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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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結婚はモラハラ目的ではなく、お互いをありのままに受け要るためのもの

2018/09/17 18:10
 余計な執着や比較を持つ人と、それを超え、そんなことでは安寧満足の内に生きられないことにきづいている人とでは住む世界が違うのです。だから相交わることはありません。途中で片方がきづいた場合、モラハラは逃れられますが、きづかない相手と違う世界で生きることは一種の修行のようなものとなります。その修行で一生を終えるか、別の環境で自分が成すべきことをするかは思案のしどころです。
 
同じようなきづきの内にいる人と一緒にいることが情緒の安定をもたらし、トラブルも避けられます。それでも、何とかきづく方法があるのではないかと、私は模索しています。最近は、真理との邂逅がそのカギを握っているような気がしてなりません。この真理との実践事例を集めて、なんらかの道しるべが確立できたら、人間同士もっと優しく暮らせる気がします。研究はまだ端緒に就いたばかりなので、まだ見通しがついていませんができることを粛々としてまいります。

感謝していること
何かの渦中にあるのではなく、客観視した時、はじめて研究が始められることにきづきました。有難いです。
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ひととしての真摯さや矜持を持つことを頑なに拒否するモラハラ加害者の生き方

2018/09/17 17:43
 自分自身をメタ認知できる能力があり、どうするか選べる知恵を持つ人達には、罪悪感を感じるのを拒否する生き方を選べます。
そして楽に楽しく生きる方法として、他人に虐待し、責任を押し付け続ける生き方を選択します。こんなことをすると自分自身の魂を何者かに売渡し、真理からどんどん遠ざかる気がします。それでも、そうせざるを得ない状況に追い込まれた人達は、他人を虐め抜き、自身の責任を押し付けることでこころの安定を図るのです。罪悪感から逃げるには、自分の罪悪感を肩代わりしてくれるような、被害者体質の人を常に側に置いておく必要があります。

このようなモラハラ加害者体質にも一応は良心というものがありますが、その良心を感じると苦しいので、自分が好き勝手しても、反撃してこない獲物を見つけると、上記のような態度を繰り返すのです。

被害者側が、何とか罪悪感を与えて、改心して欲しいと願っても、劣ったものと見なして、馬鹿にしているのでそれは叶いません。モラハラ加害者はあらゆる屁理屈や信じられない言い訳や嘘で、罪悪感を巧妙な手口を使ってすり抜けるのです。

できれば、逃げられなくなる状況に陥る前に、モラハラをするような人たちとは距離を置き、関わらないのに越したことはありません。それでも、モラハラ加害者は、被害者を確保する手立てにおいては優れた能力を発揮します。加害者は、モラハラをしないでは生きられないので、それは死活問題だからです。もうこれで大丈夫だというとき、婚姻届を出したとき、もしくは子どもが生まれた時など、一番愛情を分かち合える時に、豹変します。モラハラ加害者はモラハラをするために結婚して、子どもを釣るのです。周りの人たちは、なぜ、そんな幸福絶頂の時に別れたり、するのかといぶかりますがそういうことです。

世の中にモラハラなど無くなり、自分が自分らしくありのままで真摯に矜持を以て生きられるようになることを私は願って止みません。

感謝していること
執着や他人と比較する感覚がどんどん薄れてきて、モラハラに対する抗体が高まってきた気がします。有難いです。
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一緒にいて消耗する人とは距離を置く癖をつける

2018/09/16 22:40
 特別、なことをしてくれる人なんて要りません。
 相手が、気分の悪くなるイレギュラーなことをしてくれなければそれでいいです。
 
何か聞いて、もし知っていたら、それに対して真摯に応えてくれる。
 知らなかったら、知りませんとだけ答える。もしほかに知っていそうな人がいたらそれを紹介する。とても簡単なことです。
 誰かの何かの役に立てるならよろこんで、自分の知っていることは私は伝えようとしています。
 
 何かの集まりを呼びかけた時、とても嫌なことがあります。
 たとえ、リタイア後の人であったとしても、誰も暇な人はいません。
 みんな時間をやりくりしています。
 ただ、空いている日を言えばいいのに、予定を変更したので行けます、大丈夫と言ってくる人いますよね。その言い方は、今後は、止めた方がいいです。
 忙しいのに、わざわざ時間を取ってやっているという、嫌な感じがします。
 他のことの方が大事だけど、時間を作ったからという恩着せがましい感じを他人に与えるということが分からないのでしょうか。分からないなら仕方ありません。
 
 今目の前にいる人に対して、上から目線で低く扱うこと、負い目を感じさせること、疎外感や、仲間外れなどしている人は尊敬されません。スウーっと人がいつの間にか周りから離れていきます。同じように他人を大切にしない表面だけいい顔をする人が寄ってきて、気持ちの裏を読んだり、駆け引きや損得勘定でしか付き合えません。それが刺激的で楽しいなら、死ぬまで続けてくれて結構です。私はずっとそういう自分が消耗することを避けてきてし、これからも関わりません。

 消耗しそうだと感じたら、引いて距離を取る癖をつけると、案外気分良く過ごせます。お試しあれ。

感謝していること
 8月からの日本や海外のフィールドワークなどより帰国して10日ほど経ちます。昨日まで論文に取り掛かっていたので、休んだ気がしませんでしたが、これからはしばらく、家でゆっくり休めそうです。好きなものを食べて、バスタブにつかりながら、いろいろ考えようと思います。休息がとれるのは有難いです。
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傾聴的カウンセリングと信心の沙汰の関係性

2018/09/15 14:39
 生まれてから今に至るまで、ずっとですが、私は人間の煩悩の喜怒哀楽にさほど関心がありません。醒めた目で世の中を眺めてきましたし、ずっと変わりません。どうせ今生、後は死ぬだけなので、私にとっては、何もかもが、どうでもいいのです。ただ、例外として、親しくしていた身近な人が死ぬという最悪の事態だけは耐えられません。どうしても執着してしまいます。他はなんとでも取り返しがつきます。生き別れになったり、絶縁状態であっても、プツンとキレた糸はまたつながることもあるかもしれないし、つながらなかったらそれは縁がないと諦められます。でも、真理との邂逅を済ませ、よろこびの気持ちを分かち合っている人が死んでしまったら、リアルタイムで、もう姿を見ることもできないし、声を聞くこともできません。これほど悲しく辛いことはありません。

  自身が今死んだらどうなるのだろうと物心ついた時から気になっていて、それをずっと思い悩み解決できた経験があり、それ以後は、同じように死の解決をしたい人に話をしたり、文章を書いて余生を送っています。私自身は、相変わらず、世間の人たちが好むような喜怒哀楽に対して弱い関心しか持てずにいます。死の解決が済んだからといって、急に人格が変わり、いい人になる訳ではありません。反対に、特別、薄情になることもありません。以前とあまり変わりませんが、強いて言えば、人が死ぬこと以外は執着が減り、淡々とした水のような関わり方をだんだんに好むようにはなりました。

 こんな状態であるにもかかわらず、死の解決の話をしようとすると、ほとんどの人がいきなり本題に入らせてくれません。まず、心理的もしくは人間的問題を口にします。私は内心どうでもいいのにとか、これが解決しても別の問題が惹起するだろうと聞いています。「黙れ」とか「聞きたくない」というのは自分がされたら嫌だし、関係がそこで終わってしまうので、とりあえず聞きます。もし、自分がこのような事を言われたら、モラハラの被害を受けたと捉え、その人との信頼関係が終わり、即座に距離を置くので、私はよほど腹に据えかねる場合で、自分から縁を切りたいとき以外は、絶対に口にしません。

  そして、話している内に、心理的・人間的問題は、本当は軽い類の問題であると、話した人は何となく気づく人もたまにいます。私が、それらよりももっと深刻で今生で息が切れるまでに解決しなくてはならない死の問題の方向を見ているからなのかどうかは分かりません。対話を重ねていき、どういう方向でこの人と関わろうかとその都度考えます。

対話は大切だと感じます。特に初めのうちの傾聴を経て、相手がどんな人か知るところまで関わること抜きにはその先に進めません。例外として、いきなり仏教の話ができた人も何人かいました。そういう人たちとは今でも深い信頼関係が継続しています。これは例外であって滅多にないことだと今更ながらに知らされます。

私としては、人間同士の関係は、深くかかわることをあまり望みませんので、あまり気が進みませんが、自分がずっと悩んできたことが解決できたので、それを望んでいる人は放って置けません。本当にうっすらと使命感はありますが、私は妙好人ではないので、いい人じゃないし、いい人にはなれません。死の解決を話すことは趣味でも生き甲斐でもありませんが、ほかに何もしたいこともないのでさせていただいています。死の解決を望んで話してくれと言ってきた人に話し、成就した瞬間だけは達成感がありますが、その人たちの煩悩が無くなったわけではないので、じきにいろいろ文句を言いだしたり、一緒にほかの誰かに対して話をしたいとも言い出さないことに対して、こんなものだと薄い関心しか持たなくなります。余り感動的な話じゃなくてすみません。

感謝していること
 死の解決ができただけで、それだけで、私は、今生は常に安寧の時間を過ごしていられるので満足だと有難く感じております。


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宮本常一の対話・文章にみた、ざらざらごつごつして何か引っかかる感覚

2018/09/14 09:23
 私はインタビューよりも何倍ものカウンセリングや布教(信心沙汰)での対話をしています。自分でいうのもおかしなことですが、私は、おそらく、インタビューアーとしてよりよく質問し、聴けるのではないかという感覚があります。
 
従来のカウンセリングのやり方といわれる、ただ傾聴するのみの在り方であるならば、私はカウンセラーには成り切れていないかもしれません。対話というのは相手の言うことに応じて、応答していくものです。しかしながら宗教カウンセリング、及びスピリチュアルカウンセリングにおいては、ある一定の方向性があるのです。それは真理のようなものとの邂逅を目指し、自力を徹底的に排除していく過程なのです。

一般の人間の悩みである人と人の関わりや愛着や貧・病・争は、本人が自分の内面から引き出す従来のカウンセリングでも間に合いますし、そのようなカウンセリングの態度が良い場合も多いです。
しかしながら、生死いづべき道や人間存在としての悩みは自分の中に解決方法などありません。自分ができることがあるとすれば、真理のようなものの存在を知らせてもらい、ただ自力を手放すこと一つです。これはできることというよりも、出来ない事を知らされ、真理のようなものにゆだねるやり方です。相談者の内面にあるものを聴き続けても、それは相対的なことで栓がなく、延々と限りなくエンドレスな状態です。それから抜ける智慧を宗教は示すのです。

宮本常一という民俗学者がいました。彼は人の話を聞き出すのがとても上手でした。相手の懐にするりと入り込んで、ほかの人が聞き得なかったことを聞き出しました。インタビューといっても対話です。対話は相手との相互作用なのです。話す方は相手がどこまで自分の話を聞いてくれるか常に見極めます。話しながら、次に話す内容を考え、少しずつ小出しにして、理解してくれたなら、その先を話し、そうでないなら別のもっと浅い話をするか話題を変えたりもします。
学問の世界には質的調査というものがあります。量的調査という多数の人に行うインタビューやアンケートとは異なるものです。ある個人とじっくり関わり話を聞いていくものです。そのとき聞き手が器の大きい何でも受け入れてくれるそう経験豊かな人であるか、大学を卒業して、大学院に入りようやく研究者の道に入ったような社会経験も内容な人とでは、話し手の放す内容はおのずと異なることは当然です。

人文科学において、有用な仕事を残す研究者もしくはカウンセラーのような仕事をする人は、大きな器で研究対象や相談者を否定せずに受け止める度量・器量ある人です。これは訓練というよりもその人の生まれ持った才覚や気質が大きく関係するので、ある一定のレベルからはその才能の有無で進めなくなります。そのときに別の道を行くか、しがみつくかはその人の考え一つです。

