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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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凡夫そのままのお助けと疑いなく聞く

2019/01/20 20:38
「自分の計らいではなく、凡夫そのままのお助けと疑いなく聞かせていただいております」
と電話口から張りのあるお声でよろこびを聞かせていただきました。
この世のどんなことよりも嬉しくて仕方がありません。
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最近の記事

2019/01/19 21:16
最近書いたものをまとめてみました

先日、信心の沙汰をした人と電話で話をしました。疑いが晴れたので、疑っているままで救われるのが尊い本願だと誤魔化すために称えていた念仏と違う念仏が出てくるようになったといわれていました。このまま、しばらく様子を見てくださいとお伝えしました。

「お手次ぎ」と「受け念仏」という概念を知りました。法座で話しの合間に合いの手のように念仏する老人たちにずっと違和感がありました。かつてのアイドル歌手の歌の合間に「〇〇ちゃ〜ん」と叫ぶ人たちに対する嫌悪を惹起し、今でも超苦手です。私は大切なおもいは内に秘めます。

「お経の中にその名号を聞くと言われたのは凡夫そのままのお助けということ」
これに対してどう受けるか?

 もしもう少し生きられるなら、若いひとたちが後世の役に立つことをするお手伝いができたら嬉しいです。そうなれるといいなぁ

 世の中には信心獲得の人と未信の人がいます。信心の人の中にも仏恩報謝のために、阿弥陀仏のご本願をお話しされる方も、自分一人で法話や念仏を慶ぶ方もあります。私は残り少ない今生のいのちを一人でも、一言でも多くの方々に弥陀ましまして、今ここで救われることをお話ししています。

 学問の世界でもどういう方から教えを受けるかで、その後の研究や影響が異なってきます。御恩報謝の道も、どのような方から話を聞くかで、信後の活動が違ってきます。法然聖人を師に持たれたからこその親鸞聖人の御活躍だったのでしょう。

 「生けらば念仏の功つもり 死なば浄土へまいりなん とてもかくてもこの身には 思いわずらうことぞなき と思いぬれば 死生共にわずらいなし」(『法然上人行状絵図』巻第二十一)

 宗教的体験(信心獲得)をもって生死超える道を未だ知らない世界中の学者たちが、どうして真の人生観・死生学など語ることができようか。アカデミック人生論を私は誠に遺憾に感じます。

 生死を分けて死生学や人生哲学を講義し論文を書く世界中の学者に物申す。あなたたちは何もわかっていない。ただ、金や名誉や地位の為のくだらない仕事にくみしているだけだ!必ず臨終に大きな悔悟の念を起こすだろう。よくよく反省しなさい。

 信心がない人のことを批判するばかりで、信心のない人たちに自ら歩み寄り、対話を重ねて信心を賜ってもらう研鑽を怠っている人たちが、私は残念で遺憾です。でも、仕方ありません。御恩報謝の気持ちがないひとにいくら何を言っても始まりません。せいぜい自身の信心だけよろこんで自慢する生き方を楽しんでください。

 御縁、仏縁、宿善の薄い人たちは真実の仏の願いを話すと、鋭い刃でこちらに切り付けてきます。「お断りします」「聞きたくない」「取るに足らない話をする時間泥棒」悲しみながらも、今私が逃げたらほかに話す人がないと耐えるのは本当に辛いことです。

 私ただの凡夫なので、謗られ罵倒され罵倒されようと別に構いません。でも真実の仏の願いを謗る罪を造らせるのは残念で悲しいです。謗ることもご縁になると教えられても、仏さまに申し訳が立ちません。悔しくあわれで、悲しい中を生きていくのが娑婆世界というところなのでしょうか?辛すぎます。

 今死ぬと思えないから、信心の話など聞きたくない、お断りしますなどと呑気なことが言えるのだ。もう人生の折り返しをとっくに過ぎていながら、まだ、金や名誉や地位が欲しいのか?迷いの六道をまた輪廻されるのでしょうね。曠劫を迷い続けると親鸞聖人は仰せです。

オックスブリッチだ、ハーバードだ、極東の東大、京大だと威張ってみても、生死を超える道に出ていなければ、ただの自己満足の構ってチャン。やがて特別養護老人ホームで、風船バレーやペットボトルボーリングをしている仲間たちを馬鹿にしつつ、孤独に死ぬ怖い未来が待っています。

「遺体や遺骨を遺族に受け取り拒否される人生って一体何?」自治体から身内の死亡の連絡を受け、火葬代だけ払い、火葬場で見送りもせず、後はおまかせ。電車の網棚や公衆トイレ等に遺骨を放置された人を誰が嗤うの?人生を考え直さないと。

 どこからきて、何のために生まれ、生きて、どこに行くかすら分からないくせに学生たちの仕分けをして偉そうに教える教員に嫌悪感と違和感、そして憐れみの混じった感覚を抱きます

 サイコパス、モラハラ加害者(自己愛性人格障害)とは関わってはいけない。彼らは内省も、感情を言語化することもできない。これらを価値のないコスパの悪いものだと切り捨てるロジックを振り回し、誤魔化して煙に巻くのが得意だから。

 本当に頭が良い人は永遠の安寧、生死出る道、真理の邂逅を目指す。本当に綺麗な人は、内面の美しさを追求し、外見の美しさを他人にきづかれ、心の目が曇ることで、嫌な思いをしないよう普段は美しさを表に出さずに隠して、決してひけらかさない。

 ほとんど勉強せず、トップクラスの成績で難関国立医学部に入って出て、医師をしている友だちが何人かいます。その人たちから見下されたことはいまだかつてありません。世間的な記憶力などの頭のよさよりも、ひととしていま、ここで楽しむ時間を一緒に過ごしています。

エネルギー、オーラと一緒にたまに感じる何かがあります。スティッキー:いわゆるねばった、剥がしても油じみが残るような後味の悪さがある感覚です。でも、最近は、はりつかないうちにスッと少しズレるか、高速風力で飛ばすか、ぼやぼやしていて、付いてしまっても、高圧水流のイメージで洗い流します。

「宗教観を持たない日本の東大をはじめとする有名大学の男子学生やOBの精神年齢は幼稚園以下」
 決して、幼稚園児を馬鹿にするわけではありません。幼稚園児の中にも宗教観が育つ環境にあり、真剣に人生と対峙している男の子がいることを幼稚園の教員資格を持つ私は知っています。彼らに対しては尊敬の念を持って未来に素晴らしい活躍をされることを願っております。

 馬鹿野郎という言葉があります。この言葉においては、馬鹿は男と相場が決まっているのかもしれません。女が寄ってたかって、男をいたぶり、「突起物の付属する物」扱いする場面は全くないとは言いませんが、極めて少ないです。ほとんどの女性はだだ生活するだけで、本当に困難な状況に置かれていて、二流紙民扱いをされ、家事ロボットとして家庭では夫や子どもに扱われます。馬鹿野郎にそんな扱いを受け、こき使われる女性ですが、仕返しをしません。
 なぜなら、女はくだらないことに関わっていられるほど暇ではないからです。学齢期にはスクールカーストで気を使い、大学でやっと勉強に専念できると思ったら、大学の後半では卒論と並行して、就職活動が待っています。
 かなりの差別を潜り抜け、上手いこと就職して後、資格があるとか特出した能力を持ち自身で会社を立ち上げるなどする特別な機会に恵まれる女性もいます。しかし、現在の日本において、ほとんどの女性は責任のある仕事を任せてもらえません。正社員にしがみつくのは、非正規になるとボーナスも出ず、時給千円以下のパートタイムの仕事しかないからです。だから結婚しても、家事子育で夫の協力をほとんどあてにせず、感謝もされず、当たり前のような扱いで、家庭のあらゆる役割を一人で引き受け抜け殻のように疲れ果てる人生を送ることになります。

 このように女性たちは常に生活の家事に追われ、さらに補助的な家族を賄う金銭を得るための仕事に疲れ果てています。だから、男性を玩具にして性欲を満たしたりする時間などほとんどありません。そんなことをするなら何もせずに寝ていた方がよっぽどましです。
 学歴を鼻に掛けない、本当に優秀な男性たちもいます。彼らはもともと天才的な能力を持っているので、それが当たり前で、誰かに褒めてもらおうとは思っていません。今さえよければいいという刹那的な考えばかりではなく、先を見通す能力もありますので、そんなことより人生の意味を考えたり、真理との邂逅を済ませて今生を終えることに専念します。

 同時に、今、このときを楽しむ術を常に考えています。元々頭が良いので、その場の空気や他人の気持ちをすぐに把握できるので、他人に引け目を感じさせることは避けますし、一緒にいてとにかく楽しいし疲れません。

余談ですが、女性でも本当に心の中からも滲み出る美しさを持った人たちはそれを自慢することはありません。むしろ外面を褒められることを嫌悪します。なぜ内面のことについて話ができる人が少ないのだろうかといつも疑問に感じています。そういうものなのです。

  宗教心もなく、中途半端な学歴信奉主義の親に育てられた、プライドだけ高い馬鹿野郎がサイコパス、モラハラ加害者(自己愛性人格障害者)になります。彼らの両親や先祖も同じカテゴリーの輩で、連綿と連鎖するのです。
その連鎖の外で生きている人たちは、彼らのことを理解する事は出来ません。少なくとも今生では無理です。だから、関わってはいけないのです。関わると、レイプされたり、慰めものとして性的恥辱を与えられたり、優越感を満たすために「頭が悪い」「馬鹿女」とほかでもない「馬鹿野郎」たちに愚弄されます。

宗教心がしっかりした家庭で育ち、人生の意味を真剣に考え、真理との邂逅を求めるひとたちの中では到底考えられないことが、ここ日本では起こっています。日本だけでなく世界中であるのでしょうが、宗教を信奉する人たちが政権や社会の中枢の重要な地位にある場合、サイコパスやモラハラ加害者は睨みをきかされて、大きな顔は出来ないのです。日本の場合、リーダー的存在にあるものが、無宗教であったり、おかしな考え方をするサイコパスやモラハラ加害者であることが考えられ、とても危機的状況であります。

直木賞作家の姫野カオルコさんは怒りを持って、『彼女は頭が悪いから』という小説を書きました。私も同様に怒っています。この行き場のない怒りを、多くの方々と共有したいと存じます。

感謝していること
世の中には真っ当な考え方を持つ人もいます。そういう人たちはもっと声をあげないといけません。姫野さんの小説でそれを痛感しました。

理不尽なことには怒っても構いません。許さなくてもいいです。目一杯怒らないと、いつまでも怒りの炎は消えません。怒りの原因の本人にぶつけるのが一番ですが、死んでしまっていたりなどでできない時は、反面教師にします。自分は絶対同じことは死ぬまでしないと決意します。

「出ていけ」、「黙れ」というハラスメントキーワードを発する人たちって何様?自身も家庭や学校や職場などで言われてきたの?大切に丁寧に扱われてこなかったの?これらを発した途端、相手との関係が終わるけどきづかない?サイコパスだからわざとなの?自分が言われても平気?

他人を尊敬・尊重できる人は同様生き方をするひとたちからは同じように扱われます。一方、サイコパスか粗野で自己中の人たちからはいくら心を尽くしてもとんでもなく酷い扱いを受けます。関わる相手を慎重に選ばないと、ボロボロの抜け殻になります。

「昨日のこと」
「最後の最後、何とかすれば何とかなれるという、自力我慢の心が抜けないその方に、私は何を話したらいいのだろうか」とこんなことを道中考えながら自転車をこぎました。衣笠の大学から、途中、朱雀の自宅でCDをカバンに入れて深草の大学の正門に向かいました。

 「まだ、楽がしたい。現世利益を求める気持ちが抜けません」と仰るその方に言いました。

 「いつまで生きているつもりですか。長綱をはいていないで、臨終を今に持ってきてください。今死んだら、大事にしている身体さえも焼かれていくのですよ。

 何もあてにならないものに、どうして頼ろうとするのですか。生死を超えるために何か一つでも役に立つ、間に合うことがあるのですか。

 地獄と聞いても驚かない、極楽に行きたくもない。この迷った娑婆が大好きで、救われたいなどと全く思っていない逆法の屍が私であり、疑いを自分の力で晴らすことなどできなかったと知らされたとき、このまま、ありのままの私を救ってくださる阿弥陀仏のご本願が賜れます。

 空っぼで何もないところに、仏智が満入します。まだ何かある、何かできる、間に合うものがあるというのは、阿弥陀さまの頭の上で、腐った脳みそをかき回して、あれこれ計らい、必ず救うという命懸けの広大無辺なお力に底を敷いているのです。私が救われないのは阿弥陀さまの能力不足と。 

 どうか、阿弥陀仏に、今、ここで救われてください。命がある内に本願を賜ってください。」

こんな話をした帰り際にその方は言われました。

「救われたらあなたのように遠くても、寒くても、いても立ってもいられず、救われたいひとに話に来られるのでしょうね」

「特別なことではありません。当たり前のことをしているだけです。私にとっての御恩報謝は、阿弥陀仏のご本願が生きて働いていることをお話しして、一人でも多くの方々と極楽に参らせていただくことです。能力のない私はまだ何もできていません。それが申し訳なくて、ご縁のある方があれば、少しでもお話しさせていただいているだけです。」

このように申し上げて、まだご本願を賜っていらっしゃらないことが残念でしたが、龍大を後にしました。夜でも朝でも聴聞ができるようにCDをお渡しして、ご縁を念じつつ、後はその方と、阿弥陀如来の間のことで、私はもうここまでと。

感謝していること
 最近は、御縁の深い方々が、途絶えることなく私の周りに集まって、阿弥陀さまのご本願を聞いてくださることが嬉しくて仕方がありません。

 宗教だけでなく研究において、直感等の感覚は大切です。何かが降りてくるというもの以外にも、何となく気が進まない、読む気がしないという対象は要注意です。それは研究に値しないものであることが多いです。そんなときは、さっさと切り上げるてほかにいく勇気も必要です。

 昨年の夏の十日間余り、私はどうしようもなく嫌な体験をしました。つまらない慢心から人間はこんなにも嫌な奴になれるのだろうかという驚きが今でもあります。それを反面教師にしたり、乗り越えようとしましたが無理でした。その痛みを死ぬまで持ち続けていってあげようと最近決意できました。

 教員やカウンセラーはまず、目の前の人が何を感じているのかを聞くことに専念します。取るに足らないこと、とんでもない誇大妄想を耳にしても、怒らず、決して黙れと言ってはなりません。なぜなら、黙れ、出ていけと言われたら、弱い立場のその人は、無言でその場を去らないとならないからです。

 未信の人たちの言葉は氷のように冷たく突き刺さります。腐った脳みそを掻きまわして出てきた言葉をそのまま、信心の沙汰をしてくれる他力を知った人に吐きだします。御仏と共に、信心の人は憐れみ悲しみながら涙をこらえ黙って聞きます。信後、初めてこの苦しみにをきづきます。

 どんなことをしても何とか救われて欲しいと願うこころを知らない未信の人たちは好き放題の暴言を吐きます。なぜ救ってくれないのかと、腐った脳みそを総動員し、仏さまのお約束を疑い、底を敷きます。浅ましい、大変な罪ですが、御仏と一緒に泣きながら、ただ聴くしかありません。

 ライトワーカーや信心の沙汰をする他力のひとはなぜ、法を謗り、煩悩塗れであることを恥じ知らない好き勝手放題の人たちの為に、自分の時間を費すかといえば、自分もかつてこころをかけていただきながら、通った道だから耐えられるのです。

ほとんどの人は広大無辺な真理を見ず、狭く暗い卵の殻の中で、腐って死にます。素晴らしい境地を未だ知らない人たちなので、その狭く、腐敗臭のする場所が好きなんです。憐愍の念が湧きますが、御縁がない、もしくは薄い人たちなので仕方ありません。でも不請の友を買って出ます。

布教師も含めひとに教える人たちの養成の要は教え子の人格の涵養を常に念じられるか否かです。感じていることに耳を傾け、否定することなく、より佳き方向を示役目を果たすだけです。彼らはしばしば自分を超える素晴らしいことを教えてくれます。なぜなら、教え子は自分よりも偉大で、無限の可能性を持つからです。

 自身の能力の限界と若いひとたちの可能性を知っているから教員をしているのです。学校に雇われ、養われなくても、本も売れ、世界中から講演、講義などの依頼があります。その方が自由だしやりがいがありますが、できないから宮仕えをするしかないのです。そこのところを勘違いないように!

「お前は馬鹿だ!」これを暗に言われたことがあります。「周りの人たちはみんな自分より賢いと思った方がいいですよ」と。
「それは私が馬鹿だと、馬鹿にしているんですか?」と聞き返しました。その後、周りの人と私は真摯に関わっているけど、自分を卑下はしないと伝えました。

多種多様なことを知るのが賢い人ではありません。大量の知識はかえって人を不安に追い込みます。相対の知識には限がないからです。要る物要らないものを峻別し、必要なもの、大切なものだけと深く狭く関われるのが本当にものを知る優れた人です。多くの人はそれを知りません。

蓮如上人は親鸞聖人の教えを捻じ曲げていると宗教の学会で得意げに根拠を挙げて発表した研究者がいたそうです。

「無礼者!」「愚か者!」「馬鹿野郎!」としか信心決定の身の上からは言えないと内に秘めて真宗学者が冷静に反論したそうです。

宗教研究と信仰体験は切り離せません。客観的に再現性を求めるのは、相対の考え方です。信仰はただ私一人の身の上に起きる一回性の出来事なのです。信心獲得した体験がない者に、その重大性が分かりません。今生で救われないなら迷いの道を繰り返す悔恨の念の危機感を持たずにいられません。
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昨日のこと

2019/01/17 21:03

「最後の最後、何とかすれば何とかなれるという、自力我慢の心が抜けないその方に、私は何を話したらいいのだろうか」とこんなことを道中考えながら自転車をこぎました。衣笠の大学から、途中、朱雀の自宅で御説法のCDをカバンに入れて深草の大学の正門に向かいました。

 「まだ、楽がしたい。現世利益を求める気持ちが抜けません」と仰るその方に言いました。

 「いつまで生きているつもりですか。長綱をはいていないで、臨終を今に持ってきてください。今死んだら、大事にしている身体さえも焼かれていくのですよ。
 何もあてにならないものに、どうして頼ろうとするのですか。生死を超えるために何か一つでも役に立つ、間に合うことがあるのですか。
 地獄と聞いても驚かない、極楽に行きたくもない。この迷った娑婆が大好きで、救われたいなどと全く思っていない逆法の屍が私であり、疑いを自分の力で晴らすことなどできなかったと知らされたとき、このまま、ありのままの私を救ってくださる阿弥陀仏のご本願が賜れます。
 空っぼで何もないところに、仏智が満入します。まだ何かある、何かできる、間に合うものがあるというのは、阿弥陀さまの頭の上で、腐った脳みそをかき回して、あれこれ計らい、必ず救うという命懸けの広大無辺なお力に底を敷いているのです。私が救われないのは阿弥陀さまの能力不足と。 
 どうか、阿弥陀仏に、今、ここで救われてください。命がある内に本願を賜ってください。」

 こんな話をした帰り際にその方は言われました。

 「救われたらあなたのように遠くても、寒くても、いても立ってもいられず、救われたいひとに話に来られるのでしょうね」

  「特別なことではありません。当たり前のことをしているだけです。私にとっての御恩報謝は、阿弥陀仏のご本願が生きて働いていることをお話しして、一人でも多くの方々と極楽に参らせていただくことです。能力のない私はまだ何もできていません。それが申し訳なくて、ご縁のある方があれば、少しでもお話しさせていただいているだけです。」

  このように申し上げて、まだご本願を賜っていらっしゃらないことが残念でしたが、龍大を後にしました。夜でも朝でも聴聞ができるようにCDをお渡しして、ご縁を念じつつ、後はその方と、阿弥陀如来の間のことで、私はもうここまでと。

感謝していること
 最近は、御縁の深い方々が、途絶えることなく私の周りに集まって、阿弥陀さまのご本願を聞いてくださることが嬉しくて仕方がありません。
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宗教観を持たない東大をはじめとする有名大学の男子学生の頭の中身は幼稚園以下

2019/01/14 11:04
 決して、幼稚園児を馬鹿にするわけではありません。幼稚園児の中にも宗教観が育つ環境にあり、真剣に人生と対峙している男の子がいることを幼稚園の教員資格を持つ私は知っています。彼らに対しては尊敬の念を持って未来に素晴らしい活躍をされることを願っております。

  馬鹿野郎という言葉があります。この言葉においては、馬鹿は男と相場が決まっているのかもしれません。女が寄ってたかって、男をいたぶり、突起物の付属する物扱いする場面は全くないとは言いませんが、極めて少ないです。ほとんどの女性は本当に困難な上場に置かれていて、二流紙民扱いをされ、家事ロボットとして家庭では夫や子どもに扱われます。馬鹿野郎にそんな扱いを受け、こき使われる女性ですが、仕返しをしません。

 なぜなら、女はくだらないことに関わっていられるほど暇ではないからです。学齢期にはスクールカーストで気を使い、大学でやっと勉強に専念できると思ったら、大学の後半では卒論と並行して、就職活動が待っています。
 かなりの差別を潜り抜け、上手いこと就職して、資格があるとか特出した能力を持ち自身で会社を立ち上げるなどする特別な機会に恵まれた女性もいます。しかし、現在の日本において、ほとんどの女性は責任のある仕事を任せてもらえません。正社員にしがみつくのは、非正規になるとボーナスも出ず、時給千円以下のパートタイムの仕事しかないからです。だから結婚しても、家事子育で夫の協力をほとんどあてにせず、感謝もされず、当たり前のような扱いで、家庭のあらゆる役割を一人で引き受け抜け殻のように疲れ果てる人生を送ることになります。

 このように女性たちは常に生活の家事に追われ、さらに補助的な家族を賄う金銭を得るための仕事に疲れ果てています。だから、男性を玩具にして性欲を満たしたりする時間などほとんどありません。そんなことをするなら何もせずに寝ていた方がよっぽどましです。

 学歴を鼻に掛けない、本当に優秀な男性たちもいます。彼らはもともと天才的な能力を持っているので、それが当たり前で、誰かに褒めてもらおうとは思っていません。今さえよければいいという刹那的な考えばかりではなく、先を見通す能力もありますので、そんなことより人生の意味を考えたり、真理との邂逅を済ませて今生を終えることに専念します。
 同時に、今、このときを楽しむ術を常に考えています。元々頭が良いので、その場の空気や他人の気持ちをすぐに把握できるので、他人に引け目を感じさせることは避けますし、一緒にいてとにかく楽しいし疲れません。

余談ですが、女性でも本当に心の中からも滲み出る美しさを持った人たちはそれを自慢することはありません。むしろ外面を褒められることを嫌悪します。なぜ内面のことについて話ができる人が少ないのだろうかといつも疑問に感じています。そういうものなのです。

