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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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ひとり生まれひとり死ぬ〜真理との邂逅がない人間は孤独で寂しい〜

2018/01/20 15:29
 「政治家や芸能人の不倫報道ばかりが目につきました」と何年か日本を離れていた人が言われました。3年ほどスペインにいた彼女にとって日本の雑誌やテレビの話題は不思議に映ったようでした。
 「羨ましいんでしょ」と私がさらっというと苦笑いして納得していました。

  特に日本では、親子・夫婦といっても心が通わない、何年も一緒にいても優しくなれない、渇いた意地悪な関係を改善することなく続けていることに何の疑問も持たないか、仕方ないと諦めている人がほとんどではないでしょうか。欧州では結婚や家族の縛りが日本ほど強くなく、離婚しても不倫しても世間的にも非難されることもあまりないようです。他人がとやかく言うことではないのでしょう。

 基本的に仏さまのような真理としか完全に心が通い合うとは私には思えません。あまり人間に対しては期待していません。たまに、ほんのたまに本当に心を掛けていただき、自分の姿を相手の様子からきづかせていただくことがあり、それは有難いです。まだ、ご本願に気が付いていないひとたちとも可能な限り心を通わせ、優しさを感じ合いたいと願ってはおります。

それはそれですし、誰かの何かで自分の心が上下するのはいかがなものかと感じます。一人でいても仏さまと一緒なので孤独でもなく寂しくもないですが、同じ阿弥陀仏の御心を賜った心が通い合える人が一人でも何人でもいて、お浄土への旅をご一緒できたらそれはそれで嬉しいです。

孤独を人で癒そうとしても、その人が心変わりしたり、死んだりしたら本当に辛い思いをします。そのことにきが付かない人ばかりなので、同じような過ちを皆で繰り返し、我慢している人たちが自分の思うように行動している人たちを非難する低レベルのことが起こっている気がします。

真の意味の実存的な孤独は人間同士では癒せません。このことが分かるのは年老いてか、死にかけてか、もしくは真理との邂逅を果たせたときでしょう。そんなときでも、煩悩から、人恋しくて人で寂しさを紛らわす人も見てきましたが、御恩報謝の障害になりますので私は自戒すべきという見解です。どうせ借り物の私のこの身体、仏さまのお遣い、操り人形で残りの人生終わっていけたら本望です。私には自分自身に対して願いも望みもあまりありません。

感謝していること
 余りにも強い自我や自意識ばかりが飛び込んできて、辟易しておりますが、そんなことは、どうでもよくなっていられることに感謝します。


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煩悩の内にある灰汁・澱を浮かんできたら消えていく

2018/01/20 11:54
 弥陀の本願に救われても、臨終まで煩悩は消えず、欲や怒りや愚痴などに翻弄され、苦しむことには変わりありません。それでも、煩悩即菩提に転じ変わるのは不思議で有難いです。信後、自分の気が付かない煩悩の中の灰汁・澱のようなものにお聖教や御説法そして、周りの人たちと生きていく中で知らされるのは人生の大混みなのかもしれません。凡夫というのはかくも情けなく哀れで苦しく、されど憎めない者だと自他共に知らされていく中でしか、弥陀の本願をお話しすることはできないのかもしれません。

上から目線で、「ただ本願を仰いでください、『生死いづべき道』に進んでください」といっても余計なお世話だといわれることが多いでしょう。「あなたのような恵まれていて、お気楽なひとに言われたくないです」とか嫌味や皮肉を言われたりもするかもしれません。
無常・罪悪に苛まれ、生きた心地がせず、仏教やほかの教えに助けを求めて、すがる人は稀です。ほとんどの人が生きることの苦しみで、煩悩の嵐の中で右往左往しています。根本の迷いのことなどいくら言っても分かりません。

 信後に限らず、誰かと仏教を話すことで、煩悩の中の灰汁・澱が浮かび上がり、消えていき本来の「生死いづべき道」を求める姿に立ち返っていく気がします。私は仏教の浄土真宗という道とご縁がありそれを指針に生きてきましたが、ほかの宗教等でも同じことができるかもしれません。これはまだ研究の途上なので何とも言えませんが、一番易しく速い真宗の教えをお話しし、書かせて頂けていることはこの上ない身のよろこびであります。

感謝していること
 灰汁や澱が知らされ、浮かんでは消えていくときに光の中に溶け込むような感じがします。人間として生きている醍醐味なのでしょうか。不思議で有難いです。 
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弥陀の本願のみを仰ぎ、当て力にし、自身の罪に心を置かないこと

2018/01/20 11:09
 それなら人殺しや強盗など何をしてもいいのか、浄土真宗は悪人正機ならぬ、悪人製造の教えなのかと文句を言うひとがあるでしょう。それは違います。全くの誤解です。

 昨日、本願寺派の国際センターのゼミナールで「真宗や仏教の持つ『潜在的社会性』」と題した満井秀城さんはこのようなに言われました。

「法然聖人のお言葉に、『悪人までをもすて給わぬ本願としらんにつけても、いよいよ、仏の知見をば、はすべし、悲しむべし。父母の慈悲あればとて、父母のまえにて悪を行ぜんに、その父母よろこぶべしや。なげきながらすてず、あはれみながらにむ也。ほとけも又もてかくのごとし。『法語灯録』とあります。『悪人正機』だからと言って、おもいのままに悪い行いをして良いはずがありません。私が悪人であることによって、仏を泣かせて来たことに気付いたとしたら、もっと泣かせてやろうと思うはずはなく、もうこれ以上、仏をなかせることはすまいと、『つつしむ身』に変わって行くものである。『仏の知見に恥じない生き方を希求する』身になるのが『悪人正機の社会性』であり、『念仏者の、自ずからなる社会性』であろうと思います。』

「親のこころ子知らず」と言われます。子どもの悪行いに対して、よろこばず、なげきながらすてられもせず、あわれみながら、その悪い行いをにくむしかありません。「悪人正機」の教えといくら言われていても自分が悪人であり、仏や親を泣かせてきたと心の底から気付いたら、このような仏や親の気持ちが感じ取れ、分ったなら、仏や親をもっと泣かせようとは思わないはずです。もうこれ以上仏や親を泣かせることはしないようにつつしむ身に変わって行くはずです。仏や親の知見に恥じることの無い生き方をするようになります。

親との約束を守らない、勉強を怠ける、学校や仕事に行かず親を心配させるような子どもは親の気持ちが分からないからそんなことが出来るのです。全く自分本位で自分勝手な行いをしていることに気づいていません。自損損他、自障障他、我利我利亡者の自分であることなど分かっていません。
親が泣いていること、よろこんでいないこと、なげいても自分の子どもであるから捨てられもせず、あわれみながらも、悪い行いを憎んでいることなど考えもしません。自分さえよければいい、自分の欲を満たすことしか頭にありません。本当に悲しい限りです。

親だけでなくお世話になっている周りの人に対して、冷たい態度を取り、批判的に接するなど、どれだけ人を傷つけているかなどお構いなしの自分本位な態度を取っていないかお互い省みることは本当に大切です。
 それでも、そんなことには心を向けず、そこに心を置かず、ただ、「うちまかせよ、たのめ、そのまま来い」との阿弥陀さまのお言葉に「はい」と従うのみであります。これが浄土真宗の救いです。悪人正機とはこういうことです。

感謝していること
釈尊や高僧方、親鸞聖人や歴代の善知識方のお導きで弥陀の本願まことと信知させて頂く身に救われたことは不思議で有難いです。
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真宗門徒が最後にすがるのは念仏、取れない疑いは自惚れから

2018/01/20 10:20
 どんな善も全く他人を思い遣ってすることは出来ない。いつでもどこでも我が付いている。それなら、何もできないなら、阿弥陀仏に向かって念仏するしかない。

ここに大きな落とし穴があります。念仏を称えたならば助かる、助かる念仏を称えられる自分がいるのだと、念仏を称えられる自分に対する自惚れから自力から離れられません。他力にうちまかせる邪魔をするのです。何もできなくても念仏なら称えられると、最後の牙城である念仏にすがるのです。自力はしつこく中々離れません。こんなに嬉しい念仏を称えられている、念仏をよろこべる私をお慈悲な阿弥陀さまは見捨てるはずがないと念仏にすがりつくのです。

阿弥陀さまは念仏を称えたならば救うという条件など出していません。そのままいらっしゃいと言われます。こちらから差し出すものは一つもないのです。それなのに、何かしないといけないと勝手に思い込んでいます。これは阿弥陀さまのお力に底を敷いてる態度です。あるいは頭の上に立ってあれこれ阿弥陀さまの能力を判断しているのです。全て自力で疑い計らっているのです。

阿弥陀仏のご本願を話してくれるひとに対しても、求めている人は、心の底では、同じ人間なのに偉そうにとか、色々な欠点を捜してしまいます。人間の口を通して阿弥陀仏の智慧や慈悲を伝えてくださることに感謝するどころか、その人の上に立って批判する気持ちから素直になれません。欠点だらけの人間は信じられないけれども、阿弥陀さまなら信じられるという自惚れが最後まで抜けません。だから、ある時点で、黙って、阿弥陀さまと二人になってもらいます。そのときから、もう逃げ道は失われますから、阿弥陀さまと対峙することになります。話す者は目の前の人の状態を見極めることが肝要です。どこまでが自分の役目でできるけれど、あとは阿弥陀さまにおまかせするかということをしっかり判断しなくてはなりません。

一人でも多くの人がたくさんの磁石となった信心の人に引き付けられ、お浄土の旅が出来ることを願って止みません。

感謝していること
末法の世ではありますが、日本全国を始めとして世界中で阿弥陀仏の本願をお伝えされる人は絶えません。今もなお阿弥陀仏の光明はあらゆる空間に満ち満ちています。不思議で有難いです

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慢心が幸せになるのを邪魔している

2018/01/19 11:51
 同じような立場の人からはたとえ有意義なことを聞かされていても聞く耳を持てません。本来なら、たとえ幼児や赤ん坊の言葉でもそれが自身にとって大切な言葉なら真剣に耳を傾けた方がいいに決まっています。

 素直に聞くだけなので、簡単なことですが、中々実践できません。

 思うに、自分の方が格上だという気持ちは劣等感から来ています。

 同等や年下で経験の浅い人の言葉でも、自信があり、謙虚で聞く耳を持てる人なら聞けます。

 無駄に諂うことはありませんが、驕ることはありません。

 慢心は身を滅ぼします。大切な縁を切ります。


 慢心≒劣等感、慢心は劣等感の裏返しです。そして劣等感の根底にあるものは死に対する恐怖です。今死ぬことが全く気にならず、恐怖が克服できる人生を生きていたら、誰と比べることもなく、よって自惚れることもなく淡々と人生を謳歌できます。死に対する障りがないのが一番です。


 慢心がどこから来るのかそれを深く考えると死の不安の解決へと行くのですが、あまりにも、突飛なことにも感じられるし、少し深く考えないと分からないでしょう。

感謝していること
 死の不安が全く無くなり、諂うことも驕ることもなく生きられるのは嬉しいです。こんなことを書くと傲慢だと思われるかもしれませんが、まあいいです。不思議で有難い世界を早く体験してください。


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ハンマーで頭を打たれた如くのきづきー死の解決の話は私がするという心意気・自負ー

2018/01/18 12:39
 昨日は講義の中である学生の方の話を聴きました。その方は昨年の初夏にお母さまを亡くされたとのことでした。最後までお父さまと回復のためのいろいろな試みをされたのだけれど、それが本当にお母さまの為になったのだろうかと後悔の念が込み上げてくると悲しそうに仰いました。

 人間が本当に人間らしく生きられるのは、人間は必ず死ぬ存在であると頭だけではなく実感できてからです。それが物心ついた赤ん坊の時なのか、100歳近くになって肉体が老衰で死ぬ間際なのかはひとそれぞれです。

 私は本当に幼児にもなっていない頃から、自分の死のことばかり考えて生きてきました。今死んだらどうなるのだろうか、どこへ行くのだろうかと。何を食べてもおいしくない、誰といても嬉しくない、スポーツなどで得られる肉体的な快感も空しく、お金も名声も何も欲しくありませんでした。誰かから褒められても、自分以外の誰かのことのようにしか聞こえないので、慶ぶこともできずにいました。どうせ最後には焼かれていくこの身体、お金や財産がどれだけあっても、それを使い切って死ぬことは出来ないし、だれかこのひとのために使いたいという人もいない。味気ない消極的で、波のまにまに漂うクラゲのような生き方をしていました。

ところが9年前、何の不思議か死の不安が全くなくなる有難い体験が出来ました。私は浄土真宗の話を何十年も聞いていて、やっと自力である阿弥陀仏を疑う心が晴れて全く無くなり、他力を仰ぎ、賜り、よろこぶ身にさせていただきました。それからは御恩報謝の気持ちが常に湧き出てくるので、毎日有縁の方々に話をしたり、文章を書いてブログなどに投稿する日々が続きました。

 それでもご縁は限られるので、カウンセラーや保育士・幼稚園・小学校の教師などの資格も取ってみました。筆跡診断やカラーセラピーやワークショップなどよく分からないくらいいろいろ資格を取得しました。これも全て、死の解決をほかのひとにもしてもらう縁になってもらえたらという気持ちからです。今は、学会で発表し、論文に残そうと修士課程を終え、出身校の博士課程に転入して博論と格闘する毎日です。

 やっと、意気揚々と生きられるようになったのに、それでも、昔からの内向的な性格はなかなか変わらず、思い切っていろいろなことが出来ずにいました。自信がないし、自分の可能性に底を敷く癖はなかなか治りませんでした。

 そんな毎日の中、報恩講でご縁があった方のお話を聴き、自分しかできないことがあることにきがつきました。死の解決の話は、ずっとそのこと一つで生きてきた私がする使命を持っているとわかりました。昨日の学友の話も私が出来ることをして差し上げたらいいのだと。私には知識も文章力も話力も才能など何もないのだけれど、それでも死の解決をした体験や解決をする話が出来ます。自分の通って来た道というのもあります。


 加えて、心理学やカウンセリングや教師の学びの過程で、ひとの話を聴き、適切に応えられる訓練を重ねてきました。英語もアカデミックなものでないなら通じるし、共感し合えます。ワークショップ形式で講義をするつもりなので、それでいいんじゃないかと思います。残すのは博論や書籍くらいで構いません。英語はネイティブの誰かに翻訳してもらえたらそれでいいです。話を残したいなら機械や誰かに記録してもらったらいいし。


 死の問題が既に解決している私には御恩報謝、バイタティ、失敗を恐れない勇気、誰にも物怖じしないでしっかり向き合える、明るく気さくなサッパリした態度などいろいろ誇れることがあることにきづきました。何よりも、心意気だけはしっかり私の中にあります。


 論文も従来のフォーマットではなくても、論が展開できていて、分かり易く書けているところを評価しているところに査読してもらい、さっさと書き上げて、修了し、世界で私を待っている人のところに行きます。論文は何箇所か書いて欲しいというオファーがあるので今まで書いたものを修正するか、新しいものを書いて早急に出す所存です。

感謝していること
 自分の出来ない所を探すより、自分が出来ることを活かして、全ての人にやって来る死の解決の話を面談や文章で書いていく決意を改めてしました。学友に感謝します。

 

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報恩講・御示談・御恩報謝・信心決定

2018/01/17 09:11
 先週末は某所の報恩講に参詣しました。報恩講のご縁に遇うのは10年ぶりです。 そして夜は若い僧侶の方の少人数御示談もご一緒できました。

元某真宗系団体の講師や福井支部会員であった親子ともお会いでき懐かしく何とも言えない気持ちでした。いつもfbでお話しさせていただいていたお若い僧侶の方々とも直接初めてお目にかかれました。これからが楽しみですね。元会員で一生懸命信心の話をしていた福井の元会員さんの今月亡くなられたのは訃報を聞きとも残念でした。私は残り少ない人生で、これから何が出来るのかと今考えております。


 話は変わりますが、浄土真宗の僧侶で「真仮の水際」を分かって対機説法が出来る人はどれくらいおられるのでしょうか?私は9年前の1月9日に疑情が晴れてからずっと信心の話をしてまいりました。毎日沙汰を電話で3時間ほど、半年くらい、インターネットでは文章を毎日書き続けたところ、次の年の夏ごろ同じように疑情が晴れた瞬間をお話ししていた人との電話で知りました。対面では自宅で沙汰をしていて、お話ししていた人の様子がふっと変わったのを確認できたのがその数週間後でした。それからは面談やスカイプや電話の声などでその瞬間を何例も立ち会ってきました。


 中には救われても、一週間、一ヶ月と自分では気が付かない人もいました。私にはハッキリわかったので不思議な感じでした。夜の御示談でご縁のあった方がそのようなタイプだったようです。お話しくださった方に「よくここまで求められました」と言われたらしいのですが、自分ではそれがずっと信じられなかったらしいのです。福井の元会員さんのお母さんも17年救われていることにきがつかなかったし、御示談でご一緒した僧侶の方も10年くらい、きがつかなかったと言われていました。欧州の友だちも私と英語でチャットして、自分の信心を追認したと言っていました。

 私は本当に鮮やかでハッキリした体験だったので疑いようもなかったので不思議です。真宗カウンセリングの西光義敞さんが本に少し書かれていたような感じでした。炊いたご飯やイモがもとに戻らないのと同じように疑いも全く消え、御恩報謝の気持ちは相続しております。

某真宗系団体でも実は救われているけれど、頑なにそうではないと思い込んでいる人がお話しくださった方の外にもたくさんいるかもしれないので、そういう人に話をして欲しいと言われました。ご縁があればそのようにさせていただけたらと存じます。

 真宗カウンセリングは身調べだと私は解釈していました。今でも本来はそうあるべきで、信心の沙汰といってもいいですが、疑情が晴れたか否かを調べるもの、晴らしていただくところまでの対話の手段と捉えています。自分自身が通って来た道なので、目の前の後生の一大事に驚きが立っている方が、どういう気持ちなのかは痛いほどわかりますし、話していて、何を次にいったらいいのかも30年の聞法と9年間の沙汰の研鑽ほぼ分かります。

