題の暴言を吐きます。なぜ救ってくれないのかと、腐った脳みそを総動員し、仏さまのお約束を疑い、底を敷きます。浅ましい、大変な罪ですが、御仏と一緒に泣きながら、ただ聴くしかありません。

 ライトワーカーや信心の沙汰をする他力のひとはなぜ、法を謗り、煩悩塗れであることを恥じ知らない好き勝手放題の人たちの為に、自分の時間を費すかといえば、自分もかつてこころをかけていただきながら、通った道だから耐えられるのです。

ほとんどの人は広大無辺な真理を見ず、狭く暗い卵の殻の中で、腐って死にます。素晴らしい境地を未だ知らない人たちなので、その狭く、腐敗臭のする場所が好きなんです。憐愍の念が湧きますが、御縁がない、もしくは薄い人たちなので仕方ありません。でも不請の友を買って出ます。

布教師も含めひとに教える人たちの養成の要は教え子の人格の涵養を常に念じられるか否かです。感じていることに耳を傾け、否定することなく、より佳き方向を示役目を果たすだけです。彼らはしばしば自分を超える素晴らしいことを教えてくれます。なぜなら、教え子は自分よりも偉大で、無限の可能性を持つからです。

 自身の能力の限界と若いひとたちの可能性を知っているから教員をしているのです。学校に雇われ、養われなくても、本も売れ、世界中から講演、講義などの依頼があります。その方が自由だしやりがいがありますが、できないから宮仕えをするしかないのです。そこのところを勘違いないように!

「お前は馬鹿だ!」これを暗に言われたことがあります。「周りの人たちはみんな自分より賢いと思った方がいいですよ」と。
「それは私が馬鹿だと、馬鹿にしているんですか?」と聞き返しました。その後、周りの人と私は真摯に関わっているけど、自分を卑下はしないと伝えました。

多種多様なことを知るのが賢い人ではありません。大量の知識はかえって人を不安に追い込みます。相対の知識には限がないからです。要る物要らないものを峻別し、必要なもの、大切なものだけと深く狭く関われるのが本当にものを知る優れた人です。多くの人はそれを知りません。

蓮如上人は親鸞聖人の教えを捻じ曲げていると宗教の学会で得意げに根拠を挙げて発表した研究者がいたそうです。

「無礼者!」「愚か者!」「馬鹿野郎!」としか信心決定の身の上からは言えないと内に秘めて真宗学者が冷静に反論したそうです。

宗教研究と信仰体験は切り離せません。客観的に再現性を求めるのは、相対の考え方です。信仰はただ私一人の身の上に起きる一回性の出来事なのです。信心獲得した体験がない者に、その重大性が分かりません。今生で救われないなら迷いの道を繰り返す悔恨の念の危機感を持たずにいられません。
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昨日のこと

2019/01/17 21:03

「最後の最後、何とかすれば何とかなれるという、自力我慢の心が抜けないその方に、私は何を話したらいいのだろうか」とこんなことを道中考えながら自転車をこぎました。衣笠の大学から、途中、朱雀の自宅で御説法のCDをカバンに入れて深草の大学の正門に向かいました。

 「まだ、楽がしたい。現世利益を求める気持ちが抜けません」と仰るその方に言いました。

 「いつまで生きているつもりですか。長綱をはいていないで、臨終を今に持ってきてください。今死んだら、大事にしている身体さえも焼かれていくのですよ。
 何もあてにならないものに、どうして頼ろうとするのですか。生死を超えるために何か一つでも役に立つ、間に合うことがあるのですか。
 地獄と聞いても驚かない、極楽に行きたくもない。この迷った娑婆が大好きで、救われたいなどと全く思っていない逆法の屍が私であり、疑いを自分の力で晴らすことなどできなかったと知らされたとき、このまま、ありのままの私を救ってくださる阿弥陀仏のご本願が賜れます。
 空っぼで何もないところに、仏智が満入します。まだ何かある、何かできる、間に合うものがあるというのは、阿弥陀さまの頭の上で、腐った脳みそをかき回して、あれこれ計らい、必ず救うという命懸けの広大無辺なお力に底を敷いているのです。私が救われないのは阿弥陀さまの能力不足と。 
 どうか、阿弥陀仏に、今、ここで救われてください。命がある内に本願を賜ってください。」

 こんな話をした帰り際にその方は言われました。

 「救われたらあなたのように遠くても、寒くても、いても立ってもいられず、救われたいひとに話に来られるのでしょうね」

  「特別なことではありません。当たり前のことをしているだけです。私にとっての御恩報謝は、阿弥陀仏のご本願が生きて働いていることをお話しして、一人でも多くの方々と極楽に参らせていただくことです。能力のない私はまだ何もできていません。それが申し訳なくて、ご縁のある方があれば、少しでもお話しさせていただいているだけです。」

  このように申し上げて、まだご本願を賜っていらっしゃらないことが残念でしたが、龍大を後にしました。夜でも朝でも聴聞ができるようにCDをお渡しして、ご縁を念じつつ、後はその方と、阿弥陀如来の間のことで、私はもうここまでと。

感謝していること
 最近は、御縁の深い方々が、途絶えることなく私の周りに集まって、阿弥陀さまのご本願を聞いてくださることが嬉しくて仕方がありません。
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宗教観を持たない東大をはじめとする有名大学の男子学生の頭の中身は幼稚園以下

2019/01/14 11:04
 決して、幼稚園児を馬鹿にするわけではありません。幼稚園児の中にも宗教観が育つ環境にあり、真剣に人生と対峙している男の子がいることを幼稚園の教員資格を持つ私は知っています。彼らに対しては尊敬の念を持って未来に素晴らしい活躍をされることを願っております。

