実践者と学者の大きな違いは?

 日本・アメリカ・イギリス・フランス文学のスペシャリストの先生方(東大・阪大系)と日本史・西洋史の先生方(京大出身)の講義を今通っている大学院で受講しました。
 
 初めに卒業した大学での法学部で法律と政治を学び、子育て中には通信の科目履修で教育を学び、幼稚園と小学校の教員資格を取りました。3年に編入した通信の大学では心理学を中心に学びカウンセラーの資格を取りました。経営・キャリア・起業・プレゼンテーションとコンピューターの操作法も学びました。
 法律や教育や経営や経済活動や心理学などの人を対象とした学問は自分が実際そこにのめり込まなくてもある程度は実践に行かせます。

 これらと並行して真理との邂逅を求めて、それを果たし今では御恩報謝の為に生きている私ですが、学ぶこと(インプット)と実践(アウトプット)都の乖離に戸惑いを感じています。もちろん宗教にしても教義〔学問〕と自信が真理を体得し人に伝える(布教)意識が異なることは身に染みて感じてまいりました。

 文学や歴史を研究して証拠を集めて論文を出す先生方にいつも質問していました。
「先生の研究が今、現在、苦しんでいる人たちの希望や光になるのでしょうか」
 研究は実践には向かないこともあると自分と同年代や歳が若い先生たちが口にするのは右から左に聞き流せました。仕方がないのだと。
 
 20歳以上も年上の教授や名誉教授の先生方でも子どもさんもお孫さんもある方は実際の生活を通したお話をしてくださいました。その時々の中にご自分を置いた主観的なことと文学の解釈が融合されて聞き取れました。
 結婚されていても子どもさんがないとそこら辺は想像するしかないし、子どものことを語る文脈に自分を置く事は出来ないでしょう。
 歴史もおそらく自身の子どもがあるのとそうでないのとでは違った解釈をするのではないかと感じます。

 ある程度想像力でカバーできても、自身が形振り構わず誰かのために喜怒哀楽を味わうことがなければ文学も歴史も本当に解釈するのは困難なのかもしれないと感じます。
 家族と過ごしても自分のことのように尽くすことがなければただの同居人であり、情熱を持って一緒にいるところを書いた作品は読めないでしょう。
 証拠がないことなど聞く必要はないし、時間の無駄。下らないこと言う人のことを相手にしている暇はありませんと言われたとき私の中で私の生き方とは何かが違う、これが世間を知らない「学者」で、自利利他とは違う次元の考え方なのかと悲しくなったこともあります。

 更に、文学の解釈や翻訳ではどの日本語の単語を選ぶかでその人の作品の理解度や人生経験の深みなどがすっかり判ってしまう怖さを味わいました。自分が予習してこれだというワードがいつも先生の適切かつ洗練された言葉に置き換えられ、それに納得して未熟であることを知らされた日々でした。

 英語ばかりではなく、日本語の語彙力もなく理解力も乏しいことがよく分かりましたので、そこは努力する所存です。
 そして、それを身に付けつつ、誰かの役に立つ御恩報謝を第一に生きている私は誰かが光を見出す論文日々の投稿や小説やエッセイやリアルタイムで発表していくことが、大学院で学んだ成果につながると感じます。
 出来ることを粛々としていきます。
感謝していること
 家族の協力があり学問に集中でき、海外での活動もできます。

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