阿弥陀仏とバトンタッチするタイミングも分かります。

 でも私の実践部分は論文には書きません。博論はあくまで単なる通過点です。その後の論文には好きなように書けたらと思います。論文もですが書籍で書きます。これからどのように私が御恩報謝して生きていくのかは、論文を書く過程や、いろいろ実践しながら決めていこうと存じます。みなさまからも、何かこんなことをしたらいいというものがあればご教示いただけたら幸いです。

 信心のハッキリ定まった若い僧侶の方々、元某真宗系団体の方々には対機説法、信心の沙汰をどんどんして欲しいと願っております。僧侶の中には信心調べ、身調べ、信心の沙汰が出来る人はいないのでしょうか。それもかねてから疑問に思っていることです。また機会があればどなたかそのことについて教えてください。

 いろいろ知らされたことがありましたが、元の代表者の奥様にまたお目にかかれたことが一番嬉しいです。本当に光に包まれお優しい素敵な方です。毎月の勉強会にも来られて、にこにこしながら聞いておいでです。母と同じくらいの年代で、お健やかな長寿をお念じ申し上げます。

感謝していること
 心が震えるようなことを時々体験させていただきます。これも人間界の楽しみ、醍醐味であると有難く感謝いたします。







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他力のひとの温かさ

2018/01/15 13:04
 特に女性は何とも言えない温かく柔らかく優しい感覚が周りを包み込みます。年齢を重ねるごとにその輝きは増していきます。自身の母親の年代の80以上の方々を拝見すると、仏様の生まれ変わりではないかというくらいいろいろ雑なものがこそげ落ちて、シンプルで素晴らしいお姿です。
 ただフワフワしただけではなく、他力の確固とした強さをどこかに隠し持った包容力は何にも比べることは出来なくて、ついふらふらと引き寄せられてしまいます。
 特に用事が無くてもそばにおりたい、それほど居心地がいいのです。
 一度味をしめたら二度と離れたくない感じでしょうか。
 「朝起きたら芸能人の○○と一緒!」などといって、外見のみの美しさを羨ましがるのとは次元が違います。
 これを蓮如上人は「触光柔和」と表現されました。真実の光の中でたおやかで穏やかな生き方をされている方々を未熟者の私は見習わせていただきたく存じます。
感謝していること
 温かいひとには憧れます。自身が冷たい人間なので本当にお側にいさせていただくだけで嬉しくなってしまいます。
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誰かと上手くやっていくには親族・姻族も含めて、常に細心の気遣いを欠かさない

2018/01/15 11:44
 慣れ合って相手の気になることでも好きに言い合い、だらしのない仕草を見せることにも恥じらいを感じられなくなったら、それは相手を舐めていると私には感じられます。親でも子でも関係ありません。真摯な態度でお互いが尊敬の念を持っていけなくなったらお終いです。
 
 本当に心を許せるのは人間を超えた真理そのものだけと感じます。私はそれでいいんじゃないかと割り切っています。別に私は何もして欲しくないので、どうせなら大切で大事で大好きな人たちに気を遣いまくって残りの人生を終えていきたいです。
 
 苦手な人や攻撃してくる人やる気を奪い取られる人など自分からは何もしてあげられそうもない人に対しては、黙って距離を置くのがいいのかもしれません。向こうも私を見るとイラッとするでしょうし。それがお互いの為のような気がします。

感謝していること
 何の気兼ねもなくまかせられる存在があるのは不思議で有難いです。
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ある種の冷たさが平和をもたらす意味〜誰かに愛を叫ぶと同時に、諍い続ける非合理性〜

2018/01/15 11:19
 いつも感じます。私は冷たい人間だと。誰かもしくは何かの集まりに対して、無理だと感じたら、迷いなく即座に関わらない、フェィドアウトもしくはソフトランディングします。

もちろん、自分が壊れやすく感じやすいたちだと知っていることもあります。その一方で、私自身はとても堅固なものに護られているので、本当は大丈夫という自信もあります。ただ、時と場合、あるいは個々の関わりに置いて、冷たく距離を置くことのほうが、無理やり愛を叫んで、歩み寄り、その結果争いを続けることよりも平和を保つには余程有用であると感じるので、無理やり自身のキャラではないまわりに熱く愛を語り、放出することは避けて、淡々とクールに装い生きています。  それで、何か気が付く人がいたらそれでいいし、聞いてくる人があればもちろん応えます。心に寄り添うようにいたします。でも本人がその気にならなければ、私には何もできないというスタンスです。

感謝していること
とりあえず、私の周りは平和に推移しております。有難いです。


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無償・無条件の愛と条件付きの愛の違い

2018/01/15 10:32
 前者は真理との邂逅に近いもので、後者は人間の煩悩の愛のような気がします。

 真理もしくは超自然的な人知に上らないものは無償で見返りも求めないで、ただそこに愛が存在します。人間の愛は求め合っても同等ということもなく、常に不満が付きまといます。ああだから、こうだからと条件を付けなければ愛せないのです。親の愛といっても完全に無償とか条件がない関係は、最近ではあまり見られなくなったのかもしれません。

 ただただ愛おしい、無償で条件のない愛情を与えられる立場にあり、ふんだんに注げたらいいのに、三次元の人間の入れ物をもってしては限界があるので、無償・無条件の愛は難しいのかもしれません。ただ、それに近づけるような努力はしてまいりましたが、これからもさせていただく所存です。

感謝していること

 9年前のあの時からずっと私は無償・無条件の慈愛の光に包まれていて、特に何も欲しくもないです。文章が上手く書けたり、ほかのひとに分かりやすくお話しできる能力があればとだけ願います。


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あなたはこうなりたかったんですよね

2018/01/15 10:27
 自分がそうなりたいと考えていたこと以上のことを用意していてくれる方がいたとしたらどんな気持ちでしょうか。世間のことでも、自分が願っていたことを、こうなったらいいと口に出したこともないのに何故か分ってくれていて、「さあどうぞ」とあとは自分が受取るだけにしてくれたら、嬉しくて仕方がないでしょう。

まさしく、これが欲しかったというものを遥かに超えた用意されたものを手に入れたとき、夢じゃないかと天にも昇る気持ちになるでしょう。

 真理との邂逅が私にとっては、まさにそれでした。

同じような体験をしていただけたらと存じます。また、世間的なことでも、これが欲しかった、こうして欲しかったというサプライズの何かを沢山受取って欲しいです。

 蓄えてきたいろいろなものはきっと使い切れないうちに死んでいかないとならないでしょうから、必要としている人に差し上げることが出来たら嬉しいです。

感謝していること
死の解決が出来こと、それだけで外に何も別に要らないです。不思議で有難いです。


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それは、ただ、「あなただから」・・・・・・

2018/01/14 08:33
 なぜ、私が好きなのでしょうか。私と付き合っているもしくは結婚したのでしょうか?
 この問いに対して、ただ他でもない「あなただから」とだけ私なら言われたいです。
 複数の友だちがパートナーに尋ねたところ、いろいろな答えが返って来たそうです。

 「容姿がドストライクだったから」

 「家事が得意だから」

 「趣味に嵌っていても、放って置いてくれるから」

 「いつもにこにこしていて、機嫌がいいから」

 「誰にでも優しく、裏表がないから」

 「情緒が安定していて、めったに怒らないから」

 「包容力があって、甘やかしてくれるから」

 「将来、あなたのいない人生など考えられないから」

  容姿とか口にされても何だかなぁって感じです。嫌を通り越して、私はアクセサリーなの?という疑問符が付きます。家事の負担を軽減させるために暮らすのも違うと思う。趣味に凝るのも程度があるし、いい大人なならいい加減にして欲しい。いつも「笑って機嫌よくいられるかどうかは、お互いの努力もあるし。裏表がないのはいいけど、誰にでも優しいのはそれほど好かれていない可能性がある。包容力は両者にないとどちらかがもたれかかられるとしんどい。相手がいてもいなくても一人でよろこべるような人生を送っている人の方がいい。

 ただ「あなただから」、ただ、「あなたが愛おしいから」それだけがいいです。
 これは佛さまが私を大切に憶われるのと同じ気がします。

感謝していること
 佛さまに護られているのは何にくらべても、安心できます。不思議で有難いです。


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「救われていても10年以上きづかないことがあるなんて」

2018/01/14 08:28
 一週間や一ヶ月きがつかなかった例は知っていました。私がお話しさせていただいた人たちの中にいました。10年以上というのは本当に驚きました。それほど善知識や信心を賜った同行に遇うことは難しいのでしょう。今日そんな話を聞いた後、座談会が終わったとき、実は私もそうだったときがつかせていただいたという話を聞いて、またびっくりでした。それというのも、私自身がもう二度と間違わないというくらいハッキリした真仮の水際が立っていたからです。

 一味の信心に救われたひとが少ないのと、そういう人の中でもゆっくり話を聞いてくれる人が又少ないので、救われていても本当にそうなのか確信が出来ないでいるひとがたくさんいるようです。だから、そんなひとたちのために話をしてあげて欲しいと言われました。

感謝していること
新たな私の使命を発見できた気がしました。有難いです。


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まず自分自身にきちんと向き合い、優しく幸せでいられるのが大切

2018/01/09 22:48
 ずっとほかの誰かが幸せにしてくれるとか思ったことはありませんでした。
今も誰かに幸せにしてもらおうとは思っていません。
 仏さま以外の誰かに全てうちまかせることはこの先もないでしょう。

 それでも、仏さまじゃない周りの人たちが示してくださる、ちょっとした思い遣りが徐々にではありますが、以前よりも信じられないくらい嬉しく感じ、受け止められるようになりました。それで充分です。何かものをいただくようなことも嬉しいですが、御声掛けや仕草やほかのいろいろなところでのお心遣いの些細なことがよく分かるようになり、それを受け止めることのできる自分に対して感動の連続です。

私は私に生まれて、私でいられることで十分幸せです。

 私は御仏が心より慈しみ大切にして下さる私が大好きです。

 それだけでいいんじゃないかと感じます。

 もっともっと自分に優しくなり幸せでい続けます。

 感謝していること
米国から集中講義においでくださった先生が一生懸命お話ししてくださいます。有難く感謝しております。


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本当に大事で大切ひとにはよろこんで思い遣れる

2018/01/07 10:51
大事で大切なひとには、ちょっとでも快適な気持ちになって欲しくて、一つ一つの言動にこれ以上できないくらい心を配っている自分がいます。世間でいう、「親しき仲にも礼儀あり」というような「べきとか義務」とは明らかに違います。知らず知らずのうちに、礼儀や思い遣りの自分の手元にある最高級品を提示しています。ただし、商いとは全く性質を異にして、それは無償で見返りなどいらないものです。無理して嫌々何かをするから、歪が生じて、疲れたり、愚痴が出たりします。

 人生は、本当に大事で大切なひとと共によろこんで、ただそこにある慈愛をよりよく感じられるような言動、もしくは、ただ一緒にいることを楽しむ時間だと私は捉えています。それが具現化できるようなら、どんな言動の工夫も楽しみに変わります。

感謝していること
 どんな時も、自分の意思で人生をより豊かに味わえるように出来るようになったのは、有難いと感謝しております。


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誰かを何よりもただ愛おしんで生きる人と、自我を満たすのみが生甲斐な人は決して相容れない

2018/01/06 21:58
 誰かを「何よりもただ愛おしい」と感じられるのは、もちろん自分を同様に受容できていることの上に成り立ちます。「自我を満たすことのみ」が生き甲斐な人は自分も他人も「何よりもただ愛おしい」と感じられた瞬間を今までも、おそらくこれからも持つことはないのでしょう。両者の関係は平行線で交わることはありません

 ただ、自我を満たしても幸せになれないのではないかと何かのきっかけ疑問が起り、変わろうと決意できて、血の滲むような努力が出来たら奇跡が起こることも絶対ないとは言えません。それが心地よいと感じてきて、言いなりになる相手がいるにもかかわらず、自分が我慢してでも、競争して勝つことで自我を満たしたり、威張ったり意地悪したりして他人の気持ちを翻弄するのを我慢したり止めようと決意することは、大切な人に出合えたなどの理由かもしれません。これは本人の問題なのでどうすることもできません。

感謝していること
 長年関わってきたモラハラ研究で、その原因が自己愛性人格障害によることが大きいのではないかと理屈で納得できたのが何だか嬉しいです。誰かが証明しているかもしれませんが、私自身、最近、ストンと心に落ちました。たぶん、巧みに仕掛けられたワナがあっても、見抜けるようになっていて、二度とそこには近づかない気がします。





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嘘をついても責めないでいてくれるひとのために正直に生きてみる

2018/01/05 20:07
 嘘をついたら信頼関係はその時点で壊れます。本来なら、二度と相手にしてもらえません。それでも責めないでいてくれるのは佛さまのような尊い方や教師や両親や祖父母などの肉親や人間の出来た妻や夫や恋人・友だちなどです。そういうひとが周りにいるのなら、一度や二度は嘘をついてしまって許してもらっても、徐々に甘えから脱却していきましょう。甘えが許されるのは義務教育までです。それ以降は大人としてみなされます。

 また、もし自分が嘘をつかれる立場になったら、どんな感じになるか想像してください。そして、過去に嘘をつかれた時の誰かの悲しそうな様子や心情を思い浮かべ、嘘をつくのは止めて正直に生きる決意をしましょう。

 真摯に嘘のない生き方をするのは、誰のためでもなく自分自身のためです。自分が自分を好きでいられるためです。嘘は自分で自分の首を絞めます。どんどん自分が嫌いになっていきます。自分を嫌っているひととは誰も一緒にいたくありませんので、孤独になっていきます。一人ぼっちなったときに初めて、自分が甘えて嘘をついたことやそれを許してもらっていたことにきがつきますが、みんな離れていってしまっています。

 唯一、離れて行かれない方を除いて。それでは寂しすぎるので、そうなる前に嘘のない誠実な言動をお互い心掛けてまいりましょう。欠点を改め合うというよりも、嘘を無くして、思い遣りのある本音の素直な生き方をしていきましょう。

感謝していること
 一つ嘘をつくと、その嘘を隠すためにずっと嘘をつき続けなければなりません。そうなる前に正直に素直に生きることをいろいろな方から身を以て教えていただけたことに有難く感謝します。


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言葉で表現できないけど嫌だった感覚の正体にきづいた過程

2018/01/04 22:07
 幸せな気分を味わうのに言葉は要らないです。

 ただ、ああ〜と感じるだけ。
 反対に不幸せな気分になるとき、自分以外の誰かの意地悪な言葉がそこにあります。

 その不快さを今まで言語化できなかったせいで、私は度々場面緘黙状態になりました。嫌な人とはなるべく一緒にいないようにしても、それが何らかの理由で避けられない時、自分自身が言葉を発することがなければ、何か嫌なことや酷いことを言われる回数がどんどん減ってきます。そして、目標は嫌な人と関りを断ち、相手にもされないことです。このように、言葉は人をそれほど幸せにはしませんが、不幸にすると私は実感を通して感じています。

 嫌な感覚の正体は自分を守り、イイ人、素晴らしい人、立派な人、私より賢く頭のいい人に見せかけようとする狭窄な心が感じられる立ち回りです。その演技性がどうしようもなく目や鼻について、心をナイフでぐりぐりえぐられるような感覚を覚えました。そこまで自分に自信がないの?私なんかに勝ってどうするの?仲良くできたらそれでいいんじゃない?

 ひととひとは共生して生きられたら、何の嫌さもないです。譲り合って、分かち合って、気持ちよく感じることが出来るような営みを続ける生き方を追求したらいいだけです。でもそれは難しいとされています。それは嘘だと私は知っています。自我を満足させるためのノウハウを子どもたちに押し付ける大人を止めたらいいだけです。優しさと思い遣りだけを実践して子どもたちに見せたらいいだけです。簡単なことです。

 生存学・障害学などという学問分野があります。そういうところで研究し、論文を書き学会発表をしている研究者に問いたいです。「他人にそして自分自身に優しく思い遣りのある内容の研究がベースにありますか」と。私は今の大学院でご一緒させていただいているある研究者をとても尊敬しています。文章力・語学力などの能力の点で優れているのは当然として、その上に、自分やほかのひとを幸福にする研究をずっと続けているからです。お話しされる一つ一つの言葉に重みがあり、謙虚で優しさに満ち溢れています。

 嫌だった何かに私が今、だんだんきづいてきたのは、その方自身、ご自分が体験した嫌だったことを例に陰に陽に私に分かり易く教えてくださったからだと感じます。嫌だったときどうするかお尋ねすると、「泣く、自分に対してキーとなる、許せない」という言葉が返ってきました。私は自分を抑える質なので、嫌なことを隠蔽し、誤魔化して生きてきたのだといつも新鮮な驚きを感じました。私のつまらない螺旋状の質問に付き合って丁寧に教えていただけたので、だんだんにどういう方向で自分の研究を進めてったらいいか可視化された気がします。有難いことです。

感謝していること
 素晴らしい方とは思いがけない場所で出会えるものだと感謝しております。


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自我もしくは自己愛が満たされた状態を幸福と感じる人は他人を不幸にする

2018/01/04 20:00
 自分のことしか考えられないということは、言い方を変えると他人の持っている何かを剥奪することに終始するということです。他人を見る時は、自分に役立つ何かをその人から搾取できるものを捜しています。自分が相手の為に何かしたいとかあげたいとかいう発想はありません。常に自分が満たされたい、そうするにはどうしたらいいかと考えます。出来るならば、そういう相手とは、距離を置いた方が幸せな気分を邪魔されなくて済みます。


 仏教説話に地獄極楽の食事風景のたとえがあります。
 テーブルにはご馳走が並んでいて、向かい合わせに横並びで人々がいるのですが、食事で使えるのは長い箸のみです。地獄の住人はその箸で食物をつかんで自分の口に入れようとするのですが、箸が長すぎて口に入ることはありません。極楽の住人達は食物を箸でつかんでは、それが届く人の口に持って行き食べさせます。皆が楽しく食事が出来ます。

同じ条件ですが、自分が自分がと我利我利の心でいるのと自利利他の精神を駆使するのでは受ける結果に大きな違いがあります。

誰かの為に何かをしたいと本気でおもえて実践したときが、人は幸せになる方法の糸口をつかめたときなのかもしれません。これはそんなに難しいことでしょうか。そうでもない気がします。赤ん坊が周りの人たちに笑いかける、小さい子どもが重い荷物を持とうとする、役に立つ知識をつっかえながら説明してくれる。こんな場面に私は幾度となく遭遇しました。大人のひとたちに私はもっともっと助けてもらって幸福の中で生きています。程度の差はあれ、色々な言動で幸な気分を味わわせていただいています。その広大な御恩を少しでもお返しできたらと私のできることで誰かの為に何かをさせていただいております。ときには敢えて何もしないということもしていますが、それはまた別の機会に。

感謝していること
お蔭さまという言葉は時間の経過で熟成されるように感じます。私自身も誰かによろこんでいただけたら幸いです。


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人間そのものとしての在り方の障害〜幸せ基準で生きられない障害〜

2018/01/04 11:18
 幸せな感覚を味わえない人がいることに昨年は驚きました。

 今年はそれらの人たちが何を基準に生きているか研究追求していきます。

 人間として生きることは共に幸福を感じられるように共感し合い、助け合い、心を通わせ合う場面設定です。全てに「合う」という言葉が含まれます。

  やっと人間そのものとしての在り方に対して障害が生じる原因となるキーワードが判明しました。

 「自我(自己愛)」

  これが満たされるかどうかだけを悦びとする人たちが、その瞬間、瞬間で自我が満たされるかどうかで生きていることが人間の在り方を歪めます。自我を満たすことが他人の不幸の上に成り立っていようとお構いなしで生きるひとたちの為に苦しむことはないのです。このことが分かりました。

  

 そう自己愛性人格障害をもつ彼らは、「幸せ基準」では生きていません。彼らの生き方は「幸せ」でも「不幸」でもないのです。以下の二つのことをし続けることで生き延びます。

@自我が満たされるか否か、自己満足の世界なのです。彼らは自己肯定感が信じられないほど低く、みっともない自分を晒したくないし、恥をかきたくないので、極端に価値のある自分を他人に見せることを基準に生きています。

すなわち「恥から逃げる脳内変換」=「モラハラ」です。

Aただ、ずっと価値のあるいい人を演じ続けるのは疲れるので、同時に自分に逆らわない、攻撃してこない捕食対象の人物に対して虐待し続けなければ生きていけません。


自己愛性人格障害者の捕食対象者(被害者)から抜ける方法があります。これが出来たら、少なくとも世界が変わります。彼らの悪魔的常套手段である誤魔化・すり替えの理論にノーを突きつけることです。

「自分もこういうところがよくないが、お前のこういうところの方が余計悪い」

「これはこれ」「それはそれ」という考え方を徹底的に身に着けることが最大の防御です。

しっかり自分がされて嫌だったことと、相手の嫌だという言い分を分けて、同時に比較衡量することを避けます。同時に威嚇的に言われると

「確かに自分の方が悪いかも」

 気が弱い被害者はいつも押し切られて、自分を責めることになります。

 今、嫌がらせを受けて嫌だと言っているのに、過去にした過ちを出されて、だからお互いさまとか、むしろお前の方が悪いといわれても、それは全く別の話だとキッパリ言い切ることが出来たら、モラハラの被害から抜けられるかなり有効な第一歩です。

ただ一点考えなくてはならないこともあります。人生の在り方を慈愛や幸福で捉えるひとと自己愛を満たすことのみが基準であるひとにはおおよそ接点はないように感じられますが、自己愛性人格障害を持つ人も元々そんな生き方をしていた訳ではないのかもしれません。今生か過去世のいつかわかりませんが、何らかのきっかけで、自己愛を満たす生き方をするようになってしまったのかもしれません。それは確かに気の毒ですが、本人が気づくしか変われる方法はありません。

 もし家族や大切に感じられる人が自己愛性人格障害であるなら、次のように彼らが感じられるように言葉でも行動でもいいので教えてあげてください。

 「確かに自分の方が悪いのかな?」

 そういう疑問が出て、だんだんに、可愛そうだ、気の毒だ、愛しているから自分の元を去られるより、惨めでみっともなくてありふれてるけど、いっしょに幸せでいたいと望んでいる自分を見せて、共に幸せな気分を味わい合う気にさせたらこんなにいいことはありません。

まずは、「これはこれ」「それはそれ」ということを徹底的に示すことです。

「いまここで、私は辛い気持ちでいる。幸せを感じられない。私は幸せに生きていたいので、あなたに私の幸せを奪われたくない、だからあなたの言い分を受け入れるわけにはいかない、あなたが変わらない限りわたしはあなたとは関われない」と表明しましょう。

 まだまだ私の研究は続けていきます。今日はこれまでにします。

感謝していること
 弱い立場の人は論理的で効果的な言葉を発することを諦めて、諾々とモラハラにしたがってしまいます。私はサバイバーとしてモラハラに対処する言葉や理論を研究追求していこうと決意しました。全ての人が幸福を味わって生きてもらいたいと願っているのだということにきがついたことに感謝します。


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いじめ・ハラスメントを受ける側にも非があると反省をさせるひとたちへ

2018/01/03 14:10
 確かに、いじめ・ハラスメントを受ける側にも原因はあります。

 暗い・自分勝手・意地悪・貧しい・不潔・どもる・屈折した性格・おたく趣味がある異性愛者ではない等々挙げていけば限がありません。いわゆる勝ち組といわれる人たちからみると持たざる、劣ると見なされる人たちなのでしょう。

 でも、これらの特徴が誰かにみられたとしても、それを理由に攻撃してもいいという理屈は通らないし、屁理屈を通り超した他人を死の淵に追いやる危険な考え方です。




 自分と合うひとばかりが世の中に存在するわけではありません。違って当たり前です。ここを出発点として始めましょう。その上で、合う合わないがありますが、合わないひとは遠目に見ていて、なるべく関わらないように近づかないこともできます。親切心から、こうした方がいいと言いたい気持ちも抑えて、放置することも可能です。そういう不作為の演技も大人の感覚を持つ人たちはスマートにこなします。




相手が近づいてきて、助けて欲しいと言われたら、助けられる立場や能力があるなら、話をよく聞き、出来ることはさせていただきます。宗教家・教師としての私はこういうスタンスを取っています。教育は人格の涵養であると常々心に言い聞かせています。何か言ったり指示したりすることも求められればしますが、それ以外はただ待っていることくらいしかできません。誰かがして欲しいことで私が出来ることと一致したことなら何でもさせていただきたいですが、それ以外は相手の成長を妨げることになるので出来る限りしないことにしています。




 大声を出したり、相手をけん制して威張ったりするのが苦手で、言葉を飲み込み、話も出来なくなる私は、誰かを直接非難したり、罵倒することに脅威を覚えます。無神経な感覚を忌み嫌います。繊細というより、嫌な気持ちを散々味わってきたので、誰かが同じ感覚を味わう痛みをみるのは辛いです。粗雑で洗練されていない感覚の人たちに対して嫌悪感を抱きます。私と同じような感覚を持つ人たちに対してナイーブという言葉で片付けられたくはありません。茶化されたくもありません。みっともなくて、恥ずかしくて、思うようにならない境遇でも、いつだって前を向いて真剣に生きていることを馬鹿にされたくはありません。

 

 能力に乏しいことは十分承知していますが、ひとの苦しみ痛み悲しみをあらゆる表現方法で描いていくことを今後の使命の一つに加えようと決意しました。




感謝していること

 誰かを馬鹿にして嗤うことは哀しいときづくのは、たぶん、本当に心から安心満足して満たされた気持ちになったときなのだと知らされたことに有難く感謝します。


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スピリチュアル+五感で十分味わう体験は一生涯いつでも何度でも甦る

2018/01/03 11:27
 人間という入れ物を持っているから感覚として体験できることは、特権というか醍醐味でしょう。有難く不思議です。
 
日々やって来ることをこなすのに忙しくしていませんか。
ただ食べたり飲んだりして、余った時間に生活を維持するために働く、そんな人生を見直しませんか。衣食住を満たすための人生はとても勿体ないです。競争や諍いで人間同士威張り、傷つけ合うのも止めませんか。
 
今後は人生で自身にやってくる、慶ばしきこと楽しきこと憂きことも悲しきことも十分味わう生き方をしませんか。
 
 ひととして生きてきて、私には忘れられない記憶があります。
今生の最大の課題であった生死をのり超えたときの、真っ暗に落ち込んだ心が急に晴れた感覚は鮮明に甦ります。ただそこに明るく優しく安心満足できる時間と空間だけがあることを信知できた感覚も鮮やかに心の奥深く留められ、いつでも取り出せます。このような理由から、十分に私の今生の目的は果たせた気がしています。

残りの人生はそれらの記憶のうち、それを欲している現在と未来の有縁の人たちと共有していく所存です。そのために、出来るだけ分かり易く、自身の能力を駆使して、様々な媒体で描き、話し、または黙って傍に寄り添い伝えていきます。

感謝していること
本当に辛くて何度死んでしまおうかと考えました。いまだに生きていられるのは、何の不思議か、人生はまんざらでもないかと感じられることを体験ができたからです。有縁の方々とそれをシェア出来たら幸いです。
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宗教家・教員(先生・教師)もしくは物書きの役目

2018/01/02 11:34
 宗教家はもちろん、他のひとたちに何かを伝える立場の者は、自分の関わるひとや学生や読者の苦しみに寄り添い、苦渋のモヤモヤした気持ちを吸い取り、歓喜に変えるのが一義的存在価値だと私は理解しております。
誰かに何かを教える人や描く人は、自分が偉いのではありません。そこのところを間違ったら大変なことになります。

 大きく間違っているので周りの人や学生が迷惑し、読者にそっぽを向かれるのです。しかるべき仕事をこなしていたら、それなりの評価は得られます。それ以上に何か出来ることはないかと考えるなら、徹底的に謙虚になることです。謙虚になれないのは、慢心と無知がなせる業です。


所詮、人間の出来ることなどたかが知れているし、大したことはありません。本当に、素晴らしい人なら誰かに雇われる教師稼業などしなくても周りの人に引き立てられ、恵まれた暮らしが出来ているはずです。物書きにしてもしかりです。それが出来ていないのは、大した仕事が出来ていないからだと反省しなくてはなりません。


 誰かに何かを伝えるというたいそうなことは要りません。自身が経験したり学んだことの中で、苦しいことを苦しいと、嫌なことを嫌だと認められない人たちの代わりに、そこから変わるにはこういう考え方をして、こういう方向に向かえばいいと教えたらいいのです。それを書きとめて、本や論文にしたり、講義をしたり、ワークショップでシャアするのが仕事です。書いたものや語ることは決して自身の自慢ではなくて、全て参加して聞く人、読む人のためのものでなければならないのです。ここのところを大きく間違っている学者や作家先生といわれる人たちを多く見ます。嘆かわしいことですし、悲しく、時間の無駄であり、人類の発展を逆行し、一人一人の心に何も残しません。

 ひとの生きている意味や仕事とは、真理との邂逅を果たすことです。そのために、先に真理に目覚めたものたちが、真理を目指して、自身が生きていて受けた喜怒哀楽を回りや後身と共有し伝えて、より真理に向かえるような方向にみなと共に向かうことです。

 中途半端な教師や物書きより、まだ、宗教家や占い師やきちんとした仕事の出来るカウンセラーの方がましです。自分を後回しにし、ただ来訪者の心に寄り添い、前向きで明るくなれることを伝えます。こんなことを書くと、そんな奴らと一緒くたにするなとか、自分のやっていることは高尚なことだとうそぶく輩もあるでしょうが、それは図星を指摘された負け惜しみです。悔しかったら、多くの人を感心させ、感動させ、生き方を前向きで楽しく変換させるような仕事をしたらいいだけです。それも出来ないくせに他の職業を批判し、非難する資格はありません。

以上、かなり辛口のことを述べましたが、自分自身も常に自戒していくために書きました。

感謝していること
生きる目的意味をしらないでひとを指導したり物を書くことが、どんなに無意味で時間を奪っているか知らされたことに有難く感謝します。

 


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他人の生命・自由を銃やナイフやお金で奪う考えを捨てましょう

2018/01/01 23:57
 人間と人間の間に上下関係は有りません。

 それぞれ尊い一つのスピリチュアルな存在です。

 人間を殺すための銃やナイフを手にすることは止めませんか。

 たとえシュミレーションやゲームだとしてもボタンを押さない決断をしましょう。


 戦争も軍隊も家庭内のDVの拡大版です。

 他人の命を奪ってまで、自分が得られる利益がありますか。

 徴兵まだ止めていない国はたくさんあります。それは20世紀までの無用の長物を引きずっている気がします。何のための学問や科学の進歩なのでしょうか。平和や個々人の幸福や温かさを感じられることの為に殺人は不要です。そんなこともわからないのでしょうか。

 銃は玩具ではありません。殺人用に作られています。もし人を殺す発想がなければそんなものを作るのは時間とお金の無駄です。戦うという概念がなければ、徴兵も無用です。

 お隣の韓国やほかでも徴兵がありますが、帰ってきてDVやデートDVで被害に遭う女性が後を絶ちません。殺される人もあります。それはそうです。殺人の練習に行って帰ってきた人たちが市中に野放しにされるのですから。危険極まりない状況です。少し考えたらわかることです。

 どうか、仕方なく徴兵の義務を果たしている人は、はじめて引き金を引いた時のことをしっかり心に留めて、ずっと期間を過ごしてください。毎回、武器を手にすることに対して痛みを感じつつ、任務を遂行し終えたら、二度と自分と同じような気持ちになる若者がいなくなるような社会活動や宗教活動で戦争のない世の中を構築することを目指してください。自分が嫌なこと耐えられないことを誰かに力づくでさせることの理不尽さ恐怖を身に沁みた人こそが、真に平和や慈愛を語り、その方向に人々を導けます。一人一人の力は小さいですが、声を上げることは出来ます。

 ひとは力ではなく縁と優しさで動きます。縁があれば優しさを共有できるなら望むような麗しい日々を過ごせます。

 感謝していること
穏やかな新年を迎えることができとても有難く感謝しております。


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どうにもならない苦しみを感覚としてわかり合えるひと

2018/01/01 23:53
 常に一緒にいられたら楽だし、過ごしやすいんだろうと感じるのは苦しかった感覚を多分同じくらい味わっていて、「そうだよね、辛かったんだよね、嫌だったんだよね」とわかり合えるひとです。年齢や職業やほかのいろいろなことはどうでも構いません。ただ、心の苦しみやそれに伴う痛みを共有できて、感性が似ているひとです。相手の気持ちが分かるから、わざと何も言わなかったり、でも気になって何かしてあげようとしたり、そんなこともお互い分かりすぎるほどわかるひと。そんなひと。

 ただ、今、実際一緒にいるのは、手がかかり、放って置けないひとたちで、そういうひとたちを面倒見なくてはならない境遇だったりします。諸々の役目が果たせたら、いつかはご褒美として、心安らかに、どんなことがあっても、笑っていられて、心の底から安心して甘え合える人たちと一緒にいられるのでしょうか。未熟な私にはまだ、クリアしなくてはならない課題が山積しています。それが片付くまで、もう少し時間が必要です。一日も早く終わらせて、だだ、毎日を楽しめるようなプチ隠居の生活がしたいものです。

感謝していること
本当にたまに、信じられないくらい尊敬できる優しく素敵な人とご縁があります。私もそんな風になりたいと励みにしております。とっても有難いです。


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死と徹底的に向き合い、生死を超えた体験なしに死を軽々しく語るなかれ

2017/12/31 12:05
  多くのひとが死を語ります。文章で書いたり、講演したり、対談したり、テレビやラジオで発言したりします。
死を語るそのほとんどが実際にやって来る死のためには、蒲団の上で水泳の練習をしているようにしか私には感じられません。実際、水にも入らず何をやっているのだろうかと可笑しくなる感覚と似ています。また、動物園の檻の前で獰猛な肉食獣の虎等を眺めて、虎とは恐ろしい奴だ、あの牙や爪にかかってはひとたまりもないと驚き半分に高みの見物をしているひとたちをも連想させます。インドやアフリカの竹林で、突然、子どもの虎と出くわしたとしても、腰を抜かすくらいの衝撃があるでしょう。

 西洋哲学・心理学・社会学で薀蓄を垂れても、ずばり死の解決の方向性を示しているものに私はまだお目にかかっていません。どんなに高尚なことを言っていても、実効性の伴わないものは無用の長物です。

 物心ついた時から、私は死の恐怖に怯えて、何とかこの不安な気持ちを払拭できないかと仏教にその解決の道を求めました。人間の能力で何とかできる問題だとは思えなかったからです。

 その中で私が選んだ浄土真宗は聞法修行です。阿弥陀仏の本願の生起本末の説法を聞き、疑いが全く晴れた時、仏の悟りの52位の一つ手前の、51位の正定聚の菩薩になれます。横超といって0段の凡夫が一気に生きているいま、ここでその身に救われると親鸞聖人は説かれました。

 この体験をさせていただこうと、何十年も疑いの心と対峙しました。無常は迅速であるのにも変わらず、死は刻々と迫り来るのに、死の解決が出来ないまま呼吸や心臓が止まったら、私はどうなるのだろうと眠れない日々を過ごしました。大きな重い課題をずっと抱えながら人生のあらゆることを、心から楽しいと感じることもできませんでした。

