信じられないかもしれませんが、救われているかそうでないかはおおよそわかります

 最終的には御仏とその方との間のことなので、完全に分かるとは断言できませんが、ほぼ間違えません。救われても本人が気が付いていない場合があってそれはどうにもなりませんが。起きている子どもは起こせないように。絶対救われていないと、思い込んで、そう主張するのですから、放っておくしかありません。お浄土に参れるのですし、いいでしょう。
 
 対機説法で面談や電話ならよりハッキリします。チャットでも数少ない例ですが大体このくらいの時に「廻心」の体験があったことがわかります。
 誰でもできるかと言えば、自身が救われても、その後、何時間も、何人もの方と話して練習しないと勘は養われません。

 ただ、能力が高くてとか、人格が優れていてそのようになるのではありません。
 あくまで、先天的なものや御恩報謝させていただきたいという気持ちからの研鑽によるでしょう。
 何もしなくても霊感が強くて一般の人が見えない霊が見えたり、話が出来たりする人も結構います。未来を予言が出来る人もいます。
 それでも残念なことですが、その人たちが全員徳が高くて他人の幸福を願う人とは限りません。中には自分の名利の為にその能力を使って、他人を利用する人たちもいます。そういう例を私は、結構見聞きしてまいりました。

 救われる前からおそらく大学や街頭での勧誘も含め、33年間で、5万人~10万人くらいの人たちに私は仏教の話をしてまいりました。
 救われる前でも、振り返ってみると、この人は自分より縁が深いか、理解が進んでいるかなどは、その時点の自分の御仏の縁や理解の進んだところが何となく分かりました。
 救われた後は全体が分かったので、なおさらよく分かります。
 大体この辺りとか、こんなことでつまずいているのだということが俯瞰できるのです。

 ただ、上記の霊が見えたり、未来を予知できる人と同様に、私も相手さまが望まないならそれは言いません。
 御縁の深い人たちは「もうすぐ救われる」というのをとても喜んでくれますが、信心の会合などでその中に一人でも「無宿善」の人がいたら、誹謗中傷の種になり、周りにも佳い影響を与えません。だから気を付けなくてはなりませんが。

 縁の薄い人ほど、根拠のない自信を持っていて、自分は救われているなどと思い込んでいたりして、私が大体は救いを賜ったかどうか分かるということに反発します。
 酒に酔った勢いでか、「あなたのような素人の話を私は聞きたいわけではない」とある方にはっきり口にされ、唖然としたことがありますが、仕方がありません。

 布教活動というのは多くの縁の薄い人たちに疑われ、見下され迫害を受けることを覚悟しないとやっていられませんが、それは楽しくありません。楽しくなくても御仏の御恩を憶うと休んでおこうといった先から、また何か書いております。私はどうも懲りない性質のようです。

 ただ、話をする者が相手さまの様子や言動やオーラなどで感じたり、判断できなければ信心の沙汰にはなりません。
 人間のカウンセラーでさえ、大体こういうことが障りになっていて、これを本人はこのようにしていこうと思っているので、それをきがつかせるには、自分から改善するためにこうしようと思うように励ます方法を経験など知っていて、そのように持っていきます。

 いい人になったり、色々なことが出来るようになって助かるのが御仏の救いではありません。何もできない、恩も恩とも感じない暗い心を持っていたことに心からきがつかされ、御仏におまかせして、その後、御仏と共にお浄土への道を一緒に歩かせていただくことだと私は現在、感じております。
 だから、私自身は自分をいい人だとも徳があるとも優れているとも生まれてから一度も思ったことはありません。
感謝していること
 しかしながら、救われてからは、御仏のお蔭で、心が明るく日々安心して生きることが出来ています。

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