才能のある人の話や書く文章や対話の内容は滑らかな美しいものではなく、ある意味ざらざら、ごつごつしたひっかかりのあるものであることが、多くの論文を読んで、もしくは対話を重ねて、きて分かり始めたところです。換言すると、このひっかかりが分かるということは、自身がそのことに深い関心を持ち関わろうという意思の有無であります。文章や対談でひっかかりをある種心待ちにして探してやろうという楽しみがこの頃は出てきました。これが研究の醍醐味なのかもしれません。

感謝していること
 論文を書いていて、結論がなかなか見つからなくて、あれこれ寄り道をしていましたが、その中で何か一筋の道が見えてきました。有難いです。
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真理とは縁がある人にしか響かず、縁のない人は知ることもない

2018/09/12 23:54
 これは厳粛で納得できる理に適う事実です。

 まず、縁がないから、ある人たちにはやって来ないのです。

 仮に縁が側を通ったとしても、敢えて嫌って避けたりすることもあり、きづきません。

 何かの拍子に真理の書いてある文章を読んでも、自分に関係のあることだとは感じられず、表面でしか意味が取れずにいて後々まで残りません。同じ文章を読んでも、受け取り方は千差万別であり、そこから学ぶ人もあり、怒りを感じる人もあり、何も感じない人もあるのです。


 この世の中は本当にそれぞれが求めるちょうどいい程度のものを、受け取ります。

 逆に言えば、縁が来たならばどんどん流れに沿って、真理を受け取り、その意味が教えられる訳でもないのに分かってきてしまいます。

 これを不平等と感じるか、摂理の在り様と捉えるかはひとそれぞれでしょう。それ程、縁というものは不思議なものであり、また有難いものでもあります。


 この世は、人間の世界というものは自分がしたことが全部報われる世界ではないことがだんだん知らされてきました。ほとんどの人は過去世も未来世も信じないので、今生で自分のしたことが返ってくると期待します。過去世でまいた種が表せれること、今生でまいた種がずっと後で芽が出ることなど思いもよらないのでしょう。

 善いことを続けて行っても、誤解され、お節介だと嫌われ、何もしていないのに疎まれることの方が多いのです。釈尊でさえ謗る人や無関心の人もありました。従兄弟の提婆達多に至っては釈尊を仇のように憎み殺そうとさえしました。

 こういう不条理なことが横行する人間の世で、自分のしたことが報われるのは一部のことでしかないことを皆薄々感じていますが、表立って大きな声で言うのは憚ります。だから、今は辛いけれど我慢したら人も環境も変わると辛抱して苦しむ人が出てきます。そういう人には、もう我慢しなくていいから、自分に合う、自分が学べる別の環境を探したらいいと言ってあげたらいいです。我慢強いばかりに暴力や暴言の中で真理との出合いも出来ずに今生を終わってしまうのは残念ですから。

 私の蒔いている真理との邂逅を促す種は、一向に報われないかもしれないし、誰も読まないかもしれませんが、それでも一人でも誰かが何かを感じてくれたらいいと諦めずに続けて書かせていただいております。

感謝していること
 今日は聞法会館の昼の御法座に参詣して、その帰り、売店で論文の資料になる新刊本を見つけました。有難いです。


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言葉では伝えられない・伝わらないその先のこと

2018/09/12 09:39
 相互に受け入れる気持ちを持った者同士が、互いの言葉を以て、そのままのありのままの透明な自分を出し切って、受容し合い、共感し尽くしたところまでの話し合い、もしくは、カウンセリングすらなされることなく多くの人の人生が終わっていきます。欲や怒りや愚痴である煩悩の話ならいくらでもできますが、それは取りとめも栓もなく一時の満足をもたらす夢物語であったことをその終焉で人間は思い知らされます。

毎日が多忙で、次から次へとこなさなければならない仕事や時間に追われる現代社会の中で、誰かと真摯に関わり合い、胸の内を洗いざらい打ち明けることもないまま、何のためにどこに向かって生きているのか分からないまま臨終を迎えます。自宅あるいは病院の寝床の上で、はじめて人はその人生を振り返ることになります。事故死や突然死でなく、不治の病を患い病床にある時になって、やっと人は自分の人生と向き合い、自分がしたことを振り返り、次に自分はどうなっていくのかに心がかかりはじめます。

そうなったときに、どんなに言葉ではわかり合えていたと感じていた誰も一緒に死んでくれる訳でもなく、蓄えた財産や知識は何も間に合わず、自分この先どうなるのだろうかという自身の「存在そのもの」の悩みに直面するのです。それまで悩みは生きるために「何を持つ」かの問題であり、「存在そのもの」の悩みは陰に隠れている人がほとんどです。「何を持つか」の自他の競争に精力を傾け、それに終始します。ただ、生きること、今のルーティンワークをこなすことしか考えにないので、何のために生きて、死んだらどうなるのかなどは考えず、見ないようにします。そのつけが臨終に突然やってきて、多くの人は狼狽え慌てます。

そんなとき、身近な親しい誰かやカウンセラーなどが話を聞いてくれようとします。今まで時間がなく話を聞いてもらえなかったので、「何を持つ」かを必死になってきた人生を振り返り、話をします。話を十分に受け入れてもらったとき、自分が本当にしたかった話は「存在そのもの」の話であったことにきがつきます。友人・知人や宗教家ではないカウンセラーは、死を目の前にした人たちの「存在そのもの」の話ができる専門家ではありません。「存在そのもの」への悩み、不安は言葉にならない、言葉を超えた真理もしくは宗教的な領域であるので、その専門家にゆだねるしかありません。

しかしながら、十分に「何を持つ」か必死に生きたことを誰かに話し終えてからでないと、「存在そのもの」の悩みに行きつかないこともあります。それゆえ、話を聞いてくれる近しい人やカウンセラーの存在の存在価値があるのです。「何を持つ」かだけを聞いてもらっただけで満足する人もあります。それはそれで構いませんが、その先の言葉も及ばない分野は専門家の仕事です。それにきづくまでの十分な話し合い、分かち合いを家族や友人、もしくはカウンセラーは担うことになります。仏教で真実に至るまでのものを方便と言いますが、そのような役割であり、これはこれで大切なことであり、ここを通らないと「存在そのもの」の悩みがあることを知り、それを解決するところには到達できないのです。

臨終のその最期にいきなり「存在そのもの」の悩みは、突如姿を現しますが、そうなる前に、平生元気な時に、その悩みを真理との邂逅を果たすことでできます。臨終はそれができる最後のチャンスですが、そこまで延ばすことは、悩みを取り去ることができない内に命が終る可能性のあるとても危険な賭けのようなものです。

どうか一日も早く、「何かを持つ」悩みから「存在そのもの」の悩みにシフトし、その悩みをスッカリ晴らして、残りの人生を送られることを念じて止みません。
感謝していること
 「存在そのもの」の悩みは、真理との出合うことで、全てをゆだねられたときに、驚くほど速く見事に跡形もなく消えます。臨終までに間にあったことに感謝します。
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日本が誇れる公設の水道技術

2018/09/11 12:54
 そのほとんどを地方自治体が担う水道施設の高度な技術の有り難さを海外にいる時に実感します。海外旅行に行くとき水を持参します。そして帰る時までに使い切るということを繰り返してきました。フィリピンではホテルにミネラルウォーターが常設されていて、水を買うことはありませんでした。持参の水もあまりました。中国では列車の移動などもあり、そこには熱湯しかありませんでした。だから途中、1元の550mlの水と、帰りの船のために4元の4ℓの水を二回買いました。船には水があり、少し余りました。

 私が旅行した海外の国で日本人の私が蛇口から水道水が飲める国は少ないです。そのためいつも大き目のスーツケースに炭酸入りのミネラルウォーター何本か入れていきます。これは大変な負荷をもたらしますが、水を海外で買うと高いし、不安なので飲みなれたものを持参します。

 そして下水道の設備が整っておらず、トイレで使用した紙は備え付けの容器に捨てるところが多いのにも不便さを感じます。臭いもきつく、見た目もよくなく、何とかならないものかといつも困っています。話はずれますが、ホテルや一部の場所以外ではトイレットペーパーもなく、より高額なティッシュペーパーを買わなければなりません。トイレットペーパーを置いておくと持って行ってしまう人があるらしいです。これにも違和感があります。たとえ紙といえども他人の物を持って行くのはいかがなものかと思います。

 日本が誇れる水道技術は高速鉄道などよりも役に立つと私には感じられます。民間に移行するのではなく、地方公共団体の仕事として、海外の水道事業に貢献することを願います。災害の時も、公設であるが故に、復旧も早くできます。また、ライフラインで、不払いがある時に、一番最後に止まるのは水です。それほど水は大切です。

 安易にいのちの最後の砦である。民間に仕事をまかせることは危険だと私は危惧します。海外でも民間に委託して、国民が高額の水道代を払うことになるなど、酷い状態になり、また慌てて公設にした例がいくつもあるのになぜ今、時代の逆行をするのか理解しかねます。

 私は世界中を旅して、日本の水道技術ほど他国の役に立つものはないと、それを誇り、色々な国の人に話しています。海外に出ないと今、当然にある物の有難味は分かりにくいものです。

感謝していること
 日本に帰ってきて、トイレが綺麗で、水も何の心配もなく使えることが有難いと感謝しております。
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人間同士における信頼関係

2018/09/10 11:19
 分かり合おうとしても別の業を持っているので完全にわかり合うことはできません。
 歩み寄り、近づく事はできますが、それも限界があります。
 親や近しい人である配偶者や恋人などが話を聞いてくれたとしても、別の人間なので完全な一致をみることはできません。訓練を積んだカウンセラーなら表面的には受け入れてもらい、自分の気持ちを理解してもらえたという気持ちになることもありますが、究極のところでは孤独を癒すことは皆無であると知らされます。

 信頼関係の最も強い絆であると認識されているものは、親子関係です。親が子どもを養育することを放棄すると世間から当然の如く非難されます。子どもが親に対して肉体的、精神的に危害を加え、殺すような存在であったとしても、それを何とかするのが親の役目だと世間の無責任な人たちは言い続けます。
次に強いとされるのは夫婦や恋人の関係です。婚姻届という紙で契約を結ぶことにより、行政から多少の恩恵を受ける代わりに、貞操義務という信頼関係が課されます。恋人は形としての縛りはありませんが、片方が不貞に及ぶとその時点で関係が破棄されますので、夫婦と似たような信頼関係が求められます。

実際手をかけて相手を殺すとか、傷つけるとか、不倫をするとかはしなくても、心で傷つけ殺し、他者との不倫を考え、言葉で威圧して相手を黙らせたり、罵ったりすることは日常に行われますが、それは身体的な作為ほど大して問題にされません。しかし、心がその人の存在の元であり、行動よりも簡単にできる言葉もその人の人格を表します。
何をやっているか、何を言っているか、そして何を思っているかをトータルで見ていく必要があるのです。

よくよく人間の本性を見ていくと、結局自分が大事で、他人のことは後回しである人間の本性に辿りつきます。欲や怒りや愚痴の煩悩が出たら平気で他人を傷つけ、殺すことも厭わないのが人間の本性なのです。ただ、縁が来ないからしないだけです。
しかるべき縁が来たら何でもする人間ではありますが、真理との邂逅ができた人はこれらがよくわかるので、自重して生きるようになります。周りの人に対してもなるべく自分を後回しにして、その人が真理との邂逅ができるようなサポートに回ります。なぜなら、自分はもう真理との間の信頼関係ができているので、人間に対してそれほど信頼関係を強要する必要がないからです。そして同じような体験ができた人同士では、真の意味で心から、お互い譲り合い、思い遣ることができます。

以上、分かる人には分かりますが、分からない人には分からない話です。

感謝していること
 人間に対して過剰な信頼関係を求め、縛ることが無くても平気になったことは有難いと感謝しております。
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共に死すべき存在と認識し、死の解決の上、損得や上下関係を超え互いに愛おしく感じられる関係

2018/09/09 20:37
 たぶん「黙れ!」とかいう暴言も、ストレスを晴らすどんな暴力も必要のない状況になります。
 ただ生きていてくれたらいい、何もしてくれなくても、言わなくてもいいから、穏やかにこの世に存在していてくれさえすればいいだけです。その人の存在そのものをリスペクトするだけです。

 私はこの世に何も未練はありません。ただ、自分が不安で仕方なかった死の解決を文章にしたためてから、いのちを終えたいと願っています。食べたいものも着たい服も住みたい大きな家も行きたいところもありません。もちろん、来てくれと言われれば行きますが。私には望みも願いもありません。ただ、死すべきことを認識し合えた人同士が、死の解決を終えて穏やかに互いを慈しみ合って生きていられたらそれだけでいいです。他には何も要りません。

 仏教も含めた人々の夢を運んだシルクロードを旅して、人生は儚い夢であるとさらに深く確信しました。欲望は尽きませんが、終わりは必ず来ます。いろいろなことを整理して、これは残したいというものだけ残して、故郷に還っていきます。

感謝していること
 有情無情の様々なお蔭で生きていられることを有難く感謝します。
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眼に見えないものが大事だってわからない?

