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みんなの「カウンセリング」ブログ


最後はお人柄

2018/06/20 20:55
 医療ケアもカウンセリングも布教も最後は「お人柄」。

 死に直面し、死の恐怖に怯えているひとに、正直で誠実な何とかして力になりたいという、ひととしての真摯さが最後にものをいいます。

 最低限の技術必要ですが、それを凌ぐのは「お人柄」。

 これを論文にどう表現できるか考えています。

 何かすることではなく、共にあること。

 生きる望みを絶たれた人と、そこに一緒にいること。

 それができる能力を持ち、それをして欲しいと望まれる「お人柄」があるひとが必要とされます。

 感謝していること

 ずっと疑問に思っていたことをどうやって文章にできるか考える贅沢な時間を持てることに感謝します。


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自己愛性人格障害(モラハラ)と自己中の違い

2018/06/16 11:02
 自己愛性人格障害は病気です。自己中は子どもだったり、世間慣れしていなくて自分中心に世界が回っている人を指しているようです。両者はオーバーラップしているかもしれませんが、慎重に症状で見極めることが肝要です。

 前者は明らかに障害であり病気なのです。病気は専門の医師やカウンセラーなどの治療機関に相談するしかありません。無料で引き受けてくれるのは公立の精神保健福祉センターなどです。もしくは、費用は高額になるかもしれませんが、専門に治療に当たっているカウンセラーにお願いするかです。ただし、本人が本気で自分の病状が気になり、克服したいと考えた時だけです。周りが何を言おうと無駄です。


全国の精神保健福祉センター一覧

http://www.mhlw.go.jp/kokoro/support/mhcenter.html

 とりあえず、モラハラを甘く見ないことです。モラハラ加害者はもし自分がモラハラをしていることにきづいても止めないことが多いです。なぜなら、「モラハラで得ている快感を放棄してまで、止めるメリットがない」からです。捕食した獲物だけがターゲットなので、そいつを魂が壊れるまでいたぶることでストレスを解消します。こいつは自分より下だ、いたぶっても自分から離れられない心境、状況にあるとセンサーが察知するとモラハラが始まります。そのほかの人たちには外面がいいので一部の勘のいい人たち以外には、いい人で通っています。そう、関わる人によって態度を変えるのです。彼らは基本的に損得でしか人との関わりを考えられません。損得を超えた優しさ、思い遣りなどは彼らの脳には存在しないかのようです。損得抜きに何かしたことも、きちんと回りまわって返ってくることを知りません。気の毒な人たちです。


 若いときはまだお金や仕事やほかの環境で守られていますが、定年後などに家族から疎まれ、嫌われ、縁を切られます。そうならないうちにきがつくことを念じます。

感謝していること
直ることと直らないことがあるということがハッキリわかり気分がいいです。


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「いのち」「命」「生命」

2018/06/05 17:30
 宗教的な表現は「いのち」がふさわしいのではないかと、大学院の医師でもある先生から言われました。確かに「命」や「生命」と漢字で書くと何か科学的、無機的な感じがします。仏教的「いのち」は三世を貫くものです。過去、現在、未来全ての「いのち」を問題にします。

ターミナルケアにおける心的援助活動の論文を完成させるべく日々格闘しています。講義の中で同じ先生にお尋ねしました。
「先生は死後を不安に感じている末期患者に『先に(お浄土に)行って待っていて下さい。私も後でまいりますから』と言われますか?」
 先生はお困りになり、次のようにお返事されるのが精一杯でした。
「私も必ず死ぬとは言いますが・・・・・・」

結局、科学的な方法だけでは、死に面している患者の「いのち」の問題を救うことにはなれません。肉体の疼痛などの「身体的苦痛」は医師等の医療関係者、仕事や残された家族のことなど「社会的苦痛」は親族や職場の人や死後どうなるかという怖れ「いのちの苦痛(叫び)」は宗教家と三つの苦痛はそれぞれ、別の人にゆだねる必要があるのでしょう。医師、家族、周りの人たちが宗教的な導きをできるならそれに越したことはありません。そうでない場合、それぞれの苦痛を解決する人に任せたらいいのですが、最後の「いのち」の問題を解決できると看板なり名乗りを上げている人はなかなか見当たらず、ご縁をもつことが難しいです。

 それをカウンセリングという聴くことを橋渡しに「いのち」の問題が解決できて、クリアになり、安心満足して臨終に臨めることが現実として存在するのだと伝えるミッションのための論文です。書き方を工夫したら「いのちに限りのある全人類の光」に必ずなります。そう確信しつつゴールを目指し毎日書いています。

感謝していること
 先生はいつも的確かつ真摯にご教示してくださいます。有難いです。


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真宗カウンセリングがターミナルケアにおいて果たす役割――心の叫びに応える――

2018/05/30 07:21
  同じテーマの論文を、一昨年の秋から準備して、昨年投稿の今頃、同じところに投稿しようと締め切りを前に同じように考えては書いていました。それでも思うようなものにならず、昨年は見送りました。そして、今年は別のところに学会発表して、論文を投稿しました。その論文の内容は概論的なものになりました。今回の文章はターミナルケアに絞ります。

「わたしはもうだめなんじゃないでしょうか」
心の叫びを打ち明けるクライアントへの真宗カウンセリングが果たす役割を書き切ります。明後日締め切りなのでかなり厳しいです。それでも、この論文の完成を心待ちにしてくれている人が背中を押してくださっています。

「わたしはもうだめなんじゃないでしょうか」
この切実な想いを誰にも打ち明けられずにいる、まだ見ぬ人のためにも書きます。
みなさまにも応援して頂けたら幸いです。

感謝していること
憶いをどこかに発表できることはすばらしいことだと有難く感謝しております。
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今生はもう残り僅かなので、誰かと逢うなら寛ぎ癒しの空間にする

2018/05/20 22:54
 誰かと一緒にいるときや電話で話したり、チャットをしているときは、ありのままで何も考えないでゆっくりしていたいです。誰かの問題を解決しようとも思いませんが、役に立てそうなことがあれば、こんなことを試してみたらとは言ったりしますし、時には手伝います。でも、できそうもない約束はしません。誤魔化したり、嘘もつきたくありませんから。これは自己一致でしょうか。無償のカウンセリングをしていこうとしてるみたいです。

せっかく時間を取って逢いに来てくれているので、誰も傷つけないたわいない冗談でも言って、笑い合っています。家族や仕事の話でも大袈裟に自慢してもらっても構いません。「すごいね、よかったね」ってよろこんで聞きます。これは共感とか受容かもしれません。

他人からよく思われようとも思わないので、自分を等身大以上に見せる演技もしません。馬鹿にする人、威張る人、雑に扱う人であれば、悲しい人なので、次からは距離を置きます。一緒にいて楽しくて楽な人とできるだけいたいです。耳の痛いことを教えてくれる人も、勝他の為じゃない人かどうかは分かるし、私のことを大切にしてくれる人は、それなりに言い方も考えたりしてくれます。モラハラ、パワハラ、セクハラ全部お断りです。そういう人はもういいかなって、十分学ばせて頂いた気がします。これからは逢うひととは明るく気分良く過ごしていきます。そう決めました。

感謝していること
みなさま、またお逢いして一緒にお腹を抱えて笑い合いましょう。そんな日が毎日続くように感じられることに感謝します。


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真宗カウンセリングに法話を

2018/05/20 08:30
 僧侶の立場からすると法話をしてから、そこで聞いたことを示談や談合などで話すということが常であるかもしれません。ここでその発想を転換してみるのも一つかもしれません。まず、法話の前に、どのようなことを現在気に掛けていて、どういう話が聞きたいのかをあげてもらって、その要望に基づいて、法話の内容をその場か、後日決めて説法を聞いてもらう方法がよいように感じます。そして、聞き手の言われていたことを法話に盛り込んで話します。そしてまた、法話の後か後日にカウンセリングを行います。カウンセラーが話したいことを一方的に話すより、クライアントが聞きたい話をした方がさらに真剣に聞け、カウンセリングの効果も上がります。

 法話がなぜ必要かというと真宗カウンセリングだからです。至極当たり前のように感じられるかもしれません。教えを早いうちに前面に出すことはカウンセリングを成功させる秘訣です。真宗と銘打っているのですから、法話が間にあっても違和感はないでしょう。一つ一つの表面上の人間の問題というより、それらを超えられるものを獲たいと来られる方々に説法を抜きでは真の意味での問題解決は成しえません。僧侶の資格を持っている人でもそうでなくても法話はできます。クライアントがもし法衣を着てくれと頼まれるなら、そうしたらいいし、普段の格好でお願いしますと言われたらそのようにしたらいいです。クライアントの要望に一つ一つ答えて行ったらお互いの合意ができていくでしょう。カウンセラーが説法に不慣れなら、僧侶に同席することを依頼したらいいでしょう。

