天の邪鬼と貧乏神

 これらが実存するかどうかは分かりませんが、できればどちらとも近づきたくありません。でも、こういう性質を持つ人たちはたまに見かけます。見かけるだけじゃなくて、誰かに攻撃していたり、誰かをカモにして私腹を肥やしたり、ストレスを発散させているところを見てしまったりもします。最近は、天邪鬼や貧乏神のような言動を取る人たちとはあまり関わらないように距離を置き、避けるようにしています。

 少し様子を見ていて、どちらかのパターンを示すと、近づいたらいけない人たちなのだと気を付けて、親切心を出して、絶対直そうなどとは考えないようになりました。何かひどいことを誰かにしていても、理不尽なことを自分がされても、とりあえず、それをしている相手が故意にしていて、反省もなく、直す気持ちがないときは、事故を見た、事故に遭ったのだから仕方がないと水に流せることは忘れることにしています。いつまでも、恨みや憎しみを抱えていても栓がありません。そういう感情は手放すに限ります。

 それぞれについて感じたままに言いますと、まず、天の邪鬼のような性質を持つ人たちですが、幼少期やその後の育ちがよくなかったためか、わざと人が嫌がることをして楽しむところがあります。そんなことをしていたらどんどん周りの人たちは引いて行きます。それでも意地悪が快感なのでしょうか、止めようとせず孤独を深めます。恩も感謝の気持ちも子どもなのでしてもらっているばかりで、感じられない可哀想で気の毒な人たちです。
 
 貧乏神のような人たちは、初めはそれとは分かりにくいです。挨拶もし、親切で、口が上手いのですが、自分に都合の悪いことや損になることが分かった途端手のひらを返すように冷淡になります。彼らはとりつくというか、搾取する人を選びます。自分より弱そうは、大人しそうな、優しそうな、怒らないような人たちをターゲットにします。そして吸い尽くせるだけ吸い尽くして、何も吸い取るものが無くなると判断するとポイです。お互いさま、お蔭さまでという御恩が感じられません。貧乏、忙しいを常の言葉として、自分から周りに与えることができない人たちなので、感謝されることをよろこぶことも少ない、やはり可哀想で気の毒な人たちです。

 御佛のようにずっと命に寄り添うことはできませんが、それでも、気持ちがふっと変わって、法を聞かせてくれと言われれば、精一杯お話はさせていただく所存です。そういう日が来ることを念じております。
 でも、もしかしたら、天の邪鬼や貧乏神は佛さまの化身や福の神で、無限の慈悲に近づきなさい、大きな器になりなさいと教えてくれている有難い人なのかと感じる時もたまーにあります。
感謝していること
 いきなり、自分がされて嫌だったことは許せないかもしれませんが、時間が徐々に忘れさせてくれることを幼少のころから学んできました。また、自分が遭遇した気分のよくないさまざまなことは、絶対に他人にはしないと決意する反面教師になってくれています。有難いです。

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