アクセスカウンタ

プロフィール

ブログ名
今、この瞬間を精一杯生きていますか?
ブログ紹介
 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
zoom RSS

自分の気持ちをしっかり感じて“でも私はこっち”ってしたいこともそうでないことも選んで生きる

2017/11/23 10:06
 聞き分けが良くて、人に不快感を与えたくないとか、即行動してなるべく物事を先延ばししないようにしようと心がけて生きてきました。

 でもしたくないこともあります。いいことなのだけれどどうも気が進まないとか、体が動かないこともありました。そんなときとても無理していたと思います。

 

 最近はやりたくないことはやらないことにしてます。でもしなくちゃいけないこともあります。そんなときは、やりたくないけど、やりたくないこっちをすることにしているというように、嫌だけどこっちをすることにしたと能動的にしていると意識してすることにしています。




 ただ、もう一つできるようになりたいことは、大切なことを相手の目を見て伝えることです。どうしても言葉を飲み込んじゃう癖があって、そのときに言えないことがたくさんありました。そんなときは、忘れないうちに次に逢った時に「この間言い忘れちゃったんだけどね」って言おうと思っています。だって、また逢えるかわかんないし、私、いつ死んじゃうかわかんないし。




 自分の心が何を感じているか感じることは快感です。私は今日あるワークショップに参加して、自分が速く歩くことが好きだと気が付きました。いつもパソコンなどの重い荷物を持っているのでゆっくりしか歩けなかったので長いこと気が付かずにいました。




 感謝していること

 ワークを一緒にしてくださった方に感謝します。私もその方のように自然体で生きていこうと感じました。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


愛していいよ、愛されていいよで始まり終わる日々

2017/11/21 22:06
自分に自信がなくて、余裕がなくて、器が小さくて、いろいろなものを受取ったり受け止めたりすることが怖くて、逃げてばかりいましたが、それでは自損損他になることにきづきました。

 何に注目し、焦点を当てて生きるかがとても大切です。残された人生の可処分時間を、出来るだけ有意義に使命を果たすためにおもいと言動を一致させて、生き抜く、生き切る所存です。

感謝していること

 宇宙の真理の智慧の慈悲の中で自分を愛し大切な人の愛を受け入れることの重要さを知らされます。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


愛を請うひとたち

2017/11/20 22:48
 児童自立支援施設を御存じでしょうか。

 先日あるご縁で、某施設を見学してまいりました。

 保育士の試験に社会福祉と児童福祉という科目があります。

 勉強の為に名前とどんな所かということは覚えました。

 福祉関係の勉強は苦手です。保育士の試験でも最後まで点数が伸びず苦戦しました。

社会科学のほとんどの勉強をかじった私が、あまりその学習に熱心でなかったのはこの科目と社会学でした。




福祉サービスを申請し、恩恵を享受することにこれまで縁のなかった私には、どうしてもよく分からない分野でした。

最近、ソーシャルワークの講義を受講して、身体、心理、社会という三つのものからの援助方法というものを学んでおります。真実を求める心理的なことばかりに取り組んできた私には、新鮮に感じられることが多くあります。




たとえ、真理との邂逅があっても、娑婆世界での現実を三次元の身体のまま生きる凡夫として臨終までの生を全うしなければなりません。邂逅の後10年が経とうとしている私自身も、それまでは実存的な苦しみの解決が先決だったので、気にならなかった、世間のいろいろなことがだんだんに見えるようになりました。

そこで見たもの感じたものは「人生は苦なり」でした。実存的な苦しみを感じる余裕もなく世間的なことに苦しみ、人生の荒波に揉まれ、溺れて、息もつけない多くの人たちを見てきました。そのひとたちは自分の苦しみがどこから来るのか分かっていません。ただ苦しんでいます。




それらのひとたちに実存的な本来解決しなければならない苦しみをいくら説いても、たぶん分からないのではないかと感じます。今餓死寸前でお腹が空いた人には食べ物を、病気や怪我をしている人には薬や手当をすることが先決なのでしょう。




衣食住を満たすことは日本人なら何とかクリアできています。身体の病もクリアできた人たちの、次の段階として、誰かに愛されている、または愛された記憶を持てないひとたちの愛情への渇望から様々な問題が惹起するのだと知らされます。これは衣食住が満たされないひとや、身心の病を持っているひとたちにも欠けている場合がほとんどですが、目先の苦悩からあまり表面化しないことが多いです。




誰かに愛されたいのは、自分が愛されていると感じられない所から来る飢餓であり、渇望です。十分な愛情の中にいる人たちは、空気を吸うように当たり前なので普段は忘れています。愛されていることに何らかのきっかけできづいたときには、感謝の念が込み上げてきますが、忙しすぎて、あまりそういうことは考えずに生きていられます。

反対に、愛されていないと感じるひとたちは「愛されたい」といつも思って、愛されたい対象に「愛されない」ような言動を繰り返します。始めは手を差し伸べてくれようとしていた、そのひとたちを悲しくさせ、困らせ、挙句の果てに嫌われ、距離を置かれ放置される結果を招くこともあります。




佛さまの大慈悲は無条件でありますが、人間の慈悲は小慈悲なので自分が出来る範囲で、自分に対して傷つけることの無い人たちにしかかけることが出来ません。まず自分自身の三次元の心身を守り維持することをしないとならないので、おのずと限界ができます。その限界を少しでも広げ、何かできることはないものかと常に模索中ですが、なかなか難しいです。




愛を請うひとたちに佛さまの慈悲をお伝えして、真理との邂逅を体験してもらえるようにはどうしたらいいのか、考えこんでしまいました。

感謝していること

色々な条件が満たされていたからこそ、御仏との邂逅があったのだと感謝しています


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


劣等感から自己防衛に走るせつなさ

2017/11/20 22:46
 故意に他人に対して意地悪な言動をしてしまうのは自己防衛なのかも知れません。

 こんなことをしているし、嫌われてもしかたないと誰かとの関わりを断とうとしてしまう悲しい行為です。

 殺されそうになるとかけがをさせられるとか、お金やものを取られたりするなど極端なことを自分や他人にするなら話は別ですが、他人はそれほど極端に自分以外の人を嫌うことはないし、少しくらいの意地悪なら「仕方のない人だなぁ」と忘れてしまうこともあります。どうしても気になり嫌なことがあるなら、そのひとの全人格じゃなくて、されて嫌なことだけを言います。

意地悪した本人はずっと気にしているかもしれませんが。もし気が咎めるなら早めに謝ってしまったらいいです。そんなことは忘れていたし、気にしなくていいと言われることが多いでしょう。




 案外ひとは他人の格好いいところではなくて、何かに打ち込んでいるところを結構評価するものなのかも知れません。必死でしていても芽が出なくても、要領が良くなくても、失敗しても、結果が全てというわけではありません。一生懸命生きている姿に励まされ、応援したくなります。真摯に生きていたら、少し離れたところで、声をかけなくても心の中で幸福を願ってくれているひとが親や家族を含めおそらく何人かいます。




 出来ることなら、常に自分や周りの人たちの幸せを願って、そうなれるように生きていくことが望ましいです。慈愛の中にいて、全体や相互に流れている感覚を味わって日々を送れると無理をしなくてもありのままそのままで、自己防衛もせずに済みます。




感謝していること

 最近の私のキーワードは「流れ」や「そこにあること」です。それを論文に書けるような気がしています。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


ただ愛おしいと自分を慈しみ悲しみ合えるだれかがいること

2017/11/18 23:11
 嬉しいとき淋しくなったとき、ふと思い出します。

 御仏であり母であり、またほかの誰かだったりします。

 いつも意識してはいませんが、あるとき、ああそうだったと感じます。




 私は生きていてもいいんだ、ありのまま、そのままの私でいいんだ。

 このように感じられ、また自分の使命を果たすために、御仏と一緒に歩き出します。




 感謝していること

  常に私が嬉しい気分でいられるように念じてくれている誰かを感じながら生きていられることはとても有難いと感謝しています。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


慈愛の感じ方

2017/11/18 22:16
  自分にある灰汁や心の奥底に溜まっている澱などをクリアにしたら、心地よい感覚が流れ込んできます。それが満ちてきて、溢れたらほかのひとにも知らず知らずの間に分けてあげています。
  嬉しい感覚を楽しみ、味わい尽くし、周りから始めて全宇宙の隅々まで、膨らませていくことが出来ます。
 
  何かが詰まっていると、幸せな気分を味わえないどころか、毒をまき散らすことになります。
  ただこの世には光と慈愛が満ち溢れているだけなのに、粗い煩悩を持つ三次元の身体では受け取れずにいます。感情や要らぬ分別といった灰汁や澱を取り去り、赤ちゃんの時のように無防備で、向かって行く習慣を付けたらきっと違った生き方が出来るでしょう。

 感謝していること
  頭の中で捏ね繰り回した迷った自我を手放してから、だんだんと酔いが醒めるように嬉しい人生を送れるようになってきています。有難いです。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


赤ちゃんと一緒だと嬉しいように

2017/11/17 23:59
 赤ちゃんが無邪気に笑っているとその場が和みます。
 ただそこにいてくれるだけで嬉しいです。
 太っていようと痩せていようと容姿が整っていようとそうでなかろうと、何かが出来ても出来なくても全く構いません。
 赤ちゃんも周りの人を選り好みせずに無防備に笑ってくれます。

 そんな赤ちゃんも成長するにつれて、だんだん人見知りするようになり、色々な考えから人に条件付けで接するようになります。子どもから大人まで、誰とでも親しくなれるような人は本当に稀になってきます。

 周りの人に対して、赤ちゃんと接するように柔らかく温かい気持ちでいられたらいいのにと思います。どんな注文も付けず、ただ愛おしい感覚で。私自身も周りの人からそんな風に思っていただける存在でい続けたく存じます。

 感謝していること
 いろいろな人や物に対して本当に有難いことだと感謝しております。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


信頼し合えている安心感

2017/11/16 14:06
 たとえどんな言動を相手がしていようと、心の奥底で信頼し合えていたら、一挙手一投足が特に気にならなくなります。さらに、相手が自分が不幸や不利になることは絶対しないという確信があるなら、全てを佳いように解釈できます。
 両親が常に我が子の身を案じ、何歳になろうと自分の子どもとして気に掛けてくれているようなこととほぼ同様に気心の知れたひとには感じることが出来ます。
 そして両親から離れたところに居ても、外国に行っても、余り逢えなくても寂しくはありますが、自分の事をずっとおもっていてくれる人の存在のお蔭で、一人でいても嬉しい気持ちでいられます。

 人間でも親や本当に心を許せる人とならこれほどまでに心安らかに生きれます。ましてや御仏との邂逅を経た後は、更に一層いつも心は安心満足でいられます。ひとはいつかはこの世を去り、死別と言うこともありますが、御仏と一緒なら、どんなことがあっても、彼のお方は見捨てず傍に寄り添ってくださり、共にお浄土への旅を一歩ずつ進めて行けるよろこびが込み上げ出来ます。

 自分自身一人でいても楽しく過ごせ、自分の欠けたところ、足りない所を埋め合わせるためではなく、誰かと関わる一番の方法は御仏など真理との邂逅を済ませることです。そうでないと、自分自身を肯定して好きになり、安心満足した人生を送るのは極めて困難だからです。

感謝していること
 学校の駐輪場の銀杏の落ち葉が前かごに入っていました。外は寒いですが心はいつもホクホクして温かいです。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


心の強さに加えて時間と根気と思いやりがあればモラハラから自由になれるかも

2017/11/13 23:57
 しかるべき誰かに出合えて、自分がモラハラをしてきた事実を知り、受け止め、本当に直そうというきもちになれば、自性である意地悪を我慢でき、抑える別の生き方が出来るようになるかもしれません。それはモラハラをする人にとっては不本意であり、利益はないので、甘えが抜けず獲物に依存して甘い汁を吸う状態から変わることは難しいです。

 それでも、「魂を何者かに売り渡したような、仮面を被ったような自分も他人も不幸にする生き方はつまらないから止めちゃいな」と心配して継続的に優しいご縁に出合えたら、双方で努力が出来たら、違う生き方が出来るかもしれません。


 すぐには直らないかもしれませんが、時間と根気が本人と援助者双方に在れば、もしかしたら、モラハラ人間は変われるのかもしれない、諦めてはいけない、手を出さず、ただ、見守っていて、縁が来たら何らかの援助が出来るのかもしれないと、最近は少し考え直しています。


 サイコパスやソシオパスは、良心の呵責をいうものが欠如しているかもしれませんが、自己愛性人格障害であるモラハラは強い意志が何らかの形で出たり、必要性に迫られたら直る可能性が無きにしも非ずなのかもしれません。ふとそのように感じました。


 感謝していること
諦めること、諦めきれないと諦めることいろいろですが、出来る限りのことはさせていただけたらと存じます。そう思えるようになったことは有難いと感謝しております。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


マーマレードボーイとスパイスガール

2017/11/13 23:27
 甘さの中に苦いところがあるマーマレードボーイ。

 見かけはふんわり粉砂糖がまぶしてあるけど、中身はいつも辛いスパイスガール。

 どっちもどっちのような気がします。


苦味や辛さが本来のその人の持ち味なのかもしれません。
 表面の爽やかで親切で優しくキュートな部分の内側に隠し持った、本当のその人らしい意外な、ちょっと癖のある味を知ってしまっても、それでも、その部分もひっくるめて受け止められるのが縁のある人なのでしょう。


失敗しようと、至らなかろうと、きづいたら直していけばいいのだと、咎められず正直でいることを身を以て示されたら、だんだん計算したり、演技したりすることから自由になれるかもしれません。責められることが怖くて言い訳をしたり、とっさに取ってつけたような嘘をつくことも止められるかもしれません。


 一つボタンを掛け違えると、何年もの間、本当に望むことじゃない生き方をしなければならなくなり、それは周りの人を不幸に巻き込むことにもなりかねません。

 マーマレードボーイが映画になるらしいです。見に行きたいです。

感謝していること
付くべき縁、離れる縁それぞれですが、なるようになるのだろうなと執着しないようになりました。今は論文の事で頭が一杯です。有難いことです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


倫理・道徳に適合しているかなんて考えて生きてこなかったし、どうでもよかった

2017/11/12 12:39
 自分勝手に自分の都合で生きてきたわけではありません。

 他人の為に生きてきたのでもありません。

 誰かの顔色を伺って、悪く思われないために生きてきたのでもありません。

 自身の気分がいい、かつ他人の気分も損なわない中道を模索してきました。とりあえず、法律や規範に触れることは他人の気分を害することになると考えて、それはしないように気を付けました。

 
 自分が良かれと思ってしたことでも、他人が嫌なおもいをしたのならそれは止めることにしました。自身の主義主張はあっても、他人が嫌なら止めても、それはどうでもいいことです。私の生きる上で大きなウエイトを占めているポリシーは他人に負い目を負わせないことだからです。他人が造った倫理・道徳よりも目の前にいる人が笑って幸せに生きられるようなことをして生きようと幼少の頃から思ってきました。


10歳前後で親鸞聖人が他力の信心で救われることを説いていることを知り、自分もその身に救われて、その境地を多くの方々にお伝えしようと決意しました。そして今、その決心通りの人生を歩んでいます。話すことと書くことが好きなので、それを活かしていける技術を研鑚しています。


ただ、世間の倫理・道徳に反することをしていたのでは、教えも誤解され、本当に幸せになる道も聞いてもらうことは出来ません。自身は世間の掟・決まりも心に留めつつ、多くの人が他力の信心を獲得して、笑って嬉しい時を過ごせるように残りの人生を楽しんでまいります。


感謝していること
 第二弾の投稿論文の構想が大方完成しました。あとは書き進めるだけです。ふと何か考えが浮かぶと、芋づる式にあれこれとするする出て来るものですね。

記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


一つ一つの言動に責任を持てば他人のせいにできない

2017/11/11 23:22
 自分の言動に、常に覚悟を以て生きていたら、たとえ死のうと殺されようと構いません。

 いい加減な気持ちで生きているから、結果に怯えたり、他人のせいにして自分はいい人でいようとするのです。

 全部自分で引き受け、落とし前をつける気で、自分自身の人生を生きたら、みっともなくて、恥ずかしい自分にも逃げずに向き合わなくてはならなくなります。

 最近、自分の人生に向き合わず、一生送り、喜怒哀楽も味わい切ることなく生きている人がいるのだと知り、とても驚いてしまいました。

 他の人に尋ねると、「そういうこともあるでしょうね」と他人事のようにいわれました。

 私があまりにもナイーブ過ぎたのでしょうか?

感謝していること
    何だかんだいっても、楽しく生きていられます。



記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


そこに慈愛があることの意義――倫理・道徳とかの正しさじゃなくて――」

2017/11/11 14:17
 
親に孝行、人に親切は正しいか問われたらただ他正しいと答えます。しかし、実践できるかどうかといえば、話は別になります。



サイコパスとは異なり、モラハラをする人たちは、意地悪をした時、多少良心の呵責があるようですが、もともと他人が苦しんでいるのを見て自身のストレスを解消する快感のためにしているので、去られたり、反撃されたりしない限り、その状態が心地よいので、止める気はありません。

 たとえ、去られてもいくらでも被害者と言う身代わりが現れ続けたら、一生涯モラハラを繰り返す人生を送ります。それでも、本人はモラハラ以外のやり方を知らないので止められません。親も祖父母もモラハラの家系は本人や子や孫まで連鎖し続けます。

 どこかでそれを断ち切らないとならないのですが、かなりの忍耐や時間がかかります。そして、我慢強く見守る被害者とは無縁のひとかサバイバーしか力にはなれません。

見守ってくれるひとに何らかの形で出合い、感謝出来て、見捨てられたくない、ずっとそばにいて欲しいと強く感じたならば、意地悪を徐々に減らすこともできますが、一進一退を繰り返すでしょう。

「あなたのしていることはモラハラです」とハッキリ指摘してもらわないと分かりませんが、そうされることはモラハラ加害者にとっては、死にたくなるくらいの苦痛ですし、何のメリットもありません。



 「本当は惨めでみっともないのを見ないことにして、カッコいい自分を演じ続ける」ストレス解消するためにしている娯楽や獲物いたぶるのを諦めるのですから、余程の強い覚悟や止めなければならないという堅固な動機がなければ、表面上の克服までも至らないでしょう。

 それでも、仏さまの智慧や慈悲のお働きでモラハラのひとでも変われることがあるかもしれないと、失望や無力感を強く感じながらも、見守りつつ淡々と話したり、書いたりしています。

 何が正しいかじゃなくて、自分のストレスを晴らすために他人がいるんじゃなくて、反対に欲していることをして差し上げ、よろこんでもらえた姿を見て、自身がそれで感謝出来るのが人間として生きている醍醐味ではないかと感じます。

感謝していること
名利ではなく、真理を体得して、相互の関係で慈愛や温かさの中で至福の時を過ごしながら生きることが、ひととして生きる義務だと感じられます。

記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


人生と向き合ったら恐怖は消えていた

2017/11/11 09:50
 逃げている間はずっとモヤモヤした気持ちが消えません。

 自分が本当にしたいこと、大切なことが分かったら、それを認めしてしまうこと、素直に好きだと言えばいいと分かりました。

 

人目を気にしていても、臨終に後悔が残るだけです。

自分がしたいこと、なりたい自分を生きましょう。




今生の人生は一度きりの学びです。

いかにしてその学びを生き切るかが課題です。

逃げていて、いつまでもその課題が克服できないことがもやもやの原因ではないかと最近感じます。




 今目の前にある自分の課題に対して手を抜くことなく、精一杯生き抜く所存です。

 こうして生きていたら、たいてい恐怖や問題はいつの間にか消えています。




感謝していること

 たとえ嫌なことでも、苦しいことでも、目の前に何らかの形で現れないときづきはないのだと知らされます。そういう有難い学びを無駄にせず、自身の向上のために生かしたく存じます。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


自分と向き合い自分に対しての責任を果たす

2017/11/09 12:11
 自分と向き合うのはある意味、恐ろしいことであり、自分に対しての責任を果たすことは途方もなく困難なことに思えます。それでも、これが出来ないと苦しみをずっと抱えて生きることになります。

 自分と向き合えない人は甘えています。誰かのせいにします。それで自分を見ないで済むと思っています。親が悪い、親のあの言葉で傷ついたなどといつまで思ったとしても、じゃあそれでどうするのというところまで考えが至っていません。親には親の人生があるのです。親は自分に向き合って親自身の人生を生きています。親もいつまでも生きていられる訳ではありません。病気や事後で死ぬこともあります。仕事などの都合でどこかに行ってしまうこともあり得ます。親や他人に頼ることを卒業して、精神的に自立しないと自分の人生が始まりません。

 世の中には赤ん坊でも幼児でも自分の人生に向き合っているひとはたくさんいます。

 自己愛性人格障害(モラハラ)のひとたちは悪いのは全部他人のせいにします。それらのひとたちの周りにいるモラハラ被害者はモラハラ加害者の脅しに屈して、自分が悪いのだと思うようになります。

 これはおかしなことです。全部それぞれが造った状態を自分の力で自分の責任で何とかしないとならないのです。何時まで経っても自分に向き合えずひとのせいにしていたら、ぼんやりとした出口のない苦しみの中でずっと過ごすことになります。


 結局自分の人生や魂の傷は自分で癒すしかないのだときづくしかありません。れを促すのが自立できている親や大人であり、教師であり、宗教家の役目です。


感謝していること

フランスのお土産をほとんど配り終えました。カナダ人の先生にも渡すことが出来、よろこんでいただけました。論文などをメールの添削をお願いしたところ、快諾して頂けました。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


