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みんなの「疑い」ブログ


全く疑う余地のない信頼関係

2015/03/03 21:56
 人間同士でこのような関係が構築されることはかなり難しく、皆無に近いと感じます。
 まず自分の命が大切ですし、それを維持するための衣食住の確保などで他人に嘘をついたり裏切らないまでも、自分を優先します。自分のものをまず確保して余力があればほかの人を助けます。
 普通はこれしかできませんし、これが人間の限界でしょう。
 地球は三次元の身体を持ち行動することによって学ぶのですが、まず自分の身体を維持しないとなりません。
 命あっての学習ですから、死んでしまっては何にもなりません。
 人間を信頼することは出来ないのは仕方ありません。

 それでも最低限どころか人の分まで欲張って横取りしたり、余分に蓄える人のいかに多いことでしょう。
 そういうことにエネルギーを費やし、他人に優しくすることや分かち合う機会を失ってしまうのは悲しいことです。

 他人と争ったりが日常になると、誰もが自分以外の人を信じられなくなります。親子などの親族すら絶対疑いなく信用できる人は希ではないでしょうか。
 だから、「うるさいな」とか「だって」とか口答えしますよね。
 相手に対する無条件の信頼があれば、絶対悪い方向に行かないと信じられるので何を言われても即座にそれをこなせます。
親鸞聖人が法然聖人になら騙されて地獄に堕ちても後悔しないと言われましたが、絶対的な全く疑う余地のない信頼関係があったのでしょう。

 人間は幸せになりたいと、漠然と幸せを求めて生きていますが、その幸せの中身は欲を満たすことではなく、心から安心できる信頼関係を築くことです。その呼び方は真理でも御仏でもいいですが、相手に対する疑いが微塵ほどでもあればそれは不安の元になりますから、おまかせできていません。

 本心から疑いを晴らしたい、心から信頼したいと真理に向かったとき、それが出来ないきりきり舞いの苦悩を通って、ある時ふっと、自分の力で疑いを晴らす事は出来なかったと力尽きたときが、どん底まで至った時です。もう何もできないのですから、何もする必要がない、その後は全てお任せのみになれます。

 御縁は待っていても降っては来ません。この地球は三次元の星で行動しなければ、何かを得られないことになっていますので、絶対崩れない壊れない変わらないものに向かって疑いのなくなるところまで求めてください。
感謝していること
 午後から雨でしたが、合羽を入れていたので助かりました。
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もうこれでいいと自分で決めた信心

2014/03/16 22:58
 真実信心を賜るまで、たくさんの勘違いを体験する人もあります。
 まだ信心を賜っていないのに、自分は信心を獲得していると思い込んでいる人にもたくさん会いました。
 仏教の勉強をしている人でも間違いやすい事なのですが、ほとんど仏教を知らない人が感覚的に自分は救われていると思いたいのだということと、救われているのだと信じて疑わないで、それを口にする何とも言えない恐ろしさにびっくりしてしまいました。

 御仏を疑う「疑心」があることなしと知らされる「廻心」のハッキリした体験もないのに、自分が救われていると豪語できるのは無知とは言えど迷った人は何でも言ったり、真実の教えを謗るのだと改めて知りました。
 
「疑心」がどんなに恐ろしいかは真実信心を賜った人しかわかりません。また多少なりとも仏教の勉強をした人ならこれがあるから救われないのだということは頭では分かっているはずです。
 その前提でいつも話をしていましたし、何度も「信疑決判」によって救われているか否かが判断できると言ってきましたが、思い込みの激しい人たちには受け入れる事は出来ないのでしょうか。
 
 何度も、何度も「仏願の生起本末」の話を繰り返して聞いて、疑いが完全に無くなったのが真実信心だということであることを話していかなければなりません。真宗の集まりで「信疑決判」が抜けてしまっては意味がないことを説法や談話会でハッキリとお聖教の根拠を出して話しているところがあるのかどうかも怪しい気がしますが。
感謝していること
 今日は連れ合いがランチを御馳走してくれました。剣道の小学校最後の試合から夕方帰ってきた娘と夜には『アナと雪の女王』を3人で観に行きました。中学になったらもうこんなこともなかなかないのかもしれません。これも連れ合いのポケットマネーで今日は結構な出費でしたが、娘と私の合格祝いということで有難く受け取らせていただきました。
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お経・お聖教でも救われず、サクセス指南書でも成功しない理由

