注意! 罪悪観≒機責め

 人と比べることも、劣等感の意識のほとんどない私には、最後まで「罪悪観」が分からず、ネックになっていました。
 なぜなら、ほかの人間に対して、本当に死んでお詫びをしなくてはならないほど、心から、悪いことをしたとは思えなかったからです。
 確かに、申し訳ない、済まないという程度のことはありましたが、だからといって、朝から晩まで、一月も、一年も謝罪し続けることはありませんでした。
 厚顔無恥な人間なのかもしれません。いたって能天気なことは否定できませんが、そういう類のことではなく、「限界を持つ人間」に対しての罪悪感について、いくら言われても感じないのですから仕方ありません。

 物心ついたときから、人間の不完全さ、狡猾さ、残酷さ、嘘を見抜いた赤ん坊であり、子どもだった私には、周りの人に期待もしないし、心酔することもありませんでした。
 「限界付きの人間たち」に対して、罪悪感を持つことは納得しがたく、不自然な感じを持ちました。
 悪かったと素直に詫びて、それでお終いで、お互い様で「罪悪観」を持つほどのものではないと感じていました。

 それなのに、かつて所属した仏教系宗教団体では、「罪悪観」「無常観」を煽って、その先に救いがあるように思わせ、お金を持って来い、人を集めて来いといいました。
 「無常観」は多少なりともありましたが、「罪悪感」は最後まで持てずに、会を去りました。

 結局、御仏に救われた時に、今の今まで、御仏を疑っていたことへの「罪悪観」をハッキリ知らされました。
 「罪悪観」とは、こういうことだったのかと知らされました。
 人間同士で指摘会合のようなものを重ねても、それはただの粗捜しです。
 気持ちは自分やほかの「人間」に向いています。

 迷った人間の中身を掘り下げていったところで、ろくでもないものが噴出してくるのみです。
 たとえ、人間の中で立派といわれる人であっても、肉体を維持していかなくてはならない「動物」の一種である上に、更に動物たちより悪いことに煩悩を抱えています。
 わざわざ汚いもの、穢れたものを怖いもの見たさで、詮索しあっても栓がありません。
 何か迷惑をかけたときは、謝罪しないとなりませんが、自分も人も欠点のある人間同士なので、済まなかったという気持ちが伝わってきたら、それで忘れたらいいのではないでしょうか。
 いつまでも恨んだり、憎んだり覚えていることではないし、そんなことをしていると心身の病になります。

 そこで、御仏の様な全く清らかな存在に向かいましたが、自分が拵えた客体としか捉えられなくて、御仏と私が分離した時期がしばらく続きました。
 あるとき、観念で創った偽者の仏様が死んだ時、本物の真理の様な物と私が一体になりました。
 そのとき、何でこんなにハッキリする、有難い救いを信じられなかったのだろう、疑っていたのだろうと、誰に言われなくても、感じられました。
 機責めで感じた「罪悪観」でないことは確かです。
 本物の「罪悪観」とは、人間に対してでなく、「御仏」に対してのものであったのだということに、ただただ驚きました。
 この「罪悪観」も、仏様に責められるのではなく、疑っていた分、ご恩返ししたいという気持ちに、言い換えると苦悩が歓喜に転ずる感覚です。
 
 よかったこと
  キャリア概論のマズローを通しての考察のレポートの概要が出来てきました。
  プレゼンテーションのテーマは、「2011年の出来事」に決めました。

 

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