モラハラ加害者は自己愛性人格障害の可能性大、精神の病かも

2017/11/06 11:09
見かけは大人、知能も大人、でも人格が0〜2歳児。

 漫画の少年探偵とは真逆。彼は見かけだけ子どもでも知能や人格は大人で頼もしいし。

 ごねる、居直る、自己中、他人のことなど全く考えない、思い遣りの欠片もない。


 モラハラ体質を早期発見できる一つを披露します。

 「論点ずらし」です。

 相手に何か都合の悪いことを敢えて言ってみた時の反応で分かります。

 「〇〇されて(言われて)私は、とても傷ついたんだけど」

 こう言ったとき、普通の反応は

「そうなんだ。嫌なおもいをさせてごめんなさい。つらかったんだよね。」

 でも、モラハラ加害者は違います。自分が悪いことを認めません。

 「それは〇〇だとおもったんだけど」

 見え透いた嘘で言い訳をするのです。それも絶対ばれるような嘘で。

 または、その話が終わっていないのに、こちらのできていないところなどをもちだしてきます。

 「自分もずっと前から云おうと思っていたことがあるんだけど。〇〇してるけど、あれは止めてくれない」

 まだ、話が済んでいないのに、矛盾点を突かれる前に、攻撃が自分からそれるようにします。


 ああ、このひとは結局自分ばかりが可愛いんだ。私が苦しみ悩んでいることなんて全く考慮していないんだ。このひとは私に甘え切っているか、舐め切っているかなのだろうか

と考えると切なくなるけど、ここで同情しては自分のためにも、ましてや相手の為になりません。

思いやりのある人なら、まず、ごめんなさいが言えるし、別の論点をわざわざ持ってきて自分を正当化しようとは考えもつきません。辛い気持ちを取り去り、楽しい気分になってもらえるような持っていき方をします。それが出来ないのは、故意に相手を苦しめているから、嫌な気持ちでいるのをよろこんでみているんです。


できることなら、モラハラをするようなひとからは離れましょう。

できないなら、できるだけ接触しないようにして、不気味に怒らせたら怖いという雰囲気を醸し出しましょう。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


自分を反省することを止めて、相手を憎むことが出来たらモラハラから離れられる

2017/11/05 13:45
 「モラハラする相手を責めることより、自分にも原因があるから反省すべきだ」という人たちの言うことを信じてはいけません」

 こんなことを平気で言ってのけられるひとたちは、実際モラハラの被害に遭っていない人たちだからです。そう言える人たちは自分に対してモラハラをする人間を自分自身はしっかり憎んでいるのです。そのうえで、こんなきれいごとを弱っているモラハラ被害者に無責任に上から目線で言うのです。


 確かに人を憎むこと激怒することが出来ないという被害者意識があることが原因でモラハラをする奴らの獲物としていたぶられているのです。玩具になっているのです。

 でも、だからといって、人にモラハラをして虐めていいことはありません、モラハラを受けた責任については、これを取らなくてもいいです。反省することは微塵もありません。悪いのは全てモラハラをする奴らであり、理不尽な目に合っていることに対しておもいきり憎んでいいのです。憎むことでモラハラから解放されます。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


違和感の正体

2017/11/05 12:31
ほとんどの人と接するとき、言い知れぬ不気味さを感じていました。完全に信用することのできない何か、違和感がありました。

 最近それが、真理から遠い人たちから発せられる、自分を偽り、劣等感を隠し、見ないようにして、自分以外の人を演じ、弱くて抵抗しない奴隷や従順なペットのようなものに八つ当たりするモラハラ人間の姿であると分かってきました。それは、ダイレクトに自身の魂との接触を邪魔する壁と言うより、関わる際に、膜のような何かが必ず介在している感じです。その気持ちの悪い膜で心が触れ合えないもどかしさを常に感じていました。それでも、周りの人たちはそのことに慣れきっているようで、誰も異議を唱えたりはしません。当たり前のように表面だけさらっと流れていくのです。私は抵抗を試みたこともありますが、直ぐに無駄だと分かって止めました。

 たぶんそれは、真理にきがついていないための防御壁のようなものだと後に分かりました。真理とつながっていることが完全に分かると、自分を守らなくてもよくなるので、防御する必要はありません。ただ、そうでないひととの間では同じように防御している振りをしないと、不必要な攻撃を受けるので、防御着を着用しているというアピールは欠かせません。それは、ひととひとを隔てるもので、とても時間の無駄でありますが、必要悪としいて備えないと真理に目覚めていない人がほとんどである人間社会では嫌なおもいを受け続けることになります。

本当の自分、恥ずかしい自分、みっともない自分から目を背けるために、他人に意地悪や攻撃をする悲しい性の人間たちの中にあり、それをかわしつつ、被害を最小限にして、心が通じ合える人を探して生きることはとても困難なことです。探して見つけるか、もう少しで分かりそうなひとに話をして分かってもらうかすることが、自身の居場所を見つけることになり、また心地よく幸せを感じて生きられることなのかと最近は感じています。

感謝していること
いろいろなことから幸せになる道を理論化して文章化できる気がしています。有難いです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


故意に意地悪をする行為をモラハラと呼ぶ

2017/11/05 10:30
  そのままの自分をいきていた私には、幼少期のあるひとの言動を見るまで、モラハラをするひとたちの存在があることすら信じられませんでした。

 知らない子供と話していた時、「あれ見える」と聞かれました。「あれ、だよ、あれ。」いくら探しても見えません。結局、それはなかったし、ただ、からかわれたのだときがつきました。

世の中には暇なひとがいて、くだらないことをするものだということ、不快感を味わいました。そういえば、家族にも、故意に不快な言動をされたことがあることにきがつきました。私にとっては信じられないことでしたが、その後の人生で、同じような場面に何度も遭遇して、「ああ、人間というものは難儀なものであるなぁ」とその度に悲しいというより哀れな感覚を持ったものです。

 モラハラをするひとたちというのは、わざと人に嫌なことを言ったりしたりします。本人たちはそれにきがついているのですが、きがつかないふりをしています。自覚すると逃げないで自分自身と向き合わなくてはならないからです。自分が崩壊しないためには、自分はいつも「イイひと」でなければならないからです。極度にみっともない恥ずかしい自分を見ないようにします。そして悪いことは全て他人のせいにします。そうしていたら、ずっと自分はカッコいいひとでいられるからです。

結局、「イイひと」達ばかりの集団生活は私にはとても苦痛で耐えられないものでしたが、そうでない境地、真理のようなものがあると信じて、死なないで生きてきました。

 「イイひと」以外のひととは幼少の時以来、滅多に会っていません。

きがついたことがあります。

 極論かもしれませんが、「自力はモラハラ同じ性質」かもしれません。

 あきらかに、他人を悲しませ泣かせる行為をしているのに、自分はずっと「イイひと」と思いこむところがそっくりです。

 本人は薄々感じているのですが、たぶん指摘されたらキレまくります。

 逃げてきたのを真正面から突かれたら、動揺し、行き場を失います。

 
 私はずっと「イイひと」じゃなかったし、わざとひとが辛くなるようなことはしてきませんでしたが、世の中にはそういうことをしてストレスを解消したり、自分から逃げているのだと改めて知らされました。

 でも、悲しんでばかりもいられません。メソメソしていても彼らの「獲物」だと認識され付け込まれるばかりですから。嫌なことは嫌、止めて欲しいことは止めて欲しいとこれからも言っていきます。

 おそらく、私が心地よい生き方をしても、それを見ていても、モラハラをする人たちはそれが不快なだけだと分かってきました。彼らにとって私は別の意味での「イイひと」なので、ウザくて仕方ないのです。

私に出来ることは、有縁の人に、真理との邂逅をして、「自力」を離れられたら、「イイひと」でいる必要はなくなるし、そのままの自分でも、とても楽で温かく優しく生きられるということ文章にしたり、話していくことです。

感謝していること
自分から逃げる思い込みをしないでいきることは、弱そうでもありますが、威勢を示さなくていいだけで、ただ自然で気楽なだけです。有難いです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


布教者(実践宗教家)と信者の相違点

2017/11/03 00:56
 利他の精神の有無もしくは、強弱です。

 自分さえ助かれば、後はもうお構いなし。

 これでは無慈悲でとても残念ですが、仕方ありません。

 そもそも使命感の欠如というのはどうにもなりません。

 能力の有無ではありません。

 いかに恩を感じ、報いようとする気持ちが有るか否かです。




 死の不安の解決、この根本的な問題が解決できたら、もう何も要らないという気持ちで、物心ついた時から生きてきました。そして、それが出来たら、同じように死の解決を求めて生きている人たちの為に何か力になることをしてから還ろうと、死なないで生きてきました。




 人徳も体力も精神力も知恵才覚も何もない私ですが、いつも機嫌よく明るくどんな人にも勇気を出して平等に接すること、文章の読み書きくらいはできるので、それを活かして真理との邂逅の後、生きてきました。




 今後何が出来るかわかりませんが、完璧な救いもしくは悟りとは真理に対する疑いが晴れたか否か、自力から他力への完全な転換出来たことがそのターニングポイントであるとわかりましたので、それを中心に研究し論文やプレゼンテーションで発表してまいります。




 ただ、有難い、救われた、助けられたでは、いつまた元に戻るか分かりません。全く疑いが晴れ、二度と元に戻ることの無い状態、完全に自力から自由になり、もう何も迷ったものを掴まない状態がいかなることであるかを、残りの人生で口頭や文章で伝え続けていこうと、フランスの研究旅行で決意を新たに致しました。私しかできない、伝えられないことがあることが分かったので、それを明らかにしてまいります。




 感謝していること

 真理との邂逅は本当に困難で、ほんの一握りの人しかできません。そしてさらに難しいのはそれを望む他人に伝えることです。それは菩薩道と言われます。とても小さな歩みで止まっている時間も長いですが、釈尊を始めとして、先達が進んだ道を、私も少しずつ辿れることを有難く感謝いたします。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


たぶん、やっぱりなにもいらない

2017/11/02 17:44
 三度目のフランス、パリの2日間の一人旅。

 まるで映画やコマーシャルフィルムを見ているようなお洒落な人や街並み。

 美味しそうな食べ物やお菓子たち。

 耳慣れないけど、ポップに聞こえるフランス語。

 でも、何だか違う・・・・・・

 そんなものより、いいのはひと。ひとがいなかったらフランスやパリは面白くない。

 特別なものはなにもいらない。

 

たぶん、本当に欲しいものを、私は既に持っているし、どうすれば手に入るかも知っている。

  
 タクシーを使わず、いつも通り空港から地下鉄で市内まで往復を移動した。
 案の定、地下鉄のエスカレーターやエレベーターは故障し、階段の前で佇んでいると、イケメンのフランス人男性たちが「荷物をお持ちましょうマダム」と声をかける。彼らの後をついて礼を言うと決まって、「ヴェリー、ウエルカム」と返ってくる。

 

 駅やショップ、美術館までの道を聞くと、適当な英語やフランス語で指さして教えてくれる人もあるが、親切に途中までついてきてくれる人もあった。年配のマダムや留学生やキャリアウーマン風の女性などといろいろだが、世間話をしながら歩く。パリがお洒落なこと、母国語ではない英語が速くて分からないからゆっくり話してくれ、ここら辺は夜がエキサイティングだなどいろいろ教えてくれる。