  馬鹿野郎という言葉があります。この言葉においては、馬鹿は男と相場が決まっているのかもしれません。女が寄ってたかって、男をいたぶり、突起物の付属する物扱いする場面は全くないとは言いませんが、極めて少ないです。ほとんどの女性は本当に困難な上場に置かれていて、二流紙民扱いをされ、家事ロボットとして家庭では夫や子どもに扱われます。馬鹿野郎にそんな扱いを受け、こき使われる女性ですが、仕返しをしません。

 なぜなら、女はくだらないことに関わっていられるほど暇ではないからです。学齢期にはスクールカーストで気を使い、大学でやっと勉強に専念できると思ったら、大学の後半では卒論と並行して、就職活動が待っています。
 かなりの差別を潜り抜け、上手いこと就職して、資格があるとか特出した能力を持ち自身で会社を立ち上げるなどする特別な機会に恵まれた女性もいます。しかし、現在の日本において、ほとんどの女性は責任のある仕事を任せてもらえません。正社員にしがみつくのは、非正規になるとボーナスも出ず、時給千円以下のパートタイムの仕事しかないからです。だから結婚しても、家事子育で夫の協力をほとんどあてにせず、感謝もされず、当たり前のような扱いで、家庭のあらゆる役割を一人で引き受け抜け殻のように疲れ果てる人生を送ることになります。

 このように女性たちは常に生活の家事に追われ、さらに補助的な家族を賄う金銭を得るための仕事に疲れ果てています。だから、男性を玩具にして性欲を満たしたりする時間などほとんどありません。そんなことをするなら何もせずに寝ていた方がよっぽどましです。

 学歴を鼻に掛けない、本当に優秀な男性たちもいます。彼らはもともと天才的な能力を持っているので、それが当たり前で、誰かに褒めてもらおうとは思っていません。今さえよければいいという刹那的な考えばかりではなく、先を見通す能力もありますので、そんなことより人生の意味を考えたり、真理との邂逅を済ませて今生を終えることに専念します。
 同時に、今、このときを楽しむ術を常に考えています。元々頭が良いので、その場の空気や他人の気持ちをすぐに把握できるので、他人に引け目を感じさせることは避けますし、一緒にいてとにかく楽しいし疲れません。

余談ですが、女性でも本当に心の中からも滲み出る美しさを持った人たちはそれを自慢することはありません。むしろ外面を褒められることを嫌悪します。なぜ内面のことについて話ができる人が少ないのだろうかといつも疑問に感じています。そういうものなのです。

  宗教心もなく、中途半端な学歴信奉主義の親に育てられた、プライドだけ高い馬鹿野郎がサイコパス、モラハラ加害者(自己愛性人格障害者)になります。彼らの両親や先祖も同じカテゴリーの輩で、面々と連鎖するのです。
 その連鎖の外で生きている人たちは、彼らのことを理解する事は出来ません。少なくとも今生では無理です。だから、関わってはいけないのです。関わると、レイプされたり、慰めものとして性的恥辱を与えられたり、優越感を満たすために「頭が悪い」「馬鹿女」とほかでもない「馬鹿野郎」たちに愚弄されます。

 宗教心がしっかりした家庭で育ち、人生の意味を真剣に考え、真理との邂逅を求めるひとたちの中では到底考えられないことが、ここ日本では起こっています。日本だけでなく世界中であるのでしょうが、宗教を信奉する人たちが政権や社会の中枢の重要な地位にある場合、サイコパスやモラハラ加害者は睨みをきかされて、大きな顔は出来ないのです。日本の場合、リーダー的存在にあるものが、無宗教であったり、おかしな考え方をするサイコパスやモラハラ加害者であることが考えられ、とても危機的状況であります。

 直木賞作家の姫野カオルコさんは怒りを持って、『彼女は頭が悪いから』という小説を書きました。私も同様に怒っています。この行き場のない怒りを、多くの方々と共有したいと存じます。

感謝していること
 世の中には真っ当な考え方を持つ人もいます。そういう人たちはもっと声をあげないといけません。姫野さんの小説でそれを痛感しました。
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法然聖人のお言葉

2019/01/12 09:48
「生けらば念仏の功つもり 死なば浄土へまいりなん とてもかくてもこの身には 思いわずらうことぞなき と思いぬれば 死生共にわずらいなし」(『法然上人行状絵図』巻第二十一)
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凡夫そのままのお助け

2019/01/12 07:27
「お経の中にその名号を聞くと言われたのは凡夫そのままのお助けということ」
これに対してどう受けるか?
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人世の軸となる第三の真理軸

2019/01/08 22:36
独楽に軸がないと回らないように人生にも軸が必要だと仏教の先生から自身の師もおっしゃっていたと教えていただきました。
他人でも自分でもない第三の真実の軸を賜って明日で10年になります。
御恩報謝が何もできず、無駄な時を過ごてしまい御仏には申し訳なく感じております。
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真理軸で生きる

2019/01/07 11:44
他人軸でも、自分軸でもなく真理という新しい基準を得て菩薩道を行くスタートラインが信心決定。
それを支えるのが他力です。
梯さんの「他力の心」を昨日信心のお話をした方と一緒に聴聞して改めて知らされました。
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機抜けの信心

2019/01/07 00:51
この言葉を初めて聞きました。
二種深信の法の深信の部分だけが感じられ有難がります。
しかし、機の深信、疑う罪が分かりません。
二つの深信が同時にたたず、化城に陥っている者を指すようです。
化城のほとんどがこれです。
的確な表現でした。
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どんなに辛く苦しい目に遭っても、まだ懲りないで迷っていると感じない残念な人たち

2019/01/05 22:56
 うそだろ、いい加減きづいたら!
 目を覆うような虐待を受けながらも、虐待の主を庇う発言をする人たちって何?