 できれば、カウンセリング、法話、カウンセリングのサンドウィッチのような形の方がよりクライアントがしっくりくる話になる気がします。聞きたいこと話を尋ねて(事前に手紙やメールで尋ねてもいいです)、法話を行い、それについて共に話をすることをセットのパターンで試みてみることも、真宗カウンセリングをより佳きものにできると考えました。

 話したら話し放し、聴き放しではなかなか理解が深まりません。クライアントの話を聞いて次回もカウンセリングが必要なら法話をその次にするとか、法話は毎回入れることにしても15分くらいの短いものにするとか色々なパターンを試してみるのもいいのかもしれません。

 カウンセリングの立場からすると、法話を取り込むということは奇異に感じるかもしれませんが、「真宗カウンセリング」なので、真宗の教えを熟知したひとが話す前提で、クライアントもそれを承知で来ているので問題はない気がします。むしろ法話がない方が「真宗カウンセリング」としては物足りなく感じる人もあるかもしれません。こんなことを思いました。

僧侶もカウンセリングを積極的に学んで、法話にカウンセリングを取り入れられるようになるといいです。

感謝していること
 法話を長いこと何度も聴きつづけた日々を思い出します。それはそれで有難かったです。人生には何一つ無駄なことはなかったと知らされます。


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真宗カウンセリングは一般のカウンセリングの限界を超える

2018/05/19 12:44
 人格の涵養には限がありません。もしカウンセリングに対して人格の涵養を目的とすることを期待するなら、相対的なことであり、一生涯これで完成したということはありません。それでも構わないなら、し続けたらいいでしょう。

 そうではなくて、目的が、自身の安心立命、満足な境地を永続的に獲ることであるなら、宗教的救済でしかそれはなしえないと私は感じます。宗教の中でも、私が慣れ親しんだのは浄土真宗であり、真宗カウンセリングでその境地に達することができることを紹介する論文を書いています。


 宗教にカウンセリングがなぜ必要であるのかは、人間の苦しみ悩みの元を知らせるためです。自分が苦しんでいるのは煩悩による表面的なことというよりも、根本的な迷いであり、それを仏教では「無明の闇」が晴れていないからだと説かれます。無明が苦しみの原因であるところまで行きつくには、説法と対話が必要です。その対話の部分を現代的な言葉で置き換えるとカウンセリングということになるのでしょう。蓮如上人は「信心の沙汰」といわれました。聴聞と呼ばれる説法を聞いている仲間の間でなされました。布教師と信者の一対一、もしくはグループで話し合いが持たれていました。

このように、無明を晴らすことのできる教えがあり、そのうえでカウンセリングをおこなわないなら、それはただの人格の涵養にしかならず、いつまで経っても安寧の境地に行きつくことはできません。一生求道だ、求められたということなど無いという人には何も申し上げることはありません。死の不安や無明を抱えながら一生不安なまま生き続けることは私には無理でした。

カウンセリングである問題が解決できても、また次の問題が惹起し、いつまで経ってもこれで安心満足できたということがありません。自己を超越する宗教的救済に値えば、より、相対的な個々の苦しみを凌駕できる身になれます。積み上げた先のより良い人格形成と宗教的自己超越は異なるのです。究極的な迷いの除去と広大なる知恵や慈悲との遭遇をめざすための、宗教的体験のためのカウンセリングの理論や方法はできるだけ向上していくものであり、相対的なものなので研究は進めていく方がいいです。また、宗教を説くものもカウンセリングの技術や考え方を学び、聞きに来られる方を尊敬、尊重できるようになり、何が今、引っかかって先に進めないのかを見極めて法を説くことが望まれます。

真宗カウンセリングは、話し手と聞き手が上手く相応するなら、対症療法では解決し切れない「無明の闇」を破り、迷いから覚め、生死を超える仏教の本来の目的にまで導くことが可能です。

感謝していること
先輩方の残された文章を拝読させていただきながら、同じような気持ちでカウンセリングについて試行錯誤されてきたことが知らされます。


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布教はまず相手の話を聞くことから始まる

2018/05/19 09:30
 真宗カウンセリングの論文を書いています。その中で、カウンセリングを学びながら布教活動をした人たちの文章に触れながら、自身の活動の振り返りをしています。

 初めは、阿弥陀仏の本願(真理)を前面に打ち出して話していましたが、それでは何だかちっとも前に進めない感じがありました。そのうちにきづきました。まず、どんな人も例外なく、自分の話をきちんと聴いて欲しいのです。聴いてくれる人が今までいなかったのです。何か話しても、途中で遮られたり、分析まがいのことをされて決めつけられたり、否定されたり、見当違いの励ましをされたり、勝他の為の質問をされたり、これでは話す気持ちが失せてしまいます。私自身も、求道中のほとんどの期間、他人にじっくり、ただ聞いてもらったことがほとんどありませんでした。ただただ、共感と受容をもって、正直な態度で聞いてもらうロジャーズ方式がよいのでしょうが、そういう訓練をしている人は稀です。どこかで聞いている人自身が出て来てしまい、話をする人は話すのを諦めてしまいます。

 ライフヒストリーでもいいし、その時感じていることでも何でも構いません。本人が気にかかっていることを打ち出してもらうのが始まりです。これが十分になされないと次に進めません。このことにきづいてからは、ひたすら、あたかも自身がその人であったならどのような気持ちでいるのかということだけに集中して聴き、確認し、その人が話し易いような質問を交えることに専念しました。一番大切なのは相手に対する尊敬の念です。負い目を感じさせることが少しでもあれば、そこで関係は切れます。ゲームオーバー、お終いなのです。信頼関係が無くなるとはこういうことです。

このような対話においては、デリケートで、ナイーブな関係を支える優しさかつ強さが、話し手である布教者するカウンセラーには要求されます。話し手の態度や人間観が前面に出てくるので、知識や技術のみでは太刀打ちできないのです。研鑽の途中でそれは痛感してきました。忍耐強さと諦めないで待つことも必要です。これは双方に言えます。話し手と聞き手の真摯な関係が維持できなくなったとき、人を変えるか、時を待つのかの選択が迫られる気がします。

 話し切った、聴き切った後、この段階で、真理との邂逅がふっと訪れます。つまり阿弥陀仏の本願を聞く体験を獲られます。本当に賢い方が人間で話してくれる人が誰もない場合は、稀に書物で救われることもあります。しかし、それは滅多にあることではないことを愚鈍な私は実感しております。何度も、何度も気が済むまで聴いてもらって、はじめて仏の願いにきづかせていただきます。

感謝していること
 本当にたくさん聞いてもうことができたことに感謝します。


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今を問うのがカウンセリング

2018/05/18 23:26
 カウンセラーという立場でお金をもらって仕事をしたくないのでしていません。それでもここ9年くらいそんなようなことを続けています。初めは仏教の「生死を超える話」・「きづきの話」のために仕方なくカウンセリングもどきをしていました。しかしながら、このカウンセリング的な聞き方を経ないと、仏教の話に進めないことがだんだんわかり、途中、カウンセリングや心理学の勉強をして、認定心理士や産業カウンセラーの資格を取りました。今でも、ときどき、カウンセリングのワークショップなどにも参加しています。

 勉強した結果は、自身がしていることの理論的裏付けができたことくらいでしょうか。実践で半分の年月を費やした後、カウンセリングと心理学の勉強をしたので、特に真新しい発見というのはありませんでした。結局、カウンセラーの最低限の技術面と、態度、そして人間観が大切だと知らされました。自身のことは誰かに聞いてもらわなければ、なかなか分かることではないのだというのは、仏教を求めた最後の方でそうしてもらっていたので、同じような聞き方をしていました。

「そうなんだ」「そういう風に感じているんだ」こう言うしかありません。自分がもしその人の立場なら、そう感じているまま、ありのままの共感を持って受け入れるしかあり編ません。否定や批判をすることもできますが、それをしても、今、分からないなら、言葉を重ねても無意味なので言わなくなりました。私はこう感じるというのは言いますが、それを受け止めようと受け止めまいとそれは仕方のないことだと考えながら言います。その人によります。聞き入れてもらえそうなときは言いますが、そうでないときは黙っています。

 なぜ、どうしてという質問をしても無駄で、結局、本人がきづいて変るのを待つしかありません。過去のことを問いただしても無意味です。否定も上辺の励ましもしません。分析もしません。その人が感じていることを鏡になって引き出す感じです。鏡がないと見えないことがほとんどですから。その鏡として歪みのないよう、最大限きをつけます。ただそれだけです。なによりも、今が大事で、今、縁が熟すようにならないと始まりません。今、聞けるなら聞ける、ダメならまたご縁があれば、そんな感じです。今生ではご縁がないのかもしれませんし。それでもその人ができるだけ早く真理との邂逅ができる話をする機会が来ればと願ってやみません。

感謝していること
 カウンセリングの文章を読んでいて、自分のしてきたことの振り返りができて、とても嬉しいです。


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話しを聴くことと、話をすること

2012/09/14 19:43
 30年近く御仏の話しを聞き続けました。
 それと同時に、分からないながらも御仏の話を有縁の方々にお話してまいりました。
 自分自身が救われてからは、救われていない人が話をすることはとても危うく、かえって縁を遠のけることもあるのだと分かりました。
 それでも、御仏が縁のある方には、軌道修正してくださるので、話していったら、救われてからの話し方の練習くらいにはなるかもしれません。
 ただ、自分が思っていた御仏や救われてからの心境が、全く異なっているので、内容の説明や救われるまでの過程についてはぜんぜん役には立ちませんでした。

 自分が聞いてきたことは、初期から10年間くらいには、会長がまだ自分の説でなく、先達の話や自分が聞いてきた話しをしていたのでその頃の話や喩えは役に立つものも多いです。
 残りの15年は今から思えば、本当に時間とお金の無駄使いでしたが、こんなことはほかの人には絶対させてはならないとの戒めだったのかもしれません。

 救われてから、何が何だか分からないまま始めに救われる人が出るまでは、こう考えていました。
 「どう話したらいいのだろう」
 「何が足りないのだろう」
 「何かをやめないといけないのか」
 「この人にとってはいつのタイミングなのだろう」
 「どうして、今、ここでがわからないのだろう」
 同じ人に3ヶ月毎日のように話しても、御仏の願いが分かってもらえずに考え込んでしまう日々が続きました。

 転機となったのは、どうしても救われたいという方が遠くから来られて、4,5日泊り込みでお話をさせていただいた時からです。
 今までのように、電話で1時間を毎日3ヶ月でなく、集中講義形式で話をしました。
 それでも、観光がてら、食事がてら、幼少期から今までのことなど雑談を交えて、この人はどこで引っかかっていて、御心が受け取れないのだろと自分が話すよりもひたすら聴いていました。
 最後の方でやっと話しを聞きながら、心の変化をまとめた話が「さとり、救いについて」でした。
 それでも、その場では救われなくて、自宅に戻って電話で話しているときにその方の配偶者の方がまず救われて、次にその方が救われました。

 それから、その方に頼まれて、電話で何人かの人と話しをして、元々縁の深い方だたのかは1〜3時間で救われました。
 そののちは記事にも書いてきましたが、メールやチャットで下準備をしながら、1回もしくは2回で救われています。
 何回も時間をかけるのは面倒で嫌なので、縁の深い方しか話を受けませんが、この人と感じるものがある人は救われています。
 その話の仕方はとにかく、いろいろ始めにその人に自分が引っかかっていることを話してもらって、それからちょっとだけ御仏の願いを話すだけです。

 マニュアルのようなものをつくったといいましたが、それが「救い、さとり」の話です。
 ただ、それをそのまま話しても、救われる人は少ない気がします。
 そこまで行き着くまでに、不安なこと、不満なことを世間のことでもいいし、仏教のことでもいいし、洗いざらい話してもらう必要があります。
 それを通り抜けないとなかなか救われません。
 よほど縁の深い人なら、「救い、さとり」の記事を1回読んだだけで救われるでしょうし、このブログを読んでくださっている方でも、救われた人が知っているだけで数人いますが、言われないだけでたくさんいらっしゃると思います。2009年の11月末から現在まで延べ人数で20万回のアクセスがあったのでそう感じます。