2018/09/09 13:40
 言葉や態度で私は自身の娘や周りの人たちにどれくらいこのことを伝えて来たか分かりません。でも、目に見えないものの重要性を自分が望むようには伝わっている感覚がありません。
 
態度で見せても、地味であまりにも控えめで伝わらないのか、言葉も表面が行き違ってそれを修復できないままでいるのか、そこら辺がよく分かりません。物事はいのちも含めて無常で今の形の輝きをこの先、とどめません。過去に執着してもそれは終わったことです。未来は来るか来ないか分かりません。
 
 今、真理との邂逅を果たし、全てを分かち合い、いのちすらまかせられる状態を永遠に獲られた時から、真に私の存在が輝き始めます。安寧と満足の中の私がいつまでも続く大きないのちの力や智慧の光に護られているのを楽しめます。

感謝していること
 特別なことがなくても、どんなことをしていても、なぜか大きないのちの力や智慧の光に護られ満たされていて、無理しなくてもちょうどいい感覚を続けられていることに感謝します。
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仏教が民衆の信仰として残った最後の場所で私ができること

2018/09/09 12:02
 私が出会った、インド・中国・フィリピンでは、自国の人から阿弥陀仏や南無阿弥陀仏を教えられた人は皆無でした。 阿弥陀仏や阿弥陀仏の本願や日本人から聞いたり、経典や聖教で知っている人はいても、本当に救われる道、真理として知る人はいませんでした。

 とても残念で悲しいことです。

 しかしながら、大乗相応の地、日域である日本には浄土真宗が根付いています。そして、阿弥陀仏の願いが説法として東西本願寺を始め、日本全国の別院、そして海外の別院で説かれています。そこでご縁を結ぶ人もあります。本当に救われる人も僅かですがあります。

 英訳の翻訳本として稲垣瑞劔氏の歎異鈔やほかの書籍はヨーロッパで読み継がれていて、真実信心を求める人たちもあります。鈴木大拙氏の禅を中心とした仏教の翻訳とは別のルートでそれらは欧州の人々に根付いています。隔年で欧州真宗会議が行われています。前回のベルギーのアントワープは発表させていただきました。今回のサウサンプトンはシルクロートツアーと重なりご縁がありませんでしたが、行われたそうです。


 昨年はロシアのサンクトペテルブルグとモスクワに行きました。中国は香港の2回も含めて5回行きました。台湾の5回も含めると10回以上行っています。この二つの国や地域に、仏教や宗教の話をすることはかなりの地慣らしが必要な気がします。インドやネパールも同様な感覚を持ちます。

 まず、日本や欧州で論文や学会発表をし、それを見聞きした他の地域の人がいつかは阿弥陀仏の本願に興味を持ち、信仰として関わり、救われることを念じて止みません。

感謝していること
 いろいろな地域に実際行ってみて、自分の使命をより迅速に多くの人たちに伝えられるプランを建てられることは有難いと感謝しております。
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人間の誰に認められなくても真理と一緒ならそれで構わない

2018/09/08 19:37
 創造主なんていない!

 何できづかないの?

 真理は誰も造らない。

 ありのままを尊重し、よりよく存在できるように力添えするだけ。

 気まぐれで、私を造り、罪と罰を与える創造主なんていらないし、親もいらない。


 私は私で自由だし、人間の誰がいなくても真理と共にいる感覚が続いている。

 それが書けたらどんなにいいかって感じる。


 自分の顔写真も、美味しい食べ物も、どこか珍しいところに行ったことも、単なる自慢でSNSに載せるのは変だと思う。

 そんなことを今回の旅で感じた。

 もっともっと大切なことがあるじゃないの?

 それをきづくのは今生?それとも何回も生まれ変わったずっと先?

 死んじゃう前に、みんながきづいてくれたらいいっていつも願ってる。

感謝していること
 どこにも求めるものはないし、求める人もいない、心の中にある真理のみしか信用できない。それを死ぬまで突きつけられ続けるのが真理との邂逅後の世界なのでしょうか。有難いけれど、反面、辛いものですね。


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ユートピアなんてどこにもない!

2018/09/08 19:27
インドにも中国にも日本にも、ユートピアというような場所はありません。

 私はそこに実際行って来て確かめてきました。(笑)




 ユートピアの存在は真理との邂逅を果たした心境にあります。

 それは形ではありません。あくまでも感覚を超えた自身の存在のみ。

 形のある物しか信じられないから、人はそれで苦しみます。

 

 探して探して、確かめて確かめて、見つけても信じられなくて、疑い続けて、傷つけ合い、しまいには壊してしまいます。それは本当の信頼関係ではないからです。

 何もしなくても、何も言わなくても、相手が自分に関心がなくても、ずっと心をかけていられるのが本当に心がつながった関係です。




 人間同士ではできません。真理との邂逅をした人同士なら、真理とのつながりを通して分かり合えることも少しはあります。でも所詮煩悩を持った人間同士、不完全です。肉体を離れ仏同士に成れたとき、完全につながれます。それまでは、不完全であることを認め合いながら、分かり合えるところにファーカスしていくしかありません。そう割り切れる人の間なら少しは休めます。緊張していなくて済みます。




 感謝していること

 形を離れ、心の目でいろいろなものを見ることができるようになり、要らないことを思わなくなり、少しは楽です。私は何も考えないでいられる人といるときか、ものを書いている時間が一番自由でいられます。そういう時間は有難いです。


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自分の機嫌を自分で取れないなら赤ん坊からやり直せ!

2018/09/08 11:44
 喜怒哀楽の調節ができず、突然泣き出して、誰かが慰めに回る。

 我慢していて、耐えられなくなり、誰かに看病させる。

 心身共に酷くなる前に予測できることは、早めに自分で何とかすべし。

 それができないから、人間同士、摩擦が生じる。




 赤ん坊の時からネグレストや虐待を受ける環境にいたなら、そこからやり直すしかない。

 それをしてくれる人は滅多にいないが、探し続けるのも人生かも。




 誰かの世話になり、助けられる時が終ったら、今度は助ける役割をする。

 そうなれるまでに、限りなく人間に生まれる必要がある人もある。




 何かとても面倒。

 もう、終わりにしたいけれど、エンドレスに感じられるのが迷いの世界。

 真理との邂逅で迷いが終わっても、また迷いに関わる不思議な智慧のシステムは人間の知識や感覚・感情を超える。




感謝していること

 静寂で更に求めるものがない満たされた世界があることを信知出来たことはとても不思議で有難いです。


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悪口は冗談だと赦し空気を読まなくてもいいし、殴る素振りは既に殴っている事実

2018/09/08 11:09
 他人に対して云った悪口は、後で冗談だと言い訳されても、それは本心です。
 殴る素振りも同様、既に殴っています。

 後付けの、言い訳は絶対信じてはなりません。

 悪口をいう人、人に暴力を加える人は自分が悪口を言われるか、別のストレスで、それを解消する獲物に当たっているだけです。言い訳をされても、そういう事実があったことを重く受け止めるべきです。
なぜかというと、満たされている人は悪口を言いませんし、暴力とは無縁です。

誤魔化されてはなりません。

悪口や、暴力の全くない世界は存在します。それは悟りの世界です。みんなが自分を後回し持して、まだ悟っていないひとを応援する世界です。そこまで行けていなくても、悪口や暴力を拒絶し、そんなこととは無縁の人生を送っていくべく精進してまいりましょう。

誤魔化されてはいけません。その人から出た悪口、暴力は後で言い訳して打ち消しても、許されることはありません。そういう人なのだと注意して、距離を取り、そうでない人たちと一緒にいることをお勧めします。まだ、刺激がほしいとかいうのなら敢えて止めませんが、いづれはそういう刺激もお腹一杯になって、もう結構という時が来ます。そう感じられる時まで、刺激ごっこを堪能してください。自虐や虐待に満ちた心身の痛みを通り抜けないとそれは痛いし、抜けようとは思えないのかもしれません。まあ楽しんでくださいとしか言えません。

感謝していること
悪口、暴言、暴力に無縁な世界を信知することができたことに有難く感謝します。
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執着・慣れ合い・偽(仮)の共感、受容、一致からの脱出

2018/09/08 10:46
 人間は群れて生き、限られた例外を除いては、一人では生きられない生き物です。
 他人との関わり合いの中で、本当に価値のある物を見つけます。
 そこにたどり着くまで、かなり長い距離を要します。

方便として、孤独を誰かといることで紛らわせようとします。
分かり合おうとすればするほど、誰かに依存し、執着してしまいます。
それが無理だと早々に諦めた人が、いわゆる一般の人、普通の人です。

諦められず、寄りかかろうとする人がいます。捕食者とでも言ったらいいでしょうか。捕食物である寄りかかられた方も、単なる人間なので、一杯一杯なので逃げたり、廃人化したり、死んだりします。

人生が苦しいのは、完全に自分をわかってくれる人がいないことが分からないで、不完全な人間に依存し執着するからです。
大きな器を持ち、何でも受け入れる真理の中に融合して、ありのままで生きられるような方向を示してくれるひとや書物に出合い、回心の体験ができたら、今生は成功です。それ以外は夢幻であるといつ気が付くか、それはその他人次第です。

感謝していること
何の不思議か一直線に真理を追求する気持ちが、人生の初期に芽生えたことに有難く感謝します。
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承認欲求

2018/09/07 23:57
 これ、苦手。
 まず、ほかの人間に褒めてもらおうと思ったことが一度もない。
 容姿も、才能も、どこかへ行ったことも、珍しいものを食べたことも、ただ事実がそこにあるだけで、それでいい。
 承認もだけど、共感も、容認も、一致も要らない。
 みんな違って、それでいい。

 べたべたした関係は苦手。
 水のような、さらりとして、流れていくのがいい。

 安定しない、無常の世の中を常のものとして考えるからそこに執着が生じる。
 そして、他人を縛り、命令し、言うことを聞かせようとする。
 それが、諍いや戦争を引き起こす。
 自分さえよければ、他人はどうでもよく、自分の手足のように使う奴隷のようなもの。
 限りなく使い倒して、ボロボロになり使用不可能になるまで利用し、動かなくなり、死ねば、ポイ捨てして忘れる。

 これが承認欲求の本質。別名自己愛性人格障害(モラハラ)
 怖い!
感謝していること
 安心満足は真理との邂逅から得られるということを、身を以て信知出来たことに、有難く感謝します。
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上海からの蘇州号上で天の川を見ながら感じたこと

2018/09/06 21:21
 私は自分が好きなことをして、望むように生きていく!
 誰かに何か言われようと、それはその人の考え。
 私は私の感じるままに、自分の道を行く。
 誰にも私に指図も強制もできない。
 
 次はどこの星で、どういう人生を送るのだろうかと一瞬思ったけれど、どこでもかまわない。別にどこにも生まれなくてもいいけれど、迷い苦しむ人がいて、助けて欲しいと願うなら、それができる光の存在でいる。
感謝していること
自分の残された命を愛おしみ生きていこうと改めて決意できました。