2014/02/27 21:30
 今、本気で救われたいとも、成功したいとも思っていないからです。
 ただ、救われるのは何の才能も要らずタダですが、事業などの成功は資金や人材などの諸条件が必要なので全く同じとは言えませんが。

 人間は土壇場に追い込まれ、もう後がないならどんなことでもします。
 それが出来ないのは余裕があるからです。
 それほどの価値が本人にとって感じられないからです。
 必死になれないのは、まだ縁が熟していないからでしょう。
 残念ながら、他人にはそこはどうすることもできません。

 御仏を念じて、臨終を今に持ってきてください。
 この世の成功はそれが、迷いを晴らすのに役に立つなら成就するでしょうが、そうでなければ失敗したり、ほかの道に進むことになることもあるでしょう。
 自分の力も間に合わないし、どういうご縁が絡み合っているのかも人間の知恵には分からないことだらけです。

 ただ、真摯にひたむきに精一杯生きていたらきっと道が開けるでしょう。
 そんな人を見捨てる真理ならそれは真理ではありません。
感謝していること
 子どもの12歳の振り袖姿の記念写真を行きつけの写真館で撮影してきました。3歳の着物、卒園の袴、そして小学校卒業と同じ所でお願いしました。今度は成人式でしょうか。大きくなってきています。
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安楽椅子の罠

2014/02/26 21:10
救いを賜ったという人にも、本当に救われた人と思い込みという安楽椅子に座っている人の二種類の人があります。
 仏教の教えで御仏から賜るものと同じような心境になれるものが、アメリカや日本のがんの末期医療で「ターニングポイント」とか「チョイスポイント」とか呼ばれるものと類似しているかもしれません。今、これを私は研究しています。
もう一つ、ナチスドイツの強制収容所から生還して「夜と霧」で有名なロゴセラピーで有名な心理学者フランクルの研究やほかでも似たような境地をよろこんでいる人がいるかもしれないということも調べています。

 本当に救われたら、二度と元には戻りません。
 これは思い込みとは違うのです。
 自分の力が尽き果てたその先の不思議な境地なので、何かちょっと普段とは違ったことが起こっていただけで、やっぱり救われたのとは違っていたというような生半可なものでは決してないのです。
 誰かに違うと指摘されて揺らぐようなものでもありません。
 「思い込み」でもなく「執着心」でもなく、ましてや「願望」でもありません。
 真理によって救われ、以後その真理に対する疑いが全く晴れる状態が続き、感謝を伴った不思議な境地なのです。

 だから、違っていないか、安楽椅子に座っていないかをその境地に達した人に何度も、何度も確かめないといけません。
 確かめると信心や信念が崩れる不安や恐れなどの心配があるのは間違いなく偽物です。
 もう精も根も尽きた境地なので疑いが全くないので、万が一もし違っていてもまたやり直したらいいというような一種開き直りといった感覚だからです。
 
 魂が別の次元に行ってしまっているので、まだ救いの境地に達していない他人に譲れたり、真理に対して感謝や恩返しの気持ちが強くなったり、とにかく見える景色も同じであるのに全く違った新しい感覚で見えるような境地です。
 くれぐれもこれは救われるまで何度も座ってしまう安楽椅子でないか、確認してください。これは重要であり肝要です。
 どうしても、救われたいという思いの強い人は、そこで休んではまた求めるような状態に陥りがちです。
 もし違っていたら、また迷いの六道輪廻を繰り返さなくてはなりません。せっかくもう少しで迷いから抜け出るチャンスだったのに勿体ないです。無常は迅速です。後生は一大事です。
 感謝していること
 今日も晴れています。
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親御さんの真の願い(お話し82)

