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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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伝道・教育と研究の相違点

2017/09/21 15:56
 前者は対象者の解脱・より良き人生への導き、救いに主眼が置かれますが、後者はメカニズムの解明に着眼し、客観的態度で行われます。

 メカニズムや動向が分かることで、人の言動など行動様式が分かることで、伝道や教育に寄与することもあるのでしょうが、回り道になることもあります。

 目の前の困った人に、何もわからないまま素手で向かって行くと、確かに双方傷だらけになりますが、その方が速い場合もあります。なまじ半端な知識があると、高みの見物というか、次にどう来るかなど余裕を以て観察してしまう傾向にあります。

  ただ、これでは救いが抜けるので、真理との邂逅という終着点に導くことが出来ないとただの煩悩を満たすことになるだけです。私はその真理を仏教の真宗という分野で到達するノウハウを10年近く研究し、やっとその道筋を汎化しつつあります。今まで誰もしたことがない道なき道だったので大変です。

 手探りで、いまここの目の前の人の声を聞くというのが対機説法にも通じます。これは知識と云うよりも、相手との心と心の対話であり、真理との邂逅への道を伝えることになります。こちらの技量ばかりではどうしようもない相手のご縁も重要なファクターになります。出合いのご縁としか言いようがありません。

 今まで、心理学の知識を一通り学び、認定心理士や産業カウンセラーの資格があります。資格を取るために学んだ知識が役に立つこともありますが、ほとんどはカビが生えたような博物館に入っているような遺産です。コンテンポラリーなジャストナウといったものを更新して行かないと実際には、役に立てないのではないかと考えています。たった100年の心理学よりも仏教の方が計り知れないほど人間の真理を教えてくれます。科学についても同じことが言えますがこれはまた別の機会にでも。

 人間の狡さや醜さに目を向けて研究するより、真理での救いと対機説法の実践を積み重ねていく方が私には向いている気がします。狡い人に騙されて、傷ついても仕方のない人だなぁと思えるところもあります。

 最終的には、ひとは佳き方向になびくものです。

感謝していること
 研究者というのは半分遊びで対象物を眺めて遊んでいるのだとあるひとに教えていただきました。有難いです。


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不誠実な態度を取る人の行く末

2017/09/21 15:50
 あまり気が進まない中、意を決して、あることを注意した時、そのことに反省するでもなく誤魔化して、その場で、反対に自分に対する不満を持ち出されて、改善して欲しいと言われたとき、もう無いな、挨拶さえ関わるのは二度と無理とさーっと冷たい空気が流れたことはありませんか。思春期の子どもならともかく、社会人になってもそんなことをするのはアウトですよね。それが子どもだとしても過去世から、ろくな人生を歩んでこなかったのだと呆れてしまいます。

 とりあえず、相手が嫌がることをしていたのだと認めて、嫌だと言われることはしないと告げる真摯な態度が先です。自分の不満は別の機会に言えばいい。プライドが高いのでしょうが、すぐばれるような嘘や誤魔かしはよくないし、たぶん、ほかの人もそういうところにきづいていて、だんだんに人が周りからいなくなって、一人ぼっちになってしまいます。そうなったときに初めて、誰かが気にかけてくれているときが、自分が変わるチャンスだったのだと分かるのでしょうが、時既にもう遅しです。周りのみんながフェィドアウトして、同じような人ばかりが残る事態に陥らない内に嘘をついたり、誤魔化したり、うやむやにするのは止めた方がいいです。

 注意されたことはされたこと、自分の不満はそれ、別々に一つずつ解決して向き合わないとなりませんね。

感謝していること
 いつもズバリと相談ごとに答えてくださる方に有難く感謝いたします。


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人生は苦なり

2017/09/21 15:42
 稲垣瑞劔師の人生の文章を以下に紹介します。特にこの部分のお味わいに共感しました。「法楽」「妙楽」、のことを「この苦しい世にいて、人と共に苦しんで、苦しみつつ、佛法をひろめる、これほど楽しいことはない。これを法楽といい、妙楽と言う。こんな楽しみは、この世のものでない。」と表現され、「極楽の楽しみの影」という風に書かれていたのが妙に心に響きました。

「苦も楽も、この世の中にあるものは、所詮苦である。この苦しい世にいて、人と共に苦しんで、苦しみつつ、佛法をひろめる、これほど楽しいことはない。これを法楽といい、妙楽と言う。こんな楽しみは、この世のものでない。極楽の楽しみの影が浮世にさしたものであろう。」 「法雷」誌58号 p10 1981年

「人生
 人生は不思議な、妙なもので、苦しい苦しいと人は言うておる。これはほんまじゃ。無常火宅の世であるから、苦しい辛いのはあたりまえ。根性が悪いから、よけいに苦しむのである。業報を知らぬから。よけいに苦しむのである。業報を知って見よ、十の報いが、二か三に減って報うて来た。これは如来様のお蔭と思えば、苦の中からも、よろこびが生まれて来る。楽を追い求めるものは苦を招き、人を苦しめるものは苦に終わる。楽の中に楽なく、苦の中に楽がある。苦も楽も、この世の中にあるものは、所詮苦である。この苦しい世にいて、人と共に苦しんで、苦しみつつ、佛法をひろめる、これほど楽しいことはない。これを法楽といい、妙楽と言う。こんな楽しみは、この世のものでない。極楽の楽しみの影が浮世にさしたものであろう。生きものを殺さぬようにして、人を助けるようにすれば、長寿をする。佛様を大切にして親に孝行すれば、運命が開けて、幸福が湧いて来る。

 み佛の おしえをふかく かしこみて
親に孝行 これが幸福」
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人間同士は真理を媒介してしか真の意味で分かり合えない

2017/09/19 13:40
 三次元の身体を持つ以上、別の入れ物に入っている以上、いくら気持ちを慮ろうとしてもおのずと限界があります。

 それを埋めるのは、真理との邂逅をそれぞれがして、真理を通して、真理との媒介のもとに分かり合うことでしょう。

 直接ではなく、一度真理に立ち返って、感じたものが一致しているという風とでも表現したらいいでしょうか。人間の言葉ではなく、言葉を超えた感覚を受け取り合い、それで分かり合うというような方法で、間接的にも取れるけど、核の部分ではきちんと真直ぐ分かり合える。そして、肉体から卒業できたら、おそらくもっとストレートに分かり合えるようになる。

 その時が来るまでは少しまどろっこしいようですが、それはそれでまたある種の学びでもあり、ミステリアスな楽しみでもあります。これが地球で生まれた人間の醍醐味なのかもしれないと最近は感じます。

 感謝していること

 それなりに、真理との対話は嬉しくもあり、残された時間を出来るだけ楽しんで生きていきます。


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お互いに完璧に信頼し合える人物とはなりえないならどうする?

2017/09/19 06:28
 どんな夫婦・親子・師弟関係も絶対的な信頼関係たりえないと心底知らされたとき、本物の救いを求めます。人間の誰かが何かして助けてくれるとか、心の内を完全に分かり合えることはないのだと分かりきったとき、自分の力に頼ることは止めざるを得なくなります。誰かの為に何かをしたいと願ってもその人が望むそのものをしてあげることは叶わないし、誰かが私に私が本当にして欲しい何かをしてくれることもできないと心から知らされた時、真理との邂逅を願わざるを得ません。


 大きさも重さも形も色も匂いもなにもない真理こそが、本当の自分を丸ごと抱えてくれて、心の奥底を理解するものなのだと分かることが人間に生まれて来た目的であり、これが達成できた人間同士はその真理を媒介として今生では分かり合うことが出来ます。これがひと同士では限界かもしれません。

 こうなれた時、初めて、お互い欠点がある完璧ではない人間同士なのだからと、欠点も含めて愛おしいと感じ合い、許し合い、それぞれ使命を一緒に果たせるようになるのでしょう。

感謝していること

 もうまいりました。降参です。このように我が身の罪悪も無常も全部そのまま、真理にうちまかせさせられたことに不思議不思議とまた有難いです。


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人間の慈悲が小慈悲である三つの理由

2017/09/18 07:37
 仏の慈悲が大慈悲であるのに対して、人間の慈悲が小慈悲であるその訳は以下の3つのことがらに因ります。
 @相続しない

  続きません。コンスタントに恒常的に続く慈悲ではありません。
子どもを亡くした時、自分も一緒の棺桶に入って死にたいくらい悲しくて仕方がありません。でも、時が過ぎ、その子を結婚させる頃になると、「あの子がいたら今頃このくらいお金がかかっていたところだなぁ」と、つい身勝手なことを考えてしまいます。

A我がついている

 自分の子どもは可愛いけれど、他人の子どもは我が子に比べると大したことがないのです。我が子は自分の分身ですから、貶されると自分が酷く言われているように心が痛みますが、よその子にはそんな気持ちは起こりません。自分と双子のように感じている子どもが言うことを聞いて従順である時はよろこべますが、一度反旗を翻すと、気が狂わんばかりに動揺し、何とかしようとします。それは子どもが自分のものであるという我がついてるからにほかなりません。

B盲目である

 これが一番厄介です。仏さまは智者です。智慧があるので正しく導けます。しかし、人間の知恵は仏さまとくらべたら、本当に浅はかです。これを自惚れ強い人間は認めたがりません。反対に、仏教や仏さまを目に見えないなどと言って馬鹿にするていたらくです。どこまでいっても、人間とは救いがたく愚かな生き物です。助けようとしてもその手立てが分からず盲目なので、かえって子どもをスポイルする結果になります。

 本当に助ける知恵も手だても持たないにもかかわらず、「自分が何とかすれば子どもは改心する、本来私に似て素直ないい子どもなのに、周りの環境のせいで今はああなっているだけなのだ」と問題の所在を直視せず、他のせいにしたり、自分が何とかしたら何とかなるものだと自惚れが無くなりません。まるで王舎城の悲劇のイダイケ夫人そっくりで笑えません。

また、自分がだめでも、他の迷った人間である、医者やカウンセラーもしくは宗教家などをあてにします。所詮、彼らも迷った人間であり、仕事で生活のためにしています。クライアントや信者の子どもである我が子はたくさんのうちの一人にすぎません。一般論や今までの上手くいった事例を示すにすぎません。そういうひとたちに大金を払い騙され頼り切るとえらいことになります。

 同じく職業としている人でも、自身も救われていて、満たされた人は今目の前の困っている人に対して、多額のお金を要求することはありません。既にお腹一杯だからです。そこら辺が本当に助けてくれる人かそうでないかを判断する基準でもあります。

小慈悲しか持てないという自覚が出たら、問題は我が子ではなく、己自身であることに考えがいたります。自分自身が救われることが大切なのだと知らされます。子どものことを放ってでも、自分が救われるために奔走します。私が本当に当て力に出来るような心境になる大慈悲に遇いたいと求め出します。命にも限りがあるので、少しでも早く安心満足の身になりたいと希うようになります。


結局、人間の小慈悲などに縋るな、ほかの誰の問題でもなく、我が身が助かることこそが、今生に生まれて来た目的であったのだと、子ども自身が身を以て教えてくれているのです。たいしたものです。子どもだけではなく、夫や妻や恋人と置き換えて考えてもいいでしょう。いろいろ考えさせられます。


感謝していること

大悲大智の仏さまと一緒のお浄土への旅はいろいろありますが、気楽なものです。


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人間の誰かには継子としてしか頼れず、甘えられないことにきづく

2017/09/17 20:13
絶対に裏切らないのは実の親であり、継父母には他人行儀でしか接することはできません。しかしながら、いくら血を分け腹を痛めて産んだ子でも、人間の親は真の親にはなりえないことに、私は物心ついた頃から気が付いていました。

それではほかの誰かが、本当に理屈抜きに、虚仮不実の私を全面的に受け止めてくれるか、罪を憎まず、悲しみつつ、包み込んでくれるか。善悪全てお見通しでそれでも丸ごと実存全体を抱きかかえてくれる方があるのか。「だだ」を捏ねても反省もある真の親のにするような甘え方が出来る存在をずっと長い間探し続けていました。自身も無明の闇、死の恐怖を持ちながら、凡夫として生きている人間の親には私が全面的に頼ることは、荷が重過ぎ、共倒れになるという悲しい自覚があったためです。