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モラハラ家族の様相

2018/08/24 17:09
 父―モラ夫
  父の父―モラ夫またはモラハラ被害者 
  父の母―同上(モラハラ被害者の可能性大)
  祖父母(先祖)−父の両親と同じ境遇
 母―モラハラ被害者
  母の父―モラ夫またはモラハラ被害者
  母の母―同上(モラハラ被害者の可能性大)
  祖父母(先祖)母の両親と同じ境遇
 子どもたち
  モラハラ加害者
  モラハラ被害者
  精神疾患患者もしくは境界例
  真理や宗教に救いを求める
 
 子どもたちは両親のモラハラ生活を見て育ちます。
子どもの中でもいろいろな選択をします。はやばやと抵抗することを止め、虐める力がある方に加担すると決めると、スピリチュアルをモラハラ加害者に売り渡し、同じくモラハラ加害者になります。そしてモラハラ被害者である父か母のように扱われることがないよう加害者の立場を生涯貫きます。モラハラ被害者であるどちらかの親を憎み、見下し、軽蔑します。本来なら気の毒な状況に置かれている親を客観的に見ることができず生涯見下して、モラハラ加害者と共に虐待します。モラハラ被害者を鋭い触覚で探し当て、抵抗しないペットや害虫のように扱います。八つ当たりしたり脅したりする対象でしかありません。
生涯、配偶者を一度も愛することなく、モラハラするために結婚します。良心の呵責はあるのですが、出て来るたびに潜在意識に押し込みますので、臨終まで感じずにいられます。誰かに指摘されても、モラハラ加害者でいるのが心地よく中毒になっているので抜けられません。アルコールやほかの依存者と同じです。

モラハラ被害者になる子どもは、我慢強く魂を売り渡すことはせずにいます。努力して家族に話し合いをさせたり、仲良くなるよう蔭でも画策しますが、全部が上手く行かず成功体験のないまま大人になります。そして、今度は二度と不遇な家族を作るまいと、配偶者や子どもたちに尽くします。相手に尽くすと、必ず見返りがあるという強固な信念を持ち、それをモラハラ加害者がその性質を逆手に取り、利用して洗脳し、お願いすることなく、身心の自傷行為をさせます。それは精神的に異常をきたしたり死ぬまでいたぶりつづけるものです。配偶者には、モラハラをしない普通の人では物足りず、またしてもモラハラ加害者を選んでしまい父母や先祖のモラハラ連鎖を抜けられずにいます。

子どもの辿るコースはモラハラ被害者、モラハラ加害者、精神疾患患者、真理や宗教に救いを求めるなどです。
モラハラ被害者、加害者は連鎖が断ちきれず、その子ども、孫の代まで連鎖していきます。精神疾患患者になった人はお気の毒ですが、親も配偶者も子どもも誰も助けてはくれません。真理や宗教を求めるようになれたら、モラハラの家系を悟りを獲た時によろこべるようになるかもしれませんし、そうでないかもしれません。

とりあえず、モラハラの家族は日本では三軒に一軒あります。ルシアンルーレットのようにその一軒に生まれてしまった人はその先の不幸を味わい続けます。残りの二件に生まれた人はモラハラを知識でしか知ることなく平穏な日々を送ります。彼らが下手にモラハラ家庭に口を出すと二次被害が増大することになります。それほど、モラハラ家庭は特殊であり、始末に負えないものなのです。抜け出た人は二度と戻りたくもないし、同じ感覚を味わう人があれば、何とか助けたいと思いますが、助けを求められない限りどうすることもできません。洗脳や支配・被支配関係の中にいるとみんな同じだとしか思えません。別の世界があることなど夢にも想像できません。本当に恐ろしい世界なのです。

私は幸いにも、モラハラの加害者の手口を知り尽くすことで、何とか被害を最小限にとどめて来られました。モラハラは家族だけではなく、教師や会社の上司でも弱い人を見つけ狙うことがあります。

一番いいのは真理との邂逅を求め、モラハラとは無縁のところに逃げることです。
感謝していること
モラハラの世界があることを知り、そこからいつも離れようと思えるようになり、とても自由になったことは有難いと感謝しております。
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自分のできることが使命

2018/08/23 21:31
 私はいい人でも人格者でもありません。でも、極端な劣等感も罪悪感も持っていません。ありのままで好きなように生きています。中道を生きています。
誰かが困ることや嫌がることはしないことにしています。誰かが泣いて悲しむのを見ているのは嫌だからです。それでも、本当に困っている人が助けて欲しいと言われない限り、自分から何かするわけでもありません。それでいいのだと思っています。
今じゃなくても、まだ遇っていない人で真理との邂逅をしたい人のために文章を書いています。それも楽しみで書いています。誰に強制されるわけでもなく。

 私はいつも機嫌がいいので、滅多に怒りません。八つ当たりなどしたことがありません。そんなことするのは性に合いませんから。更に嬉しくなるように媚を売ることや嫌々歩み寄ることもしません。誰かに魂を売り渡すことになりかねませんから。せっかくカルトからも逃れ、モラハラも研究し尽くしてその臆病さを嗤えるようになったのに、奴隷のように扱われ、不機嫌な時に激怒されるなんてまっぴら御免です。

心理学や哲学は結局、知識を披露することが一義的目的になっています。誰も幸せにしていないです。学問をしている研究者自体がいつも、自然と笑えるようになっていないで、権力を追求し、モラハラしているからです。本当に狭く器の小さい世界です。それでも、彼らの主張を理解してからでないと、いくら真理だと言っても笑われるだけなので、我慢してどうでもいいようなことも読んだり聞いたりしています。

 福祉も障害学も社会学も苦手です。勝手にしていてくださいとしか言えません。私は興味がありません。
生存学として、真理との邂逅なら興味はあります。それでも徹底的に求めた末、「なんとなくスッキリしない」 「もう一つ安心出来ない」という人だけ話します。でも、そうじゃない段階の人には友人として、もしくは知り合いとしてとかは世間の付き合いもし、話します。でも、真理の話は、かなり厳密で厳くなるのでしません。歎異鈔第二章が震えあがる程、とても厳しい話であると分かる人にしか話はしたくないです。優しく共感的で尊敬の念を持つだけの話だと思っている人たちとは感覚が違います。
感謝していること
久しぶりに疑いの話をしました。分かり合えている感覚が有難いと感謝しています。
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アカデミズムを超えろ!超えていきなさい!

2018/08/23 11:17
真理と邂逅による自己の存在の肯定、死後も含めた未来への不安の解除を目指しましょう。これは宗教や思想がずっと言ってきたことです。

それをアカデミズムなどと称して、モラハラする気の弱い、よう思い切ったこともできない奴らが腐りきってボロボロになった脳みそをかき混ぜて構築した理論を振り回すから始末に悪いのです。

戦争OK,搾取OK,形を変えた植民地や奴隷化何でも来い!種を使って食べ物と作るな、種は私たちから買いなさい、貧乏人は水を飲むな、水は高いものなんだと思い知れ等々いろいろな矛盾したことが起こりつつあります。

ある物は資源も知的財産もみんなでシェアしたらいい、減るなどと貧乏くさいことを言うから権力争いになります。どうせ使い切れないなら、みんなで楽しんだらいい、分けちゃったら。不足を宣伝して大衆を脅し、一部の人たちが贅沢をして、弱者を顎で使う世の中もう止めませんか。

自分の得意なことを仕事にして、相互扶助ができるような研究や学問を私はしていきます。私の大学院の先端総合学術研究科の名称は「倫理の核心」という英語表現を持つところです。その意向に沿ったことをしていこうと決意しました。


感謝していること
いろいろ考えると自分が果たすべき方向性が見え、行動すると援助者が現れます。有難いことだと感謝しております。


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なぜアカデミックな近代西洋哲学やフェミニズムでは安寧・満足が得られないか

2018/08/23 11:13
 答えは簡単です。

 苦しんでいる人たちの救済を目的にしていないからです。

 だから、簡単なうつ病さえ治せません。

 

 もう少し説明します。

 人間同士の権力や利害関係のみを問題にし、そこ枠内を超えていないからです。

 腐った脳みそをいくらかき混ぜても、そこから出てくる答えは皆腐った考えばかりです。

 権力関係で物事を見ると腕力や知恵の強弱、財産の大小、社会的人気度など、一貫性のないものばかりです。これらを駆使するのはギャンブルに等しいです。通用するときもあり、そうでないときもあります。人によって価値観が違うからです。




 権力や利害は、普遍的な真理、すなわち、過去・現在・未来という三世という、いつでも、どこでも通用するものではないからです。

 そんなものに振り回され、本来の自分を見失い、人目ばかりを気にし、弱者や身内にモラルハラスメントをするそれが、近代の大きな戦争も含めた地獄の様相でした。




 私は沖縄に毎年のように行った時期があり、十数回行きました。私は沖縄のスカイブルーの海が大好きです。アジアのリゾート地の南の海のコバルトブルーの海も好きですが、水色の透き通る海の方が好きです。どちらも地球の持つ素晴らしい財産です。

 この沖縄の海が太平洋戦争のとき、軍艦で溢れ、戦いの場所になりました。今でも、基地が新たにつくられようとしています。アジアのリゾート地にも戦争や軍隊などがあるのでしょうが、私が訪れた、フィリピン諸島やバリ島やシンガポールには見えてきませんでした。




 綺麗な海、咲き乱れる花々を望むのは幼稚でナーバスな考え方なのでしょうか。権力を誇示するために軍隊や基地を持ち、誰かを脅し続けないと人間の闘争状態がさらに悪化するのでしょうか。

私には近代哲学やその理論を用い、非対称を嫌い権利を要求するアカデミックフェミニズムが初め何を言っているのか分かりませんでした。この人たちは本当に人類の平和や満足を考えているのだろうかと疑問でした。

結局は他人の仕合わせなどどうでもよく、自身の力や分析力などの知力などを誇示するための学問であり、金銭などの財力の追求でしかないので、その位置に足を置いていない人たちには無用の長物であり、鬱を悪化させたり、無駄に長時間労働をさせられたりするような合法的な奴隷制度を再現するだけだと気付きました。




 今後は、西洋と東洋の叡智の素晴らしいところを取り入れたものを政策に取り入れ、本来の人間のあり方を見直すべきです。平和を目指し、搾取や無視など権力ではなく、対等で相互扶助ができる思想や宗教がさらに必要になります。




感謝していること

ひとの中の真摯さは古今東西変わらずに存在し、それを伝えていく使命を新たに感じられていることに感謝します。


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あなたはモラハラをしていると指摘されたら感謝すべし

2018/08/23 00:50
 なぜなら、直る可能性があるからです。

 生まれてこのかた、対等に他人を愛することもできず、いつも、相手の顔色を伺って生きることを止めることができるからです。 

 ただ今の瞬間をそのまま、ありのままの自分として味わえるからです。




 あなたはモラハラだと誰かに指摘されたら、ほぼ間違いなく、あなたはその指摘してくれた人に対してモラハラをしています。ほかのひとにしていなくても、その人にはしています。モラハラをさせていると感じたから、そういわれたのです。わざわざ教えてくれるなんて、向こう見ずでしょう。逆鱗に触れて、激怒され、破壊行為に巻き込まれないとも限らないのに。

 

「モラハラはしていない」ととっさに答えたかもしれませんが、どこかで罪悪感や後ろめたさが心の中にあったはずです。




 このまま、劣等感を隠すために、必死でカッコいい自分を演じて、素の自分を楽しむことができないまま一生を終えるか、モラハラを止め、捕食した獲物の人格を認め、怒りや八つ当たりを抑え、日々を楽しめるようになるか自分次第です。




 いつも上下、勝ち負け、損得を考えてから、ワンテンポ遅れてリアクションする気持ち悪い人でずっと死ぬまでいますか?そういう風に他人から見られていることも気付いていないでしょ。だからキモいんです。キショいでもいいです。見かけはおっさん、知能もおっさん、だけど精神年齢は赤ん坊のまま。