 何十年もの長い年月を経て、それがあるとき、ふと、いま、救わらなかったらどうなるのかと、長綱をはいていた遠い死が今という目前に迫り、それまでの教養も修養も聞いてきた仏教も私の迷った脳や心で受け止めてきた偽物だと知らされ、頼るものは何もないと全てを手放させられた時、助かる縁も手掛かりもなくなり、これ以上ない漆黒の暗闇である無明が広がった途端、それが晴れるという体験をしました。自分の力で「疑情」を晴らすことは出来なかったのだとハッキリ知らされました。「ああ・・・・・・」という感嘆の言葉しか出てきませんでした。親鸞聖人とこれは同じでした。危ないところだった、もしこの身に救われなかったら、また迷いをくりかえすところだっと不思議で有難い何とも言えない出来事でした。

 お前の勘違いだろう、夢でも見たのだろうと言われる方もあるでしょうが、これはある人で一生涯一度、ない人は想像も出来ないことでしょう。死に向き合い、死を超える体験はもしかしたら、世界の別の宗教等でも出来るのかもしれません。これはまだ研究に着手していないのでわかりませんが、別に真宗などセクトに私は拘っていません。私のように死の不安に怯えて、解決したいひとたちに向かって、方向性を示せたら幸いです。それが死の解決を実際体験した者の使命であり、楽しみであると私は自覚しております。

感謝していること
本当に不思議で有難い身に救われたことに感謝します。

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ありのまま・そのままの自分を生きる

2017/12/31 11:11
 利己主義・自分勝手な振る舞いで、他人を傷つける生き方ではありません。
自分と他人の立場をよく考えた上で、比較衡量して出来ることとそうでないことを判別して、愚痴を言わなくて済むような言動を取ることだと私は考えています。 

 どれだけ自分を後回しに出来るかは、その人の持つ度量・器の大きさに依るのでしょう。私のような器の小さい人物は、出来ないことが多く、すぐ諦めて、助けを求めてしまいます。ずっと我慢していると、我慢しきれなくなって爆発した時、周りに多大な迷惑をかけることがよく分かったので、嫌なことやダメなことは小出しにして、周りに分かってもらう努力をし始めました。

  もともと、いいひと、立派な人間だと私は自分について認識したことがないので、そこら辺はプライドも何もありません。しかし、後天的に体育会系の経験で身に着けた我慢という癖で長い間、苦しんできました。我慢しないと宣言できるまで結構長いこと時間がかかったりしています。でも、我慢していて、鬱状態になり、本当に自殺寸前まで心的に追い込まれたり、場面緘黙になったりしているので、「ごめんなさい。これ以上はできません。無理です。私にはとても嫌な感じでした。」などと少しずつ声に出した言葉で表現できるようになりました。 

他人に悪く思われたくないために何かしたことがありません。何かするときはこうすると決めてすることにしています。自分が決めたことなので他人のせいにしたことはありません。嫌々やっていると愚痴をこぼしたこともありません。嫌々するくらいならできませんと相談します。それでもしなくてはいけないなら、納得できてもそうでなくても肚をくくって自分がすると決めたこととしてします。


自己一致が出来ていないひとはこの覚悟がないのです。出来ないみっともなくて弱い自分に対峙して、それも認めて、それを周りに伝えて、助けてもらいながら生きていくことは辛くもあり、楽でもあります。恥ずかしく惨めな状態も持っているけれども、それでも何とかできることをしていこうと前向きに生きているところを表していくだけです。休む時は休み、メリハリは付けますが、私は手を抜くことが嫌いです。集中している間は人が変わっているかもしれません。それは今を生きようとしているからです。いつ死ぬか分からない自分と向き合って、今を精一杯生きようとしています。ただそれだけです。出来ることをさせていただきたく存じます。有形無形の御恩を感じそれに少しでも報いることが出来たら幸いです。

感謝していること
緩く頼りなく優柔不断なところがありますが、背骨を真っ直ぐにして誰かの為に何かをして差し上げられる用意が常にできるようにしております。こんな風に感じられることはとても有難く不思議です。


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自分の能力を超えて無理や我慢をして尽くすと相手を恨むことになる

2017/12/30 17:32
元々私は他人に尽くすタイプの人間ではありません。

 そこのところを私はよく自覚しています。

 面倒、ややこしいひとはなるべく避けてきましたし、これからもそうするでしょう。

 距離を置いて付き合います。

 出来ること出来ないことの線引きはいつもしています。

 もどかしい、じれったい、歯がゆいという感覚はありますが、こうした方がいい、ああした方がいいということを直接言うことも控えているというより、したくありません。本人が、何かのきっかけで自分で感じないと本当の意味では分からないからです。

 誰かに全面的に頼って生きるひとは苦手です。私自身が必要以上に誰かに依存し、時間をかけることはしたくないので、相手に対してもそうして欲しくありません。

また、身体や思考能力が生涯、自分で制御できると想定していますから、おそらく、そういう人生を生きていくでしょう。そのために身体を鍛え、無理はせず、余計な心配をするようなことは引き受けないようにしています。
ただ、出来ないことを他人に依頼することについては有償・無償いろいろとありますが、事情を話して協力してもらうことに対しては遠慮はしません。どんなことでも自分一人で出来ることは無いと分かっているからです。


私は自分自身がいいひとだという自覚がないので、嫌なことは嫌だと言うし、無理もしないし、ああしてやったのに見返りがないとかは言いません。元々見返りなど期待していませんので。

何かしたことに対して私はお金も物も要りません。そのひとが真理を体得出来たらそれだけでいいのです。浄土仏教的に言うと、お浄土の旅をご一緒して、後に一緒に極楽に生まれられたらそれが一番です。他の望みはありません。

今のところ、お金にも物にもほかのいろいろなことにも恵まれていて、これと言って欲しいものはありません。文章を書く能力があればとは思いますが、これは自分で身に着けていくしかないことは分かっています。


人生は短いです。学校もやがて修了してそれぞれの道を進むことになります。だから、一緒にいられる間は、お互いの研究の参考になるような話をしたり、励まし合える仲間としていられたらと思います。ほかのひとはどうかはわかりませんが、私は他人の研究はとりあえず興味をもってリスペクトしています。自分の研究が最高だとは思っていません。それぞれがその分野の第一人者ということでいいんじゃないかと感じます。誰かを見下して自分が上に立とうとしたこともありません。相対の世の中なのでどうでもいいのです。ただ、生死を超える助かる体験がしたい人は聞いてくれたら話しますが、別に興味がなければ放って置いてくれたらいいです。放置で構いません。縁がない人に話すほどお互いに苦痛で迷惑なことは無いのですから。ハッキリ言って疲れます。研究に対してはこのようなスタンスです。無理も我慢もしていません。


自分をいい人に見せるために、他人を利用したり、また、自分の心の闇を見ないようにする人たちを見てきました。そういう人たちは面倒で、ややこしくて、自己一致しないことは辛いのではないかと要らぬ心配をします。でもそれは、栓のないことなので「仕方のないひとだなぁ」と最近は早々に切り上げることにしています。

感謝していること
  どんなことも死の解決には間に合わないとハッキリ知らされるところまで堕ちこんだので、何でもアリだと泰然としていられます。有難く感謝しております。


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ややこしくて面倒なひとだなぁ、でもやっぱり仕方ないなぁと放って置けず非情なれない甘さ

2017/12/30 10:09
 素直じゃなくて頭を下げてお願いできない意地を張ったひとは面倒なので、切るという選択を取るひとがほとんどでしょう。それが楽だし手間もかからないし、自分と同等か尊敬に値するひとたちとだけ付き合えます。

 でも、困っているひとたちというのは、助けてもらえそうなひとにでも、助けてと言えないから現状を打破できないのであって、素直にしかるべき人にきちんと相談出来ないので苦しみ悩んでいるのです。

 助けてと言われない限り、助けることは出来ません。
 それでも、放置しながら気にはかけていて、全く無視するということもできない中途半端な性格は困ったものだと思います。
 
 自身の使命だとしている高尚なことの為に一緒に何かしてくれる人と行動しつつ、放って置けないひとたちも目配り、気配りをする両方をして生きていくしかないのかもしれません。決して、上から目線で見ているというのではなく、非情に徹することが出来ないから前に進めないと言い訳する自分をそれでいいのかと自問自答している感じです。
本当の使命とはいったい何かということを考えさせられます。

感謝していること
ややこしい、面倒な私を常に佳い方向に導き、護っていてくださる御仏に有難く感謝いたします。
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剥きにならないこと、相手にならないことと無関心で冷たいのとは違う

2017/12/30 10:08
 関わって良い方向に行くならいくらでも時間を取って、熱い想いを持ってお相手しますが、どう考えてもそうならないことは、遠くからそっと見守ることにしています。放置といえば放置なのですが、無関心で冷たいと思われるのは嫌ですね。相手が何か助けて欲しいと維持やプライドを捨てて言ってくるようになれば、よろこんで自分の時間を割いてでも出来ることを協力する気持ちは持っています。でもまだ自分で何とかできる、助けて要らないという人には何もできません。

 相手が良いように変わるなら何かしますが、そうでないなら、自分に何かできる能力がないなら別の人にまかせたり、様子を見ながら出来そうなことを探します。出来ること出来ないことの線引きをしながら、小出しにして試しながら関わりをもち、無理そうなら距離を置き、その繰り返しで少しずつ適切な温かさを持った共鳴できる関係になれば幸いです。私の援助に対する考え方はこんなところです。