だから、私は親にもおばあちゃんにも誰にも甘えない人生を歩み出しました。甘えられない人に寄りかかり縋ると双方が苦しいです。だから、もっと別の絶対的な信頼を持てる存在でないと、無茶苦茶をし、愚かで、善をしなくてはならないと知りながら気が進まず、悪いと知りながらも止められないどうしようもない自分を受け止められないだろうと気が付いたので、誰にも甘えられませんでした。

親が子どもの幸せを本当に願うなら、自分が本当の親に値うことです。大智大悲の仏さまに救われることです。そしてその姿を子どもに見せて、お前も早く仏さまに救われなさいと勧めることです。これ以外、真に親子が助かる道はありません。逃げずに強くなってください。

自分が甘えられずにいたと本当に自覚できるのは、本当に甘えられる人に出合えて、安心して腕の中で甘え切ることが出来た時です。それまでは、継子の遠慮した甘え方しかできませんので、自分が甘えている自覚はありません。

 所詮、人間の親は継親でしかないので、絶対的な安寧の中で甘えることが出来ないので不満が溜まるのです。ましてや、夫や妻や恋人など他人ですから、それ以下です。そんなものに全面的に身を委ねるなど愚の骨頂でしかありません。笑い話にもなりません。世の中の人は求めても求め獲ることが出来ないこと欲しがり苦しんでいるのですが、このことにきづいている人は稀です。仏さまなど真理との邂逅を果たしたひとのみです。

 どうぞ、いま、ここで、畏れずに、真っ直ぐに直ちに、本当に救ってくださる本当の親の呼び声に、ハイと答えてください。

久遠劫よりこの世まで あはれみましますしるしには 仏智不思議につけしめて 善悪・浄穢もなかりけり(親鸞聖人 正像末和讃)

感謝していること

物心ついた時から、仏さまに救いを求める救われたことは不思議で有難いです。


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所詮人間の慈悲なんてこんなもの(笑)

2017/09/17 10:46
理解者(味方)は私だけ、可愛そうなあの人を何とかしてあげたい。

   ↓

私にはもうどうすることも出来ない。したくもない。こりごりだ。

金輪際、私の幸せを奪う者とはもう二度と関わりたくない。

自分が大事しよう、ほかの誰かではなく、まさに自分が救われたいという気持ちになっていきます。

他人を何とかしようとして精も根も尽きた時、自分の力は間に合わなかったと知らされ、必ず自分に目が向くときがきます。

子どもを捨てる藪はあれども、自分を捨てる藪はないからです。


こんな風に気持ちが冷めると、相手に対して憎しみも通り越して、限りなく無関心になっていきます。

たとえ、親子といえども同じです。

自分勝手ということではなくても、手放すのが自分にとっても相手にとっても必要な時期もあります。


所詮人間の慈悲は「小慈悲」

仏さまの慈悲は「大慈悲」


どんな親でもカウンセラーでも本当の意味で誰かを助けることなんてできません。仏さまのような真理との邂逅でしかひとは救われません。

本当に誰かを助けたいなら、仏さまの大慈悲を仰いで賜り、相手にもそういう身になってもらうしかありません。
観無量寿経の王舎城の悲劇のイダイケ夫人と息子のアジャセのように。

それしかないのです。
簡単ではないですが、究極的な解決です。
本当に心の中の隅々までわかってくださるのは仏さまだけですから。

人間の限界はあらゆる手を尽くして、自力が間に合わないと知らされるまで分かりません。その過程では心を錐で刺されるように痛みを引き受け、血の涙を流します。人間でさえ、大切なひとのために身を削って、時間を割いて辛い気持ちを抱えて相手のために全力で対峙します。

仏さまは無始からずっと私一人を助けるために、五劫の思惟、兆載永劫のご修行をなさいました。人間の比ではないです。

いま ここで救われてください。

それしか道はありません。

何も考えず、召喚に「ハイ」と従うだけです。
欲の水の波、怒り火の波が細い白道を覆い、行くも死、帰るも死、泊るも死の三定死なのですから。
ザルで水を汲むのではなく、ザルごと水に飛び込むしかありません。

感謝していること
弘誓の強縁に救われ、無明の闇を破っていただき、難渡海を大悲の願船でいく人生の旅を楽しめるようになったことは有難く不思議です。
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苦しいのは真理を知らず、迷った自分ばかりに目が向いているから

2017/09/16 07:05
 人生は苦なり。

 このことを理解していない人がほとんどです。

 この世に生を受けた以上、人生は全てが苦しみなのです。

 なぜなら、迷いの世界で生きているから。

 迷っている中でしていることは全て色や形は変わっていても苦しみだという簡単なことにきが付いていません。

 

 それでも、人は誰かや何かに縋ります。

 一番身近で利害関係なしに接してくれるのは親です。

 そして、その次は高潔な先生です。


 産んで育ててくれているだけでも大恩がありますが、それを当たり前に流している子どもばかりです。こんな子どもたちは不満ばかりで、親に孝行しようとは思いません。何かにつけ親の欠点を見つけては文句を言い、学業や仕事に精進することを願う親を罵倒したりします。嘆かわしいことです。自身が親になり、歳を重ね、親も苦しみにあえぐ一人の人間だということが分かったとき、後悔するのですが、その時は親は生きていないことが多いです。亡くなった親のも墓石に布団をかけて食べ物を供え、供養しても時すでに遅しということになります。


 先生は、保育園・幼稚園の頃から大学院に至るまで、素晴らしい人格方とご縁があれば、これ以上人生を変える機会はありません。ただ、それほどまでに公平で倫理的にも欠目のない人は滅多にいません。そういう先生に出合えたなら、尊敬し、質問を繰り返すことです。そうしたら、何でも応えてくれます。


 ただし、親も先生も限られた命を持ちますし、自分自身の人生の目的を果たさねばなりません。みんな迷いを抜け出すためにあくせくしています。また、親や先生自身が迷いを既に脱け出せたとしても、子どもや学生が抜け出す道をも教えられる人は稀です。自分のことで精一杯だからです。


 このように自分自身はなんと頼りないものであり、親や先生にも結局は人間の苦しみを救うことはできません。ただし、真理に目覚めた親や先生もしくは友だちに接している人は、どのように目覚めたのかを尋ねることが出来ますので、本当にラッキーです。それでも、導き方が上手い人にあたるとは限らないので、自分自身に目を向けるばかりではなく、自身で真理と対峙していく必要があります。自分の力では迷いを抜けられないと力尽きた時、真理が丸抱えしてくれていたということにきづきます。これが自力を捨てて他力に入ったということです。


 迷いの五欲の蜂蜜がまだ美味しい、それが実は毒であり依存状態になっていることにきづかないひとに何を言っても始まりません。自身が迷いの中におり、そこから抜けて真理と一体になることを目指す人にのみ、人生は全てが苦しみであり、そこを生きている今、苦しみのままよろこびとなる世界への解脱が待っています。


 中途半端なよろこびを、親や教師やパートナーに求めても、同じ迷ったもの同士、傷を舐めあうか、余計傷を広げるばかりです。真理との邂逅を目指す人にのみ真の楽しみやよろこびが訪れます。迷ったもののなかでいろいろしても、輪廻の中で形を変えて苦しみ続けるだけです。それをしっかり認識しないとなりません。

 感謝していること
 この世の死んで置いていくものや迷った人たちへの執着や依存は時間の無駄だと知らされてから、スッキリして淡々と生きられるようになりました。


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大切に感じる人と付き合うには

2017/09/15 22:53
 嘘をつかない人だと信頼できないと無理です。

 完璧な人間はいないかもしれませんが、真摯に誠実な生き方をする人は嘘をついたり誤魔化したりはしません。一度でも嘘をつかれたら、信じないでおこうと警戒してしまいます。

  また、煙草や酒などの嗜好品もそうですが、相手がどうしても嫌がることは認めて、止めるようにしたらいいです。大切なひとのためなら、嫌がることは止められるはずです。お互いが尊敬し合うなら、そんな無理な言動は取らない言はずです。

 覚悟して「どうしても、私はそうされると辛いので止めてください」と言った時の反応を見てください。また、その後のその人の態度で判断したらいいと思います。

  無理だと感じるなら価値観や育ちがかなり違うので、上手くいかないです。

 些細なことで目をつぶれることなら、「仕方のない人だなぁ」と何も言わないのに、口に出して言うことがあれば、よっぽど嫌なのでしょう。東洋人は余り自己主張をしません。特に仏教徒は穏やかで非攻撃的です。仏さまはひとが罪を犯しても、罰することはしませんので、そのせいかもしれません。罪はわざとではなくても知らずに犯してしまうこともあります。だから、相手の気持ちを慮って、多少のことは何も言わないのかもしれませんから。


 それから、一つ付いた嘘を誤魔化すために、嘘を重ねて、何が嘘か本当かわからなくなります。言い訳や誤魔化すことも潔くないです。 空気を吸うように嘘をつき、言い訳し、誤魔化すひとと親しくするのは辛いので、よくよく観察して、徐々に関わりを少なくするソフトランディングが本当はいいし、恨まれにくいです。でも、どうしても嘘が嫌なら、話半分に聞いて信頼しなければいいでしょう。心の中で見切るとそういう人なのだと客観的に見られるので少し楽かもしれません。決して直そうなどとしないことです。本人が気づくまで放置して、遠くで見ていましょう。困ったら人は動くものです。困らないから動かないのです。


 奥さまを亡くされた人が、一年も経たないうちに、周りから再婚を勧められたと聞きました。いくら何でも一周忌が済んでからそういう話はした方がいいかもしれません。一人暮らしは寂しくもありますが、気楽でもあります。その気楽な気分に慣れようとしている矢先に、いかがなものかと考えます。

 誰かと付き合うだけでなく、一緒に暮らすとなると、お互いのいいところばかりじゃなくて嫌な部分の我儘で狡いところとか見えてきて、こんなことなら別に住んで時々会う関係の方がよかったと後悔することもあるかもしれません。介護や財産を巡って、互いの親や兄弟姉妹や親せき付き合いなど、色々なところで嫌な想いをするかもしれません。

 このように人間関係はいろいろありますが、嘘をつかないことが一番大切だと私はそう感じます。

 感謝していること

  嘘や誤魔化しを極力避け、色々な方法で嫌な気持ちを引きずらないように出来ています。


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モラハラ被害を避けるために

2017/09/15 22:48
 以下のように感じることがあれば縁を断ちましょう。

 その際、いきなりバッサリ切ってストーカーになられると嫌なので、ソフトランディングとかフェードアウトがいいです。

 話が真っ直ぐに伝わらないと感じる。

嘘や言い訳や誤魔化しや言い逃れを繰り返す。

 謝罪や思いやりのある言葉を掛けることが嫌で、他人がいつも悪いという感じに追い込む。

 自分の手札を出さないのが自分の勝ちだと勘違いしている。

 相手の出方を観察し自分が不利にならない言動を用心深くする。

 後出し、じゃんけんのようなやり口を常用とする。


腐りかけた食べ物と同様に、毒になる人間関係も早めにポイ捨てする見切りが肝要です。

 なぜなら、人間関係も生ものだからです。リアルタイムで関わると有害になると判断したら、いつまでもそんなものに執着・依存していると時間の無駄です。

 戦うか逃げるかしないと心が静かに落ち着きませんが、モラハラをするような奴は戦うには余りにも低俗で器が小さい相手なので、仕返しをするとか謝罪をさせるとかで関わるのは無意味なので逃げましょう。ズルズルと関係を持つことは自尊感情を限りなく小さくして、生きているのさえ嫌になりますから。関わらず、逃げるのが一番です。