 モラハラ、DVは支配やコントロールであり、加害者を肯定したら、そこから抜けられません。何で、殴る蹴るをするけど、いいときもあるし、酒さえ飲まなければ日頃は大人しい優しい人なんだけれどなんて擁護するの?殺されない内に、身心が痛くならないうち逃げなよ!自由に生きる道は何十何百だってあるのですから。探せばいいです。囚われのブロックを外したらいいだけです。

 しらふだろうと、酒飲んでいようと、体格・体力で勝る男が殴る蹴るをした時点で関係は終わってます。「黙れ、出ていけ」も同様です。その場で「もう一度このようなことがあったら、私はあなたの前から姿を消します。もう二度と関わることはないでしょう。本気でさよならします。」と告げて、再び同じことがあれば、もうやり直す事は出来ないのだと毅然とした態度を取れる人は少ないのでしょうか。

 こんなに辛いなら、早くこんな娑婆で苦しむのを止めにして、覚りの清浄な世界に転じる身に今ここで救われたいとなぜ決意できないのでしょうか?中途半端な苦しみなので、それほど困っていないのですね。残念ですが仕方ありません。私には他人を変える力はありません。

 たぶん、死の解決ができた後なら、モラハラやDVをする相手とは、もう今生では二度と関わることなしでも生きていけると徐々にわかってきます。孤独だ、淋しいという仏や菩薩はいませんから。覚った後は、ずっと衆生済度の活躍の活動があるのみですから。

 もし仮に、生活もままならない様で、あまりにも辛すぎて人生を続けていくことが不可能なら、私なら死を選び、死にます。この世にすがるものも、当てにするものも、何の未練もありませんので。まあ、死ぬ気で何事にも臨んだら怖いものなしですけれど。

感謝していること
 嫌なことは嫌だと面と向かっていうとか、何らかの方法で伝えられることができるようになりとても楽になりました。


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平成最後の新年のご挨拶

2019/01/03 21:37
本年もよろしくお願いいたします。

今年は1月の末から2月の初めにかけてトルコに旅行に行きます。

大好きなヨーロッパにもまたいつか行けたら嬉しいです。今度はポルトガルに行きたいです。

キラキラと輝きながら、ときめく時間を十分味わい切り、一瞬一瞬を大切に生きていく所存です。

軽く明るく楽しくが今後のキーワードです。


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信心の沙汰を引き受ける条件

2018/12/27 09:21
いま、ここで信心を賜りたい。
命は、一日に譬えると23時59分59秒。(もう後がない)。
お金、地位、名誉、肉親、友人など何もあてにできなかった。
一度限りの縁で、信心を賜る覚悟がある。

これらが一つでも欠けたら
お断りします。
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私はもう死んでもいい!

2018/12/25 23:43
「信心決定」、「信心獲得」、「信心一つで救われる」、「自信教人信」
これらの言葉をリアルタイムで自分の耳で聞くなんて夢のようでした。
確実に根を下ろして教えが受け継がれていると感じた瞬間でした。
もう私は死んでもいいと思いました。月が綺麗だったわけじゃありません。
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平生業成(二度の臨終)

2018/12/22 11:22
平成二十六年の梯實圓和上のご葬儀に、天岸浄圓先生が御法話の際、「この度のご往生おめでとうございます」とおっしゃたそうです。続いて、法要読経のあと、梯和上の奥様が天岸先生のお言葉を受けて挨拶されました。

「みなさん私が亡くなったときは、必ず『往生おめでとうございます』と言って下さい!。その時までは今しばらくお念仏を称えながら日暮らしさせていただきます。」

梯先生のご往生を私はインターネットで知りましたので、ご葬儀の御縁はありませんでした。昨日の天岸先生との対話で「『お赤飯を炊きましょう』とまでは言いませんでしたが、『ご往生おめでとうございます』とは言いました」と直接お聞きしました。

この先、私が死んでも悲しむことなく、
「往生おめでとう!」と見送ってください。そして近い将来、またお浄土でお逢いしましょう!

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罪悪感の追求から離れられるまで

2018/12/02 16:18
 真理を受け取ろうと邂逅を望んだ時、いい人にならねばと考える人が多くいます。悪を止め、善を行じる仏教でいわれる廃悪修善のことです。

 しかし、悪は底なしです。それを見ていっても、限も際もありません。そして三次元の人間として、生きるためには悪は造らなければならないものです。

 問題はそこではないのだときづいたときから、真の意味での求道が始まります。では善悪を超えたものとは何か、それが真理というのであればそれをどう受け取るのかに気持ちが向きます。それは宗教と表現されるところのものです。

 それを受け取るには疑いという蓋があるうちは何か安心満足ができません。そこを乗り越えたら本当に自分と一体化した気持ちになれます。だからといって、安易なまじないや奇跡でそこを突破できるわけでもありません。そこまでの過程を私はいろいろ説明してきました。それをまとめてきちんと文章化している最中です。以下に分かり易く誤解の内容に表現できるか、大学院に身を置きつつ、模索しています。

 罪悪を突き詰めていく過程で、自身のものばかりではなく周りの人たちの罪悪が気になり、争いを引き起こすことが20世紀では頻繁にあり、大きな戦争が度々ありました。これからは罪悪をみていくのではない、無常やほかのものでの真理との邂逅の道を私は模索しております。大変な道のりですが、できるところまでで今生の使命は終わります。

感謝していること
 罪悪を気にする人たちの間にあって、私は様々な違和感や忸怩たる気持ちを抱いてきました。これを活かし忘れることなく生かして人々が真理との邂逅を目指せる道筋の一つを提示できたら幸いです。