  宗教心もなく、中途半端な学歴信奉主義の親に育てられた、プライドだけ高い馬鹿野郎がサイコパス、モラハラ加害者(自己愛性人格障害者)になります。彼らの両親や先祖も同じカテゴリーの輩で、面々と連鎖するのです。
 その連鎖の外で生きている人たちは、彼らのことを理解する事は出来ません。少なくとも今生では無理です。だから、関わってはいけないのです。関わると、レイプされたり、慰めものとして性的恥辱を与えられたり、優越感を満たすために「頭が悪い」「馬鹿女」とほかでもない「馬鹿野郎」たちに愚弄されます。

 宗教心がしっかりした家庭で育ち、人生の意味を真剣に考え、真理との邂逅を求めるひとたちの中では到底考えられないことが、ここ日本では起こっています。日本だけでなく世界中であるのでしょうが、宗教を信奉する人たちが政権や社会の中枢の重要な地位にある場合、サイコパスやモラハラ加害者は睨みをきかされて、大きな顔は出来ないのです。日本の場合、リーダー的存在にあるものが、無宗教であったり、おかしな考え方をするサイコパスやモラハラ加害者であることが考えられ、とても危機的状況であります。

 直木賞作家の姫野カオルコさんは怒りを持って、『彼女は頭が悪いから』という小説を書きました。私も同様に怒っています。この行き場のない怒りを、多くの方々と共有したいと存じます。

感謝していること
 世の中には真っ当な考え方を持つ人もいます。そういう人たちはもっと声をあげないといけません。姫野さんの小説でそれを痛感しました。
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法然聖人のお言葉

2019/01/12 09:48
「生けらば念仏の功つもり 死なば浄土へまいりなん とてもかくてもこの身には 思いわずらうことぞなき と思いぬれば 死生共にわずらいなし」(『法然上人行状絵図』巻第二十一)
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凡夫そのままのお助け

2019/01/12 07:27
「お経の中にその名号を聞くと言われたのは凡夫そのままのお助けということ」
これに対してどう受けるか?
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人世の軸となる第三の真理軸

2019/01/08 22:36
独楽に軸がないと回らないように人生にも軸が必要だと仏教の先生から自身の師もおっしゃっていたと教えていただきました。
他人でも自分でもない第三の真実の軸を賜って明日で10年になります。
御恩報謝が何もできず、無駄な時を過ごてしまい御仏には申し訳なく感じております。
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真理軸で生きる

2019/01/07 11:44
他人軸でも、自分軸でもなく真理という新しい基準を得て菩薩道を行くスタートラインが信心決定。
それを支えるのが他力です。
梯さんの「他力の心」を昨日信心のお話をした方と一緒に聴聞して改めて知らされました。
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機抜けの信心

2019/01/07 00:51
この言葉を初めて聞きました。
二種深信の法の深信の部分だけが感じられ有難がります。
しかし、機の深信、疑う罪が分かりません。
二つの深信が同時にたたず、化城に陥っている者を指すようです。
化城のほとんどがこれです。
的確な表現でした。
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どんなに辛く苦しい目に遭っても、まだ懲りないで迷っていると感じない残念な人たち

2019/01/05 22:56
 うそだろ、いい加減きづいたら!
 目を覆うような虐待を受けながらも、虐待の主を庇う発言をする人たちって何?

 モラハラ、DVは支配やコントロールであり、加害者を肯定したら、そこから抜けられません。何で、殴る蹴るをするけど、いいときもあるし、酒さえ飲まなければ日頃は大人しい優しい人なんだけれどなんて擁護するの?殺されない内に、身心が痛くならないうち逃げなよ!自由に生きる道は何十何百だってあるのですから。探せばいいです。囚われのブロックを外したらいいだけです。

 しらふだろうと、酒飲んでいようと、体格・体力で勝る男が殴る蹴るをした時点で関係は終わってます。「黙れ、出ていけ」も同様です。その場で「もう一度このようなことがあったら、私はあなたの前から姿を消します。もう二度と関わることはないでしょう。本気でさよならします。」と告げて、再び同じことがあれば、もうやり直す事は出来ないのだと毅然とした態度を取れる人は少ないのでしょうか。

 こんなに辛いなら、早くこんな娑婆で苦しむのを止めにして、覚りの清浄な世界に転じる身に今ここで救われたいとなぜ決意できないのでしょうか?中途半端な苦しみなので、それほど困っていないのですね。残念ですが仕方ありません。私には他人を変える力はありません。

 たぶん、死の解決ができた後なら、モラハラやDVをする相手とは、もう今生では二度と関わることなしでも生きていけると徐々にわかってきます。孤独だ、淋しいという仏や菩薩はいませんから。覚った後は、ずっと衆生済度の活躍の活動があるのみですから。

 もし仮に、生活もままならない様で、あまりにも辛すぎて人生を続けていくことが不可能なら、私なら死を選び、死にます。この世にすがるものも、当てにするものも、何の未練もありませんので。まあ、死ぬ気で何事にも臨んだら怖いものなしですけれど。

感謝していること
 嫌なことは嫌だと面と向かっていうとか、何らかの方法で伝えられることができるようになりとても楽になりました。


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平成最後の新年のご挨拶

2019/01/03 21:37
本年もよろしくお願いいたします。

今年は1月の末から2月の初めにかけてトルコに旅行に行きます。

大好きなヨーロッパにもまたいつか行けたら嬉しいです。今度はポルトガルに行きたいです。

キラキラと輝きながら、ときめく時間を十分味わい切り、一瞬一瞬を大切に生きていく所存です。

軽く明るく楽しくが今後のキーワードです。


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信心の沙汰を引き受ける条件

2018/12/27 09:21
いま、ここで信心を賜りたい。
命は、一日に譬えると23時59分59秒。(もう後がない)。
お金、地位、名誉、肉親、友人など何もあてにできなかった。
一度限りの縁で、信心を賜る覚悟がある。

これらが一つでも欠けたら
お断りします。
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私はもう死んでもいい!

2018/12/25 23:43
「信心決定」、「信心獲得」、「信心一つで救われる」、「自信教人信」
これらの言葉をリアルタイムで自分の耳で聞くなんて夢のようでした。
確実に根を下ろして教えが受け継がれていると感じた瞬間でした。
もう私は死んでもいいと思いました。月が綺麗だったわけじゃありません。
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平生業成(二度の臨終)

2018/12/22 11:22
平成二十六年の梯實圓和上のご葬儀に、天岸浄圓先生が御法話の際、「この度のご往生おめでとうございます」とおっしゃたそうです。続いて、法要読経のあと、梯和上の奥様が天岸先生のお言葉を受けて挨拶されました。

「みなさん私が亡くなったときは、必ず『往生おめでとうございます』と言って下さい!。その時までは今しばらくお念仏を称えながら日暮らしさせていただきます。」

梯先生のご往生を私はインターネットで知りましたので、ご葬儀の御縁はありませんでした。昨日の天岸先生との対話で「『お赤飯を炊きましょう』とまでは言いませんでしたが、『ご往生おめでとうございます』とは言いました」と直接お聞きしました。

この先、私が死んでも悲しむことなく、
「往生おめでとう!」と見送ってください。そして近い将来、またお浄土でお逢いしましょう!

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罪悪感の追求から離れられるまで

2018/12/02 16:18
 真理を受け取ろうと邂逅を望んだ時、いい人にならねばと考える人が多くいます。悪を止め、善を行じる仏教でいわれる廃悪修善のことです。

 しかし、悪は底なしです。それを見ていっても、限も際もありません。そして三次元の人間として、生きるためには悪は造らなければならないものです。

 問題はそこではないのだときづいたときから、真の意味での求道が始まります。では善悪を超えたものとは何か、それが真理というのであればそれをどう受け取るのかに気持ちが向きます。それは宗教と表現されるところのものです。

 それを受け取るには疑いという蓋があるうちは何か安心満足ができません。そこを乗り越えたら本当に自分と一体化した気持ちになれます。だからといって、安易なまじないや奇跡でそこを突破できるわけでもありません。そこまでの過程を私はいろいろ説明してきました。それをまとめてきちんと文章化している最中です。以下に分かり易く誤解の内容に表現できるか、大学院に身を置きつつ、模索しています。

 罪悪を突き詰めていく過程で、自身のものばかりではなく周りの人たちの罪悪が気になり、争いを引き起こすことが20世紀では頻繁にあり、大きな戦争が度々ありました。これからは罪悪をみていくのではない、無常やほかのものでの真理との邂逅の道を私は模索しております。大変な道のりですが、できるところまでで今生の使命は終わります。

感謝していること
 罪悪を気にする人たちの間にあって、私は様々な違和感や忸怩たる気持ちを抱いてきました。これを活かし忘れることなく生かして人々が真理との邂逅を目指せる道筋の一つを提示できたら幸いです。


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如来大悲の涙

2018/11/30 22:09
「或る日の夕方、友人が送ってくれた『法悦』という雑誌を読んでいると、白井助教授の一文がピタリと私の目にふれた。 『その疑情、ハカライ、自力の心があるために、仏の声を聞くことのできぬ私を、如来様は哀れみたもうて、一念一刹那も休む間もなく、大悲の涙を垂れたもうのである』との一文に、ぼくは参ってしまったのです。この文章を通じて生きた如来様の説法をききました。さながら剣道の達人から一気に脳天をたゝかれて、ハッキリと降参しました。これでモウ充分です。ぐったりと疲れはてゝ涙も出ない有様でした。むりな病を治せとか、淋しい私を救えとか、地獄があれば見せよとか、早く信心を賜われとか、さんざんにだゞをこねて親泣かせをしていた私の自性に、気づかせてもらいました。私の求道は、結局、如来の無限の大悲で私の我慢心を破るための戦いでありました。」
伊藤康善『死を凝視して』二八〜二九頁

白井さんの文章は私も胸が熱くなります。
 「その疑情、ハカライ、自力の心があるために、仏の声を聞くことのできぬ私を、如来様は哀れみたもうて、一念一刹那も休む間もなく、大悲の涙を垂れたもうのである」
 いつか自力を無くすることができ、信心決定する未来の予定を立てて何をするわけでもなく平気でいる、その迷っていることにもきづかない暗い心を哀れみ給う御仏の憶いが確かに静かに伝わってまいります。

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一番大切なひとに、激怒したり無視したりして拗ねて甘えるのは淋しさから

2018/11/30 20:21
 本当は大切なひとに優しくしたいのに、裏腹なことをしている人たち見ているととても胸が痛みます。怒りや無視や拗ねる心の底にあるのは淋しくて甘えたい気持ちです。それを上手く表現できなくて、本人も気が付かずに、ネガティブな表現をしてしまいます。

 仏さまや親なら、それも含めて包み込んでくださいますが、それ以外の人たちに拗ねて甘えると遠ざかって行きます。よくよく気を付けねばなりません。

 大切なひとを悲しませたり、苦しめたりするために生まれてきたわけじゃありません。優しくしてもらえたのなら、それ以上のものを差し上げたら、さらにもっと素晴らしいことが返ってきます。それを知らない人ばかりで、みんなが拗ねて甘える子どもばかりがいるのが人間の世界のような気がします。

感謝していること

 研究のために資料を読み、誰かの話を聞いているとよく分かっていたと思っていたけれど、さらに深い理解が得られます。有難く感謝しております。


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全面依存(無条件降伏)していいのは親ではなく真理

2018/11/29 01:29
 モラハラ加害者と被害者は親に自分は精一杯あなたの心身の面倒はみるけれども、本当に向かうべき先は別のものであると知らされてこなかった、ある意味、気の毒な人たちです。ある程度の温かな関わりが持てはしても、これが限界だと知らせてくれるいいか悪いかは分かりませんが、平凡で善良な親を持ちませんでした。加害者も被害者も虐待や放置をされるか、反対に親から頼りにされるといった子どもらしい子どもでいられる時代を過ごしてこられませんでした。

  だから、大人になっても、親の代わりの裏切らない人間を求めます。親以上に見返りを求めないで関わる人間が皆無であることを告げられていないし、感覚としても体験がないので分からないので、見果てぬ夢を追い続けます。つまり、モラハラの加害者は大人しくて言うことを聞く被害者に我儘放題、好き放題をします。被害者は加害者の望みどおりの言動をすることで彼らが親の代わりの存在でいてくれるかもしれないという望みをもって、せっせと賄賂を贈り続けます。

 ごく一般的な親に育てられた子どもたちは、多くを望まず、喧嘩をしたり、欲望を小出しにしたりしながら、騙し騙し世間と言う実体のない倫理道徳を何の疑いもなく信じて、小市民よろしく生きていきます。多数の意見を良しとし、それに外れる人たちを汚いものを見るような目で避けたりするのがこの人たちです。

 本来、本本当に向かうべき先で裏切らないのは真理なのであり、その邂逅を生きている間に済ませないといけないとならないと、先に真理との邂逅を済ませた親やほかの誰かに巡り合える人は滅多にいません。でも、全くいない訳ではなく、真の意味で幸福なご縁の深い方です。この世は家庭でさえも、真理を信知出来ていなければ、迷いの中にいて、真の意味で生きている実感もなく、居場所はないのだと、辛いけれど真理を教えてくれる人は善い人生の先生です。そういう方に巡り合えたなら、食らいついて離れないことです。ただ、自身も本当に泥沼を這いつくばり、泥水を啜りながら、真理を求めた方なので、厳しく、妥協をせず、甘やかしや依存をさせてくれません。それでも、今生で真理との邂逅がしたければ、その厳しい環境に飛び込んでいくしかないのです。

 人並みの仕合わせな生活を送っていると感じる人も、心の底からよろこべず、真っ暗ではないですが、薄ぼんやりとした死後が気になり、人生は迷いの連続であり苦しみです。

それが、一点の曇りのない眩い光の中を、真理と一緒に旅ができる身に救われることができるのです。モラハラの被害者や加害者も人間ではなく真理との邂逅を目指せば、違う生き方ができます。それ程執着や依存が強いなら、真理に向かえば、満ち足りた人生に変われます。

 ずっと私はモラハラの加害者を非難するような言い方をしてきました。でも加害者も被害者も真理が分からず迷っている気の毒な人であることには変わりません。遺憾な気持ちです。どうか真理との邂逅を目指し、今生で一日も早く、遂げられることを念じて止みません。

感謝していること
 真理との邂逅以前の長い年月ももうすぐ10年になるその後期間も、人間である苦しみは変わりません。でも、真理との邂逅後は生死を超える道を生きることができ、今、存在しても、ここにいてもいいといってくださる目に見えないお方との未だ見ぬ光の世界への旅を楽しんでおります。


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悲しく残念な気持ちは味わい切って、そっと手放す

2018/11/17 07:10
 一度十分に味わい切らなければ、ずっと引きずります。
 こんな言動を私に対してする人を私は悲しく残念に感じているという気分を味わうのはとても嫌ですが、それを通り越さないと本当の意味で、さよならできません。
 
おそらく、嫌なことをしてくる相手というのは、その人自身仕合わせではないのです。いろいろな事情があって、他人に嫌なことを形にして表すのです。その他人とは、こいつなら酷いことをしても誰かに告げ口したり、復讐することはないといういわゆるいい人だとターゲットにした相手を見下して、甘えて憂さ晴らししているだけです。そういう人と関わっていいことは一つもありません。
その人にも事情があると考えるのは勝手ですが、それはその人の問題で、私がサンドバックの役割を引き受けることは筋違いです。自分はその学びで十分嫌な感じを味あわせてもらったので、もういいですと手放しましょう。

これが分からないうちは、モラハラの加害者に対しての被害者の役割をずっと引き受けなければならないのです。おそらくモラハラ加害者はその状態が心地よいので、被害者が逃げても、周りを探せばいくらでもいるので、モラハラを止めようとは今生では思い切れないでしょう。関わるだけ時間の無駄で不仕合せを抱え込むことになります。そんな関係を一歩出たら、別の淡々として明るい光の差す温かい場所にいることができます。

嫌な感じを剥き出しにする人に遭遇した時は、事故に遭いけがをしたのと同じです。事故に遭ったのだ、けがをしたのだということを十分認識し、二度と遭わないように避けて関わらないなど認知と行動を変えることが大切です。残念ですが、心が弱くささくれだった意地悪でハラスメントを繰り返す人たちは被害者を完全に舐めているので、力になることはできませんので、関わらないように縁を遠ざけるしかありません。
感謝していること
嫌だったこと味わい切れて、手放す決心がついたことを慶ばしく感じます。
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社会・労働改革運動家・慈善運動家とかいわれる人たちは自己矛盾に気づいているのか?

2018/11/15 17:45
 偉人といわれる人たちが、家族や身近な人たちに冷淡だった話をよく耳にします。名利が得られるなど自分の手柄になることには必死ですが、それに忙しくて、何か話をしようとしても無視や後回しにされる例を沢山見聞きしていました。身近な人ほど大切にしなくてはならないと私は感じます。それらの人たちを自身の活動のための手足として当たり前のように感謝せずして遣うような態度には大いに疑問を感じます。だから、私の周りにいる社会運動や何らかの障害を持ち生きづらい人たちや動物たちを支える活動をしている人たちに対して、私は引いた立場から冷徹な目で見ています。

 何らかの事情で困って、生きづらい人たちや動物たちを助けることを悪いとはいいません。それでも、自分が関わっている以外で苦しみ悩む人たちに対して、同じように助けたいと感じるかどうかは疑問です。身近な例として、自分の家族やペットは大切にするけれど、内部の教え子や関係者にハラスメントをする教員や活動家もいます。確かに自身の興味の範囲での救済活動をしたり、研究者として論文やほかの文章で、同情心のあるものを書いているけれど、学会などで理路整然とした矛盾のない発表ができるかもしれないけれど、それは違う気がします。

 私は有縁の方々に生死を超えること、生死出づる道を話して、実際その体験をしていただくことはしますが、ほかのことには無頓着です。さらにいうと、冷淡というより無関心の域にあります。短い人生で自身のできることは限られているとある時から割り切っています。

でも、そんな中、身近な人たちに、助けて欲しいと言われたら出来るだけそれに添うことをしています。普段は自身の使命であることを中心に生きていますが、ほかのことにも目配りだけはして、自身ができることはさせていただいています。私は俗にいういいひとではないので、できない事はその場できっぱり断ります。でも何かしら力になれそうなことは一緒に考えます。それでも、表層的な手伝いではなく、根本的な解決を目指すために努力します。自分の関心事以外に普段は無関心であることを自覚しつつ、それでも何か頼まれたらさせていただくスタンスです。

 何を今、一番大切にしなくてはならないのかを熟慮し、今何をすべきかを常に見極めた言動に心がけなければならないと最近はよく考えます。

感謝していること
できることを淡々とさせていただきながら生きられることは有難いと感謝しております。
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この世の救い

2018/11/13 21:48
この世の医者でも、命が助かるように全力を尽くします。彼らは、日々医療技術や理論等を研鑚します。それなのに、臨終や後生が苦になる人たちに対して、自力をすてて、他力に入る話を説き切ることを学ばず、安穏とした日々を過ごしている人たちに対して私は憤りを感じます。
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そもそもチャンネルを持たない人たちがいるという驚き

2018/11/11 23:00
 首都圏や大都市圏以外の人たちの場所にはテレビの民放が2つしかないところがあるということを九州のとある県出身の人と話していて二十歳前にひどく驚いたことがありました。私が住んでいた地域の民放は、4,6,8,10,12とその当時5つありました。同じ日本でも場所によって差異があるのだと知りました。

 最近、異なる考え方を持たないと、わからないことがあると書いてきました。視点と言い表してもいいし、チャンネルを持つという表現でもよいのかもしれないと、今日ある人と話していて感じました。「チャンネル」もしくは、「引出し」でもいいかもしれません。これを持つ人とそうでない人では違ったものの見方をし、違った生き方をするのでしょう。

 自分が生きていることを誰が認めてくれるのかという問いに、仏さまや、ほかの大いなる真理の存在があるのだというチャンネルや引出しを持っている人とそうでない人とでは異なる生き方をします。元気で仕事もあり活力が漲っている時はいいですが、心身の病のため仕事も思うようにいかず誰も信じられず、内に籠ってしまっている時に、、「チャンネルや引出し」があることを思い出すと回復の鍵になります。そういうこともあるのだと思い出せただけで救われます。欲を言えば、チャンネルとチューニングして迷いから目覚め、引出しを開けて、中にある大切な薬を見つけて飲み病が全快したら、それに越したことはありませんが、かなり難しいです。御縁の深い人でないとなかなか叶いません。

 悩み、苦しみを同じ次元で、侃侃諤諤といろいろ頑張ってみても、烏合の衆である私たち人間には根本的な解決はできません。願わくば、真理があることだけでも知り、邂逅を果たされることを念じてやみません。

感謝していること
 12月28日に今日お逢いした方のところに伺う約束が取れました。
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全く別の異なる視座

2018/11/09 23:20
悩みはグラデーションだけ違う同じ視座を持つ人の間では解決できません。そこを既に抜けた別の視座を持つ人がまるで魔法のような解決方法をスッと出してくれます。同じ枠内の考え方のメンバーでいくら頑張っても、グダグダの泥沼になるだけで、さらに事態は悪化します。
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あげばをわすれたり

2018/11/03 07:19
親鸞聖人の御和讃が余りにも素晴らしくて何も言葉が出て来なくなってしまったと蓮如上人はおっしゃいましたとご一代記聞書にあります。

 中興の祖として日本全土に浄土真宗を広められた蓮如上人の宗教家としてのご布教の能力が優れていたばかりではなく、阿弥陀仏や祖師聖人を尊く感じていらっしゃったことが垣間見れるエピソードです。

 このように先日の公開講座で教えていただきました。

 先生は続けておっしゃいました。

「私を含めてこの中には僧侶の資格を持つ方もあるでしょう。蓮如上人のこのような気持ちも忘れずにいてください」

 実際、本物の室町時代の御文章を拝見できたのも嬉しかったですが、先生のこのお言葉が有難く勿体なかったです。


 蓮如上人の御文章の聖人一流の章がの仏の方より」のところで言葉に詰まってしまった現代の行信校の学生のことを思い出しました。

感謝していること

 尊い方たちとのお出合いに感謝します。本当に心が洗われる気がします。

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所詮、夢幻の世と信知できたのだから、そこで快適に過ごす道を行けばいいだけ

2018/10/27 23:49
 全てを真理に委ねて、後生はおまかせなのに、私は全力疾走を止められずにいました。ふと、全力で取り組むやり方とは異なった視座を持ち、にこやかに優雅に生きてみてもいいのではないかという考えが浮かびました。全力で遊びのない生き方は自分ばかりではなく他人も疲れるかもしれません。怠惰なことを恥じ、時間内にできるだけの用事を詰め込んでこなしてきました。しかし、これがよかったのかは、私があまり気分がよくなかったことが多かったことからも違う気がしてきました。どういうやり方をしても結局は同じなのかもしれません。