感謝していること
モラハラは、自分ばかりではなく、相手にとっても、関わりを断つことが最大の親切であることがコトリと心に落ちました。


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たった一人の後継者を育成するために

2017/09/13 21:03
 もしも子どもにその能力があれば小さい時から仕込みます。

 子どもに恵まれなかった時や、子どもが自分のしてきたことではない道に進んだときは、ほかの誰かに託します。

 それでも、もし子どもがいたなら、親は子どもに期待してしまうものです。小さいころから自分の背中を見て、家にも学べる材料が山ほどあり、ちょっと聞いてくれたら、どんな本を読むよりも早くわかる。こんな佳い環境にいても、そこにいるとそれが当たり前になり分かりません。そういうところに生まれたかった人からすれば、何という幸運かと感じますが。

 素晴らしい父、母を持つ子どもはいつも親の蔭に隠れ、自分の功績が表に出ないので僻むこともありますが、親は子どもが自分を超えてくれる、自分の成しえないことを成し遂げてくれたら、手放しによろこびます。これは信頼して指導した後継者にも言えます。

 自分が万が一のことがあっても、あの子がいてくれるから安心できる。

 こう親や師匠に感じてもらえるのが、親孝行であり、弟子としての使命でもあります。

他界される少し前、病床の父を見舞った先生を普段は感情を表さない方なのに、もろ手を挙げて嬉しそうに大歓迎したという話を聞きます。海外の大学で長年教えていらして、立派になって凱旋された息子の姿をお父さんは一目見て、自分の後を託せると感じられたのでしょう。一人の後継者を30年一代かかって育てたことに感無量だったかと存じます。ほかの誰でもない自身の息子への思い入れは並大抵ではなかったのでしょう。幼少の頃、身体は弱かったけれど、謙虚で仏教好きで真摯な生き方をする我が子の資質を見抜いて、セーフティネットは張りながら、自由にさせていたのでしょう。

 大したことはしていませんが、私がしてきたことを受け継いでくれる誰かが現れてくれることを私も願っております。この願いが叶ったら、後顧の憂いはありません。


感謝していること

 今週は何回もご縁があって、先生とお目にかかることが出来ます。

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苦しみも楽しみも苦しみである中、共に煩悩即菩提を生きること

2017/09/13 19:47
 御同行と信頼関係が深まっていく理由はこれですね。

 この世の苦しみばかりか楽しみも実は苦しみであることを信知して、全てがよろこびのもととなる人生を生きる仲間がいて、そんな話も分かり合えることはとても不思議で有難いです。

 生死の迷いからなぜ醒めることが出来たのか、本当に、こんなことが今生で我が身に起きるなど嘘のような話です。このこと一つ何十年もかけてきて、なかなか疑いが晴れず、申し訳ないと言いながら、本当に疑うことの怖ろしさを身にしみて分かってもいなかったあの頃を振り返ると何と言っていいか穴があれば入りたいよりももっと恐縮しています。

聞法を重ね、何回も今日もダメで、疑いが晴れず、落胆して岐路に着いた日々を通った方々とは、何も言わなくてもその時の気持ちは共有できています。後生が苦になっても、誰も信用できないし、仏さまのことは疑い続けて、長いこと、闇を抱えて、どうにもこうにもなれない状態でした。

無明の闇を自分で晴らすことが出来なかったと知らされ、御仏に常に護られる身にさせていただいてからも、煩悩で苦しみますが、死の不安が無くなったことで、煩悩の雪が陸地ではなく海に降り積もらないような感覚です。あ縁の方には御仏のお話もさせていただくこともできます。何と幸せなことでしょう。

迷いの中にいると、人生には楽しみがあると錯覚してしまうようです。迷いから抜けた世界から見たら、楽しみと思うようなことも苦しみであることにきがつかず、五欲を追い求めて一生を終えていきます。

仏教では有無同然といいます。何かが有っても無くても苦しみに変わりはありません。有るひとは金の鎖で、無いひとは鉄の鎖で縛られていると譬えられます。

そんなことを分かり合える尊い仏縁のある友だちは私のかけがえのない無形の財産です。

感謝していること

煩悩は消えることはありませんし、自分の作った悪業で苦しみ悩むことには変わりませんが、お蔭さまで、あらゆるものに恵まれて、御仏のお話までさせていてだけます。有難いことです。


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老若男女に関わらず今救いを求めるひとに向けて

2017/09/12 11:32
 今救われたいんですよね。

 確認ですが、他の誰かがどうこうってことじゃなくて自分が救われたいんですよね。

  それなら、今抱えている問題の根本にあることにきづいてください。

 自身が迷っているということです。

 仏教ではそれを六道輪廻と言いますが、そこから脱け出さない限り解決は得られません。

 

どうすれば迷いから覚めるかといえば、次の二つです。


自力(自分の力)は一切、間に合わなかったと知らされること。

他力が私を包み込んで永遠に救われたと知らされること。


一念という、本当に短い時間で救われます。

頭の良し悪しではありません。文字の読み書きが出来なくても救われます。年齢も、男女差も、国籍も、宗教も全て超える世界があります。

人生が客観的に考えられるなら、3歳の幼児でも救われます。実際、4つや6つで救われた子どもを私は知っています。80,90になっても迷いを迷いと分からず、五欲に翻弄されている老人も知っています。

私自身が物心ついた頃から、人生の儚さや人間が煩悩で苦しんでいるのを何とかできないかと必死にその解答を求めていましたので、いまここで救われたいという気持ちはよくわかります。何か勉強してとか、何度も話を聞くとか、徐々にとか悠長なことなど言っていられない切迫して気持ちも分かります。何らかのお手伝いが私にはできるかもしれません。

感謝していること

自分が目覚めただけでなく、かつての自分と同じような心境にあるひとの力になれる学びを続けていられることに感謝します。


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お互いを憶い合うとき・・・・・・

2017/09/11 17:53
 最近、友だちがこの夏に20日間、病気で入院していたと聞いて驚きました。ほぼ3週間もの長い間、どんな気持ちで毎日過ごしていたのかと思うと胸が張り裂けそうでした。今は退院し、病気も薬も要らないようにまで回復したそうです。

 ちょうど論文の締め切りで忙しいときでした。もし、入院を知ったら、お見舞いに行っていたでしょう。おそらく、そんなことをするより論文を書いて欲しいという気持ちで、私に入院のことは伝えて来られなかったのだと拝察されます。そういう健気で自分を後回しされる方です。

入院中はかつて差し上げた仏教の書籍を拝読されていたそうでした。お役に立てたのなら幸いでした。知らずに、たまたま、また新しいものを研究の合間に送らせて頂いたら、それもとてもよろこんでくださったようです。

 大切なひとにはその人の使命が果たせるように、好きなように自由に生きて欲しいと願っています。自分の言動で、相手の成長や成すべきことを止めてはならない。もし、助けて欲しいと言われたら、出来る限りのことはするけれど、そうでないときは、そのひとの力を信頼して黙って蔭で見ているのを私は常としています。

 どうしても、これは告げなければならないということ、そうしなければ、信頼関係が崩壊寸前の時にだけ、何か言うことがあるかもしれませんが、ほかは放っておきます。もし、そんな覚悟で何か告げても、謝罪もなく言い訳されたり、はぐらかされたり、誤魔化されたりしたら、黙って身を引きます。もうお終いにします。ある意味これは一番辛く厳しい選択ですが、お互いにとって最適であると割り切っていますので。まあ、こんなことは生涯に数回でしょうが。

 このように誰かを大切に感じているとき、一方で、助けてくれと言われたら助ける、誰かが他界したお悔やみを言うなどの言動に表すとき、ただ、資料を教えるときはすぐ行動に移しますが。他方では、何か言いたい、助けたいけれど、敢えて何の言動も取らない、ただ見ている、距離を取る、黙って身を引いて二度と関わらない等いろいろな方法が考えられますし、それぞれの選択をしてまいりました。

どちらかというと、私は内気で引っ込み思案な気質なので、後者を取る場合がほとんどですが、余程の時は覚悟を以て何かの言動を取ります。言いたいから言うのでもなく、言わないで済ませるために言わないのでもありません。いつも熟慮の上どうするか考えています。それでも、真意が汲み取ってもらえているかどうかはわかりませんが、それは仕方のないことです。長いこと考えて、思い切って行動に移し、精一杯したことについては後悔することはありません。

感謝していること
お互いに相手の使命を考えて、自由に生きることを念じ合える関係でいられることは本当に有難く不思議でなりません。


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見えないもの、形のないものを信頼する能力

2017/09/11 15:49
 本当に信頼できるものは目に見えず、形のないものです。

 真理との邂逅はこのような形で訪れました。


 家族・パートナーの慈愛にせよ、師弟関係にせよ全部最後は絶対にこの人は裏切らないという確信が持てた時、本当の意味の信頼関係が完成します。たとえ裏切られたとしても、何らかの考えがあるのだろうからそれは甘んじて受けられるという気持ちになったことも加えてもいいでしょう。


最終的には共に真理との邂逅を済ませた人たちなら、目に見えない信頼関係を構築することは比較的に容易いでしょう。そうでない場合でも、これに準じる関係を築くことはできます。ただ、何十年もの長い間、疑心暗鬼を繰り返さなければならないかもしれません。それでひとは人間不信に陥り、本当にホッとする瞬間を獲られないまま、一生を終えていくのかもしれません。全く残念なことです。


物質的な三次元の遣り取りで、信頼関係を造り保つことはかなり困難です。言動や物やお金の遣り取りで判断すると、誤解も生じやすいし、利害関係の波に翻弄され常に疑い続けることが止まりません。元々ひとは自由なのに、家族やパートナーや弟子がほかの人と仲良くしているのが気に入りません。本人が何かを獲て、幸せそうにしているならそれをよろこべばいいのでしょうが、自分だけのものだという幻想や縄張り意識が邪魔をして嫉妬に狂い、相手に問い質し、糾弾します。


見えないもの、形のないものであるものも含めた相手の心身の全部を許容して、相手を許すことであり、認めることでもあり、何があっても、何をしても信じ切る意思なのかもしれません。真理との邂逅では、それが当然、当たり前、空気のようなものとなっているので、それが出来たひと同士にとっては、比較的簡単に、信頼し合えます。元々真理の前に失うものなど何もなく、相手がよろこぶなら、また別の機会で別の使命があるし、今生ではもう命すら惜しくはないからです。

感謝していること
空気のように信じられるものとの邂逅が出来たことは、本当によろこばしいことであり、有難く不思議です。


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人生折り返しからの仕事とは

2017/09/11 09:12
 後進を育てることです。

 もちろん、まず、それは自身の子どもです。

 子どもがいないひとは、どれだけ自身のなしてきたことを理解し、

自身を超える研究や仕事をする人材を育成するかです。


 指導者や研究者の後継者や弟子のようなひとたちを見れば、後の世にどのように本人の業績多伝わるか見当がつきます。バトンを受け取った人たちが、師匠の業績を認めていたなら、まず、先生の業績を残すことから始めます。それが十分済んだところで、少しだけ自説を展開します。それをまた弟子たちが今までの全てを紹介しつつ、また最後に少しの自説や時代に合致した事柄などを加えます。

 このように上手く人を媒介に循環すると業績・研究そのものは、より分かり易く、時代に適用しつつ、膨張・拡大していきます。

 ここで注意しなくてはならないのは、人との関わり合いです。上に立つものが、自身の研究を後身にわかりやすくシェアする能力を身に着けることです。この能力は信・知のほかに徳や熱がいります。この人間的な部分に年少者が惹かれます。

 ただ何も考えずに歳を重ねるのではなく、人徳や情熱も身に着け、有能な後継者が育つようにしっかり生きていくことが、人生の折り返しからの肝要な仕事となります。これが自身の使命を果たす上でも重要になることを多くの偉業を為したひとたちは知っています。


感謝していること
素晴らしい指導者に私は恵まれているので、先生方の研究をよく受け止めて、紹介してまいります。加えて、自身も師匠のような人格に少しでも近づけるよう精進いたします。