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如来大悲の涙

2018/11/30 22:09
「或る日の夕方、友人が送ってくれた『法悦』という雑誌を読んでいると、白井助教授の一文がピタリと私の目にふれた。 『その疑情、ハカライ、自力の心があるために、仏の声を聞くことのできぬ私を、如来様は哀れみたもうて、一念一刹那も休む間もなく、大悲の涙を垂れたもうのである』との一文に、ぼくは参ってしまったのです。この文章を通じて生きた如来様の説法をききました。さながら剣道の達人から一気に脳天をたゝかれて、ハッキリと降参しました。これでモウ充分です。ぐったりと疲れはてゝ涙も出ない有様でした。むりな病を治せとか、淋しい私を救えとか、地獄があれば見せよとか、早く信心を賜われとか、さんざんにだゞをこねて親泣かせをしていた私の自性に、気づかせてもらいました。私の求道は、結局、如来の無限の大悲で私の我慢心を破るための戦いでありました。」
伊藤康善『死を凝視して』二八〜二九頁

白井さんの文章は私も胸が熱くなります。
 「その疑情、ハカライ、自力の心があるために、仏の声を聞くことのできぬ私を、如来様は哀れみたもうて、一念一刹那も休む間もなく、大悲の涙を垂れたもうのである」
 いつか自力を無くすることができ、信心決定する未来の予定を立てて何をするわけでもなく平気でいる、その迷っていることにもきづかない暗い心を哀れみ給う御仏の憶いが確かに静かに伝わってまいります。

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一番大切なひとに、激怒したり無視したりして拗ねて甘えるのは淋しさから

2018/11/30 20:21
 本当は大切なひとに優しくしたいのに、裏腹なことをしている人たち見ているととても胸が痛みます。怒りや無視や拗ねる心の底にあるのは淋しくて甘えたい気持ちです。それを上手く表現できなくて、本人も気が付かずに、ネガティブな表現をしてしまいます。

 仏さまや親なら、それも含めて包み込んでくださいますが、それ以外の人たちに拗ねて甘えると遠ざかって行きます。よくよく気を付けねばなりません。

 大切なひとを悲しませたり、苦しめたりするために生まれてきたわけじゃありません。優しくしてもらえたのなら、それ以上のものを差し上げたら、さらにもっと素晴らしいことが返ってきます。それを知らない人ばかりで、みんなが拗ねて甘える子どもばかりがいるのが人間の世界のような気がします。

感謝していること

 研究のために資料を読み、誰かの話を聞いているとよく分かっていたと思っていたけれど、さらに深い理解が得られます。有難く感謝しております。


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全面依存(無条件降伏)していいのは親ではなく真理

2018/11/29 01:29
 モラハラ加害者と被害者は親に自分は精一杯あなたの心身の面倒はみるけれども、本当に向かうべき先は別のものであると知らされてこなかった、ある意味、気の毒な人たちです。ある程度の温かな関わりが持てはしても、これが限界だと知らせてくれるいいか悪いかは分かりませんが、平凡で善良な親を持ちませんでした。加害者も被害者も虐待や放置をされるか、反対に親から頼りにされるといった子どもらしい子どもでいられる時代を過ごしてこられませんでした。

  だから、大人になっても、親の代わりの裏切らない人間を求めます。親以上に見返りを求めないで関わる人間が皆無であることを告げられていないし、感覚としても体験がないので分からないので、見果てぬ夢を追い続けます。つまり、モラハラの加害者は大人しくて言うことを聞く被害者に我儘放題、好き放題をします。被害者は加害者の望みどおりの言動をすることで彼らが親の代わりの存在でいてくれるかもしれないという望みをもって、せっせと賄賂を贈り続けます。

 ごく一般的な親に育てられた子どもたちは、多くを望まず、喧嘩をしたり、欲望を小出しにしたりしながら、騙し騙し世間と言う実体のない倫理道徳を何の疑いもなく信じて、小市民よろしく生きていきます。多数の意見を良しとし、それに外れる人たちを汚いものを見るような目で避けたりするのがこの人たちです。

 本来、本本当に向かうべき先で裏切らないのは真理なのであり、その邂逅を生きている間に済ませないといけないとならないと、先に真理との邂逅を済ませた親やほかの誰かに巡り合える人は滅多にいません。でも、全くいない訳ではなく、真の意味で幸福なご縁の深い方です。この世は家庭でさえも、真理を信知出来ていなければ、迷いの中にいて、真の意味で生きている実感もなく、居場所はないのだと、辛いけれど真理を教えてくれる人は善い人生の先生です。そういう方に巡り合えたなら、食らいついて離れないことです。ただ、自身も本当に泥沼を這いつくばり、泥水を啜りながら、真理を求めた方なので、厳しく、妥協をせず、甘やかしや依存をさせてくれません。それでも、今生で真理との邂逅がしたければ、その厳しい環境に飛び込んでいくしかないのです。

 人並みの仕合わせな生活を送っていると感じる人も、心の底からよろこべず、真っ暗ではないですが、薄ぼんやりとした死後が気になり、人生は迷いの連続であり苦しみです。

それが、一点の曇りのない眩い光の中を、真理と一緒に旅ができる身に救われることができるのです。モラハラの被害者や加害者も人間ではなく真理との邂逅を目指せば、違う生き方ができます。それ程執着や依存が強いなら、真理に向かえば、満ち足りた人生に変われます。

 ずっと私はモラハラの加害者を非難するような言い方をしてきました。でも加害者も被害者も真理が分からず迷っている気の毒な人であることには変わりません。遺憾な気持ちです。どうか真理との邂逅を目指し、今生で一日も早く、遂げられることを念じて止みません。