 嫌なことと遭遇したら、それは嫌なことなのだと感じ、それがどんなふうに嫌だったのかをしっかり味わった後、いい勉強をさせていただいたと感謝できるようになって相済みなのかもしれません。私はやっと嫌だと感じられるようにはなり、嫌だと口にすることができるようにもなりました。そして、ただ、人間という入れ物を持った私が嫌なことを経験することで、真理との邂逅の話をするとき、認知的ではなく、情緒的に他人に対して共感、受容できるように少しは、なれたことに感謝できることも、徐々に増えてきました。最終的に、メタ認知の視座にまで落とし込めたら、そこで本当にその体験を手放せるのかもしれません。痛みを伴いはしますが、より、鮮明にきづく体験をさせていただいたとでもいうのでしょうか。三次元でしか体験できないものなのでしょう。

 しかし、同じ身体を持つことでの体験なら、嬉しいことや楽しいことを選んで、夢中になり、それを周りの人と慶び合うことを今後は選んでしてまいります。完全に他人を理解するのは難しいでしょうが、重なり合う部分が多い人を選んで、より多くの時間を接するようにしていけば、あまり嫌な気分にならないかもしれません。試していきます。

感謝していること
 合う人とは合う、合わない人とはどんなにたくさんの言葉を用い、時間を費やしてもすれ違い、傷つけ合うということを実感することができるようになりました。有難いです。
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海外の日系人社会の宗教的要請ついて

2018/10/21 12:35
この10月にブラジルとアメリカ西部の日系移民の地区のお話を聞く機会がありました。
 日系人の外の現地人が、日本の仏教を知りたいと思っていらっしゃることに驚きました。文化的側面ももちろんなのでしょうが、教えそのものも聞きたいと思っていらっしゃる方もあるのかもしれないと感じました。
 シアトル在住の研究者の方と奥さまとお話しして、来年の2月に渡米してお話しさせて頂こうかという話になりました。「信心の話をしたい。信心を獲得したい」というお気持ちでいらっしゃる宿善(仏縁)の深い方々が、このご夫妻の外にもいらっしゃる気がします。二世、三世の方々の明治時代の気骨のような真摯なお姿を仰ぎつつ、私ができることをさせていただきたく存じます。
感謝していること
 仏縁の深い方々との尊いお出合いに感謝いたします。
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自分の仕事を淡々としている周りの人たちがいい!

2018/10/20 10:25
 私には生き方が好きなひとが結構います。

 いつも、いいなって、羨望の目で見ています。

 特に今まで苦労してきたひとたちがいいです。

 その中のある方は私同様言葉のことで大変なおもいをされてこられています。
 だから、何となく気持ちがわかる気がします。

辛かったら泣いちゃいます

嫌なことされたら許さなくていいです

早く終わらせなくちゃならないことなら、止まっちゃダメ

お金は貰えない人からは受け取らない

 こんなことを言葉や潔癖で真摯な態度で教えてくださいました。お目にかかったことはないですが、奥さまも素敵な方なのでしょう。

 別の方は、とっても分かりやすい上に優しい気持ちが入った解釈がふんだんにちりばめられた講義の中で、失敗したことや太っちゃったり髪の毛が遺伝的にやばいなどといった自虐的なことも含めて笑わせてくれたりします。でも、そんなことも含めて、たぶん、どうしても、学生に伝えたいことがあるのでしょう。論文も拝見しましたが、無駄がなく読みやすい文章でした。講義同様、要点は網羅されていました。見かけは本当に清潔感溢れる素敵な方で妻子にも恵まれていて、毎日乳児の女の子の成長に目を細めるお父さんでもあります。

 もう一人、今年公務員を定年退職された方を私は本当に素晴らしいと感じます。途中、役所に行けなくなったり、大病の中に今もあります。いつも笑わせてくれ、優しい心遣いを常にくださいます。やせて弱った姿を見せたくないから見舞いには来ないでほしいと言われます。でも、私はほかの人に対してもそうですが、いつも魂の雰囲気を感じて対話しています。だから、見かけなど気にしないで、一秒でも長生きしてください。見た目や仕草が可愛らしいのはペットです。上手にしゃべれなくても、痩せようと、太ろうと、髪の毛の状態がどうだろうと私には余りそれらのことはどうでもいいのです。存在そのものをひととしてリスペクトしています。

 ただ、私の周りで一生懸命生きている姿を見せてください。励みになり、見習わせていただきたく存じます。私よりも元気で長く生きていてください。

感謝していること
 怠惰ですぐにくじけそうになる私ですが、周りの方々が真摯に潔癖に素敵に生きていらっしゃるのがとても有難いと感謝しております。
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尊いご縁

2018/10/20 10:17
気持が打ちひしがれて、どうしようもなく辛いとき、仏縁の深い方とのお出合いのセッティングが設けていただける気がします。今日私がお目にかかったご夫妻が一日も早く信心を賜れますようお念じ申し上げます。

When my feelings are overcome and it is hard for me to feel hard, I feel like setting up a meeting with deep buddha people. I wish that the couple I am seeing today will have shinjin as soon as possible.


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悲喜交々の人生を生きて

2018/10/17 17:41
 圧倒的に辛く哀しいことばかりの人生でした。

 ある時点から、生きていていいと願われていることがハッキリわかりました。それからの人生を故郷に向かって一緒に歩いてくださるお方との二人旅が始まりました。しかし、同様にどうしようもなく辛く哀しいこともたくさんありました。それでも、私は生きていていいし、いつも一緒にいてくださる方がいてくれる仕合わせを常に感じていられます。今もどうにもならない悲しみを乗り越えながら、私はそれが自分の学びだと有難く受け止めて、一歩ずつ浄土への二人旅を続けています。

 あまりにも行く先が光り輝いているので、今は思い通りにはならないし、良かれと思ってしたことも裏目に出て、本当に理解し合える人もほとんどいない中、生きていられます。限りのある命の、智慧のない凡夫が、人間界で過ごすのは本当に泣きたい気持ちをこらえながら、何もできない無力さに打ちのめされることの繰り返しです。

私は人間が究極的な迷いを抜けることにきづくことに重きを置いて、社会福祉や動物愛護や心身の疾患を持つ人たちへの援助などに時間が割けません。どちらかといえば、淡白で無関心です。全てに全力を傾注する能力や時間は持っていません。残念ですが、自分の関心があることにしか心が動きません。それが私の限界だということも悲しいことだと感じます。そのようにしか生きられません。開き直っている訳ではありませんが、できることを真摯に一瞬一瞬させていただくしかありません。おそらく私の残りの時間はわずかです。その時間を大切に過ごしていく所存です。

感謝していること
 未来が明るい、いつも尊いお方がご一緒してくださっている。これ以上のことは望めません。だから私はいつも仕合わせです。


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私が生きていていい理由は仏さまがそうおっしゃるから

2018/10/12 21:29
あなたにあえてよかった。
お浄土へかえる旅の間中、
ようこそ人間に生まれてこられた。
私の誓いを疑いなく信じ、御恩報謝の日暮しの中にあるあなたは尊い方だと、
いつも仏さまは、褒め、励ましてくださいます。
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最期にきちんと死ねることが私たちの生きる意味

2018/10/07 19:39
 きちんと死ぬためには、きちんと死ねるようにする力のある方にまかせるしかありません。それなのに自分の力で何とかしようとするから、生きている間中苦しくて、ほとんどの人達は、きちんと死ねないで後悔する最期を迎えます。
 他の事は出来るかもしれないけれど、きちんと死ぬことは絶対に人間の力では不可能だから、真理に身をまかせるしかないと教えてくれる人に出合えたならこんないいことはありません。その人自身もみをまかせて、きちんと死ねる身であるなら、共に救われたら、よろこべるようになります。だから、生きる意味はきちんと死ねる身に救われることです。
感謝していること
 きちんと死ねる方法は、自分の力を全く手放し、真理に身をゆだねることのみだとハッキリ知らされたことは尊く有難いと感謝しております。
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私の重い苦しみを全部背負ってくださるお方

2018/10/05 22:01
 真理との邂逅の後、私はずっと一人ではありませんでした。常に護られていて孤独ではありません。一度だけ忘れてしまい、本気で死のうと思いました。でも、ふと、私がお願いしたわけでもないのに、自分の足で歩けない私を不憫に感じて、その私の苦しみを背負ってくださっているお方の存在を思い出し、思いとどまりました。私は重い苦しみを持って生きている、その苦しみを引き受けてくださるお方である仏さまがいらっしゃったのだと知ってたことが、人生の分かれ目でした。それからは何が起きても、どうせ私は智慧と慈悲の光明の中にいるのだから大丈夫だという感覚が続いています。

私には誰かを救済する能力はありません。でも、真理との邂逅の方向を示す事は出来ます。同じように救われた人となら、憶いを共有できるでしょう。人間として全てを分かり合うことはできません。分からないけれど、自分の苦しみが重いように、また私には何もしてあげられなかった人の、その苦しみも重いものだということは分かります。自力を手放し、他力に救われることを願って止みません。

羽振りのいい時、順境の時、周りにたくさんの人が集まります。逆境の時、不遇な時、誰も周りにいなくなります。そんな時でも傍にいてくれる人が本当の友だちです。その友達も一緒には死んでくれません。同時に死んでも別々の想いの中で死にます。最後まで一緒なのは仏さまです。

私は攻撃されたり、利用されるのが嫌で逃げ回っているような臆病者です。それでも、私を傷つけないでいてくれるなら、何かお手伝いができるかもしれません。死ぬことは怖くないのですが、人を傷つけ、身心を殺すことで誰かが助かるとは思えません。そこが命懸けで助けると誓われる仏さまと違うところです。残念で悲しいですがそれが人間の限界です。

感謝していること
今日も仏さまとご一緒できていたことが有難く、感謝しております。
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この世で帰る場所、死んで還る場所

2018/09/26 09:51
 この世で帰る場所は生家でしょう。両親が他界するなど何らかの事情で帰る家がない人は本当にお気の毒です。私が死んで還る場所はお浄土です。お浄土がどういうところかはお経で書かれている以外には分かりません。行ってみたら、本当はそういうところではないかもしれません。でも全部仏さままかせなので何の心配もしていません。本当は仏さまといろいろお話ししたいところですが、還ったら、休まずすぐに、別の私が働くべき場所に赴きます。苦しんでいる人が無くならない限りお休みにならない仏さまのお手伝いの真似事をさせていただくべく、ただそれだけで存在しておるのだと最近は感じます。仏というのが何となくしっくりこない方は真理と置き換えていただいてもいいです。
感謝していること
 今日から講義が始まります。大学院で学生としていろいろなことができることに有難く感謝いたします。
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この世のことは自分軸を持ちメタ認知が出来たら何とかなるけど、あの世のことは仏さままかせ

2018/09/25 23:47
 人間の煩悩からくる心理的な悩みは自分の内側に軸をしっかり持ち、耐えられない時は高みから自分を見下ろすような客観的な考え方ができれば、不治の病に罹るとか、不慮の事故に遭うとか、殺されない限り取り返しのつかないものである死は免れます。

 死の解決だけは自分の考えをスッカリ抜いて、止めて、疑いなく仏を信じるしかありません。メタ認知も思考ですから、それも捨てないとなりません。口にただ念仏を称えて、信じた振りをしていても、心のどこかで助かったのか助かっていないのか不安だったり、死後が気になって恐怖に怯えている内は本当に仏さまにまかせたとは言えません。ほんのわずかでも仏さまの願いに対して疑いが残っていても、迷いの六道からは抜けられません。また迷いのサイクルを繰り返す道が待っているだけです。悟りからは程遠い状態です。要するに助かったか、そうでないかだけです。間はありません。厳しい世界なのです。

