自力の話をいくら極めても他力にはならず、別の方向に行く意味

 自力を積み重ねた先が他力ではないからです。自力の最高峰が他力でもないです。
 全く性質も次元も異なるものです。

 法然聖人も親鸞聖人も蓮如上人も信心を得る過程の具体的体験はほとんど語っていらっしゃいません。私も聞かれれば話しますが、自分からは言いません。また、具体的な話をするとそれにこだわってしまい、救われるのが遠回りになり遅くなるので言わないことにしています。その代わりに仏教を求めている人たちにはお経やお聖教の文言などは伝えます。仏教徒でない人や信仰を持たない人達には、他力から見た自力を手放す方向の話をします。

自力の人には自力も他力もどちらも分かりません。他力のひとには自力も他力もよく分かります。他力が分からん人で後生が苦になって仏教を求めていない人にあなたの話は難しいとか心に響かないと言われても、仕方のない人たちだと感じるだけです。譬えを出したり角度を変えても、自力を捨てたい、他力が知りたいと真剣になっていないひとにはおとぎ話にしか聞こえないことも十分わかっています。また恩寵主義の有難いのが信心だとして自力が廃ったことが問題になっていない人達も何だかなぁと感じます。分かる人には分かる、分からない人には分からない世界だからです。

分からない人でも二通りいます。お前の話し方が下手で難しいからわからないし、心に響かないんだと私のせいにする人たちもいます。別の人たちはよく分からないけれど、自分の常識を超えた世界があるのかもしれないと考えます。私は誰かの煩悩を分かることができる思いません。自分の心の風景と他人の心で見たものは違うことが分かっているからです。自分自分は正直でいますが、共感や受容はできるし適当に合せますが、他力のわからない話を時々混ぜて話すと、分からないと怒りだす人と、不思議だけれどそういうことがあるのかもしれないと感じる人いろいろです。

ある程度まであなたのことは分かっていると付き合わないと、人間は心の底から分かり合うことなどできないのだという厳粛な事実に気が付きません。何時まで経っても、人間同士が分かり合えるという甘い幻想にしがみつきます。面倒で仕方ないですが、真剣にカウンセリングなどを極めようとすると違う方向に行くので適当にかつ常に自力を手放す方向性を示しながら楽しむことにしています。こんないい加減なことをしていても、真剣になる人には真剣に応えるし、初歩の人には初歩の対応、これが対機説法の真似事のカウンセリングというものかもしれません。所詮方便ではありますが、自力で必死になっている人にはそれが分かりませんので、厄介でウザくて面倒です。でも仕方ありません。本人たちは彼らなりに真剣なのですから。上から目線のように取られたら失礼します。

感謝していること
 ずっとメタ認知の感覚を持って生きてきているので、死なずに済んだのだと感謝しています。生来、喜怒哀楽に対しては私は薄い気持ちしかありませんでしたが、さらに最近は、アッサリしてきています。

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