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何かが終わって始まることの繰り返しの中で

2017/09/10 07:54
 昨日は800人の観衆の中で3分間、自分のパートの研究発表をしました。

 あっという間でしたが、準備は大変でした。

 「ゆっくり、はっきり話せててよかったです。」と先生よりお褒めのお言葉を賜り、驚く場面もありました。

 
 近い将来、頻繁に、きっと、また、たくさんの人の前で話すことになる予感がする。

 縁があるひととは引き合う。

 そうでないひととは離れる。

 淘汰されていく。

 それでいいのだ。

 無理は佳くない。

 にこやかに笑って、束の間の優しいひとときを味わいたい。


 感謝していること

 調査をまとめて、原稿を何度も作ってくれ、終始励ましてくれたパートナー、そして一緒に研究報告の苦楽を共にした先生やお仲間に心より感謝します。発表会主催者の方々にも厚く御礼申し上げます。有難うございます。


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まるで地獄のような人間の世の中に絶句

2017/09/10 07:48
 幼少の頃から人間がわざと自分の心と違うことをすること見聞きして違和感を覚えておりました。

 なぜ心に反すること、全く違う言動をするのだろう。

 わざと他人が嫌がることをしたり、言ったりするのだろう。

 全く非生産的で、誤解を招き、周りの雰囲気をずたずたに壊しかねない行為を、空気を吸うようにするのだろう。




 私はただ穏やかな気持ちで笑って過ごしていたいだけです。

 

 意地悪な人や感覚の違う人とは距離を取っていこうと気持ちを新たにしました。

 もう私に残された人生はそう長くないだろうし、それなら、思い切って今までしたかったこと、書きたかったことを前面に出して生きたらいいのではないかと考えるようになりました。




 モラハラ、DV、虐待等様々な心身への暴力が問題化されています。

 特に抵抗できない子どもたちが多く被害に遭っています。

 物心つかない頃から、暴力に晒され、心身が痛い状態が慢性化すると、痛みが感じられなくなります。そして、周りにも同じように暴力を行使するようになっていきます。これが暴力の連鎖です。




 一方で、障害を持った子どもさんたちを温かく養育する親御さんの想いにも研究をご縁として接することが出来ました。形には見えない心の交流をされるところまで魂の成長が進んでいらっしゃるのを間近で感じださせていただき、人間の世にもこういう状況もあるのだと驚きました。親子共々、魂のレベルが高い人たちが、私たちに生き方を教えてくださっているのだと痛感しました。

 ただお互い笑っていられたら、優しい言葉を掛け合えたら、何も話さなくてもただ一緒に居られるだけでも構わない。名利よりもただ今を生きることに必死になれるひとたちとの邂逅でとても元気をもらいました。




 慈愛溢れる子どもたちの居場所を一日も早く作らなければならないという思いを何年も前から温めてきました。論文を書いたり、仏教の勉強やほかのことで先延ばしになっていますが、同時並行でしていかなければならない緊急の問題でもあります。

 女性たちに向けた真理との邂逅を軸にしたブレない自己受容・自己解放のワークショップも何らかの形で計画して行く所存です。

 

 経済的に恵まれて何不自由なく暮らせても、殴られ、打たれ、暴言を浴びせられ、人間としての尊厳が破壊されているような生き方は地獄と同様に辛く痛いです。

 熟慮の上、出来ることを実践してまいります。

 感謝していること

 助けてと声を挙げたら、すぐに救いの手を差し伸べてくれる方が周りにいてくれることは有難いです。 


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泥を落とした本音は自分の言葉でたどたどしく語られる

2017/09/10 07:43
 伝えなくてはならないけど、ずっと言えずに、でも、出来るだけ相手に誤解がないように傷つけないように決心して話すとき、たどたどしい話し方になります。時々言葉に詰まったり、同じことを言ってしまったりもします。たぶんそれは、どこかの本やネットなどで仕入れてきた知識ではないからです。他人の考えたことや書いていたことなら、すらすら言えますが、自分の言葉となるとそれが真摯で誠実かどうかを自分が責任を取らないといけないから慎重になります。私は声も出なくなったりします。

 

そうしてやっと語られた本音をはぐらかされたり、誤魔化されたりしたとき、たぶん人は心を閉ざすのでしょう。あえてもう無理とか関わりたくないとか言わず、そっと身を引くのでしょう。

上辺だけの耳触りのいい言葉の詰まった論文や講演に辟易してきました。相手を傷つける煩悩まみれの本音の攻撃も痛いです。依存・執着・嫉妬から離れた自分を後回しに出来る心境は真理との邂逅が出来て、それを慶び、他人にも伝えようという人にしかありえません。真理との邂逅はある意味、難しいですし、また、邂逅が出発点であり、そこからまたいろいろなことが知らされ、更に精進しようとする気にもなります。

感謝していること

周りを眺めると、人生は苦なりを実感しますが、私自身は根本的な人生の問題である生死の解決が真理との邂逅で出来、あとはもう死ぬだけなので気が楽です。

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妙好人が佳きひとで美しい訳

2017/09/09 08:52
 それはほとんどの妙好人自身が、学識や文才に恵まれず、本人が語ったことではなく、それを研究する仏教学者などによって彼らが表現されたからではないでしょうか。脚色も混じり、知らせたくないことは触れられずにいることでしょう。

 彼らは逸話や短歌や様々な名言などと共に石部金吉や二宮金次郎のような一生を送ったとは信じがたいです。

 阿弥陀仏に救われると御恩報謝の念仏を称え、悪いことを慎むようになるかもしれません。でも、救われたひと、皆が皆、御恩報謝に明け暮れ、出合う人みんなに親切だったかというと甚だ疑わしいです。

今研究している私の先生の家系は代々篤信の家であり、目の前の先生はほとんどが聖人のようですが、完璧に近い中にも、人間味もあり弱さも正直に話されます。お父さまを尊敬されてはいますが、独自の研究や布教の道を歩んでこられました。お父さまへのライバル意識や構ってもらえなかった寂しさなどもいろいろ感じて来られたことと存じます。それは決して口にされない高潔な方ですが、先生のお姿を拝見し、近くでご教示いただくと、こんな自分でも布教や研究を続けてもいいのだと安心いたします。

しかし、先生には深いお考えがあり、先生が余りにも完璧な姿を見せるとが私が自分とは違う人だと恐縮してしまうので、横綱相撲のように隙を見せてくださっているのかもしれません。それは私には計り知れないことです。

  先生のお父さまは、「妙好人は毒だ、妙好人のようになろうとするな」と自身の会のひとたちに会報誌で書かれ、戒める言葉を仰ったようです。わたしにはそれが本当だと分かります。人間には弱さも狡さもあり、人間である限り煩悩が続き無くなりません。阿弥陀仏に救われて、徐々に酒の酔いから醒めるように悪いことを遠ざけるようになっても、縁が来たら、救われたことなどどこかに飛んで行ってしまい、煩悩のままに振る舞います。それを十分に知っておられるお言葉だと拝察いたします。

それでも、妙好人の方々は多くのひとに影響を与え、救われる機縁となり、今でも彼らの言葉は光を放っています。彼らに仏教や他の学識があり、自身が文章を書けたとしたなら、先生のお父さまのような文章を書かれたことでしょう。また先生の様な温和で優しいまるで良寛さんのような子どもの心を持った指導者でいたかもしれません。

 これはもしもという仮定なので、それはなかったですが、信、学、徳全てが揃っていたとしたら、妙好人ではなく善知識と呼ばれる人になります。

明治・大正・昭和を日本中を全力疾走した先生のお父さま、昭和・平成を世界各国でも堪能な語学を駆使し大学等で講義をし、翻訳に従事された先生は自ら文章をしたためる妙好人でもあり、善知識であると私には感じられます。能力に乏しい私ですが、先生の恩跡をしっかりついてまいり、使命を果たします。

感謝してること

 研究が進むにつれ、先生や先生のご先祖に対する尊敬の念が強く深くなってまいりました。お出合いは不思議で有難いです。
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信頼関係の築き方

2017/09/08 22:50
 初めはいつ嫌われるのか、見捨てられるのかと疑い、計らい疑心暗鬼にもなります。だから、わざと相手が嫌がるようなことをして試したりもします。そんなことをしても、嫌わず、見捨てずに許してくれるひとを徐々に信頼できるようになります。人生の始まりの時期、母親や身近で世話をしてくれる誰かとの関係の中で、そこからひとはこれらを学びます。

 やがて、庇護してくれるひとたちとベッタリくっついていたのが、徐々に姿が見えなくても見えない糸のようなもので繋がっている安心感が培われてきます。成年になり、家を出て、下宿したり、自身の家庭を以て保護者から遠く離れても大丈夫な信頼関係が築かれています。

不幸にも、人生の初めでこのような信頼関係が築けないでいる人が最近はかなり増えているようです。「育ちがいい」と称される人たちは、幼少期の親やそれに準じる人たちとの関係が上手くいって、自立がスムーズに進み、保護者以外の人たちに対しても信頼関係にすんなり入っていける人たちです。

  可愛がられ、愛でられ、慈しまれることを経験したひとたちは、他人を素直に信頼できますが、そうしたことを経ないで大人になった人たちは、ひねくれ、ねじくれ、羨み、嫉妬深く屈折した態度を取ります。そんな人同士が寄り添うと苦しいことは苦しいですが、なんとか耐えられます。

でも、片方が慈愛に溢れた体験をしてきたなら、そちらに合わせて、素直にならないと、嫌がられ逃げられます。おそらく、モラハラ・DVの加害者と言われる人たちは、幼少期のつまずきを克服できずに、大人しく我慢強い慈愛溢れるひとたちに甘えています。相手に依存し、執着し、誰かにとられないかと嫉妬に苦しみ、弱みに付け込んで、泣かせ、悲しませ、傷つけ、最後には我慢の限界が来て、相手は耐えられなくなり逃げます。

 優しい方、楽しい方に基準を合わせていくほうが、過ごしやすいし、自分に嘘をつくことなく自然に生きられます。ひととひとは親兄弟や親族や師弟関係以外では、どちらが上か下かという上下関係でもなく、優劣もなく対等な存在だと認め合えた時から、その関係がスタートします。

 このことがふっと分かると気持ちが楽になり、信頼関係が築きやすくなります。
所詮人生遊びです。役割にこだわって威張ったり、誤魔化したり、嘘をつくと周りから人がどんどん消えていきます。そんなものです。

感謝していること
ひとよりも頼れる真理との邂逅が生きている内に出来たことは不思議で有難いです。


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誰かに何かして欲しいことも、自分がしたいこともありません

2017/09/08 09:30
 今生での私自身の望みは叶い完結したので特に何も要りません。

 何時臨終が来ても大丈夫です。

 

 対人関係に対する考えも大きく変わりました。

 自分がしたいというだけで、誰かに何かをすることも止めました。

 相手が望むことや役に立つことを熟慮し、その上で自分が出来る範囲のことに限定しています。だから、自分以外の人に何かをするときとても勇気が要ります。行動に移す前に入念に計画を立てて実行します。本当に役に立ちそうなことだけ厳選して、短い時間で、ピンポイントでするよう心がけています。

 執着も依存もましてや嫉妬もどんどん遠く離れていく感じです。

 お礼も感謝も要らないし、ただ目の前の人の幸せを念じています。

 

 なぜだか不思議ですが、今も今後も安定した生活が続く気がしています。

 指導者や家族や友だちにも恵まれていて、不足はありません。

 淡々と生きていても、今後、新たに素晴らしい出合いがある予感もしています。

 どんどん淡白に要らないものがそぎ落とされてシンプルで疑いも計らいとも無縁な愚直な生き方にシフトして行く感じです。


感謝していること

 真理との邂逅の後も、あれこれ悩み苦しんでいた私を常に穏やかに優しく言葉少なにご自身の生き方や研究を通してご教示してくださる仏教の先生に感謝しておます。


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メンターや先生や先祖・両親から受けた御恩

2017/09/07 12:42
 陰に陽に懇切丁寧に、ご指導賜ったメンターや先生方。
 何代もに渡って私に生き方の方向性を示してくれた両親・祖父母以前の方々の薫陶があればこそ、今の私があるのだと、私の仏教の先生についての論文の研究を通して深く強く感じられました。

 若いころからメンターには恵まれて、色々なことを丁寧に優しく教えていただきました。何も見返り求めず、子どもや孫のように人生で必要なことを示して見せてもらいました。怖がりの私にはそっと、優しく微笑みながら、ご自身の持っているものを伝えてくれるメンターの方々の思い遣りが嬉しくて、私もいつかはこの方々たちのように生きようと決めていました。

 大学以降に指導を受けた先生方も出し惜しみすることなく様々なことをご教示くださいました。また、まだ解明されていない、いろいろ難しいことや、問題点なども、時には対等に話をさせていただいてきました。分からないことは分からないと誤魔化したり言い訳をしない真摯な態度に心を打たれたことが何度もあります。
 
 研究では、先生のお父さま、お祖父さま、曾祖父さま、高祖父さまのことが調べている内にいろいろ分かってきました。お父さまのことは、書籍などで少し存じ上げておりました。その文章の中でお祖父さまのことも書かれてありました。お二人のお連れ合いの素晴らしいことも存じ上げておりました。さらに文献をひもとくうちに曾祖父さま、高祖父さまも全てが篤信の方で親孝行であったことが判明しました。おそらくそれぞれのお連れ合いも立派で仏縁の深い方々だったと存じます。

 私は明治生まれのおばあちゃんに可愛がられ育ちました。おばあちゃんは栃木の生まれで、両親が離婚したため、父方のおばあちゃんに引き取られ育てられました。この方は私にとったら高祖母であり、彼女は武士の娘で教養があり、仏教やほかのいろいろな話をおばちゃんにしてくれたそうです。それをおばあちゃんは私にも話してくれました。
 先生の家のように篤信の家系ではありませんが、おばあちゃんと一緒にいる何気ない対話の中で、私の人生の方向性、すなはち、仏教に本当の生まれて来た目的があることが知らされました。

感謝していること
 仏教の教えも、釈尊や七高僧や親鸞聖人・蓮如上人そして、今の先生まで教えが受け継がれてきたからこそ、真理との邂逅に有難く不思議とよろこんでいられるのだと感謝せずにいられません。
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信頼関係が進化していく方向

2017/09/06 08:09
 相手自分に憶うこと言うことしてくれることの何もかもが全て自分のためになることしかしないのだと信じて疑わなくなること。絶対的な信頼へシフトすることが目指す方向だと感じます。説明の言葉は要らなくなります。時間があれば話をしなくても、ただ一緒に居られるだけで嬉しいひとでいられるようになります。同じ使命を持つならその進み具合を話し合い、報告するくらいかもしれません。気持ちは表現しなくても分かり合えていきます。
 
なぜこんなことをするのだろうということがあれば、気になれば聞いたらいいけど、それもだんだん必要が無くなり、一々説明しなくても、大丈夫になるでしょう。蔭で何かしてくれたとき、それにきづいたら感謝の気持ちを述べ、万が一、止めて欲しいことがあれば「止めて」といえることなのでしょう。そんなとき、相手は言い訳をせず、あっさり、「嫌なら止める」と答えるでしょう。でも、何か考えがあって自分にはきづかないだけでしてくれていることもあります。そこら辺がお互い見極められ、尊重・尊敬しつつ信頼できるひとじゃないと関係の持続・構築は無理かもしれません。疑いは初め小さなものでも徐々に大きくなっていきます。相手をとことん信じ、疑わず、手放す練習が信頼関係を強固にしていくことなのだと最近は感じます。

いま・ここのお互いを感じ合えたら、優しく温かく包み込めたらほかは何も要りません。理屈も言い訳もプライドも自我も全部捨てて、小さい時の友だちのように、その場その場で、無心に遊べて、見返りも求めずにいられるようになります。何にもまして、その時その場で一緒に居る相手がただただ愛おしいだけ。余計なものをこそぎ落としてシンプルにうたがい、はからいを捨てて、愚直に相手との時間が嬉しく慶べるようになります。

メールやラインは連絡事項や待ち合わせのとき便利ですが、ほかは物理的に遠く離れて逢えない人でも、信頼があればいらないかもしれません。絶対的な信頼があればお互いに疑心暗鬼にはならず、各自が自分のことに専念できる気がします。信頼できているからこそ、あっさりとして淡白な関わりかたにシフトしてのではないでしょうか。たとえば嬉しいことがあればおめでとうといい、時間が持てたら、黙って綺麗な景色を見たり、一緒に美味しいものを食べたり、不遇な時も一人で克服できることを信頼して、黙って見護るか、別の話で和むなどの慰め方もあります。

感謝していること
御仏、先生、親はもちろんのこと、私が嬉しいことや成長できることしかしないと全面的に信頼できる友だち全てに感謝します。
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これ以上進めないとき先生がいてくださる

2017/09/05 17:24
師匠というのは親と同じくらい有難いです。

 研究が進まず、どうにもこうにも辛くなったとき、
先生が教えてくださったことを思い出します。先生とお出合いして過ごした日々が頭の中をぐるぐる回ります。いろいろ励ましていただいた優しい先生のお言葉が思い出されます。

 先生のお父さまも、ご自身の先生を尊敬していらっしゃっていて、そのようなことが書かれている文章に触れると、先生が私に心を掛けてくださっていることがまた知らされます。

さらに、同じ憶いで一緒に先生の教えを受けている友だちも有難く、思い出されます。
先生はみなに同じようにお心を掛けてくださいます。ご自身に子どもさんがないので、ひいきすることもなく平等に私たちに接してくださいます。
先生はご自身の研究を続けられ、私たちの研究の指針になるよう生涯現役でご指導くださっています。まだまだ、足元にも及びませんが、先生のような教師で私もいたいです。

感謝していること

 何の不思議か先生や仏縁の深い友だちに遇えたことを感謝しています。


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自分の未来にその人がいて欲しいかどうか

2017/09/04 09:10
 ひととのいま・ここの関係はどんな類のものでもこれに尽きます。
 誰かとこれからも何らかのかかわりを持ちたいなら、そうなれるように真摯に誠意を尽くした方がいいです。信頼関係は本当にわずかなことを積み上げていくうちに強固なものに徐々に変容していきます。

 反対に、誰かとの関係を終わりにしたいなら、そのひとの大切にしていることにことごとく反論したらいいです。そのひとが辛い・悲しいと言っても、そんなことはどうでもいいし自分には関係ないとうそぶきます。そうしたら、今まで少しずつ構築してきた信頼関係も一気に音を立てて崩れ去り、あっというまに破綻します。

 一つの判断基準として、産んで育ててくれた親に孝行するどころか、あれやこれや文句を言って反抗する甘えた子どもの態度を成年以降も抜け出せないひととの未来は考えない方が賢明です。親に何かしてあげたいと自発的に思えないひとは、ほかのひとに対しても反抗的で搾取するだけで自分から何も与えようとはしません。
 その人に、非常にショックなことがあり、甘えてばかりで、相手に何もしていないことにきづいた時から、新たな関係が再構築できますが、そこまで行くのに大変な時間がかかるかもしれません。

 ずっとそばにいて欲しいひとに冷たくして、どうでもいいひとの機嫌ばかり取って、結局孤独な人生を送っている人たちをたくさん見てきてそう感じます。

感謝していること
 損得抜きにして、素直に自分にとって誰が大切なのか考えられるのが嬉しいです。
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気持ちを受け止める

2017/09/04 08:11
 自分にとって不都合なことを言われた時、言い訳をしたらもう関係は終わります。

 相手よりも自分の立場を優先し、保身に走っていることを露呈してしまったからです。

 もう二度と相手は心を開かなくなり、これを境にどんどん疎遠になっていきます。


その捉え方はあなたの勘違いで自分にはこういう言い分があると反論して反対に相手を責めようとか、どちらが正しいとかという観点での対応は学問や議論の世界です。

 個人的な関係では、謝罪や勝ち負けを要求などはしないものです。ただ、相手との快適な温かい関係を保ちたいだけです。

 目の前の大切な誰かに自分の気持ちをきづいて欲しいから、敢えて言いたくないことを言っているのです。また同じことをして欲しくないし、そんなことが積み重なったらもう姿を見るのも嫌になりそうだから。本来、誰だって嫌われたくないし、表面上穏やかに差しさわりのない関係を維持している方が楽ですが、今言わないといけないと何かに背中を押されて言う時が一生の間何度かあります。


その反応として、言い訳よりさらにもうひとつたちが悪く関係性の破たんを招く言葉があります。

「自分とは関係ない」

「あなたには関係ない」

これは相手との関係を敢えて断とうとしているときに使う言葉です。一度口にしたら修復不可能で、決して言ってはいけない言葉です。人間性さえ疑われる冷たく非情な言い方です。これからまだ、そのひとと何らかの関係を保ちたいなら死語です。感覚としては「黙れ」とほぼ同等のレベルです。


 それならどんな風に言えばいいかというと、シンプルにこれで構いません。

 そうだったんだ、きづきませんでした。

 言いたいことは分かりました。そういうつもりはなかったけどもうしません。


 言い訳の伴う正しさなど誰も求めてはいません。

 目の前の人といかに真摯に向き合うことができるか、一瞬、一瞬の、今ここの、心の触れ合いを積み重ねていくことが肝要です。

 人間関係は同じようなひと同士の中で高め合い、共感、共鳴し合えるのでしょうね。

 感謝しいていること

  仏教の研究をしているといろいろなことが知らされます。日常の様々なところに学びがあります。


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自立なんてできないのに・・・・・・

2017/08/29 07:12
 人間は自立が出来ないからろくでもない配偶者などに依存・執着してDV・モラハラなどの被害に遭って命まで奪われるのに。

 それでも自立しろと勧めるひとたちがいます。

 それは無理な話です。

 依存・執着を手放すには自分を信じるというより、真理に身をまかせる邂逅の体験を経ることです。自分の力は間に合わなかった、あてになどできなかったと知らされたところに本当の救いがあります。


 誤った考えを信じて、一生を棒に振る前に、他人や自分といった不完全な人間ではなく、真理を求める方向にシフトしてください。

 ひとも自分も縁があれば何をするかわかりません。迷いの凡夫ですから。

 人間の頼りないところに目を付けるよりも、真理とつながり、本当の意味での安心満足を体験してください。そうしたら、自立というより、真理と一体化した境地を楽しめますから。全てはつながっているのです。そこまで求め切ってください。

感謝していること

 何が正しいかそうでないかは迷った二元論です。救われた安寧の世界をよろこんでいることが大切です。


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自分の気持ちに素直に生きる

2017/08/28 09:28
 嫌々何かをするのは止めました。
 
 嫌なら黙って身を引く。
 苦手な人を無理に変えない。
 怖れや怒りを隠し持つ人には自分から関わらず、ひたすら待つ。
 誰かの都合のいい人にはならないで、仏教の教えや、自分の倫理観に基づいて生きる。
 
 本気で生きていきます。 
 私に残された時間はもうすぐ終わるので。
 生き切ったという日々を重ねていきます。
 自分を愛おしみ、ひとも同様に。

 いま、ここを生きていきます。
 泥やあくをさらに落として、このまま、ありのままで生きても気持ちがいいすっきりした状態に持っていきます。

 感謝していること
 周りの人たちが私に余分な泥やあくの落とし方を懇切丁寧に教えてくださいます。
 
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お誕生会

2017/08/28 08:37
 日本人の私はお誕生会をしてもらったり、年に何度も企画したり参加したりしてきました。それが当たりまえで、普通のことだと思っていました。
 ホールケーキにろうそくを立て、ハッピィバースディの歌を歌い、プレゼントを渡し、開けてもらい喜ぶ顔を見て、ご馳走を食べながらおしゃべりする。何でもない流れの温かい空気の中、笑いが絶えない会がお開きになります。
 企画は一人でする時と何人かでするときがあります。誕生会は祝われる本人も楽しみですが、企画する者たちにとっても、どうしたら喜んでくれるか作戦を立てる楽しさがあるのです。
 
