他人には取るに足らなくても、本人には本気で死にたくなること

 7月の末、私は娑婆世界に嫌気がさして、儚くなってしまおうと決意していました。どういう方法が一番いいか、それをずっと考えていました。そんな時、身内が他界し、通夜・葬儀に出ることで、もう少し生きてみようかと考えるようになりました。私は家族も持ち家も少しの蓄えもあり、周りからすると幸福を絵に描いたように生きているように思えるかもしれません。もしくは、羨む対象になっているかもしれません。
それでも、私が死んだら母や友人が悲しむことが頭をかすめても、とにかく、今が苦しくて、これ以上、自分本位な嘘で塗り固めた煩悩まみれの娑婆世界に留まることが苦痛で、逃げ出したくなったのです。自身の能力の無さに呆れて、今生をリセットして別の場所に生まれた方がいいのではないかと本気で考えておりました。後になると、娑婆と三昧の世界の往復が際限なく続く菩薩道なので、もっとつらい境遇に生まれるかもしれないし、自分で死ぬのはしばらく先でもいいのではないかと、ふと火葬場で考えました。

私には死にたくなるようなとても深い悩みがあります。それは、御恩報謝が遅々として進まないことです。迷いから完全に抜ける真理との邂逅を果たしたのにも拘らず、何も出来ていない。このままお浄土で御仏にとのお出合いをさせていただいた時に顔向けができないこのこと一つが苦になっております。誰かに相談しても、そんなことは仏さまは何とも思っていらっしゃらないといわれるでしょう。同じように信心を賜った人の中でも、憶いがそれぞれ違うということをこの10年まざまざと知らされました。
もの心ついた2,3歳の頃から何十年もかかって、私は生死出づる道、生死を超える体験をすることができました。それ以降、全く死ぬことに用事が無くなってしまったのです。それからは、生きた心地のしなかった、夢幻の世界から地に足の着いた全く別の景色を生きることになりました。見えるものの形や内容は変わらないのですが、全てが清々しく新鮮に別のものに感じられました。迷いから離れ死の解決をすることが、私にとっては人生の目的であり、これができたら死んでも構わないということでした。

また、このこと一つ叶ったら、私は自身の体験を私と同じように死が怖くて息をするのも苦しい人たちに知らせ、真理との邂逅によって同じような身に救われてもらうことをしていこうと決意しておりました。
それなのに、私は死ぬことに用事が無くなったにもかかわらず、華々しい活動をするわけでもなく、毎日、よろこんでいる文章を書き、大学院で博士論文を書き、学会で発表することくらいしかできていません。死の解決がしたいと真剣に尋ねて来られた方々には、真理との邂逅の直前までのお取次ぎをさせていただきました。信心の沙汰をし、真仮の水際を話しました。そうした、対人援助活動では、本当にご縁のある人、宿善の機は稀であることを知らされました。最近は、私が安全な場所居て発信したり、御縁の深い人を待っているだけなのかもしれないと考えるようになりました。

 死刑囚、臨終間際の病人、死にたいくらい苦しんでいる人たちが真実の願いの正客なのです。全員ではなくても、私と関わった人たちが真理との邂逅を願い、それが叶えば、たとえ死んでも、人間に生まれたことをよろこべるかもしれません。苦しんでいる人はその苦しみを超える真理の光の中で新しい人生が歩めるかもしれません。そのような人の元に私は赴き、話をしたく存じます。話をしなくてもただ寄り添っていてほしいならそのようにします。そしてご本人から、真実のお方の願いが聞きたいと言われたらお話しします。

 私が自身の情けない姿、御恩報謝の足りないことを嘆く原因はただ一つです。何十年も,生死出る道に一日も早く出ることを目的として、我が身に引き当てて、真剣な聴聞を重ねてきたからです。阿弥陀さまのご本願の生起本末を浴びるほど毎回聞き、そのお約束の通り救われた釈尊を始め歴代の善知識方のご活躍の根底にある阿弥陀如来に対するご恩徳の深いことを常に聞いてまいりました。朝夕のお勤めでは、真宗宗歌、正信偈と御文章を欠かさず拝読し、恩徳讃で終わりました。蓮如上人の平仮名交じりお手紙は折に触れ思い出されます。

感謝していること
真理の方から、怠惰で意気地なしの私にいろいろなご縁をつぎつぎ与えてくださることに有難く感謝いたします。

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