 ターミナルケアで仏教を話すということは、こういう厳粛な事実をそのまま語ることになります。耳触りのいいことを言うのはうそをつくことになりますので、それはできません。本当の事を言うのは、多くの人が考える緩和ケアではないです。臨終の人に、仏さまの願いに対して疑いを持ったままだと救われません、落第ですと告げるのですから。話す方も聞く方もかなり厳しいです。臨終ぎりぎり間に合えばいいですが、間に合わない時は、また人間に生まれてくる時まで悟りはお預けです。それがいつになるかはわからないから「後生は一大事」なのです。

 昏睡状態の臨終の患者が突然意識を回復して、周りの人たちに対して「有難う」といって涙を流したとしても、それは救われたかどうはわかりません。きちんと仏教の話ができて、どのように有難いのいか、仏さまの願いへの疑いが晴れ、仏さまに完全におまかせの身になったのか詳しく聴くことも臨終の苦しい息の内では困難です。にこやかに息を引き取ったとしても、それが救われた姿かどうかは判断しがたいです。信心を獲得でいたか否か、それを判断できるのは自身も求道の道のりを歩き、真仮の水際を突破して、何人もの人に仏さまとのお出合いの直前までお手次で来ているひとです。

 誰でもが救われますが、今生に救われるとは限りません。いま、ここで救われますが、それは簡単ではないのです。仏さまの願いに対して疑いが一切なくなったときにだけ救われます。
感謝していること
 煩悩で欲しい、憎い、可愛いのは死ぬまでなくならないですが、仏の願いに対して疑いがすっかり晴れて、後生は仏さまにおまかせできたことは有難いと感謝して居ります。
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聴聞

2018/09/24 22:10
「往生を全部おまかせしたお方との二人旅を命が終るまで精一杯させていただきましょう」。このような尊い御説法を聴聞させていただきました。
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なぜ多くの人達は完全な安心満足の状態を求めることを諦めるのか

2018/09/21 22:36
 そんなものがないと初めから求めない人もいます。その中の多くは安寧の気持ちをペットなどに求めたりもします。一般の人と呼ばれる人たちです。自分がいい人だと思っているのがたちが悪いです。

 途中で世間的に上手く生きているような偽善者に魂を売り渡す人もいます。これがモラハラになります。

 ずっと諦めないで、苦労して努力して、人間で癒しを求める人もいます。自分が努力した分、見返りがくると根拠のないことを信じていて、つねに敗北感を感じ続ける惨めな生き方です。普通の人もモラハラも被害者意識の彼らを食い物に市、しゃぶりつくして捨てます。利用され放題です。怒らないおとなしい場合、言いたい放題言われたり、愚痴のゴミ箱のようになります。

 いずれも真理を見ようとしませんし、真理から逃げています。真理を求めることは厳しい道だと感覚的に何となくわかっているからです。

 それでも敢えて、真理を探し、邂逅を求めるひともいます。宗教として真理を探究するひともあります。邂逅まで辿りついたら今生の目的が果たせたと言えます。そうでなくても上記の三種類でない生き方ができるので、その点ではましかもしれません。

感謝していること
研究を重ねているといろいろなことが分かります。有難いです。


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自分を善人だと信じて疑わない一般人のあなたのためにという明らかに弱い者いじめの説教は不気味で不快

2018/09/20 22:29
 何とも言えず善人ぶったところが中途半端で超不快。

 もっと自分を知りなよ。

偽善なんじゃないかなって。

 それと、ジワジワ真綿で締め付けるように他人の善意や道徳心を責めるのよしな。
 問題はそこじゃないでしょ。

 本当に賢く人格的にも優れてる人は、言いたくても黙ってるし、言いたくない事でもいうときもある。

 そういうの見習って真似しなよ。

 まあ、優れた人は眩しすぎて近寄れないし、見習うべきところを受け取れないんだろうね。善人様にはね。

 私は善人じゃないので、責められても、ああそうですかとだけ被害を避けるべく関わりを避ける開き直った短い返しで応えるだけだけど。

 気の弱い臆病で本当にいい人を虐めるところを見ていると不愉快。

 あなたの為なんかじゃなくて、憂さ晴らしをしているだけでしょ?

 そういう偽善が見え隠れして、関わりたないし、一緒にいるのもだめ。


 めんどくさく、ウザい人たちは周りに害悪をまき散らすので、消えて欲しいけど、その人たちもそれで学んでるのだし、自分が距離を取ったらいいだけだときづいた。

感謝していること
 いろいろおかしなことを学ばせていただき感謝していますが、もうお腹一杯なのでいいです。

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自力の話をいくら極めても他力にはならず、別の方向に行く意味

2018/09/19 23:54
 自力を積み重ねた先が他力ではないからです。自力の最高峰が他力でもないです。
 全く性質も次元も異なるものです。

 法然聖人も親鸞聖人も蓮如上人も信心を得る過程の具体的体験はほとんど語っていらっしゃいません。私も聞かれれば話しますが、自分からは言いません。また、具体的な話をするとそれにこだわってしまい、救われるのが遠回りになり遅くなるので言わないことにしています。その代わりに仏教を求めている人たちにはお経やお聖教の文言などは伝えます。仏教徒でない人や信仰を持たない人達には、他力から見た自力を手放す方向の話をします。

自力の人には自力も他力もどちらも分かりません。他力のひとには自力も他力もよく分かります。他力が分からん人で後生が苦になって仏教を求めていない人にあなたの話は難しいとか心に響かないと言われても、仕方のない人たちだと感じるだけです。譬えを出したり角度を変えても、自力を捨てたい、他力が知りたいと真剣になっていないひとにはおとぎ話にしか聞こえないことも十分わかっています。また恩寵主義の有難いのが信心だとして自力が廃ったことが問題になっていない人達も何だかなぁと感じます。分かる人には分かる、分からない人には分からない世界だからです。

分からない人でも二通りいます。お前の話し方が下手で難しいからわからないし、心に響かないんだと私のせいにする人たちもいます。別の人たちはよく分からないけれど、自分の常識を超えた世界があるのかもしれないと考えます。私は誰かの煩悩を分かることができる思いません。自分の心の風景と他人の心で見たものは違うことが分かっているからです。自分自分は正直でいますが、共感や受容はできるし適当に合せますが、他力のわからない話を時々混ぜて話すと、分からないと怒りだす人と、不思議だけれどそういうことがあるのかもしれないと感じる人いろいろです。

ある程度まであなたのことは分かっていると付き合わないと、人間は心の底から分かり合うことなどできないのだという厳粛な事実に気が付きません。何時まで経っても、人間同士が分かり合えるという甘い幻想にしがみつきます。面倒で仕方ないですが、真剣にカウンセリングなどを極めようとすると違う方向に行くので適当にかつ常に自力を手放す方向性を示しながら楽しむことにしています。こんないい加減なことをしていても、真剣になる人には真剣に応えるし、初歩の人には初歩の対応、これが対機説法の真似事のカウンセリングというものかもしれません。所詮方便ではありますが、自力で必死になっている人にはそれが分かりませんので、厄介でウザくて面倒です。でも仕方ありません。本人たちは彼らなりに真剣なのですから。上から目線のように取られたら失礼します。

感謝していること
 ずっとメタ認知の感覚を持って生きてきているので、死なずに済んだのだと感謝しています。生来、喜怒哀楽に対しては私は薄い気持ちしかありませんでしたが、さらに最近は、アッサリしてきています。
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結婚はモラハラ目的ではなく、お互いをありのままに受け要るためのもの

2018/09/17 18:10
 余計な執着や比較を持つ人と、それを超え、そんなことでは安寧満足の内に生きられないことにきづいている人とでは住む世界が違うのです。だから相交わることはありません。途中で片方がきづいた場合、モラハラは逃れられますが、きづかない相手と違う世界で生きることは一種の修行のようなものとなります。その修行で一生を終えるか、別の環境で自分が成すべきことをするかは思案のしどころです。
 
同じようなきづきの内にいる人と一緒にいることが情緒の安定をもたらし、トラブルも避けられます。それでも、何とかきづく方法があるのではないかと、私は模索しています。最近は、真理との邂逅がそのカギを握っているような気がしてなりません。この真理との実践事例を集めて、なんらかの道しるべが確立できたら、人間同士もっと優しく暮らせる気がします。研究はまだ端緒に就いたばかりなので、まだ見通しがついていませんができることを粛々としてまいります。

感謝していること
何かの渦中にあるのではなく、客観視した時、はじめて研究が始められることにきづきました。有難いです。
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ひととしての真摯さや矜持を持つことを頑なに拒否するモラハラ加害者の生き方

2018/09/17 17:43
 自分自身をメタ認知できる能力があり、どうするか選べる知恵を持つ人達には、罪悪感を感じるのを拒否する生き方を選べます。
そして楽に楽しく生きる方法として、他人に虐待し、責任を押し付け続ける生き方を選択します。こんなことをすると自分自身の魂を何者かに売渡し、真理からどんどん遠ざかる気がします。それでも、そうせざるを得ない状況に追い込まれた人達は、他人を虐め抜き、自身の責任を押し付けることでこころの安定を図るのです。罪悪感から逃げるには、自分の罪悪感を肩代わりしてくれるような、被害者体質の人を常に側に置いておく必要があります。

このようなモラハラ加害者体質にも一応は良心というものがありますが、その良心を感じると苦しいので、自分が好き勝手しても、反撃してこない獲物を見つけると、上記のような態度を繰り返すのです。

被害者側が、何とか罪悪感を与えて、改心して欲しいと願っても、劣ったものと見なして、馬鹿にしているのでそれは叶いません。モラハラ加害者はあらゆる屁理屈や信じられない言い訳や嘘で、罪悪感を巧妙な手口を使ってすり抜けるのです。

できれば、逃げられなくなる状況に陥る前に、モラハラをするような人たちとは距離を置き、関わらないのに越したことはありません。それでも、モラハラ加害者は、被害者を確保する手立てにおいては優れた能力を発揮します。加害者は、モラハラをしないでは生きられないので、それは死活問題だからです。もうこれで大丈夫だというとき、婚姻届を出したとき、もしくは子どもが生まれた時など、一番愛情を分かち合える時に、豹変します。モラハラ加害者はモラハラをするために結婚して、子どもを釣るのです。周りの人たちは、なぜ、そんな幸福絶頂の時に別れたり、するのかといぶかりますがそういうことです。

世の中にモラハラなど無くなり、自分が自分らしくありのままで真摯に矜持を以て生きられるようになることを私は願って止みません。

感謝していること
執着や他人と比較する感覚がどんどん薄れてきて、モラハラに対する抗体が高まってきた気がします。有難いです。
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一緒にいて消耗する人とは距離を置く癖をつける

2018/09/16 22:40
 特別、なことをしてくれる人なんて要りません。
 相手が、気分の悪くなるイレギュラーなことをしてくれなければそれでいいです。
 
何か聞いて、もし知っていたら、それに対して真摯に応えてくれる。
 知らなかったら、知りませんとだけ答える。もしほかに知っていそうな人がいたらそれを紹介する。とても簡単なことです。
 誰かの何かの役に立てるならよろこんで、自分の知っていることは私は伝えようとしています。
 
 何かの集まりを呼びかけた時、とても嫌なことがあります。
 たとえ、リタイア後の人であったとしても、誰も暇な人はいません。
 みんな時間をやりくりしています。
 ただ、空いている日を言えばいいのに、予定を変更したので行けます、大丈夫と言ってくる人いますよね。その言い方は、今後は、止めた方がいいです。
 忙しいのに、わざわざ時間を取ってやっているという、嫌な感じがします。
 他のことの方が大事だけど、時間を作ったからという恩着せがましい感じを他人に与えるということが分からないのでしょうか。分からないなら仕方ありません。
 
 今目の前にいる人に対して、上から目線で低く扱うこと、負い目を感じさせること、疎外感や、仲間外れなどしている人は尊敬されません。スウーっと人がいつの間にか周りから離れていきます。同じように他人を大切にしない表面だけいい顔をする人が寄ってきて、気持ちの裏を読んだり、駆け引きや損得勘定でしか付き合えません。それが刺激的で楽しいなら、死ぬまで続けてくれて結構です。私はずっとそういう自分が消耗することを避けてきてし、これからも関わりません。

 消耗しそうだと感じたら、引いて距離を取る癖をつけると、案外気分良く過ごせます。お試しあれ。

感謝していること
 8月からの日本や海外のフィールドワークなどより帰国して10日ほど経ちます。昨日まで論文に取り掛かっていたので、休んだ気がしませんでしたが、これからはしばらく、家でゆっくり休めそうです。好きなものを食べて、バスタブにつかりながら、いろいろ考えようと思います。休息がとれるのは有難いです。
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傾聴的カウンセリングと信心の沙汰の関係性

2018/09/15 14:39
 生まれてから今に至るまで、ずっとですが、私は人間の煩悩の喜怒哀楽にさほど関心がありません。醒めた目で世の中を眺めてきましたし、ずっと変わりません。どうせ今生、後は死ぬだけなので、私にとっては、何もかもが、どうでもいいのです。ただ、例外として、親しくしていた身近な人が死ぬという最悪の事態だけは耐えられません。どうしても執着してしまいます。他はなんとでも取り返しがつきます。生き別れになったり、絶縁状態であっても、プツンとキレた糸はまたつながることもあるかもしれないし、つながらなかったらそれは縁がないと諦められます。でも、真理との邂逅を済ませ、よろこびの気持ちを分かち合っている人が死んでしまったら、リアルタイムで、もう姿を見ることもできないし、声を聞くこともできません。これほど悲しく辛いことはありません。

  自身が今死んだらどうなるのだろうと物心ついた時から気になっていて、それをずっと思い悩み解決できた経験があり、それ以後は、同じように死の解決をしたい人に話をしたり、文章を書いて余生を送っています。私自身は、相変わらず、世間の人たちが好むような喜怒哀楽に対して弱い関心しか持てずにいます。死の解決が済んだからといって、急に人格が変わり、いい人になる訳ではありません。反対に、特別、薄情になることもありません。以前とあまり変わりませんが、強いて言えば、人が死ぬこと以外は執着が減り、淡々とした水のような関わり方をだんだんに好むようにはなりました。

 こんな状態であるにもかかわらず、死の解決の話をしようとすると、ほとんどの人がいきなり本題に入らせてくれません。まず、心理的もしくは人間的問題を口にします。私は内心どうでもいいのにとか、これが解決しても別の問題が惹起するだろうと聞いています。「黙れ」とか「聞きたくない」というのは自分がされたら嫌だし、関係がそこで終わってしまうので、とりあえず聞きます。もし、自分がこのような事を言われたら、モラハラの被害を受けたと捉え、その人との信頼関係が終わり、即座に距離を置くので、私はよほど腹に据えかねる場合で、自分から縁を切りたいとき以外は、絶対に口にしません。

  そして、話している内に、心理的・人間的問題は、本当は軽い類の問題であると、話した人は何となく気づく人もたまにいます。私が、それらよりももっと深刻で今生で息が切れるまでに解決しなくてはならない死の問題の方向を見ているからなのかどうかは分かりません。対話を重ねていき、どういう方向でこの人と関わろうかとその都度考えます。

対話は大切だと感じます。特に初めのうちの傾聴を経て、相手がどんな人か知るところまで関わること抜きにはその先に進めません。例外として、いきなり仏教の話ができた人も何人かいました。そういう人たちとは今でも深い信頼関係が継続しています。これは例外であって滅多にないことだと今更ながらに知らされます。

私としては、人間同士の関係は、深くかかわることをあまり望みませんので、あまり気が進みませんが、自分がずっと悩んできたことが解決できたので、それを望んでいる人は放って置けません。本当にうっすらと使命感はありますが、私は妙好人ではないので、いい人じゃないし、いい人にはなれません。死の解決を話すことは趣味でも生き甲斐でもありませんが、ほかに何もしたいこともないのでさせていただいています。死の解決を望んで話してくれと言ってきた人に話し、成就した瞬間だけは達成感がありますが、その人たちの煩悩が無くなったわけではないので、じきにいろいろ文句を言いだしたり、一緒にほかの誰かに対して話をしたいとも言い出さないことに対して、こんなものだと薄い関心しか持たなくなります。余り感動的な話じゃなくてすみません。

感謝していること
 死の解決ができただけで、それだけで、私は、今生は常に安寧の時間を過ごしていられるので満足だと有難く感じております。


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宮本常一の対話・文章にみた、ざらざらごつごつして何か引っかかる感覚

2018/09/14 09:23
 私はインタビューよりも何倍ものカウンセリングや布教(信心沙汰)での対話をしています。自分でいうのもおかしなことですが、私は、おそらく、インタビューアーとしてよりよく質問し、聴けるのではないかという感覚があります。
 
従来のカウンセリングのやり方といわれる、ただ傾聴するのみの在り方であるならば、私はカウンセラーには成り切れていないかもしれません。対話というのは相手の言うことに応じて、応答していくものです。しかしながら宗教カウンセリング、及びスピリチュアルカウンセリングにおいては、ある一定の方向性があるのです。それは真理のようなものとの邂逅を目指し、自力を徹底的に排除していく過程なのです。

一般の人間の悩みである人と人の関わりや愛着や貧・病・争は、本人が自分の内面から引き出す従来のカウンセリングでも間に合いますし、そのようなカウンセリングの態度が良い場合も多いです。
しかしながら、生死いづべき道や人間存在としての悩みは自分の中に解決方法などありません。自分ができることがあるとすれば、真理のようなものの存在を知らせてもらい、ただ自力を手放すこと一つです。これはできることというよりも、出来ない事を知らされ、真理のようなものにゆだねるやり方です。相談者の内面にあるものを聴き続けても、それは相対的なことで栓がなく、延々と限りなくエンドレスな状態です。それから抜ける智慧を宗教は示すのです。

宮本常一という民俗学者がいました。彼は人の話を聞き出すのがとても上手でした。相手の懐にするりと入り込んで、ほかの人が聞き得なかったことを聞き出しました。インタビューといっても対話です。対話は相手との相互作用なのです。話す方は相手がどこまで自分の話を聞いてくれるか常に見極めます。話しながら、次に話す内容を考え、少しずつ小出しにして、理解してくれたなら、その先を話し、そうでないなら別のもっと浅い話をするか話題を変えたりもします。
学問の世界には質的調査というものがあります。量的調査という多数の人に行うインタビューやアンケートとは異なるものです。ある個人とじっくり関わり話を聞いていくものです。そのとき聞き手が器の大きい何でも受け入れてくれるそう経験豊かな人であるか、大学を卒業して、大学院に入りようやく研究者の道に入ったような社会経験も内容な人とでは、話し手の放す内容はおのずと異なることは当然です。

人文科学において、有用な仕事を残す研究者もしくはカウンセラーのような仕事をする人は、大きな器で研究対象や相談者を否定せずに受け止める度量・器量ある人です。これは訓練というよりもその人の生まれ持った才覚や気質が大きく関係するので、ある一定のレベルからはその才能の有無で進めなくなります。そのときに別の道を行くか、しがみつくかはその人の考え一つです。

才能のある人の話や書く文章や対話の内容は滑らかな美しいものではなく、ある意味ざらざら、ごつごつしたひっかかりのあるものであることが、多くの論文を読んで、もしくは対話を重ねて、きて分かり始めたところです。換言すると、このひっかかりが分かるということは、自身がそのことに深い関心を持ち関わろうという意思の有無であります。文章や対談でひっかかりをある種心待ちにして探してやろうという楽しみがこの頃は出てきました。これが研究の醍醐味なのかもしれません。

感謝していること
 論文を書いていて、結論がなかなか見つからなくて、あれこれ寄り道をしていましたが、その中で何か一筋の道が見えてきました。有難いです。
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真理とは縁がある人にしか響かず、縁のない人は知ることもない

2018/09/12 23:54
 これは厳粛で納得できる理に適う事実です。

 まず、縁がないから、ある人たちにはやって来ないのです。

 仮に縁が側を通ったとしても、敢えて嫌って避けたりすることもあり、きづきません。

 何かの拍子に真理の書いてある文章を読んでも、自分に関係のあることだとは感じられず、表面でしか意味が取れずにいて後々まで残りません。同じ文章を読んでも、受け取り方は千差万別であり、そこから学ぶ人もあり、怒りを感じる人もあり、何も感じない人もあるのです。


 この世の中は本当にそれぞれが求めるちょうどいい程度のものを、受け取ります。

 逆に言えば、縁が来たならばどんどん流れに沿って、真理を受け取り、その意味が教えられる訳でもないのに分かってきてしまいます。

 これを不平等と感じるか、摂理の在り様と捉えるかはひとそれぞれでしょう。それ程、縁というものは不思議なものであり、また有難いものでもあります。


 この世は、人間の世界というものは自分がしたことが全部報われる世界ではないことがだんだん知らされてきました。ほとんどの人は過去世も未来世も信じないので、今生で自分のしたことが返ってくると期待します。過去世でまいた種が表せれること、今生でまいた種がずっと後で芽が出ることなど思いもよらないのでしょう。

 善いことを続けて行っても、誤解され、お節介だと嫌われ、何もしていないのに疎まれることの方が多いのです。釈尊でさえ謗る人や無関心の人もありました。従兄弟の提婆達多に至っては釈尊を仇のように憎み殺そうとさえしました。

 こういう不条理なことが横行する人間の世で、自分のしたことが報われるのは一部のことでしかないことを皆薄々感じていますが、表立って大きな声で言うのは憚ります。だから、今は辛いけれど我慢したら人も環境も変わると辛抱して苦しむ人が出てきます。そういう人には、もう我慢しなくていいから、自分に合う、自分が学べる別の環境を探したらいいと言ってあげたらいいです。我慢強いばかりに暴力や暴言の中で真理との出合いも出来ずに今生を終わってしまうのは残念ですから。

 私の蒔いている真理との邂逅を促す種は、一向に報われないかもしれないし、誰も読まないかもしれませんが、それでも一人でも誰かが何かを感じてくれたらいいと諦めずに続けて書かせていただいております。

感謝していること
 今日は聞法会館の昼の御法座に参詣して、その帰り、売店で論文の資料になる新刊本を見つけました。有難いです。


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言葉では伝えられない・伝わらないその先のこと

2018/09/12 09:39
 相互に受け入れる気持ちを持った者同士が、互いの言葉を以て、そのままのありのままの透明な自分を出し切って、受容し合い、共感し尽くしたところまでの話し合い、もしくは、カウンセリングすらなされることなく多くの人の人生が終わっていきます。欲や怒りや愚痴である煩悩の話ならいくらでもできますが、それは取りとめも栓もなく一時の満足をもたらす夢物語であったことをその終焉で人間は思い知らされます。

毎日が多忙で、次から次へとこなさなければならない仕事や時間に追われる現代社会の中で、誰かと真摯に関わり合い、胸の内を洗いざらい打ち明けることもないまま、何のためにどこに向かって生きているのか分からないまま臨終を迎えます。自宅あるいは病院の寝床の上で、はじめて人はその人生を振り返ることになります。事故死や突然死でなく、不治の病を患い病床にある時になって、やっと人は自分の人生と向き合い、自分がしたことを振り返り、次に自分はどうなっていくのかに心がかかりはじめます。