 あのね、そんなに頑張らなくてもね、他人はそのままのあなたでも、優しくしてくれるし、受け付けてくれるんだよ。時には失敗しても、上手く行かなくても助けてくれて、責めたりしないんだよ。誰でも上手く行かない時はあるって知っているから。計算しないで「いいよ」って言ってくれるんだよ。




 キモイモラハラするおっさんから、爺さんになって、ウザがられてしぬのもよし。捕獲した言いなりの獲物に当たり散らして、泣かせる姑息な嫌がらせを続けるのも、あなたにとっては楽しい人生なのでしょうが、あなたをモラハラする嫌な奴として軽蔑しながら、本当に心を通わせることなく一生過ぎるけど、いいんだよね。動物が涙を流して殺されても、その肉を平気で食べられるのと同じなんだよね。良心は痛まないんだよね。まあいいや。私はモラハラは心を殺す殺人だと捉えている。だからモラハラする奴は心の殺人鬼。

それほど憎んでいる。怒っている。

感謝していること

 研究のためにいろいろ学んだ成果のためか、やっとモラハラの呪縛から解き放たれた気がします。有難いです。


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結論 人間はたとえ親でも他人に全てを依存することはできない

2018/08/06 21:25
 自分以外の他人に依存すると、その人が何もしてくれないか、思うような反応をしてくれない時、相手を恨むことになります。それは甘えであり逆恨みです。

どんなに甘えても、見捨てないのは真理しかありえないことを、人間は娑婆世界で学ぶために何度も生まれるのだと気付きました。
 
 依存は真理から遠のきます。何もできない赤ん坊のような立場の人に対しては、誰かが何かを与えてくれるかもしれませんし、そうでないかもしれません。他人の生き方を見て、参考にする事は出来ます。

 でも、自分の人生に責任を持てるのは自分自身だけです。他人は自分のことで精一杯で自分以外の人の責任など持てないのです。冷たいようですが、が現実であり、学びです。自分自身で何とかできることを、自分でしていかないと学びにはなりません。

ただ、予期していない時に誰かが何かをしてくれることがあります。これは有難いことです。滅多にないことなので有難うと御礼を言います。

自分の力でギリギリのところを頑張っているひとは、いのちのある内に真理との邂逅をしてもらえるように励ます意味で、御仏から予期せぬご褒美があります。仏教では善巧方便といいます。また信心の人からも励まし支えてもらえることがあります。なぜ親切にしてくれるかといえば、真理との邂逅を済ませたひとだという理由からです。また、本人が意識してかしないかはわかりませんが、真理に向かって生きているひとも親切にしてくれます。

 御仏にまことのこころを賜ってから、もしかしたら人間同士でも、心から信頼し合い、甘えても見捨てないひとに出合えるのではないかと探してきました。でも、信心のない人は自身に余裕がないので、全てをゆだねることができないのはもちろんのこと、御仏から信心を賜ったひとでも、煩悩を纏い、三次元で限りある命を持つ人間として生きているので、それは無理なことだと思い知らされました。

 そんな中だからこそ、真理との邂逅を目指している人たちの力になることが私の使命だと改めて感じます。まず、自分で迷っていることを自覚し、その上で私ができることがあればよろこんでいろいろさせていただく気持ちはあります。

 ただ、自ら蓋をしている人に対して、無理矢理その蓋をこじ開けることはできません。どうすることもできないのです。真理との邂逅以外の生活上の援助をすることはかえって本人をスポイルすることにることが多いです。中途半端に末通らない慈悲をかけても、甘えて自立する芽を摘み取ってしまいます。厳しいようですが、自分できづくしかないのです。

 それぞれが、自分の足でしっかり立ち、真理との邂逅ができることを心より昼夜念じて止みません。

感謝していること
 誰かに何かをしていただいたら本当に有難いです。御仏とのお出合いの後は、何の心配もないので、御仏がよろこんでくださることをたださせていただいております。傷を舐め合う、煩悩で傷つけ合うことで無駄にしないよう、残された時間を涼やかに淡々と生き、粛々と使命を果たしてまいります。
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信心を獲るのは金魚すくいとは違うのだよ

2018/07/29 10:51
 これだけ聞いても、何を言っているのか分かりませんよね。
 ある和上がその方に言われたことだと説法で聞きました。
 金魚すくいの金魚は多くの外の仲間ときたない入れ物から個人の綺麗な水槽に移し替えられます。環境が変わり、気分良く過ごせて、餌も十分に与えられ快適です。それでも金魚自体は何も変わりません。これに対して、信心を獲た人は、環境や煩悩は変わりませんが、阿弥陀仏の本願に救われたならば、生きているその場で正定聚の身になります。一息切れたら阿弥陀仏のお浄土に生まれる身に生まれ変わります。このことを譬えを持ってお話しくださったということでした。

 感情や環境が変わっても、迷いから覚めなければ、阿弥陀仏に対する疑いが完全に晴れなければ本当に救われた安心満足は得られません。
 どうか、その境地まで求め抜いて行かれるよう念じて止みません。
感謝していること
 本願を信受させていただいた上、この世のことにも恵まれ、全てに感謝しております。
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


カウンセリングや傾聴の技術は習得し出来ますが、それでは無明は晴れません

2018/07/29 10:32
 常に私が人と接し、話す目的は信心を獲ること、迷いから覚めることです。人間理解や傷の舐め合いや慰めではありません。むしろ私は感情的・感傷的なことから距離を置いています。自己実現には、共感、受容、自己一致はそれなりに重要でしょうが、自己超越にはそれらは直接は役にも立ちません。

 カウンセリング、傾聴は、表層では分かり合えた気になっても、深層心理までは絶対分かり合えることはありません。そのことを十分理解した上であくまで、真理に至らしめるための方便として信心の話をするなら、カウンセリングや傾聴は有用です。ただ、あくまで信心を獲ることを主目的としてカウンセリングや傾聴はその手段としないと本末転倒になります。

 信心の話とカウンセリングや傾聴は異なるのだというなら、「真宗カウンセリング」とは言わない方がいいと私は考えます。真宗と名乗らず、ただの「カウンセリングや傾聴」でいいです。阿弥陀仏の本願の生起本末の抜けた真宗など存在してはなりません。

 「響き」という表現も気に入りません。お話しされる人によっては、そういうことはあるとは感じます。私には自身が響くようなものではないと感じております。だから、人格的なことに頼らず、言葉で阿弥陀仏の本願のおいわれを自身が聞かせていただいたことを、話しています。

 聞き手のレベルと合わせるのはそれなりに大切ですが、苦しみの根源が煩悩ではなく、無明にあったことを示唆する話をしていくことこそが大事です。短命の人間にとっては最このことこそが最優先です。本願の不思議、尊さ、実際に救われる頼りになることを話したらいいだけです。

 本願の素晴らしさを話して、批判し避けるなら、そういう縁の人です。ただ諦めたわけでは成りません。話をしておいたら、その人が何時思い出すかわかりません、たとえ、臨終に思い出しても、来世やずっと先でもいいのです。心に刺さる、喚起する、煩悩に留まってはいけないのだという気持ちをふっと感じさせるご縁になることが必要です。感覚の響きがあればそれプラス、言葉で刺さったこと両方がその人が信心を獲る機縁になります。響きを与えられない未熟な私は努めて言葉でお話ししています。言葉で話さなくても伝わるという人はよほど、自分が響きを与えられると自惚れているのかとも感じます。

 残された時間の少ない私には、カウンセリングや傾聴を極める時間はありません。ほどほど、適当でいいと割り切っています。その先、人間が本当に迷いから抜ける決勝点を目指せる方法を研鑚しておる最中です。

感謝していること
 頑なな心、慢心、自説を否定された憤りなどいろいろなことを訴える人に、そういうものだと割り切っても悲しく辛いのをこの三次元で学ばせていただいております。


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生死を超える、転迷開悟と人間理解は目的が違う

2018/07/29 09:45
 人間理解の先に仏教の目的である生死を超える、転迷開悟があるのではありません。人間理解は終わりがなく、限も際もありません。生死を超える、転迷開悟は今生、今、ここで成就出来ます。一度その心境に出たら、その先戻ることはありません。
 そこを間違っている人が多く見受けられます。方向が違っていたら、目的地には永遠に辿りつくことはありません。

 人間は凡夫といわれるように煩悩に目鼻を付けたような存在です。言うこと想うことがころころ変わる「こころ」に翻弄され生きているような不安定で不確実なものです。今と少し先が全く別のことを言っても平気でいられるし、自分では矛盾しているとは感じられないのです。そんなものを追求しても、分かろうとしても限も際もなく時間の無駄です。本当に迷いを抜けたいなら、そこを十分知り、あくまでもカウンセリングや傾聴というのは真理に到達するための方便であり、通過地点でそこは通らないとならないけれど、目的になってしまってはならないのだということを弁えた人から真実信心の話は聴かないとなりません。

真理ではない煩悩しかず、それを大事だと感じて必死で守る人は、真理を絶対受け付けないぞと、真理をひょいひょいすり抜け、わざと不仕合せになることを選びます。真理に到達したひと、求めている人に対して「妬み」とか「うらやみ」という感情を露わにし、「批判」「反発」「軽蔑」など露骨な態度で、真理を受け付けないし、反って貶めることを平気でやってのけます。これら全ての総体を自力といいます。
残念だな、悲しいことだなとは感じますが、仕方ありません。真理を疑う気持ちは真理との邂逅をする直前まで離れ切りません。

自身が真理を求め、疑いを完全に晴らすところまで到達したひと、更に何人も同じような境地に出るところまで話をして来た人から聞くしかありません。煩悩の理解のみで満足し、傾聴できた、理解し合えたと勘違いの感動で留まっている人を、その先があるのだと心を揺り動かし、不思議の刺激を喚起し、本当に真理との邂逅を目指す方向を示せる人から信心のことは聞かれることを念じます。

感謝していること
 偽物本物があることをいろいろなことから知らされます。不思議です。
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避けなければならない人たち

2018/07/28 12:22
自分と他人を比べる人です。別の言い方をすれば劣等感の塊のような人たちです。自分を肯定できないので、自分より劣る人たちを必死で探してきて、その人たちよりも優位な自分で安心しようとします。

ありのまま、そのままの自分を受け入れられず、必ず目の前の人を自分より上か下か判断し、その上でコントロールしようとします。そういう人と一緒にいると、そのマイナスのオーラが押し寄せてきて、ストレスになります。

 私は自分が生来、自分と他人と比べて生きてきていませんので、未だに嫉妬や皮肉で相手に引け目や負い目を感じさせる快感が分かりません。不快でしかありえません。その違和感、不快感を無くすにはどうすればいいかとずっと考えてきましたが、そういう人たちとは、考えが一致することは、今生ではおそらくないのだから、一緒にいたらいけないのだとやっと気づきました。距離を置くしかないのです。

一緒にいて得られることはなく、違和感・不快感、コントロールされ感、マイナスイメージなど目白押しの嫌な感覚で大きなストレスを抱え込むことになります。我慢しなくていいんです。もっとしなくてはならない事、一緒にいて何かできる人はたくさんいますので、そちらに目を向けたらいいです。

感謝していること
人生の可処分時間には限りがありますので、優先順位を付けて、自分の使命に叶うことからしていく必要があります。そんなことを知らされました。


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カウンセリングの限界と自己超越

2018/07/28 10:56
 信心の話を30年1万人以上の人と面談しました。

 その結果、途中、その人が何を何に重きを置いているか、一目見た瞬間、もしくは3分ほど話すと、おおよそ分かるようになりました。

 信心の話を直球ですることが私の使命だと感じています。それが目的で面談し、話をします。それ以外のことは別の人の仕事だと弁えています。目的は常に忘れず、軸がぶれてはならないと肝に銘じて話しています。

