日本に決死の覚悟で仏教を求めに来た人へ(二度目の誕生日を迎えましたか?)

 お寺は幼稚園や茶道・華道の貸し会場や駐車場や分譲墓地がメインの機能的役割ではありません。
 御仏の願いの生起本末の「説法」がなされ、そのあと僧侶と信者が「信心の沙汰」をする場所です。
 いわゆる聞法道場としての場です。
 それを誰も教えてくれないのか、自分で求めようとしないのかはわかりませんが、とても気の毒で悲しいです。

 インドでもなく、中国でもなく日本に御仏の救いを求めてきたのに、学者に留まってしまって、自分の魂の解決をして二度目の誕生日を迎えられなかったとしたら、臨終に後悔してもしきれません。
 学問のための教えを切り売りして、生活の糧にすることは残念で悲しい。
 自分も「廻心」の体験をして、それをたくさんの人たちに伝えること「信心の沙汰」の研鑽をしている外国人を私は残念ですが知りません。

 何のために祖国から日本に来たのですか?
 帰化した人は、そこまでして何を求める決意があったのでしょうか?
 学者になることですか?
 文化人になることですか?
 それなら、仏教の入り口にも立っていません。
 「廻心」の体験を知らないまま、または知らされないまま、仏教で遊んでいるのですか?
 「信心」を賜ったならば、残りの人生は遊びですが、それまでは真摯な気持ちで聞法をしていくことを教えてくれた人がいますか?

 御仏を疑いなく信じることは易しそうでとても難しいです。
 知識を探し、聞法を重ね、疑いが晴れないことを泣き泣き求めた経験がありますか?
 御仏と決死の覚悟で対峙したことがありますか?
 日本の皆様も同じですよ。

 よかったこと
  素敵なペンケースが出来上がりました。さっそく使っています。
 

 

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