そうなったときに、どんなに言葉ではわかり合えていたと感じていた誰も一緒に死んでくれる訳でもなく、蓄えた財産や知識は何も間に合わず、自分この先どうなるのだろうかという自身の「存在そのもの」の悩みに直面するのです。それまで悩みは生きるために「何を持つ」かの問題であり、「存在そのもの」の悩みは陰に隠れている人がほとんどです。「何を持つか」の自他の競争に精力を傾け、それに終始します。ただ、生きること、今のルーティンワークをこなすことしか考えにないので、何のために生きて、死んだらどうなるのかなどは考えず、見ないようにします。そのつけが臨終に突然やってきて、多くの人は狼狽え慌てます。

そんなとき、身近な親しい誰かやカウンセラーなどが話を聞いてくれようとします。今まで時間がなく話を聞いてもらえなかったので、「何を持つ」かを必死になってきた人生を振り返り、話をします。話を十分に受け入れてもらったとき、自分が本当にしたかった話は「存在そのもの」の話であったことにきがつきます。友人・知人や宗教家ではないカウンセラーは、死を目の前にした人たちの「存在そのもの」の話ができる専門家ではありません。「存在そのもの」への悩み、不安は言葉にならない、言葉を超えた真理もしくは宗教的な領域であるので、その専門家にゆだねるしかありません。

しかしながら、十分に「何を持つ」か必死に生きたことを誰かに話し終えてからでないと、「存在そのもの」の悩みに行きつかないこともあります。それゆえ、話を聞いてくれる近しい人やカウンセラーの存在の存在価値があるのです。「何を持つ」かだけを聞いてもらっただけで満足する人もあります。それはそれで構いませんが、その先の言葉も及ばない分野は専門家の仕事です。それにきづくまでの十分な話し合い、分かち合いを家族や友人、もしくはカウンセラーは担うことになります。仏教で真実に至るまでのものを方便と言いますが、そのような役割であり、これはこれで大切なことであり、ここを通らないと「存在そのもの」の悩みがあることを知り、それを解決するところには到達できないのです。

臨終のその最期にいきなり「存在そのもの」の悩みは、突如姿を現しますが、そうなる前に、平生元気な時に、その悩みを真理との邂逅を果たすことでできます。臨終はそれができる最後のチャンスですが、そこまで延ばすことは、悩みを取り去ることができない内に命が終る可能性のあるとても危険な賭けのようなものです。

どうか一日も早く、「何かを持つ」悩みから「存在そのもの」の悩みにシフトし、その悩みをスッカリ晴らして、残りの人生を送られることを念じて止みません。
感謝していること
 「存在そのもの」の悩みは、真理との出合うことで、全てをゆだねられたときに、驚くほど速く見事に跡形もなく消えます。臨終までに間にあったことに感謝します。
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日本が誇れる公設の水道技術

2018/09/11 12:54
 そのほとんどを地方自治体が担う水道施設の高度な技術の有り難さを海外にいる時に実感します。海外旅行に行くとき水を持参します。そして帰る時までに使い切るということを繰り返してきました。フィリピンではホテルにミネラルウォーターが常設されていて、水を買うことはありませんでした。持参の水もあまりました。中国では列車の移動などもあり、そこには熱湯しかありませんでした。だから途中、1元の550mlの水と、帰りの船のために4元の4ℓの水を二回買いました。船には水があり、少し余りました。

 私が旅行した海外の国で日本人の私が蛇口から水道水が飲める国は少ないです。そのためいつも大き目のスーツケースに炭酸入りのミネラルウォーター何本か入れていきます。これは大変な負荷をもたらしますが、水を海外で買うと高いし、不安なので飲みなれたものを持参します。

 そして下水道の設備が整っておらず、トイレで使用した紙は備え付けの容器に捨てるところが多いのにも不便さを感じます。臭いもきつく、見た目もよくなく、何とかならないものかといつも困っています。話はずれますが、ホテルや一部の場所以外ではトイレットペーパーもなく、より高額なティッシュペーパーを買わなければなりません。トイレットペーパーを置いておくと持って行ってしまう人があるらしいです。これにも違和感があります。たとえ紙といえども他人の物を持って行くのはいかがなものかと思います。

 日本が誇れる水道技術は高速鉄道などよりも役に立つと私には感じられます。民間に移行するのではなく、地方公共団体の仕事として、海外の水道事業に貢献することを願います。災害の時も、公設であるが故に、復旧も早くできます。また、ライフラインで、不払いがある時に、一番最後に止まるのは水です。それほど水は大切です。

 安易にいのちの最後の砦である。民間に仕事をまかせることは危険だと私は危惧します。海外でも民間に委託して、国民が高額の水道代を払うことになるなど、酷い状態になり、また慌てて公設にした例がいくつもあるのになぜ今、時代の逆行をするのか理解しかねます。

 私は世界中を旅して、日本の水道技術ほど他国の役に立つものはないと、それを誇り、色々な国の人に話しています。海外に出ないと今、当然にある物の有難味は分かりにくいものです。

感謝していること
 日本に帰ってきて、トイレが綺麗で、水も何の心配もなく使えることが有難いと感謝しております。
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人間同士における信頼関係

2018/09/10 11:19
 分かり合おうとしても別の業を持っているので完全にわかり合うことはできません。
 歩み寄り、近づく事はできますが、それも限界があります。
 親や近しい人である配偶者や恋人などが話を聞いてくれたとしても、別の人間なので完全な一致をみることはできません。訓練を積んだカウンセラーなら表面的には受け入れてもらい、自分の気持ちを理解してもらえたという気持ちになることもありますが、究極のところでは孤独を癒すことは皆無であると知らされます。

 信頼関係の最も強い絆であると認識されているものは、親子関係です。親が子どもを養育することを放棄すると世間から当然の如く非難されます。子どもが親に対して肉体的、精神的に危害を加え、殺すような存在であったとしても、それを何とかするのが親の役目だと世間の無責任な人たちは言い続けます。
次に強いとされるのは夫婦や恋人の関係です。婚姻届という紙で契約を結ぶことにより、行政から多少の恩恵を受ける代わりに、貞操義務という信頼関係が課されます。恋人は形としての縛りはありませんが、片方が不貞に及ぶとその時点で関係が破棄されますので、夫婦と似たような信頼関係が求められます。

実際手をかけて相手を殺すとか、傷つけるとか、不倫をするとかはしなくても、心で傷つけ殺し、他者との不倫を考え、言葉で威圧して相手を黙らせたり、罵ったりすることは日常に行われますが、それは身体的な作為ほど大して問題にされません。しかし、心がその人の存在の元であり、行動よりも簡単にできる言葉もその人の人格を表します。
何をやっているか、何を言っているか、そして何を思っているかをトータルで見ていく必要があるのです。

よくよく人間の本性を見ていくと、結局自分が大事で、他人のことは後回しである人間の本性に辿りつきます。欲や怒りや愚痴の煩悩が出たら平気で他人を傷つけ、殺すことも厭わないのが人間の本性なのです。ただ、縁が来ないからしないだけです。
しかるべき縁が来たら何でもする人間ではありますが、真理との邂逅ができた人はこれらがよくわかるので、自重して生きるようになります。周りの人に対してもなるべく自分を後回しにして、その人が真理との邂逅ができるようなサポートに回ります。なぜなら、自分はもう真理との間の信頼関係ができているので、人間に対してそれほど信頼関係を強要する必要がないからです。そして同じような体験ができた人同士では、真の意味で心から、お互い譲り合い、思い遣ることができます。

以上、分かる人には分かりますが、分からない人には分からない話です。

感謝していること
 人間に対して過剰な信頼関係を求め、縛ることが無くても平気になったことは有難いと感謝しております。
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共に死すべき存在と認識し、死の解決の上、損得や上下関係を超え互いに愛おしく感じられる関係

2018/09/09 20:37
 たぶん「黙れ!」とかいう暴言も、ストレスを晴らすどんな暴力も必要のない状況になります。
 ただ生きていてくれたらいい、何もしてくれなくても、言わなくてもいいから、穏やかにこの世に存在していてくれさえすればいいだけです。その人の存在そのものをリスペクトするだけです。

 私はこの世に何も未練はありません。ただ、自分が不安で仕方なかった死の解決を文章にしたためてから、いのちを終えたいと願っています。食べたいものも着たい服も住みたい大きな家も行きたいところもありません。もちろん、来てくれと言われれば行きますが。私には望みも願いもありません。ただ、死すべきことを認識し合えた人同士が、死の解決を終えて穏やかに互いを慈しみ合って生きていられたらそれだけでいいです。他には何も要りません。

 仏教も含めた人々の夢を運んだシルクロードを旅して、人生は儚い夢であるとさらに深く確信しました。欲望は尽きませんが、終わりは必ず来ます。いろいろなことを整理して、これは残したいというものだけ残して、故郷に還っていきます。

感謝していること
 有情無情の様々なお蔭で生きていられることを有難く感謝します。
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眼に見えないものが大事だってわからない?

2018/09/09 13:40
 言葉や態度で私は自身の娘や周りの人たちにどれくらいこのことを伝えて来たか分かりません。でも、目に見えないものの重要性を自分が望むようには伝わっている感覚がありません。
 
態度で見せても、地味であまりにも控えめで伝わらないのか、言葉も表面が行き違ってそれを修復できないままでいるのか、そこら辺がよく分かりません。物事はいのちも含めて無常で今の形の輝きをこの先、とどめません。過去に執着してもそれは終わったことです。未来は来るか来ないか分かりません。
 
 今、真理との邂逅を果たし、全てを分かち合い、いのちすらまかせられる状態を永遠に獲られた時から、真に私の存在が輝き始めます。安寧と満足の中の私がいつまでも続く大きないのちの力や智慧の光に護られているのを楽しめます。

感謝していること
 特別なことがなくても、どんなことをしていても、なぜか大きないのちの力や智慧の光に護られ満たされていて、無理しなくてもちょうどいい感覚を続けられていることに感謝します。
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仏教が民衆の信仰として残った最後の場所で私ができること

2018/09/09 12:02
 私が出会った、インド・中国・フィリピンでは、自国の人から阿弥陀仏や南無阿弥陀仏を教えられた人は皆無でした。 阿弥陀仏や阿弥陀仏の本願や日本人から聞いたり、経典や聖教で知っている人はいても、本当に救われる道、真理として知る人はいませんでした。

 とても残念で悲しいことです。

 しかしながら、大乗相応の地、日域である日本には浄土真宗が根付いています。そして、阿弥陀仏の願いが説法として東西本願寺を始め、日本全国の別院、そして海外の別院で説かれています。そこでご縁を結ぶ人もあります。本当に救われる人も僅かですがあります。

 英訳の翻訳本として稲垣瑞劔氏の歎異鈔やほかの書籍はヨーロッパで読み継がれていて、真実信心を求める人たちもあります。鈴木大拙氏の禅を中心とした仏教の翻訳とは別のルートでそれらは欧州の人々に根付いています。隔年で欧州真宗会議が行われています。前回のベルギーのアントワープは発表させていただきました。今回のサウサンプトンはシルクロートツアーと重なりご縁がありませんでしたが、行われたそうです。


 昨年はロシアのサンクトペテルブルグとモスクワに行きました。中国は香港の2回も含めて5回行きました。台湾の5回も含めると10回以上行っています。この二つの国や地域に、仏教や宗教の話をすることはかなりの地慣らしが必要な気がします。インドやネパールも同様な感覚を持ちます。

 まず、日本や欧州で論文や学会発表をし、それを見聞きした他の地域の人がいつかは阿弥陀仏の本願に興味を持ち、信仰として関わり、救われることを念じて止みません。

感謝していること
 いろいろな地域に実際行ってみて、自分の使命をより迅速に多くの人たちに伝えられるプランを建てられることは有難いと感謝しております。
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