「いのち」「命」「生命」

 宗教的な表現は「いのち」がふさわしいのではないかと、大学院の医師でもある先生から言われました。確かに「命」や「生命」と漢字で書くと何か科学的、無機的な感じがします。仏教的「いのち」は三世を貫くものです。過去、現在、未来全ての「いのち」を問題にします。

ターミナルケアにおける心的援助活動の論文を完成させるべく日々格闘しています。講義の中で同じ先生にお尋ねしました。
「先生は死後を不安に感じている末期患者に『先に(お浄土に)行って待っていて下さい。私も後でまいりますから』と言われますか?」
 先生はお困りになり、次のようにお返事されるのが精一杯でした。
「私も必ず死ぬとは言いますが・・・・・・」

結局、科学的な方法だけでは、死に面している患者の「いのち」の問題を救うことにはなれません。肉体の疼痛などの「身体的苦痛」は医師等の医療関係者、仕事や残された家族のことなど「社会的苦痛」は親族や職場の人や死後どうなるかという怖れ「いのちの苦痛(叫び)」は宗教家と三つの苦痛はそれぞれ、別の人にゆだねる必要があるのでしょう。医師、家族、周りの人たちが宗教的な導きをできるならそれに越したことはありません。そうでない場合、それぞれの苦痛を解決する人に任せたらいいのですが、最後の「いのち」の問題を解決できると看板なり名乗りを上げている人はなかなか見当たらず、ご縁をもつことが難しいです。

 それをカウンセリングという聴くことを橋渡しに「いのち」の問題が解決できて、クリアになり、安心満足して臨終に臨めることが現実として存在するのだと伝えるミッションのための論文です。書き方を工夫したら「いのちに限りのある全人類の光」に必ずなります。そう確信しつつゴールを目指し毎日書いています。

感謝していること
 先生はいつも的確かつ真摯にご教示してくださいます。有難いです。


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック