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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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論文と平行して取り組む課題

2017/02/13 18:44
 フェミニズムやジェンダーは論文に放り込むとして・・・・・・
 もう一つ私が今生で成し遂げる予定としてきた使命をこの旅行で思い出しました。
 
それは教育です。
 小学校までの小さい人たちとその親たちへの教育です。
 保育士・幼稚園&小学校教諭の資格を取ったのは学校を作るためでした。日本語教師やカウンセラーの資格を取ったのもその一環といえばそうかもしれません。

 かつて、高校時代まで、自身がどうしても相容れなかった学校を快適なものにすべく、今までになかった教育施設を作る計画をしていましたが、途中、カウンセリングの勉強や大学院で論文を書くなどの用事を作ってしまい、少し遠回りしたようです。でも、その間学んだことがおそらく学校設立には欠くべからざるものであるように確信しています。

 ネパールでは教育に対して親御さんたちの熱い気持ちがあるようです。そこで教師を育成する人材が求められているというのです。誰かと協力して、人材を集め、理想の詰まった学校を作れたらと思います。特別な給与は要りません。ただ、仏教の阿弥陀仏の願いやワンネスの考え方などを入れて、子どもたちやその親御さんたちが生きる希望を持てる学校が作れたらとだけ思っています。

 こうやって宣言したら、お金を出してくれる人が出てくる気がします。人材は私がいままで関わった人たちやこれから縁のある人たちを何とか集められます。私の家のリビングには学校の絵と願いが叶ったよろこびや感謝を記したものが額に入っています。毎日見ていますが、いつか絶対成し遂げる日が来るのだと思っていました。

 論文は確かに大変ですが、それは通過点です。私が本当にしたいことは、世界の多くの人たちに生きるよろこびをもたらすことです。そのことを忘れないようにと言われた気がしました。
 感謝していること
 帰国を知らせると母がとてもよろこんでくれました。有り難いです。 
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大いなる真理に身をまかせること

2017/02/03 15:24
 自分以外の他人に何かを求めて幸せにしてもらおうとしてもそれは叶いません。
 そんな能力を持っている人間はいませんから。
 みんな自分のことで一杯一杯でアップアップしています。
 誰かに何かを求めると、その何かを奪うことになります。
 どんなに頑張っても、人間どうしは持っているものの奪い合いにしかならない気がします。奪い合う関係には疲弊しかありません。

 御仏の願いを賜ったとき、私は例えようのないよろこびを静かに味わってから、これで自分が実際感じられたことを周りの人たちにも、お話しできるのだという別の嬉しさがあふれてきました。仏教の教義ではハッキリ救われることが説かれているのに、自分自身の体感がないまま人に話をすることがとても情けなく辛いことでしたから。

でも、伝えることが自分が体験することよりももっと大変だとすぐに知らされました。そして、御仏の願いとか真理とかを本当に求めている人がほとんどいないことも。自分が特殊な感覚を持ち、多くの人とは異なった生き方をしていることも。それから、試行錯誤を重ね、分かり易いく論理的な話の流れや例えを追究しました。また、ご縁のある方を見極める力もついてきました。自分自身のエンパス体質もオンオフの操作が少しずつできるようになり落ち着いてきました。これからどのように御恩報謝が出来るのか今それを博論に取り組みながらゆっくり考えています。

 感謝していること
 本当に周りの人たちが優しくて涙が出そうになります。有難うございます。
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人間として最も恥ずべきこと

2017/02/02 08:59

 「他人に負い目を負わせること」だと身内から私は教えられました。
 言葉で直接言われたことはなかったのですが、そういう生き方をしない周りの大人たちを見て私は育ちました。こういうことをしたらいけないんだと、胸に深く刻んで成長しました。
 
 それでは、反対にもっとも尊いことは何か考えてみました。
 今生で真理との邂逅が出来るように励まして、自分自身に対する慈愛の気持ちや勇気を持てるように側で見護ることです。人間のそれはちっぽけで末通らないもので、本物の慈悲に到達するまでの代用品かもしれませんが、真理というものを知っているらしいあの人がいるのだから、自分もそういうようになりたいという気持ちになってもらえるならそれはそれでいいです。
 あまり優しくもなく、思い遣りもない私ですが、御仏の慈悲に少しでも近づけるようになります。
感謝していること
「人に負い目を負わせてはいけない」ということを深く理解している友だちがいてそのことを語り合いました。
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この世の学問なんて相対的で時空を超えるものは何一つないのに何で威張るの?

2017/01/29 00:37
 もっともらいし、理屈や理由がないと納得できない人が研究者となり、道楽の学会という集まりを作って少人数の内輪の仲間たちで、称賛し合います。機関誌にはお作法があり、お作法を護らない論文は、門前払いもしくは最低評価を付け、コメントさえつけません。
なんてくだらないことが横行しているのでしょう。
 
誰かの新説でコロッと、今までの学問体系が変わるのが世の常です。バッカみたいって思います。真理なんて仏教以外に初めからないって私は確信しています。なぜなら、身体で真理との邂逅を体験したから。そんなのウソだ、気が変になったのだと言われても別に動揺もしません。化城だと言われても構いません。なぜなら救われる人が一人もいない教えなどナンセンスだからです。
もちろん、釈尊や龍樹・天親・善導・法然といった善知識方と、人格や才覚や知識や指導力が同じなどと言っているのではありません。救われたといっても、自力が廃り、他力を賜っただけです。ただの出発点を通っただけです。だから、その後も、真理と三次元の世界の自他を区別する冷たい境遇の中で翻弄され、幸せだけど孤独で淋しい気持ちで生きてきました。

統計がなんだ、平均がなんだ、そんなの母集団や、質問の方法を変えるだけで違う結果が出て来るじゃない。本当につまんなくて馬鹿げてる。そんなんじゃない、正統派の研究をしたいって心の奥底から今、とっても感じてる。

どうしたら、人と人が思い遣れるか慈愛の気持ちを持って、清々しく笑い合って生きられるかを提示するのが真の学問の意味だと私には思えます。つまんない権威や名声のために一生を棒に振るような生き方はしたらいけません。そんなことをしたら臨終にきっと後悔します。

若い人たちと共に、新しいアプローチの人を幸せにする学問を実践形式で、さらに雇用を生むなど社会に貢献したりできるようなものを立ち上げていこうと最近は計画しています。

感謝していること
あまりにも、理不尽なことばかりなので、心が弾けて、何か始めてみようと考えるようになりました。でも、相変わらず、論文に目を通して、コメントを考えてもいます。
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他人に非道なことができる人は自分を大切にできない人

2017/01/29 00:30
 ハッキリ言い切れます。ハイ。
 自分と他人を区別して、他人の人格を否定するようなことができる人は、全部、自分が嫌いで仕方ない人です。たとえ自分にとって不都合な人であっても、何らかのきづきをくれる人だと私は理解しておりますので、その人の存在を消すことはもちろん、いい部分を見つけてそこだけフォーカスしていきます。

 不思議なもので、自分の意識が低くなっていると、他人に対した時、相手の低い部分だけが見えてきます。同じ言動をしている相手でも、特に問題がないと捉える人と、あの人は気を付けた方がいいと捉える人では、見ている部分が違うのです。高い意識で生きている人は相手の上澄みの部分を見ていて、低い意識の人は欠点に目が行くのです。

 だから、全然的外れな噂を立てられても、それを流している人とは関わらないことです。そんな噂など笑って問題にしないし、かえってそんなことはないよと言ってくれる人が本当の友だちですから。噂を信じたり、気にする人はそこまでの人ですから、私なら距離を置きますし、そうしてきました。意識が上がると、当然のことですが、付き合う人が変わっていきます。慣れ親しんだ人間関係は離れがたいですが、勇気を出して新しい人との出合いを求めることも大切です。

 自分が大切なら他人に対しても非道な人はできないので、いいところも認めつつ、あえて、非難したりはしませんが、後ろ向きとか、器の小さい人といると、暗くなったり、イラッとするので、できたら前向きで、器の大きい、明るい人と一緒にいることにしています。
感謝していること
 心をオープンにして、自由に生きていると同じような人が集まってきて楽しいです。
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相手を怒らせないよう忍耐の上に成り立っている関係は止めて、繰り返さない

2017/01/28 12:01
 他人の顔色を窺がうことに慣れてしまっていると、どんな時も、目の前の人が気にいる自分でいないと愛されないと思い込むのかもしれません。期待される自分像を拵えて、その自分が理想としている自分を演じ続ける。
 
幼少の時のトラウマがそうさせているのかもしれません。親や祖父母や周りの人たちはありのまま・そのままの小さい人を赤ん坊の時は無条件に愛していますが、だんだん大きくなるにつれて、ああなって欲しい、こうなって欲しいと望みを持ち、それをうかつにも口に出すようになります。子どもたちは愛されたい存在ですから、それを聞くと、周りの大人たちが望んでいるような自分でいようと努めるようになります。どうすれば愛されるかを常に考え、そういう言動を取るようになります。

特に親がいつも完璧で卒がないように見えるような家庭で育つと、失敗することは許されない強迫観念に近いようなものを感じるようになり、家でも常に気を張って暮らすようになります。反対に親や祖父母や兄弟姉妹が頼りなく見える場合も、自分が何とかしなくてはと、気が抜けません。酸いも甘いも噛み分けて、ただ、どんな言動も受け止め泰然としてくれる存在に出合えないと小さい子どもの自分が満たされないまま大人になります。

大いなる存在、御仏などを敬う宗教が家庭にあれば、いいのですが、残念ながら日本にはそのようなものがほとんどなくなってしまっています。物心ついた時から、人間には私を救う力はないと達観し、家の仏壇に安置されている阿弥陀如来に救いを求めていました。その時から私の真理との邂逅の求道が始まりました。仏さまと心が通い合う身になることを人生の目的と定め、ほかのことは差し置いて、そのことだけを願い生きてきました。人生の折り返し地点くらいで、何の不思議か阿弥陀仏の御本願を賜ることが出来ました。

心は安心満足になりましたが、三次元の人間として生きていくのはとても辛いことでした。真理の世界と現実の世界とのギャップに悩み、周りにその境地を理解してもらえる人もなく、「幸せな孤独」を抱いて生きてまいりました。ここ数年は、同じように阿弥陀仏に救われた内外のいくらかの人たちと御仏の御名を称えつつ、お互いが地球のどこかで自分のことを思い出してくれていることを嬉しく感じながら生きています。たまには逢いにいって、よろこびを分かち合います。

一人でも多く、このような境地に出られるよう、阿弥陀さまのお話をしてまいります。目の前の人に気にいられるように、怒らせないように、我慢しながら言いたいことを慎重に選んで付き合う関係は不毛なので、いつかはきっとお終いにします。

感謝していること
 何も考えない言動をしても、全部わかっているからと受け止めてくれる人は、仏さまだけではありません。仏さまの御心を信受させていただいて、それを心の底からよろこんだいる人も成り得るのではないかと最近は感じます。

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自分自身を大好きになって、信頼していく

2017/01/27 09:50

 「愛される人はいいな」某テレビドラマの中で主人公の男性が言っていました。
 自分に自信がない彼は、彼を愛してくれている彼女のことを信じられなくて、わざとそっけなくしたりして傷つけてしまいます。
 もし、自分自身を愛し信じられたら、彼女に対しても同じように愛し信じられたのでしょう。ドラマの最後の方では、彼は自分としっかり向き合い、自分の殻を破り、彼女と愛のある関係を築けるようになっていきました。

 誰かを信じるためには、逆説の様ですが、自分としっかり向き合って、自分を大好きになって信じることが最初で、ずっとそれが維持されていくところまで到達できたら、自利利他の生き方になります。

 そこまでになれるまでに、本当は真理との邂逅が必要ですが、それに至るまででも信じるきっかけとなるのは、励ましてくれるのは、すでに自分が大好きで信じられている三次元で人間として生きている人なのかもしれません。そういう人の出合で、その人から溢れ出ている慈愛を感じて、心が触れて、徐々に自分と向き合って、強くなれたり、自信が持てるようになります。

感謝していること
 今日は晴れています。素敵なことがある予感がします。
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いつもずっと逢いたかった人を見つけたらハグしちゃうかな

2017/01/26 12:37
 スピリチャルの部分でいつもつながっていると思ってても、やっぱりリアルで逢いたい。本当に愛おしい人。私の内面が創りだした存在かもしれないけど、本当に大切で大事でずっと一緒にいたいと思っていた人の姿を見つけたらぴったりくっついて離れないかも。外国の友だちに逢いに行ったとき、彼女をバス停で見かけた時お互いが磁石のように引き合い、ハグしていました。それから帰国まで、慣れない英語で会話するというより、一緒にいる空間を目いっぱい楽しみました。一緒にご飯を食べ、乗り物に乗って出かけもしましたが、ただ一緒にいられたらそれだけでよかったんだって、帰ってきてから分かりました。