 そこで、昨年から学んでいるカウンセリングの話に移りますが、カウンセリングの傾聴というのと「きづきの話」はとても似ていると感じます。
 相手を尊敬・尊重して、まず私のところに話に来てくれて有難うございますから始まって、あなたが救われて私はとても嬉しくよろこんでいますで終わります。
 この救われるは世間的なことで直面している問題が解決したという意味の時がほとんどでしょうが、ひょんなことから御仏に救われた方が今までにお一人いらっしゃいます。
 そこまでいけたらもちろん最高ですが、そうでなくても、当面の問題がなくなったら、それで大成功です。
 
 布教もカウンセリングも聴くのが8・9割で残りが話すことなのだと、経験上私は感じます。

 よかったこと
  行政書士の直前コースのCDが1枚聞けました。
 
 
 
 
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タイトル 日 時
同じような立場の人に悩みを相談しない
 似たような立場の人なら、よいアドバイスや解決方法を示唆してくれるかもしれないと、思う人があるででしょう。  それは一面で、合ってもいるし、危険な面を孕んでもいます。 ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

2011/11/09 19:00
もう一度大学
 自分の心を見つめなおす為に、7月から電話で、カウンセリングのサービスを受けています。  たくさんのカウンセラーの皆さんのお蔭で、命を存えているという状態です。  皆さん本当に有難うございました。感謝しています。    そして、私も何かお返しが出来ないかと考えいる中、コメントの中でキャサリンさんがスクールカウンセラーという方向を提案して下さいました。  色々調べていくうちに、臨床心理士の資格を取るには心理系の大学院に行く必要があることがわかりました。  いきなり大学院のハードルは高く... ...続きを見る

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2010/11/26 08:57
毎日が佳き日
  昼頃まで、とってもブルーな私が、オセロのように物事が好転して、今は絶好調です!   友達が、近くに用事があるので、近々、逢う事になりました。   試験も近いし、ちょっとですが、顔を見て話すのは、嬉しいです。 ...続きを見る

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2010/11/04 23:19
ヒトとの修行(関わり)卒業(放す)
 自分以外の人に対して、もう限界と思ったら、たとえ一緒に暮らしていようと、血がつながっていようと、泥沼にならない内に、終わりにした方がいいでしょう。  自分の為でもあり、相手の為でもあります。  情に流された同情を引きずって、我慢して合わせていると、そのうち爆発します。  だから、被害を最小限に抑える為に、離れたり、同じ場所にいても、接触しないようにしたらいいと分かりました。 ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

2010/10/21 08:59
本当に認てあげられるのは自分
 多くのヒトは、勘違いしています。  ヒトに認めてもらおうとばかりします。  ヒトの評価、ヒト目を見て、ヒトに気に入られるような言動をします。 ...続きを見る

ナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 2

2010/10/19 08:59
宗教中毒 依存 共依存
 不思議で不思議でならなかったことの、原因がやっとの事で分かりました。  家族は宗教中毒だったのです。  中毒=依存症  そして、私は共依存者 ...続きを見る

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2010/10/18 08:53
皆様に励まされ、支えられています
 今迄、辛くて、辛くて、挫けそうになると、どこからともなく、助け舟がやってきました。  もう死んでしまおうと思ったことも、何度もありましたが、そんなときも、必ず、誰かが、私を見ていてくれました。  おばあちゃんだったり、両親だったり、ソロバン塾の先生だったり、友達だったり、子どもだったり、たくさんのヒトが入れ替わり立ち代り、私を励まし、勇気や元気を下さいました。 直接は関係ないヒトたちの愛らしい、思い遣りのある言動などで、元気になったりもしました。  本も映画も音楽も、私を癒してくれまし... ...続きを見る

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2010/10/15 17:12
今までよくやってきたね。偉いよ(モラハラで苦しんでいるあなたへ)
今までよくやってきたね。偉いよ(モラハラで苦しんでいるあなたへ)  日常ふと、ため息が出たら、何だか疲れちゃったら、こう、何度も、自分に言ってあげて下さい。  それでも、まだちょっとと思うなら、友達に、手が空いたら、電話で、直接こう語りかけてくれるようにメールでお願いして下さい。    「今までよくやってきたね。偉いよ。そんなに頑張らなくてもいいよ。少し休んでもいいよ」    日常、家族にすら労いの言葉も掛けられず、誰からも労わって貰えなにのに、本当にあなたは我慢強いよね。  感心しちゃうよ。大変な中、よくやっているよ。  一生懸命やってるのにも... ...続きを見る

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2010/08/26 18:31

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