真宗カウンセリングは一般のカウンセリングの限界を超える

 人格の涵養には限がありません。もしカウンセリングに対して人格の涵養を目的とすることを期待するなら、相対的なことであり、一生涯これで完成したということはありません。それでも構わないなら、し続けたらいいでしょう。

 そうではなくて、目的が、自身の安心立命、満足な境地を永続的に獲ることであるなら、宗教的救済でしかそれはなしえないと私は感じます。宗教の中でも、私が慣れ親しんだのは浄土真宗であり、真宗カウンセリングでその境地に達することができることを紹介する論文を書いています。


 宗教にカウンセリングがなぜ必要であるのかは、人間の苦しみ悩みの元を知らせるためです。自分が苦しんでいるのは煩悩による表面的なことというよりも、根本的な迷いであり、それを仏教では「無明の闇」が晴れていないからだと説かれます。無明が苦しみの原因であるところまで行きつくには、説法と対話が必要です。その対話の部分を現代的な言葉で置き換えるとカウンセリングということになるのでしょう。蓮如上人は「信心の沙汰」といわれました。聴聞と呼ばれる説法を聞いている仲間の間でなされました。布教師と信者の一対一、もしくはグループで話し合いが持たれていました。

このように、無明を晴らすことのできる教えがあり、そのうえでカウンセリングをおこなわないなら、それはただの人格の涵養にしかならず、いつまで経っても安寧の境地に行きつくことはできません。一生求道だ、求められたということなど無いという人には何も申し上げることはありません。死の不安や無明を抱えながら一生不安なまま生き続けることは私には無理でした。

カウンセリングである問題が解決できても、また次の問題が惹起し、いつまで経ってもこれで安心満足できたということがありません。自己を超越する宗教的救済に値えば、より、相対的な個々の苦しみを凌駕できる身になれます。積み上げた先のより良い人格形成と宗教的自己超越は異なるのです。究極的な迷いの除去と広大なる知恵や慈悲との遭遇をめざすための、宗教的体験のためのカウンセリングの理論や方法はできるだけ向上していくものであり、相対的なものなので研究は進めていく方がいいです。また、宗教を説くものもカウンセリングの技術や考え方を学び、聞きに来られる方を尊敬、尊重できるようになり、何が今、引っかかって先に進めないのかを見極めて法を説くことが望まれます。

真宗カウンセリングは、話し手と聞き手が上手く相応するなら、対症療法では解決し切れない「無明の闇」を破り、迷いから覚め、生死を超える仏教の本来の目的にまで導くことが可能です。

感謝していること
先輩方の残された文章を拝読させていただきながら、同じような気持ちでカウンセリングについて試行錯誤されてきたことが知らされます。


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