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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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観念の死と現実の死の大きな違い

2018/05/24 05:04
 我が身の後生が苦になり出してからが本当の人生です。それまでは、人生が始まっていません。肉親が不治の病に罹り、余命いくばくもないとき「私は死ぬんじゃないかしら」と聞かれた時どう応えますか?自分の命がもう残り僅かな時、同じように周りに聞いた時どう応えますか?これは人間としての問題です。理屈ではいくら考えてもわかりません。死を目の前に引き寄せて真剣に考えてみてください。どのように言って欲しいですか。そしてどのような救いを与え、与えて欲しいですか。

 観念の死と現実の実際の死は異なります。そこのところが分からない人だらけで、だからいろいろな問題が起こり続けるのかもしれません。

感謝していること

 生死の解決をさせていただくご縁になってくださった方々に有難く感謝します。


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人間にとって唯一平等なのは必ず死ぬ存在であること

2018/05/23 08:39
自分も必ず、絶対に死ぬときがくるのだという自覚があると、日常の些細なことはどうでもいいように感じます。どうせ臨終には何も持って行けないのです。それなら目の前にある物を十分堪能して少しでも優しい言葉を掛け合って生きようと分かってきます。

 いつまでも生きていられるという幻想から、競争し、お金や地位や名誉といったアクセサリーを取り込み飾り立てるのです。

 臨終の場面を思い浮かべてみてください。親しい人たちが周り集まってくれている自分が浄土に旅立つ別れのとき、浄土での再会を共に確信しつつ、しばしの別れだと言い合えることがどんなに心強いか。これは簡単によく分かる人には分かる、分からない人には全く分からない話です。臨終に自分が次にどこに行くか、生きている、いま、ここでハッキリ知らされることが大切なのです。それが分かれば、無駄に人間同士が傷つけ合わずに済みますし、優しく思い遣りを持った言動を続けて共に労わり感謝しながら充実した人生が送れます。

感謝していること 
 仮に今不治の病にあり、じきに死ぬとわかっても、多少の寂しさはありますが、これといった不安もなくいられるようになったことは、本当に不思議で有難いです。


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誰かが別人のようになってしまったのを感じたとき

2018/05/21 14:57
 少し逢わない間に、すっかり別人のようになってしまう人がいます。一方で、久しぶりに逢っても全く変わらない人もいます。よいように変わるならそれは嬉しい限りです。しかし、そうでなかったとき、何だかとても悲しく残念です。職業、地位、名誉などで外観は変わるかもしれません。その人の人となりが傲慢になるのを感じたとき、遣り切れない忸怩たる思いがします。人としての真摯さ、一貫性みたいなものが永続的に続くことは難しいのでしょうか。有頂天になり、他人を見下し、粗雑に扱うようになる人を横目で見ながら、今は関わったらいけない人なんだと距離を置く自分がいます。上から目線ではなく、こういうのは反面教師として教えてくださっているだろうかというきにもなります。

 人との関わりには、縁によって近くも遠くもなります。誰かと遠くなれば誰かと近くなることもあります。さよならとこんにちはの繰り返しが人生なのかもしれません。そう考えたら、まあいいか、仕方ないなぁとも諦めがつきます。あまり人や物に執着しない質なのですが、自分の心も変わり通しなのかもしれません。できるならよい方に変わって行けたらと存じます。

感謝していること
 誰がいなくても、当て頼りにならなくても、安心満足が継続して変わらないのは本当に不思議で有難いです。


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今生はもう残り僅かなので、誰かと逢うなら寛ぎ癒しの空間にする

2018/05/20 22:54
 誰かと一緒にいるときや電話で話したり、チャットをしているときは、ありのままで何も考えないでゆっくりしていたいです。誰かの問題を解決しようとも思いませんが、役に立てそうなことがあれば、こんなことを試してみたらとは言ったりしますし、時には手伝います。でも、できそうもない約束はしません。誤魔化したり、嘘もつきたくありませんから。これは自己一致でしょうか。無償のカウンセリングをしていこうとしてるみたいです。

せっかく時間を取って逢いに来てくれているので、誰も傷つけないたわいない冗談でも言って、笑い合っています。家族や仕事の話でも大袈裟に自慢してもらっても構いません。「すごいね、よかったね」ってよろこんで聞きます。これは共感とか受容かもしれません。

他人からよく思われようとも思わないので、自分を等身大以上に見せる演技もしません。馬鹿にする人、威張る人、雑に扱う人であれば、悲しい人なので、次からは距離を置きます。一緒にいて楽しくて楽な人とできるだけいたいです。耳の痛いことを教えてくれる人も、勝他の為じゃない人かどうかは分かるし、私のことを大切にしてくれる人は、それなりに言い方も考えたりしてくれます。モラハラ、パワハラ、セクハラ全部お断りです。そういう人はもういいかなって、十分学ばせて頂いた気がします。これからは逢うひととは明るく気分良く過ごしていきます。そう決めました。

感謝していること
みなさま、またお逢いして一緒にお腹を抱えて笑い合いましょう。そんな日が毎日続くように感じられることに感謝します。


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一人でも、何がなくてもよろこべる

2018/05/20 15:38
 誰かといなくて一人でも、自身の才能、知恵、美貌、物質的なお金や物、地位名誉、何もなくてもよろこべることが究極的な安心満足です。

 外界からさまざまなものが飛び込んできます。
綺麗なもの、美味しいもの、功績、勝者などなど。
何か違うと感じてしまうのは私だけでしょうか。そういうものをただの装飾品で、それも薄っぺらいものだと感じてしまいます。あっても邪魔にならないのかもしれませんが、さほど必要とも感じません。

 私にとって、本当に必要なものは、私の気持ちを全て御見通しの真理の存在との心の触れ合いです。これさえあれば生死を乗り越えられます。一度、気持ちが通じ合えば二度と離れることがありません。

 お誕生日を迎えた方や自分の誕生日にはこのことを共によろこび合えたらと存じます。

感謝していること
 ご縁に値えたことが不思議で有難く感謝します。


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真宗カウンセリングに法話を

2018/05/20 08:30
 僧侶の立場からすると法話をしてから、そこで聞いたことを示談や談合などで話すということが常であるかもしれません。ここでその発想を転換してみるのも一つかもしれません。まず、法話の前に、どのようなことを現在気に掛けていて、どういう話が聞きたいのかをあげてもらって、その要望に基づいて、法話の内容をその場か、後日決めて説法を聞いてもらう方法がよいように感じます。そして、聞き手の言われていたことを法話に盛り込んで話します。そしてまた、法話の後か後日にカウンセリングを行います。カウンセラーが話したいことを一方的に話すより、クライアントが聞きたい話をした方がさらに真剣に聞け、カウンセリングの効果も上がります。

 法話がなぜ必要かというと真宗カウンセリングだからです。至極当たり前のように感じられるかもしれません。教えを早いうちに前面に出すことはカウンセリングを成功させる秘訣です。真宗と銘打っているのですから、法話が間にあっても違和感はないでしょう。一つ一つの表面上の人間の問題というより、それらを超えられるものを獲たいと来られる方々に説法を抜きでは真の意味での問題解決は成しえません。僧侶の資格を持っている人でもそうでなくても法話はできます。クライアントがもし法衣を着てくれと頼まれるなら、そうしたらいいし、普段の格好でお願いしますと言われたらそのようにしたらいいです。クライアントの要望に一つ一つ答えて行ったらお互いの合意ができていくでしょう。カウンセラーが説法に不慣れなら、僧侶に同席することを依頼したらいいでしょう。

 できれば、カウンセリング、法話、カウンセリングのサンドウィッチのような形の方がよりクライアントがしっくりくる話になる気がします。聞きたいこと話を尋ねて(事前に手紙やメールで尋ねてもいいです)、法話を行い、それについて共に話をすることをセットのパターンで試みてみることも、真宗カウンセリングをより佳きものにできると考えました。

 話したら話し放し、聴き放しではなかなか理解が深まりません。クライアントの話を聞いて次回もカウンセリングが必要なら法話をその次にするとか、法話は毎回入れることにしても15分くらいの短いものにするとか色々なパターンを試してみるのもいいのかもしれません。

 カウンセリングの立場からすると、法話を取り込むということは奇異に感じるかもしれませんが、「真宗カウンセリング」なので、真宗の教えを熟知したひとが話す前提で、クライアントもそれを承知で来ているので問題はない気がします。むしろ法話がない方が「真宗カウンセリング」としては物足りなく感じる人もあるかもしれません。こんなことを思いました。

僧侶もカウンセリングを積極的に学んで、法話にカウンセリングを取り入れられるようになるといいです。

感謝していること
 法話を長いこと何度も聴きつづけた日々を思い出します。それはそれで有難かったです。人生には何一つ無駄なことはなかったと知らされます。


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真宗カウンセリングは一般のカウンセリングの限界を超える

2018/05/19 12:44
 人格の涵養には限がありません。もしカウンセリングに対して人格の涵養を目的とすることを期待するなら、相対的なことであり、一生涯これで完成したということはありません。それでも構わないなら、し続けたらいいでしょう。

 そうではなくて、目的が、自身の安心立命、満足な境地を永続的に獲ることであるなら、宗教的救済でしかそれはなしえないと私は感じます。宗教の中でも、私が慣れ親しんだのは浄土真宗であり、真宗カウンセリングでその境地に達することができることを紹介する論文を書いています。


 宗教にカウンセリングがなぜ必要であるのかは、人間の苦しみ悩みの元を知らせるためです。自分が苦しんでいるのは煩悩による表面的なことというよりも、根本的な迷いであり、それを仏教では「無明の闇」が晴れていないからだと説かれます。無明が苦しみの原因であるところまで行きつくには、説法と対話が必要です。その対話の部分を現代的な言葉で置き換えるとカウンセリングということになるのでしょう。蓮如上人は「信心の沙汰」といわれました。聴聞と呼ばれる説法を聞いている仲間の間でなされました。布教師と信者の一対一、もしくはグループで話し合いが持たれていました。

このように、無明を晴らすことのできる教えがあり、そのうえでカウンセリングをおこなわないなら、それはただの人格の涵養にしかならず、いつまで経っても安寧の境地に行きつくことはできません。一生求道だ、求められたということなど無いという人には何も申し上げることはありません。死の不安や無明を抱えながら一生不安なまま生き続けることは私には無理でした。

カウンセリングである問題が解決できても、また次の問題が惹起し、いつまで経ってもこれで安心満足できたということがありません。自己を超越する宗教的救済に値えば、より、相対的な個々の苦しみを凌駕できる身になれます。積み上げた先のより良い人格形成と宗教的自己超越は異なるのです。究極的な迷いの除去と広大なる知恵や慈悲との遭遇をめざすための、宗教的体験のためのカウンセリングの理論や方法はできるだけ向上していくものであり、相対的なものなので研究は進めていく方がいいです。また、宗教を説くものもカウンセリングの技術や考え方を学び、聞きに来られる方を尊敬、尊重できるようになり、何が今、引っかかって先に進めないのかを見極めて法を説くことが望まれます。