 
信心の話が真理や真実の話だとして、カウンセリングで相手の生き方や考え方を聴くことは方便です。ただ、初めから真実の話を欲していて、分かる人は稀です。方便から真実に入ることは重々承知しています。それでも、人生は短い、一期一会だと認識している私は方便は面倒、まどろっこしく感じます。度の面談の中で、一言でも御仏の救いの話をしたいと思って、話しています。それは私も目の前の人もまた再び会えるかどうかわからないからです。

煩悩に翻弄される姿をただ聴くだけでのカウンセリングだけでは栓がないのです。賽の河原の石積みと同じです。積み上げた知恵や修養も、欲や怒りや愚痴の棒で一瞬で崩されます。六道の迷いを繰り返すのと同じです。自身が迷っていると気付かないなら、永遠に迷いから抜けることはできません。

そこで、御仏の願いが絶対に見捨てることなく救う、どんなに甘えても構わない広大無辺な智慧と慈悲をもちうるものだということを知らしめ、そちらに向かって生きる覚悟を持ってもらうことが信心の話をする者の役目です。

方便をいくら繰り返しても、それは方便でしかありません。方便の話の中にも、真実を差し挟んで、何だか不思議なことを言われた気がする、でも大事なことのようだという疑問を起こさせるような話を意図的にできるところまで話の技術を高める研鑽が必要です。それをしている人、できる人に書物でしか出合えず、生きている人には終に合えませんでした。おそらく目の前の人が、苦しんでいる本当の理由は無明の闇を抱えているからであり、常にその人が迷いから抜けるためにどのように話したらいいかが主眼にあり、それを仏と共に念じていたからそのようなことができたのだと拝察します。

私はカウンセリングは方便としてはするけれど、本来、信心の話をすることが使命です。だから、相手の話に引きずられ、肯くばかりではなく、その人の迷いの日常を揺るがす、驚き、不思議を相手に感じさせつつ、迷いを抜け、悟りを目指せる機縁になるような生き方、話し方を私は常に心掛けてまいります。

感謝していること
 カウンセリングとの理解しえない違和感は真理を目指す軸がぶれているか、その視点を忘れていることが原因だと気付いたことに感謝します。
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本当はどうしたいの?

2018/07/25 23:40
 最近、いつもこのように自分自身に問いかけることにしています。

 ずっとやってみたかった、合気道を大学の体育会の練習に参加し、続けようとしています。

 保育士、幼稚園教員の資格取得試験に合格するために、ピアノは15年前に一年間でバイエルを速修して、嫌いになったので、今度はサックスを吹いてみたいので、大学のサークルか何かを探してみようと思います。バリトンは重いのでアルトでいいです。

 何か食べるときも、値段やカロリーよりも、今何が食べたいかで決めるようになりました。

もし、今日が死ぬ日なら、後悔しないように生きたいと考えるようになりました。

  誰かに嫌われようと好かれようと、私自身が誰にでも真摯な態度で接する生き方をしたならそれでいいと割り切るようになりました。嫌われないように、好かれるように人目を気にして生きるのではなく、私が私らしく明るく元気で楽しそうにしているのをよろこんでくれる人と一緒にいることにしました。私を困らせたり、泣かせたりする人と敢えて一緒にいることはないし、できるだけ心地よい気分を味わえるように生きていくことにしました。

今まで、頑張って生きてきたので、少しは自分自身を甘やかして、ゆっくりのんびり人生を楽しんでもいいのではないかと考えるようになったのです。いままで、疲れていても、そのままにしていましたが、いつも座った姿勢で論文を書いていて、運動不足なので足腰のためのマッサージ器も注文しました。

怠惰な生活をしていると、お浄土に還ったとき、阿弥陀さまからお叱りを受けるかもしれません。顔向けができないとか胸を張って、阿弥陀さまと再会したいと言われる高僧もありましたが、私は阿弥陀さまに「あなたは、自分が望むような成果が何一つできなかったと思っているでしょうが、それでも私はあなたを見捨てません。私に遠慮なく甘えてください。」とお許しいただけるのではないかとこの頃は子ども還りしています。

そんな子どものような、何の取り柄も能力もない私ですが、できることを粛々とさせていただいています。もう残り少ない人生を今も阿弥陀さまや一味の信心の方々とゆっくりのんびり気楽に歩いています。

感謝していること
暑さの中でも、何とか今日も生き延びられたことに感謝いたします。
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本当は苦しんでいる人なんていなくて、迷っているだけかも

2018/07/25 22:25
 死ぬほど苦しいなら自殺します。
または苦しい状況から逃げます。
そうしないのは、状況を見ながら、何とかする方法を考えているのかもしれませんが、具体的な解決方法を探していないなら、苦しみに酔いしれて悲劇の主人公を楽しんでいるのかもしれないと最近感じるようになりました。

私は誰かに常に暴力を振るわれる環境にいたことがありません。たまにもありません。そんなことになったら、死んでしまうか、気が変になるか、病気になるかのどれかでしょう。それは暴力を受けることが楽しくないからです。我慢しないからです。

もし、あと一年くらいの命でも、辛い状況を我慢するでしょうか。私なら使命を果たすのは別として、好きなことをして死んでいきます。思い残すことがないように、好きな人と好きなことをして、好きな場所に旅行して、残りの人生を楽しみます。

苦しいことを苦しいと感じられないのは、迷っているからなのかもしれません。

感謝していること
嫌なことは嫌、したくないことはしない、関わりたくない人とは関わらない、可能な限りこのように生きていこうと思えるようになったことに感謝します。


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必ず救う

2018/07/22 11:25
 阿弥陀佛の御心を今日の朝、聞いてまいりました。
 阿弥陀佛は親のようなお方だからと、次のようなことも言われました。
 「見捨てはしない」。
 「甘えていいよ」。
  
人間の親には「必ず救う」という願いはあっても、その力はありません。
  「見捨てはしない」。「甘えていいよ」。というのも自分の欲求が先に来て、それを満たせたときはじめて、我が子を見捨てず、甘えさせることができます。悲しいですが、それが現実です。

 だからこそ、真理を求めずにいられません。子どものことを限界はありますが、自分を犠牲にして引き受けてくれる親もろとも救ってくださる阿弥陀佛を疑いなく信じて、もう見捨てられることはないと安心して甘えられる身に、一日も急いで救われることを念じて止みません。

 感謝していること
  本心から何も考えずにただひたすら憑み、甘えられるのは阿弥陀佛であったと信知させられた我が身をよろこばずにおれません。
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大恋愛や大失恋をした経験のある人も信じられます

2018/07/21 16:43
私は長い間御仏を恋焦がれて、それでも信じ切れず、疑い続けていました。やっと心が通じ合ってからは、何で今まで信じられなかったのだろう意地を張ってあれこれ計らっていたのだろうかと本当に不思議でした。

「シラノ・ド・ベルジュラック」の劇は17世紀の話です。詩人、学者、剣士という素晴らしい才能に恵まれ、その上、強く優しい主人公が、生まれながらの大きな醜い鼻を恥じて従妹のロクサアヌへの恋心をじっと胸の奥に押し隠してた物語です。男の心意気(羽飾り)というストィックさに私は感銘を受けています。自分を後回ししても彼女のよろこびや仕合わせを願い、笑顔が見たいと思い遣る心意気をロクサアヌもきづいていました。

 そういう恋愛をした人も又信じられる気がします。自分だけ可愛いような愛し方は、ただの自己愛満足であるばかりでなく、相手を悲しませ泣かせるだけだと散々知らされたので。

感謝していること
毎日の一瞬一瞬を愛おしみ生きられることに有難く感謝しております。


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男性は欲や怒りで、女性は愚痴に悩まされる人が多いのでは?

2018/07/21 15:38
 あれが欲しいこれが欲しい、手に入らなかったらカッとなりキレル男性。自分中心に世界が回り、自分自身や自分の身内は大事にするし気が回るけれど、身内以外には冷淡な女性。こういうパターンを私は今まで多く見てきました。
 
 ハッキリ言って、どっちも「ウザイくてメンドウ」です。結局自分の欲のためには、人を押しのけてでも、その欲が妨げられると暴言を吐いて脅かしてでも黙らせていうことを聞かせる男性たち。自分や身内ばかりに利益誘導する女性たち。考えただけでも、深く付き合いたくないし、関わらないように用心しなくてはならないという気になります。

 どうせ死んでいくのだから、そんなに欲張らないで他人に譲ったり、少々腹が立っても仕方がないと相手に合せたり、自分や身内以外の人たちのことも考える想像力を持ってもいいんじゃないでしょうか。自分さえよければというのは、我利我利亡者といわれ、小さくまとまって、迷いを抜けることに思いを馳せ、広大な世界を目指すことができない気がします。まあ、ただ、私が好きじゃなくて、イラッとするだけかもしれません。譲り合い助け合ってにこやかに穏やかに人生を送っていけたらと存じます。
感謝していること
 今までの人生で、たくさんの方々に、いろいろなことを教えていただき、譲っていただいてきたことを思い出しました。有難いです。
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立場が違うと感じ方が正反対

2018/07/21 11:37
 ある方がこう言われていました。

 「『あなたを嫌う人などいないでしょう』などとたまに言われますが、そうなのかもしれません。でも、私は我慢しているわけではないのですが、娑婆世界はこんなものと『二元論でしかものをとらえられない、本人が慶ぶ褒め方も知らない仕方ない人たちだなぁ』と達観しています。見かけを羨ましがられ、持ち物や生活など褒められることの裏返しが嫌われていないということなら、こいつが落ちぶれた姿もまた見てみたいということなのだろうと穿った見方もしてしまいます。ただ、それも慣れました。どう見られても、私は私で、その価値は変わりません。真理を基準に私は生きているだけです。そんな中、真理を介して心が通じ合える友だちが何人かいるので、まあ、よしというところでしょうかね」。

 誰かを素晴らしいと称賛するときは、自分ができていない、自分にないものを持っているときでしょうから、褒める人は別の部分で、その人よりも優れているところも多少あるかもしれませんが、褒められた人が信頼し、本心を語れる人ではないのです。そんな信頼できない人ばかりに囲まれて、褒められ、または貶されながら、「仕方ない、可愛い人たちだなぁ」と淡々と生きていくしかありません。人生はまさに娑婆世界、堪忍土です。ただ、いつかはそういう人たちも真理との邂逅を果たすことができるよう、ご本人は真理への道を説いてくださっているのかもしれません。真理を生き、人々を真理に導く人は孤高で達観した生き方をされているものだと感じます。

感謝していること
 未熟者の私は「仕方ない」とは割り切れるようになってきました。でも、「可愛い人たち」とは感じられず、「面倒で、あまり関わり合いたくないウザい人たち」としかどうしても思えませんが、それでも何とか生きていられることに感謝します。


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よくやったと頭をなでていただきたい

2018/07/20 23:23
 ただ、私がそこに存在するだけで、真理のお方が、いつも頭をなでてくださっていたイメージがあるのです。自身の使命を果たして私も胸を張って還りたいです。そして、よくやったとお褒めの言葉を賜れるのを心待ちにしております。

 「あなたには辛いことばかりだろうから、行くのは止めておきなさい」と何度止められるのを、お願いしてきたものの、やっぱり地球は、娑婆は私には辛すぎました。一生懸命よかれと思って誰かのためにしたことも、褒められるどころか、怒られたり、迷惑がられたりするところでした。報われることなどほとんどありません。唯一心から褒めてくれたのは、おばあちゃんや両親や数人の恩師や信心を賜った法友くらいでした。だから、私は誰かに何かをしてもらったら、心から慶んで感謝の言葉を言うように心掛けています。私のような者に褒められ感謝されても嬉しくないかもしれませんが、口に出して言うようにしています。