感謝していること
 真理との邂逅以前の長い年月ももうすぐ10年になるその後期間も、人間である苦しみは変わりません。でも、真理との邂逅後は生死を超える道を生きることができ、今、存在しても、ここにいてもいいといってくださる目に見えないお方との未だ見ぬ光の世界への旅を楽しんでおります。


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悲しく残念な気持ちは味わい切って、そっと手放す

2018/11/17 07:10
 一度十分に味わい切らなければ、ずっと引きずります。
 こんな言動を私に対してする人を私は悲しく残念に感じているという気分を味わうのはとても嫌ですが、それを通り越さないと本当の意味で、さよならできません。
 
おそらく、嫌なことをしてくる相手というのは、その人自身仕合わせではないのです。いろいろな事情があって、他人に嫌なことを形にして表すのです。その他人とは、こいつなら酷いことをしても誰かに告げ口したり、復讐することはないといういわゆるいい人だとターゲットにした相手を見下して、甘えて憂さ晴らししているだけです。そういう人と関わっていいことは一つもありません。
その人にも事情があると考えるのは勝手ですが、それはその人の問題で、私がサンドバックの役割を引き受けることは筋違いです。自分はその学びで十分嫌な感じを味あわせてもらったので、もういいですと手放しましょう。

これが分からないうちは、モラハラの加害者に対しての被害者の役割をずっと引き受けなければならないのです。おそらくモラハラ加害者はその状態が心地よいので、被害者が逃げても、周りを探せばいくらでもいるので、モラハラを止めようとは今生では思い切れないでしょう。関わるだけ時間の無駄で不仕合せを抱え込むことになります。そんな関係を一歩出たら、別の淡々として明るい光の差す温かい場所にいることができます。

嫌な感じを剥き出しにする人に遭遇した時は、事故に遭いけがをしたのと同じです。事故に遭ったのだ、けがをしたのだということを十分認識し、二度と遭わないように避けて関わらないなど認知と行動を変えることが大切です。残念ですが、心が弱くささくれだった意地悪でハラスメントを繰り返す人たちは被害者を完全に舐めているので、力になることはできませんので、関わらないように縁を遠ざけるしかありません。
感謝していること
嫌だったこと味わい切れて、手放す決心がついたことを慶ばしく感じます。
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社会・労働改革運動家・慈善運動家とかいわれる人たちは自己矛盾に気づいているのか?

2018/11/15 17:45
 偉人といわれる人たちが、家族や身近な人たちに冷淡だった話をよく耳にします。名利が得られるなど自分の手柄になることには必死ですが、それに忙しくて、何か話をしようとしても無視や後回しにされる例を沢山見聞きしていました。身近な人ほど大切にしなくてはならないと私は感じます。それらの人たちを自身の活動のための手足として当たり前のように感謝せずして遣うような態度には大いに疑問を感じます。だから、私の周りにいる社会運動や何らかの障害を持ち生きづらい人たちや動物たちを支える活動をしている人たちに対して、私は引いた立場から冷徹な目で見ています。

 何らかの事情で困って、生きづらい人たちや動物たちを助けることを悪いとはいいません。それでも、自分が関わっている以外で苦しみ悩む人たちに対して、同じように助けたいと感じるかどうかは疑問です。身近な例として、自分の家族やペットは大切にするけれど、内部の教え子や関係者にハラスメントをする教員や活動家もいます。確かに自身の興味の範囲での救済活動をしたり、研究者として論文やほかの文章で、同情心のあるものを書いているけれど、学会などで理路整然とした矛盾のない発表ができるかもしれないけれど、それは違う気がします。

 私は有縁の方々に生死を超えること、生死出づる道を話して、実際その体験をしていただくことはしますが、ほかのことには無頓着です。さらにいうと、冷淡というより無関心の域にあります。短い人生で自身のできることは限られているとある時から割り切っています。

でも、そんな中、身近な人たちに、助けて欲しいと言われたら出来るだけそれに添うことをしています。普段は自身の使命であることを中心に生きていますが、ほかのことにも目配りだけはして、自身ができることはさせていただいています。私は俗にいういいひとではないので、できない事はその場できっぱり断ります。でも何かしら力になれそうなことは一緒に考えます。それでも、表層的な手伝いではなく、根本的な解決を目指すために努力します。自分の関心事以外に普段は無関心であることを自覚しつつ、それでも何か頼まれたらさせていただくスタンスです。

 何を今、一番大切にしなくてはならないのかを熟慮し、今何をすべきかを常に見極めた言動に心がけなければならないと最近はよく考えます。

感謝していること
できることを淡々とさせていただきながら生きられることは有難いと感謝しております。
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この世の救い

2018/11/13 21:48
この世の医者でも、命が助かるように全力を尽くします。彼らは、日々医療技術や理論等を研鑚します。それなのに、臨終や後生が苦になる人たちに対して、自力をすてて、他力に入る話を説き切ることを学ばず、安穏とした日々を過ごしている人たちに対して私は憤りを感じます。
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そもそもチャンネルを持たない人たちがいるという驚き

2018/11/11 23:00
 首都圏や大都市圏以外の人たちの場所にはテレビの民放が2つしかないところがあるということを九州のとある県出身の人と話していて二十歳前にひどく驚いたことがありました。私が住んでいた地域の民放は、4,6,8,10,12とその当時5つありました。同じ日本でも場所によって差異があるのだと知りました。

 最近、異なる考え方を持たないと、わからないことがあると書いてきました。視点と言い表してもいいし、チャンネルを持つという表現でもよいのかもしれないと、今日ある人と話していて感じました。「チャンネル」もしくは、「引出し」でもいいかもしれません。これを持つ人とそうでない人では違ったものの見方をし、違った生き方をするのでしょう。

