親御さんの真の願い(お話し76)

かずさま たかさま みつさま こんばんは

今日は私がどうしてこんな風にみなさんやパソコンの向こうにいる人たちに話をしているかをお伝えします。
それから、私が救われた時のことも書いてみます。
救われる時は人それぞれなので、誰一人全く同じ道を通ることはありません。

ただ、私が特別修業をしたわけでもなく、能力が優れていたのでもないことがわかっていただけるかもしれません。お伝えしたいという気持ちだけでここまで来ました。それだけなのです。

人を助けようと思っていても、助ける術がなければ助けられません。
 持たざる人は苦しみ悩んでいる人たちを目の前にしてなす術がありません。
 
 物心ついた時から御仏の願いが受け取る、大いなる存在と一体になると決めていた私でした。それなのに、その願いが受け取れない時期が何十年もありました。この期間ほどつらく苦しい時はありませんでした。

 煩悩で傷つけ合うことしか知らない、頑なに心を閉ざして他人と自分を分けてしか考えられない氷のような硬く冷たい人たちを目の前にして、何もできない無力感をとても悲しく感じていました。

 自分は信心を賜ったという某会長が作った団体に30年近く所属して、そこへ話を聞きに行くように勧める活動をしてきました。ところが、「では、あなたは救われているのですか」と聞かれるといつも返す言葉がありませんでした。

 半年ほどして、周りを見ると会長以外は、自信をもって救われたと言っている人は誰一人いませんでした。その後そんな状態がずっと続いたのに、ほかでこの世で救われたと言っているものはないという会長の言葉をうのみにして、探すこともせず、惰性で長年聞き続けました。
 時々、会の中で、誰かが救われたと発言すると異安心扱いされ、いつの間にか会から姿を消していました。

 これは何だか可笑しい、どうして何十年も聞いているのに救われないのか、自分よりももっと早くから縁があり、人にまで説法する講師たちも救われていないのはなぜだろうととても疑問でした。
 
 信仰というのは不思議なもので、直線を進むようなものではないのだけれど、自分が知らされた、進んだところまでは通って来た道だからよくわかるのです。
 初めはどんな先生、布教師の話でも同じように聞こえていたのが、自分よりわかっていない人の話は聞けなくなるのです。
 分かっていないというのは教学的なものではなく、信心が徹底しているか否かということですが。
 それで知識(先生)選びが始まります。有名な布教師、話が上手だと評判の高い僧侶などを捜し歩いては、あの人も駄目、この人も駄目と失望を繰り返すことになります。

 私の場合は会長が私に信心を賜ってほしいという話が出来なくなっていることが分かり、身を引きました。それから、会長の兄弟子を尋ね、共に師事していた伊藤康善さんの『仏敵』を求め、拝読しました。そこには信心の沙汰(ごじだんとも言いますが)をするおばあさんやおばあさんの話を聞いて、阿弥陀仏に向かって救われた何十人もの人たちが登場していました。(この本の中に出てきているおばあさんの親族の人の話を会長が聞いて信心を獲たとということは後で知りました。)

 私は確信しました。信心をこの世で獲ることが出来るのだと。そして、このおばあさんのように話をしてくれる人に遇えるかもしれないと。 若し遇えたら遇えたでいいけれども、遇えなくても阿弥陀さまと向き合おうと決心できました。

 それから一心に阿弥陀仏に向かって、どうしたら疑いが晴れるのだろうと必死になって求めました。半年ほどたった時に、先に会を止めた元講師で、信心を獲たと言っている人の電話番号がたまたまわかり、正月明けに勇気を振り絞って電話をしました。その人とは世間話、昔話、会の人の事など、ほとんど仏教の話はしませんでした。ただ「もうすぐ賜れる」と話す度に言われました。
 
初めに電話をした時点で、私も何となくそんな気がしていたので否定もしませんでしたが。その人が自分も話をしてもらった人を紹介してくた人とも話しましたが、やっぱり、世間話のようなことばかりでした。
 そんなこんなで6日が過ぎましたが、何となく信心を賜ることが出来るのではないかという予感が強くなってきたのです。根拠のない物でしたが。同時に駄目かもしれないという気持ちも同じくらいあり、とても苦しかったことを覚えています。

 その日の夜、突然、自力が絶対間に合わないことが知らされ、疑いが晴れました。
 そのときから、毎日パソコンで、阿弥陀仏に救われる世界があることを、世間に向けて、発信しています。
 今までは、確信が持てず、あると言われていることを人に勧めてきましたが、自分が実際受け取ったので、嬉しくて、嬉しくて仕方なく、楽しく書き続けています。

 ちょうど山登りをしてのどがカラカラで、先に上って人が清水を見つけて、自分が飲んで、後から来る人たちに、「ここにきれいな水があるから、ここまで登っていらっしゃい」と呼びかけるようなものかもしれません。清水は自分が作ったものではありませんが、それがあることを見つけ、ほかの人たちにも早く楽になって、よろこんでほしいと考えるのと似ています。

 「不浄説法」という言葉をご存知でしょうか?僧侶が信心を獲ていないのにする説法のことです。本来なら恥ずかしく思うものですが、誰も周りに信心を獲ていないことをいいことに、何とも思わない僧侶だらけです。
 信心を求めている、何十年も聞いてきたという門徒の人たちも、地域の役員や福祉のお手伝いや高齢者のお世話をしながら、自分の信心がないことを恥ずかしくもなく、それがどうしたと開き直っています。
 ぜひこれらの人たちには、信心を獲得して多くの人たちに光を届けていただきたく存じます。

 私のような能力のない者がするより、僧侶や世の中の名声のある人たちが、御仏への広大で深重な、とても返しきれない御恩を感じて、伝えてくだされば、もっともっとたくさんの人たちに影響を与えられ、みんなが幸せに笑って暮らせます。 
 別に信じる対象が、特定の仏でなくても、それが宇宙の真理のようなものであっても構いませんが、疑いなく信じ切るところまで、求めぬいていただきたく存じます。
 そのお手伝い、背中を押す役目が、今できていることを私はこの上なく慶び、生かされています。

この記事へのコメント

2013年07月26日 23:25
私たちが今持ってる、どんな悩みも、悩みのうちに入らない。

ブッダは、もっと、もっと大切な事に気づかしてくれます。

この記事へのトラックバック