 心ある何人かの人達に感謝され、慶ばれ、褒められるのも有難いですが、やっぱり、真理のお方に褒めてもらえるのが一番嬉しいです。私は物心ついてからずっと、そのお方を探して、お出合いを済ませてからは、その方と一緒に生きてきました。その方が慶ばれることを基準に生きてきました。それしかありません。だから、名聞、利養、勝他も何も要らないのです。ただ一人でも多くの方々をお連れして還りたいだけです。故郷では皆で地球の思い出話ができたらどんなにか嬉しいでしょう。こんなことをある方と語り合いました。「もう勘弁してください。十分ですから」と嬉しい悲鳴を上げるくらい頭をなでていただけるよう精進してまいります。

感謝していること
 素晴しいお出合いに感謝いたします。


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苦しみの根幹を取り除くことしかしたくない

2018/07/20 20:30
 私はカウンセラーの資格を持っていますが、いわゆる傾聴の技術を基本としたカウンセリングが嫌いです。ただ真実を話すための方便として我慢して聞くことはできますし、苦手ではありません。所詮、相手はたいていは何も考えていない凡夫ですから、そんなもののありのままを見させてもらっても、何だかな〜といった感じです。苦しみの枝葉は取り去ることが来ますが、根幹を根こそぎ取り去らなければ、枝葉はまた伸び、苦しみの花が咲き、いつまで経っても、仕合わせな人生を送ることができません。そんなことをいうカウンセラーには滅多に出合えませんが。

とにかく中途半端なのが嫌いで、うんざりします。傾聴できて、相手の気分も分かるけれど、それで対症療法になるだろうけど、そんなことでお金をもらう気にはなれません。また別の苦しみが出てくる、根本的な苦しみの解決ができないままで終わらせるのは、本当の援助でないのです。何かできることや能力と、したいことは別物だと思い知らされました。

ある人と何年か関わり、その人が私に対して時には嫌なことをしてくるのをあまりよく感じていませんでした。でも、ごくたまに困っているとき、助けてくれたりもしてくれてはいます。ただ、その人が忙しそうなときや、機嫌が悪いときは、怒らせないように、とりあえず避けていました。何でこの人は私に対して、意地悪で、我が儘で、気が短く、怒りん坊で、でも、他の人にはなぜいい格好をするのだろうかと冷静に観察し続けていました。

その結果、私自身が、他人に意地悪はしないけれど、他人の悩みや煩悩に対して自分と同様、淡白で、得意なことや気が向けばするけれど、自分がしたくないことはしないという我が儘な質で、顔や態度には出さないけれど、直ぐイラッとして、いい格好をするわけじゃないけれど、積極的に援助活動をするというのではなく、困っているといってきているから何かできることをするといういい加減で適当な人物であることに気がつきました。その人は合わせ鏡というか反面教師のような人だったのです。同じ穴の狢、本質的にそっくりなところをよくよく見せてもらいました。自分自身の優しくもないし、親身にもならない、同情も共感もしない冷たくさばさばした所を嫌というほどリアルに感じさせられた気がします。

たぶん、そういう類いの人間でも苦しみの根幹を無くすことができます。苦しみの根本は性格的なところにあるのではなく、ありのまま、そのままを変えないまま、真理との邂逅をするだけだからです。それを望む人には話ができます。別のことをしてほしい人に対しては、そういう話をしてくれる人をお願いして下さい。私は私のできる仕事をしてまいります。

感謝していること
 私は自分自身を尊重して大事にするようにして生きてきてから、自分が扱うように周りも扱ってくれています。嫌な人とは関わらないよう気を付けてもいます。それでも、巡り合わせというか縁というのか合わせ鏡のような人と関わっていたのはこういうことかと納得しつつ、感謝できました。もうそろそろ、そういう反面教師も飽きてきたので卒業したい、気分よくつきあえる人だけを選んでいこうと決意出来たことに感謝します。


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死ぬほど辛い経験をしたひとしか信頼できない

2018/07/20 19:07
 仮にあるひとが、私のことを信頼してくれていたとしても、やっぱり疑い深い私はその人を本当の意味で信頼できません。そのことが知らされました。

 魂の臨終を迎えて二度生まれの廻心の体験をするまでの私の求道期間は、とても孤独で辛く苦しいものでした。同じ信仰体験をしたひと、もしくは、死の淵に立たされるような病にある人やそれを一時凌いでいるような状況のひとしか私は本当には信頼できません。

  信心の話を共有できる真の意味での友だちがもうダメなのではないかと言ってこられたとき、私は目の前が真っ暗になりました。法の友だちというのは本当に掛け替えの無いものです。どうか、もう少しだけ、病気に飽きて、病気でいることを止めて、生きることに決めて下さい。使命があれば、生きる気力があれば、満身創痍でも、点滴だけでも何年も生きている例を私はたくさん見てまいりました。

 それから、ずっと挨拶をしたり、たまに話をしたりしていた友だちが、大病をして再発はまだないけれど、未だに不安を抱えていると最近、聞きました。そのひともあまり他人を信頼できないと言っていました。その意味は、分かるひとには分かると瞬時に感じ取りました。仕合わせな人生を送ってきたひとは、何でも当たり前で、感謝することができずにいます。感謝の気持ちはひとに教えられるものではありません。

そして、他人に負い目を感じさせ、見下し、粗雑に扱い、自分に都合が悪いと途中で遮ったり、無視したりするひとたちにうんざりしたりします。そういう状態を、このひとたちとは心が通じ合わないし、住んでいる世界が違うのだと悲しいけれど、一種の諦めというか、達観したような境地で生きるようになりました。

もともと、煩悩であまり悩むこともなく、自分中心で世界が動いていなくても構いませんでした。ただ、死の不安の解決ができさえすれば、その場で死んでも後悔しないという気持ちで生きていましたから。それでも、その目的が達成できたら、一人でも多くの人にそういう境地があることを伝えたいと、ただそれだけで、未だ生きながらえています。

何事に対しても淡白で、何かしたいこともなく、縁が来たことをしています。あまり長く生きられるとも思いませんし、生きられるだけ生きたらそれでいいのです。人目を気にするとか、やりたくないことをするのはよそうとしています。せっかく死の解決の目的が達成できたのですから、あとはゆっくり気楽に嫌なことは避けつつ、御恩報謝の道を御仏や同じ境地に達する経験をした法友と共に歩いてまいります。

感謝していること
何も望まない、欲しくないというのは結構気楽です。こんな気持ちでいられることに感謝いたします。


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どんどん夢や希望が色褪せていくけれど、御恩報謝は一時も消えない

2018/07/15 17:56
 あなたが欲しいものは何かと聞かれたら、特に何もないと応えます。
 昔からそうだったのかもしれません。
 阿弥陀仏におまかせの人生になっているので、やってきたことを粛々とこなしています。ただそれだけです。
 私は欲しいものはないのですが、まだ信心を賜っていないひとに対しては、一日も早く弥陀を疑いなく信じる身に救われていただきたい。ただそれだけが私の望みです。
 自分が救われたひとは、その境地を生きている限り、周りのひとたちに話をして欲しいです。
多くの真宗門徒が、「念佛や聴聞を慶んでいます」といいますが、「疑いなく弥陀を信じることが、今生でできるのだ、私が生き証人ですと話を毎日しております」という人には滅多に出合えません。
 おいしいものを食べても、素晴しい景色を見ても、周りの人達に話をしないではいられないのに、なぜ、救われた驚きと慶びを話せないのか不思議でなりません。心に大驚喜心があれば、溢れ、こぼれ出てくるはずです。それができないのは、嫌われたくない、変な人だと思われたくないからでしょうか。それとも自分の信心に確信がないからでしょうか。いずれにしても、いつかは死ぬ有限の命を持った凡夫の私たちですから、生きていいるうちに自身の使命を果たしたらいいだけです。特に、私がアシストして信心を慶ぶ身になった方々には、そのことを強くお伝えいたします。御恩報謝の道をともに歩いてまいりましょう。
感謝していること
御恩報謝の気持ちが絶えることなく出てくることは有難いです。
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どうしよう、悲しくて、苦しくて、涙が止まらない、こんなの嫌だ!

2018/07/11 23:59
 今生でのひととの別れ。

 おばあちゃんや先生たち、大学時代からの医師だった親友とはきちんとお別れができないまま終わりました。

 父とは中途半端な言葉をかけられて、そのまま意識がなくなってしまいました。

 今度は私の御恩報謝を蔭ながら応援してくれた方とお別れしなくてはならないようです。

 何で私を置いてみんないなくなちゃうの!

 泣いちゃいけないと思いながら、電話口で涙が止まりませんでした。

 「お浄土でまたお逢いしましょう」と静かに小さな声でお話しされるのに、また何とも言えない寂しさがこみ上げてきました。

 「あなたの道を真っ直ぐ進んでください」とメールもいただき、私には何ができるのだろうかと、ずっと一人で泣き続けています。

 
 人間は生まれたからには必ず死ぬとは頭では分かっています。でも、それが現実に目の前で、親しくしていたひとがいなくなる事実がわかると耐えられません。

 もうすぐ、私もお浄土に還らせていただきます。

 ただ、今は頭が真っ白で何も考えられません。あと数日、せめて今晩だけはこのどうにもならない気持ちと向き合わせてください。


 感謝していること

 真友がいなければ、怠惰で能力に乏しい私が御恩報謝の道を今まで歩んでは来られませんでした。誰も聞く人がいなくてもう話すのを止めてしまおうと思う度に、何度、励ましていただいたかわかりません。


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聖人一流章

2018/07/11 23:07
「仏のかたより往生は治定せしめたまふ」

仏さまの一人働きで、今生の、いま、ここで往生させていただく身に救われます。信心数え歌では「たすくる弥陀が手を下げて〜」とあります。私の力は何も間に合いません。何もないまま救われました。一息切れたら必ず極楽にまいらせていただきます。

 「仏のかたより」のところを拝読させていただいて、涙が止まらなくなった行信校の同級生の姿を見て、信心を慶ぶひとがいる、そして自分も信心を獲たいと強く思ったと龍大で学ぶ僧侶で大学院生の友だちが話してくれました。行信校で学んでいるときに彼も獲信できたとのことです。

 生死を超える信心決定する世界は蓮如上人が『御文章』で教えてくださるように現実にあるのです。一日も早く阿弥陀仏の本願にみなさまが救われることを念じて止みません


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他人をコントロールしてしまう、コントロールされてしまう癖

2018/07/10 23:20
 上下関係で生きている人たちは、このどちらかの役割を演じて生きています。

 これ以外の関係は居心地が悪いのです。どちらかの立場にある関係で物事が進んでいきます。親子、子弟、上司・部下、その他様々な関係でどちらかが上で、どちらかが下という固定的な役割を演じます。もちろん、お世話になりご恩のある人たちには敬意と尊敬の念を持って接することは大切ですが、人間は真理の元では平等です。

 真理との邂逅を果たした人たちにはそのことが確かに分かるので、上下関係では息苦しく、誰かをコントロールするのもされる関係からは離脱して生きていける道を模索し始めます。多くの人たちが、上下関係でしか生きられない中、そうじゃないところを生きるのは軋轢もあり大変ですが、それに左右されない真理との強い信頼関係があるので大丈夫です。

 また、尊大な自分でもなく、劣等感のあるものでもない、本来のそのまま、ありのままの無理のない生き方ができます。誰かに認められたい、勝ちたいという気持ちがだんだん薄れてきて、いつも真理に護られ、認められていることがとても嬉しく、感謝してご恩返しの生活になります。真理との邂逅ができると、死の不安の解消のほかにこんなこともあります。

感謝していること
 生きていて、この世で存在していていても、死んでもどちらでもいいし、何でもどちらに転んでも構わない感じです。不思議で有難いです。


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とりあえず怒らない!モラハラ加害者は親しい人と上下関係に囚われず生きる訓練を!