真宗カウンセリングは、話し手と聞き手が上手く相応するなら、対症療法では解決し切れない「無明の闇」を破り、迷いから覚め、生死を超える仏教の本来の目的にまで導くことが可能です。

感謝していること
先輩方の残された文章を拝読させていただきながら、同じような気持ちでカウンセリングについて試行錯誤されてきたことが知らされます。


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布教はまず相手の話を聞くことから始まる

2018/05/19 09:30
 真宗カウンセリングの論文を書いています。その中で、カウンセリングを学びながら布教活動をした人たちの文章に触れながら、自身の活動の振り返りをしています。

 初めは、阿弥陀仏の本願(真理)を前面に打ち出して話していましたが、それでは何だかちっとも前に進めない感じがありました。そのうちにきづきました。まず、どんな人も例外なく、自分の話をきちんと聴いて欲しいのです。聴いてくれる人が今までいなかったのです。何か話しても、途中で遮られたり、分析まがいのことをされて決めつけられたり、否定されたり、見当違いの励ましをされたり、勝他の為の質問をされたり、これでは話す気持ちが失せてしまいます。私自身も、求道中のほとんどの期間、他人にじっくり、ただ聞いてもらったことがほとんどありませんでした。ただただ、共感と受容をもって、正直な態度で聞いてもらうロジャーズ方式がよいのでしょうが、そういう訓練をしている人は稀です。どこかで聞いている人自身が出て来てしまい、話をする人は話すのを諦めてしまいます。

 ライフヒストリーでもいいし、その時感じていることでも何でも構いません。本人が気にかかっていることを打ち出してもらうのが始まりです。これが十分になされないと次に進めません。このことにきづいてからは、ひたすら、あたかも自身がその人であったならどのような気持ちでいるのかということだけに集中して聴き、確認し、その人が話し易いような質問を交えることに専念しました。一番大切なのは相手に対する尊敬の念です。負い目を感じさせることが少しでもあれば、そこで関係は切れます。ゲームオーバー、お終いなのです。信頼関係が無くなるとはこういうことです。

このような対話においては、デリケートで、ナイーブな関係を支える優しさかつ強さが、話し手である布教者するカウンセラーには要求されます。話し手の態度や人間観が前面に出てくるので、知識や技術のみでは太刀打ちできないのです。研鑽の途中でそれは痛感してきました。忍耐強さと諦めないで待つことも必要です。これは双方に言えます。話し手と聞き手の真摯な関係が維持できなくなったとき、人を変えるか、時を待つのかの選択が迫られる気がします。

 話し切った、聴き切った後、この段階で、真理との邂逅がふっと訪れます。つまり阿弥陀仏の本願を聞く体験を獲られます。本当に賢い方が人間で話してくれる人が誰もない場合は、稀に書物で救われることもあります。しかし、それは滅多にあることではないことを愚鈍な私は実感しております。何度も、何度も気が済むまで聴いてもらって、はじめて仏の願いにきづかせていただきます。

感謝していること
 本当にたくさん聞いてもうことができたことに感謝します。


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今を問うのがカウンセリング

2018/05/18 23:26
 カウンセラーという立場でお金をもらって仕事をしたくないのでしていません。それでもここ9年くらいそんなようなことを続けています。初めは仏教の「生死を超える話」・「きづきの話」のために仕方なくカウンセリングもどきをしていました。しかしながら、このカウンセリング的な聞き方を経ないと、仏教の話に進めないことがだんだんわかり、途中、カウンセリングや心理学の勉強をして、認定心理士や産業カウンセラーの資格を取りました。今でも、ときどき、カウンセリングのワークショップなどにも参加しています。

 勉強した結果は、自身がしていることの理論的裏付けができたことくらいでしょうか。実践で半分の年月を費やした後、カウンセリングと心理学の勉強をしたので、特に真新しい発見というのはありませんでした。結局、カウンセラーの最低限の技術面と、態度、そして人間観が大切だと知らされました。自身のことは誰かに聞いてもらわなければ、なかなか分かることではないのだというのは、仏教を求めた最後の方でそうしてもらっていたので、同じような聞き方をしていました。

「そうなんだ」「そういう風に感じているんだ」こう言うしかありません。自分がもしその人の立場なら、そう感じているまま、ありのままの共感を持って受け入れるしかあり編ません。否定や批判をすることもできますが、それをしても、今、分からないなら、言葉を重ねても無意味なので言わなくなりました。私はこう感じるというのは言いますが、それを受け止めようと受け止めまいとそれは仕方のないことだと考えながら言います。その人によります。聞き入れてもらえそうなときは言いますが、そうでないときは黙っています。

 なぜ、どうしてという質問をしても無駄で、結局、本人がきづいて変るのを待つしかありません。過去のことを問いただしても無意味です。否定も上辺の励ましもしません。分析もしません。その人が感じていることを鏡になって引き出す感じです。鏡がないと見えないことがほとんどですから。その鏡として歪みのないよう、最大限きをつけます。ただそれだけです。なによりも、今が大事で、今、縁が熟すようにならないと始まりません。今、聞けるなら聞ける、ダメならまたご縁があれば、そんな感じです。今生ではご縁がないのかもしれませんし。それでもその人ができるだけ早く真理との邂逅ができる話をする機会が来ればと願ってやみません。

感謝していること
 カウンセリングの文章を読んでいて、自分のしてきたことの振り返りができて、とても嬉しいです。


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他人との関係は常識なんて通用しなくて、毎回、白いキャンパスに共同で気持ちのいい作品を描く作業みたい

2018/05/15 23:44
https://www.msn.com/ja-jp/lifestyle/love/

 ほぼ大丈夫と感じて、似たような状況でも、全く初めてのことだとして、「どうしたい?」って、ちょっとでも迷ったら、面倒だと思っても、些細なことでもお伺いを立てるのが、早く仲良くなれる秘訣です。そこを省略すると喧嘩になり、険悪な空気が長く続くか、もしくは音信不通状態にいきなり突入します。心は眼に見えずが透明ではないので、自分が多分そうだろうと考えても、相手にとっては、全く違うこともありえます。慣れない内は、よそよそく、他人行儀で、しつこいように感じても、分からないものとして確認は大切です。何年付き合っても、確かめてもらうと大切にされているように感じます。怒鳴ったり、乱暴な言葉を吐くと要らないところに大きなシミをつけた様に元に戻すのにかなり時間が掛かりますので、お互い優しい言い方を心掛けましょう。

これは痛快でした。「好きな女性の気持ちを満たすこと自体が嫌いな下品な男であれば、すぐにでも別れてしまえば良い。だが、多くので男性は、好きな女性の気持ちを満たし、笑った顔が見たいものだ」。「下品」ですか。(笑)


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男性のある種の気持ち悪さは自分がモテていると勘違いしている自意識過剰が原因だと遅まきながらきづいた

2018/05/15 23:42
 今まで一度も、私自身がモテたいと願ったことがないので分からなかったのかもしれません。その時々に一番好きな人と相思相愛なら、ほかは関わりのない人たちは、男性の見かけをした女性、もしくは性別を取り払った友人だとしか認識できません。どうでも構わないのです。さほどよく知らない誰かから訳もなく好かれることも、見られることも何もかも嫌です。それぞれが、自分がこの人と決めた人とだけ向き合えば、きっと世の中問題は起らないのでしょうね。

 

まず、私なら、人として信用、信頼できて、それが尊敬の気持ちに変って、徐々にお互いのことが理解していく、上書き保存のようなことをある一定の長いスパンで続けることが基本です。それでも友だち以上には感じない人もあるし、本気で一途に好きになることもあるかもしれませんし、友だち関係に戻ることもあるでしょう。その時にならないと分かりません。




これは相手があることで、双方で構築する関係性なので、お互いの承諾なり、理解が必要です。一人で思っているなら、それは害にはならないでしょう。二次元のアニメキャラやアイドルに熱を上げているのと同じかもしれません。自分も相手も傷つかない代わりに、よろこびも少ないかもしれませんが、とりあえず、実害がないのでどうでもいいです。




ただ、勘違いする男性というのは質が悪いです。露出の多い、身体の線が出る、華やかで女性らしい服装などをしていると、男性の目を楽しませるためにそうしているのだと勝手に解釈するおかしな人が多いです。女性の自己表現だったり、趣味、好みだったりするだけで、男性のためにしていません。自分が気分のいい、心地よい服を身にまとっているだけです。この頃は、私こっちの服を自分のために選んで、着ていると自分でしっかり分かっていたらそれでいいのだと今は割り切れるようになりました。




服に限らず、態度でも、自分だけ特別扱いされている、どうしても勘違いとは思えない、真摯な気持ちでその人が必要だと感じるなら、頃合いを見はからって、聞いてみたらいいでしょう。そのときまでに信頼関係が築けているなら、たぶん、相手は本当のことを答えてくれるはずです。数々の段階を踏んで、途中を飛ばさないで慎重にしないと逃げられるかもしれませんが。お互いだけでなく、誰も泣かず悲しまない関係を目指していったら、本当にいい状況になっていく気がします。




感謝していること

誰かにどう思われても、自分軸がブレなければ、適切な関係が保てる気がします。自分がどうしたいか、したくないかをハッキリ選択し続けるのが人生なのかと知らされます。とりあえず今はまたスッキリすることが一つ増えて有難いです。


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なぜ、それほどモテたい?