 ちょっとした親切や他愛のない会話は有難い。


 自分以外の誰かと出合って、しばらく何かを一緒にして、有難う、ではまたと言って別れる。興味関心を持ち、無言でもしくは言葉を交わし、お互いが出来ることをして、助け合って時間を過ごす。執着や嫉妬もなく、今を楽しむ。私の中では、これが人生かも。


 みんなつながっていて、なにかしら世話になっていて、親しみを感じ合える。偉そうにしている人、怒っている人すら、遠目で見ているならまあ可愛い気もする。

 自分の頭でこねくりまわした偶像崇拝をすっかり手放し、まったく何にも縋ることなく、全てが佳き方向に行くように導く真理を感じていられるので、安寧の中、生活の一つ一つが輝いている。縁のあるものはみな、上質で優しく温かい。

感謝していること
 いつどこへ行こうが、私の周りは光に輝き、優しく温さを保っていることに有難く感謝しております。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


[正論、突っ込み、二元論、論破]佛さまの救いの前では全く役に立たないのに

2017/10/22 19:54
 最後の最後には真宗は佛さまを疑いなく信じるところがゴールです。
 男女共に、賢い人、頑固な人、正義を振り回したい人、白黒つけたい人、議論に勝ちたい人、自分が正しいと思いたい人は時間がかかりますね。気の毒ですが、適度に距離を置いて様子を見ているしかありません。
 今は助けて欲しくないのですから、関われませんが、何らかのサインを見落とさないようにアンテナを立てて見護ることくらいしかできません。
 
「常に正しい判断が出来て、スマートで、イケてる」僕ちゃんのことを褒めてね。一杯褒めてくれると嬉しいな、僕、こんなに凄いし、カッコいいし、もっと役に立つようになるからね。」
 幼稚園児や小学校低学年の男の子たちに見られる感覚です。彼らはお母さんや先生に褒めて欲しくて仕方がありません。どこかで仕入れてきた知識をひけらかし、重い荷物を持つなど手伝いをし役に立ち、尊敬を得ようとします。それをよく分かっている女性たちは「(わぁ)すごい!さすが!すばらしい!」と3Sで称賛してくれます。気をよくした彼らはますます得意になり、頑張ってしまいます。
 ところがです、ぼくちゃんたちの気持ちが読めない母や先生や思春期やそれ以降で、同じくらいの年代の女性は厳しいです。
「それが何?」「つまんないんですけど」「気持ち悪い」「めんどくさい奴」「私に関係ないでしょ?それ」と正直な反応を示すか、いつの間にかサアーッっといなくなってしまいます。小さいときには認めてもらえてたのに、学校の勉強やスポーツやゲームでは成績が残せてるのに。なぜだ、女は分からないとなります。

よくできたお母さんは年寄りになるまで息子の味方でいてくれるかもしれませんが、ほかの人たちは、特に女性たちはシビアです。男性もライバル関係など別の意味でとても大変な関係を持つものです。

「それなら誰に甘えたら、身をゆだねたらいいの?」
佛さましかいらっしゃいませんが、なかなかそういうところまで思える御縁の深い方はないですね。見護りつつ念じています。
感謝していること
まあぼちぼちできることをしています。それでもいいと思えることに感謝します。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


本当は優しさだけ与えたらいい

2017/10/22 19:34
 佛教の目的は佛になることです。佛が説かれた仏の世界には罪も罰もありません。殴られ叱られることもないので嘘をつく必要もありません。仏語に虚妄なしと言われます。動物も嘘をつきません。嘘をつくのは人間だけです。
 
 仏教の外の宗教は罪と罰を問題にすることが多いようです。人間は罪深く放っておくと何をするかわからないから、脅かしておくくらいで丁度いいと考えているのでしょう。そもそも、そこには絶対的信頼はありません。罪や罰はできることなら無縁な方がいいです。
   
 日本人女性は世界中どこへ行っても人気があります。控えめで優しく聡明で相手の立場に立ちまるでお母さんのような態度で接してくれるから、安心していられるのでしょう。世界中、例外があまりなく、お母さんは笑顔をもって子どもに接し、細かな世話を焼き、長じてもなお子供に対して憶念が止みません。
 それは、子供を命がけで産んだことにも由来します。自分の身体に宿った子供を9か月体内で出来るだけよいものを見て、聞いて、考えられるように過ごします。また食べる物も子どもが元気に生まれるように細心の注意を払います。生まれたらもっと大変で、一年の間は、寝る暇もなく乳を与え続け、おむつも汚いなど言わず、手が荒れるのも気にせず赤ん坊の衣服を洗い、毎日落としはしないかとひやひやしながら風呂に入れ、泣けばあやしずっと付き添います。

 どこの国の母親も至れり尽くせりで赤ん坊を育てますが、日本人の母親は、特に細やかな慈愛をもって子どもに接します。これは長い間仏教とのご縁があり、特に阿弥陀さまのお慈悲を聞いてきた日本人の母親たちにその影響がある気がします。このことについて私は論文を書いています。罪や罰ではなく、ただひたすら赤ん坊や子どもに慈愛を与え続ける母の態度は、今後の世界を変えることになるでしょう。

厳しく接することが、暴言となりやがて戦争にまで至る時代を止めるには、仏教の慈悲や母親的慈愛といった無条件の見返りのない接し方が必要な気がします。

感謝していること
 にこやかで優しい母やおばあちゃんに改めて感謝します。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


愛憎について

2017/10/21 10:13
 愛憎から人は離れることは出来ません。無関心を装っても、どこかしら他人と自分はつながっているので完全に縁が切れることは無いのです。
 振り返ってみると、私は人を憎んだり嫌ったりするのが苦手なので、距離を置いてなるべく会わないようにしたり、その人のことを考えないようにすることにしていました。又は忘れるようにして、心の中から存在を手放していました。

 ある人を手放す前に、別の場所や別の人と上手く行くように念じながら。私とは合わないかもしれませんが、同じ波長の人たちとなら違和感なく、その人なりのきづきの学びが持てる気がします。距離を置いて、もしまた何か一緒に出来ることがあればさせていただけたらという期待を持ちながら。今は関わることは無理、ないと感じてしまうのは仕方のないことだと割り切っています。人間は万能ではないので、自分の能力の範囲内で出来ること、関われることをしていくしかありません。

  楽しいことばかりではなく、心に痛みを感じて来た人としか人生の機微は味わえないことを痛感します。苦しみを感じて生きて来た人にも大きく二種類のタイプがあります。実際、辛い境遇に身を置いてきて、苦しい経験を持つタイプの人たちと、自分は恵まれていても周りの苦境を見て、痛みを自分の事として感じ、憐れみ悲しむタイプの人たちです。その人たちは人間の苦しみの根源を実存的なものとして捉えているので、根底からの解決を自他共にしていこうとします。

 貧困の中にある、もしくは怪我や病気をしたならば、同じような苦しみは分かります。苦しい中でも、誰か助けてくれる人があるので生きていられる訳で、その人たちに感謝出来たら、苦しみは学びの糧になります。
反対に、そこで気持ちがいじけてしまったら、世の中や周りの人を恨むようにもなります。手を差し伸べ優しくしようとする人の気持ちを跳ね除け、傷つけることすらあります。そうすると、せっかく、何かできることがあればと水を向ける相手は、もう何もできないと距離を置かれ、つまり放置されることになります。見放すわけではないのですが、仕方のないことです。逆さになったお茶碗には何も入れることは出来ませんので。何もして欲しくない相手は放っておくしかありません。

 恵まれた環境の中にある人で、根源的な人生の共通の苦しみを周りの苦しみを感じた人は、自分が明るく振る舞うことや相手と共に悲しみ側にいることなどで、辛さを分かち合おうとします。実際物理的な困窮はなくても人間として生を受け、真理との邂逅を持つことなしに生きている寂しさとは寄り添えるからです。もし、ある人が真理との邂逅が出来たなら、その世界のことを共有してお互いに真の意味で人間に生まれて来た意味を知り、人間という存在を謳歌できます。そういう人たちが増えることで、世の中は変わっていくことを私は願います。

感謝していること
 研究で分かったことですが、かなりまとまったものを読んで、その人に入っていくと、表面だけではなく、仕方ないことや遣る瀬無いおもいなど、色々なことが知らされます。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


恩師への恩返し

2017/10/19 22:56
  「恩師に恩返しなどいらないと言われました。」
  「そうですね、先生からはなるべく早く離れた方がいい、恩師を乗り超え、後進への恩送りすることです。」
  これは、いつも適切で温かいアドバイスをくださり、尊敬する研究者の一人である方との会話です。相手の痛みが分かる方で、何か困ったことや岐路に立った時に、お話しさせていただいています。ご自身の経験からのお言葉なのだろうと感じられる温かいコメントをしてくださいます。
  たとえまだ、もう少し、学び足りないことがあると感じても、その先は自分自身で研究していって、その成果を周りに発表することが、恩師への恩返しにもなり、後身への恩送りになるのだと知らされます。
  誰かに甘えて頼っている内は一人前の研究者とは言えないと厳しく叱られたような気がしました。何か大切なことを伝えてくださるときは、いつもにこやかでお優しいその方の御顔が一瞬厳しくなります。また一つ、研究者としての重要な心がけを確認させていただきました。
感謝していること
 傷を舐めあう関係ではなく、本当のことをさらっと言ってくださる方があることはとても有難いと感謝しております。

「恩に感謝し、徳を積むと品格が備わる」
  裕福の反対は貧しさではなく下品。
  最近、本当にそう感じます。
  いくら世間的な名利を得ていても、下品な言動一つでげんなりします。
  たとえ、みなが憧れる職業についていなくて、収入が低くでも、上品で心が癒される優雅な振る舞いを目の当たりにすると、その人に遇えたことで嬉しい気持ちになります。

  有形無形の御恩に常に感謝し、お蔭さまで生きていられると、自身も徳のある行いをしていった先に、品格が徐々に備わっていくのでしょう。
  
感謝していること
  恩に感謝すると徳・品 それぞれが備わってくるような気がしました。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


みんなを引っ張っていくこと・後方から支えること

2017/10/17 08:36
 臨機応変にどちらもできるといいです。

 誰かの真理との邂逅のために、自分がやるしかない、ここぞというときは、思い切って何かしますが、普段はお先にどうぞという感じす。

 他の全ての事に於いても、夢幻のこの世での名利や勝ち負けや順番などどうでもいいのです。真理をお話しすることや論文を書くこと以外に時間を割きたくないので、内面外面を出来るだけ一致して、演技をせず、格好もつけず、自分の心地佳いように生きています。

自分じゃない自分はそこにいないのでとても気楽で気分がいいです。

 感謝していること

 今日もみまさまにとって素晴らしい一日になりますように念じております。論文を書き、講義を受講できることは有難いです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


心が狭いのかもしれませんが・・・・・・

2017/10/15 20:47
 私がイメージする真摯さとはこんな感じかもしれません。

 すぐバレるような嘘や言い逃れ・誤魔化しは一番嫌です。

 そんなことができるとのだと分かったら、もう、ひととして二度と信頼できなくなっています。厳しくて冷たいようですが、嘘は一つつくとそれを正当化するためにずっと嘘を重ねて言い訳をしなくてはなりません。

 
出来ないことは引き受けない、一度、引き受けたことは自分の能力の範囲内でいいので遂行する。たったこれだけです。

 ただ、口で言うのは簡単ですが、実践はかなり時間や労力を費やします。それも考慮に入れて約束はなされます。一度や二度でも、ちょっと引いてしまいますが、三度目の不履行はもうありません。二度目までで十分反省し、態度で改善して行かないと信頼関係の構築はもうない、もう無理とみなされ、縁が切れますので。

 私はビジネスの世界でこれらを身を以て学びました。


遊び・おまけの人生なので、できるだけ気分を快適に涼やかに言行一致の暮らしを楽しんでいます。ちょっと苦手ないことはひょいと避けつつ、ほくほくした温かい気持ちを維持しています。

感謝していること
ずっと気になっていたことが金曜日に解決できました。英語の言い回しを考えたり、出来るだけ自身の気持ちを正確に伝える言い方を考えたり一ヶ月にわたって悩んでいたことが霧が晴れたようになくなりました。関係者の方々に感謝します。

記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


世界で通用する人は日本でも必要とされるはずだけど・・・・・・

2017/10/14 13:29
 世界のスタンダードはレベルが高いです。

 何を求められるかと云えば一口で真摯さとバイタリティです。

 チャレンジ、トライ&エラーを繰り返すのが人生。

 組織や恩師に守られて、諾々とルーティンワークを繰り返す人たちはトップにはなれません。


 日本は甘えが蔓延する子ども社会です。

 子どもが悪いわけじゃないけど、通用しないんです。

 大人の感覚の世界では。


 自分の内面と外面を一致させて分かり易く堂々と表現していくことが求められます。

 プライドも恥ずかしさも投げ捨てて、協力関係を求めていく勇気がない人は先に進めません。放置されます。進歩できないのです。


 座学は過去の遺物となりつつあります。アカデミックスマート(ブックスマート)からストリートスマートへの変換をする時期に来ています。

 いくら国内の学会や大学内で権力を持とうと、それが海外のスタンダードには鼻先もかすめないことを意識していく必要があります。


 人目を気にするとか調和とかは大切ですが、その前にひととして自分が真摯に生きる指針をしっかり持ち、そのことに関しては首尾一貫していく生きる姿勢を世界中の人は支持します。それは倫理感覚、美的感覚であるその人の論理なのでしょうが、真理に基づく自身の倫理の軸を確立させることが急務です。

感謝していること
世界が求めるのはコミュ力でもなく語学でもなく真摯な人間性とバイタリティであることを昨日の海外活動セミナーで教えてもらいました。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


実存のきづきは真理と本人の間こと〜代れも引き受けも出来ぬ痛み〜

2017/10/12 11:23
 きづきの話を10年くらいしてきました。

 途中、心理学なども学び、色々なことを取り入れながらよりよき話を目指してきました。

 最近、分かったことがあります。

 

結局、カウンセラーの最後の最後に求められるのは技術でも知識でもなく、器の大きさや人間力や相手を思いやる優しさなのだと。




確かにカウンセリングや仏教の知識は必要です。素手ではどうにもなりません。煩悩しか分からず、苦しみが実存の問題にあるのだということに至らず、苦しみの表面で右往左往している人には、煩悩レベルの問題の対症療法を話します。でも、それが解決しても別の問題が惹起して、結局、クライアントは一種の麻薬のような依存から抜け出せなくなります。それでも、必要とされるなら、目の前のクライアントの話したいこと訴えたいことは黙って聞き切ることはします。苦しみには煩悩で起きるものと実存、つまり仏教でいうところの無明が引き起こす根源的なものの二段階が存在するのです。




問題の根源は実存の問題であるとどうしたらわかってもらえるかとても考えます。なので、私は、今まで、実存の問題がきになる人にしか話をしてきませんでした。それでも、実存の問題、きづきも私自身が何もできるわけではありません。ある程度方向性を話した後は、真理にバトンタッチします。私は黙ります。そのタイミングが問題です。自分はそこから先は無力だといつも確認する必要があります。さっとひかなくてはならない所を見極めないとなりません。




バトンタッチするまでに、クライアントがいろいろ試し、考え尽くし、悩み、挫折や失敗(真理に対する疑いがどうしても晴れない)を痛感し、自力が間に合わないと求めるところを、それを放置するように思われても遠くで支えつつ痛みを共にします。自力が廃り、他力に救われるまでの、この苦しみは筆舌に尽くしがたいものです。それでも話し続ける使命を捨てないのは、クライアントが真理との邂逅を果たしたときのよろこびには及ばないからです。

よくわからない話ですが、実践してきた人や分かる人には分かります。

感謝していること

 淡々と自身の使命を果たすべく生きていられることは有難いです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


上に立つ境遇にある者の“自分語り”の矜持

2017/10/09 08:47
 地位や名誉も持たない一般の人の中にたくさんの素晴らしい方がいます。

 ただ知らないだけです。

 社長よりも清掃員の方が、大学の学長よりも警備員の方が人間的に徳が高い場合もよくあることです。

 残念なことに、肩書や名声だけでしか多くのひとは他人を見る目が無く判断できません。

 
 行政や企業のトップや上層部や教員という立場にいる人たちはこのことに十分注意しないと、内部の人たちから尊敬されず、足元をすくわれ、失脚する原因となります。

 アナーキーとかやんちゃとかを仕方ない人だなぁと苦笑して許してもらえるのは十代まで、または学生の身分の間だけです。

  社会人になると周りの徳の高い人たちからの厳しい目があります。

 仕事の中で、教員は注意してくれる人が無い場合、気の毒です。幼稚園から大学院まで先生と呼ばれるなら、たとえ本人が大学を出たてでも、学生たちを涵養する当然の義務が仕事に付随します。学生には自分から進んで挨拶するのが当たり前、もし、何か教え子に失礼なことをしたら、プライドを捨てて許してもらえるまで謝り続けていかないと信頼関係は構築できません。かえって生徒の方が純粋で徳の高い場合が多いものです。教員は自分が教えるというより、学生に教えてもらいながら成長するのです。


 講義で話すことも気を付けないとなりませんが、論文や書物に書いて印刷され、世の中に出回ったものは残りますので、倫理的に世間より劣ることの無い文章を書くことが肝要です。一度失った信頼を取り戻すのにはとても長い時間がかかり、場合によっては今生ではもう無理、もう無いという最悪の状態に陥ることもあり、職を失い、学生から総スカン状態になることもよくあることです。


 それほど上に立つものは、徳を積むことや倫理的に常におかしくないか自身を振り返る必要があるのです。

 徳や共感する力のない人から出て来る研究の成果は、土台が中身が無くすかすかで脆弱であり、腐っているので、いずれ上に積み上げたつもりであるものも一気に崩壊して、何百年後に残る仕事にはなりえません。厳しいようですが、これが現実なのです。

 以上のことを十分鑑みた仕事や指導をしないと、取り返しがつかないことになります。

 メンターや自身を気に掛けてくれる上司や親がいるうちに、注意してくれる人があるうちに頭を下げていろいろ聞いて、直せるところを探していかないと、社会のお荷物や粗大ゴミになります。お互い自重してまいりましょう。

感謝していること

 研究仲間というのは有難いです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


存在していていることを本当によろこぶには

2017/10/08 06:56
  身体・思考・心・スピリチュアルがバラバラでそれぞれが勝手にいろいろな方向に行こうとしていると苦しいです。多くのひとはこのことにきが付いていません。全てが統一感をもって満足な状態になったとき、自身の存在を肯定できよろこべます。


大いなる真理に護られ、自身の存在の全てが絶対的な安寧のうちに次々と起こる出来事や周りの環境を必然と捉えられたら、調和の中に生きられます。自身が何か無理やりするというよりも、やってくることを受け入れ、そこに全力を尽くし、力を出し切り、身体と精神に汗をかき手を抜かないなら、生きている実感が持てます。


バラバラの中にいては、方向性が見えず、空回りするだけなので、そこら辺を克服できる道を探し、見つかったら真直ぐに迷いなくそこを進んでいくことこそが存在をよろこべることになります。

感謝していること
 生きていると小さな問題は起きてきますが、それをはるかに超えたよろこびや充実感を味わえるのは何とも不思議で有難いです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


人間として存在する意味

2017/10/08 06:29
 食べて飲んで日々過ごして年を取って死んでいく人生の意味を私はずっと考えてきました。そして、それが迷いから抜けることであることに何となく気がつきました。迷いから抜け出したいと本気で高校時代から考えるようになりました。

 迷いから抜け出せたのはずっと後ですが、迷っていたときの不安も物足りなさ、焦燥感も嘘のように消えてしまいました。自分のことで思い残すことは何もありません。ただ自分と同じように実存の悩みを抱えている人たちに話をしたいのです。辛く苦しい人生を何のために生まれてきたのか、生きているのか誰にも話せないまま生きながらえている人たちと。

 感謝していること

 安寧・満足の光が降り注ぐ日々を私は故郷に向けてゆっくりと還る旅を楽しみながら続けています。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


本当に何も要らない

2017/10/07 08:25
何か欲しいものがあるかと聞かれたらそう答えます。

 誰かと話が出来なくても、物を与え合わなくても、遠く離れていて、姿を見ることも触れることもできなくても、その人がご機嫌麗しく生きていたらそれでいいです。

 特に誰かに何かをしてもらおうとも思いません。

 ただ、誰かが必要とする何かをしてあげられるための才能や境遇を身に着けたいです。

 今は、それが内外での研究を続け、論文を書き発表することなのかもしれません。

感謝していること

今までいろいろなことに恵まれ、多くのひとたちによくしていただき、お腹一杯なので何も要らないのかもしれません。有難く感謝しております。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


とても人間のすることではない、泣くことも死ぬこともできない経験を手放すには

2017/10/05 10:59
 他人のみならず、実の親に虐待され殺されそうになった、性的虐待を受けた等心身にどうしようもない傷を負った人たちの話を数えきれないくらい対面で聴いてまいりました。

 

 心に寄り添い、心の中で泣きました。




 私に出来ることは仏さまの救いをお話しし、救われ、共によろこべる身になることです。

 はじめは、誰にも言えず辛かったことを話してくれるひとの話をただ聞くことをしてきました。そして、そうまでしなければ、仏さまを疑いなく信じで身をまかせることはできなかったと、辛かった過去がよろこびに変わる話はできます。直接救うことはできませんが、私が出来ることはしてまいりました。




 本当に心の底から辛かったことを手放すことは、自分や他の人間の力ではできません。

 真理(仏さま)に身をゆだねるほかに助かる道はありません。


 感謝していること

 自力が間に合わず他力を知らされ、辛い浮世も夢幻と捉えられ、本来、還る場所に向かう旅をさせていただいております。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