  外国じゃなかったら実際は、人目を気にしてハグとかできないかもしれないけど、大切な人とは心の中でいつもハグしていたいです。あの人だけが大好きとかじゃなくて、目の前にいる特定されない人たちにもどんどん、おもいが広がっていく感じです。自分の残りの人生があとどれくらいかわかりませんが、一瞬一瞬を大切にして、愛する人たちを心の中で抱きしめ、一緒に笑って過ごしてまいります。
 感謝していること
  大切で大好きだと感じられる人たちがどんどん増えていくのはとても望ましく、嬉しいことだと感謝しております。
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男の子のヒーロー願望について

2017/01/25 12:07
 小さい子たちの先生の私は男の子たちがヒーローごっこをしているのを目を細めてみています。「先生を護ってあげるね」とか男の子たちに言われて、実際うるさくてどうしようか考えていると、「先生困ってるやろ。静かにせなあかん」などとほかの子たちをたしなめる姿には胸キュンです。彼らは自分のお母さんや姉妹たちにもそうしているのかどうかはわかりませんが、小さいながらも立派なヒーローのように感じられます。
高いところのものを取ってくれたり、パソコンの操作を教えてくれたり、たくさんある単純作業やちょっとしたお願いなどを軽いフットワークで手伝ってくれる大人の男性たちに助けられて今まで生きてきた気がします。私がフワフワして頼りない外観だからかもしれませんが、有難く行為は受け取っています。私はお菓子を差し入れたり、笑顔でお礼を言うくらいしかできませんが、その優しさに本当に感謝しています。

 ただ、完璧なヒーローみたいなところだけじゃなくて、男性たちがうじうじ悩んで、優柔不断なところや容姿コンプレックスを感じているところなどを蔭で見ていて、それもなんだかとっても可愛いなって胸がキュンキュンします。強がってカッコつけてるところも、悩んでいる弱い部分も全部含めてありのまま・そのままが大好きだと女性が感じているってことを知らない人が多い気がします。こういうことがよくわかってきたら男性たちは少し楽になれるのかもしれません。女性も威張らないし、強い振りをしない優しい男性と素敵なパートナーシップを築いて行ける気がします。
 
何事も中庸・中道、つまりバランスが大切ですね。

感謝していること
床暖房がとりあえず直りました。この冬はこれで温かく過ごせます。
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男性の持つ根深い容姿コンプレックスについて

2017/01/24 14:14
 芸能人は別として、日本で男性で容姿がそこそこ端麗で、オシャレのセンスが良くて、小ざっぱりとしていて、なおかつ、いい香りがするような人とは滅多に出合えません。特に研究者の中でそんな人を探そうとすることは、雨夜に星を求めるがごとしで、徒労に終わるどころか、絶対にないことなのだとダメだしされるような気がしますので、そういうことは皆諦めてしません。

 これに対して、女性は化粧などでごまかせるので、元々は凡庸な容姿でも、努力でそこそこそれなりには見えることが出来ます。ほんとうはそのまま、ありのままで輝いている人が素晴らしいのでしょうが、それは内面から出るもののなせる業で、それこそ研究者で外見が素敵な男性と滅多に会えないのと同じくらい難しいです。

 最近、男であることの辛さ、劣等感というようなことを見聞きしたり、読んだりして、いろいろ考えます。

 女性のほとんどは死ぬまで女を捨てず、三十代までの多くの男性も男を捨てていない気がします。だから年配の女性でも身なりには気を遣い、何となく安心できますし、そんなに一緒にいるのが嫌という人はいません。でも、男性の四十代を超えた人たちで男を捨てたような人はただ、不気味な感じであまり近寄りたくありません。そんな人たちでお金や地位を持っている層は始末に悪いです。こちらがいつも機嫌よく、大人しくしているのをいいことに、やたら上から目線で、威張り散らし、甘えてきます。こいつは何を言っても怒らないし、好き放題しても構わないと決めつけ、横暴な言動を取ってきます。同じように失礼な態度を取るとその人たちと同じ人間に成り下がるので、出来るだけ避けるようにはしています。

 これが私が年寄りの男性が苦手な所以です。本人たちが自分自身におそらく感じているように「可愛くない」んです。
可愛くない人たちに威張られると、生理的嫌悪感のプラスしたマイナスの感情が怒涛のように込み上げ溢れ、キレそうになるのを必死でこらえて耐えていた時もありますが、最近は何だか哀れに感じられ、こちらのターンになったような気がします。

 年齢を重ねて「可愛くない」男性でも、謙虚さや、思遣りや、器の大きさを示す言動があれば、高級クラブのお姉さんのところに行かなくても、周りのそれなりに器の大きい知的でそこそこ綺麗な女性たちと友だちになり、お互いが獲たい知識欲も満たせるものです。
 
 容姿も含めて、誰かと対等に話をしたり関わりたいと思ったら、何らかの努力が必要です。お金や地位はあっても、見かけも磨かず、器の小さく料簡の狭い男たちに未来はありませんし、見捨てられます。若い人たちは、オシャレに気を遣ったり、物の言い方をスマートにするなど、それなりに全ての面で必死に努力していて、器云々は別としても、威張らないだけましなので、女性たちの多くは、そちらに流れていってしまいます。でもこじれて、ひねくれて、自分を客観視していない老害を流す人たちには気に入らないし、なんで大したことないあいつがモテるのかと、不思議ですが、おそらく、彼らは一生きづかずにいるかもしれませんね。そんなこと誰も教えてくれませんから。

 もともと、男女ともに映画スターのような美男美女は滅多にいません。でも、生まれ持ったものをいかに劣化させず、維持しようかと努力することや、内面を磨くことで人を気分よくさせることをしている人たち同士は、それなりに心地よく過ごしているのが、この制限が一杯ある三次元の世界なのだと感じます。どうせ、生きるなら遊び気分で楽しく生きていきたいものですね。

 それから、容姿が美しい友人たちに聞いた話ですが、彼女らは男性はござっぱりして似合うファッションを身に纏っているなど最低限のことをしていれば、背が低かろうと太っていようと余り見た目で判断しないし、「美女と野獣」みたいに釣り合わないと周りが捉えようと、全く気にしないということでした。中身重視らしいです。容姿にを気にするくらいなら仕事や自分の好きなことに取り組みたいと自分も感じているようです。つまり、男性は(女性もですが)器を広げて、毅然としていたらいいのかもしれません。
感謝していること
 遠く離れていて、悟りの感覚を共有する別の言語を使っている人と、翻訳機を通して言葉を送る間に、感覚で分かり合えているということを感じました。相手の言おうとしていることをお互いに感じて、その通りのことを次に書いていました。嬉しい発見でした。
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返信をしないという相手の選択」を尊重する態度が出来る人とはなかなか会えない

2017/01/22 06:35
自分ひとりで自分の幸せを完結してたら、自分以外の人に幸せにしてもらおうという期待しなくてもいいです。

 心の隙間を埋めてくれる人を誰か探してきて、無理やりそれを何とかしてもらおうと期待しようとしても無理です。自分が愛されたい、癒されたいと思っている人がほとんどですから。

 それでも、死んじゃいそうに寂しくて、誰かに頼りたいとき、何とかしくれそうな人が近くにいたら、恥も外聞も捨ててお願いしたらいいです。でも断られたら、「やっぱりだめか」って思ってスッパリ諦めたらいいです。別の人を探しましょう。

 そうしているうちに、人では自分の心を癒すことが出来ないし、御仏など宇宙の真理との邂逅をした上で、自分自身が自分を癒しエネルギーチャージをして、それを他人に分けてあげる側になるしかないと悟ります。

 一つ注意ですが、今、周りに自分を癒してくれそうな人がいない時、かつて懇意にしていて今は音沙汰がない人を無理やりコンタクトを取って何とかしようなどと言うのは無理があります。音信不通とか縁が遠のいているというのは、相手側につきあいたくないという何らかの理由があるからです。過去は済んだこと。みんな今目の前にあることに向き合っていて、それに忙しいので、邪魔をしたらいけません。

 メールでも返事が要らないと書かれた時や、Cc Bcc で伝えるときは基本的に、返事は求められていません。とくにBccでメールを受け取ったときは、絶対返事はいらないという意図が込められています。本当にただの報告です。だから返事をもらうと嬉しいけど、「う〜ん」ていう感じです。Ccで集団のみんなに当てたメールなどでは、自分が書いた内容の一部の確認をもらうくらいで構いません。

 要するに私は手紙的な内容以外のメールが苦手というか嫌いです。メールではなくできれば、言いたいことは報告も含めて直接本人に伝えたいです。物理的に無理な時は、できるだけ短いメッセージで伝えます。
 
 私はおもいと言葉と行動は一致させるようにしています。だから、私に関しては言っているそのままが、本心だと取って一向に構いません。自分を殺傷を目的で向かってくるとか、悪意をばら撒いて失脚させる人に対しても、気が弱いので相手を睨んだり、冷たい目で見ことはできません。そんなことは滅多にないですが。もちろん、日常でも咳払いとかも下品に感じるし自分では絶対しません。自分がされると嫌だなことは基本しません。親にもするなと言われていた舌打ちというのは神経に触りますのでこれは錐で刺して回される感じがして、それをする人とは距離を置くことにしています。波動が下がる気がします。その後はひっそり身を引くことを常としています。

 仕事や学習などで期限があることは返事をお願いしますが、ほかは本人にまかせます。返事が来なくても構いません。それはその人の選択なのだと態度を尊重するからです。私も基本的には同じようにされたいというのもあります。

 でも、職業病なのか、相手の時間を搾取したくないという癖がついているのか、失礼がない程度に、報告や連絡などは相手から聞かれない内に、こちらからさせていただくことにしています。お相手に、あれはどうだったと聞く手間を掛けさせるのは申し訳ないからです。お互い忙しいのですが、自分の手間や時間を使うことの方で相手がことの経過を納得してくれたらそれでいいです。
感謝していること
 論文で頭の中が一杯で、会話も日常の行動も最小限で済ます節約モードに入っていますが、周りの人がそれを理解してくれていて、許してもらえていることに感謝します。
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足るを知る

2017/01/20 19:45
お蔭様で、今のところ、何の不安もなく暮らしております。
 元々のんびりしていて、あくせくするのが苦手なので、そういうものを引き寄せて生きているのでしょう。本当は南の島でエメラルドグリーンの海を見ながら潮風に吹かれて、何もしないで、ただぼーっとしていたいです。そうしていたいのですが、今生での使命を果たさす役割もあるので、サマーバケーションくらいでいいのかもしれません。
 
 幼少の頃、おばあちゃんの同居する本家に嫁いだ母がこう言っていました。
 「何もないところから、家のものを一つ一つ揃えていく生活の方が良かったのに」
 そこには感謝の気持ちがあまり感じられなかったので、私はこう言いました。
 「いろいろなものが揃っていても、それを感謝して使わせてもらって、別のことで周りの人の役に立てるようにしたらいいんじゃないの。実際何もない人たちにはこんなことは言ってはいけない言葉かもしれないよ。」

 初めからいろいろなものは揃っていても、おばあちゃんと両親と子供三人で暮らすのはかなり大変な時もありました。田んぼが道路として売れたとき、急に家が豊かになりました。小学校低学年の時です。私は月賦で買ってもらった木製の机を使っていましたが、妹や弟はスチールのいろいろ飾りのある机を買ってもらい、家も新築して、借家なども持つことが出来ました。同時に、親戚とお金のことで揉めたのを目の当たりにしたのもこの時でした。

 今頃になって、最終課程の博士論文を書いているのは、これで両親に対して御恩の少しでもお返しできるかもしれないという気持ちからです。「勉強が好きなんですね。」とよく言われますが、ローンで買ってもらった机で、初めに勉強した記憶がずっと心に残っていて、ただ勉強できることが嬉しくて、だから誰かに勉強しろと言われた記憶がなく、淡々と読んだり書いたりすごしてきて今に至っております。

 京都の今の大学に初めに通ってから、ずっと結婚するまでひとり暮らしをしていました。週末に仏教の話を日本全国に聞きに行くために、アルバイトをするなど余裕があまりない暮らしをしていました。衣食住に困ったことはありませんが、それなりに倹約・節約した生活を送っていました。今でもそれは変わりません。お金はお金を大切にする人や多くの人を喜ばせる人の所に集まります。それ以前の問題として、使わない人はお金がたまります。自動販売機で飲み物を買うという感覚が今でもわかりません。水筒やネットで買った水などを持って出かけます。そうしてためたお金で海外に出かけたりしていますが、そこでもあまりお金を使いません。親が必死で働いている後姿を見てきたせいかもしれません。

 成長して後は、メンターや会社の社長が食事を会う度に、お礼は無用とご馳走してくれていました。私も早くお金を稼いで、ご飯をご馳走し出来るようになります。年配の方々には、ごはんをご一緒しだけではなく、チップの渡しかたや人の上に立つことや気持ちよく働いてもらうための心得なども教えていただきました。「衣食足りて礼節を知る」「金持ちケンカせず」などのことわざを体験を通して学びました。

 今でも、私はそれほど、贅沢な暮らしをしていませんし、これからも、ただ必要なものが読めて、書けて、発表できて、たまにワークショップなどをしながら、仏教のお話がして行けたらそれだけで満足です。働きながら倹約もして、縁があればいつでも外国にも行けるし、ある程度満足した暮らしはできるという根拠のない自信があります。「不活の恐れなし」とでもいうのでしょうか、これは仏教で救われた人は5つの恐れが無くなるということの一つですが。

 このように、人に対しても物に対しても執着がさほどなく、私を必要としてくれる人の傍らにいつでも行きたいし、居たいです。すべて御仏におまかせしているので、私は操り人形のように、言われるまま、命じられるままに粛々と生きていく所存です。
 感謝していること
 今日は晴れていて気分がいいです。
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もし今日が人生最期の日なら何をおもうかな

2017/01/20 19:36
阿弥陀仏への御恩でしょうか。
 それから、恩師・両親・家族・友だち・周りの人たちへの感謝。
 そのときまで、ほんのわずかしかないかもしれませんが、この先の人生を、光の中で、ピンクなどの明るい色の服を着て、微笑んでいると私はそう決めています。
 
 幼少の頃から、ずっと、怒ったり、睨んだりされると、弱い私は心臓の動悸や脈が上がります。だから、出来るだけ穏やかに過ごしています。論文で言語操作をしょっちゅうしないといけないので、日常では疲れるので、言葉を執拗に駆使した話はしたくありません。

 フィニッシュまで、だんだんにソフトランディングをしつつ、穏やかに自分の使命を果たしていく所存です。誰かと争ったり、余分な欲を起こすと泣く人が出て来るので、そこら辺は適当でいいです。仕事などで考えるとき以外は、ぼーっと静かにしていたいです。同じようにしていられる人がいたら、一緒にいてもいいし、いないなら一人でもよろこべる身の上にしてくださった御仏の御恩を感じつつ、今生を終わっていきます。
感謝していること
 好きな服を着れて、食べるものにも困らず、雨露、寒さ暑さもしのげる家があり、生活は上手く回っていることに有難く感謝しております。
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音沙汰がない人は放っておく

2017/01/19 08:56
 音沙汰がないというのは、今は、縁がないのでしょう。
 最近私は、今、ここを生きることにしています。
 連絡がない人は、何かそれなりに関わりたくない理由があるのだと思います。
 忙しいとか、病気とか、最悪の場合、死んだとか。
 それでも、必要があれば、本人が連絡できなくても、その人の周りの人に頼んだりします。また、いろいろな縁で、何らかの知らせを受け取ることが出来ます。

 自分から関わる時は責任が生じますから、その覚悟がない限り、放っておくことが大切です。
 
ただ、自分の余命があとわずかでどうしても逢いたいとか、自分は元気だけれど相手が生きて元気にしているかどうか知りたいとかなら、思い切って逢いに行かないと心残りでしょう。相手とアポがどれようが取れまいが、そういう時は身体が動いてしまいます。そういうものです。どうしても何かしたいとき、人は恥も外聞もなく、行動します。反対に言うと、行動できないというのは何かのブロックがあります。相手に悪く思われたくないというだけなら、それはおもいが浅いし、行動に簡単に移せますが、その深層に何かがあるから重い腰が上がらないのです。

自分の足りない所を癒してもらう理由で、疎遠になっている人と連絡を取るのは動機が逆な気がします。そういうことで縁を持とうとすると癒されなかったり、逢うことを拒絶されたりします。むしろ、自分が相手に対して何かできることがないかという気持ちで行けば、相手が自分を必要としていないで、拒絶されても別に、今、そういう需要はないのかと割り切れます。

特別、気になったり、親しかったり、恩を受けたりした人以外は、自分から何かするのは、あまり気がすすみませんし、佳い結果につながらないと思います。お互いの波動が合わないと、嫌な思いをするだけですから。むしろ、向こうからやってきたことや、共通の用事がある時に限って、コンタクトを取り、関わる方がいいでしょう。

自分自身が愛が溢れて、自分を癒せるようになり、人にも分けてあげられるようになると、こちらからコンタクトを取ろうとしなくても、向こうから自然にいろいろしてくださいと言ってこられます。腐れ縁とか、嫌々している気配を感じたら、それは波動が低いし、拗れているので、それを建て直すよりも、思い切って一度、クリアにしてまた始めから関係を構築し直した方がいいでしょう。

最近面倒なことが、嫌になり、いろいろ見直しを始めていて、スッキリしています。
そうなったとき、残るのが本当に真摯な人たちであり、信頼できる関係なのだと感じます。そしてとても優しく居心地がいいものでもあります。
意地を張ったり、拗れたり、拗ねたり、器が小さい人たちと関わると、波動が低い方に引っ張られ、辛いおもいをしますので、出来るだけ反対の方向の真摯な尊敬出来る人たちを選んで一緒にいると物事がスムーズに進み、裏切られることもなく気分が高揚してきます。人と仕事は選ぶことが大切です。

感謝していること
ある企画から撤退することに決めました。そのことを報告しに行くと、相手の方もその方向でお考えで既にメールをくださっていました。そのメールが愛に溢れたものだったので、退いたことが良かったと心から感じられました。私のジョークにナイスな返しもいただけました。有難いです。
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引き際、けじめ、後始末等々・・・・・・

2017/01/19 08:51
 前を向いて歩くことは私に課せられた使命です。
 一秒たりとも止まっていられません。
 
 今の私の課題は博士論文を書くことです。これは使命を果たすためにクリアしていかなければならない課題であると痛感しているので逃げないで取り組んでいます。だんだん嵌ってきましたが、そのうち大好きになれたらと思います。目的を達成するために可処分時間を精査していこうと決意したところです。もちろん論文を主に考えていきますが、それはあくまで布教の手段の向上です。
 残された時間のない私は、恥も外聞もなく、必死で、阿弥陀仏の御本願を有縁の人たちにお話ししてまいります。そのための引き際、けじめ、後始末をしてまいります。
 
本当は、誰とも何も話さなくてもいいのが一番です。心が通い合う相手と、できれば、たまに同じ空間でいて、顔を見て微笑みあえたら、それだけでいいです。一瞬のときめきで構いません。同じ気持ちでいる人が、遠くにいても、相手のことを私が、思い出せるだけでいいのです。私のことをおもってくれてなくてもいいです。見返りは要りません。私がこんなにも大切におもえる人がいてくれたのだと感謝出来たらそれでいいのです。傷つくことを恐れていた自己満足の時からはちょっと抜け出られた気がします。

「来るものは拒まず、去る者は追わず」

これが私の今生での信条です。

以下のゲシュタルトの祈りとも似ています。

ゲシュタルト療法の創始者、フレデリック・S・パールズ(独・精神科医) の言葉

「ゲシュタルトの祈り」

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きています。
私はあなたの期待に応えるために生まれてきたのではありません。
あなたもまた私の期待に応えるために生まれてきたのではありません。
私は私、あなたはあなた。
もし私たちの心が通い合うのなら、それはとても素晴らしいことです。
もし心が通わなくとも、それは仕方のないことです。
感謝していること
 いろいろきづかせてくださる周りの方々に感謝しております。
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大切な人の心にちょっとずつ触れる

2017/01/15 10:57

 『星の王子さま』のなかで、キツネが王子さまに他者との関係は少しずつ縮めるものだと教えるところがあります。このことは、気弱で人見知りが激しい私には最近特に納得できます。日常の表面的な会話等では分からないような、相手の小さな息つかいや感性など細かなことはある程度長い間、両者が伝えてはそっと返す、ガラスのボールでの優しいキャッチボールのような心の交流が不可欠だと痛感しています。
潜在意識ではつながっている気がしても、言葉(書いたものも含む)や感性(直接逢えなくても遠くからでも)で確認できないと三次元では安心・満足できません。
 大切な人がいたら、その人の好きな本や映画や趣味などに自分自身も本気で没頭してみると距離がどんどん近づいて、あまり何も話さなくても温かい雰囲気で一緒に過ごせる気がします。
 感謝していること
 ワークショップに参加したり、企画するのはとても楽しいです。ご縁に感謝します。
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信じられたときとは疑うことに疲れ果てて白旗を上げたとき

2017/01/12 22:57
 もちろん仏さまや人を簡単に信じられる人もいることはいます。
 でも、大部分が人生に困難を感じ、罪悪感や被害者意識なども合い混ぜで生きているので、信じることは簡単ではありません。疑いの余地のないものにまで疑わずにはいられないのが人間の悲しい性です。

 仏さまへの疑いはようやく晴れましたが、その後、人間に対するそれを克服する過程では、かなり厳しく困難な道のりが待っていました。人間、全員を疑わないというのではなく、ある人に対して、この人になら騙されても、地獄に堕ちても構わないと親鸞聖人が法然聖人に感じられたように信じることができたのです。そこには何の見返りもなく、ただもう疑うことに降参したといった状態です。

 そこまで至るにはたくさん傷つけられたように感じ、もう素直なありのままの私でいよう、抵抗するのは止めようとある時から感じられ、そのままの状況が続いています。仏さまと人で信じる対象は違いますが、信じ方は同じような経過をたどった気がします。ただし、仏さまは私を傷つけることは一度もなかったことが違っています。また、傷つけられたと感じたのも、私の心のブロックがそうさせていた、臆病で不器用なボーダーラインを飛び越えられない気弱さで、そうなってしまった感じです。今度こそ、信じようとして向って行った結果、いつもあえなく撃沈されて、ぼとぼ帰ってきた感覚です。それをもう止めようと決意できました。

 信じきるということはとても勇気のいることでした。信じる対象が絶対裏切らないか、裏切られても後悔しない自分でいる状態まで気持ちを持って行かなくてはならないからです。幼少の頃から、かなり辛く苦しいことを実際、経験し、見聞きしてきましたし、それをたくさん心の中にストックしていますが、それは一つ一つが私にとっては宝物だったのかもしれません。苦しく辛いことしか人間を成長させないことを信じるということの課程で私は知り得ました。
感謝していること
広く大きくあたたかい感覚を受け取ることが出来たことを嬉しく感じます。三次元の人間としての醍醐味をもって、遊び感覚で生きられることは私にとって、この上もないよろこびです。 
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Fragile(壊れやすさ)とvulnerable(傷つきやすさ)の相違

2017/01/12 22:45
 前者は物が壊れる人の身体の表層が実際、擦傷などで傷つく感じがします。
 後者は人の心の奥で深く傷つく様を表現している気がします。

 ジェンダーの差異による男女の理解が難しい点は、後者のより入り組んだ被害者意識のようなものを包含する言葉がそれをよりよく表現していると私には感じられました。
 何も考えなくて、素直なのが一番ですが、周りに意地悪をする人がいると、特に心身をいじめぬかれるなど不遇な環境にあると構えてしまうのは仕方のないことです。

 常に強く優しく、見返りも求めず、命も惜しまず自分に慈愛の念を持って接してくれるのは仏さまだけだと感じて、私は仏さまの願いをそのまま賜りました。しかしながら、煩悩を持ったまま残りの人生を全うしなければならない矛盾と直面して、よろこびはもったまま、長いこと煩悶の日々を送っていました。

 最近、やっと、そこから脱け出せた気がします。
 分かり合えない人は、分かり合えないと認識することが大切だとわかりました。
 その上で、最善のことをしたらいい、その人にとって自分が今、必要でなければ、遠くで見守っていて、何か求めてきたら出来ることをしたらいいと割り切れました。

 必要とされているなら、その度合いに応じて、してほしいことを出来る範囲でして差し上げたらいいのではないかということも分かりました。誰が一番というのでもなく、その場その場に、今この瞬間、目の前で助けて欲しい人にふさわしいことを全力でしていこうと思います。それを八方美人とか受け取られるのもあまり気分がよくないですが、仕方ありません。ただ、一番大切にしたい人は、その人と一緒にいることで、周りの人たちに慈愛を感じてもらえる人で、対等でいられる一緒に使命を果たせる人です。これはよく分かって欲しいと思っています。

 表面的な壊れやすさの修復は私でなくても、医師・心理士や看護師などの施術者や弁護士などにしてもらえばいいでしょう。私はもっと奥深い存在の意義や迷いから抜け出ることや日々明るく楽しく共に生きられることをお話しし、ワークショップを行い、文章残していこうと今は考えています。

 壊れやすさ、傷つきやすさはスクリーンに映った夢幻のことであり、真理との邂逅の後それが自覚できたら、人生は真の意味で遊びになります。それをお伝えしてまいります。
 感謝していること
 いろいろありますが、自分が使命を果たすための軸がぶれずしっかりしていたら、目的と違う人は去り、助けてくれる人は集まって来るものだと実感し、感謝しております。
 
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自分が信じられて、はじめてほかの誰かも信じられる

2017/01/09 08:27
 自分が信じられないとほかの人を信じられません。
 自分に優しくなれたとき、ほかの人に対しても優しくなれます。
 自分自身がとっても好きな人だけが、周りの人たちも好きになれます。

 自分がいつか、ただ、柔らかな優しくてあたたかい光の中でいたときと同じように微笑んで、大好きな誰かと過ごす準備ができている確信があれば、きっとすぐにそういう状態に移行できます。その確信は緩く穏やかなもので、必死に歯を食いしばるようなものではなく自然になされるものでしょう。
感謝していること
 この冬は暖かく過ごしやすいです。今日もたくさんいいことがある予感がします。
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全てにおいて最後は信じることなんだ

2017/01/05 21:02
 新しい年になりました。本年もよろしくお願いします。
 阿弥陀仏のお約束を疑いなく信じることばかりを私はずっと言い続けてきました。仏さまは信じられても、人間は子どもの頃からのトラウマからか、無理かと諦めていました。「それではだめでしょう,人も信じないと」と、年末にすでに疑いを手放した友だち(彼女には春に話して以来よろこんでいる)に言われました。
 「私に足りないところはそこかも知れない」と感じました。どこか人間を信用しきれないところがありましたし、今でもかなり恐がりで人見知りの私が自分の殻をどのように破って行くかが今後の課題でしょう。何となく信じられるんじゃないかというちょっとだけ根拠がある明るい展望を持っています。
 感謝していること
 いろいろな人に支えられ、教えられています。有り難いです。
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気持ちを新たに始めてみよう

2016/12/25 14:41
 今までいろいろなことをしてきましたが、阿弥陀仏のお約束を受け取ること以外は、夢中になったことがありません。疑うことを排除して極力自分の気持ちを見ていった結果、信じる気持ちが全くないことに気が付くという自己矛盾が知らされた日々でした。信じる気持ちがないということに疑いが晴れ、そんなものでもそのまま救うという願いを受け取らせていただいたので、私の人生の宿題はこれで相済みです。救われた時は、ただただ嬉しかったのですが、すぐに、自分だけ心が晴れて澄み渡る心境に救われていたのでは申し訳ない、この境地を有縁の方に一人でも多くお話ししていこうと決意しました。

それから、また苦難の道が始まりましたが、今度は阿弥陀さまとご一緒させていただいているので、心強くもあり、苦労のし甲斐もあります。自動運転のように身をまかせているので、自分では回り道のように感じるときがあっても、時間が経つとあれはあれでよかったとか、そういうことだったのかと分かる時が来ました。

脇目も振らず、一心に、御仏に救われ、死の恐怖がなくなることを夢中で求めてきたので、普段の生活はどうやって維持してきたのかよく覚えていません。人間としての辛さや痛みはナイーブでちょっとしたことでも動揺して振動するので大変で、人生は苦しいことがほとんどで、ほっと息をつく暇もないほどだった気もします。

 今は、少し余裕が出来たのか、阿弥陀仏に救われた人でも人間としては分かり合えない人たちもいることもいるし、救われていない人でも心が通じ合える気がする人もいることも分かってきました。できることなら、ご縁のある人たちはみな阿弥陀仏の御本願に救われて欲しいです。そこまで行かなくても、心が通じ合い柔らかな温かい気持ちで一緒にいられる時を過ごせたらと願っています。
感謝していること
 阿弥陀仏に救われるご縁になることの次に、人を本当に大切にすることや思い遣ることが私にはまだわからないので、子どもの頃の何も考えていないで、周りの人の善意をそのまま受け取れた状態から始めてみようとしています。周りの人たちにはよくしていただいており、感謝しております。
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今、生きている実感を持っていたい・・・・・・

2016/12/21 00:15
 もし、自分の命がもう残りわずかなら何がしたいか考えます。父が他界し、命なんて儚いものだと身を以て知らされ、自分の人生を考え直しているところです。

 博士論文を出して博士号を取得するために出身校の大学院に戻りました。他の大学じゃなくてここしか私の思い描く論文は完成できないと何となく感じたからです。それでも、自分の思いを整理して表現するに至るまで半年くらい時間がかかってしまいました。その間父のこともあり、中断も余儀なくされました。この頃やっと、論文に集中できる環境に身を置いて、参考文献を読んだり、論文の計画を立てられるようになってきました。

 今は、論文を書くことに集中しています。ほかのことは特にしたいとは思えません。先人の文章では、新しい発見や、自分と同じ道を行っていたのだと感動することも多く、この頃は、気が付くと時間が経つのも忘れて文字を追い続けています。
 
 「今までのことがあったから、今のあなたがある」こういってくれた人がいます。

 本当にそうだと思います。様々な論文を拝読していて、苦しかったり、悲しかったりしたし、何となく回り道だった気がしたけど、私にとっては、全部必要なことだったのだとその言葉にやっと実感が持てるようになりました。

 使命を果たすべく論文を書いていて、本当は分かり易い言葉で誰にでもわかるように書きたいのです。でも、お作法や型を身に着けてその上で、書けるようになるために今は博士課程に身を置いています。だから、速くその書き方に慣れて、どんな書き方であっても、多くの人が分かるように書けるようになります。地頭も特別賢い訳でもなく、飲み込みもよくなく(身体の喉も丈夫じゃないです)、ひたすら精進するしかない私ですが、出来るところまでやってみようと思います。

 もしもあと何か月かしか生きられないなら、もしかして今日が死ぬ日だったらと覚悟して、研究を第一として、目の前の人が生きる希望を持てるように真摯に生きてまいります。それと、大好きな人を近くで少しでも感じていたいです。
感謝していること
 この頃、論文一色になっている私ですが、家も学校も全てが研究がとてもはかどる環境になってきたことに感謝します。
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あるとき誰かの真摯さが感じられたら、その先、自分がどうしていくか(軸)が定まる

2016/12/17 23:01
 真摯さを受け取れるのは対等な関係が構築できると確信したときと同時な気がします。
 何らかのパッションが感じられたとき、いつもは幾重にも理論武装してクールさを装っているその人が無防備なありのまま、そのままの赤ちゃんみたいに向かってくる姿を見たら、日頃の作られた姿じゃないその人を感じられます。笑えちゃうくらい不器用で必死でひたむきなところがどうしようもなく愛おしく、もしもこの人が私を裏切っても、何かどうしようもない理由があってのことで、私が犠牲になることで幸せなら別にいいやって思えてしまう瞬間です。
 
 表面的なことはほかの人との兼ね合いで、いつも楽しい状態をキープできなくても仕方ないこともあります。だから、小さい細々したことはあまり気にしないでいて、心の中でお互いに信頼できていたらそれでいいんじゃないかって、割り切れるような真摯な人と出合えたら、そんな人とは一生涯で何人かで合えるかどうかなので大切にしましょう。その人が何をしてくれるかじゃなくて、自分がその人に何ができるかをお互いに憶い続けられます。

 男女に関係なく、お互いが表面的に波がしきりにたって、揺れ動く心よりもさらに深い海のようなところでつながっている真摯な感覚の人を一人でも見つけられた人生はその先、いままでより味わい深く、人間としての醍醐味が感じられていきます。相手の目に見えて聞こえる言動より深い何かを感じていこうといシフト転換ができます。メールやラインというツールの言葉に頼るものよりも確実な心の遣り取りが始ります。深いところの何かを感じようと目をつぶっているような状態なので、その人が目に見えておしゃれしてきていていたことを後でそういえば、いつにも増して素敵だったし、あのとき褒めてあげればよかったと後悔することもたまにあるので、現実もきちんと生きていい気分を何倍も楽しもうと思っています。
感謝していること
特に何も特別なことも起きないけど、論文を書くために集中できる環境を支えてくれている人たちに感謝します。
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宇宙人宣言〜博論のめどがつくまで人間止めます〜

2016/12/10 22:31
人間らしい生活を止めて、宇宙人のような生活に突入しようと決めました。

 最近、いろいろ嫌なことがあって、ストレスになっていて、いろいろな人と話をして解決策を見つけていました。その甲斐あって、今日人間らしい生活をストップして、論文に専念しようと決心しました。昨日相談した人には、査読論文3本通るまでつまんない生活が続きますよといわれました。つまんない生活?覚えがあります。本当に味も素っ気もない生活。
 
 去年の今頃、修論の追い込みでいつ食べたのか寝たのかわからない生活をしていました。少し何か見えてきて、紅葉の色は甦って来たけど、まだ結論が書けなくて、頭の中が同じようなところをぐるぐる回ってて、生きているのに死んでるような日々を送っていました。

 そして出身大学に戻った4月からはアントワープの発表の準備で忙しくしていました。梅雨の季節からは、咳が止まらなかったり、ひどく体調が悪くなり、場面緘黙とかにもなってて、保健センターのベッドで休んだりして何とか7月の講義終了まで乗り切りました。
 
 その頃から父の病気が深刻だと聞かされ、アントワープの発表の前に急きょ帰省して、様子を見に行きベルギーから帰国後すぐに、父の手術が決まり、看病に帰りました。退院したので後期の講義の1週目に京都に戻り、論文を書き上げ提出して、また戻ったら、父が昏睡状態になり再入院して帰らぬ人になってしまいました。
 葬式を出した日、夫と娘と京都に帰り、翌日から講義に戻りました。その後も、辛いことが重なり、また、場面緘黙になりかけ、これではいけないと思って何とか少しずつ話をしたら、やっと最近は半分くらいは話せるようになりました。

 そして昨日、やっと光が見え始めました。
 去年の今頃からと同様、論文提出直前のような状態になることを、私は故意に避けていたことに気が付きました。つまんないし、退屈で、嬉しくもなく、ただただ苦しくて、ひたすら本を読み、パソコンに向かう日々でした。そのつまんなさに我慢できるのか、戻れるのか、でもきっと戻らないと最短で修了できないんだろうということは漠然と考えていました。戻るのが怖かったので、いろいろ逃げ道を作って、その論文に集中する生活を考えないで遠ざけていたのだと思います。

 これからは、宇宙人のつもりなので、誰に何を言われても次のように想い、気にしないことにします。
「そうなんだ」「なるほど」「そうきましたか」「そういうことですね」「了解しました」「承りました」「OKです」「許可します」「十分確認しました」「もう好きにしてください」「どうぞ、ご勝手になさってください」
感謝していること
 今日、私がこのように気持ちを切り替えることが出来たのは、今日まで、ずっと何かあるといつも話を聞いて優しく励ましてくださっていたある方のお蔭だと有難く感謝しています。
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振り返ると仏教を聞くことに大半を費やした人生

2016/11/30 22:42
 無常観があまりにも強く、死の恐怖の解決が出来たらもうそれで、人生は終わっても構わないと感じていました。だから、今、それが済んでいるので、私の人生は遊びです。しかしながら、同じように無常観で苦しんでいる人のために、死の恐怖の解決ができる仏教のお話をしていくために残りの人生を駆け抜けてまいります。
 若い頃、日本中、もしくは海外で聴聞し、その旅費や宿泊代を捻出するために大学時代のアルバイトや社会人になってからも休む暇なく働いていた日々を私は後悔していません。友だちや周りの人には恵まれましたが、特に遊びもせず趣味も読書くらいで、それも仏教や人生に関係する物を読みあさっていました。それでも、私は生きた阿弥陀さまと出値え、今御恩報謝の暮らしをさせていただけていることがとても嬉しくて仕方がありません。どこまで何が出来るか分かりませんが、遊びながら、精進してまいります。
 感謝していること
  世間の人が求めるような快楽も感じず、贅沢もしていませんが、今生きていることを楽しんでおります。
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前を向いてとにかく進む

2016/11/30 22:37
 余裕があって、よろこんで与えてくださるものは遠慮なくいただいてきました。両親は京都の大学に行く私のために学費を払い仕送りをしてくれました。仏教の講演会ではいつも元町会議員で手広く自営業をしていたご隠居さんがお昼をご馳走してくれました。仕事をしていた時、社長が出張で京都に来るとやはりご馳走になっていました。子どもが生まれてから、仕事をすっぱり辞め、夫が働いてくれて、私の研究を支えてくれています。大学院の先生や友だちにも本当にお世話になって、少しずつですが研究の方向性が見えてきました。阿弥陀仏の救いを共によろこび、御恩報謝させていただいている法の友もいます。人だけではなく、家電製品にも私は助けられてきています。何年も働いてくれている電化製品や相棒のパソコンなしでは一日も暮らせません。全てが有難いです。

 ただし、困っている人に、余裕がない人に何かをねだって「欲しい」といった記憶がありません。大変な中でも、よろこんで何か物を与え教え、心を掛けてくださる方々もありましたが、それは有難く頂戴しました。それでも、自分で欲しいものは何とか自分で手に入れることが出来たのは、大学に行かせてもらえて、周りの人の理解があったからなのでしょうが、使命を果たすためだったからのような気がします。いろいろな方々に、ほんとうによくしていただいたので、これからは私がご恩返しをする番だと痛感しております。前を向いて一歩ずつ、真摯に進んでまいります。どうぞ、皆様のお力添えをよろしくお願い申し上げます。
感謝していること
論文を書くために仏教のことが書かれた本を拝読していて、聴聞してきた何十年かの日々が懐かしく思い出されました。御仏の光明のお育てにあずかってここまでこられたことを改めて知らされ、有難く感謝しております。
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人間の器について

2016/11/29 20:35
  金融系の上場の大手企業の役員をしている高校の同級生の友だちが言っていました。
 女性で幹部として出世するのは「器の大きい人」だと。
 男性でも器の大きい人といると本当に自由で気分がいいです。私も周りの人にとって、自分の器を今よりも少しずつでも広げていこうとその時感じました。
 
 特に攻撃してくるとか意地悪な人以外とは私は友達感覚です。海外で、特に欧州やその影響下にあった国々で、街で出会ったり、エレベーターに乗ったりするとき、とっさに、にこやかにほほ笑んで挨拶する感覚の延長という感じでしょうか。私は他人に対して何も意思表示しなくても分かり合えるとは全く感じていませんし、単一民族意識の恐ろしさを幼少のことから感じているので、とりあえずあなたの敵ではありませんからとあいさつするなどしています。常に相手にフレンドリーに警戒心を持たないようにするのは努力がいることで大変だと思う人もあるかもしれませんが、慣れてしまえばそういうものとしての言動が意識しないでも取れます。

 これは周りの人を信用していないということではありません。「親しき仲にも礼儀あり」ということです。私は人に何かしてもらうのが苦手です。自分から何か欲しいとか、したいとかは滅多に言い出しません。出来ることは自分でしますし、自発的にしていただいたりすることに対してはとても申し訳なく感じて、お礼を欠かしません。誰かがしてくださったことを当たり前だと思ったことは一度もありません。

 自分自身が使命を果たすために日常の家事も最低限のことしかせず、仏教の話をしたり、学校に行って本を読んだりパソコンで文章を書いている生活をしていてそれを家族が支えてくれていることは本当に有難く感謝しております。家事が嫌いというよりもそれに費やしている時間がないのです。10分で食べる食事にそれ以上の時間を使う気はありません。同時並行で圧力鍋で煮込むとかグリルで焼くとかするのも時間がもったいない気がします。多少食べないときがあっても、大丈夫になってきていますので、ちょっと一般とは違うライフスタイルを取っています。のような生活をそ維持するために協力してくださる方々に感謝して、機嫌よくにこやかにすることくらいしかできないと自覚して、出来るだけ穏やかに楽しく暮らしています。
 使命を果たすためには、まず、周りの人と仲良くなり、その輪を広げていくことが肝要となりますので、自分と関わる人たち全てにこちらから心を開いていくようにしています。受け入れてもらえない場合もありますが、それはそれで構いません。とりあえず、共感したり仲よくしていける人を増やしつつ、御恩報謝の暮らしを続行していく所存です。これは器を大きくしていくこととつながる気がします。
感謝していること
 今まで出合ったり、SNSでやりとりしている世界中の人たちと仲良くしてもらえていることがとても嬉しく感謝しております。
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欲と嫉妬について

2016/11/28 11:24
幼少の頃から私は特に何も欲しくありませんでした。
 だから、特にこれが欲しいとねだった記憶もありません。
 必要なものは買ってもらいましたが、それ以上のものは心の底から欲しいとは思いませんでした。
 だから人と争って何かを獲得するとか、それこそ人のものを盗るとかそんなこととは無縁の生き方をしてきました。
 何か欲しいと言うのは足りないと感じるからなのでしょうか。
 
嫉妬も必要最低限のもの以外はいらないので、持ちませんでした。
 自分が満たされていたら欲しくなし、人を嫉妬することもなかったのかもしれません。
 家が大金持ちでもなく、天才的頭脳を持つ容姿端麗でみんなからちやほやされる人生ではありませんでしたが、自分が過分に欲しくなくて足るを知る生活を無意識にしてきました。だから、今でも、「欲しい人」や「嫉妬する人」の気持ちが分かりません。

 その時、あるもの持っているものに感謝してきました。
 それは、人間が死すべき存在で、容姿も衰え、死ぬときには何一つ持っていけないという考えが根底にあったのだと思います。
 
 人に対しても「欲しい」や「嫉妬」は感じません。
 その時のご縁で、私をまたは私が必要な人と暮らし、助け合う感覚です。家族も友だちも周りの人みんなに対して、私は優劣を感じません。

 嫉妬とか独占欲とかは何だか器の小さい人の感覚のような気がします。また独占欲(嫉妬)で意地悪をする人に対しては子どもじみて悲しく残念ですが、こんな経験も過去にたくさんしてきました。私は一貫して、秘密とか特別扱いが苦手です。

 私が特に心を掛ける人は、助けたいし、助けられるのは、今本当に苦しんでいる人であって、欲や嫉妬で燃え盛る炎の中にいる人ではありません。私自身がそのような状態がわからないうこともありますが、欲や怒りや愚痴の煩悩のまたその底にある迷いの無明にきづき、それを何とかしたい人に応えるのが、それこそが、私の使命だからです。
 今衣食住の生存に必要な社会福祉政策や援助は要らないとは言いませんし、必要に応じでそれを考え実施する人がしたらいいと思いますが、私が今生、人間として生まれて遂行する使命ではないとハッキリきづきました。あとどれくらい生きられるか分からないので、私は自身の使命を果たすことを中心に生きていきます。

 人はそれぞれの環境で、いろいろな人に出合い、物に恵まれていますが、必要な時に必要なだけのご縁に出合えます。なぜなら、阿弥陀仏の光明は迷いを迷いと分かるゴールに向かっての学びを生きることを支え、導いているからです。だから、それに必要なものが備わり、やって来るのです。おそらく「欲しい人」「嫉妬する人」はそれがその人の学びにはまだ必要なのです。

 何となく、日頃感じていたことがふっと腑に落ちたので書いてみました。
感謝していること
 何もなくても、一人でもよろこべる感覚が持て、今も満たされていることはひとえに阿弥陀仏のご加護だと有難く感謝します。 

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過去の記録(仏典・論文等の書物)と現在の実態(日々の出来事)

2016/11/15 18:33
 釈迦の説法を再編した仏典を多くの人が解釈し、読み解きそれを布教してきました。そして阿弥陀仏の本願も話され、多くの人が信心を賜ってきました。ネパール・インドはもとよりアジアや世界中の国々に仏教は翻訳され広まってきました。翻訳は「膨張」していきました。その過程で、釈迦が説いたものと別の形になっていったものもあったでしょう。しかしながら、悟り救いが説かれ、六道輪廻や解脱が出来たのなら私はそれはそれで構わないと感じます。経典を編纂し解釈した時点で、釈迦の話からは離れてしまっています。いかに優秀な編者や解釈者が携わっていたとしても、ズレが生じるのは否めません。さらに、釈迦は将来仏典そのものもなくなり、阿弥陀仏の本願のみが残るであろうという予言を残しています。

 では、言語も解釈の違いも超越して仏教が伝わった要因は何かと考えました。それは悟り、目覚めといった廻心、自力から他力への心の人知には及ばず、説明できない境地に達した人たちが存在し、その人たちの口によって手によって話され記録されたものが語り継がれ残されたことではないでしょうか。つまり、人から人へ、胸から胸への伝わり方と、救われた体験の記録が書かれたものの熱エネルギーが後世へ綿々と伝わったのでしょう。

 ただ、翻訳や解釈の膨張によって逸脱した部分は元も仏典に戻って軌道修正したり、救いの話をしていて行き詰ったときにそれらに戻ってみるとか先人の業績を尋ねてきづきをもらうことは必要ですし、自己流でしていってはもっと混乱し、大きく悟りや救いから離れることになります。

 このように、過去の記録も現在起こっていることも全てが関連していて、疎かにはできません。ただ、どちらを優先させるかといえば、今苦しんで救いを求めている人の救済です。それありきで、そのことが成就されるにはどうすればいいかを考えて実践していくのが布教活動です。名誉やお金を求めて、学問の為の学問をしている暇はありません。そんなものは何かをした後におのずとついてくるものです。目的になってしまっては本末転倒です。お米を取れば藁もついてきます。藁を取ることが目的ではないことをゆめゆめ忘れてはなりません。常に何のために仏教を話しているのか、これが忘れ去られたときに、布教活動は無意味なものになります。
感謝してること
 覚悟という言葉を聞かせていただき、布教するものとしての覚悟ありきで私は生まれ、生きているのだという自覚が思い出されてきました。縁に触れ軌道修正されることは有難いことです。
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何をどうする覚悟なのか

2016/11/15 18:27
 使命を果たすことを最優先するのが今の私の覚悟なのです。
 それは阿弥陀仏の願いを世界中の人たちにお話しすること。
 これを一番しやすいような人たちと関わり、場所を移動して、適切な仕事を選んでまいります。何が一番最適なのかその場その場で考えます。
 
 今までの出来事は『ローマの休日』のアン王女の短いバカンスのようなものだったのかもしれません。私の場合は、自分の家の女王です。私の休日においては、思うように上手く遊べなくて苦しみがほとんどでしたが、それもみんな佳き思い出でした。何かが終わったから、きっと何か新しい展開になることでしょう。
感謝していること
 さよならを言う代わりに、どうでもいいことしか話せなかった自分を「なんて愛おしいんだろう」って感じられるようになったことに感謝します。
  
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自分が全面的に受容されていると気付くことが全ての解決の道

2016/11/04 10:26
 これは簡単なようで、最も難しいことでもあります。
 自分を自分が受け入れること、自分で自分を愛することでは解決になりません。
 真理のようなものすっぽり全身が包まれ護られて、二度と離れることがない感覚をずっと保ち続けている人は稀です。全ての人に、早くそういう身になってほしいですが、こればかりは自分自身で求める覚悟が出来なければ難しいです。特に周りの大好きな人にそういう境地に達してもらいたいと思っても、求める心は私には与えることができません。ただ待っているだけです。
 
大切な人は別のものをいつも掴んでいました。タバコ、酒、ギャンブルetc.
別の大事な人もプライド、支配、独占欲etc.
そんなんじゃなくて、御仏の智恵と慈悲の光明を受け取ったらいいのにと無言で念じ続けても一向に分かってもらえませんでした。
まず、自分が満たされていないと他人に対して意地悪になります。仕事関係や友だちや知り合いの人になら親切にできるのに妻や恋人には甘えて、威張って、愛を請います。請われても何ともできないので、従うか離れるかしかありません。
悲しい現実ですが、縁がない人には何もできません。
感謝していること
少しでも何か取っ掛かりがあれば、心に満たされない空虚さを抱えている人たちに阿弥陀仏のお約束の話ができることを有難く感謝しています。
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思う存分弾けましょう

2016/11/04 09:56
「主体的に生き、何度も失敗し、傷ついて、また立ち上がった先に見えるもの」
 受け身の人生にもう終わりを告げませんか。
 たかが何十年か積み上げてきて獲た名声や地位や外側の自分じゃない自分に別れを告げ、
 本当の自分を生きませんか。

 自分が可愛いからこそ、一度きりの人生敢えて勝負してみませんか。
 赤ん坊だって何度も転んで立てるようになり、歩け、そして走れるようになります。それを私たちはしてきているのです。それなのに、大人になると傷つくことを恐れ、思い切っていろいろなことが出来なくなります。

 大好きな人にとびっきりの笑顔を向け、優しく思い遣りのある言葉を掛け、至福の時を過ごしていたのは、自分自身も何の屈託もなく相手にそのように接してもらっていたからです。安全な家族から離れていくと、心に傷を負い、人にばかり愛を請う人たちを見ることになります。知らず知らずに彼らと同じような言動をまねるようになっていきます。

 プライドや見栄や独占欲や支配欲で接したら、相手は言うことを聞くかもしれませんが、逃げられます。逃げられない立場なら怖がり、恐れ、内心馬鹿にして尊敬などされず諾々と従うだけです。そこに慈愛は存在しません。他人をないがしろにする人は相手からもそのような仕打ちを受けます。ただそれだけです。

 自尊感情の欠落した人は、心に刃を持っています。笑いかけても、優しくしても返ってくるのは傷つけることで関わろうとする態度です。相互に優しさを交換するのではなく、ただ自分が発散させるサンドバックを探しているからです。私はあなたのサンドバックではないとはっきり宣言しない限り、それは続くことになります。

 共に真理との邂逅を求め、求められたらまだの人たちに一緒にお伝えすることが本当の幸せになる道です。赤ん坊以下の受け身の生き方を見直し、主体的に自他ともに明るく楽しい人生を生きましょう。始めは受け入れられないかもしれませんが、それでも照れずに馬鹿正直に何度否定され非難されても実践して数えきれないくらい傷ついたら、その分優しくなれます。
感謝していること
 阿弥陀さまの御心を常に感じているので、私にはストレスを発散するサンドバックは不要なのはとても有難いです。
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正しさなんかより楽しい方がいい!

2016/09/08 19:01
 お勉強とかはどうかしらないけど、ライフワークの研究は自分もたくさんの人たちも楽しめるものが本物だと感じます。

 客観とか正しさなんて本当は存在しないもの、単なる攻撃の防御の手段であって、過去や未来には使えるけど、今役に立たないものを必死に訴えるのは時間とお金の無駄ですね。




 今、ここにあるのは温かい気持ちだけ。自分を愛おしく感じ同じくらい周りの人たちが大事で仕方ない感覚。ホカホカして出来立てで冷めてなくて、生まれたての赤ちゃんのようにそのまま手あかが付いない今の嬉しい気持ち。




 ねえ、どうしよう、どうしたらいいの、こんなに好きでもいいかな。

 時間が止まってる気がする。

 ずっと一緒にいたい。

 大切な人たち・・・・・・

 

 そんな風に生きている人たちが感じられることのお手伝いや何かヒントの提示をすることが本当の研究であり、学問だと私には感じられます。

 

感謝していること

 見返りなんていらない、ただ自分や周りの人たちが愛おしくて大好きでいられることは素晴らしいんだと言える世の中を御仏はお示しくださいます。


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全部手放したら、ただそこにいるだけで嬉しい人になる

2016/09/08 18:54
自分自身が満たされ、自立していて、自由でいられたら、他人を束縛すること、コントロールのない関係になれます。

 何かを握っていているか、足りないものがあるように感じて、誰かに依存していて、自由が感じられなかったら、他人も自由に開放することはできないのでしょうね。コントロールしちゃうんでしょうね




 条件付きの友だちというのは私には苦痛です。性別・年齢・収入とかの差があってどちらかが何かを譲るとかはあっても、尊敬出来て、精神的には対等なのがいいです。




 一緒にいると自由になれる、ありのままの自分でいられる人と出来るだけ長く一緒の時間を過ごせたら、使命を果たす元気がもらえるのかもしれません。相手が時には何かヒントをくれたり手伝ってくれるのかもしれません。でも何もしてくれなくてもいいと思えるのが一番いいです。ただどこかで、その人が生きていてくれているだけで嬉しい人で私もいたいです。

感謝いていること

 誰かのために何かをしたいと思って生きられることはとても有難いです。


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大人にとっての遊び

2016/09/06 22:36
 子どもの遊びと違うところは、自分の人生でしてきたことで嬉しかったこと・楽しかったことほかの人と共有したいことを創造し、何らかの形に表現して残すことかもしれません。誰かと一緒に何かを創ることなのかと最近は感じます。
 
子どもはただその場で遊ぶことそのものに夢中になって、形に残すことやより多くの人たちとシェアすることに思いが及ばないか、それを実現する手段を持たない場合が多いです。でも、大人たちは難なく自分たちの想いを様々な媒体を使って表現・創造していけます。より多くの人たちと感動を分かち合いたいと深く願います。小さな世界だけではなく飛行機でよその国に行き、パソコンで外国語で語り合う経験があるからです。

考古学の国際会議のセッションのお手伝いをしたことを書きましたが、彼らのプレゼンはまさに遊びの延長でした。自分がした研究を映像や音声や文字で生き生きと表現し、それを参加者とともに分かち合うのです。楽しまなくちゃ損という感じです。意地悪な質問もしないし、本当に疑問に感じたりすることを聞き、仕事を褒め称え合います。何年かに一度で会えたことを心から歓び合っていました。お手伝いをしている私もとても刺激になりよろこばしく感じました。

研究は孤独なものであるという人もいますが、共同研究や資料やヒントを与え合うこともできます。行き詰っているとき、何となく元気がないとき、病気だと聞いたときに息抜きに遊ぼうと誘うことだってできます。それをしないと研究自体を止めなくてはならなくなったり、さらなる高みや発見ができにくくなります。遊びがないところにほかの人を幸せにする研究はない気がします。
堅苦しい融通の利かない四角四面の畏まったものばかりの学会の発表のあとはどっと疲れが出て、何をこんなところまで聞きに来たのだろうと感じたこともあります。反対に多少緩さがあっても、心を明るく楽しくしなおかつ有意義な内容の発表に出合うと疲れも飛んでしまいます。

研究に没頭すると周りが見えなくなるいわゆる「おたく」的要素が私にもあると自覚していますが、それは自身の名誉が欲しいというより、何もかも忘れて夢中になる子ども時代にプラスしてその研究をほかの人たちとシャアしたいし、役に立ってほしいし、何らかの明かりになれたらと思うからです。その研究が100年後までもシャアしてもらえたらこんな嬉しいことはありません。

感謝していること
先生が論文のための資料の本を提供してくださいました。とても助かります。
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心の底から愛おしいとそれだけ伝えたい

2016/09/06 07:29
 本来、人と人のあいだにはこれしかないのでしょう。

 威張ることも脅かすことも痛めつけることも命を奪うことも何もしたくないのに、されたくないのにそして無理やりさせられたくないのに。どうして人はしたくもされたくもない、させられたくもないことをして傷つけ合い、果ては殺し合うのでしょう。




 生まれたての赤ん坊にこれが出来ない、あれが出来ないと文句を言う親はいません。出来なくて当たり前、ただ顔が痒かったのかもしれないのに、ニコッと微笑んだように見えただけで大騒ぎです。

 それが1歳になり、つかまり立ちから自分で立って歩き始めるころになると、ほかの子どもと比べたりして、次々早くできるようにと待ち望み、いろいろ教え込むようにもなります。本人の意思に任せていたら、保育園や幼稚園や小学校で後れを取るように思えてならないからです。実際、読み書きや計算すら、本当に何もしないで就学すると本当にその遅れを取り戻すのに苦労します。




 このような差異が厳存する限り、人は人とのあいだで愛おしく感じて、互いを思い遣るだけじゃなくなる状況はなくなりません。残念ですが今の世の中のシステムで生きていく中で比較・競争はなくなりません。大人や自分より何かが出来る人に嫉妬し、友だちとは競い合います。怠惰でとか性格もあるでしょうが、自分より何らかの点で劣ると感じる人や心身の都合の悪くて自由に生きられない人たちを馬鹿にして邪魔にしたりもします。




 そんなにのんびりしていたら、人のお荷物になって置いていかれると親は子どもに叱咤激励します。教員もより優秀な上の学校に進学できるように怠けず、勉強させようとします。そこには遊びや余裕や楽しみは忘れられています。赤ん坊の頃無条件にかわいがってくれていた大人の姿は消えてしまったかのようです。




 同じような年恰好や境遇の中で、気の合う人たちを友だちと呼びます。その人たちとのあいだではたぶん愛おしさだけを伝え合うことができます。一緒に暮らしている訳ではないし、親子のような自分の分身みたいなものでもなく、教員のように利害関係もなく、お金の絡んだ仕事をしている訳でもありません。




だだ一緒にいたいからいて、もう無理と感じたら自由に離れられる関係です。誰から強制されたのでもなく、一緒にいると嬉しくて楽しいから、その人がいるところに出かけて行って共に同じ空間で過ごすのです。話をしてもいいし、しなくてもいいしただ一緒にいたいからいるというのが友だちです。嫌なら会わずに自分の家に帰ったらいいだけなのに、引き合うのが友だちなのかもしれません。恋人でもないから好きだとか愛してるとか言わないし、握手やハグはたまにしても、それ以上は特に求めずさらっとした水のような関係で、お互いの均衡が保てたら幸せでしょう。ただ、執着心が出て相手の自由を妨げるようになると二人の世界に入り込む恋愛のようにそこで完結してしまい、さらなる発展はないのかもしれません。




 このような一生涯で何人かしか巡り合えないような理想の友だち以外では、自分が自由なように相手も自由にさせ、ただ愛おしいと言動や心で伝え合えることはなかなか叶いません。

 またそれが各人の今生での学びなのかもしれませんが、人間はすんなり愛おしさを伝え合うことが困難である生き物らしいです。




感謝していること

 難しいですが、今からは、いつまで生きられるかわからないので、私はあなたをとても愛おしく感じていると大好きで尊敬し恩のある周りの人たちに、何らかの方法で一人一人個人的に自分の気持ちを伝えていきます。


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なぜ人を殺してはならないのか

2016/09/04 11:33

 親鸞聖人のこのお言葉を私は一体何回聞いたことでしょうか。

 

ある時から、この「ああ」が心の底から共感できました。以下簡単に現代語に私なりの言葉で書いてみます。

 

六道輪廻を繰り返し、苦しみを苦しみとも感じられず、煩悩で作る罪によって、このサークルを生まれ変わり死に変わりを繰り返しました。

そんな私が、すべての生き物を対象にした弘い誓いの強力なご縁に今・ここで値えました。真実の浄らかな信心は億劫年の間に獲られることは難しいです。たまたま真実信心を獲られたならば、遠く過去にさかのぼって今に至るまでの長きにわたるご縁を慶びましょう。




もし、今生でまた阿弥陀仏に疑情を晴らしていただくことが出来なければ、六道のサークルに戻って本当に長い間迷い続けることになります。本当でした。必ず救い見捨てることはしないという真実の言葉、世を超えた希な正しい真実の教え、聴聞して今・ここで救われてください。

 




「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(親鸞聖人)

『顕浄土真実教行証文類序』(教行信証・総序)浄土真宗聖典(注釈版) 1988年pp.131-132




 「ああ」は不可称・不可説・不可思議という感じです。分かる人には分かる、分からない人にはまったく分からない。

 

なぜ人を殺してはならないかという問いに対して、私は迷いの世界をすべての人が出ることができると阿弥陀仏が誓っていらっしゃるからだと答えます。

自分自身がまず迷いから抜けられ、ほかの誰でもが迷いから抜けることができる人間にせっかく生まれてきたのに、それを阻止する権利は誰にもありません。それが分からないと自身の煩悩の欲を邪魔する弱い人たちをまるで虫けらのように捉え嬉々としてか嫌々かは分かりませんが、精神科医や依頼された人間がガス室のボタンを押し、銃の引き金を引き、絞首刑の装置を作動させることができるのです。以上です。




「共生」など言う言葉を分かった振りをして、大学の教員が偉そうに学生に講義してもこの仏教の言葉の意味が分からないと、「共に生きる」と彼・彼女は口にはしているけど、全然わかっていないことが見透かされてしまいます。古今東西の哲学者学者識者の言葉をいくら教えられて、それを論文に書き散らしても感動も与えられず、世の中を少しも変えることなどできません。私も高校時代や大学に入った頃、一通りの哲学や社会学者の言っているものを読み通しましたが、深く広く学ぶものではないと辞めてしまいました。




彼らの作るスタンダーに比べて、仏教の教えは別格でした。学問には限際がありませんが、仏教には悟りがあるのです。終着点があるのです。迷いから抜け出ることができるのです。せいぜい煩悩のレベル程度しか問題にできない、入ったら出られなくなる哲学やほかの学問などに嵌ってしまっては人生を棒に振ることになると仏教の先生に言われたのももっともだと感じます。




感謝していること

何十年もの間、何度もこの親鸞聖人のお言葉の真意を理解できず、目先の煩悩に振り回されていました。最後まで消えないで泣かされていた、ご本願を疑っていたことに対する罪の重さをふっと軽くしてくださり、ともに歩いてくださる阿弥陀仏のお言葉の真意が知らされた時から、とても言葉に出来ない御恩報謝の気持ちを感じています。


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私がどうしても理解できない不可解なこと

2016/08/11 15:55
学生運動の頃から、私たちの世代のちょっと前まで続いた男女関係はとっても変だと感じる。

 私は2年浪人して、2学年下の人たちと一緒に大学生活を送りましたが、彼らから下の学年の人たちにはあまり感じたことがない。クラスメートのほとんどが付属の男子校出身で、高校の延長のような雰囲気。

そういえば、高校の時も誰も威張っている男子はいなかったかな。

 35年ぶりの同窓会のときもなんだかとっても自然な感じで友だちでいられた。

 

 高校以来、同級生や下の学年の人たちに違和感を感じないのに、団塊・学生運動の時代の人たちには何だか違う気がする。

 学生運動の時も、女性はおにぎりを作らされたり、お茶を入れたりさせられてたっていうのも何だかな。今なら一緒に作ってそう。立て看板の裏で性行為をして妊娠が発覚したら担当教官に仲人になってもらって結婚したりとかってU先生が不倫のネタの本に書いていた。しっかり避妊したらいいのに。そんなところでシャワーもないのにするなよと突っ込みたくなる。

避妊しないなんて博打・ギャンブルに等しい行為を愛する人に強いるのはとっても変。

 好きでもない人とノリでするのも変。蕁麻疹とかでないのかな。<私だけか(笑)>

 考えれば考えるほどとっても変。

 今頃の草食系男子の方がずっとましかも。




 学生運動の当時に青年期を過ごした映画監督に尋ねたことがある。

「何で避妊しようと考えなかったんですか?」

「当時、そんなことは考えている人がいなかったね」

 39歳で子どもを持った私が、もしも20代で望まない妊娠をして結婚していたら?

 おそらく、違った人生を送っていたかも。

 私はそういう人生は生きられなかったし、選ばなかった。

 果たしたい目的や使命があったから。

 今も使命があるから誰かが泣いたり、困ったりするようなことはしたくないし、困らされたくないし、困らせることを強いられたくない。


 感謝していること

 その場を上手く誤魔化すこともできたけど、あえてしませんでした。父が理不尽なことで拳を上げた時に「私は全然悪いことしていないし、殴れるものなら殴ったら」といったら、拳を下すしかなかったことを思い出しました。私は少しだけ空気を読まない人になれました。
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そこに愛があることが大切

2016/08/11 15:31
  私の密やかな卒業式は散々でしたが、全力疾走を止め、新たな一歩を踏み出しました。

  ひとは死にます。もう二度とあえないかもしれません。それならば、大好きなひとたちと一緒に好きなことをして楽しみたい。笑っていたい。そう思います。

誰かに恩を感じてもそれに対して何も返せていないのがとても悲しいです。

  大好きなことの話を身を乗り出して話してくれるのを見て、いつか一緒に出来たらいいのにと感じました。

  恩のある人に友だちと私と一緒にしませんかとお誘いしてみました。断ってくれても構いません。ただ、誰に気兼ねすることなく、このように口に出して言えたことは進歩かもしれません。

  そして、その後、そのひともまた病気だったことを知りました。

  死ぬような病気じゃなかったかもしれませんが、もうあえなくなるなんて嫌です。

  

  学問・論文・教育って一体何なんだろう。

  ひとが今、大切で一緒に楽しめる誰かと明るく過ごせることを教えて、方向性を指し示すものじゃないのかな。

  知識が多くても、ひとの心を傷つけたり苦しみを与えるようなことはしたらいけないでしょ。くすっと笑えるような、楽しいこと言えないとだめでしょ。

  

  全部、書ききれないなら「愛のある」ところを書けばいいと、論文検討会である先生はおっしゃいました。

  私の博士論文は「愛に溢れる」ものにします。

  感謝していること

  愛することを優しくない私にずっとそばについて教えてくれた友だちに感謝します。
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もし私が男性だったらこんなひとなんだろうな

2016/08/08 00:26
とっても尊敬している人がいます。

 でも、そんな気持ちは怖くて絶対自分から伝えられない。

 心の中ですごいなって思ってるけど、伝わっているかどうかわからない。

 

 もしも私が男性だったらこんな風な人でいたのかなって思います。

 物事にのめり込むタイプで、凝り性で、自信があるようでないのか押しが強くなくて、能天気のところもあって、周りの人には笑っていて欲しくて、自分の持ってる知識とか何でも全部教えてあげたくて・・・・・・

 でも外観はイギリスのビジュアル系のシンガーみたいじゃありません。特別なイケメンじゃないけどあたたかい瞳にロックオンされてしまう人です




 私はその人から、人としての真摯さや思い遣りをとってもたくさんもらったから、今、その人に少しずつお返しして、周りの人にも少しずつ分けてあげているところ。

 でも、全然できている気がしないのは、まだ受け止めきれていないのかな。

 本当によくしていただいているのに、自分の受け取りお返しする能力がないことが悲しいです。

感謝していること

 男女を超えて切磋琢磨で来て、向上し合える人たちが周りにいる環境をとてもよろこんでいます。その人が言うようにそんなに悪くはない環境なのかもしれません。来年海外に行くまで十分堪能しよう。

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自分をどれだけ好きになれるか試してみましょう

2016/08/04 08:02
 あとどれくらい生きられるかわからないから、古巣に戻ったのを機に自分を大切にして好きでいるようにしています。

 自分の容姿も体型も性格も洋服もメイクも全部いいなと思うように持って行っています。

 そうしたら、いろいろな人に綺麗だねって言われて、嬉しくて、みんなとにこやかに嬉しい気分でいられるようになりました。中には嫌われているんじゃないかなと思う人もいますが、そういう人も自分からは嫌わないで、ほかの人たちと同じように接しているとそれほど悪いようにはなりません。人は自分を映す鏡なんだと知らされます。




 あんまりあんまりな人はちょっと距離を置くけど、今のところ古巣の大学院にはそういう人はいないので助かります。

 基本的に私は内気で自分から何か働きかけることはしませんでしたが、この頃は、自分を好きになっているせいか、ちょっとしたことですが、いろいろな人にいろいろな場面で親切なことを考えたり、したりしています。ドアを押さえていたり、エレベーターを待っていたり、そんな簡単なことから、病気の人を励ましたり、劣等感のある人に自信を持ってもらったりいろいろ考えて実践しています。時にはお節介なこともあるかもしれません。そうなっていたならば自重したいです。




 それから、自分を好きでいて、一生懸命、周りの人が楽しめるようにしていると、自分よりもっと親切で素敵な人と巡り合えました。自分がそういう人間ではない時は、そういう人とご縁があっても、釣り合えなくて親しくなれなかったのかもしれません。

 尋常じゃないくらい親切な人とか、辛抱強く心に寄り添ってくれる人とか、時間がないのにそれでも困っているとき一緒に付き添ってくれたり、そんな考えられないことばかりが起こりました。ちょっと勘弁してってことも凌駕するくらいでした。仏さまだけじゃなくて人を信じてもいいのかなと思い始めました。




 ただ人に親切に尽くすのは人に目が向いてるだけだけど、誰かに好きでいてもらえるような自分を好きでいることを維持するのは自分に目を向けざるを得ないのかもしれません。強い心がないと自分には向きあい好きでい続けられないのではないでしょうか。




 自分を好きになり続けると、そんな大好きな自分がおかしなことや意地悪や嘘はついたらいけないし、少しでも周りが楽しく嬉しくなるように生きていける気がします。

感謝していること

 周りの素敵な人すべてに感謝します。

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透明人間――そこにいてもそこにない

2016/08/03 10:28
 何かに集中すると、のめり込むやはり「おたく」の私は家族にこう宣言します。

 「○月○日の試験が終わるまで、論文が提出できるまで、私は透明人間になります。姿は見えても、それは幻でいないものと思ってね」




 それからの家族は大変です。まるで腫れ物に触るように距離を置きます。それでも、何か必要が生じて聞いてくると「はい」「いいえ」の意味の短い返事をおそらく無表情か面倒くさそうなつぶやきが返るだけです。

何度かこのようなことを繰り返し、家族は最近は慣れて来たようです。

 

そう思ってきましたが、実は、ただ、ちょっと慣れただけで、これは同じような性質の人しか耐えられないのではないかと知らされる出来事がありました。ホテルで缶詰めになる作家などの気持ちが分かるようになりました。心に余裕がなく、他人に対する思いやりが欠如して、全然優しくないし、自分の目の前の課題しか考えられない時は、「普通」の状態の人と一緒にいたらいけないのですね。




反対に同じように何かに没頭して、周りが見えなくなったことが分かる人となら、たぶん何時間でも耐えられるでしょう。

おそらくそれは作家とか研究者とか集中する人たちなのだとわかってきました。

でも、一人で集中するのも疲れるし寂しいので、同じように集中したい人が同じ空間で別のことで集中しているのならもっと嬉しいということも。これが共同の研究室なのかもしれません。




「普通の感覚の人」には全くもって甚だ迷惑で我儘な心境ですが、私自身、自分がそういう人間なので「仕方ない人だなぁ」と許せてしまうのが不思議です。

もちろん、急ぎとか締め切りが近くない時は、相手とは少し異なるの研究の話をしたりもしますし、それはそれで楽しいです。図書館などの自習室よりも自由度が大きい気がします。仕切りもないし、話しかけてもいいのでしょうが、「放っておいてオーラ」が感じられるときは、絶対関わらない暗黙のルールがそこにはあります。




「おたく」と見なされているような人たちというのは本当に厄介なものだと自分自身も含めて感じます。

感謝していること

 集中すると周りが見えず、さらに周りに見えないものとして扱ってくれという我儘な要求を受容してくれる人たちに有難く感謝します。


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知音(ちいん)

2016/07/18 17:32
 「挚友」と別の分かり合える友だちの意味である「知音」を、これも中国人の友だちから教えてもらいました。

 

まるでもう一人の自分と向き合っているように時々感じる人がいます。おそらく、成長過程やその後で同じような心象を見て生きてきたのでしょう。一緒にいる時に起きているある事象について、その人が心の中で感じていることがふと分かる気がすることが多いのです。もしかしたら、私だけが思っているのかもしれませんが。「返事は要らないから、黙ってて」などと時々言ってしまいます。本当によく分かったから、もうこれ以上は何も言わなくてもいいという感じです。細かいところではずれているかもしれなし、微調整は必要なのでしょうが、大筋で合意が出来ているので、あとは何も言わず感じ合えたらということなのです。




いつまで私は生きられるかわからないし、留学もしくは海外で活動するようになったら、会えなくなるかもしれません。でも、生きている間にそんな人と出合えたことに対してとても嬉しく感じています。何もして欲しいことはありません。ただただ、その人と同じ時代に生きていられることだけで、その人が笑っている顔を見るか、幸せそうにしていると感じられるだけでいいのです。ほかには何も要りません。ただ、ひたすら、その人が使命を果たせることを願って止みません。

感謝していること

自分と同じような感覚を持っている人がこの世にいることは奇跡に近いと感じます。それだけで嬉しくて感謝できます。


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摯友

2016/07/18 17:27
中国人の友だちから「挚友」という表現を教えてもらいました。この言葉を見たのは初めてでした。

 本当の友だち、何でも話せる友だちという意味らしいです。日本の親友と似ているようで違うような感じです。




 お礼や感謝は「挚友」の間ではあまり言わないようです。社交儀礼になってしまうからのようです。ただ、口にしないとわからないこともあります。日本人の私は、その場でお世話になったお礼を言って、また後で嬉しかったことをメールなどで伝えたら、さらに共によろこべる気がします。




 彼は大学の講義のアシスタントをするような優秀な学生です。仕送りなしにアルバイトで学費や生活をマネージメントしています。

 学業が優秀なうえに、にこやかで優しく、礼儀正しく謙虚で申し分のない人格の彼は、大学を終えてから、韓国に留学して、今の大学院に来たそうです。かなりいろいろ苦労をしてきているようですが、そんなことは少しも感じさせないほど明るく穏やかで真摯な態度で誰にでも接しています。そう、裏表が全く感じられません。




 彼は重度の障害を持つ人の介護による出かけています。そこで命の尊さを肌で感じたことなども話してくれます。このようなことも含めていろいろ教えていただいて、私は自分が世界中のいろいろなことを知っているつもりでいたことが恥ずかしくなりました。




そんな彼は難解な私の仏教のレポートのペーパー2枚をわずか3分で理解してしまいました。おそらく、5分くらいしか時間を有しないと思っていた私の想定を軽く超えていました。3分はたぶん翻訳としての2点の疑問でしたので、レポートを読む以前から、この考え方をクリアしていたのかもしれません。

仏教を聞き求め、信心を賜った人だと事前に知っていた人以外ではこんな人に出合ったことがなかった私にはいい意味で本当にショックでした。

もしかしたら、私の投稿文で自分が救われていたことに気が付く人もいたのかもしれないし、これからもそういう人が出て来るかもしれません。




そう思うと、私のベルギーでの真宗ヨーロッパ会議の意義はさらに大きなものになります。私の発表を聴いて、同じような研究をしている人たちからのなんらかの反応があるかもしれませんし、いつか共同で何かできるかもしれません。私は3年で博士論文を書く予定ですが、来年の7月くらいからイギリスの大学に留学したいと考えるようになりました。まだどのような手続きをするのか調べ出したところですが、私のいつもの行動バターンからは、多分行けるんじゃないでしょうか。とにかく中国人留学生の友だちに刺激され、阿弥陀仏のお約束が、世界に伝わるようにしたいという気持ちに火が付きました。




古巣の大学院の博士課程に転入してから、手続きや奨学金の書類で2か月、真宗会議の原稿で1か月かかってしまい、肝心の博士論文がまだ1行も書けていません。これを嘆いていましたが、作家の友だちが、順調に進んでいるのではと励ましてくれます。学問を志して大学院に行くようになってから私は変わってきたと言います。自分ではどう変わったのかわかりませんが、ある意味、同じような考え方を文章で表明しようとしてる人なので信憑性があります。

最近では、私の遊び大好き・冗談好き・弾けているもう一つの側面を理解し出したのかとても付き合いやすくなったし、宗教家らしい気がすると褒めてもくれます。(直接会ったり電話で話したこともなく、もっぱらチャットやメールでしかやり取りしていませんが(笑))




 中国人の友だちの彼の一番素晴らしいは、年齢が倍くらいある私のことを「仕方のない人だな」と大目に見てくれるところです。チャットで「ははは」とそれを表現して、落ち込んでいるとき、くだらない冗談で一緒に笑ってくれる包容力です。

感謝していること

 中国人の友だちのほかにも「天然で丁寧な先輩」にも癒されています。彼の著書を拝読して、ナイーブでとっても優しい人だと知らされ、研究を続けている理由がわかるようになりました。私たち二人は彼のことを「敬慕」の念を持って、いろいろ教えていただいています。


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できることとそうでないことの見極め

2016/07/15 10:47
 迷いから覚めるとか、迷いの状態から抜けるということは本当に簡単なことです。
 知恵や才能といった能力は要りません。
 4歳の子どもでも可能です。
 そうでなければ命が無常である人間は助かる可能性が限りなく低くなります。

 何か真理のようなものを求める気持ちや関心があることや、無常観・罪悪観を持っているかどうかで、どれか一つでも持っていたなら、縁が来たら救われる時が来ます。
 小さい人や若者は「無常観」がとても強いです。死の恐怖を取り除きたいと考えますが、誰も教えてくれる人がなく、不安な時期を過ごします。

 一方、歳を重ねていくと、自身や周りが煩悩によって作る罪や悪を見ていくことになり、「罪悪観」が強くなります。そして、その罪悪感で苦しむことになります。それでも、その罪悪は三次元の身体を持っている限り、どうすることもできないことも分かってきます。身体を失わないで、罪悪観を克服することへの絶望感を味わうことになります。真剣に生きれば生き、自我を追求すればするほど苦しくなります。うつ病というような心理障害に陥ることもあります。
 それでも、罪悪感を拭い去ることへの困難さを教示してくれる人は見つからなければ、適度に自身をなだめて折り合いをつけていくような諦めを持って過ごさなければなりません。 

無常観・罪悪観を自分の心の中や他の人間たちからの示唆などで取りつめていっても、限際がありません。人間は自惚れが強いので有限な身体の中で、いろいろしていってもどんぐりの背比べであり、傷をなめ合うことくらいしかできません。
そこで、自分と縁のあった様々なものから真理を提示されることが必要になります。それも中途半端ではなく、徹底して自分を超えるところまで持って臨終までに持って行けることが出来たら、生まれてきたかいがあります。

そういうご縁を持てた人に聞くのが一番ですが、それぞれ得意な説明の方法がありますので、自分に合った人と出合うが大切です。
私は無常観の方が、罪悪観を語るよりも得意です。罪悪観を話すにはそこに入っていく必要があります。あまりにも辛い人生を思い出すことに蓋をしてしまっているのでそれはしたくないのかもしれません。蒸し返して誰か求めてきている人と一緒に関わることは難しいです。話は分かるし頭では理解できますが、私は得意ではないとわかりました。向き不向きがあることを指導教員の話からどうしようおもないほど知らされました。

 それでも、落ち込んでいては、阿弥陀仏への御恩報謝ができません。私ができることはあるし、得意なことをしていくしかないと改めて決意しました。
また、私ができること、してきたことを求めてくれる場所もどこかにあるのではないかとも感じます。できたら、来年の今頃からヨーロッパのどこかで、出来たらイギリスにいってしばらく活動をしてみたいと思うようになりました。ベルギーでの学会の発表や、そこでの出合いで新しい展開があるかもしれません。
感謝していること
自分の思っていることを言うとそれが受け入れられようとそうでなかろうと、何らかの返答があります。これは大切なことだと知らされます。大学院という環境は自分の考えを発表できる場所であり、有難いと感謝しています。
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研究者としての覚悟

2016/07/11 09:54
 卵から孵って一人前になったつもりだったけど、視界も開けたんだけど、目がまだよく見えなくって、周りの人に迷惑をかけ続けていました。あっちにぶつかって、こっちで頭を打って、本当に分からないことばかりで、でも気持ちばかり焦って、泣きたい気持ちを堪えてきました。

 そんな私を周りの人たちは優しくみまもってくれていました。

 みんな私の事よくわかってくれてたけど、あえて自分がきづくまで黙っててくれていました。生まれたての赤ん坊のような私をあやしながらお世話してくれていました。




 7月になって、体調も少し回復して、誕生日を境に頑張って自分の足で立って歩いていこうという覚悟が出来ました。まだ目もよく見えず周りの人たちには機嫌よく笑ってることくらいしかできないけど、ここからスタートしないと。

感謝していること

 お世話されるばかりの何もできない私を辛抱強く支えてくださる皆さまに心より有難く感謝します。


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とっても恥ずかしい、穴があったら入りたい

2016/07/10 19:02
 重度訪問介護従事者の資格を取る研修を2日間受けて、あとは実習を残すのみです。

 「下手・苦手・不器用・向いていない・ほかのことがしたい・アンタなんかしていらん」

 「こういう人は止めた方がいいです」と先生に講義の初めに言われて

「私、全部当てはまっちゃう」と思い当たり受講したことをいきなり後悔しました。

 しかし、目が見えなかったり、耳が聞こえない大学生・院生のノートを代理で取る活動もあると聞き、それならできるのではないかとちょっとだけ嬉しくなりました。

 実は自身の大学の援助の部門のノートテイクの登録は以前に済ませていました。

 

 いつもではないでしょうし、配慮があるのでしょうが、研修の話の中に基本的に同性の訪問介護だけれど、人手が足りない時、異性の利用者のところに行ったとき、身体を触られたり、いやらしい視線で見られたりしたこともあったと聞き、どこまでで切れちゃうかなと思いました。身体ではなく精神的な障害のある人だとセクハラか恋愛かに進むときがあるという話もありました。

私は異常に皮膚が弱く食器洗いなどは手袋をしないと皮がめくれます。保育士の資格があるのに他人の赤ん坊を抱くと汗のせいか蕁麻疹がたまに出たりします。大人には触れることはなくても、生理的に嫌だと感じると稀に出ることがあります。もし、訪問介護で蕁麻疹が出たらどうしようと思いました。




それから、粗忽者の私は呼吸器を誤って外しちゃって、大騒ぎするだけじゃなくて、時間が経ってしまって脳に障害が残ったらどうしようかなども考えてしまいます。

同僚の娘さんが1歳のとき自宅の浴槽で玩具を取ろうとして、頭から浴槽に落ちて水死したことがありました。今もお通夜に行ったときみんなが悲しんで、亡骸の唇に紅を何回もさしていた光景が目に焼き付いています。だから出産時、手伝いに来てくれていた母や連れ合いに娘を風呂に入れてもらい、結局、私は一度も入れませんでした。




40歳手前で産んで、産後も3か月動けない難産で、おんぶも抱っこもできないで、足腰がまた動かなくなるのといけないので歩くまでは、ラックに入れていました。座って抱くくらいでした。ベビーカーを学齢期までは海外旅行に持って行き抱っこしたことはありませんでした。2歳の誕生日にルーブル美術館に連れて行ったときにベビーカーをホテルにおいてきて、セーヌ川でタクシーが拾えず地下鉄まで歩いて以来そうしました。

 自転車の前かごに娘を入れて自転車が滑って転倒し、彼女がかごから飛び出たことが一度ありました。ベビーカーもバスや電車や階段ではいつも苦労していました。だから、10キロくらいの子どもではない、大人の車椅子の介護は私にはとても難しいかもしれません。




 先日中国人の留学生の友だちが夜、介護に行っていることを聞きました。昨晩から今日にかけても行ったそうです。

彼は滅多に人の悪口や愚痴を言いませんし、我儘で考えなしの私が勝手なことを言っても困った顔で微笑んでいます。怒ることはありません。辛いときは冗談で笑わせてくれます

 彼が介護で行っている筋肉が衰える病気の人たちは心臓の筋肉も衰えるので補助の医療機器を付けてもどうにもならなくて、早逝するらしいです。

 僕が介護に行っている病気の人は生きるのに必死で、セクハラとかする人はいないと教えてくれたと言われました。

「昨日は七夕で短冊に『生きたい』と書いてありました。」




ほかの人がキャンセルしたというメールが入った時、勉強が忙しくてもやりくりして出かけていく姿を何度か見ていました。

私は恥ずかしくて、穴があったら入りたかったです。顔から火が出る感じでした。

感謝していること

私自身、死が怖くて救いを求めていた時、何もほかのことを考える余裕がなくて、最後には死ぬのと助かるのとどちらが早いだろうか、死にたくないと必死でした。間に合ってよかったと御仏に感謝しています。難病で死の恐怖に怯えている人たちに私は介護よりも仏教の話をします。そして、できるだけ早く真宗の救済原理の博士論文を仕上げ世界に旅立ちます。


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まるで赤ん坊の自立期?

2016/07/06 11:47
 「一人でそれをすると、すっごく時間がかかっちゃいそう」

 「こんなにたくさん作業したら、とっても疲れちゃいそう」

こんなことを何も考えないで、能天気にはしゃぎながら言っていたので、今まで、見るに見かねて誰かが手伝ってくれていたんでしょうね。




赤ん坊でも自分でスプーンを使って食べられる頃になると、介助者の手を払いのけて、「自分で食べる」と言う時がきます。




先生や先輩が親切に教えてくださっているのに、最近、生意気な私はこんな口答えばかりしています。

「わかりました」

「黙っていてください」(さすがにこのときは、「ごめんなさい」とすぐ言いました)

自分で何とかできるから、もし服を汚しても、何度もトライして、自分で食べられるようになりたいから、そんなに心配しなくても大丈夫だという気持ちをわかってもらいたい赤ん坊みたいです。




 愛情一杯の優しい大人たちがいてくれることが嬉しいくて、自分はこの人たちがいるから生きていられるのだと何となくわかっている赤ん坊同様か、それ以上に私も周りの人たちの御恩を強く感じています。




最近、体調が優れず咳き込んだり、寝込んだりしていたのですが、夕食後、ふと食べ終わった食器が目に入り、食洗機に入れていると連れ合いがこう言いました。

「僕の方が得意だから、僕がするよ」

感謝していること

 感謝の気持ちをどうしたら表現できるのか、口先だけじゃなくてと、この頃考えることが多いです。自分の得意なこと・役に立てることでご恩返ししてく所存です。もちろん、その時その時の細々としたことも同時並行でしていきます。今の赤ん坊状態から少しは成長したいですから。


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人間存在の最大苦すなわち死を超えること

2016/07/05 08:14
 「阿弥陀仏の本願という大いなる存在に自身の死を疑いなくゆだねられたときに、私たち人間には限りない安寧と至福の時が訪れます。」
 このように説かれる浄土真宗の阿弥陀仏の本願の教えに巡り合った18歳のときから、今まで世界中の人におそらく何万の人たちに直接か語りかけてまいりました。インターネットで発信した投稿記事も含めたら何十・何百万の人たちに来る日も来る日も「死を解決して人間に生まれてきてよかった」と心からよころんでもらえるように伝えてきました。
 
生きて生まれたからには人間は必ず死にます。
「そんなことは当たり前でしょ」
 何をいまさら敢えて確認する必要があるのでしょうか?
 そのように笑いながら多くの人は言います。
 死刑が確定した独房に入っている死刑囚だけに確実な死が迫っている訳ではありません。
私たち全てが「日にちが確定していない死刑囚」であるのです。
 死刑囚は一日のうちのある時間帯に、看守が自分の部屋の前に止まったときに死刑が執行されるので、その時間じっと耳を澄まします。
 一般の人たちはこういうことはなく、突然自分の死ぬ日が訪れます。ただこの差があるだけです。

この人間共通の問題である死んだ後どうなるのか、それが分からないと安心・満足して生きられません。
人生を終えた後のいく先が分からない不安は以下のようなものです。
飛行場を飛び立った飛行機が着陸する場所が確保できないこと。降りるべき場所が決まっているから安心して飛行機は離陸し、飛び続けることができるのです。降りるところが確定していなかったら、安心して機内食を食べ、映画を見たりすることはできません。着陸する場所を確保してこそ、飛行時間のあいだを楽しめます。

また長い休みに課された宿題を学校が始まる提出日ぎりぎりまでしないと休みを楽しむことはできません。できれば、休みに入ったその日に全部済ませてしまえば、あとは学校が始まるまで思う存分好きなことができます。

また、トイレのない長距離の公共の乗り物である電車やバスに乗る前には、好きなだけ食べたり飲んだりすることは控えます。なぜなら途中にトイレに行きたくなってもどうすることもできないからです。食べたものを出す場所を確保して、初めて私たちは思い切って食べることの楽しみを味わうことができます。

 「死の解決」ができる身に生きている「今ここでできるのか」と問われれば、「できます」と答えます。
 ただし、死んだ人が生き返って証言したわけではないし、心の問題であるので目に見えませんので、言葉で伝えるのは非常に困難です。
 言葉を超えたきづきのようなものを実際に身を以て体験してもらうしかありません。自分の力では死の解決が出来なかったと知らせされる体験です。だから身をまかせるしかないと気持ちが軽くなる体験です。
 
このきづきが訪れた時をターニングポイントと仮に呼ぶと、一度この境地を知るとずっと臨終まで変わりません。なぜか感謝の気持ちが出てきて命が終わるまで生きられるのです。私は浄土真宗でこの境地を知りましたが、ほかの教え方でも同じように死を乗り越えられることがあるかもしれません。地球は狭いようで広いのですから。
それが見つかったら一緒に協力していけばいいでしょう。この教えが一番と争う必要はありません。
とりあえず今は私は自分が知り得た方法をご縁のある方々にお話しするだけです。できるだけ分かり易い話ができるよう日夜精進していますが、言葉は限界があります。ぎりぎりのところまでは、お話しできますがあとは本人が大いなる力に身を委ねる体験を念じつつ黙って見護だけです。
感謝していること
このようなお話を有縁の方々にお届けするのが私にとって至福の時です。
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誰かに義理立てする嘘がある生き方はしたくない

2016/07/02 22:20
 誰かにこうしろと言われたことを、何も考えないで盲信することはありません。

 ただ、何かあるのではないかと感じて、今は自分もそうした方がいいと判断したとき、自発的に従うことはあります。




 まだ一行も書いていない論文を書き始め、本気で向きあえるようになったら変われるかもしれません。毎日、引用できるような論文を一本以上コンスタントに読み込めるようなリズムが出来たら、少しは自信が出て来るかもしれません。その時になったら、また元のように何の屈託もない状態に戻れるかもしれません。

 ただ、誰に遠慮している訳でもなく、自分に対して自信がないのだと思います。表面上は明るくしていても、私自身とても辛い日々を過ごしています。




人さまに対しては、私は一晩寝ても、不機嫌だとか怒っているということは、滅多に感じません。ほんの一時、残念に感じることはあっても、その人が自由にされていることを尊重し、活躍を念じています。

感謝していること

 ただ、絶対にお世話になった御恩は忘れてはいませんし、いつも、いつも有難いと感謝しています。

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