大好きなあの人のお誕生日を一緒に祝ってあげたい。また一年幸せでいて欲しい。日頃の感謝を伝えたい。そういう気持ちで一緒に時を過ごします。外国人にはまたそれぞれの地域でお祝いの仕方が異なるのでしょうが、お誕生日を迎える本人をただ愛おしく大切に想う気持ちは万国共通でしょう。
「会いたかったの♡〜」「私も」
「理由なんてないよね。友だちだから一緒に居たいんだよね」「うん」
友だちは私にとって宝物です。

感謝していること
お誕生日を祝い、祝われるのは甘美で嬉しい時間です。真理との邂逅が済んで、心から両親や祖父母に私が生まれるご縁になってくれてありがとうと感謝できることをよろこんでいます。
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こういう先生でいる

2017/08/28 08:19
 今の研究を終え博士号を取得したら実際教える先生として働きます。

 大学生相手ばかりではなく、幼児や小学生の先生かもしれません。

 教員資格としては幼稚園と小学校のもので、理論は専ら幼児教育を叩き込まれました。公立の幼稚園に実習に行き、自らの子どもも公立の幼稚園に入れ、評価しない幼児教育が肌身に染みいています。

 日本だけではなく、依頼された国々で通訳をしてもらい、世界中の大学や幼児教育の機関で教えているかもしれません。どこかの国で学校を経営しているかもしれません。

 このまま、ありのままで自分を誤魔化さず、ひとにも嘘をつかなくていいのは教員であるという気がしますので。

  私は学生や小さい子どもたちの一生懸命な瞳からくる眼差しに惹かれます。

 吸い込まれてしまうのではないかという瞳は逸らすことが出来ません。

 子どもたちや学生たちからこういう眼差しを向けられたら放っておけません。

 幼児や小学校低学年の子どもたちは、自分の知っていることを顔中口にして教えてくれます。そのうち仲良くなると、自分の家族のことなどを話してくれるようになります。

 「先生、そういうの知らなかったの。教えてもらえてうれしいわ、有難う」

 「そうなんだ、素敵な親御さんね」

 「そうか、怒られちゃったの。せっかく喜んでもらおうとしてたのにね、気持ちが伝わらなかったんだね。辛いし、怖かったね。先生が頭撫でてあげる、よしよし、もうこれで大丈夫」

大学生・院生の成績はほとんどAで、無回答や出席が足りない人にはほかの評価をにします。彼らの答案の行間まで読み取ることは不可能だからです。同じ大人同士として彼らを評価することは私には出来ません。

 講義中や終わった後や、レポートやメール等でもいろいろ知らないことを教えてくれるのが楽しみです。中には私を信頼してなのか、自己開示をしてくれる学生もいるかもしれません。宗教家やカウンセラーとして出来る限りの話をする所存ですが、成績をつけた後に答えるつもりです。

 もし学生が、私の講義を聞いてやる気が出たり、前向きになったりしたらそれだけで感動ものです。自己開示をしてくれたなら、何とか心に寄り添ってあげたいです。よっぽど潜在意識で、苦しいか辛いのでつい口にするのでしょうが、本人は心に蓋をしているので顕在意識ではきづいていないかもしれません。

 ただ、他人に自分の心の内を話すだけでも、抱え込んでいる状態よりはずっと進歩していますから。蓋が緩んだか、入れ物が割れてそこから本音が少しずつ漏れ出ているのでしょう。自分の気持ちにきづく兆候のようなものが見て取れます。その時の縁を逃すとまた蓋も閉まり、穴も塞がってしまうかもしれません。そういう残念な状態にならないように、何か役に立てたらと存じます。

 ほとんどの学生は幼児や小学生と同様に洗練された本心など表現できません。泥だらけの本音を平気で持ってきて、綺麗にしてくださいと差し向けます。教師が試されているのです。落としてやるのではなく、落とし方を教えるのが教師の役目です。時には一緒に考えます。

 もしかしたら教師よりもずっと素晴らしい落とし方を学生が見つけるかもしれません。それがベストです。そうでなくても、自分で分かったという方向に持って行くのを助けるのが教師の仕事です。就職や様々な相談にも自分の人生経験や知識を総動員して、対話を通して考えます。

 こんな先生になるために、今学んでいます。

感謝していること
 今までお世話になった恩師を思い浮かべながらこの文章を書いています。何人もの先生たちから真摯な生き方を学ばせていただきました。


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自分以外のひとを想う深さの度合い

2017/08/28 08:13
 互いに求める気持ちの深さがお揃いでないと上手くいかないのかもしれません。

 あるひとが結婚してすぐに妻にこう言ったらしいです。

「もし、あなたが不埒なことをしたとしても、私は絶対離婚しませんから」

 こういう深遠な信頼関係もあるのだと知らされショックを受けました。

 好きだとか愛しているという次元を超えている気がします。

 このひと以上の相手は世界中どこを探してもいないと確信した言葉にも受け取れます。

 言われた方もそれほど信頼されているなら私も真摯に連れ添っていこうと覚悟を決めたことでしょう。

 

 夫婦ばかりではなく、師弟関係でも絶対的な信頼関係が築けたらどんなにいいか分かりません。出合いは不思議です。いつどんなときに大切な誰かに出合えるか分かりません。

 そういう機会を大切にし、初めだけではなく、お互いに、その時感じ合えたお揃いが保てるように精進して行けたらと存じます。

感謝していること
 佛さまは私の心の奥底まで見抜いていらっしゃいますが、絶対見捨てはしないとお約束されていますので、安心していられます。


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救いやさとりをどう表現するか

2017/08/27 09:35
 ものがらは同じでも、表現方法は千差万別です。

 至高の一味の体験を表したいと思ってもなかなか難しいです。
ひとに伝えるときにはその人に合せた対機説法が必要になります。
これも困難を極めます。

たとえば、私はマンゴスチンが全ての食べ物の中で一番の好物です。
マンゴスチンを食べたことのあるひとなら、あの味かと分かります。
食べたことの無い人にどう表現するかが問題です。

形や味を説明すると。
オレンジ色のマンゴとは違いますよ。
 固い赤のくすんだような茶色いような殻がありライチと似ているけど味は違います。
 淡白な甘さで上品ですがフルーティです。
殻を割ると白い房がありそれを一つずつ外して食べます。
 大きさはきんかんと小ぶりのみかんの間くらいの小さいものくらいです。
 中に種があればそれは出します。
マンゴスチンの味ではない外的なことも言います。
果物の女王と呼ばれています。(ちなみに王様はドリアンです。)
南の国で取れます。
主に夏の時期に出回ります。
大きさはきんかんと小ぶりのみかんの間くらいの小さいものくらいです。
自身とマンゴスチンについて
シンガポールの高級ホテルのデザートブッフェで食べて以来、マンゴスチンの虜になりました。
 フィリピンの友だちのが好物だと知り、家で山盛りのマンゴスチンを御馳走になりました。友だちがいくつも皮をむいてくれました。
行商の人から買ったものでした。(フィリピンのマニラ郊外では果物を行商の人が売りに来るようです)
 このようにマンゴスチンの味を表現するだけでも大変です。

 ましてや形の見えない信心や救いやさとりの世界を表すとなると気が遠くなります。
釈尊はじめ歴代の善知識方はされてきました。
だからそれを翻訳などで読んで私たちはさとりの世界を知り、有縁の方々も同じようにさとることができるのです。
頭のいい人には抽象的な哲学的な観点から、一般の人には例え話で具体的に話されるなど様々な説き方がなされています。

月は球体ですが、地球から見ると満月、新月、半月、三日月などいろいろ見えます。
 象を盲人が見ると鼻を触るとホースのようなものだとし、足を触ると柱のよう、身体もどれくらい大きいのか全体像は分かりません。
このようにいろいろな条件やひとによって、感じ方は異なり、そのものズバリ実態を説明するのはかなりの苦労が要りますし、目が見えていても、感覚や知識が違うことで完全に同じように分かり合うことはまずありません。

ただ、私が大好きなマンゴスチンの味を知って欲しいという願いは、その人が一口食べた時に叶います。
信心、すくいとさとりの味わいも、その人が体験した時わかります。だから、そういう世界がありますよと知らせ、各自が体験してもらえたらと願い、来る日も来る日も湧き出て止まることの無い憶いから、下手な文章を書きつづっています。

感謝していること
 信心もマンゴスチンの味も十分味わえて、それをお知らせする身であることに有難く感謝しております。


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稲垣瑞劔師の原稿作成の心得

2017/08/24 08:53
「(1)智者のために書くか、(2)信徒の為に書くか、(3)自分の領解
を述べるか、(4)他の人をして浄土へ誘引するか、右、何れか、目標を決めて、(5)さらさらと書き流すべし。目標が外れておってはいかん。四つの、どれが「わるい」、「よい」というのではない。目標を決めて書く。ということが大切である。
他の人を浄土へ誘うとなれば、これは親切が欠けてはいかん、同じことを繰り返し、巻き返し、というものがなくてはいかん。そうして、ただ(5)さらさらと書き流すべし。
悪いのは(6)名利のために書くのは下の下である」と合せて
六か条を示されました。
 一つの原稿にいろいろ入れ込むと読む人が混乱しますね。誰に対して書くか、何を書くかを明確にして目標を決めてさらさらと書き流す目標が外れないことは大切だと感じます。お浄土へ誘う布教の文章は繰り返し、巻き返しというのもよく分かります。最もよく分かるの名利のために書くのは下の下であるということです。
時々、私は自身の領解を書くことがありますが、これを自信と取るか驕慢と取るかに別れることを覚悟で書いています。なぜ書くかといえば、もちろん、名利のためではありません。
釈尊や七高僧、親鸞聖人や蓮如上人や江戸時代からの妙好人や稲垣師父子や西光先生などは本当に特別の人だと私はいつも感じています。一方、私は何の取り柄もなく、死の解決がしたくて、求めてきた煩悩に目鼻をつけた愚者です。だから、そんなどこにでもいるものでも救われることがあるということを書いて、誰でもが救われることを分かって欲しいという目的で書いています。ただそれだけなのです。これは余り言ってきませんでしたが、こういうことです。
文章を書く場所に身を置いているものとして、今後はこの瑞劔師の文章の心得をいつも思い出してまいります。瑞劔師の著作を論文を書くときに拝読する際にも、このことに注意して行く所存です。
感謝していること
瑞劔師には書き残されたもので文章の書き方までも指南してくださり本当に有り難いです。

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菩薩の念仏

2017/08/23 23:11
 菩薩行の念仏そして菩薩のイメージを私の先生は次のように表現されています。

「これを成就(じょうじゅ)することで、菩薩(ぼさつ)になる。序(ついで)ながら「菩薩(ぼさつ)」というと、格式(かくしき)のある威風堂々(いふうどうどう)たる弥勒(みろく)さんのような方(かた)を想像(そうぞう)すると思(おも)うが、真(しん)の菩薩(ぼさつ)は平々凡々(へいへいぼんぼん)で、人(ひと)の先頭(せんとう)に立(たっ)て旗(はた)を振(ふ)るような方(かた)ではない。人(ひと)の後(うしろ)にあって見守(みまもっ)ておられる」

「菩薩」とは「菩提薩埵」ともいい、みずから菩提(仏の正覚の智、悟り、仏の悟りの境地、極楽往生し成仏すること、悟りの智慧)を求める一方、衆生を導き、仏道を成就させようとする行者のことを言います。


正定聚に到達してからの念仏は、自利はもうお任せになっているので、利他の念仏がほとんどになった気がします。念仏というより「波動」とか潜在意識や八識を超えた感覚です。それが寝ても醒めても常に私の中にあることが、信心を獲た前後でその違いを自覚できていました。


