御仏を仮想敵にして戦い、完全降伏して救われる

 真理の存在を仏としても神としてもいいのですが、何故救われないのかが問題です。
 救われてから5年にわたる布教の経験からいくつかのことが分かりました。
 もちろん前提として、ご本人がどうしても救われたいというところまで縁が熟していることは外せませんが。

 まず、先に救われた人で、自分もその道を通り、何年かの間、継続して集中的に布教(信心の沙汰)の研鑽をして、何人もの人に御仏に対峙してもらったことがある人に出遇う必要があります。
 この人が初めは目の前の縁のある人が救われることによろこびを感じて布教していたのが、そのうちに名利を求めるようになったら、もう対機説法はしなくなるでしょう。できなくなると言った方がいいかもしれません。

 もし出遇うご縁がなかったら、救われた人が書いたものを読むなどするしかありません。ただ、高僧方の古文で書かれたものや哲学的なものは読みこなせないかもしれません。
 そんな場合、次のことをヒントにしてください。
 
 まず、真如と呼ばれる目に見えない形のない真実の姿と、方便で出て来る仏や神の違いを知らなくてはなりません。
 私たちが信じるべきものは前者なのですが、それではどうもイメージが湧きにくく存在が信じられないので、わざわざ尊い光輝くような尊者の様相でお出ましになるのが後者です。
 ここで大きな落とし穴があります。後者は自分が見たと感じただったりするのですが、これには人間の頭で想像した偽物の真理なのです。
 つまり自分で創りだした自分がすがる最後の砦と言ってもいいでしょう。
 これを叩き壊す勇気を真理が与えてくださるのです。完全に自分の力は間に合わなかったと白旗を上げたとき救われます。
「あなたの頭の中でこねくり回したものは本当は何の実態もなかったのですよ。そんなものに頼り、縋っているから真実の光が心に宿らないのですよ」と。

 真実は形に見える物ではなく、匂いも影も何もなく、呼び声が聞こえたということでもなく、本当は何もなかったのだけれど、私たちの外観ではない見えないエネルギーは、それぞれが真理全体の中に点在して、それが全体として成り立っていて、佳い方向に行くように護られているのだということが分かります。
 そういうことに気が付いたら「今、救われています」ので、更に自分でもう何もすることもないし、することがないというよりする必要もないし、出来ませんので自分の力は全く間に合わないことがしっかり知らされます。

 何かが見えたとか、聞こえたとかいうより、ずっと前から救われていたことに「疑いが晴れた」と言った方がいいかもしれません。
 そもそも自分の力が及んで助かるというものではなかったと知らされます。

 これは最後の最後の体験ですが、ここまで来るのには、人それぞれでしょうが、色々な葛藤や、疑いや、試行錯誤して法話を聞くことの道を通りますが、ほかの人の体験を真似してもそれは本人のものではないので、自分でどうにかこうにか進むしかないでしょう。

 もしも、たまたま、相性がいい人があり、話をしてくれる人に遇えた人は、教えてもらったらいいと思います。
感謝していること
 いろいろなご縁で御仏に救われたことを有難く感謝しています。だからわからないことがあれば、コメントでも個人的にメッセージでも私に聞いてください。それは御恩報謝なのでよろこんでさせていただいています。御仏にご恩返しできるご縁の深い相手がいることは嬉しいことです。
 

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