 自分が生きていることを誰が認めてくれるのかという問いに、仏さまや、ほかの大いなる真理の存在があるのだというチャンネルや引出しを持っている人とそうでない人とでは異なる生き方をします。元気で仕事もあり活力が漲っている時はいいですが、心身の病のため仕事も思うようにいかず誰も信じられず、内に籠ってしまっている時に、、「チャンネルや引出し」があることを思い出すと回復の鍵になります。そういうこともあるのだと思い出せただけで救われます。欲を言えば、チャンネルとチューニングして迷いから目覚め、引出しを開けて、中にある大切な薬を見つけて飲み病が全快したら、それに越したことはありませんが、かなり難しいです。御縁の深い人でないとなかなか叶いません。

 悩み、苦しみを同じ次元で、侃侃諤諤といろいろ頑張ってみても、烏合の衆である私たち人間には根本的な解決はできません。願わくば、真理があることだけでも知り、邂逅を果たされることを念じてやみません。

感謝していること
 12月28日に今日お逢いした方のところに伺う約束が取れました。
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全く別の異なる視座

2018/11/09 23:20
悩みはグラデーションだけ違う同じ視座を持つ人の間では解決できません。そこを既に抜けた別の視座を持つ人がまるで魔法のような解決方法をスッと出してくれます。同じ枠内の考え方のメンバーでいくら頑張っても、グダグダの泥沼になるだけで、さらに事態は悪化します。
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あげばをわすれたり

2018/11/03 07:19
親鸞聖人の御和讃が余りにも素晴らしくて何も言葉が出て来なくなってしまったと蓮如上人はおっしゃいましたとご一代記聞書にあります。

 中興の祖として日本全土に浄土真宗を広められた蓮如上人の宗教家としてのご布教の能力が優れていたばかりではなく、阿弥陀仏や祖師聖人を尊く感じていらっしゃったことが垣間見れるエピソードです。

 このように先日の公開講座で教えていただきました。

 先生は続けておっしゃいました。

「私を含めてこの中には僧侶の資格を持つ方もあるでしょう。蓮如上人のこのような気持ちも忘れずにいてください」

 実際、本物の室町時代の御文章を拝見できたのも嬉しかったですが、先生のこのお言葉が有難く勿体なかったです。


 蓮如上人の御文章の聖人一流の章がの仏の方より」のところで言葉に詰まってしまった現代の行信校の学生のことを思い出しました。

感謝していること

 尊い方たちとのお出合いに感謝します。本当に心が洗われる気がします。

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所詮、夢幻の世と信知できたのだから、そこで快適に過ごす道を行けばいいだけ

2018/10/27 23:49
 全てを真理に委ねて、後生はおまかせなのに、私は全力疾走を止められずにいました。ふと、全力で取り組むやり方とは異なった視座を持ち、にこやかに優雅に生きてみてもいいのではないかという考えが浮かびました。全力で遊びのない生き方は自分ばかりではなく他人も疲れるかもしれません。怠惰なことを恥じ、時間内にできるだけの用事を詰め込んでこなしてきました。しかし、これがよかったのかは、私があまり気分がよくなかったことが多かったことからも違う気がしてきました。どういうやり方をしても結局は同じなのかもしれません。

 嫌なことと遭遇したら、それは嫌なことなのだと感じ、それがどんなふうに嫌だったのかをしっかり味わった後、いい勉強をさせていただいたと感謝できるようになって相済みなのかもしれません。私はやっと嫌だと感じられるようにはなり、嫌だと口にすることができるようにもなりました。そして、ただ、人間という入れ物を持った私が嫌なことを経験することで、真理との邂逅の話をするとき、認知的ではなく、情緒的に他人に対して共感、受容できるように少しは、なれたことに感謝できることも、徐々に増えてきました。最終的に、メタ認知の視座にまで落とし込めたら、そこで本当にその体験を手放せるのかもしれません。痛みを伴いはしますが、より、鮮明にきづく体験をさせていただいたとでもいうのでしょうか。三次元でしか体験できないものなのでしょう。

 しかし、同じ身体を持つことでの体験なら、嬉しいことや楽しいことを選んで、夢中になり、それを周りの人と慶び合うことを今後は選んでしてまいります。完全に他人を理解するのは難しいでしょうが、重なり合う部分が多い人を選んで、より多くの時間を接するようにしていけば、あまり嫌な気分にならないかもしれません。試していきます。

感謝していること
 合う人とは合う、合わない人とはどんなにたくさんの言葉を用い、時間を費やしてもすれ違い、傷つけ合うということを実感することができるようになりました。有難いです。
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海外の日系人社会の宗教的要請ついて

2018/10/21 12:35
この10月にブラジルとアメリカ西部の日系移民の地区のお話を聞く機会がありました。
 日系人の外の現地人が、日本の仏教を知りたいと思っていらっしゃることに驚きました。文化的側面ももちろんなのでしょうが、教えそのものも聞きたいと思っていらっしゃる方もあるのかもしれないと感じました。
 シアトル在住の研究者の方と奥さまとお話しして、来年の2月に渡米してお話しさせて頂こうかという話になりました。「信心の話をしたい。信心を獲得したい」というお気持ちでいらっしゃる宿善(仏縁)の深い方々が、このご夫妻の外にもいらっしゃる気がします。二世、三世の方々の明治時代の気骨のような真摯なお姿を仰ぎつつ、私ができることをさせていただきたく存じます。
感謝していること
 仏縁の深い方々との尊いお出合いに感謝いたします。
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自分の仕事を淡々としている周りの人たちがいい!

