何だかちょっとだけ残念~救われたらみんな常に御恩報謝せずにいられないのかと思ってましたが~

  迷いを断ち切ってくださり、もう一切何も求めないでも、死後の不安が無くなる身に救っていただいたことは、人生が大変わりした「廻心」の体験でした。
 こんなことはもうないという心変わりが出来たことをよろこぶなら、誰でもが、御恩返ししようという気持ちになるはずだと思っていました。
 
 しかしながら、世間のことでも恩の感じ方は様々です。
 「知恩・感恩・報恩」は人それぞれなのだと知らされます。
 親が人間として生んでくれたから、御仏の救いを賜ることが出来ました。
 親を産んでくれたおばあちゃんが心に寄り添ってくれたから大きくなれました。
 時折助けてくれた恩師やメンターや友だちのお蔭で、支えられ前を向いて歩けました。

 2度目の3年次編入した通信課程が出来てから2年目の大学は、早めに申請を出したことで1年目の授業料免除のいわゆる「特待生」でした。
 この制度で私は経済的にとても助けてもらいました。
 だから、卒業生のコメントを出すことにも協力しました。
 そこには将来努力を重ね、後から入ってくる学生の励みになる活躍をすると書きました。
 それが学校や恩師に対しての御恩返しだと感じたからです。

 大学に対して、とても有難く感じている私にはそう思えても、同じ特待生待遇で入っても、中途退学したり、留年したり、単位を沢山落としたりした人もありました。
 私は出来るだけたくさんの科目を履修して精一杯貪欲に学び、こうすることが御恩を受けたものにとって当然という考え方でした。
 能力は高くないですが、その分努力でカバーして頑張ってきました。

 また、有能でもなく、世間的な頭がいいわけでもなく、怠惰で惰眠を貪る私ですが、こと御恩報謝においては、救われたその瞬間から、今まで一日も休んだことはありません。
 御仏のお名前を称えることや布教の真似ごとや文章でお伝えすることなどのどれかは毎日欠かしません。
 私の感覚では、これが当たり前だと思っていましたが、どうやらそうではないようです。
 ご縁があって御仏に救われた人たちに、このように信後過ごしてきたと話すと何だか引いてしまうようです。
 自分としては普通のことを空気を吸うようにしているのに、何でだろうという感覚でしたが、人それぞれ違うのでしょう。

 ほかの人が私と同じことをして欲しいとは思いませんし、それぞれが出来ることを自分の周りの人たちにぼちぼちして差し上げたらそれでいいのだと最近は思っています。
 ただ、出来ない事は出来ないとハッキリ言われたらいいとは感じます。
 それを安請け合いして、自分を良く見せようとして、出来ますという人は、信用できないし、後できっと私を裏切り恨むことになるでしょう。

 元々、私は自分一人でも御恩報謝させていただく覚悟でした。
 だから、もし一緒に手伝ってくださる方があれば大歓迎ですが、途中で合わないとその方が去られても、また一人で歩き出すだけです。
 私は私自身の人生から問われている志を果たすために生き、その人も同様にその人の人生の課題を果たすために、私と協力した方がいいと思われる間はそのようにしましょう。
 もし生き方が違ったなら、別々の道を行ったらいいし、引きとめもしないし、後追いもしません。

 冷たいようですが、あっさり、さっぱり、すっきり、きっぱりというのが私の信条です。
 人を引き留めるために媚も売らなければ、懇願もしません。
 人生「一期一会」ご縁、その時々が大切です。
 永遠なんて、御仏と私の関係以外ないと知っていますので、それほど寂しくもないし、そんなものと割り切っていますが、すこしだけ残念です。

 最後にいつも言っていますが、「他人に悪く思われないために何かすることは、相手に対して負い目を負わせることになるし、恩を着せることになる」ので私の人生において、それは今までもしたことがないし、今後もしないでしょう。
 御恩報謝と潔く生きることしか考えていません。

感謝していること
 今までの私の人生は、大変いろいろなことに恵まれてきたので、誰かに媚びたり、取り入ったりすることをしないでも生きてこられたのかもしれないと思うと有難いです。

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