いつも思い出す記事

 今までたくさんの記事を書いてきました。
 私は「きづき」を賜る心境まで、今生で、多くの方々に到達して頂きたいと、日々精進しています。
 その一環として、このブログもあります。
 一人の人間として、気の毒な人を見ていられない、何とかして差し上げたい、苦しみを抜いて、楽になって頂きたいという仏教でいう「抜苦与楽」の至高の形の体験を目指しています。
 ただ、世間の苦しみで、「きづき」を求める心境にまでなれない方々も、残念で悲しいことですがたくさん見てきています。
 私のやるせない気持ちを書いた記事があります。
 決して上から目線で哀れんで書いたものではありません。
 怠惰で、才能も知能も優れていない私であることは存じていますが、その限られたもので、何か出来ることがあるのではないかともいつも考えています。
 そのときに、以下の記事を思い出します。
 みなさまにも、もう一度、読んで頂けたら幸いです。
 いつも、私がどんなことを考えている人間かも分かって頂け、みなさまと私の気持ちがつながることが出来たら、こんな嬉しいことはありません。
 そして、いつか一緒に、どんなことでか、どんな場所でかはわかりませんが、何かアクションを起こせるのではないかと期待しています。

 河原で食べた最期のおにぎり
本文
 たしか、京都の地裁だったと記憶しています。
 老いた母親を車椅子で、河原に連れて行って、この世で最期のコンビニで買ったおにぎりを食べた後、息子の被告が実母に手をかけた裁判がありました。
 二人の所持金は小銭だけでした。
 母親を殺めて自分も命を絶つことを、相談した上の犯行でした。
 結局、その人は死にきれなかったのでした。
 
 壮年の被告は、自宅介護の為、仕事を辞めなければなりませんでした。
 貯金を切り崩してたり、僅かばかりの年金で、親子二人慎ましく暮らしていたらしいです。
 生活保護を何故受けなかった、民生委員は何をしていたのかと責めるのは簡単です。
 きっと、何か事情があったのかもしれません。
 この裁判を傍聴していた人も、誰もかもが、みんな泣いていたらしいです。
 悲しい、悲しい出来事です。

 支援物資のおにぎりという言葉を聞く度、全然関係ないのですが、この裁判を思い出します。
 今、震災で困っている人たちに、物資やお金を援助することは、大切ですが、その人たちが、自分で生活していけるような支援への変わり目のときが、来ているのではないでしょうか。
 困ったことが起こったとき、自分で働いてお金を稼ぐという選択肢だけではなく、自分や家族が生きるために、各種の保護を受ける手続きや、親戚縁者が、その人を助けたい、援助したい尊い、親切を、気持ちよく受け取る心構えなどは、きっと子どもの時に、周りの大人に教えてもらうことなのかもしれないと、最近思います。

 生きていく力を子ども達にしっかり、伝えていくことはとても大切なこと、大人の責任と感じます。
それと感謝の気持ちが感じられる子どもになって、人から可愛がられるように、自らの言動で示していきます。