2018/10/20 10:25
 私には生き方が好きなひとが結構います。

 いつも、いいなって、羨望の目で見ています。

 特に今まで苦労してきたひとたちがいいです。

 その中のある方は私同様言葉のことで大変なおもいをされてこられています。
 だから、何となく気持ちがわかる気がします。

辛かったら泣いちゃいます

嫌なことされたら許さなくていいです

早く終わらせなくちゃならないことなら、止まっちゃダメ

お金は貰えない人からは受け取らない

 こんなことを言葉や潔癖で真摯な態度で教えてくださいました。お目にかかったことはないですが、奥さまも素敵な方なのでしょう。

 別の方は、とっても分かりやすい上に優しい気持ちが入った解釈がふんだんにちりばめられた講義の中で、失敗したことや太っちゃったり髪の毛が遺伝的にやばいなどといった自虐的なことも含めて笑わせてくれたりします。でも、そんなことも含めて、たぶん、どうしても、学生に伝えたいことがあるのでしょう。論文も拝見しましたが、無駄がなく読みやすい文章でした。講義同様、要点は網羅されていました。見かけは本当に清潔感溢れる素敵な方で妻子にも恵まれていて、毎日乳児の女の子の成長に目を細めるお父さんでもあります。

 もう一人、今年公務員を定年退職された方を私は本当に素晴らしいと感じます。途中、役所に行けなくなったり、大病の中に今もあります。いつも笑わせてくれ、優しい心遣いを常にくださいます。やせて弱った姿を見せたくないから見舞いには来ないでほしいと言われます。でも、私はほかの人に対してもそうですが、いつも魂の雰囲気を感じて対話しています。だから、見かけなど気にしないで、一秒でも長生きしてください。見た目や仕草が可愛らしいのはペットです。上手にしゃべれなくても、痩せようと、太ろうと、髪の毛の状態がどうだろうと私には余りそれらのことはどうでもいいのです。存在そのものをひととしてリスペクトしています。

 ただ、私の周りで一生懸命生きている姿を見せてください。励みになり、見習わせていただきたく存じます。私よりも元気で長く生きていてください。

感謝していること
 怠惰ですぐにくじけそうになる私ですが、周りの方々が真摯に潔癖に素敵に生きていらっしゃるのがとても有難いと感謝しております。
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尊いご縁

2018/10/20 10:17
気持が打ちひしがれて、どうしようもなく辛いとき、仏縁の深い方とのお出合いのセッティングが設けていただける気がします。今日私がお目にかかったご夫妻が一日も早く信心を賜れますようお念じ申し上げます。

When my feelings are overcome and it is hard for me to feel hard, I feel like setting up a meeting with deep buddha people. I wish that the couple I am seeing today will have shinjin as soon as possible.


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悲喜交々の人生を生きて

2018/10/17 17:41
 圧倒的に辛く哀しいことばかりの人生でした。

 ある時点から、生きていていいと願われていることがハッキリわかりました。それからの人生を故郷に向かって一緒に歩いてくださるお方との二人旅が始まりました。しかし、同様にどうしようもなく辛く哀しいこともたくさんありました。それでも、私は生きていていいし、いつも一緒にいてくださる方がいてくれる仕合わせを常に感じていられます。今もどうにもならない悲しみを乗り越えながら、私はそれが自分の学びだと有難く受け止めて、一歩ずつ浄土への二人旅を続けています。

 あまりにも行く先が光り輝いているので、今は思い通りにはならないし、良かれと思ってしたことも裏目に出て、本当に理解し合える人もほとんどいない中、生きていられます。限りのある命の、智慧のない凡夫が、人間界で過ごすのは本当に泣きたい気持ちをこらえながら、何もできない無力さに打ちのめされることの繰り返しです。

私は人間が究極的な迷いを抜けることにきづくことに重きを置いて、社会福祉や動物愛護や心身の疾患を持つ人たちへの援助などに時間が割けません。どちらかといえば、淡白で無関心です。全てに全力を傾注する能力や時間は持っていません。残念ですが、自分の関心があることにしか心が動きません。それが私の限界だということも悲しいことだと感じます。そのようにしか生きられません。開き直っている訳ではありませんが、できることを真摯に一瞬一瞬させていただくしかありません。おそらく私の残りの時間はわずかです。その時間を大切に過ごしていく所存です。

感謝していること
 未来が明るい、いつも尊いお方がご一緒してくださっている。これ以上のことは望めません。だから私はいつも仕合わせです。


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私が生きていていい理由は仏さまがそうおっしゃるから

2018/10/12 21:29
あなたにあえてよかった。
お浄土へかえる旅の間中、
ようこそ人間に生まれてこられた。
私の誓いを疑いなく信じ、御恩報謝の日暮しの中にあるあなたは尊い方だと、
いつも仏さまは、褒め、励ましてくださいます。
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最期にきちんと死ねることが私たちの生きる意味

2018/10/07 19:39
 きちんと死ぬためには、きちんと死ねるようにする力のある方にまかせるしかありません。それなのに自分の力で何とかしようとするから、生きている間中苦しくて、ほとんどの人達は、きちんと死ねないで後悔する最期を迎えます。
 他の事は出来るかもしれないけれど、きちんと死ぬことは絶対に人間の力では不可能だから、真理に身をまかせるしかないと教えてくれる人に出合えたならこんないいことはありません。その人自身もみをまかせて、きちんと死ねる身であるなら、共に救われたら、よろこべるようになります。だから、生きる意味はきちんと死ねる身に救われることです。
感謝していること
 きちんと死ねる方法は、自分の力を全く手放し、真理に身をゆだねることのみだとハッキリ知らされたことは尊く有難いと感謝しております。
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私の重い苦しみを全部背負ってくださるお方