2018/05/15 23:36
60歳になっても不特定多数の女性に「モテたい」と色気と勘違いしている気持ちの悪い何かを発散・露出する下品な男より 、女性の過半数は、一途で自分だけを大切にしてくれる真摯なひとに「モテ」ればいいだけみたいです。加えて、ホントにモテていると勘違いしている姿が、哀れで情けなくてくだらないと鼻で笑う余裕があるように感じますが。いかがでしょうか。
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それを縁というのか、波動というのかどうなんでしょう

2018/05/14 13:27
 誰かに対して「無理」と感じるのは縁が遠のいたのか、波動が合わなくなったのかどちらなのでしょう。いづれにしても、今、引き合わないということです。「今は無理」過去は尊敬できた世話になった部分もあり、この先は分からないけど、でも今は感謝して手放す、離れる選択を取ることが適切なのだと知らされます。

 だらしない、あまりよくない意味でいい加減な、遣る気が削がれる、自分が雑に扱われている、対等に渡り合える状況でない、安請け合いで引き受けたことの遂行を迫ると逃げるなどいろいろな感覚が混じりあうのでしょう。それでもどれでも「今は無理」なのだから、仕方ありません。縁や波動は直感と言い換えてもいいのかもしれません。気が進まないことはしないに限ります。相手に恩を着せ、自身の心身の不調を引き起こすことになりかねません。

 一つ、その状態から撤退するヒントがふと浮かびました。透明感のある清々しい感覚から遠いことです。濁っている、何か汚れている、雑然として散らかっているような感じのする人や物からは遠ざかることが肝要です。ふと、「あれっ」と感じる瞬間があるはずです。「何か違う」「以前と違う」とか、清潔でない雰囲気が少しでも漂って来たら、それは自分にとって良くないことが起こる前触れの時が多かったです。

その直感を無視すると、トラブルが発生します。立ち止まって関わり合いを今は断つ、別の道を行くなどしていけば、また、清々しい感覚で対象が自分の元に戻って来るかも知れません。自らは近づかないようにしつつ、遠巻きに様子を見聞きしていたら、それらが自分にとって必要なものかどうかは、そう遠くない未来に判明します。本当に縁があり、波動があっているなら、すんなり、気持ちのいい形で自分の前に現れます。そうでなかったら、二度と現れないでしょう。そんなものだと感じていると気が楽です。

感謝していること
日常、いろいろなサインで知らされることがあるので、それを見過ごさないで受け止めて、生かせるようになれということだと今更ながらに学べたのは有難いです。


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数年後の理想とする暮らし

2018/05/13 20:14
 とにかく静かに暮らしたいです。できればただいつも微笑んでいたいです。
 誰かと対話して、何かを見聞きして、読んで、書いて、創造するとか分かち合うことをしていたいです。
 研究やほかで悲しい人や物を見聞きしても、自分の家では、できるだけ落ち着いて自分の好きなように時間を過ごせたらと望みます。

 欲しいことなど何もないし、あまり食べなくてもいいし、嗜好品も取らなくても構わないので、ただただ静かにゆっくりとした時間の中で、残りの人生をだんだんに終えていきたいです。仕事は自分の能力を全て出し尽くして取り組みたいので、家ではのんびりしていたいです。きっと、こんな風に暮らしたいと望んでいれば、そうなれる気がします。根拠のない自信のようなものもあります。

 感謝していること
 死の不安はないですし、先々どうなるかということもあまり気になりません。不思議で有難いです。


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ずっと許せないかもしれないじゃなくて、今は嫌なだけ

2018/05/12 23:49
 ある出来事がそのことが起こった時点と今では違った感覚があるはずです。その時は強烈でも日々を経るにしたがって、徐々に許せないのが弱まるかもしれないし、仕方ない、お互いさまと思えるようになるかもしれません。未来はまだ来ていないのでわかりません。

大切なのは、今自分がどう感じているかです。この先、どんな展開があるか分かりませんし、そのことによって過去のその出来事の自分自身の感じ方が変わるかもしれません。

 

 でも、今が嫌なら、それはそれでそうなのだと認めたらいいだけなのだと、今日のリフレクティングのワークできづきました。自分が嫌なんだという気持ちを誤魔化して、考えないように蓋をするよりも、「嫌だったんでしょ。辛く哀しいことだったんだよね、今でも嫌でしょ」と許せない自分を許すこと、すなわち、自分の気持ちを自分で受け止めることが出来たら何となく心が軽くはなりました。




 嫌なことを嫌だと認める代わりに、嫌になっている理由を探し出してきて、嫌がっていることを正当化しようとする癖は苦しくなるばかりなので止めようと決めました。嫌な気分や泣きたい気分を味わいつくしたら、そのうち飽きるかもしれません。飽きるまで「嫌なんだよね」と頭なでなで、背中とんとんしてなだめてやるしかないのでしょう。自分を癒せるのはほかならぬ自分であって、ほかの誰かでは決してないのだと改めて感じることができました。




感謝していること

 花柄を着て行ったせいか、「ふわふわ」「お花」「引き寄せ」「癒し」という感じの中で今日のワークは終了しました。それが使命を果たす上で、誰かの何かの役に立つのなら有難い気がします。


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本当に頼れるのは解決の道筋を教えてくれる人

2018/05/12 08:53
 生死を超えることにしても、大学に受かることでも、身心の病が治ることでも、実際そういう身になれることを知っていて、どうしたらなれるかを教えてくれるひとでなければ役に立ちません。自分がなりました、できましといくら嬉しそうに語られても、一人で自慢して、よろこんでいる人は信用しません。

 どうしたら同じようになれるか知っていて、そうなりたい人を導けないと意味がありません。その人が教えられなくても、自分が導いてもらった、ほかの誰かや方法を紹介するなどできます。そんなこともできないで、ただ、よろこんでいるのでは情けないです。




 宗教家の役目は、生死を超えて、いま、いつ死が訪れても安寧の身にあることを諦観してもらうことです。これが一番です。医師やカウンセラーは心身の病を治すことです。高校の教師は志望校に合格させることが第一目的です。これらを外して、耳触りのいいことをいくら並べても、机上の空論にしかなりません。よくよく心得なくてはなりません。




 趣味や楽しみは別に何をしても構いませんが、もし、生死を超えることが人生の目的と的を絞っているなら、そのことに専念しないと短い今生は矢が飛んでいくようにあっという間に過ぎ去ってしまいます。そこのところを熟慮すべきです。




感謝していること
 人生の宿題も済んだので、同じ課題がまだ終わらない、進まない人のお手伝いをすることが私の今生の使命だと残りの人生を生きることができるようになったのは本当に不思議で有難いです。


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大学は教員を免許制にして研究者と分けたら?

2018/05/11 22:54
 大学で学生や教員がアカハラ・パワハラ・セクハラ・マタハラに遭うケースが報告されます。教員とは何なのか考えさせられます。

今日は子どもの高校の懇談会でした。担任の先生は大学院を出て中高一貫校の数学の教員となった人です。昨年の高校1年の時から連続で今年も担任をしてくださっています。まだ二十代ですが、本当に佳く生徒たちの面倒を見てくださいます。2年から文系と理系が分かれて少人数になったせいか、娘は数学がよく分かるようになったと言っていました。年齢は若くても、人としてとても尊敬できる先生です。子どもたちがどうしたら数学ができるようになるかいつも考えていると言われます。クラブ活動の顧問もしていらして、そちらも熱心に指導されているようです。

幼稚園から高校の教員になるには教育原理などを教職課程で学び、教育実習が必須です。現場で適性を考えて、実際、教員になるかどうか決めます。無理ならほかの仕事に就くことになります。向き不向きを自分自身で判断できるのが教育実習の期間です。私も幼稚園、小学校の教員の資格を取るためにそれらを経験しました。教員とは人格の涵養だと思い知らされました。

大学の教員はそういったことがなく、非常勤を経て、公募などで常勤になり、教員と研究者の二足の草鞋を履くようです。教員と研究者の両方の面で優れた人なら言うことはありません。しかし、教員としては素晴らしいけれど、研究がもう一つなのと、研究は素晴らしいけれど、ハラスメントを空気を吸うように繰り返し、学生の芽を摘む教員なら、害がない方に子どもを託したいです。ゼミの先生の外でも聞きに行くこともできますし、自分で研究を進めることもできます。

ハラスメントをする教員のために学校を止めないとならなくなったり、研究が滞るなどの実害の方が深刻な問題を孕みます。教員は知識を教えるだけではなく、人としてのお手本になるように人格を磨くことが、素晴らしい研究者を世に出すことにつながると私は感じます。でも、ハラスメントをしたり、整理整頓ができない、だらしのない格好をしているなどの教員でも研究が認められていると評価されます。先々、自分で自分の首を絞めることになるでしょうから、気を付けた方がいいとは思いますが、いい大人だし、敢えて口にはしません。

大学は、論文や研究指導をする教員と、研究専門にする人たちを分けたほうが、学生のためにはなる気がします。それが叶うなら、教員は高校までのように、教育の専門科目を履修するなど教職課程を取り、教育実習に行くべきです。あまりにも常識や優しさのない教育者として?がつくような教員の話を見聞きして憂う今日この頃です。

感謝していること
 中高一貫の私学に娘は通っていますが、先生方の温かいご指導に感謝しております。


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仮に瞑想などで人間人格最高峰を極めても、気を抜くと戻り、死の前で無効

2018/05/11 09:33
 瞑想などで、人格が優れたものになっても、気を抜くと戻ります。
人格の最高の極みに上っても、死の前では何も役に立ちません。
 なぜ、そのものズバリの死の解決をしないのでしょうか。
 方法を知らないからでしょうか。
 そこまで深い考えに至っていないからでしょうか。
 私にはよく分かりません。

  最期の最期に笑っていられるものでない、中途半端なものをなぜ求めるのか。
 財産、知識、名誉、地位、対人での癒しなどいろいろなものを求めても、無常の風の前では、ふっと飛んで行ってしまいます。 それなのに、根本的な解決を目指さないのはやはり縁なのでしょうか。

死刑囚がたとえ恩赦で牢獄から出られても、大病を患っている人が優秀な医者の施術か手術で元気になっても、近い将来死ぬに決まっています。死ぬのが少し延びただけです。ただそれだけなのに本人も周りも大喜びです。死ななくなるか、死が訪れてもその先が安心できるものでなければ本当によろこぶことなどできないはずです。よく考えなくても分かります。ただ、考えないようにしているだけです。結果は分かっているので、怖いから見ないようにしているのです。助かった人も、一緒によろこんだ人も死にます。

 人間関係やほかのものを求めるとは別の、二度と戻らない、死の解決の道はいろいろあります。たとえば、浄土真宗では正定聚の身に救われることが説かれています。不退転なので一度救われたら死んでも後戻りはしません。そういうものに縁がないと、色々他の雑多な元に戻るし、時間のかかる回り道をします。どういう人生を送ろうとそれぞれの勝手ですが、早く易しい方法で死の解決をいまここでされることを願って止みません。縁によりますが、聞法を重ねることが浄土真宗の道といえば道です。本人も救われた人から聞かせていただくとより速いです。そういう人に出合えるのも縁なのでしょう。そういうことがあるのだと強く信じて求めたらきっと出合えます。

感謝していること
 何の不思議なご縁なのか死の解決という目的からはぶれることなく、脇道にそれずに生きてこられたことを有難く感謝します。


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一人一人のしのぎ

2018/05/10 23:06
 人生のいろいろな場面で起こることも、もちろんですが、生死を超えることは周りがどのようにアドバイスしても、本人がその気になって,克服しなければならないと感じた時でないと始まりません。また、ほかの誰も、私も代ってあげることはできません。助けて欲しいと言われない限り、表立って何かするとあまり良いことにならないので、蔭ながら念じて、本人に分からないように見えないところでこそっと手を差し伸べるくらいしかできません。