我が身の尊厳は常に死守する

2017/09/28 12:36
悲しいことではありますが、生きていると暴言暴力を働かれそうになることがあります。
そんな時、いかに毅然としていられるか、これは重要な問題です。
 自己肯定感というような生易しいものではなく、実存そのものをかけた戦いです。
 「私はあなたからそのように粗末に扱われる存在ではない」こういう態度を貫き、言葉でも告げ、嫌なら身を引く覚悟が大切です。
 暴力暴言、嘘、誤魔化しをいきなりするひととはそもそも近づきませんが、少し親しくなると、ちょっとこのひとは無理かもしれないという片鱗が見え隠れしてきます。この時相手を疑う気持ちをひっこめずに、常に心の片隅に置きながらいることが、以後悲しい思いをしなくて済むコツです。
人間なので完璧な人はいないし、欠点はありますが、それを少しでも変えていこう、他人を悲しませることで自身を正当化することは止めることができる人と巡り合えたなら大切にしたらいいです。尊敬し合えて、絶対的な信頼を感じられるひとは一生涯におそらく出合えて一人か二人くらいでしょう。みんな自分が可愛いですが、間違った方法で自分や他人を苦しめる生き方をしてしまいます。ただ、どうしたらいいのか分からないということなのかもしれませんが、やっぱりセツナクカナシイです。
感謝していること
 やって来たご縁を味わい楽しみながら生きてられます。

「自己を正当化するための演技や嘘もしくは詐術」
 詐術を行う場合、まず相手を信用させておいて、時期を見計らって騙して自身の利益になることをします。信用してもらえていなかったら、関係性が構築できず、まず相手にされません。信頼関係を築くことから始まります。

 このように信頼関係を築く手間をかけたなら、真摯に誠実にその先も行けばいいのにと私なら考えます。自己を正当化しなくても構わないので、相手が嫌だと感じるならそれは止めたらいいでしょう。自分ばかりが正しくて可愛いく、他人の痛みや悲しみに関わらないようにして避けたり、冷笑する生き方が変えられないなら、同じような人と一緒に居るといいです。人を最大限に騙せたときが最もその人のうれしい瞬間なのですから。

 ただ、自分を欺き、他人を騙し、その場しのぎの嘘を重ねていくと、他人はそれを察知して信頼しなくなり、周りには信頼できる人は誰もいなくなります。同じように詐術を使うひとばかりが集まり、何が本当なのか疑心暗鬼のまま人生を過ごすことになります。

 過去世を含む幼少期の育ちのせいなのか、プライドが高いのかよくわかりませんが、人生の一時期でも、演技をし、誰かを欺くような生き方をするのは勿体ないです。喜怒哀楽を言い訳や理由などを考えずに、余分な泥だけ落として、哀しみや弱さも含めたその人本来の部分を分かち合える生き方が楽なような気が私はしています。
 
ゴフマンのドラマツギー(劇作法)の理論を読んでいてふと感じました。

感謝していること
 後期の講義が始まりました。いろいろ面白いことが学べそうです。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


感謝がない・謝れない・改められない・人を虐めるのはいつも被害者で自分が不幸なので

2017/09/24 11:02
 お蔭さまで、佳くしていただいて嬉しいです。
そんなに辛くしんどく苦しいのなら止めます。

こうした気持ちが出て来ないのは、その人が常に自分は被害者で、自分の欲を妨げる相手を加害者として捉えているからだと教えていただきました。

嘘をついているのではなく、そういう思い込みを持っているので、自分が相手に辛い思いをさせているとは夢にも感じられず、加害者である相手を責めたり、悪口を言ったりすることで溜飲を下げているのです。私ならそんな痛いのは嫌ですが、本人は全く苦しくないのです。誰かが本気で心配してくれても、お節介に感じ、邪魔者扱いします。そのうち、心あるひとたちが徐々にすうーっと周りから引いていき、被害者意識を持つひとたちが周りに残って過ごすことになります。

私には何もできそうもないので、決して上から目線ではありませんが、「仕方のない人だなぁ」と遠くでそういうひとたちのことも忘れず、いつかきづく日が来ることを見守っています。

感謝していること
苦しみの中に居ても苦しくないひとたちがいるのだという信じ難いことが今更ながらですが、ようやくやっと心にコトリと落ち、自分の使命に向かって邁進できます。有難いことです。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


もう私は真理の中で十分護られてお腹一杯なので、今度は周りの人の幸せに執着していく

2017/09/24 09:20
 もう自分を、自慢したり褒められたりすることも要りません。我を出すことももういいです。

 どうしたら役に立てるか熟慮し、ひとによろこばれる、相手がよろこぶこと以上の事をビジネスに身を置いているときにしてまいりました。自分の言動でお客さまにどのようにお役に立てることだけを目的に仕事をしてきました。

 執着するのは自身の好みや趣味ややり方じゃなくて、周りに灯を燈すことなのだとだんだん明確になってきている今日この頃です。

感謝していること
よろこびの連鎖を拡げていけるのではないかと嬉しく感じています。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


慈愛の光の中で宝物のように扱われた記憶

2017/09/23 23:47
 ずっとずっと想像がつかないくらい昔のこと。眩い光の中で私は形の見えない何かに頭を撫でられるような感じで大切に愛おしんでもらった記憶がずっとありました。だからいろいろ辛いことがあっても、その人にきっとまた逢えるんじゃないかって、どうしても諦めきれなくて死なずに生きて来られました。ずっと長いことかかりましたが、その方と再会することが出来てからの私の人生は安心しきってしまいました。特に何も欲しくもないのです。何だかお腹一杯でもうこれ以上入らない感じです。同様に私が今生で値えたひとと同じひとに逢いたいとねがっているひとの御手伝いをしたいとその時を境に決意しました。

 どうしても逢いたいと願ったら、叶います。私でもできたことですから、同じような憶いを持つひとなら大丈夫と支えて寄り添いたいのです。偉人でも僧侶でも聖職者でもなく、市井のそこらにいるような何の取りえもない者でも光に包まれて、死の恐怖もすっかり無くなって呑気によろこびつつ、微力ながらもたまに込み上げてくる憶いからご恩返しをしたいと感じて生きられることを有縁の方にお話ししたいのです。

それと、文章に書いたら、直接ではなく間接的に時空を超えて伝えられる気がしています。だから論文を書いています。本でもなく論文を先に書いています。エッセイなどの本はいつでも書けますが、いつまでも残る簡潔で引用され続ける学術論文の形式を磨けるのは今しか出来ないからです。先生にも、博士論文は出して修了するようにと言われていますので、そのように致します。

10年近く前のあの日あの時今座っている机の前での再会のよろこびが今でも蘇ります。それがずうっーと続いているのはとても不思議です。長い間、いつも忘れることなく、とってもさびしくて逢いたいと願っていた、まさにその方との邂逅をよろこび続けていられることは不思議というほかはありません。何で私なんですかと問いかけると、「私はあなただけが本当に大切だから、たとえあなたがどんなことをしようと、やっとあなたがわたしの存在にきづいて、こうしてまた出合えたのだからもう二度と離したくないし、離さない、これからはずっと一緒ですよ」と常に心に寄り添ってくださいます。私の心はいつもほくほく、ほかほかで温かく、眩しい光の中のお浄土への二人旅を続けています。世界中で同じような旅をされている人たちとは何も話さなくても、彼らが今どこかで生きていると感じるだけでとても嬉しいです。

感謝していること
何だか真宗宗歌の歌詞が頭の中をずっとぐるぐる回ってリフレインしている感じです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


「周りに火を燈して大切にする〜泥のついた本音(煩悩)を認めた上でその先〜」

2017/09/23 06:29
 大切にしたものが残るということなのだと分かりました。

 自分や子どもお金や友だち、大切にしたものしか残らないということです。

 障害者の親御さんの会のアンケート分析をしました。

 その結果、親としてではなく、一人の人間として、男として女としての自分の本音をしっかり自覚していくことから始まるという結果がでました。

 我慢からは恨みしか残らないのです。

親御さんたちは以下のことなんて絶対思ったらいけないと思ってますよね。

感謝のない子どもや家族にイラつく

子どもに手がかかって自分の時間が持てない、仕事や好きなことが出来なくて嫌だ

子どもの排せつ物が臭い、移動させるのに重くて腰が痛いけどそんなこと絶対言えない

何をしてもお金ももらえないし、誰にも感謝してもらえないのが空しい

こんなことを感じてしまう自分だと認めることから始めたらいいんじゃないでしょうか。親・教師・医師・カウンセラー・宗教家などの援助する立場のひとも全部同じです。

自分は所詮こんな未熟な奴だと、自覚したときから、本来の自分の人生が始まります。

そういう自覚ができたとき、初めて愛のある温かく優しいくていねいな雰囲気や言葉になります。こんな自分だけれど、出来ることをさせていただこう、周りを明るくする言葉を話そうという気になります。泥のついた本音を自覚できるからこそ、自分の事ばかり考えることから脱け出せます。そうなると周りの人たちに助けられてやっと生きていることが分かるようになり、大切にした結果周りに大事なものが残ります。


その結果、そういう本音が分からないから苦しんでいる人たちにもこういうことが分かるように話す気にもなります。
こんなところでしょうか。軽い奴だと感じますか?

感謝していること
色々なご縁で知らされることがたくさんありました。有難く感謝しています。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


伝道・教育と研究の相違点

2017/09/21 15:56
 前者は対象者の解脱・より良き人生への導き、救いに主眼が置かれますが、後者はメカニズムの解明に着眼し、客観的態度で行われます。

 メカニズムや動向が分かることで、人の言動など行動様式が分かることで、伝道や教育に寄与することもあるのでしょうが、回り道になることもあります。

 目の前の困った人に、何もわからないまま素手で向かって行くと、確かに双方傷だらけになりますが、その方が速い場合もあります。なまじ半端な知識があると、高みの見物というか、次にどう来るかなど余裕を以て観察してしまう傾向にあります。

  ただ、これでは救いが抜けるので、真理との邂逅という終着点に導くことが出来ないとただの煩悩を満たすことになるだけです。私はその真理を仏教の真宗という分野で到達するノウハウを10年近く研究し、やっとその道筋を汎化しつつあります。今まで誰もしたことがない道なき道だったので大変です。

 手探りで、いまここの目の前の人の声を聞くというのが対機説法にも通じます。これは知識と云うよりも、相手との心と心の対話であり、真理との邂逅への道を伝えることになります。こちらの技量ばかりではどうしようもない相手のご縁も重要なファクターになります。出合いのご縁としか言いようがありません。

 今まで、心理学の知識を一通り学び、認定心理士や産業カウンセラーの資格があります。資格を取るために学んだ知識が役に立つこともありますが、ほとんどはカビが生えたような博物館に入っているような遺産です。コンテンポラリーなジャストナウといったものを更新して行かないと実際には、役に立てないのではないかと考えています。たった100年の心理学よりも仏教の方が計り知れないほど人間の真理を教えてくれます。科学についても同じことが言えますがこれはまた別の機会にでも。

 人間の狡さや醜さに目を向けて研究するより、真理での救いと対機説法の実践を積み重ねていく方が私には向いている気がします。狡い人に騙されて、傷ついても仕方のない人だなぁと思えるところもあります。