2018/10/05 22:01
 真理との邂逅の後、私はずっと一人ではありませんでした。常に護られていて孤独ではありません。一度だけ忘れてしまい、本気で死のうと思いました。でも、ふと、私がお願いしたわけでもないのに、自分の足で歩けない私を不憫に感じて、その私の苦しみを背負ってくださっているお方の存在を思い出し、思いとどまりました。私は重い苦しみを持って生きている、その苦しみを引き受けてくださるお方である仏さまがいらっしゃったのだと知ってたことが、人生の分かれ目でした。それからは何が起きても、どうせ私は智慧と慈悲の光明の中にいるのだから大丈夫だという感覚が続いています。

私には誰かを救済する能力はありません。でも、真理との邂逅の方向を示す事は出来ます。同じように救われた人となら、憶いを共有できるでしょう。人間として全てを分かり合うことはできません。分からないけれど、自分の苦しみが重いように、また私には何もしてあげられなかった人の、その苦しみも重いものだということは分かります。自力を手放し、他力に救われることを願って止みません。

羽振りのいい時、順境の時、周りにたくさんの人が集まります。逆境の時、不遇な時、誰も周りにいなくなります。そんな時でも傍にいてくれる人が本当の友だちです。その友達も一緒には死んでくれません。同時に死んでも別々の想いの中で死にます。最後まで一緒なのは仏さまです。

私は攻撃されたり、利用されるのが嫌で逃げ回っているような臆病者です。それでも、私を傷つけないでいてくれるなら、何かお手伝いができるかもしれません。死ぬことは怖くないのですが、人を傷つけ、身心を殺すことで誰かが助かるとは思えません。そこが命懸けで助けると誓われる仏さまと違うところです。残念で悲しいですがそれが人間の限界です。

感謝していること
今日も仏さまとご一緒できていたことが有難く、感謝しております。
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この世で帰る場所、死んで還る場所

2018/09/26 09:51
 この世で帰る場所は生家でしょう。両親が他界するなど何らかの事情で帰る家がない人は本当にお気の毒です。私が死んで還る場所はお浄土です。お浄土がどういうところかはお経で書かれている以外には分かりません。行ってみたら、本当はそういうところではないかもしれません。でも全部仏さままかせなので何の心配もしていません。本当は仏さまといろいろお話ししたいところですが、還ったら、休まずすぐに、別の私が働くべき場所に赴きます。苦しんでいる人が無くならない限りお休みにならない仏さまのお手伝いの真似事をさせていただくべく、ただそれだけで存在しておるのだと最近は感じます。仏というのが何となくしっくりこない方は真理と置き換えていただいてもいいです。
感謝していること
 今日から講義が始まります。大学院で学生としていろいろなことができることに有難く感謝いたします。
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この世のことは自分軸を持ちメタ認知が出来たら何とかなるけど、あの世のことは仏さままかせ

2018/09/25 23:47
 人間の煩悩からくる心理的な悩みは自分の内側に軸をしっかり持ち、耐えられない時は高みから自分を見下ろすような客観的な考え方ができれば、不治の病に罹るとか、不慮の事故に遭うとか、殺されない限り取り返しのつかないものである死は免れます。

 死の解決だけは自分の考えをスッカリ抜いて、止めて、疑いなく仏を信じるしかありません。メタ認知も思考ですから、それも捨てないとなりません。口にただ念仏を称えて、信じた振りをしていても、心のどこかで助かったのか助かっていないのか不安だったり、死後が気になって恐怖に怯えている内は本当に仏さまにまかせたとは言えません。ほんのわずかでも仏さまの願いに対して疑いが残っていても、迷いの六道からは抜けられません。また迷いのサイクルを繰り返す道が待っているだけです。悟りからは程遠い状態です。要するに助かったか、そうでないかだけです。間はありません。厳しい世界なのです。

 ターミナルケアで仏教を話すということは、こういう厳粛な事実をそのまま語ることになります。耳触りのいいことを言うのはうそをつくことになりますので、それはできません。本当の事を言うのは、多くの人が考える緩和ケアではないです。臨終の人に、仏さまの願いに対して疑いを持ったままだと救われません、落第ですと告げるのですから。話す方も聞く方もかなり厳しいです。臨終ぎりぎり間に合えばいいですが、間に合わない時は、また人間に生まれてくる時まで悟りはお預けです。それがいつになるかはわからないから「後生は一大事」なのです。

 昏睡状態の臨終の患者が突然意識を回復して、周りの人たちに対して「有難う」といって涙を流したとしても、それは救われたかどうはわかりません。きちんと仏教の話ができて、どのように有難いのいか、仏さまの願いへの疑いが晴れ、仏さまに完全におまかせの身になったのか詳しく聴くことも臨終の苦しい息の内では困難です。にこやかに息を引き取ったとしても、それが救われた姿かどうかは判断しがたいです。信心を獲得でいたか否か、それを判断できるのは自身も求道の道のりを歩き、真仮の水際を突破して、何人もの人に仏さまとのお出合いの直前までお手次で来ているひとです。

 誰でもが救われますが、今生に救われるとは限りません。いま、ここで救われますが、それは簡単ではないのです。仏さまの願いに対して疑いが一切なくなったときにだけ救われます。
感謝していること
 煩悩で欲しい、憎い、可愛いのは死ぬまでなくならないですが、仏の願いに対して疑いがすっかり晴れて、後生は仏さまにおまかせできたことは有難いと感謝して居ります。
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聴聞

2018/09/24 22:10
「往生を全部おまかせしたお方との二人旅を命が終るまで精一杯させていただきましょう」。このような尊い御説法を聴聞させていただきました。
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