2018/07/08 23:48
 モラハラ加害者にとってもアンガ−コントロールはとても大切です。

 怒り、キレるのを我慢することです。

怒りたくなっても、威張りたくなっても、止める選択も出来ます。

 棘を刺したら相手は痛いだろうから、自分から離れてしまうだろうから、止めようと棘を引っ込めることも可能です。

 いつ気が付くかが大事です。

 相手に逃げられない内に「ごめんなさい」を言えるようになれることは難しいですが、出来ます。


 外面がよくて、いい人で通っても、大切な妻、夫、子どもなどに冷淡でキレまくっていると自分も近しい人たちもみんながダメになります。孫から先もずっと連鎖します。この連鎖をどこかで止めないとなりません。

 お金や地位や名誉などがあるから偉いんじゃないんです。それらは他人を仕合わせにするためにあるんです。それらを得るために我慢して着たストレスを盾に大切な家族に怒りをぶちまけ、怖がらせていては本末転倒です。口では称賛しても、心が悲しくいつも泣いている生活をさせていることを考えたら、もっと仲良く、怒らず、威張らず、やり直せるはずです。

  簡単なことですが、モラハラ加害者はそういう感覚が分からないので難しいです。
 怒りを抑えることと共に、「ごめんなさい」を誤魔化さずに言えるようになりことも大切です。

感謝していること
 お金地位名誉などを媒介に上下関係で生きる必要がない人生を生きて来られたことに感謝します。


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優秀で都合のいい者でなくなった(利用価値のない)被害者(サバイバー)の価値

2018/07/08 09:56
 モラハラ等のハラスメントを生きる基軸としている輩の、パートナー選びは、容姿でも職業、収入、家事能力でもありません。
 ただ、ひたすら、ハラッサ―の自己愛性人格障害に対して耐性を持ち、服従し、称賛の言葉や態度を与え続けられるか否かです。サバイバーは利用価値がないので用済みになります。
 
 ハラッサ―が今までの人生を反省し、サバイバーに罪滅ぼしをすることなど滅多にありません。サバイバーは我欲を満たさず不必要な存在ですから、ハラッサ―は次の捕食対象を求めて同じような自己愛を満足させる生活を送れるように気持ちを切り替えるだけです。
 ただ、別の優秀な被害者が見つからない間は、ハラッサ―の本分を発揮できない、気持ちの悪い状態を感じつつ過ごすことになります。

 ハラッサ―は外面がいいので、ハラッサ―であると被害者以外には見抜くことは困難です。被害者も初めはハラッサ―が人当たりがよく、いい人を演じるので騙されます。同居、婚約、婚姻、懐妊、出産という節目でもう相手が逃げられない状態になったときハラスメントが始まるからです。
 なぜ、結婚が決まったのに、子どもが生まれたのにすぐ別れる人たちがいるのだろうかと不思議に思う人がいるでしょう。それはハラッサ―のハラスメントが始まり、それにきづき、それを避けるために逃げたからです。いち早く、そこで逃げられた人は幸せなのかもしれません。仮にバツイチになっても、子供を抱えて一人で育てなければならなくなっても、その先の長く辛い服従人生を考えるなら離れるのは正解です。優秀な被害者は我慢強いので、長く辛い服従人生の法に幸せを感じて分かれない選択を取るのでしょうが、遣り切れない気持がします。
 
 結局自己愛を満たしたり、自己愛に奉仕することで自分を満たす依存者である関係から抜けないと本来の自分で生きられません。
 
上記のことは、そういう状況で生きている人以外、全くピンとこないかもしれません。依存・共依存の関係はその場に入り込まないと分かりません。入り込む要因を持たない人は入りませんし、入れません。入る要因を持っていない人は入りかけても、すぐ違和感を持ちその場には留まりません。逃げます。逃げられないのは、依存・共依存の要因を持つからです。

人間などに依存せず、真理を求めて真理との一体感を求めたらいいのですが、そういうことを教えてくれる人は滅多にいません。仮に教えてもらっても、そういうことを受け入れられる心境にいなければ受け取れませんし、受け取ろうという気にもなれません。

感謝していること
 我慢強くない私にはハラスメントは耐えられない世界です。不確かな依存・共依存関係ではない真理との邂逅ができたことに感謝します。
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騙されちゃいけない!セラピストの全部があなたの幸福を願っているわけじゃない

2018/07/08 09:18
 セラピストをしている理由は一つじゃない。

 利養――生活の糧を得るため

 名聞――名誉を得るため

 勝他――他人と比較し自身の能力の優位をよろこぶため

 仕事なので当然時間を区切り、報酬を得るし、何となくよくなった人が増えれば商売繁盛、自分の方がたくさんの患者を治せているという自己満足がある。要するに仕事なのである。何が悪いと言われればそれまでであるが・・・・・・。

 所詮、カウンセリング、セラピーといっても心の表面上のこと、対人関係のノウハウをちょこちょこっと伝えるだけ。傾聴という耳触りのいい言葉で、カタルシスを促しスッキリしたように見せかけるだけのこともある。患者の真の意味での幸福なんて願えない。自分自身も幸せじゃない人間が他人の幸せを願えるわけがないからだ。心の奥底の闇など問題にできるような、能力技術のあるセラピストや論文にお目にかかったことなどない。

 人を迷いから悟りに導く宗教家、心身を直す医師、教育者には仕事と割り切った利養、名聞、勝他だけではない身を削ってでも成し遂げずにはいられない使命のようなものが必要だと私は感じる。




 宗教はセラピーとは全く違う。根本的な心の闇を解決する。そこには利養、名聞、勝他など関係ない。ただひたすら、目の前の人の迷いが覚めることを願うのみ。自身が真の意味の幸福に導かれ、他にも同じように体験してもらうための研鑽の日々を送る。ただ、そういう宗教家に出合うことも本当に稀である。お経やお聖教の中にしか、もしくはもうこの世にいない、生きていない方々の文献からでしか、私自身は出合ったことがない。




 救われたことを慶ぶ人はたまに見かける。それを嘘だとは言わない。そうなんだろうと感じる。しかし、それなら、その慶びを伝える方法を研鑚して、多くの人たちに分けてあげたらいいのにと歯がゆい思いがある。所詮人生50年ないし100年の間のこと、それならくだらない利養、名聞、勝他に終始せず、また煩悩に翻弄されず、利他の精神で生きたらいい。救われた御恩を感じるなら、ただ、報謝の生活をすればそれでいい。生きていても、つまらないことばかりなので、ここは私の居場所ではない気もする。なので一日も早く故郷に還れることを私は願っている。既に死の解決も出来たので、あとわずかの残された命を有効に使って行く所存である。

感謝していること

 今、できることは粛々として、知り得た知識や経験なども文章などに残せるだけ残して、故郷に還ろうと思えることに感謝します


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ある人たちが傾聴を強調する本当の理由

2018/07/05 09:55
大学院で医療人類学を教えてくださる医師でもある先生と講義終了後に話をしていたふときづいたことがあります。 
 
私「今まで疑問に思っていたのですが、なぜ、「傾聴」もしくは、「共感」、「受容」、「自己一致」などをことさら重要性を強調する人たちがいるのでしょうか?」

先生「自分たちができていないからでしょう。はじめからできているなら空気のような感覚なので、何も言わなくても暗黙の了解となります。」

私「カウンセリングで相手を自分のことのように人間は考えることはできないと私は感じます。(心理学)研究者やセラピストには自己愛性人格障害をもつ人も多いように感じます。究極的には人を助けるのは、真理もしくは『真理のようなもの』の役割ではないでしょうか」

先生「私も人間には出来ないと感じます。」

私「宗教や心理学やカウンセリングは人を仕合わせにするものではないのでしょうか?」

先生「あなたの信じる仏教は違うかもしれませんが、ほかの宗教では突然創造主が切れて怒り出し、罰を与えたりするものもあります。西洋の精神分析も近代哲学も人を幸福にすることが目的ではありません」

私「・・・・・・」

 仕合わせ、幸福が人生の一義的な目的でなく生きている人がいるということを、普段から不思議に感じていましたが、先生との会話で思い知らされました。もちろん先生は、慈悲深く謙虚な方で、おそらく、さんざん苦労された方なので、敢えて私に短い言葉で端的に、人間の実態を教えてくれたのでしょう。
 別の私の親と同年代で、今も現役で研究者とカウンセリングを続けている先生の講義を聴きました。たまたま、先の大学院の先生が学生時代、大学の医学部でこの先生の講義を受講していたとのことでした。
今回の講義の中で、ご自身のことを「自分はアスペルガーではないかと感じている」という話を、先の先生に話したところ、「そんなことはないと思います」といわれました。私もそう感じます。自分勝手な振る舞いをしたり、突然切れて怒り出すなど学生やさほど親しくない人ばかりではなく、誰にでもしないような配慮ができる人は精神障害からは遠い人のような気がします。
感謝していること
 あるほんの限られた時間の、短い会話や言葉の中で、(そこに至るまで、いくつもの伏線があったのでしょうが)、何十年かの疑問が一気に晴れることもあるのだと感謝しております。
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同じような人間が互いに引き寄せられる

2018/07/05 08:49
 https://www.mag2.com/p/money/408287

 フィリピン女性と結婚した50代の男性が求めていたのは、若くて美しい女性との結婚でいわばアクセサリー。その代わりに女は男の金を求めた。本国に妻子は帰国してしまったが、せっせと仕送りを続けた。男が定年退職になり、フィリピンで一緒に暮らしはじめた数か月後に、妻が22万で雇った殺し屋に殺害された。定職での収入が途絶え、搾り取れるものがほとんど無くなった後も、彼が死んだら、子どもが18歳になるまでお金がもらえることを知ったからだ。まさに金の切れ目が縁の切れ目だ。

 
 女も男もそこに信愛、慈愛などというものは存在しない。


 人はなぜ生きるか、何を求めているのか考えさせられる話である。目先のお金や楽な生活のために、歳の離れた冴えない外国人と結婚し、そこにひととして心が通うものやお互いが掛替えのない存在でありえることがないならば、その途中も終末も悲劇的なことの連続となる。そんなことを教えてくれる事例のような気がする。


感謝していること
 何の不思議か人生は、衣食住をただ満たすことではないと知らされました。どういうご縁があったのか、真理を求め、真理との邂逅を果たして、いつ死んでも魂の故郷に還れることは大いなる慶びです。


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涼やかな風と、にこやかな穏やかな光の中での日々

2018/07/04 09:40
 残り少ない自分の人生の時間を愛おしむように生きていきます。
 比べず、争わず、ただ感謝していきます。
 真理との邂逅の方向性を示し、磁石となり一人でも多くの人を引き付けて、故郷に還っていきます。
 昨夜は、涼しい風が吹いていて、木々の葉のこすれ合う微かな音を心地よく感じながら、夜の明かりが燦々と降り注ぐ大学の構内を図書館から体育館まで歩いていました。一日も早くこの場から巣立ち、本当の意味で使命を果たそうと決意しました。
感謝していること
 今できることを淡々と毎日こなしていくしかできません。そのご縁の中でしか、私にできることはないのかもしれません。日々のご縁に感謝します。
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サボったことや手を抜いたことがバレる怖さを知らない人

2018/06/28 16:28
https://ameblo.jp/giida/entry-12386917049.html?frm_id=v.mypage-checklist--article--blog----giida_12386917049

ひととの関わりや仕事で私は手を抜きません。何かを雑に扱うことは自分をも又雑に扱い粗末にすることだと知っているからです。サボったことや手を抜いたことがバレたとき、死ぬほど恥ずかしいです。相手に対してもですが、自分に対して死にたくなるくらいな気持ちになります。能力がなくて、不完全な仕事になるのは仕方ありません。それでも、その持ってる能力の内の最大限を示すことはできます。

他人を上下関係でしか判断せず、目上の人には従順な振りをして、目下には上から目線で接し、自分の道具にならないと分かった途端に切り捨てる人たちを沢山見てきました。とても悲しいことです。

眼の前や周りの人たちを自分の分身のように感じ、自分と同じように大切に心を込めて扱うことができたら、自他共に仕合わせな気分になれます。やってみたらわかります。

感謝していること
いいことも悪いこともいろいろな機会で見せてもらってこういう方向で生きていこうと知らされます。有難いです。


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