親御さんの真の願い(お話し68)

  原文のままではなかなか分かりにくいかもしれませんので、少し具体例なども入れて書いてみます。
 親・周りの人たち・思想家・宗教家等がしていること、正しいと思っていること、褒められそうなことを、必死でやっているのに全てが、役に立たないガラクタなどというのはおかしいと思われていませんか?

「宝」「ポイント」と思っていることの実態がないなどとはお考えたくないですよね。他人より努力して、成績をよくすることや貢献できる仕事をすることは良いことだと教えられて、ある程度の年齢になったら、人徳が高まったとか、人から尊敬されるようになったとか思いたいですよね。

ところが人と比べてする、人相手の行いには、勝ち負けが生じます。負けた人は勝った人を恨み呪うこともあります。仕返しをしたいと考えて実行する人もあります。
 
試験に合格することだけを目的とする子どもは、試験に関係ない授業をバカにしたりします。学校でしている範囲は数年前に学んでいるので、授業中も先生の説明を聞かず、別のことをしていることもなんとも思いません。だって、試験と関係ないのですから。
プロのスポーツの大会、オリンピックなどで負けた相手が悔しい思いをしていても、お構いなしにガッツポーズが出来ます。

 団体競技で仲間内で協力し合って勝ったとしても、負けて残念で辛い相手のチームは存在します。スポーツだって他人と争う性質のものである以上みんなが満足することはあり得ません。
 仕事も自分の仕事が終わって、ほかの人の分まで助ける人もいますが、内心「能力のない奴」「使えない奴」とバカにしながらしたりします。

 保育園・幼稚園の時から仕事をグループで成し遂げるよろこびをわかちあうことをあえて教えるところは多くはありません。
加えて能力の差はあって当然であり、それぞれが得意なことをしていくという意識を積極的に言っていかないことも大きな原因でしょうが、根本の原因は自分と人を分けて考える、区別する無慈悲は考え方からきていると思われます。

 自分の欲得のために人を馬鹿にし、自分だけ良ければ人はどうなっても構わないという冷たい心でいくら何かを成し遂げても、結局それはガラクタでしょう。
 何もわかっていないものが、さらに何もわからないものの評価をしているのですから、本当におかしなことです。

 真理の光源やまたはそれを伝える智慧と慈悲を備えた覚者のいわれることは耳に痛く、さらには上辺だけしか理解できず、多くの人間はこのように実体のないガラクタを高く積むことに終始して人生を終わっていきます。
元いた宗教団体では会費や献金の額によってお話を聞く場所が決まっていました。加えて講師だとか班長とか学生のリーダーだとかいう役職でどれだけ人を誘って入会させたかも加味されました。

 止める数年前にはどれだけ前で聞けるかがわかるような名札を付けることを強要されました。前で聞くことが真剣に聞けると言われ、会員にお金を出すよう、人を誘わせるよう仕向けました。
 説法のほかに教学講義というのがあり、それに参加するためには、毎年一定額の献金と毎月最低1回の地元の活動が義務付けらえました。

 お金や仕事の都合で脱落していく人が増えていきました。すると講師の給与を無給にしたり、自転車操業なのか布教に関係のない建物を次々に縦献金を募りました。信じられなかったのは小規模のダムのための献金でした。もうこの頃には退会していたのですが、何とも残念で悲しく思われました。

 自分が前で聞くことや、講師や会の中での役を引き受けたり、毎年高額の布施をしたということで表彰されたりの名誉を求めて求道している人たちを見ながら、それは違うのではないかとずっと感じておりました。

 教えは我欲で何かすることで救われるのではないと説かれるのに、お金を出せば、人を連れて来れば救われると固く信じている、盲信している人たちとは話も合わず、どうしたものかとずっと考えてきました。

 話をする会長も保身のためか親族の為か呆けたのか全てなのかよくわかりませんが、「善をせよ」と途中から言い出しました。やってみたらできないことがわかると詭弁のようないい方でした。だから、私は御仏の声なき声に触れられないかと、ただただ祈るように聴いていました。

 最後の1年はほとんど一言も聞き逃さないような真剣な聞き方をしましたが、それの応えられる話は聞けず、この人のもとを去ると決意しました。
献金や人集めの活動や試験などで序列をつけたり、関係のないことでさらにお金を集めたりすることも大概にして欲しかったですが、この人や団体について行っても、先が見えないし、救われるとも感じなくなりましたので離れられたのでしょう。

 みつは大学を卒業して家にかえって仕事について会と縁がなかったからこのことは知らないでしょうが。
中にいた人たちは本やアニメの販促をさせられるなど、本当に大変な日々を何の疑問もなく送っていました。夫はまだ会員を続けています。これも悲しく残念ですが、今は何を言っても聞き入れないので、幸せを念じるばかりです。

 その後は、ひたすら御仏だけに向かい集中しました。もともと偶像崇拝というものではなく、宇宙の真理のような大いなる存在である「真理の光源」のようなものが仏さまであると感じておりましたので、どうしたら疑いなく信じられるか、一体化できるかということを考え、悩み、きりきり舞いしました。

 どうしたら、どうしたらと必死で、自分の力で何とかしようとしていました。その何とかしようというものを放してしまったら、御仏に全てまかせららいいのにこれは命と握り続けてきました。言い換えると手放す勇気がなかったのでしょう。放してもいいのだと励まして背中を押してくれる人もありませんでしたから。(つづく)

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