2013/08/01 18:28
みつさま かずさま たかさま 
こんにちは ちえです。
 
  みつが書いてくれたことで、ちょっと昔のことを思い出しました。
  あの頃はちょうど私が救われてから、1年半くらい経っていました。
  救われた次の日から、沙汰の練習をほぼ毎日のように重ねていました。
 そしてついに、5月の初め頃に初めてお話ししている方が御仏の願いを賜って、次々と有縁の方々がよろこんでいかれた時期でした。

  罪悪を強く感じさせるような機責めは初めからしていませんでした。
  それでもなかなか救われる方が出てこないので、私の話に何が足りないのだろうと話をしながら、ずっと考えていました。

 結局、疑いの心を持ったまま、疑いを捨てようという心もそのまま、今、この場で私が御仏にうちまかせるということが上手く伝えられなかったのだとわかってから、救われる方々が出てこられました。
  「疑い」を捨てて来いとは言われませんし、自分の力で捨てることができるのなら、真理の光源は、全ての人を救うという願いを立てられることもないということが話していくうちによくわかるようになりました。

  元々、私たちが「疑い」を捨てることが出来ないで、迷って、真実が分からず、罪を重ねているのでそれをなんとかしようという御心で、私たちに向けられた願い、光であるのです。
  だから私たちはただ、素直にハイと信じて受け取らせて頂いたらいいのに、それがなかなかできません。

 赤ん坊でもいつも側にいる親や祖父母以外でも、まったく敵意を感じないにこやかで優しい人なら人見知りをしません。
  反対に悪意や邪気を感じるとすぐさま反応して火が付いたように泣き出します。
 本能的に自分が付き合っていい人を見分ける能力が発達しているのだと私は常に感心していました。

  ただ、安心できる特定の人を持たないような赤ん坊は誰にもなつかず、無表情で機嫌が悪いです。
 保育園児・幼稚園児に成長しても冷たく心を閉ざす幼児になります。
 過去世の因縁なのか、本人の資質か、周りの縁なのかはわかりませんが、素直でないと楽しくないし、勉強や習い事もなかなか身に付かないし自分も周りもとても苦労します。

  世間のことには素直でも、みな初めは真理の光源を疑っています。
  それでも何となくですが、世間一般のことで、劣等感や挫折などで心がひねくれねじくれている人たちより、素直な人や純真な子どもの方が、疑いなく願いをそのままハイと今受け取るのか早い気がします。

 みつやかずちゃんは、物事を肯定的にとらえ、明るく真っ直ぐな気持ちのいい性格だったので、話しもすんなりと進み、あっという間に救いを賜った感じでした。

  それでも、みつは自分の思い描いた阿弥陀仏というのがなかなか消えなくて、そこをどのようにしたものかということで私はこう言ったのでしょう。
「あなたが描いている阿弥陀仏の救いは、すべて自力だから、ハッキリした体験もなければ、踊るような歓びの体験もないし、何にもないよ」

  もちろん偽物にいくらすがっても、それはしょせん自力であります。
 それは自分の想像の中の、有限なものであるのにもかかわらず実態もないものなのに、掴んで、当て頼りにして放せないでいます。

  「そんなもの捨てちゃいな」って何度言っても捨てられません。
  それが迷いの命だからです。それを手放すと自分が死んでしまうように感じているのです。
  捨ててしまえば、真実が入ってくるのに、それが疑いの始末に負えない所なのです。根深くしぶといのです。

  加えて言うと、本物の御仏、真理の光源、大いなる存在との邂逅も劇的なドラマチックなものではありませんでしたが。
  「ああ、これが・・・・・・」という感じでした。
  賜ってしまえば、本当にただのただで、何もいらない易しい事だったのだと知らされました。

  声なき声、片手の音、などと表現されたりもしますが、何もありませんでした。
  ただ心の底に響いて長い間の眠りから覚めた不思議な感覚でした。
  堕ちるところまで堕ち切り、もう自分の力では疑いを晴らすことはできなかった、自分の力は全く間に合わないと全く疑いなく信じさせていただきました。
  自分には、もう何も差し出すものがなくなったので、駆け引きする必要もなくなり、心が軽く、明るく楽しくなりました。