全く強くなどないのですが・・・・・・
本文
 わかっているけど止められないことあるでしょ
 人間の弱い部分を認めて欲しい
 誰でもがあなたのように強い意志があるわけじゃない
 綺麗事を言うな
 いじめている人も苦しんでいるんだから
 こんな風に思っている読者もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか
 それでも、思いのままに放縦な生き方をして、幸せだったかというと、そうではありませんでした。
 確かに、自分がしたいこと、楽しいことが自分一人のことで、自己完結して、誰にも迷惑のかからないことなら、後始末も全部自分で引き受ける覚悟でしたらいいです。
 しかし、こと相手があることは、慎重にならないとなりません。
 一人でも不快に思う人が想定される場合、我欲を押し通すことは止めた方が無難です。
 自分がしたい、言いたいと思うことでなく、周りの人みんながよろこび、明るくなれ、幸せになれる言動に心掛けることです。
私は関西の方が長くいますが、どうしても馴染めないことがあります。
 自分が住んでいるところは、控えめな大人しい奥にこもる様な、他人に干渉しない土地柄で、それはそれで得体が知れず、関東とも違いますが、いわゆるステレオタイプの関西人は苦手です。
 よしもとの漫才も、どつき系、粗捜し系、自虐系は笑うに笑えず、困ってしまいます。
 元々マイナスの感情を小出しにする事も出来ず、笑い飛ばすことも出来ない性分です。
 みんなこんな風に勝手なんだ、酷いことも思っているんだと見せ付けられても、それが何?と醒めた目で見てしまいます。
したい放題、言いたい放題で発散して見せることは、芸やエンターテイメントとしては、見たい人が見たらいいのでしょうが、実生活までそれが延長されると、引いてしまいます。
 子どもが勘違いして、テレビで見た心無いギャグを私にそのまま、何も考えずに披露するのですが、面白くも何ともありません。
 真面目過ぎると思われるかもしれませんが、いわゆるおやじギャグは苦手で、ついていけません。
 言葉の遊びの駄洒落なら、子どもじみてるけど、呆け防止なのだろうとまだ流せます。
 性的意味合いのある冗談で、周りが明るくなると勘違いしている人もいるかもしれませんので、キッパリ言います。
 それは大いなる勘違いです。
 たしかにそういう大らかな人もいるでしょうが、中には絶対受け入れられない人がいることがあります。
 私もその中の一人ですが、あわよくばなんとか・・・・・・というスケベ根性が見え隠れするので、固まってしまいます。
 誰が言っても、その人の品性が曇る気がして、私は馴染めません。
 特に教師や会社か何かの上司として指導する立場の人は、慎んで異性の相手には、セクハラと取られるようなことは決して言わない、相手に指一本触れないストイックさが求められます。
 何事にもけじめが必要です。
 経験上それが出来る人がメンターであると、私は感じてきました。
 この頃は、魂の融合」を目指しつつ、「魂の交流」を深める方法を模索しています。
 言葉や文章や微笑や動作の中に、相手への思い遣りを込めることで、スキンシップ以上の効果があるような。
 自分の子どもは、未だにだっこ、だっこと擦り寄ってきますので、頭を撫でて、よしよしと付き合いますが。
 言葉には力があります。
 言霊といわれるように、よいものでも、そうでないものでも、誰かから言われて、何度も何度もリフレインするフレーズを誰でも一つや二つは持っているでしょう。
 大人には想像力がありますし、自尊感情や心が蕩けるようなことが、直接触れなくても可能だと感じます。これなら男女年代も立場をも越えて、触れ合う機会が拡大します。 

このブログでそのような言葉をかけられたらとも努力していますが、経験不足やプラスの感もまだ上手く表現できなくて申し訳ないです。

 限られた短い時間を生きるなら、自分も周りも誰でもが、明るく、楽しく、いきいき出来る空間創りを心掛けることで、それが自分にも跳ね返ってくるのではないでしょうか。
 言いたくても言わない(心の奥底にしまいこむ)、言いたくないけれどあえて言う、それは自分のためでなく、目の前の人のため。
 したくてもしない、したくないけれどする、それも相手の幸せのため。
 自分以外の人と一緒にいたり、何かする時は、どうしたらよろこんでもらえるか、いっしょに笑えるかを考えていたら、いじめはちょっとずつ消えていくのではないでしょうか。
 やりたい放題している先には、破滅や思わぬ落とし穴があります。
 本人はそれがわかりませんが、わかる人にはわかります。

 かくいう私も、怠惰で何も出来ていませんし、自覚無しにきつい事をいっているかもしれませんが、目の前の人の心からの笑顔を、出来るだけたくさん見てから、還ろうとしています。

 よかったこと
  今までは、別の場所ではあれど、同じ道を通って、達成して、その後、同じ志を追求してきた方と巡り遇って、「何か一緒に始めたい」というお言葉を頂戴して何だか夢のようです。
1969
本文
CDから流れてくる歌の音階を娘が口ずさんでいました。
 「パフ」でした。
 去年の「卒業生を送る会」で子どもがピアノで伴奏して、みんながリコーダーで演奏したのだそうでした。
 何かその練習のピアノの曲を、聞いた事があるようなないような、自分のことで大変で、その後、地震があったりでしっかり聞いてやらないうちに、時間が過ぎてしまいました。
 この瞬間を精一杯生きてるか、などとみなさんに問いかけているのに、自分と子どもの時間をきちんと消化できていませんでした。
 
 幼くて、あどけなくて、真っ直ぐに隠し事など何もなく、向かってくる子どもが眩しくて、頼もしく感じます。
 同じ頃、抑圧された日々を送ってきた私には、たまにもてあますところもありますが、正直な姿に圧倒されています。
 繊細なところなどなくて、どうしてここで、しっとりした情感を味わえないのかなと、物足りませんが、忍耐とか悲哀を噛み締めるとかいう経験が余りないし、させないように護ってしまっているせいでしょうか。
 人はそれぞれ違うので、仕方ありませんね。
 いいところを伸ばしていって欲しいです。

 さて、1969のCDですが、私は由紀さおりさんのファンなんです。
 歌も、バラエティも、お芝居も人間そのものがいいんです。
 童謡より歌謡曲を上品に芳しく歌う彼女が好きで、心がかき立てられるのです。
 人生の酸いも甘いもわかっていて、しっとりした情感を歌っているのに、明るくさっぱりしてそのうえ美しい。
 実際お目にかかったことはないのですが、テレビの向こうから元気を下さる素敵な女性です。

 ジャズやボサノバが好きなので、買ってみましたが、久しぶりに、支払った金額以上に満足したものでした。
 一番初めの『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、幼少の頃、スズキ・フロンテに父が、私と妹と弟を乗せて仕事の用事で東京までちょくちょく連れて行ってくれたときに、カーラジオから流れてきた曲です。
 当時、車窓から夜見た、東京のセピア色の風景とそっくりなものを、20年後、台北郊外で見ました。
 あれから大分たってしまって、台北も変わってしまったのでしょうか。

 1969年前後は。世の中が、サイケフャッションで溢れていたり、ちょっとお洒落な頃でした。
 由紀さおりさんが『夜明けのスキャット』でデビューした年なのですね。
 由紀さん、いつまでも、お元気で、元気にしてくれる歌を歌って下さい。
 私も、見習わせて頂いて、もう少し頑張ってみますから。


由紀さおりさん、いつまでも、美しくお元気で
本文
 10年くらい年上の方々は、ジャズ、ボサノバと哲学書の中に青春期がありませんでしたか? 
 私の青春期は1970年の後半から1980年代でした。
 1965年から1970年はじめ頃は、まだまだ経済が成長している時期でした。
 私はこの頃が人生の中で一番好きな時代でした。
 
 由紀さおりさんの歌や1969の歌たちは私の心の原点です。
 あの頃(3つ~8つ頃)、これらの歌を聴き、口ずさみながら、人生とは?私の存在理由は?と色々考えました。
 学生運動やウーマンリブも盛んな頃でしたが、私は今でもですが、過激な活動家は苦手でした。
 由紀さおりさんのアンニュイなけだるい緩いそれでいて、音程も確かで澄んだ声で、深い情念を軽く歌うのが好きでした。
 演歌でもない、童謡一本でもない、ジャズ、ボサノバ、にくわえて、ポップス、クラッシック等オールマイティに難しい歌でも、鼻歌のように軽く何でもないように歌い、コメディも含めた女優や司会も軽くこなす彼女は理想の女性です。
 何から何まで素敵なんです。
 由紀さんを注目した海外のアーチストも、そこのところを直感で判ったのでしょう。 
 
 女性は「しっかり「しっとり」ともう一つ「しっぽり」という三つが揃うと完璧らしいのですが、「しっぽり」まで到達している人は滅多にいません。
 「しっかり、しっとり」、はみようみまねで、なれますが、「しっぽり」はほとんど、男女共通の人間性そのものです。
 
 私にとって由紀さおりさんは、凄いオーラをもつ人でした。
 そこまで行く人は、ナイチンゲール、ヘレン・ケラー、マザーテレサ(女性的な部分は?ですが)とかそんな人しか思い浮かびません。
 由紀さおりさんには、その三つを生まれながらに持っているように思えました。
 ご自身も辛い思いや痛みを乗越え、人の痛みが分かり、その上で明るく、朗らかにいられる人です。
 アキレスと亀ではありませんが、人間として一ファンとして私には、なかなか追いつけません。

 「何が悪いのか、今もわからない、誰のせいなのか、今もわからない」「手紙」より
 「ああ あなたと別れた今でも ああ 私はあなたと生きてるの」「生きがい」より
 突き詰めて考えない、恨まない、ケセラセラという感じがなんとも軽快で、流れを感じられて、後味がスッキリしています。あっさりしている中にも、思いやりも感じられて、情が深いし、優しさもあります。