 こんなことをしていると、きっとこういう結果になるだろうと思うことも、忸怩たる思いでただ見ているしかできないことも多いです。命に関わることなら身を挺して助けるかもしれませんが、そういうことは滅多にないので、気を揉みながら傍観するしかないことが多いです。

 一人一人のしのぎという学びなのでしょうが、迷いを抜ける気になるのは簡単なことじゃないと知らされます。広大無辺な智慧と慈悲の光、力がかかっているので、今、ここで救われることも可能です。各自救われる時は異なるので、それはご縁としか言いようがないですが、お声をかけてくだされば、出来ることはお手伝いさせていただきます。

感謝していること
 求めていればきっといつかは叶うことがあると信じて、長い間かかりましたが、生死を超えることができました。今は安心、満足の日暮しの中、満ち足りた人生が送れます。全てのご縁に感謝します。


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「なんとなく」「きもちわるい」

2018/05/10 09:28
 「なんとなく」「きもちわるい」このもやもやが「もうむり」になったときが、私が誰かとの関係が終わるときです。「もうむり」になるまで、小出しにして、いろいろ言ってみたりしますが、言い方が控えめでわからないのかもしれません。飽和状態になったとき相手との関係を凝縮する「キーワード」が決め手となり、「やっぱりこのひととはもうむり」となります。
 
「なんとなく」「きもちわるい」目つきなどの見かけとか雰囲気とかから始まりますが、だんだんに「攻撃モード」を感じるようになり、その人の「劣等感」「怖れ」などが響いてきます。それは私にはどうすることもできない、あなたが自分できづいて何とかするしかないと分かっているのに、優柔不断な私はそのままにしてしまいがちでした。

 恥も外聞も捨てて、聴きたい、教えて欲しいと頭を下げる正攻法のやり方で私に解決を求めるなら何かしら考えもします。そうではなく、自分の欲望だけを満たし、私に甘えて、傷つることで問題から逃げる時間がその人にとって遠回りになり、勿体ないと最近は分かってきたのでさっと身を引くようにしています。これは、決して上から目線ということではありません。熟慮の上の手放しとでも表現しておきます。

 本人が真摯な態度で私と向き合う覚悟が出来たら、謙虚になっているので、威張ったり攻撃することはなくなります。それが人間同士の本来の関わりかただと私は感じます。そうなったとき、「なんとなく」も「きもちわるい」も完全に払拭されています。
 冷たいようですが、「もうむり」なことを引きずっていても、共倒れになります。お互いのためになりません。最近は、私自身スッキリしているので、それでいいのだと感じます。
感謝していること
攻撃することもされることもない、優しく穏やかな日々を送れるようになりました。きがつくと笑っています。
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今生で迷いから覚めることなく、人間の関連の何かの追求で終わる残念さ・危うさ

2018/05/06 18:58
 せっかくのチャンスに、迷いから覚めることではなく、人間の何か役に立つことにばかり目が向くのは非常に残念で、危ういことです。よろこんであれこれしながら、崖に向かっている人たちに対して、何か示唆することは出来ますが、危ないところだったと認知して引き返すかどうかは本人次第です。無理やり押さえつけて、方向転換させるわけにもいきません。そう考えると無力感が胸一杯に広がります。危うい状況化を、仕方ない、どうにもならない現状を指をくわえてみているだけというのは何とも残念です。

 それでも、一人でもいい、きづく人があるなら、文章や話やワークショップなどで、迷いから覚めることができることを伝えられるのではないかと孤軍奮闘の毎日です。私自身が、危ういところで崖への道を引き返すことができましたので、余計に迷いの中、破滅に続く、暗い崖への道しか知らないひとたちが不憫でなりません。

人間の生活に便利なもの、病気を治すもの等を研究する人たちが偉いのかというと、それらを享受したとしても、人は死ぬんです。必ず。火の元に水をかけずに、火の粉ばかりに消火活動をしているようなものです。愚かとしか言いようがありません。もともと、自分が迷っているとは感じていないひとがほとんどです。暗くて人としょっちゅうぶつかり合い、文句ばかりの人生でも、こんなものかと割り切り、名利に走っては、損した得したと傷つけ合います。

 迷っている人間同士は他人に対して優しくなんてなれません。自分自身が苦しさを抱えていますので。その苦しみすらも見ないこと感じないことにして誤魔化して生きているので、数限りない悩みは途絶えることなくやってきます。

 一日も早く真理との邂逅を果たしてください。いま、ここでできます。

感謝していること
 苦しみの根本が何であるのかきづかさせていただき、すっかりそれがなくなったあとは、本当に見るもの聞くもの色鮮やかでハッキリ感じられます。モノクロの世界がカラーに代ったよりもっと劇的な変化でした。


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死後、通夜も葬儀も法事も墓もない人生って?

2018/05/05 22:53
 最近では、葬儀が密葬、家族葬という形で行われることもあります。身内がいないと行政が火葬して共同墓地に葬られるそうです。何とも言えない気持になります。たとえ自分がお葬式に行けなくても、ほかの人たちが故人を偲ぶセレモニーをされていたなら何となく気が済みます。

遠い親戚が老人ホームに入り、連れ合いが一年以上も訪れず、何も話すことなく逝き、家族葬でひっそり旅立ったと聞き、そういう人生は哀しいと母は言いました。その人は家族の外には親しいひとはいなかったのでしょうとも。

 生きてきた証は、自身が真理との邂逅を果たし迷いから覚めて、来世は悟りの境地に生きるという確信が持てることだと私は知らされました。思うんじゃなくて知っています。私の死を弔って、偲んでくれなくても全く構いません。でも、私がそういう心境にいなかったとしたら、葬儀も墓もなく死体を焼いて相済みという扱われ方は、何と悲しいことでしょう。

 目的が果たせていてもそうでなくても、元気で仕事が上手く行っているときは、誰も自分のことを気に掛けてくれていなくても平気かもしれません。若くて、何でも順調で、有頂天で困っていない時は、誰かの親切も煩いと跳ね除たりもします。それでも、病気になったり、もしくは仕事が面白くなくなったとき、自分のことを心から心配してくれるひとがいないのは何とも心細いことです。そうなる前に、家族同士、友だち同士、日頃から安否を尋ねて、親しくしていくと人生が潤い、気分がいいです。

感謝していること
 明日の昼は、中国人のお友だちの家でお好み焼きパーティをします。娘と一緒に行って作ってきます。楽しみです。


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今生を学び切る覚悟

2018/05/05 15:53
 だらだら過ごしても、覚悟や決意を持って過ごしても同じ一生です。

 今生で果たす目的を終え、その後の使命を私は生きてきました。

 それぞれの学びややり方があるのでしょうが、何だかつまらないし勿体ないように感じることがあります。余裕がある、力を出し切っていないもしくは出し惜しみしている。それはそれでその人の自由であり、口出すことではないのでしょうが、苦しみの原因がそこにあるとは気が付かずに、別の方向で頑張っていたり、他人のせいにしているのを見ていると遣る瀬無いです。

 私は最近、道についてよく考えます。自身が信じる道を行けば先が見えてきたり、開けていく気がします。それしかありません。誰かの考えや意見は参考にはなりますが、最後に決めるのは自分です。自分の責任における人生を歩んでいくしかないです。これは大人でも子どもでも同様のことです。人生の終わりにどうなっていたいか、そこまでの見通しを付けて生きていくしかないです。志半ばで終わってしまうかもしれませんが、それはそれとして、行きつけるところまでいったらいいだけです。

 中途半端なのと、自分の本音と実際の言動が一致していないことは苦しみを招き、ストレスが溜まり、それなりの成果は出るでしょうが、いつも消化不良で、達成感がなく何か足り心を抱えて過ごすことになります。それが今生の学びであり、そういう状態を甘んじて受けられるならそれでもいいです。でも、私はそんなのは真っ平御免です。そのようにいきてきましたし、これからもしません。

 ただ食べて寝て起きてが人生なら、それは無駄な消費活動であり、他人を傷つけ続けるサイクルにしかなりません。そこに真理との邂逅という要素が欠落しているのが問題です。真理との邂逅を目指す、果たす、その後、どういう生き方をするか自分で考えて道を開いていくことがない人生は迷いの苦しみの中で溺れているようなものである気がします。

 目的に向かって一直線に進む覚悟、今生の自分に課せられたことを学び切る決意がないから、逃げているから苦しい人生が、そこにあるのだとやっと知らされました。明らかに使命を果たすことに障害となり、目的違いの場合を除き、何らかの学びのヒントが隠れている気がします。

 とりあえず力の出し惜しみをすることやいい加減に誤魔化すことはそのままの結果が返ってくるので、極力しないようにすると決心しました。

感謝していること
大きめなモニターや目に優しい蛍光灯などを買ってきました。大学院での最終の学びを一日でも早く修了できる心強い味方になってくれそうです。有難いです。


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人生の最期はどうしたいですか

2018/05/05 09:52
 家族や親しいひとたちに看取られて「お浄土でまっているから、元気に仲良く暮らすように」と言って還るのが理想でしょう。それができたら自他共に今生の生を全うできたように感じられます。

 80歳を過ぎるといつ何時無常の風が吹き儚くなるか分かりません。心不全でおばあちゃんは夜中に一人他界しました。今日は妹の夫の父親の訃報が舞い込んできました。肺炎をこじらせたのが死因だったらしいです。普通に暮らして元気にしていたとのことです。ただ、施設にいて家族とは頻繁に逢えず寂しい思いをしていたと聞きました。夫婦といえど元々は他人であり、親子でも所帯を持てば親のことをそれほど気に掛けてはいられないこともあるかもしれません。今、まるで自分自身のことのように常々気に掛けてくれる誰かがいたなら、そういう人たちを大切にしていかれると臨終のとき少しは気分が晴れるでしょう。

 それよりも、還る先がハッキリしていることが大事です。これが人生の目的そのものです。ほかの誰よりも私のことをよく分かり、本当に大好きでいて、常に私だけを憶ってくださる懐かしいお方の待つ故郷にやっと還れるのだと嬉しい気持ちでいられます。この世のことは名残惜しくもあるけれど、明るい未来の行先を確信できていることが何よりも我が身には不思議で有難いと、今も私の心はいろいろなことを見聞する毎に感じられます。

感謝していること
 なぜこんな心境になれたのか、様々なひとや物の織り成す出来事を振り返り感謝の気持ちで一杯です。


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今生で目指すところ

2018/05/04 23:08
 心と言動を可能な限り一致させることです。

 本当はしたくないことを嫌々するのは苦手です。

そんなことをしているときの言動は視覚が機能していない人や、心が透き通っている人にはどう映るのかといつも考えてしまいます。




人間同士が疑心暗鬼になるのは、思っていることと言動が不一致である人たちと過ごさなくてはならない日常にあるかもしれません。小さい子どもたちは思ったままの言動をしますので、見ていて余りストレスになりません。けれど、歳を追うごとに隠し事や嘘や誤魔化しや見栄などいろいろな要素がからんで、相手の本心が分かりにくくなります。それで心が病んでいくことも多いようです。




誰か一人家族でもパートナー・友だちでも誰でもいいので、心の底から信頼・信用できる人がいたら、人生違った色や景色が見えるでしょう。ロジャース理論(仮説)の自己一致はとても大切であると私も感じております。




いつもは難しいですが、いま、ここで目の前の人と向き合う時、自己一致している瞬間を積み重ねて、心が透き通っている時を少しでも多く過ごすことを私の今生の使命の一つにしてまいります。それで心がお互いに救われるならよろこばしいことです。




感謝していること

 海外に住む日本人のお友だちと京都で来週逢えることになりました。大学やその周辺を案内するつもりです。短い滞在期間なのに、わざわざ逢いに来てくださることに有難く感謝いたします。


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生きる目的は人間関係の調和ではなく生死を超えること

2018/05/03 23:31
 いくら仲良く元気に暮らしても、いつかは老いて死んでいきます。

 生死を超える体験を少しでも若いときに済ませてしまったならば、残りの人生は特に何も望まなくなります。劣等感もその根底にある死に対する恐怖心もないので、他人に譲る気持ちがあるので、特にどうでもよくなります。




 生死を超えるというのは迷いを抜けて目覚めることで、死が来てもその先は故郷に還る感覚でいられます。生と死が断絶ではなくなります。還るべきところに還るのだと安心して生きられるようになります。




 精神の病は他人との関係の不調和からもたらされることが多いです。カウンセリングを学んできましたが、そんなことばかりです。人間関係に長じて、スムーズに世渡りが出来たとしても、生活も豊かで、元気で長生きできても、生まれたからには人は必ず死にます。行く先が決まっていたならば、残された家族にも先に行って待っているからと言い残して還れます。その様な境地に達することができるように真理を求めることが人生の目的です。




 人間同士が育て合う、育ち合うのではなく、真理にお育ていただくということなのでしょうが、そのことは真理との邂逅を果たさなければ、わかりません。




 人間の世の中は面倒ですが、これも真理に行きつく学びなのでしょうか。それにしてもかなり辛くしんどく哀しいことが多いです。そこまでされないと真理を求めようとは感じられない愚鈍な存在が人間というものなのでしょうか。




 それはともかく、死ぬときには、先に行って待っていると言い残して私も死んでいきます。だから悲しまないでください。待っていますから。

 感謝していること

 行く先の故郷が明るく感じられ、特にこの世に何の未練がなく、誰かと争ったりすることもなく、威張ることも、脅かすこともなく、生きられるのは不思議で有難いです。これを仕合わせというのかもしれません。


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究極的に帰する点は無・空、性質は菩薩心(慈愛・信愛)

2018/05/03 13:08
 他力は何もなく無であり、空っぽでした。

 華降るお浄土はあってもなくてもどちらでもいいです。

方便として見えることもあるかもしれませんし、見ることは無いかもしれません。

私にとって形としての姿は重要なことではありません。




ただ、他力のひととは今生が終わっても、また逢えるという気持ちがあります。

どこで再会しようと、すぐわかるのではないかと感じます。

そういう感覚があるので、今生の孤独も紛れますし、来世への不安はありません。

本当に不思議で有難い心境です。

感謝していること
心身が多少弱っていても、還るべき故郷があるので、なるようになると感じられます。死ぬ縁が来たら死んで、よろこび、よろこび故郷に還れます。


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口にすると、相手が完全に引いて、心の繋がりがプツンと音を立てて切れる言葉

2018/05/03 09:16
 「黙れ!」、「煩い!」、「(仕事の)邪魔だ!」

 「出て行け!」、「誰のお蔭で生活できている(食べられて いる)と思っているんだ!」

 明らかに「モラハラ」、「パワハラ」等の力で相手を押さえつける言葉です。こんなことを同じ人間なのに、大人が言われる筋合いはありません。子どもでも同様です。


 冗談でも、言葉は、一度、口から出たら戻りません。

  上記の言葉は、首の上に絶対出してはいけない言葉です。

  言葉で人を殺すのと同じくらいの効果を持ちます。

  もし、相手に投げかけたら関係は終わります。

二度と相手と関わりたくないのでしたら、反対に、これらを有効にお使いください。どうしても、相手と関係を修復したいなら、恥も外聞も捨てて、誠心誠意謝罪することです。許してもらえるまで何度でも。それでも無理なら本当に今生では縁がなかったと諦めるしかありません。

  もし、自分が言われたら、それはもうその人とは縁がありません。自分が言っていけないし、他人に言われたら、即、その人とは離れるべきです。私は「べき」という表現が苦手で、日頃、使わないようにしていますが、ここは「べき」です。

 自分を大切にする人は、他人も大切にします。
 特に、言葉遣いには慎重になります。
自分が他人を雑に扱わない人は、自分を雑に扱う人とは一緒にいられません。自分に何もなくても、生きているだけで幸せな人は、他人に幸せにしてもらおうとは思いません。わざわざ、不幸になるのを承知で、心が荒れていて、他人を粗雑に扱う人には近づきません。それは、なぜかいうと、自損損他になることを知っているからです。

誰かの言動で自身がどうこうなること、それはあまりありません。自分軸がしっかりしていたら、心が揺れることは一瞬あっても、戻りも早いです。自分のためにならないだけで、相手のためになるのなら我慢もしますが、両者にとって良くならないことからは身を引きます。相手が聞く耳も持たない、助けて欲しいと望んでないときは、離れて何もしないのが一番です。

感謝していること
自宅の庭の紅い薔薇が満開です。心がぱっと明るくなります。


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丁寧に憶いを伝え合う

2018/04/29 23:20
 「どちらが先に還っても、またいつか必ず逢えるから」と言える関係はかけがえのないものです。そんなことを口に出して、または文章ででも、あなたに遇えてよかったとの憶いを込めて言い合えるひとがいることを私はとても嬉しくてなりません。辛い環境にいなければならない、大病をして心細いようなときでも、あのひとといずれはまた遇えるということが心に安寧をもたらします。

 どうか、孤独で心細いとき、忙しいとき、身心が疲れ果てているとき、私があなたの心が平和であることを願っていることを覚えておいてください。あなたは一人ではありません。あなたのことを大切に感じている私が、今生もその先もずっと一緒です。そのことを忘れないでいてください。

感謝していること
私も辛く悲しいときはいつかまた、今生でご縁があった大好きなひとたちと、実際、どこかで逢え、他界した後も、彼の地で逢えることを励みに日々過ごしていられます。法の友というのは有難いです。


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心も身体と同様、対症療法では完治しない

2018/04/29 07:48
 論文作成の為に文献を読み進めていくと、いろいろ知らされることがあります。
 その中で、心の問題も対症療法をするカウンセラーでは解決できないということが分かりました。言い換えれば、根本的な問題である「死の解決」ができないでいるうちは、ある問題は解決できても、また、どんなにいいことを言われても、それはその場の痛み止めくらいにしかならないということです。

 死んだ先、何の心配もなく還れる故郷があると教えてくれ、本当にそこに行けるのだときづくことができるような話をしてくれるひとから、困りごと、悩みを相談しないと、いつまで経っても、苦は色を変えということの繰り返しになります。

 今、臨終が訪れても、何もできない私を、そのままで、よろこんで迎えてくれる方の待つ、故郷に還れることがわかったら、どんな苦しみ悩みも問題にはなりません。乗り越えられます。どうかそのことに早くきがついてください。

感謝していること
 待っていてくださるお方、還れる場所があるというのは本当に不思議で有難いと感謝しております。
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決めつけて恩に着せない

2018/04/28 23:31
私は医者が苦手です。病気を診断してもらおうとも、治してもらおうともしません。死ぬ時は死にますから。たぶん、カウンセリングも必要ないです。自分以外のひとには心のうちはおそらく分らない気がします。困りごとをあるひとが決めつけて、原因が分ったようになると、恩を着せるようになりがちです。死の解決以外は本当に困っていないことに気がつきました。身心の不都合のようなものも、困ったようで困っていないので、どうでもいいのです。

 きづきの話をするとき、必要であればライフヒストリーの丹念な聞取りもします。でも、ただ聞くだけ。あなたはこういうひとだとか、こういうところがよくないから考えた方がいいとは言ってきませんでした。私は辛い気持ちをただ受容しただけでした。そして「辛かったんですね」とたまに共感するだけ。私自身のことを聴かれたら、嘘や誤魔化しがないように応えました。言いたくないことはその旨を伝えました。

 人間の自分は正しいという強固な思い込みを怖いとおもいながら見続け、様々なハラスメントで相手を自分の思い通りにしようとする人たちに翻弄されながら、それでも、自分の使命を再確認しながら生きてきました。

 私は世間で何が正しいかなんて分りません。本当にどうでもいいのです。でも、子どもや大切な人が、私以外の人たちから責められ、酷い目に遭わないように、筋を通すことはしっかり示してきました。時に厳しく、わざと感情的になっているふりをしたりしたこともあります。でも自分の憂さを晴らしたり、スッキリするためではありませんでした。

 自分がされて嫌だったことも、言いたくない気持ちを乗り超えて、言ったこともあります。それも、自分以外のひとにその人が同じことをしたら、今後、そのひとが職を失ったり、信頼されなくなったりすることを考えてのことでした。私自身は直ぐ忘れる質なので、傷つくことも気にすることもあまりありません。でも、相手は決めつけられ、恩に着せられたと思っていたとしたら、意を決して私がしたことは何なのかと悲しいです。本人が頭を打つまで放っておいてもいいし、それが今生での学びなのでしょう。でも、お節介というか、見ていられないのでしょうね。長年、仕事でもまれたことやいろいろで、結末の予想が付くので。

今死んでも、何の不安もない身になれるお話しをすること、そういうことを書くことに軸を置いてぶれずに、短い残りの人生のほとんどの時間はしていこうと存じます。世間のいろいろなことはそれを得意として、そういうのが好きな人に任せます。私は私の道を歩いていきます。もう無理をしていろいろすることもないでしょう。かなり疲れましたから。今後は私が自分の仕事だと感じることを粛々とさせていただきます。

感謝していること
 真摯に一貫性を持ち今後の人生を生きていこうと決意することができて、嬉しく存じます。


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研究、特に人文系、その中でも心理学に関わっている方へ

2018/04/27 08:01
 研究やその過程において、他人に嫌な気分を感じさせるのはただの自己満足の域を抜けていません。研究とは自身の貴重な学びの時間を切り売りしてまでしているものなので、それに見合うものがもたらされないとなりません。自分にとってでもですが、他人にも恩恵をもたらすものでなければ意味がありません。そこら辺を勘違いしている人が多いように見受けられます。

 自身が書いて、学会で発表する前に、先行研究をされた方の言葉の表面だけでなく深いところまで、聴いて、読む作業が十分にできているかお互いよくよく考えなければなりません。

私はある方のされてきたカウンセリングの活動を、その方の論文や講演や著書を通して研究し月末までに論文としてまとめる予定です。その中で、自分も同じ思いをしてきたこと、その方が別の捉え方をされていたこと、前読んだ時にはわからなかったけれど、今は分かることなどいろいろあります。けれど、それが知らされたのは、いかにして自分も周りの人たちも、よりよく今生での学びが出来るかを考えてきたからだと感じます。学びだけではなく「生死を超える」「抜苦与楽」「転迷開悟」の身になってもらうことを目的とした研究だからです。

先人の知恵や活動の記録を元に、さらに何かもっと分かり易く、有意義な方法が示せるのではないかと何度も何度も文献の文章の言葉を超えたところに思いを馳せています。研究のための研究もいかがなものか感じますが、研究している者同士が争い合ったり、その研究過程においての大学の講義やゼミ、研究会や学会などで、他人を貶め、負い目を感じさせるようなことはあってはなりません。何のための研究か、心理学なのか初心に戻っていくことをお互い常に忘れずにいたいです。

感謝していること
文章の全てから信愛・慈愛の念が届きます。このような研究をさせていただく時間を与えられていることに有難く感謝いたします。


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言動とスピリチュアルなものを一致させる

2018/04/27 07:26
 この人とはもうダメだと感じることがいくつかあります。

 嘘や誤魔化しは本当に無理です。

 特に小さな嘘やちょっとした誤魔化しは始末に悪いです。

 深くかかわるのが面倒だし、底の浅いことを知られるのが嫌だから、相手の言うことを受け止めず、受け取らず、励ましたり、質問したり、そのまま返すような応答をするひとも、もういいです。




 本人はこれくらいいいだろうと気にしなくても、嘘や誤魔化しを少しでも感じてしまった側は、それが積み重なって、どんどん信じられなくなって疎遠になります。許すとか許さないとかのレベルじゃなくて、気持ちが受け付けなくなります。おそらく、そういうひとたちは、同じように嘘や誤魔化しの中にいる人となら意気投合するのかもしれません。それでも、そこでも疑心暗鬼でスッキリすることはないのでしょうね。とても気の毒ですが、私にはそういう生き方は無理です。




 自分に嘘がつけるから、自分を大切にできないから、他人に対しても空気を吸うように嘘や誤魔化しができます。まず、誠心誠意生きていくことが肝要、嘘や誤魔化しのメッキはすぐ剥げるのだから止めようと肚を括ります。引き受けたことは最後まで見届ける、それが出来ないなら初めから引き受けないことです。




 嘘や誤魔化しの人生を送ることも学びなのでしょうが、そういう学びは哀しいです。とても中途半端で、毒をまき散らし自他ともに傷つけます。自分をよく見せようとし、よく思われようとするのでしょうが、自分にも他人にもよい方向に行くことはありません。自分にも他人にも胸を張って誇れるような言動を選んで生きてまいりましょう。

感謝していること

 陽が差してきて気分がいいです。


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いつも温かい春のそよ風に吹かれているような気分

2018/04/27 06:07
 次は別の道を行く。

岐路に立つとき、だんだん慣れて心地よい選択ができるようになっていく。

 不本意だったり、違うと感じたりしたら、別の方法を取ったらいい。

 状況の大枠は変わらなくても、小さな選択はその都度できる。

 

 失敗もさほど怖れず、やり直したり、別の方法を取ればいいと開き直った。

人生は日々、もしくは瞬間、瞬間で、あみだくじのような選択の連続。

どちらに行っても、行先は決まっているので別にどうでもいいけれど。

できるだけ笑って、穏やかにして暮らしたい。




疑い、罪を着せ、謝らせることの連続を横目で見ているのも何だかなぁと辛い。

名利に躍起になっているのも痛い。

何だか面倒なことばかり見聞きするけど、それもどうでもいい。




心の中はいつも晴れてそよそよと風が渡っているから。

感謝していること

吹っ切れたことがあり、無理矢理、我慢しなくてよくなり、何だかとても清々しいです。


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セクハラを告発できる環境

2018/04/24 09:49
本人のエネルギーと周りのサポートの両方がないと被害を暴露しにくいです。海外で痴漢が日本よりも少ないところでは、加害者がボコボコにする等助けてくれる期待ができる信頼があるようです。日本だと無視されたり、加害者が逆ギレして自分はやっていないということもあり、声を上げにくい状況です。

 看護師は死ぬような病気でない男の患者の玩具ではありません。少し金を払ったくらいで、病院をキャバクラと同じように考えてもらっては困ります。

身体を触られることが日常茶飯事になっているのは違うでしょう。よくあることということで泣き寝入りするような感覚で病院側も看護師も片付ける問題ではありません。

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生死出る道を今、ここで求める

2018/04/22 00:24
 ひとは無常を感じる縁がないといつまでも生きられるという妄想を持ちます。

 だから、周りの人が死を以て、そうではないと教えてくれます。無常を教えてくれた方の御心を無駄にすることのないように、生死出る道を今、ここで求めてください。

 あの人が死んだ、あの人もまた死んだという知らせを受けても、我が身が死ぬとは本気で感じません。辛く哀しいことですが、無常をいくら見せられても無常とも感じないあなたに、親や身近なひとは、あなたもいつかは私と同じように此の世を去らねばならないと知らせてくれているのです。

 どうか、人間は生まれたからには、必ず死ぬのだという厳粛な事実を深く心に置いて、真理との邂逅を果たしてください。何も持たないまま、そのまま救われてください。限りある迷いの命を離れ、永遠の命に生かされるこの身をよろこんでください。

 感謝していること
 おばあちゃんや父が身を以て知らせてくれた無常は、怠惰な私に今生果たすべき使命を思い出させてくれます。


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嫌だ、止めてと告げるのは自分がスッキリするためじゃない

2018/04/15 20:42
 もし、自分がスッキリするなら、完全にその人と縁を切ります。もう二度と関わらない決意をして決行した方が本当にスッキリします。それでも敢えて、「嫌だ、止めて」と告げるのは最後の親切かもしれません。それでも、その人の態度が改まらないのなら、その人との今生の縁はもう無いでしょう。自分に嫌なことをされるのも耐え難いですが、おそらくそれは、癖のもので、ほかでも同じことをしているか、これからもする可能性があるその相手に対して、そういうことをされると嫌だし、怖いし、止めて欲しいというだけ言ったら、その時は分からなくても、本人が頭を打った時に考える時があるかもしれないということです。

 今、何かと威張ったり、他人がどう考えるか一度考えてみて言えない人、他人の扱いが粗雑な人がすぐ改まるとは考えられません。そういう人と一緒にいるのは出来るだけ避けたいです。自分のことを大切にしてくれ、思い遣りを持った言葉を考えて言い、負い目を感じさせない人と短い人生、共に労わり合っていくと決意しました。そうじゃない人とは一緒にいたくないし、SNSやメールなどの媒体でもブロックを断行しています。

もう我慢することはお終いにしました。これからも、スッキリするために、相手の欠点や悪口を言うことはないでしょう。ただ、本人は気が付いていないけれど、怖がりで気の弱い私はとても嫌で止めて欲しいことは言うことにしています。しばらく様子を見てそれでも、同じように嫌な感じが改まらず、恐怖感が拭えないなら、おそらく今生でのご縁はありません。子どもや学生や自分が責任があるひとたちについてはわざと激怒して叱咤することもあるかおもしれませんが、これもあまり気力体力がないので少なくなると思いますが、ここぞという時は、寿命が縮まろうとしっかり伝えていくつもりです。激しく叱るというやり方の外でも、心にくぎを刺す何かの伝達方法をその都度捜します。

 できれば、大好きや花や植物に囲まれて、何もしないで、海や山を見ながらゆっくりと過ごしたいのですが、あと10年は隠居せずにぼちぼちできることをしていきます。

感謝していること
周りの人たちの親切や優しさ、また辛い中、頑張っていらっしゃるお姿に励まされて、何とか前を向いて生きて行けます。不思議で有難いです。


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面倒なことには関わらない決意

2018/04/15 20:34
 舌打ち、咳払い、怒りっぽく短気で粗雑な立ち居振る舞いをするひとは怖くて苦手だといつも書いています。

 相手のことをよく知らないで、余計なことを言う人も無理です。私はよくわからないことは、基本的に黙っています。調べた上で、こういう考え方もあるとは言いますが、それが絶対とか正しいとかは決して言いません。どうでもいいのです。どちらが優れていても、そうでなくても構いません。勝ち負けなどとうの昔に放棄してしまいました。証拠をあげて、相手の間違えを指摘することもしません。本当にそんなこと、とうの昔に卒業しました。どちらが正しいと証明し合う時間が惜しいです。結果的には夢幻の世の中で、どちらも間違いです。これはハッキリしています。他力の世界を表現したものをを自力の人には空気を吸うように分かるはずがないのと同じように。

 最近は、好戦的というか、何もわからないのにあなたの研究にはこういうところが足りないとか言う人があり、何だかなぁと不思議です。私がどういう意図を以てこの研究をしていて、これまでどういう過程を通って今の方法論や論理展開をしているか聞きもしないで、憶測でものを言ったり、これが足りないとか、こういうことを学ぶべきだというのは失礼極まりないです。同じ分野なり、隣接分野で私の研究の意義や位置づけもよく知っているひとは、余計なことは言わず、こういうこともあるから考慮した方がいいと言われます。それは研究者としてお互いをリスペクトしていく基本中の基本だからです。

研究がどうこうというより、ひととしての配慮が足りず、自身の言動が他人に不快感を与えることが分かっていないのでしょうが、疲れます。当たり前のことですが、少し話せば、その人がその人自身の研究がどのくらい進んでいるかがすぐわかります。おそらく、さらに研究が進んだひとは、その分だけ、私以上に他人の研究の進み具合もすぐに把握できます。目の前のこの人は研究者として、どれくらいの技量があるのか判断できます。未だ博士課程の学生とはいえ、後進を育てる立場にあるのでしょうが、先生でもないのにと、他の研究仲間を、軽く見る態度を取る初学者と関わっている暇はないので適当にします。私には時間が圧倒的に少なくて足りません。時間を大切にしていこうと改めて決意しました。人としても研究者としても謙虚で共にリスペクトし合える人と時間を過ごしていきます。

感謝していること
近くの大学の真宗学の先生とのご縁をよろこんでおります。研究者、教員としてばかりでなく、人としてとても尊敬できる方です。たくさんのことを教えていただけて有難いです。


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大人のコミュ(コミュニケーション)障とか人見知りはただの言い訳

2018/04/15 20:27
 自分のことしか考えられなくて、それでも自分に対する扱いが雑で、他人にも同じようないい加減で配慮のない対応をする人たちの言い訳です。はい、これでお終いです。

 とどのつまりは、これですが、結局、子どもなんですね。子どもだと思えば、腹も立たないでしょうが、子ども相手に時間を使っていられないなら、避けたらいいだけです。「私は大人相手にしか、プライベートの時間を使いたくありません。子ども同士でお遊戯を楽しんでください」という感じです。口に出しては言いませんが、いい加減にしてという感じですね。

赤ん坊でも幼児でも思い遣りもあり、人見知りしない人もあります。むしろ小さい人たちの方が素直で付き合いやすいです。相手と自分に垣根があるのを、自我の芽生えとか、自我を大切にする風潮がありますが、ただの防御ですね。それがないと付け入って、利用する人があるから、仕方ないのでしょうが。ホントウは境界はない方が心地いいです。信頼している人には何でも言えます。結局、壁を造るのは信頼できていないからです。

信頼といっても、無償の愛などと言って、自分を犠牲にするのは親くらいです。その親も近頃は自分が可愛く子どもは二の次です。このように、人間同士のコミュニケーションなど限界があることを皆知っていても、それを口にはしません。別の入れ物にいる者同士、分かるはずがないのです。

ただし例外として、一生の間に、真理との邂逅があれば、その真理に対しては壁がありません。何を思っても、呟いても構いません。「そうか、そうか」と、どんな理不尽で自分勝手なことでも受け入れてくれます。それを人間に求めても、死ぬまで求め切れないで、敗北感が襲うだけです。求めれば求めるほど無理なことが分かり、渇愛の法則で渇きが酷くなり苦しくなります。

結論として、本当に心の底から甘えられて、まかせられるのは真理そのものでしかありません。ほとんどの人はそれを信知せずに、一生を終えます。せっかく人間に生まれてきて、真理との邂逅を獲られるチャンスがあるのにもったいないことです。

感謝していること
どんなことでも見ていてくださり、聞いてくださり、その上、どんなときも、護っていてくださる真理との邂逅を果たせたことは、本当に不思議で有難いです。


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「黙れ」と直接言ったり、何らかの圧力で言葉を遮る人からは離れた方がいい

2018/04/15 20:15
  それはパワハラ・モラハラもしくはアカハラです。ひととして最低の行為です。

 とりあえず、言葉の終わりまで聞く姿勢に欠けています。一般の良識のあるひとたちは言葉の終わりを探します。『黙れ』とも言わないし、言葉を遮ることもしません。なぜなら、それをしたら、その人との関係は終わると知っているからです。二度と話しかけてこないか、疎遠になることが分かっているからです。まともな人たちは人を粗雑には扱いません。その先に起こる出来事が見えているからです。だから、何か話そうとしているのを、力で遮るような人は、関わってはいけない人なので、挨拶と最低限の返事だけにした方がいいです。

  子どもや学生に対して、こんなことをしていないか、またはこれからしないように、私たち大人は、気を付けていきましょう。

感謝していること
 年齢を重ねることに、つきあってはいけないひとというのが、色々なパターンで知らされ、避けることで少しは気分良く過ごせることに感謝します。

 


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モラハラ・DVから離れられない理由

2018/04/15 20:12
 それは今をきちんと生きられないからです。
 今の感覚を味わい切れないからです。

 上から目線で威圧的な言葉を投げかけられ、脅されて、殴る蹴るのペット以下の扱いをされていることに対して、怒り悲しむことから逃げているからです。怒っていい、悲しんでいいんです。私はそんなことをされるために生まれてきたわけじゃない。こんな人と無理していることはない。私は大人で親や夫やパートナーにペットのように躾られる覚えはありません。ペットでも猫なで声でご褒美を与えられながらの躾なのに、ペットより粗雑に扱われることに当然激怒していいんです。嫌だったら、離れたらいいし、放置したらいいです。親子でも夫婦でも無理して一緒にいることはありません。命や精神的な安寧が脅かされる関係は避けるに限ります。

 このひとは幼少のころから親から虐待を受けたり、見捨てられたりした辛い経験をして来たのだから仕方ないと同情しても、自ら進んでサンドバックになる必要はありません。それはその人の学びであり、引き受ける必要はないのです。その人の問題ですから。そういうひとと一緒にいることは、自ら不幸に飛び込むようなものです。

 もし、不幸な生い立ちでも、自分がされてきたことはしまいと決意して、周りの人たちに優しくなれるように努力しているなら、一緒にこれからの人生は思い遣りを与え合えばいいですが。虐待や見捨てられた人たちの多くは、自分を哀れむことからなかなか脱却できず、他人にまで配慮できる人はなかなかいません。こういうことにきづいていて、もしかしたら、癖で酷いことをしてしまうことがあるかもしれないけれど、その時は言ってくれたら改めるというひとなら少しはましです。でも、虐待の傷を癒し切れていないひとと、自分を大切に生きている人たちが一緒にいるのはかなり難しいし、忍耐が必要でしょうね。そこまで我慢する必要があるのかと嫌になるでしょうね。

 今はこんなに粗暴で、酷い人だけれど、一緒に過ごすことで将来は変わるかもしれないというのもモラハラ・DVの被害者の甘さです。今、酷い扱いを他人に平気でしている人が、将来変わるはずはありませんから。優しい人はずっと優しいです。怖い人は何かショックなことがあり、それを自覚して、生まれ変わる覚悟がない限り、直る見込みがありません。

 厳しいようですが、これが現実です。今の延長が未来だからです。今、適切な関係にない人に未来に更生することを望んでもほとんど無理だと、余程困ることがあって、真人間になろうと決意を新たにしない限りは、その人との未来はないということをよくよく知ってください。

感謝していること
 今を味わい切って、自分を大切にできるようになると、何となく怖いひとがいても、、我慢せず、私はこっちの道を行くと、ちょっとだけ違う方向に行けるようになりました。


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自分を後回しに出来ない人は、平気で他人を粗雑に扱える人

2018/04/15 19:28
 自分を後回しにすることを、幼少時、おばあちゃんや両親の姿を見ながら学びました。特に口に出して言われたことはなかったのですが、私の家の大人たちは、他人を粗雑に扱うことを極力避けていました。お客さまがどれだけ遅く居ても帰れとは言わずにいるような居心地のいい家だったようです。子どもとしては早く帰って欲しかった記憶があります。次の日に仕事があろうと、両親とお客さまは、楽しく歓談していました。何か心が晴れないようなことがあり、私の家で両親と話すことで、気晴らしをしていたのだろうと今になるとそう感じます。

 公務員をしていた父と家のことをしていた母と、悠々自適の隠居生活のおばあちゃんと、私と妹と弟の6人家族で、特別育ちがよかったというわけではありません。ごく当たり前のことを皆がただしていただけです。今ではそう感じます。

おばあちゃんに連れられ、親戚の家によく遊びに行きましたが、そのときも機嫌よく遊んで帰る繰り返しでした。特に何か変わったことをするでもなく、そのときそのときを楽しんでいました。気を付けていたことは、誰かの気にしていることを言わないように、色々な点で譲り合うこと、自分は後回しにすることくらいでした。これを心配りとか、思い遣りというならそういうものかのかもしれません。でもそれは当たり前に空気の様にされていました。

自分に対するように他人と関わることは、他人は自分を自分がその人にしているように自分と関わることを意味します。それを大人になった今になってやっとわかるようになりました。私の家の大人たちは私たち子どもに身をもって教えてくれていたのでした。

感謝していること
親やおばあちゃんが見せてくださったことに感謝します。

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肉の奥にあるもの

2018/04/12 08:48
 初対面でもいつも逢っているひとでもときどき、目をつぶってその人の奥にあるものを感じることにしています。肉、即ち見た目、服装のセンス、職業、財力など一旦クリアにして、そのひとの内面(魂というと何となくぴんと来ないのでスピリチュアルなところ)を感じることにしています。

  表面の肉(目に見えるところ)を通り越した、その先のものとしか私は関わりを持ちたくないのです。相手の素の部分に魅力を感じます。普段は偉そうなひとが、時々、ぼそっと小さい声で少し気弱な本音を言われたときとかにぞくっとします。いつもこうだといいのにと思いますが、仕方ないひとだと放って置きます。私自身については、残りの可処分時間の短いことを考えて、出来るだけ分かり易く、素の自分をいつでもどこでも貫いて生きていこうと決心してから、人生は軽くなりました。

 このように人と接していると、本当に高校や学部時代とは全く異なった世界を感じて生きているのだと知らされます。華やかな見た目、贅沢な物品が周りに溢れたバブルの時代の中にあり、そこを生きてきて、今は自然なスローライフのような感じでしょうか。無理をするとその歪や押し戻しに苦しむので、真理との邂逅のきづきをお話しする以外は何事もほどほどに中道をゆっくり歩いております。


感謝していること
今日は窓の外が晴れています。気分がいいです。


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私のたのしみ

2018/04/12 08:41
 お浄土でまた有縁の方々と、お目にかかれるのが私の唯一の楽しみです。寿命はそれぞれの業のなせること、私かほかのみなさまが先か分かりませんが、また必ずあえる、このこと一つが楽しみです。本当に今生は佳きご縁を賜りました。様々な辛いこと哀しいことも、このことを思い出すだけで、すっと消えていく気がします。私は今まで大したことが出来ておらず、これからもどうなるか何が出来るか未確定ですが、共に疑いが晴れてよろこび合える方々とまた最高の場所(故郷)で再会できることは、この世のどんなことよりも嬉しいです。本当にこのことは私がこの世に生まれてよかったと感じられることです。

感謝していること
 真理との邂逅を果たさせていただいた方と共に、今生と死後も一緒によろこべる身を不思議で有難く感謝しております。


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自分がスッキリするために何か言うことはこの先もないでしょう

2018/04/12 08:23
 誰かの為に言いたくないことを敢えて言うことはよくあります。又言いたいことでも今は分からないだろうと飲み込むこともこれもよくあります。

 自分がスッキリするということは裏返したら、相手のダメージも相当なものだから、私はそれを敢えて回避しています。一時は気が済んでも、相手は反撃に出たり、永いこと言われたことに対して恨みを持ったりするのは避けたいです。私の気持ちを受け入れて、言いたくないことを敢えて言ってくれて有難いと思ってくれる人は滅多にいないです。それもよく分かっているので、人や同じ人でもその状況を判断して、言うかどうか決めています。素直にあまり好ましくないことをすぐに改められる人は稀です。

恩師やメンターたちの身をもってのご教導から、私はそれを見習わせていただきたいという気持ちで生きてきました。それでもまだまだ十分ではないです。何も言われなくても、眉が少し動いたとかその場のオーラできづいて当たり前という感じの教わり方をずっとしてきましたから、言葉で注意を受けたことは本当に少ないですので、私も何かひとに言うのは慣れていないのでいつも躊躇してしまいます。

子どもや生徒や年少の人たちに対しても、あまり何か言うことを私は好みません。言わなくても分かるというのではなく、言って分かるようでは見込みがないということです。そういう人は私以外の、別の人から言葉を尽くしたり、もしくは人徳で導いてもらってきづいて欲しいです。私はここを逃したらといけないいう時には、このような基本的な考え方や人格を変えてでも厳しく言及しますが、それは本当に不本意なことなので滅多にしません。私には時間がないので、自身の子どもや本当に大切で深くかかわりたい人で、私の真意を汲み取ってくれる人にしかしません。

人生の細かいこともいろいろ関わりはしますが、私の一義的人生の使命は、「生死を超えること」が出来ることを表現して、一人でも多くの人が今生でその身に救われていただくことです。それの為に三次元の人間としての活動もしていますが、軸はぶれることはありません。それに私に残された今生における可処分時間も本当に短いです。極力自分の欲の為の時間は削って行けたらといつも考えています。だから、自身が納得するために、スッキリするために何かを言うことはあってはなりませんし、極力避けて、戒めて、本来の道を進んでいく所存です。

感謝していること
友だちと話していて、自身の使命について再確認できたことに有難く感謝しています。
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違和感の大きなファクターは人間の想定枠内での罪悪理解を信心と思い込むこと

2018/04/08 10:09
 つまり心・口・身体の三業で計る信心です。自身にある物を見続けても、それは所詮人間の腐った脳みそをかき混ぜて妄想を繰り返しているにすぎません。人間の考えに上る罪悪など氷山の一角です。過去より造ってきたそれが悪だとも認識できない様々な事柄もすべて含めて信知するには真理の力でしか成し得ません。

 東西の宗教家、思想家の善悪理論を中途半端に解釈して、分かったつもりでいるひとがたくさんいます。又信仰を求めている人の中にも、三業で計る自分の力に頼った信心にとどまる人もいます。とても残念で悲しいです。それらのひととは心を通わすことも叶わず、何とか何かのご縁でのきづきがやってくることを念じて止みません。

 三業の罪を重大視してそこにとどまることは信仰のほんの始まりですが、やがてさらに深い罪の存在が知らされ、それを救うのは真理の働きであると分かってきます。それから、その真理が本当に存在するのか、そして私を助ける力があるのかという疑いが始まります。その疑いが完全に払拭された時、自身の力は何一つ間に合わない、ただただ真理の存在が有難く不思議だと知らされます。私は空っぽ、赤ん坊以下、何も間に合わない、何も持っていない、自身の自助努力など全く間に合わず、まず真理が先に助ける構造であったのだとスッとわかり、心にコトリと落ちます。そしてなにもないまま、死後は真理の場所に還ることも知らされます。この全ての課程の疑いを晴らすのが信仰・信心です。

稀に、信心のある家族や恩師などが周りにたくさんいて、あるときふっときづくご縁の深い人もあります。土徳と言われるような場所には珍しくないのかもしれません。いづれにせよ、いま、ここで自身の力は全く及ばず、全て何から何まで真理の方が先で、その光の中に収め取られている状態を疑いなく信じられていたら、そのことで分かり合えます。それが難しいのです。

感謝していること
死の不安が全く無くなった上に、何の不足もなく恵まれている我が身に有難く感謝します。


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年齢・性別・生育環境に関係なくわかり合える信心

2018/04/08 09:33
 少しずつ謎が解けてきました。なぜこんな簡単なことが分からないのだろうとずっと疑問でした。なので、表現方法において難しい単語や専門用語を別の一般の人が分かるような言葉に替えて書いてきました。それでも分かる人がなかなか出てこない。これは何が原因だろうかと困っていました。反対に言葉や単語を大人が共有するものにしても、ほんの一部の幼児や高校生や大学の学部生でも分かるということを確認しました。これは信心の有無や真理を求める気持ちの遠い近い(仏縁の厚薄)などに関係するのだとやっと少し納得できるようになりました。

 幼児でも自身の生まれてきた意味を探求して生死を超えることを目的として生きている人もいますし、白髪の米寿の老人でも名利を中心とした五欲を求めることのみに終始している人もあります。これはどうにもなりません。そのフレームの中で生きているのですから、枠を超えたことを聞かされても、読んでも受け入れられるはずはありません。ましてや漢字で書かれた書物や哲学・心理学用語を直接聞いても読んでも何のことか分かりません。ただ、何となく尊い、自分と関係することが言われ、書かれているのだという感覚を持つ人もあるようです。

 そこで、大切になるのが例え話やフィクションまたはそれに類するものといった物語を使った話し方です。子どもでも老人でもこれなら難なく聞けます。ご縁のあまり深くない人でも何かのヒントや刺激を受けて、ここから始まるきっかけとなることもできます。釈尊の「人間の実相」の話。他にも様々な譬えを以て釈尊は対機説法を為されています。これはロシアのトルストイが感銘を受け紹介しています。浄土仏教系ですと善導大師の「二河白道」、源信僧都の地獄極楽の表現(これはお経にあることなので少し性質を異にしますが)は万人の心に響きます。これらは絵画となって浄土系もしくは他宗派の寺にでも見られるものです。祖父母に連れられて寺に来た幼児たちが、実は初めて仏教に触れる大切なものなのです。寺に参る人が少なくなりこういう機会は失われつつあります。

 今回の広島の研究では、私が博論を仕上げるにあたって、これらのたとえ話やフィクション(仏教以外のものでも)を用いて、論じることはかなり有効である感覚をつかみました。分かる人とは二言三言話しただけで分かり合えます。場合によっては何も話さないでも分かります。分からない人にはどんなに言葉を尽くしてもその溝はなくなるどころか広がっていきます。平行線がそこにあるだけで永遠に交わらないのではないかという絶望的な感覚の襲われることすらあります。ただこれは現在だけを見ているからであり、遠い未来のどこかではいつか分かり合えるのでしょうが。まだまだ確固たる方法論が確立していませんが、糸口は出てきたので何とか諦めずに精進してまいります。

感謝していること
 時々息抜きをしてまた書くことに専念する生活が続いています。明日から新学期が始まります。こんな時間を今、持てることに有難く感謝しております。

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修士時代に文学や歴史を学んだ意味

2018/04/07 17:10
 最終の仕上げとして博士論文で信心について書くことを決めていました。修士は心理学で書こうとしていましたが、臨床心理士の実習も兼ねての学習内容の2年間を過ごすことは好ましくないという先生方からの指導を受け、自身がこれまで避けてきた文学と歴史に身を沈めようと決意してその方向で専念しました。


 2年間の1年目は単位を取るのにコマ数をこなすのが大変でした。英語の講義が毎日のようにあり、予習でほとんど寝ない日々が続きました。何でこんなにハードなのかと思っても、自分がその選択をしたので仕方がありません。毎日の通学の阪急電車でも電子辞書や筆記具で予習していました。英語が文法や形の上ではそれほど上達したとは感じられませんが、解釈や異文化に対する姿勢を叩き込んでいただきました。


 歴史は江戸時代の古文書を読むことは自分には向かないと分かりました。どうも好きになれませんでした。そこで江戸時代について知識豊富な杉浦日向子さんの描いた漫画を分析することにしました。英語の講義では文法と言うよりも作品や作家の感じていることを味わう講義でしたので、それが江戸時代を描いた杉浦さんの漫画を解釈するのにもとても役に立ちました。

歴史という点では、資料の扱い方や資料を基に書くことの重要性を学びました。敦煌や古代の歴史にも触れました。奈良の史跡にも何度も足を運びました。細かいことはあまり覚えていませんが、歴史の基礎の基礎を感覚として教えていただきました。

感謝していること
 これらの学びが、今の信心を表現する基礎・土台の一部となっているのならそれは有難いことだと感謝しております。無駄なことは何一つないといまこの瞬間を私はずっと生きてきました。いましていることは私のライフワークよりもさらに大きなスパンで必要なので身を置いている気がします。


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きづき・悟りなどを別の表現をすると愛(信愛・慈愛)

2018/04/06 08:53
  三昧の世界は菩薩道と言われます。救済です。救済を言い換えると愛に行き着く気がします。教義や解釈や方法論でいがみ合い、相手を貶し、分かり合えないのは哀しいです。根底に愛のないきづき・悟りは嘘だと私には感じます。

正当性を証明することで他人を傷つけるなら、そんなことは証明しない方がいい。真理との邂逅でも、そこに至るのに傷つけないような別の方法はいくらでもある。間違いは恥ずかしくないという考え方は、そもそも何が間違いかと炙り出して、それは間違いだけれど、改めるきっかけとなっているのだから恥じることはなく、すぐ直せばいいというのは人間のおごりや傲慢さの表れではないでしょうか。迷った人間同士で何が正しい間違っていると判断し合うことがそもそもマンガやジョークみたいです。正しい状態はそこに愛があるか否かです。私はそう感じます。

感謝していること
深い思い遣り心遣いをいただいていたんだと、ふときづく時があります。それは人間の愛かもしれません。これも有難いです。


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誰かと一緒にいる意味

2018/04/06 08:47
 何も考えないで生きていることをただ慶び味わうところにあるのではないでしょうか。父の容体が思わしくなくて看病に帰って、看取った頃からそう感じます。時に何か知識をひけらかしたりするわけではなく、たわいないことをポツリポツリと雑談をしている時間をたくさん持ちました。

何かの説法や講義を聞く時間は集中しなくてはなりませんが、その後の座談やディスカッションはリラックスして言える雰囲気を作った方がお互いの気づきの為になるのではないかと最近は考えます。メリハリをつけることなのかもしれません。

自分の残りの人生が短くなったとき、父は家族とゆっくり対話したかったし、遠くで暮らす私も父の傍に行けて最期の時を過ごせました。私の可処分時間も残り少なくなっている気がします。研究は使命だと感じて自分がしたくてしているのですが、ほかの時間でももし許されるなら、一週間に一度、それも無理なら一月に一度、たとえ一時間でも何の目的もなく、大好きで気の置けない人と一緒の空間にいて、ただ何も言わないで笑い合う時を過ごしていたいなどと贅沢なことを考える今日この頃です。小さい頃おばあちゃんと私はそんな時間を随分過ごしていました。幼少の頃、父が仕事をしている近くにいって、おばあちゃんほど頻繁ではないですがちょこんと座って見ていた記憶もあります。

感謝していること
 来週の火曜日には大学時代のゼミの友だちと二年ぶりくらいに逢いに行きます。いつも京都に来てくれるのですが、今回は私が彼女の住む岐阜に行きます。とても楽しみにしています。そんな友だちがいてくれることに感謝します。


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