  ひよこが殻から出て、薄ぼんやりした周りの広い世界を見ているような感じでした。
  だんだんに周りがハッキリしてくるようでしたが、何の不思議かこんな世界に出させていただいたのかという大きなよろこびと感謝で一杯でした。

  今までは煩悩の酒に酔っぱらって、色々なものが見えず、罪を重ね苦しむことの繰り返しでしたが、その酔いもだんだんに醒め、御仏に対する御恩報謝の生活をさせていただく方向に向かっていくのがまた不思議でした。
  怠惰な私が、毎日のように御仏の願いを書き続けるのは、私がしたいと思っているのではなく、させられているような感覚です。

  御法話は今まではどうしたら助かるのか、救われるのかということばかりが気にかかっていたのが、助けられたよろこびや御仏の尊い御心をより聞きたくなっている自分がいました。
  これがみつがいう聞き方が違ってきたというのかもしれません。何を聞かせていただいても、私もただ有難く感謝の気持ちが溢れています。

  もうどうしたら、どうすれば、という疑い、自力の力みもなく、救われてからは、ただただ安心満足して、そのままをよろこんでお話が聞けています。(つづく)
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もし壊れているなら、直さない・・・・・・

2012/07/25 19:19
 これはゲシュタルト療法のクリスティン・プライスが提唱しているらしいですが、「直さない」のはその通りと感じます。
 これができるかどうかは別の話として、そのまま、ありのままで置いておくのがいいでしょう。
 ただしもし、壊れていないとしてもも手を加える必要はありません。

 哲学や心理学を学んできて、私には疑問があります。
 何もしなくていいといいながら、呼吸や瞑想の指導をして、1回のセッションで1万円以上の受講料がかかるのはいかがなものでしょう。高いものは何十万円もかかります。

 御仏の救いはこの世である人で1度です。
 「廻心」といいますが、御仏の願いへの疑いが晴れたかどうか「信疑決判」です。
 それを賜るには呼吸法も瞑想も何も必要ありません。
 御仏のことがわかるなら3つでも4つの子どもでも救いを賜れます。
 二度と元に戻ることはありません。
 六道という迷いの世界を出離した境地ですから。

 こんな簡単なことですが、信じるというのは、案外難しいことなのです。
 これができないで、何十年も迷い続けた私でした。
 子どもは小学1年生、6つの終わりの頃、私より1日早く救われました。
 迷いの深い私にとっては驚くべきことでした。
 生後まもなくからおしゃぶりをくわえながら、御仏の話に耳を傾け、3歳になると午前と午後、正座を崩さず真剣に聞けるようになりました。
 親馬鹿ですが、遊びたいさかりなのに、御仏とのご縁を求める娘を尊い方をお預かりしているのだから、自分のことはともかく、この子には今生で何とか救われて欲しいと、親子でご縁を求めました。
 
 もちろん、私たちは、呼吸法も瞑想も何もしていません。
 「どうしたら」「どうしたら」とその時は何とも思わずに御仏に向かう振りをして、疑い一杯で、たくさんの悲しい思いをさせてしまっていました。
 「疑い」が救われない原因であって、これがあるから報土に生まれられないと聞いて、読ませていただいても何とも感じない愚か者でした。
 それが何の不思議か「疑い」が無くなったとき、御仏のご恩が深く感じられ、それ以後「疑い」は全く出てきません。
 
 思うに自分の力で救われようと、呼吸法や瞑想をする人たちに、一番欠けているのは「感謝」ではないでしょうか。
 私たちは自分の力は何一つ間に合わなかったので、自分を誇ったり、救いでお金を儲けようなどとは全く考えていません。
 救われてからは、毎日が遊びなのですから。
 できることを淡々とこなしているだけです。
 
 そしてまた、救われていない人を壊れている人だから、直そうとは思いません。
 なぜなら、御仏の光明は全ての人にかかっているからです。
 壊れている人など一人もいません。
 心理学も哲学もほかも、ただ御仏を「疑いなく信じる」ことで救われる以外のものは、本当の意味で「今、この瞬間」を生きていないのではないかと私は感じます。

 よかったこと
  何もなくても、よろこべるこの身がとても嬉しいです。 
 
 
 
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何でなの?人が期待する建前の答えをいう人たち

2012/07/19 21:13
 自分が感じることと、考えていることが一致していない人がかなりいることを、この年になって知りました。
 中にはそんな人もいるとは思っていましたが。
 昨日はアジアのボランティアに行っている人の援助の話を聞いてきました。
 その中で援助を受けている人は、自分が本当に欲しいものではなくて、援助する人が求めているような答えをいうと言われました。
 でも、これって苦しくない?
 本人は気がついていない訳?
 両方かな?
 
 私は子ども時、物心ついてすぐから、人に悪く思われたくないと思って何かしたり、言ったりするのを止めました。
 だって、つまんないでしょ?
 それより、私は我慢してまでやってやっているんだから、感謝しなよって、相手に何らかの見返りを求めちゃうし。
 人の顔色伺って、自分のやりたいことや言いたいことを表現しないなんて、身体に悪い。
 もちろん、自分さえよければいいような迷惑行為をしたり、ずけずけと人の悪いところを指摘したりすることを奨励しているわけではありませんが。
 目が死んでるし、必死我慢オーラが出てくるよ。
 
 感覚が西欧的な私は思考と言動が一致しないと身体が痒くなる体質なので、アジアの控えめな全体の空気を読む感覚が苦手です。
 かといって、我先に人の話の腰を折って自分の意見を主張するところまでは、したいとも思えません。
 何事も中庸がいいですが、とりあえず、全体が一致して調和が取れるのが気分がいいです。
 自分の欲するものを言わなかった為に、自分でなく相手がしたい援助をされて、無用の長物の瓦礫の山ができるのは時間とお金の無駄です。

 やはり本音を聞きだせるような人を養成して、本当に必要な援助をさせていただきたいですね。
 宗教家として駆け出しの頃、毎日、試行錯誤で何が何だか分からないで、核心に迫れず、上っ面の質問と答えを繰り返していて消化不良だった頃を思い出しました。
 そんな時を2年くらい繰り返して、やっとこんな上っ面なことをいくら聞いていても、答えてもらっても「きづき」は賜れないとわかりました。
 御仏に向かっての「疑い」にポイントを絞って質問するようになったら、次々と救われる人が出てきました。
 本人はあと少しだけ、ちょっとの疑いだけ残っていると感じていても、ほんとうはそれはちょっとでなく、とてつもなく大きな疑いになっていることに気がつきません。
 
 はじめは疑っていることさえ気がついていません。
 以前の記事で出した割り算のたとえをまた出してみますと
 1÷1=1これがスタートだとしたら、
 ちょっと疑いにきがついてら、
 1÷0.1=10
 もう少しすると疑わないようにしようとします。
 1÷0.01=100
 どんどん本人は疑いが減っていくと思い、信仰が進んでいったつもりですが、本当は疑いが減っていると思えば思うほど疑いが大きくなることには気がつきません。
 0.000000000000000000000000001でも疑いが残っていたら、さらに疑わないようにとしたり、減っていくように思い込んだらもっともっと、疑いはどんどん、限りなく大きなものになります。

 疑いが完全になくなった時(自分の力が全く間に合わなかったとしらされたとき)=0になったとき、はじめて割り算の答えも0になります。
 1÷0=0
 やっと思いと状態が一致します。
 疑いがなくなるという例を出しましたが、これは世の中の全てのことに通じると感じています。
 自分に身についたとき、心にコトリと落ちた時はじめて、自由になれます。
 
 0=無限大
 空=全て

 これが頭だけでなく、心からわかったら、きっと本当の幸せになれます。

 よかったこと
  世間のことにこれほど疎い私でも何とか生きてこれたので、いじめに遭っている人も生き延びて欲しいと、行政や学校に働きかけたり、お手伝いのプランを立てています。
 
 
 
 
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