 最終的には、ひとは佳き方向になびくものです。

感謝していること
 研究者というのは半分遊びで対象物を眺めて遊んでいるのだとあるひとに教えていただきました。有難いです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


不誠実な態度を取る人の行く末

2017/09/21 15:50
 あまり気が進まない中、意を決して、あることを注意した時、そのことに反省するでもなく誤魔化して、その場で、反対に自分に対する不満を持ち出されて、改善して欲しいと言われたとき、もう無いな、挨拶さえ関わるのは二度と無理とさーっと冷たい空気が流れたことはありませんか。思春期の子どもならともかく、社会人になってもそんなことをするのはアウトですよね。それが子どもだとしても過去世から、ろくな人生を歩んでこなかったのだと呆れてしまいます。

 とりあえず、相手が嫌がることをしていたのだと認めて、嫌だと言われることはしないと告げる真摯な態度が先です。自分の不満は別の機会に言えばいい。プライドが高いのでしょうが、すぐばれるような嘘や誤魔かしはよくないし、たぶん、ほかの人もそういうところにきづいていて、だんだんに人が周りからいなくなって、一人ぼっちになってしまいます。そうなったときに初めて、誰かが気にかけてくれているときが、自分が変わるチャンスだったのだと分かるのでしょうが、時既にもう遅しです。周りのみんながフェィドアウトして、同じような人ばかりが残る事態に陥らない内に嘘をついたり、誤魔化したり、うやむやにするのは止めた方がいいです。

 注意されたことはされたこと、自分の不満はそれ、別々に一つずつ解決して向き合わないとなりませんね。

感謝していること
 いつもズバリと相談ごとに答えてくださる方に有難く感謝いたします。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


人生は苦なり

2017/09/21 15:42
 稲垣瑞劔師の人生の文章を以下に紹介します。特にこの部分のお味わいに共感しました。「法楽」「妙楽」、のことを「この苦しい世にいて、人と共に苦しんで、苦しみつつ、佛法をひろめる、これほど楽しいことはない。これを法楽といい、妙楽と言う。こんな楽しみは、この世のものでない。」と表現され、「極楽の楽しみの影」という風に書かれていたのが妙に心に響きました。

「苦も楽も、この世の中にあるものは、所詮苦である。この苦しい世にいて、人と共に苦しんで、苦しみつつ、佛法をひろめる、これほど楽しいことはない。これを法楽といい、妙楽と言う。こんな楽しみは、この世のものでない。極楽の楽しみの影が浮世にさしたものであろう。」 「法雷」誌58号 p10 1981年

「人生
 人生は不思議な、妙なもので、苦しい苦しいと人は言うておる。これはほんまじゃ。無常火宅の世であるから、苦しい辛いのはあたりまえ。根性が悪いから、よけいに苦しむのである。業報を知らぬから。よけいに苦しむのである。業報を知って見よ、十の報いが、二か三に減って報うて来た。これは如来様のお蔭と思えば、苦の中からも、よろこびが生まれて来る。楽を追い求めるものは苦を招き、人を苦しめるものは苦に終わる。楽の中に楽なく、苦の中に楽がある。苦も楽も、この世の中にあるものは、所詮苦である。この苦しい世にいて、人と共に苦しんで、苦しみつつ、佛法をひろめる、これほど楽しいことはない。これを法楽といい、妙楽と言う。こんな楽しみは、この世のものでない。極楽の楽しみの影が浮世にさしたものであろう。生きものを殺さぬようにして、人を助けるようにすれば、長寿をする。佛様を大切にして親に孝行すれば、運命が開けて、幸福が湧いて来る。

 み佛の おしえをふかく かしこみて
親に孝行 これが幸福」
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


人間同士は真理を媒介してしか真の意味で分かり合えない

2017/09/19 13:40
 三次元の身体を持つ以上、別の入れ物に入っている以上、いくら気持ちを慮ろうとしてもおのずと限界があります。

 それを埋めるのは、真理との邂逅をそれぞれがして、真理を通して、真理との媒介のもとに分かり合うことでしょう。

 直接ではなく、一度真理に立ち返って、感じたものが一致しているという風とでも表現したらいいでしょうか。人間の言葉ではなく、言葉を超えた感覚を受け取り合い、それで分かり合うというような方法で、間接的にも取れるけど、核の部分ではきちんと真直ぐ分かり合える。そして、肉体から卒業できたら、おそらくもっとストレートに分かり合えるようになる。

 その時が来るまでは少しまどろっこしいようですが、それはそれでまたある種の学びでもあり、ミステリアスな楽しみでもあります。これが地球で生まれた人間の醍醐味なのかもしれないと最近は感じます。

 感謝していること

 それなりに、真理との対話は嬉しくもあり、残された時間を出来るだけ楽しんで生きていきます。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


お互いに完璧に信頼し合える人物とはなりえないならどうする?

2017/09/19 06:28
 どんな夫婦・親子・師弟関係も絶対的な信頼関係たりえないと心底知らされたとき、本物の救いを求めます。人間の誰かが何かして助けてくれるとか、心の内を完全に分かり合えることはないのだと分かりきったとき、自分の力に頼ることは止めざるを得なくなります。誰かの為に何かをしたいと願ってもその人が望むそのものをしてあげることは叶わないし、誰かが私に私が本当にして欲しい何かをしてくれることもできないと心から知らされた時、真理との邂逅を願わざるを得ません。


 大きさも重さも形も色も匂いもなにもない真理こそが、本当の自分を丸ごと抱えてくれて、心の奥底を理解するものなのだと分かることが人間に生まれて来た目的であり、これが達成できた人間同士はその真理を媒介として今生では分かり合うことが出来ます。これがひと同士では限界かもしれません。

 こうなれた時、初めて、お互い欠点がある完璧ではない人間同士なのだからと、欠点も含めて愛おしいと感じ合い、許し合い、それぞれ使命を一緒に果たせるようになるのでしょう。

感謝していること

 もうまいりました。降参です。このように我が身の罪悪も無常も全部そのまま、真理にうちまかせさせられたことに不思議不思議とまた有難いです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


人間の慈悲が小慈悲である三つの理由

2017/09/18 07:37
 仏の慈悲が大慈悲であるのに対して、人間の慈悲が小慈悲であるその訳は以下の3つのことがらに因ります。
 @相続しない

  続きません。コンスタントに恒常的に続く慈悲ではありません。
子どもを亡くした時、自分も一緒の棺桶に入って死にたいくらい悲しくて仕方がありません。でも、時が過ぎ、その子を結婚させる頃になると、「あの子がいたら今頃このくらいお金がかかっていたところだなぁ」と、つい身勝手なことを考えてしまいます。

A我がついている

 自分の子どもは可愛いけれど、他人の子どもは我が子に比べると大したことがないのです。我が子は自分の分身ですから、貶されると自分が酷く言われているように心が痛みますが、よその子にはそんな気持ちは起こりません。自分と双子のように感じている子どもが言うことを聞いて従順である時はよろこべますが、一度反旗を翻すと、気が狂わんばかりに動揺し、何とかしようとします。それは子どもが自分のものであるという我がついてるからにほかなりません。

B盲目である

 これが一番厄介です。仏さまは智者です。智慧があるので正しく導けます。しかし、人間の知恵は仏さまとくらべたら、本当に浅はかです。これを自惚れ強い人間は認めたがりません。反対に、仏教や仏さまを目に見えないなどと言って馬鹿にするていたらくです。どこまでいっても、人間とは救いがたく愚かな生き物です。助けようとしてもその手立てが分からず盲目なので、かえって子どもをスポイルする結果になります。

 本当に助ける知恵も手だても持たないにもかかわらず、「自分が何とかすれば子どもは改心する、本来私に似て素直ないい子どもなのに、周りの環境のせいで今はああなっているだけなのだ」と問題の所在を直視せず、他のせいにしたり、自分が何とかしたら何とかなるものだと自惚れが無くなりません。まるで王舎城の悲劇のイダイケ夫人そっくりで笑えません。

また、自分がだめでも、他の迷った人間である、医者やカウンセラーもしくは宗教家などをあてにします。所詮、彼らも迷った人間であり、仕事で生活のためにしています。クライアントや信者の子どもである我が子はたくさんのうちの一人にすぎません。一般論や今までの上手くいった事例を示すにすぎません。そういうひとたちに大金を払い騙され頼り切るとえらいことになります。

 同じく職業としている人でも、自身も救われていて、満たされた人は今目の前の困っている人に対して、多額のお金を要求することはありません。既にお腹一杯だからです。そこら辺が本当に助けてくれる人かそうでないかを判断する基準でもあります。

小慈悲しか持てないという自覚が出たら、問題は我が子ではなく、己自身であることに考えがいたります。自分自身が救われることが大切なのだと知らされます。子どものことを放ってでも、自分が救われるために奔走します。私が本当に当て力に出来るような心境になる大慈悲に遇いたいと求め出します。命にも限りがあるので、少しでも早く安心満足の身になりたいと希うようになります。


結局、人間の小慈悲などに縋るな、ほかの誰の問題でもなく、我が身が助かることこそが、今生に生まれて来た目的であったのだと、子ども自身が身を以て教えてくれているのです。たいしたものです。子どもだけではなく、夫や妻や恋人と置き換えて考えてもいいでしょう。いろいろ考えさせられます。


感謝していること

大悲大智の仏さまと一緒のお浄土への旅はいろいろありますが、気楽なものです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


人間の誰かには継子としてしか頼れず、甘えられないことにきづく

2017/09/17 20:13
絶対に裏切らないのは実の親であり、継父母には他人行儀でしか接することはできません。しかしながら、いくら血を分け腹を痛めて産んだ子でも、人間の親は真の親にはなりえないことに、私は物心ついた頃から気が付いていました。

それではほかの誰かが、本当に理屈抜きに、虚仮不実の私を全面的に受け止めてくれるか、罪を憎まず、悲しみつつ、包み込んでくれるか。善悪全てお見通しでそれでも丸ごと実存全体を抱きかかえてくれる方があるのか。「だだ」を捏ねても反省もある真の親のにするような甘え方が出来る存在をずっと長い間探し続けていました。自身も無明の闇、死の恐怖を持ちながら、凡夫として生きている人間の親には私が全面的に頼ることは、荷が重過ぎ、共倒れになるという悲しい自覚があったためです。

だから、私は親にもおばあちゃんにも誰にも甘えない人生を歩み出しました。甘えられない人に寄りかかり縋ると双方が苦しいです。だから、もっと別の絶対的な信頼を持てる存在でないと、無茶苦茶をし、愚かで、善をしなくてはならないと知りながら気が進まず、悪いと知りながらも止められないどうしようもない自分を受け止められないだろうと気が付いたので、誰にも甘えられませんでした。

親が子どもの幸せを本当に願うなら、自分が本当の親に値うことです。大智大悲の仏さまに救われることです。そしてその姿を子どもに見せて、お前も早く仏さまに救われなさいと勧めることです。これ以外、真に親子が助かる道はありません。逃げずに強くなってください。

