御仏の願いを説く者の覚悟と聴く者の受け心

御仏の願いは世を超えたものであるので、煩悩に染まった仏縁の薄い者が聞くと誹謗します。
 仏法をあからさまに批判できないので、説く人の人格に言及する人もいます。それは仕方のない事でしょうが、悲しく残念です。
 自分のことを棚に上げて、迷った煩悩や自力などを武器に説く人を攻撃するのは、ハッキリ言って逃げなのですが、本人にはそのことは分からないでいます。
 
 もちろん、説く者も常に真摯な態度で身辺を綺麗にしていくことは大切ですが、煩悩を持つ身なので仏ではないので、完全な聖人にはなれないでしょう。
 聴く人はそこを問題にするのではなく、外に目を向けず、自信が救われることを主眼としていく心掛けが大切です。

 そうした真摯な態度で、聴かせていただく人には、あるとき「後生に対する驚き」が立つことがあります。
 そこまできたらしめたもので、直に救われます。
 そうなったときは、大変な混乱が起きます。暗い心が胸いっぱいに広がることもありますし、反対に今日・今、救われなくてはならないし出来る気がするという相反する気持ちが交錯する人もあります。
 人それぞれですが、金輪際すくわれることがないのか、救われるのか、それがどちらでもいいけれど、もうここら辺でハッキリしたい、このこと一つが解決出来たらもう死んでも構わないという覚悟や決意が出来るような時が訪れます。

 お話しさせていただいた方々はこのようにみな口をそろえて言われます。
 仕事を止めてでも、手形が落ちなくても、そんなことよりも、今、この暗い心をハッキリしたいのですと。
 説く者の態度や諸々のことなどこの頃には気にならなくなりますし、反対にすがるようになります。
「私ではなく御仏に向かってください、対峙してください」としか言われません。これが本当に自分も救われて、相手も救われる方を説く者の態度です。
 
 驚きが立った、そんなときには、おめでたいので赤飯を炊きなさいと昔の人は言われたようです。
 あと一歩の時なので、ふとした事故で死なないように気を付けないとなりません。ここまで来たのに勿体ないですから。
 ところが本人はとにかく救われても、そうでなくてもどちらでもいいので、とにかくハッキリしたいという追い込まれるような気持ちになりますので苦しくて苦しくて仕方がありません。
 安楽椅子に腰かけようとしても、もうこの頃にはそんな椅子は周りにはもう見当たらないので、話してくれる実存の目の前の人に頼ろうとしますが、その人は続けて、何度も、ひたすら私ではなくひたすら御仏に向かうように言われます。
 この頃にはそのこと一つしか言われなくなります。そして必ず救われるから、もう少しだからと励ましてくれます。私のような者でも救われたのだから、あなたのような方はきっと救われると。
感謝していること
たくさんの方々に御仏の願いをお話しさせていただけるこの上もない幸せ者の私です。

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