 信前は何が救いなのか悟りなのか、教学上ではわかっていたのですが、実感が伴わなくてぼんやりしながら、砂を噛むような念仏を称えていました。

 信後は一人でも多くの方にこの境地をお伝えしたい、どうしたらできるだろうかという憶いの念仏が地下水の水脈のようにずっと流れています。ちょっとつついたら水が湧きあがり、口称の念仏に簡単に変換されます。


 旗を振るのではなく、後方から、ひっそりと私も、救いを求めるひとたちの応援や励ましをそっと、一番私に出来そうな文章を書くことでお手伝いして行く所存です。

 わかる人はほとんどないでしょうが、疑わず、謗らず、そんなものだと、ただ、感じてください。

感謝していること

 穏やかな気持ちで生きられること、こんな感覚を共有できる先生や法の友と一緒の時期に生きていられることに感謝します。


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心が振るえ、なおかつ温かいこと

2017/08/23 09:26
 いろいろな雑多な感情を手放して、自分自身そのものの感覚で生きるようになったら、時々心が振るえるような感動があり、それはとても心地よい温かさを伴います。
 死の恐怖の解決に裏付けられた絶対的な安寧と人生全般に対して何の不安もなく、やってきたことをこなし、今いるところで精一杯生きるだけですが、これは何とも言えず自由です。

 生活の全部で感動を占め、いつも心地よい状態を保てるように、今をしっかり味わって生きています。中途半端に生きたのでは、制限のある人間という入れ物で他人を理解し優しくする術を学んでいる甲斐がありません。

 出来ることを淡々と出し惜しみをせずさせていただく所存です。

感謝していること
 精一杯の今を積み重ねていった結果としてどういう何かが見えてくるのか楽しみでもあり、よろこびでもあります。今日も共に精一杯自身の使命を果たしてまいりましょう。

「シンプルに生きる」
 自分が望むことをしていく
 こうしないと悪く思われるから意に沿わないけどすると、やってやったのにお礼やお返しがないと文句が出る。
 理屈や言い訳ぬきにして、自分の使命に沿って、したいことをする。
 あれこれ考えず、特に法律や規範を冒すことなく、淡々と嬉しいことをしていく。
 研究を通してこんなことが分かってきました。
 何を研究対象にするかによって、考え方や生き方に多大な影響があることを実感しました。研究内容が人々にとって真理との邂逅を可能足らしめるものであることが一義的ことである認識も徐々に私の中で大きくなってきています。
感謝していること
 研究を支えてくれている家族や周りの人たちに感謝します。

「他人にないがしろにされ、怒る根底にあるのは寂しさ」
 苦手な人はいないことはありません。
 上から目線で、見下してくる人たちに対して気持ちがくじかれ、激怒することもあります。でもそれは、表面上のことで、気持ちが通じ合えない、分かり合えない寂しさから来ています。
 どうにもこうにも気持ちがすれ違い、分かり合えないとき、不安で寂しく満ち足りません。どんなに親しいひととでも、完全に分かり合うことはありません。
 究極的には、自分自身と真理のようなものの両者としか分かり合えないのではないでしょうか。それゆえ、真理との邂逅があること、それが生きている内に出来ることをお話ししています。完全には分かり合えませんが、真理に救われた人同士は真理を仲介とした話なら心を通い合わせることは可能です。それは至福の時です。
 どんなにお金や名誉を持っていたとしても、死ぬときは何も役に立ちません。心が安心満足な状態であれば、死の恐怖も解決できています。
 今ここで救われてください。
 感謝していること
  一人でいても寂しくなく、孤独でない心境を楽しんでおります。有難いです。

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研究と金

2017/08/22 12:18
 大学にも個人研究者に対しても、国家から多額のお金が支給されています。

 国民の血税によって研究はなされているのです。

 国民は自分たちの幸せを求め働き税金を出しています。

 公僕として、首相をはじめとする国会議員、国家公務員、地方公務員は必死に国民の幸福につながる政策をかんがえて、実行しないとなりません。

 自身の名誉や利益のために動いてはなりません。


 学術振興会で科研費や奨学金を貰っている研究者も同様。

 金をもらう為に政府の意向に沿った体裁のいい書類を書いてする研究など止めてしまえ!何の足しにもならない。

 納得のいく研究や人生を送りたいなら、誰かの顔色を伺わないで、自腹でも何でも、多くのひとを救う、楽しく過ごせる研究をしたらいいだけ。


本当に他人の幸福を考えて行動する人たちは、大学なんかには留まっていない。とりあえず、研究者と呼ばれる人たちや世間に対して、研究はできますし、論文も書けますよと博士号くらいはとったら、自分で講演をし、本を書いて世界に出て行く。

 これらの博士課程までの次世代の優秀な学生を育てるのが教員の仕事。励まし応援するくらいしか能がないから教員をしているのだということをよくよく肝に銘じて、学生のやる気になる言葉を掛け、早く博士号が取れるように指導するのみ。勘違いしてはならない。決して自分が世界を変える能力など持たないことを。自分の仕事がなんであるかを再確認して欲しい。


感謝していること

 研究を続け一流の成果物に遭遇すると布教も学問も利他行の極みであることが知らされます。


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お金持ちの反対は貧乏人ではなく「下品」

2017/08/20 10:11
 私は「下品」が「苦手」です。「避けて」通ってきましたが、たまに予告もなく真正面からぶつかってくる人たちがいて、随分嫌な想いをしてきました。




 「下品」とは対案を持たずに反対を唱え、力で抑えようとするひとたちの中身。

 行く末は「殺人」や「強姦」といった身体や魂を殺す行為に至ります。

 対話を重ね、落としどころを見つける努力をせずに、いきなり暴力を振るってくるひとたちに対しては、いかなる事前の対処もできず、逃げるしかありません。

 「下品」なひとたちからは、「下品」オーラを感じた時点で、そう、逃げないといけないんです。




 「下品」なひとたちは、自分がどうして「下品」なのかわからないので、「下品」な言動をし続けて、お金持ちの人たちの顔を曇らせますが、お金持ちの人たちはケンカを避けるので(金持ちケンカせず)何も言ってくれません。放置されます。それにきづかず、有頂天になって「下品」を連発すると、そのうち誰にも相手にされなくなります、干されます。




初めの頃、親切な誰かが「あなたは『下品』ですよ」というようなことを、遠まわしに教えてくれているときもあります。それを、余計なお世話だと言わんばかりに無視して、結局、お金持ちの人たちの仲間にもなれず、浮きまくって、周囲に毒やほこりをまき散らして、泥足で、お金持ちの人たちの心を汚すので、本当に嫌われ迷惑者となり、そこを自分から出て行かなくてはなりません。そういう「下品」なひとは自分できづかない限り、同じことを何度も繰り返します。




「下品」ですよと教えてくれた人を信頼して、頭を下げて聞いてみたらいいのですが、「下品」なひとたちは、「下品」故に無駄にプライドが高いので、心の頭がさがりません。人生、ひとを大切にし、信頼関係をいかに構築するかを学ぶところですから、常に自分が「下品」な言動をして、自分のことしか考えていないかもしれないとお互いに反省してまいりましょう。




感謝していること

 仏教先生は「上品」な方で、私の話をいつもたいてい「いいですよ」と聞いてくださいますが、「下品」になりそうなときには、「それはちょっと・・・・・・」と優しくたしなめてくださいます。有難いです。


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念仏についての新しい見解

2017/08/20 08:13
真理との邂逅の前から、ずっと疑問に思っていたことがありました。

 「念仏」についてです。

 「信心」一つで助かると親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を説かれました。

この「念仏」と「信心」の関係を研究課題として明らかにしていく所存です。

 
「念仏」は「名号」とも表現されます。

 「南無阿弥陀仏」です。

 「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏が十劫の昔、法蔵菩薩であらせられた時、五劫の思惟、兆載永劫の御修行により完成されたお薬です。


「信心」を獲るとは、のお薬を飲む(聞く)ことです。すると、たちどころに、肉体の命が終わると、六道輪廻から抜けて悟りの世界に出られることがいま、ここではっきりわかる効用があります。

 人間の五感の耳で聞こえるのではありません。阿弥陀部仏から耳をいただいて聞けます。おそらく、心理学で深層心理と呼ばれるところの阿頼耶識のどこかに届くのでしょうが、これはどこであるのかはっきりわかりません。

 しかしながら、智慧と慈悲の光明でお育てにあずかり、「南無阿弥陀仏」と一体になったら、もう二度と阿弥陀仏と離れることはありません。共に極楽浄土への旅を楽しむ身となります。命は生きている間の今も、未来永劫も明るく輝きます。


 「念仏」はお礼の言葉でもあります。こんな安寧の身に・死の恐怖が解決され衣食の心配を離れた身の上に救われたお礼をどうしようと苦しむのを見越されて、「南無阿弥陀仏」というお礼の言葉まで考えてくださったのです。

 「南無阿弥陀仏」は、迷いの凡夫にとっては「名号」というお薬であり、それが信心を獲ることで「念仏」にもなります。全てを含んだ言葉なのです。


 「南無阿弥陀仏」を念仏として称える時のありようについての新しい見解を先生が示してくださいました。これは冒頭で述べましたように、私が信前から疑問に思っていて、いつかは明らかにしなくてはならない問題でもありました。

 教学的な面で先生の助けをお借りして、解明し、成し遂げいつか還ったお浄土で阿弥陀仏によくできましたとお褒めのお言葉を賜りたく存じます。


感謝していること

 佳き師とは出合うべき時に出合い、共にそれぞれの使命を果たす協力者という機縁になるのだと有難く感謝します。


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死を考えず生きることにしか注目しないのは、トイレがないノンストップの乗り物で移動するようなもの

2017/08/19 09:14
 死の恐怖(トイレを確保すること)が解決されていないと、人生をおもいっきり謳歌することはできません。食べたいものも飲みたいものもセーブして生きなければなりませんが、必ず死(トイレに行きたくなります)は訪れます。

 誤魔化し、誤魔化し生きていても、迫りくる終着点が安心満足での状態ではないなら、心はいつも穏やかではありません。海岸で砂の城を作るようなものです。どんなに精巧に立派なものが出来ても、波がさらって行ってしまいます。こんなことをとくに高校時代に考えていました。核爆弾の脅威がやかましく言われ、1999年に地球は滅亡すると一部で信じられていた時代でもありました。死の縁が連想されるものは多く存在しますが、それを恐れるだけで、もしくは考えないように見ないように、遠くに押しやるばかりで、根本的な解決をしようとする人は滅多にありません。誰も教えてくれないからかもしれません。


 それなら私が死の恐怖の解決が出来て、本当に生き甲斐を感じる人生を送れるような話をし、文章を書いてまいります。残りの人生はそれに費やしていく所存です。

感謝していること
生死一如と仏教では言われます。明るい生を送るには死の恐怖の解決を済ませなければそれはできません。そのことがわかり、実際、真理との邂逅を経て死が問題とならなくなるところまで死なずに生きられたことに感謝します。


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本当に嬉しいことはほんの些細な日常の中に隠れてる

2017/08/18 09:24
 女王(自分の王国の)気質の私は他人に負い目を感じさせたくありません。

 自国のお客さまを心地よくもてなすことを使命としています。

 もしも、お客さま自身が、負い目を感じさせる人だった場合、私自身が何らかの態度で示し(厚くもてなし)、怖れや不安などの泥のついた本性が洗い流され、スッキリした自性で以てお帰りいただきたく存じます。




 喜怒哀楽のマイナスの部分は誰でも処理に困ります。「共生」・「共感」といった思い遣りを持って対処できる人は僅かです。理論的に正当性の根拠などでこじつけて「私は正しい」「間違っていない」または「私には関係ない」「ひとそれぞれなので関知しない」と言った詭弁で説得し、スルリとスマートに切り抜けようとします。本心は「こんなことに関わるだけ時間の無駄、理論的なこと以外の感情的なことは本人が何とかするしかないのに、自分もそうしてきているのにウザい」

 

 でも、そんな冷たさ、人間性の欠如は口に出さなくても周りの人たちにはとっくにばれています。そして、そういう人なんだと呆れられて、周りが距離を置いて離れていってしまいます。本人が誰にも本心を明かすことをしないのですから、自業自得ですが、ずっと後になってきづくことが多いです。

 仮に親切に誰かが教えてくれても、本人は有頂天ですから、「あなたには関係ない、余計なおせっかいは止めてくれ、自分のことは自分で何とかできるし、ひとに頼ったこともないし頼られたくもない、泣き言をいうのは弱い人間のすることだ」と毒づきます。




 不安、畏れ、劣等感そして、その変形であり、他人を攻撃する方に向く、怒り、復讐心の果ての殺意という泥のついた本性を一瞬で洗い流し、真っ新で柔らかいおくるみですくい取り包み込み、よろこびや楽しみに変えるのは、智慧と慈悲の光しかありません。




 包まれて抱きかかえられた後は、安心満足で誰とも比べることの無い安らぎの中、日常のほんの些細な出来事に光を見出せるようになります。恐れや不安が無くなったので煩悩はそのままで軽やかに清々しく生きられます。




感謝していること

 窓から差し込む明るく透明な光に感謝しつつ、今日もみなさまに素敵な出会いなど、いいことがたくさんあるよう願っております。


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何となく思い出したこと

2017/08/18 00:34
 往相回向・還相回向の連続性の中にいるなら、無理なことをしなくても、流れに任せたら全てが上手くいくのではないかということです。

 どうしても自分のためにこれがしたいということは見つかりません。衣食住も満たされていて、特に欲しいものもありません。

 研究も論文のためのものでもなく、積み重ねて分かったことを文章化してまとめて残そうとしているだけです。研究で知らされることもたくさん有り、私の布教活動にも役に立ちそうです。むしろ研究は研究のためもしくは論文を残すためというよりも、今、苦しみ悩んでいる人たちに真理との邂逅を伝えるためにしているのかもしれないとさえ感じています。


修士二年目で、修論に没頭しているとき、仏教の師匠に出合いました。大学院・論文を止めて先生の著書の刊行などのお手伝いをした方がいいのかどうかご相談しました。すると先生は今書いている文学と歴史のフェミニズムの修士論文はあなたのランドマークになるだろうから、さっさと仕上げて博士論文で宗教を書いたらどうですかと仰いました。宗教の論文については「僕がついているから」と背中を押してくださいました。実際、様々な資料や証言を賜り、少しずつ博士論文を完成させる方向に向かっています。


何が何でもこうしたいという姿勢が2割くらいになって、自分にやってきたことをそのまま受け止めてこなせるようになったし、堅い他を隔てるバリアも半分ほどになってきたとも先生は言われます。私が何もしたいことがなくなっているからでしょうか。


元々怠惰な私はただ、真理、言い換えると智慧や慈悲の光に触れて感動して心がキュンとしたり、いい香りがするいい雰囲気の場所でただ何も考えずに微笑んでいたいだけです。もしかしたら、これらは贅沢で、手に入れようとしても獲られないものだと言われるのかもしれません。

 私の願いは、磁石になって、一人でも多くの人が迷いを迷いと受け止めて、真理との邂逅を果たして、そこから抜け出したひとたちと往相回向・還相回向の旅をすることです。


感謝していること

 何も欲しくないというのは、必要なものに恵まれていて、きっと贅沢なのでしょうね。


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何もいらない、欲しくない

2017/08/18 00:29
 ある時、ふと感じました。

 特に私に不足しているものがないんだって。

 物もそうだけど、ひともそう。

 愛(執着)なんて誰からも請わないし。

 誰も愛しもしない。

 でも、信頼し合える師匠や少しの友だちがいる。


たとえ傍目に恵まれて見えなくても、才能がなくても、そのままでいい。それでいい。

 私はそんな私を受け止めていく。

 そんな強さが私にはある。


ありのままでも、付属品を全部外した私を「いいですよ」って包み込んで、本当に心底支えてくれるのは目に見えない真理だけ。


 こんなことが、ある時、何となく突然、思えてきました。

感謝していること

 目が曇っていてきづかないことも多いですが、だんだんに視界がクリアになっていく感じが嬉しいです。


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『ささやかだけれど、役にたつこと』 レイモンド カーヴァー著 村上春樹訳

2017/08/16 17:34
 修士の英書講読の講義で読みました。後に村上春樹の訳でもう一度味わいました。勲章も讃美も要らないけれど、日々の珠玉の出来事は大切な宝物だと知らされました。

 死で断絶することの恐怖が完全に無くなったので、今はささやかな人生の機微を楽しんで感動する日々を送っています。

 100年後単位の布教活動には思索を以て感情の処理の対策も必要となりますが、それも博士論文の提出とその文章の出版等で、あと数年で限を付けます。その後は世界の人たちとワークショップを通じて感動を広げてまいります。

感謝していること

 ありふれた日常の中にこそ、細部に悟りの種はあるのだと分かってきて嬉しいです。


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信頼の上にあるもの

2017/08/15 20:34
 口に出さないけど、居心地のいい安心な空間を共有することが出来てる実感。

 ほとんど止まっちゃってるんじゃないかっていう位ゆっくり流れる対話の時間感覚。

 考えたり、分析したり、批判するんじゃなくて、「いいよ」って丸ごと受け入れてもらえてる満ち足りた時間。

 ものやお金を介さないようなこんなささやかな感動をやっと満喫できるようになってきました。

感謝していること

 感動は誰とでもじゃなくて、ちゃんと信頼し合えている人じゃないと味わい切ることが出来ないことが分かってきました。


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信頼し合えたひととはこの世の縁が終わるまでお揃いの気持ちでいます

2017/08/11 10:28
 信頼し合えたとひととは、何度も対話をして、その人の言動を見聞きして、その上で大丈夫と感じたひとです。

 海の表面の波はしきりに動きますが、底は静かで動きません。 

 嬉しいときとか悲しいときばかりじゃなくて、寂しいとき、哀しいとき、辛いときに、心は隣に寄り添っています。出来ることがあれば何でもして差し上げます。

 一つ一つ積み上げた人間関係において、私は冷めたとか飽きたということは滅多にありません。水は沸騰するまで時間がかかりますが、直ぐには冷めない以上に、些細な言動で心変わりすることはありません。

 別の言い方をすれば、信頼関係を誰かと確認するまでに、一週間くらい一緒に旅行するとか、最低一年以上はかかるということです。簡単に信用しない訳は、裏切られるのが嫌で言葉を受けては返してを繰り返す中で徐々にもう大丈夫かな確信するようになりました。信頼してくれているひとを信頼しないのは私自身のことを否定することになるから信じます。

 出来ることなら、その信頼しているひとと一緒にいつも幸せそうに笑ってたいです。




感謝していること

 信頼し合える人がいることはとても素敵なことだと感謝しています。


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死をまさに今自分に迫り来るものとして向き合う機縁

2017/08/11 10:24
 高校二年の春にある原因で、自分の死を覚悟しました。

 これで朝が来なかったら、真っ黒い淵に引きずり込まれるように堕ちて、そこにいることになる。長い夜を死の恐怖をひしひしと感じながら過ごしましたが、朝の光が差し込む頃には死の影は消えていました。




 私はこの体験から、自分の死に真剣に向き合うようになったのです。

 もともと、何をしても空しい、本気になれない、他のひととは求めていることが違う気がするといった感覚を抱えて生きていたのですが、それに拍車をかける出来事でした。

 高校三年になる春休みには歎異抄を三度ほど市立図書館で謹書しましたが、死の解決がどうすれば出来るのかは分かりませんでしたが、始めて死の解決をしようと仏教に向き合ったのはこのときでした。




 私の仏教の先生は、旧制中学一年の頃、神戸の空襲で家の前の神社に焼夷弾が不発で36個そのまま突き刺さっていたり、自宅の仏間での焼夷弾爆発の弾丸をお聖教が身代わりになって無傷だったことを体験されました。

 死の解決を求めるようになるには、何かしら、遠くにある死が身近に引き寄せられる体験があるのかもしれません。




 他人や遠くで起った死の体験を垣間見ても、それは所詮他人事である場合が多いです。それよりは、地獄絵図や原爆の絵画といった抽象化されたイメージの方が心に突き刺さるのかもしれません。仏教を求めるようになった人の多くは、お寺で地獄の絵を見て自分もあんなところに行くのを何とかしたいと思ったと聞きます。




 どんなご縁で迷いから抜けようと決意できるのかは人それぞれでしょうが、まず、迷いを迷いと感じて、それをなんとかしたい、自分のこととして向き合い解決に至ったひとは幸せです。




感謝していること

 辛い思いをたくさんして、死の解決が出来ました。辛かったことは何だか夢を見ていた感じがします。有り難いです。


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他者の死の恐怖を自らのものと感じるリテラシー

2017/08/09 08:28
 底知れぬほどの恐怖や不安、泣くこともできないくらいの絶望感。

 死を客観視して、あれこれ論じている人にはこれらは絶対わかりません。

 

 広島出身の人が言っていました。原爆教育は形骸化していて、かえって核抑止論など目には目をといった議論を起こしかねないという人がいるけれど、それは部外者だから言えること。実際、祖父母や身内を亡くした話を聞いている者に取ったら、それは単なる物語ではなく、自分自身の「わたしたち」の話そのものだ。




 物心ついた時から、死の恐怖におびえていた私が、広島の原爆で周り中が火の海になった絵本の中の絵を小学校低学年で見ました。広島や長崎の人たちは、私がずっと感じていて片時も離れなかった死の恐怖を持ったまま焦熱地獄のような中で死んでいったんだ。

その絵本の画は、後に見たどんな写真や映像よりも、未だに私の心に突き刺さっています。




 「抑止論」を大学の低学年のプロゼミで議論した時、私には初め何を言っているのかが分かりませんでした。殺さないために人殺しの武器を造りつづけて持っていることで戦争を回避する。そんなことはどうしても私には考えられませんでした。まず、誰かの命を奪う可能性のある武器を作り持つことは、いざという時、それはたぶん自分の正当性を示すとき、使う可能性があることを意味します。たくさん持つことで、相手を威嚇することでなどで争いを回避できないと感じていました。その後もさまざまな戦争が起こりました。その舞台は欧米先進国ではなく、中東や発展途上国と言われるところでした。




「わたしたち」以外の人が死ぬことに対して、ひとは冷淡でいられるのかもしれません。

自分が、まさしく今生きている自分が死ぬことを常に想い悩み続け、苦にしているひとには、死に逝くひとや殺されていくひとたちは、まさに「わたしたち」であり他人ではありません。




これを何と表現したらいいのでしょうか。仏教で死の恐怖の解決が出来た私には「仏縁」と表現しますが、「自他の死の恐怖を感じ取れるリテラシー」くらいしかわたしにはおもいつきません。

 

 感謝していること

 あれほど常に離れなかった死の恐怖がある時から、嘘のように全く消えてなくなりました。死の問題を抱える全ての人たちに同じような安心満足の身になって欲しくて私はそのために生きています。


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内面と外面を一致するように生きる

2017/08/08 21:45
 思っていることと、言動が違うと苦しくなります。

 学校や職場ばかりでなく、友だちやパートナーの前や、家でも違う自分を演じる人生って、窮屈で気が休まらない気がします。

 出来ることなら、煩悩や自我意識丸出しの自分を一度消化して、人間存在そのものの孤独を共有していけるといいです。また、共に真理との邂逅を果たし、そのよろこびや幸せな気持ちを分かち合える人生が送れたらもっといいです。

 そういう人が一人でも多くなるように願いつつ、自身の使命を果たしてまいります。

感謝していること

 自分を飾り、他人からよく見られたいと無理する生き方を選ばなくなり楽になりました。


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