自分が甘えられずにいたと本当に自覚できるのは、本当に甘えられる人に出合えて、安心して腕の中で甘え切ることが出来た時です。それまでは、継子の遠慮した甘え方しかできませんので、自分が甘えている自覚はありません。

 所詮、人間の親は継親でしかないので、絶対的な安寧の中で甘えることが出来ないので不満が溜まるのです。ましてや、夫や妻や恋人など他人ですから、それ以下です。そんなものに全面的に身を委ねるなど愚の骨頂でしかありません。笑い話にもなりません。世の中の人は求めても求め獲ることが出来ないこと欲しがり苦しんでいるのですが、このことにきづいている人は稀です。仏さまなど真理との邂逅を果たしたひとのみです。

 どうぞ、いま、ここで、畏れずに、真っ直ぐに直ちに、本当に救ってくださる本当の親の呼び声に、ハイと答えてください。

久遠劫よりこの世まで あはれみましますしるしには 仏智不思議につけしめて 善悪・浄穢もなかりけり(親鸞聖人 正像末和讃)

感謝していること

物心ついた時から、仏さまに救いを求める救われたことは不思議で有難いです。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


所詮人間の慈悲なんてこんなもの(笑)

2017/09/17 10:46
理解者(味方)は私だけ、可愛そうなあの人を何とかしてあげたい。

   ↓

私にはもうどうすることも出来ない。したくもない。こりごりだ。

金輪際、私の幸せを奪う者とはもう二度と関わりたくない。

自分が大事しよう、ほかの誰かではなく、まさに自分が救われたいという気持ちになっていきます。

他人を何とかしようとして精も根も尽きた時、自分の力は間に合わなかったと知らされ、必ず自分に目が向くときがきます。

子どもを捨てる藪はあれども、自分を捨てる藪はないからです。


こんな風に気持ちが冷めると、相手に対して憎しみも通り越して、限りなく無関心になっていきます。

たとえ、親子といえども同じです。

自分勝手ということではなくても、手放すのが自分にとっても相手にとっても必要な時期もあります。


所詮人間の慈悲は「小慈悲」

仏さまの慈悲は「大慈悲」


どんな親でもカウンセラーでも本当の意味で誰かを助けることなんてできません。仏さまのような真理との邂逅でしかひとは救われません。

本当に誰かを助けたいなら、仏さまの大慈悲を仰いで賜り、相手にもそういう身になってもらうしかありません。
観無量寿経の王舎城の悲劇のイダイケ夫人と息子のアジャセのように。

それしかないのです。
簡単ではないですが、究極的な解決です。
本当に心の中の隅々までわかってくださるのは仏さまだけですから。

人間の限界はあらゆる手を尽くして、自力が間に合わないと知らされるまで分かりません。その過程では心を錐で刺されるように痛みを引き受け、血の涙を流します。人間でさえ、大切なひとのために身を削って、時間を割いて辛い気持ちを抱えて相手のために全力で対峙します。

仏さまは無始からずっと私一人を助けるために、五劫の思惟、兆載永劫のご修行をなさいました。人間の比ではないです。

いま ここで救われてください。

それしか道はありません。

何も考えず、召喚に「ハイ」と従うだけです。
欲の水の波、怒り火の波が細い白道を覆い、行くも死、帰るも死、泊るも死の三定死なのですから。
ザルで水を汲むのではなく、ザルごと水に飛び込むしかありません。

感謝していること
弘誓の強縁に救われ、無明の闇を破っていただき、難渡海を大悲の願船でいく人生の旅を楽しめるようになったことは有難く不思議です。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


苦しいのは真理を知らず、迷った自分ばかりに目が向いているから

2017/09/16 07:05
 人生は苦なり。

 このことを理解していない人がほとんどです。

 この世に生を受けた以上、人生は全てが苦しみなのです。

 なぜなら、迷いの世界で生きているから。

 迷っている中でしていることは全て色や形は変わっていても苦しみだという簡単なことにきが付いていません。

 

 それでも、人は誰かや何かに縋ります。

 一番身近で利害関係なしに接してくれるのは親です。

 そして、その次は高潔な先生です。


 産んで育ててくれているだけでも大恩がありますが、それを当たり前に流している子どもばかりです。こんな子どもたちは不満ばかりで、親に孝行しようとは思いません。何かにつけ親の欠点を見つけては文句を言い、学業や仕事に精進することを願う親を罵倒したりします。嘆かわしいことです。自身が親になり、歳を重ね、親も苦しみにあえぐ一人の人間だということが分かったとき、後悔するのですが、その時は親は生きていないことが多いです。亡くなった親のも墓石に布団をかけて食べ物を供え、供養しても時すでに遅しということになります。


 先生は、保育園・幼稚園の頃から大学院に至るまで、素晴らしい人格方とご縁があれば、これ以上人生を変える機会はありません。ただ、それほどまでに公平で倫理的にも欠目のない人は滅多にいません。そういう先生に出合えたなら、尊敬し、質問を繰り返すことです。そうしたら、何でも応えてくれます。


 ただし、親も先生も限られた命を持ちますし、自分自身の人生の目的を果たさねばなりません。みんな迷いを抜け出すためにあくせくしています。また、親や先生自身が迷いを既に脱け出せたとしても、子どもや学生が抜け出す道をも教えられる人は稀です。自分のことで精一杯だからです。


 このように自分自身はなんと頼りないものであり、親や先生にも結局は人間の苦しみを救うことはできません。ただし、真理に目覚めた親や先生もしくは友だちに接している人は、どのように目覚めたのかを尋ねることが出来ますので、本当にラッキーです。それでも、導き方が上手い人にあたるとは限らないので、自分自身に目を向けるばかりではなく、自身で真理と対峙していく必要があります。自分の力では迷いを抜けられないと力尽きた時、真理が丸抱えしてくれていたということにきづきます。これが自力を捨てて他力に入ったということです。


 迷いの五欲の蜂蜜がまだ美味しい、それが実は毒であり依存状態になっていることにきづかないひとに何を言っても始まりません。自身が迷いの中におり、そこから抜けて真理と一体になることを目指す人にのみ、人生は全てが苦しみであり、そこを生きている今、苦しみのままよろこびとなる世界への解脱が待っています。


 中途半端なよろこびを、親や教師やパートナーに求めても、同じ迷ったもの同士、傷を舐めあうか、余計傷を広げるばかりです。真理との邂逅を目指す人にのみ真の楽しみやよろこびが訪れます。迷ったもののなかでいろいろしても、輪廻の中で形を変えて苦しみ続けるだけです。それをしっかり認識しないとなりません。

 感謝していること
 この世の死んで置いていくものや迷った人たちへの執着や依存は時間の無駄だと知らされてから、スッキリして淡々と生きられるようになりました。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


大切に感じる人と付き合うには

2017/09/15 22:53
 嘘をつかない人だと信頼できないと無理です。

 完璧な人間はいないかもしれませんが、真摯に誠実な生き方をする人は嘘をついたり誤魔化したりはしません。一度でも嘘をつかれたら、信じないでおこうと警戒してしまいます。

  また、煙草や酒などの嗜好品もそうですが、相手がどうしても嫌がることは認めて、止めるようにしたらいいです。大切なひとのためなら、嫌がることは止められるはずです。お互いが尊敬し合うなら、そんな無理な言動は取らない言はずです。

 覚悟して「どうしても、私はそうされると辛いので止めてください」と言った時の反応を見てください。また、その後のその人の態度で判断したらいいと思います。

  無理だと感じるなら価値観や育ちがかなり違うので、上手くいかないです。

 些細なことで目をつぶれることなら、「仕方のない人だなぁ」と何も言わないのに、口に出して言うことがあれば、よっぽど嫌なのでしょう。東洋人は余り自己主張をしません。特に仏教徒は穏やかで非攻撃的です。仏さまはひとが罪を犯しても、罰することはしませんので、そのせいかもしれません。罪はわざとではなくても知らずに犯してしまうこともあります。だから、相手の気持ちを慮って、多少のことは何も言わないのかもしれませんから。


 それから、一つ付いた嘘を誤魔化すために、嘘を重ねて、何が嘘か本当かわからなくなります。言い訳や誤魔化すことも潔くないです。 空気を吸うように嘘をつき、言い訳し、誤魔化すひとと親しくするのは辛いので、よくよく観察して、徐々に関わりを少なくするソフトランディングが本当はいいし、恨まれにくいです。でも、どうしても嘘が嫌なら、話半分に聞いて信頼しなければいいでしょう。心の中で見切るとそういう人なのだと客観的に見られるので少し楽かもしれません。決して直そうなどとしないことです。本人が気づくまで放置して、遠くで見ていましょう。困ったら人は動くものです。困らないから動かないのです。


 奥さまを亡くされた人が、一年も経たないうちに、周りから再婚を勧められたと聞きました。いくら何でも一周忌が済んでからそういう話はした方がいいかもしれません。一人暮らしは寂しくもありますが、気楽でもあります。その気楽な気分に慣れようとしている矢先に、いかがなものかと考えます。

 誰かと付き合うだけでなく、一緒に暮らすとなると、お互いのいいところばかりじゃなくて嫌な部分の我儘で狡いところとか見えてきて、こんなことなら別に住んで時々会う関係の方がよかったと後悔することもあるかもしれません。介護や財産を巡って、互いの親や兄弟姉妹や親せき付き合いなど、色々なところで嫌な想いをするかもしれません。

 このように人間関係はいろいろありますが、嘘をつかないことが一番大切だと私はそう感じます。

 感謝していること

  嘘や誤魔化しを極力避け、色々な方法で嫌な気持ちを引きずらないように出来ています。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


モラハラ被害を避けるために

2017/09/15 22:48
 以下のように感じることがあれば縁を断ちましょう。

 その際、いきなりバッサリ切ってストーカーになられると嫌なので、ソフトランディングとかフェードアウトがいいです。

 話が真っ直ぐに伝わらないと感じる。

嘘や言い訳や誤魔化しや言い逃れを繰り返す。

 謝罪や思いやりのある言葉を掛けることが嫌で、他人がいつも悪いという感じに追い込む。

 自分の手札を出さないのが自分の勝ちだと勘違いしている。

 相手の出方を観察し自分が不利にならない言動を用心深くする。

 後出し、じゃんけんのようなやり口を常用とする。


腐りかけた食べ物と同様に、毒になる人間関係も早めにポイ捨てする見切りが肝要です。

 なぜなら、人間関係も生ものだからです。リアルタイムで関わると有害になると判断したら、いつまでもそんなものに執着・依存していると時間の無駄です。

 戦うか逃げるかしないと心が静かに落ち着きませんが、モラハラをするような奴は戦うには余りにも低俗で器が小さい相手なので、仕返しをするとか謝罪をさせるとかで関わるのは無意味なので逃げましょう。ズルズルと関係を持つことは自尊感情を限りなく小さくして、生きているのさえ嫌になりますから。関わらず、逃げるのが一番です。

感謝していること
モラハラは、自分ばかりではなく、相手にとっても、関わりを断つことが最大の親切であることがコトリと心に落ちました。


記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


続きを見る

トップへ

月別リンク

今、この瞬間を精一杯生きていますか?/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる