不浄説法

いまだ御仏に救われていないのに、説法することを不浄説法といいます。
 この言葉を昔救われていない前に聞いたのと、今とでは重みが違います。
 救われていない僧侶の方はよくよくこの言葉を心に留めて、一日も速く救われ、説法されることをお念じ申し上げます。

 救われていないということは、「御仏の願いを疑っている」ということです。
 救われた後ならば、この「疑い」がどんなに罪深いものなのか、御仏の心を悲しませることなのかはよく分かります。
 お聖教に疑っているだけで、鎖に繋がれる罪であると拝読したとき、感覚的にはそれほど恐ろしいものなのかと身震いして事があります。それでも、どれがどういうことなのかは救われるまでは、ピンときませんでした。

 一器の水を一器に移し替えるように話せるのなら、それを聞いて救われる人もあるでしょうが、人間というのは厄介な自惚れ心があり、自分なりに解釈してしまったりします。理解不足で全く頓珍漢なことを言うのは論外ですが、まだ救われていないために想像で御仏の心を代弁したところ、正反対のことを言っていることも多々あります。
 本人はよかれと思ってしているのでしょうが、それが聴かれている人が救われるのを妨げたり、遅らせることになるなどとは本人に自覚がないことが余計恐ろしいです。
 たとえば、自身が結核に冒されていると知っているなら、人混みを避けたり、口に手を当てて咳をしたり、周りに移らないように気を配りますが、病に罹っていることを知らなければ、普段通りに行動して周りに病原菌をまき散らします。

 これと同様に、御仏から信心を賜った人なら、御心をお伝えできますが、そうでない人は別のことや救われるのに役に立たないことや、変な考え方のくせを付けてしまったりします。本人に悪気がないだけに余計たちが悪いです。
 それから、救われて間もなくて、まだしっかり話が出来ない人は救われていない人よりはましですが、これも見当違いなことや役に立たないことを言ってしまいがちです。よくよくお経やお聖教を拝読しなおしたり、たくさんの人に話をすることで自分なりのマニュアルを作っていかないと、多くの人が救われるご縁にはなれません。

 本来なら、もっともっとわかりやすく救われた境地を私が格調高い文章でお聖教などを引用して書けたらいいのですが、現代人にはお聖教の話をしても分からないことが判明したので、敢えて日常のことを例にとっていろいろ試行錯誤をしています。
 
 また、仏教以外の宗教を信じている人や無宗教の人にも救われて欲しいという思いもありそうしていることもあります。実際、キリスト教の信者や無宗教の人に話をして救われています。
 それに救われてからしたかったら仏教の経典などは素晴らしいことが書かれているので学ばれたらいいですが、それは後でもいいです。学んでいる時間が惜しいです。そのあいだに死んでしまったら何にもなりません。
 一日も急いで、一人でも多くの人が救われるのはどう話せば、どのような人たちに協力を仰げばいいのかと常に考えていますが、なかなか上手くいきません。
 
 どうか、お手伝いしてくださる方があればお声かけください。まだ救われていない方でも、自分も救われていまだ救われていない周りの方々にお話ししたいという方でも大歓迎です。早く救われ、独り立ちされる方が、一人二人と増えることは、御仏へのご恩返しになります。私自身の私利私欲なら、全くお金にもならないし、辛かったり悲しかったり残念だったりすることもかなりある布教活動などとっくの昔に止めているし、初めからしていないでしょう。我欲を超えて怠惰な私の身体や口が勝手に動いているような感じです。これを自分がこれをしたいというのではなく、人生の方から問われている使命というのかもしれません。

 世の中がお金や武力で動くような残念な状態から脱却するには御仏の願いを世界中の方々にお伝えするしかないと本気で私は取り組んでおります。急がないと世界中で無駄に死ぬ人を止められず、ご恩返しも十分できないまま私自身の命も虚しくなるのは本当に残念で辛いです。
感謝していること
 商店街でだし巻き卵の実演販売をしていたので温かいのを買ってきて美味しくいただけました。

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