宗教家(僧侶)の本来の役割

 宗教家というとやっていることが漠然として何だかよくわからない気がします。
 色々な考えがあるでしょうが、私は宗教を生活の糧にしたり、お金をもうけようとは思いません。
 なぜなら、ただで賜った信心なのに、人に伝えるのにお金を頂く気には全くなれないからです。
 このようにフリーの文章で書いていたり、対面や電話やチャットやメールでお話をしていますので、実践宗教家とは名乗っていますが、お金を頂戴したことはありません。
 
 これにはもう一つ理由があります。
 以前30年近く所属していた団体が何に対してもお金を要求してきたことです。
 お金はかかるのに、トップである会長だけが救われているだけで、講師もほかの会員さんも誰一人救われた人がいないおかしなところでした。
 
 こんなところに死ぬまでいても埒が明かないだろうと、私は直接御仏に向ってきづき(信心)を賜りました。
 信じること(=救われること)はこんなに簡単で、それゆえ難しいことなのかとびっくりしましたが、求めていない人にとっては価値が分からないでしょう。
 難信易行という言葉がまさにぴったりでした。(詳しくは「さとりと救いについて」という昨年の2月6日の記事をご覧ください)

 宗教家といっても家族がいたり生活をしていかなくてはならないのですが、株などの金融商品や利子や本の印税で暮らしていけるのなら、全く問題はありません。
 また家族が養ってくれている人もありますし、年金暮らしで、晴耕雨読で食べるものの米や豆や野菜や卵で自給自足できる人はきっと過去の種まきのお陰で恵まれていらっしゃるのでしょう。
 それ以外の人は役所に勤めたり、学校の教師をしたり、宗教以外のカウンセリングをしたり、ビジネスをしたりして色々なことで生計をたてています。

 だだ、その根底にあるものを常に忘れていはならないと、私はいつも思います。
 同じ信心を賜った人を私はたくさん存じ上げていますが、皆が皆、きづきがまだの人に対して、布教活動をしているわけではありません。
 それはそれぞれの志や能力にもよるでしょうが、もったいない気がします。
 
 特に宗教の大学や大学院の教師でありながら、賜った信心を将来、地元の寺に帰るまでに授業や研究会で教えないなら、それは何のためにそこにとどまって教えているのか意味がないのではないかと私は残念に思います。
 幾人かの先生は御仏の願いを何とかお伝えしようと、ゼミ以外の学生さんにも声をかけていらっしゃると聞きました。とても尊いことだと思われます。
 ただ、ほかの多くの教師の方々は、教義の解説や葬式法事やお経の上げ方、または震災のボランティアだとか、大雨や洪水のあとの慰問だとかに終止してしまい、肝心の御仏の願いや信心についてのお話が出来ないまま学生を送り出してしまっているような気がします。

 生意気なことを若輩者が書きましたが、お気に触られたら申し訳ありません。

 よかったこと
  お念珠を子どもと一緒に作るご縁に遇えました。大学院生の方々が懇切丁寧に教えてくださり素敵なものが完成しました。どうも有難うございました。 
 

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