 この記事をもし、読んで下さっていて、「ハートを抱きしめて」が気に入って頂けたら、いつか生で歌が聞きたいです。

何かを教える人の資質
本文
 相手が子どもであろうと大人であろうと、人に何かを教える人は、教えるものの熟達度はもちろんのこと、大切なのは、人としての資質ではないでしょうか。
 子どもは親や大人を見て真似します。
 自分がうそをついていながら、誠実に、正直にと口を酸っぱくして言っても、鼻で笑われてしまいます。
 
 狭い了見の大人には、子どもに広い世界を語ることは出来ません。
 自分の器以上のものは与えられません。
 世界を旅したとか、異国で働いたなら、その経験を話してやると、子どもは目を輝かせます。
 将来自分も広い世界に出てみようかという心の種が蒔かれます。
 
 また、喜怒哀楽を見せない大人と居ると無表情な無感動な子どもになります。
 しょっちゅう怒ったり、悲しんだりはしなくていいですが、よろこんだり、楽しんだりは大いにしたらいいのではないでしょうか。
 友人の子どものクラスで、いじめが起きたとき、先生が「わたしのいもうと」を読んで下さったそうです。
 先生は何度も練習されたのでしょうが、最後の方では声が詰まってしまったようでした。
 そして、目を真っ赤にして、いじめでこんなことになるのだと、訴えられたそうです。
 
 「お話も悲しかったけど、先生が本気で悲しんでいたし、いじめはいけないって思った」と聞いた感想をその子は言っていたそうです。

 指導者は、教える技術は研鑽していかないとなりませんが、一人の人としてどうあるべきかいつも原点に戻り、親としての以前に、子どもに恥ずかしくないよう襟を正していきます。

コーチングとカウンセリング
本文
 コーチングの講座に、最近、参加しました。 
 カウンセリングと、どう違うのか聞きましたが、ほとんど同じようでした。
 相手に寄り添って、話を傾聴することが、基本らしいです。
 
 カウンセリングは、悩みや、ストレスのマイナスの観点から、取り敢えずは、プラマイ0まで引き上げることが目標。
 コーチングは問題解決、目的達成を後押しする0かプラスのどこかから、自分が決めたところまで、行けるまで、一緒に考えたり、励ますことが目標。

 カウンセリングで、精神的に参っている人に、「頑張れ」いうとやる気を挫くようです。
 コーチングでは、本人がやる気があって、解決を求めているので、励ます事は、問題ないようです。

 どちらも、自分の考えを押し付けるのではなく、相手の「気付き」を促すことが大事という事でした。
 人間には、自分の人生の中にやってくることは、解決できる力が備わっているから、クライアントに寄り添って、共感して、本来の力が出せる勇気を持ってもらうことなのかもしれません。

 講義の最後に、山本五十六さんの、次の言葉を紹介して頂きました。
 親、教師、カウンセラー、セラピスト、御仏のお気持ちを話す者として、全ての場面で、この言葉を心に留めて、話していくこうと決めました。

 「やってみて、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

 本当に、その通りと感じます。
 誰に対しても、感謝の気持ちを持つことは大切ですね。

 よかったこと
  雨の中出かけましたが、未だしまっていなかったコートがふんわり、柔らかく包んでくれて、心も温まりました。

やっぱり、今回も、悲しみは実感出来ません
本文
 1週間、テレビやパソコンで、震災の報道や写真等を見てきました。
 報道規制もあるのでしょうが、死体や人が津波に飲み込まれる瞬間の画像は見ていません。 
 飢えや希望を亡くして、幼い子どもや老人が、息を引き取る場面、強盗、略奪、性犯罪などは1回も見ません。
 勘違いして欲しくはないのですが、それを好んでみたいのではありません。
 
 実際、起こっていることは、私たちの想像を絶するものなのでしょう。
 阪神・淡路の震災とき、神戸での惨劇を聞きました。
 余りにも死者が多く出ました。
 みんな泣きながら、家族や友人、恋人の亡骸を引きずって、安置場所まで運んでいる人たちの光景を聞きました。

 太平洋戦争の空襲や、沖縄戦、広島、長崎の原爆投下の後の惨状のフィルムや写真はモノクロでしたが、胸が痛みました。
 今、現在、希望を無くした人々が、死に逝く姿、心をなくしたひとたちが、怖れから犯罪行為を犯しているのも、また悲しい現実です。
 その場所の、空気、匂い、人々の思いは、そこに行ってみなければ分からないと、阪神・淡路の震災のとき、痛感したはずなのに、また、人事のような感覚から抜けられません。悲しいです。

 物質的な援助行き届かないで、餓死する人たちが、これ以上出ないことを心から願います。
 それと同時に、被災地の人たちの心の中の、恐怖や怒りが、自らの生命力、生きる希望をなくしたり、犯罪行為に走ったりしないよう祈念するばかりです。

 心に光や、明かりを届ける記事がなかなか書けなくて、心苦しいです。
 何とか少しずつでも、御仏の救いや御心を、特にこんな時なので、書きたいのですが、能力が伴いません。
 それでも、私で書ける範囲で、みなさんの心に届く記事を、書いていきます。
 御仏と共に、全ての方々の、お幸せを念じ上げます。

みなさまへ、ブログの主(あるじ)として
本文
 おはようございます。
 みなさまに今の想いをお伝えします。
時間になったので、昼に続きを書いています。失礼しました。

 みなさまの幸せを願って、このブログを立ち上げました。
 いまもその決意は色褪せることなく、ますます鮮明になっています。

 「言葉というものは生きています。生きた言葉は、それを語った人からも離れ、それを書いた者からも離れ、縁ある人々の、胸から胸に伝わり、そしてまた語られてゆくでしょう。」(吾勝常晃氏の言葉)
 
 このように私のブログの記事たちも、私から離れて、縁のある方々の、胸から胸に伝わり、語られるものであればいいです。
 文章や言葉や単語たちが、とっくにわたしの元から離れて一人歩きしている感があります。
 このブログでは主に、「きづき」そのものや、「きづき」を獲るまでのこと、そしてその後の人間という器を持っている中での、苦悩や限界などを書き綴ってきました。

 そんな中で、たくさんのコメントや気持ち玉や直接のメールや電話を頂きました。
 このブログがご縁で、何人かの方々が「きづき」を賜りもしました。
 真によろこぶべきことであり、それで私のお役目も終わっても十分なのですが、欲が出てきて、ぼちぼち続けておりました。
 
 そうして、今年の10月の終わりに、ある読者の方が、「きづき」を賜ったことを記事に書かせて頂きました。
 このブログとご縁があるまで、その方は、仏教も、御仏のことも何も知らなかったそうですが、現在の苦しみを何とかしたいと、次のようなことをされました。
 約10日間で、最近から遡って、ブログの全部の記事を読み通されました。
 途中、自分に役に立ちそうな記事の題名と文章を書き写しながら、わからないところは何度も何度も読み返しながら、寝食忘れて、毎日毎日されたそうです。
 その結果、この世の一大事や、人間関係が上手くいって、私に昼にお礼の電話を下さいました。
 記事を全部読んで理解された上なら「きづき」が賜れるかもしれないという予感があって、私が15分ほど話したら、救われました。
 御仏のお名前も念仏も何も出していません。
 さとり、救いの記事を読みながらの、「something great]のような「真理」の説明でした。

 その時から、ある宗教や仏、神、その他のものに拘らなくてもいいのではないかと、私の中で疑問が生まれました。
 私自身は、それしか知らないので、常に自分の知っている、そう名付けられていると信じている御仏に感謝して、暇さえあればお名前を称えています。
 1日早く救われた子どもは、何に感謝するわけでもなく、念仏も関係なく呑気に暮らしてるようにみえていました。
 ところが、時々「きづき」を賜っていても、それを伝えようとしない大人たちのことを次のように言います。
 子どもなので、遠慮が無いし手厳しいです。
 「あなたでさえ、毎日、何とか伝えようとして、色々な材料や表現を考えて、記事を書いたり、話をしているのに、ほかの救われた大人たちは、何で何もしないのだろうね。私は友達に伝えようとしたけど、言葉にならなくて諦めたし。私だって伝えられるなら、伝えたいと思っているんだからね」
 その気持ちだけでも御恩返しの真似事にはなっているのかもしれないと、我が子ながら尊く感じています。

 このようなことから、特定の宗教に縁の無かった人、6歳の子どもでも賜れた「きづき」と全く同じ体験は、もしかしたら世界のどこかにもあるのではないかという、関心が最近は、大きくなってきました。
 それで、大学院でもいいし、民間研究者としてでもいいし、この仮説、課題に取り組もうとしています。
 
 「きづき」以外のことも、何気なく毎日気ままに書いているつもりでも、私自身が読み返しても、書いた当時とまた違ったことが感じられる記事もたくさんあります。
 きっと、知った覚えたことを嬉しくて、ただ文章にしたものもあったのかもしれません。
 時間を経て、体験が伴って、熟成されて花が芳香を醸し出すように感じれらるようになったのでしょう。

 余りにも繊細すぎる私は風が吹いても、大騒ぎして、すぐ人の気を受け取って「共鳴」してしまっていました。
 最近コロコロさんのコメントに癒しを伝え、道しるべになって下さいと励まして頂いたのが、ずっと引っかかっていました。
 やっと、こんなことではいけない、私がこのブログの主(あるじ)なのだから、もっとしっかりしようと決意出来ました。 主がしっかりしていなくては、読んでいる人もそわそわします。
 「きづき」に関してはブレていないですが、ほかのことも、地に足の着いたような責任のあるものにします。
 
 「わからないことはわからない」
 「知らないことは知らない」
 「教えられること、そうでないこと」
 「好ましいこと、苦手なこと」
 
 これらをハッキリ書いてきました。
 経験の無いことは分かりません。
 難しい勉強の出来ないこと、要領のよくないこと、コツを教えてくれる先生に遇えなかったことは、経験しました。   しかしながら、やる気のなかった事は、あってもほんの僅かで、やる気が無くても私が動かないとどうにもこうにもならない状況で、休んでいることも、病気になることも許されませんでした。

 こんな状態でもやってこられたのは、親が丈夫に生んでくれ、全ての面で援助して育てて、大学にも出してくれたからでしょう。
 私自身は徳の全くない者ですが、周りの徳の高い人たちが、いつも大勢、束になって押しかけてくれて、ぼやぼや、おろおろしている私を、陰に陽に助けて下さいました。
 今でも、主でありながら、弱音を吐いたり、愚痴を言っていると、色々な形で、みなさまから励まして頂く情けない者です。
 
 繊細で感じやすく、揺れやすいので、今でも、何か言われると、自分を未だに責めてしまう癖も止めます。
 みんなに好かれようとも思いませんし、それが目的でもありません。
 
 「人も、場所も、時間」も何もかもが、命をかけるものではありません。
 「きづき」を賜った後、所詮「おまけ」です。
 おまけは開けてみないとわかりません。
 いいものか、つまらないものか、その意外性を楽しんだらいいのではないかと受け取っています。

 私の書いたものは、ただの材料です。
 それを自分のに取り入れて、活かすか、そうできないかはその人次第です。
 例えば、私が一番美味しいと感じて気に入っているバリ島のクサンバの塩を、私がみなさまに提供したとします。
 その塩を使ってもらって、ご自身の持っている様々な材料で、この上ない上等な贅沢な料理を作ってもらえたら、ブログの主人としては、お塩の価値が分かってくれたのだ、気に入ってもらえたのだ、ほんの僅かの量でも活かせてもらって有り難いと、狂喜乱舞の心境になれます。
 オープンハウス(売値は0円です)にふらっと立ち寄ったみなさまが、『今、この瞬間を精一杯生きていますか?』という家が気に入ったなら、その家にある使えるものを利用して、好きなように住んで頂けたらそれでいいのです。
 どうか、みなさまが一日も早く「きづき」を賜り、後は「おまけ」と呑気に意外性を楽しむ人生が送れるように、念じ申し上げます。ステラ

 よかったこと
  迷悟における人間の虚妄性・罪悪性への追求
  超越の契機
  人間の無明性・虚妄性を見抜き、質的転換(獲信)をはかる 
  これらとロジャーズのP・C・Aと違いが書かれている、どなたかの文章を図書館で発見しました。
  私の今後の研究の課題の方向を示すものではないかと、また本を借りてきて読み返そうと思います。

 



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