 感謝していること
  とりあえず元気で気分も落ち着いていられることは有難いと感謝しております。


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横並びの集まりの停滞感を打破するには

2017/12/30 09:44
 決まりきったことです。

 誰もが分かっていることです。

 集まっているひとよりも数段優れた人材に顧問なり、困ったときに助けてもらえるようにお願いすることです。

 

 同じような能力の人たちが集まっていても、いつも堂々巡りで新しい発想が出てきません。それでは時間を取って集まっている意味がありません。




 同じような人たちというのはライバル意識が抜けきれず、劣等感が刺激し合い険悪な状態になることがしばしばあります。そこを緩和するにはすでに問題をクリアしている人が、別の観点からの意見を言うことが必要です。




 同じところにいるひと同士では埒が明かないことが多いのですが、誰かにお願いするのを躊躇している間に、無駄な時間ばかりが過ぎていきます。誰でもいいというわけではないですが、協力を快諾してくれる人は探せばいます。そういう人に助けてもらいながらレベルアップすることが大切な気がします。




感謝していること

 意地や我慢やプライドが私はあまりないので気軽に助けてと言えるようなり有難いです。お手伝いしてくださるかがたがに有難く感謝しております。

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死の恐怖に怯えているひとのもとへ

2017/12/30 08:44
 私が生まれて来た意味は何だったんだろう。

 私の使命は何。

 重い腰を上げるのは今なのだろう。

 死の恐怖に怯えている人たちに

大丈夫安心して真理のようなものがずっといつもあなたと一緒にいるからと伝えること。

私しかできないことをしていくために、今できることを必死でこなしてる。


徹底的に誤魔化さず死の不安の解決に取り組んで、死の淵の暗闇のようなものにずっと向き合って、その正体の無明の闇が晴れた不思議で有難いことがあることを知り、それを言葉で表せる私は惰眠を貪っているわけにはいかない。


こんなにホッとしていられる世界に生きていられること、全く死の不安が無くなったことを有縁の方々にお話ししていくのが私の使命であると念々きづかされる。

感謝していること
生きることにも死ぬことにも全く不安がないというのは本当に有難いです。


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家庭内の暴力・モラハラ・怠惰など全ては困らないと止められない

2017/12/27 23:52
なぜ殴るの?

 なぜ意地悪なの?

 なぜゴミ箱にごみを捨てないの?

 洗濯ものが洗濯機じゃなくて床に落ちてるの?
 この手の質問は答えが決まっているので、してはいけません。時間の無駄です。
 したいから、したいことをしているのです。本人は全く困っていません。好き放題の快適な生活を送っています。

 DV・モラハラが嫌なら、顔を合わせないようにしましょう。
 離婚や別居〔家庭内〕やプチ家出をするなり、暴力や暴言を浴びないようにする工夫をしましょう。本当に嫌なら嫌な人と同じ家で空気を吸うのも嫌です。出て行かれた時、あんなにひどい仕打ちをしなければよかったと後悔しますが、またひどい目に合うようなら治る見込みはありませんので、本気で永遠に離れる決意が必要です。

 一緒にいられるのは、まだ耐えられるからです。ひとに暴力や暴言を行使する奴なんて劣等感の塊のろくでもない人間です。そんな奴より劣等感が酷いから我慢できるのです。さっさと見切りをつけて新しい人生を歩むか、家庭内別居+執着を放すようにしましょう。ご近所さんや学校の時のクラスの別のグループに属していたクラスメートのようなあいさつ程度を機嫌よくする距離の置き方を身に着けましょう。




家を散らかす家族のものは放置しましょう。家が汚れようと散らかろうとそのままに。
家はゴミ箱や洗濯機ではないので、ゴミや洗濯物が片付かないでゴミ屋敷になろうと、本人がゴミや洗濯物で散らかっている家が嫌だと気が付くまでそのままにしたらいいのです。中途半端に片づけるから、散らかすのです。自分のゴミや洗濯物は自分で決められた場所に自分が置くのだと認識させることが大切です。一人暮らしなら自分が片づけないと誰も片づけてくれませんが、家族と暮らしていると甘えて片付けません。困らないのです。困った状態を体験したら自分が何とかするしかないことが分かります。


家族にこそ甘えず、お互いが自立して生きられたら、それぞれの使命が果たせます。家庭は甘えの温床ではなく、自立心を育てる練習の場です。出来てもわざと出来ない振りをして頼って、頼りない親の為に何とかしようとする姿勢を子どもに身に着けさせるのが楽で衝突がない上手な子育てなのかもしれません。ふとそう感じました。


感謝していること
演技でなくて、本当に余裕がなくて何もできない私の代わりに家事をしてくれている家族に感謝します。


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真宗の転迷開悟、もしくは真理との邂逅(きづき)について

2017/12/25 18:54
 阿弥陀仏の本願に対して微塵の疑いもなくなり、信じられたか否かです。

 きっかけは無常観・罪悪感等いろいろあるでしょうが、ただ、疑いが完全に晴れたかどうか、これを「信疑決判」といいます。一生涯である人で一度、ない人はまた迷いを繰り返すことになります。

 どうか一日も早く、阿弥陀仏のご本願を賜ってください。いまここで救われます。
 
感謝していること
 何十年もかかって、やっと本願真と知らされました。不思議で有難いです。念仏でもなく信心一つで救われる親鸞聖人が明らかにされた真宗の教えを日本で聞くことが出来てとても嬉しいです。


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もしも私に羽があったら・・・・・・

2017/12/24 19:39
 今まさに臨終が迫り、死に怯えているひとに逢いに行って、「大丈夫、心配しなくていい、そのまま救うというお約束を阿弥陀佛がなさっているから」と言い切ります。

 「あなた自身の力や外のどんなものも間に合いません。ただ、そのまま救うという佛さまを疑い無く信じて下さい、このこと一つです。」たったこれだけです。




 本当は、死に向き合わず、死の恐怖を先送りして、死の苦しみに怯えている人のためにしている話をあれこれ計らい誹謗し馬鹿にしている縁の無い輩は後回しにして、必要とされるところに飛んでいきたいのです。早く博士論文を提出して自由になりたいです。論文はどうでもいいし、名誉のために書いているのでも何でもありませんし。ただ、口述のものはのこらないから、お作法にならい、論文を残そうとしているだけです。自惚れ強い人たちのために博士号を取得して納得して貰おうとしているだけです。




 今、たとえ死んでも私は全く何の後悔もありません。今生の私の目的は達成できたので。でも、それができたら、御恩報謝の念が止めどなく湧き出てきて、居ても立ってもいられない憶いで、毎日、生きている元気なときに死の解決が出来ることを口にしたり書いたりしています。




 羽はないけれど、今は飛行機があります。何時でもどこへでも呼ばれたらふらっと出掛けられる心つもりはいつもしております。




感謝していること

 本当に有難く不思議なご縁に値えたことをよろこんでおります。


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本気の言葉は本気で受け取れる縁が熟したひとには必ず届く

2017/12/24 19:34
 本気で言った言葉をはぐらかされ、ごまかされたとき、挫けてしまいそうなことは数え切れないほどあります。それでも、ここで縁を切ってしまうわけにはいかないと、気持ちを立て直して続けて話をしています。

 それはひとえに法蔵菩薩の願心のお話しを何十年もの間繰り返し聴聞してきて、実際に阿弥陀仏の御本願を賜ることが出来たからです。自分のような厚顔無恥な者にも阿弥陀佛の光明が届いた有り難さ、不思議さに驚き、御恩報謝をせずにいられないだけです。

 他人に負い目を感じさせ、見下すことはひととしてあってはならぬことです。私はこれが何よりも嫌いです。それでも、何も分らない人たちは平気で自惚れを突きつけ、威張ってきます。それは仕方の無いこと、自分自身もご縁に値うまではどれほど疑ってきたことかわかりません。

 人間の本気の言葉を本気で聞く練習を重ね、今生、元気なときに有縁の一人でも多くの方々が佛の願いを疑いなく信じる身に救われて欲しいと願います。
感謝していること
 何の不思議か生きてよし、死んでも全く未来に不安のない身に救われたことをよろこんでおります。
 
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生死の超越(後生の一大事の解決)から逃げず、向き合う真宗のこれから

2017/12/24 10:09
 仏教は最終的に仏に成るところを目指し、実際仏に成れる教えです。

 他の宗教では仏に成ることもなく、神の域までも到達できると言っているものはありません。仏教だけが人間を超えた仏に成れると教えます。




 人間は自惚れが強いです。生きている今、正定聚(仏の悟りの仏の一つ手前の段階)の菩薩に一足飛びに救われ、死んだら本当の仏に成れて、そうなれたひとが実際いると言われても、それは釈尊や七高僧や親鸞聖人などの尊い方だけだと勝手な解釈をします。凡夫がそのような心境になれるとは思えません。それは自身の実機ばかりを見ているからです。阿弥陀仏の法を見ていないというより知らないからです。どんな修行も出来ない凡夫をそのまま救う阿弥陀仏の本願を聴聞するご縁に遇っていないからです。

 

 仏教に出合っても、座禅やマインドフルネスなどの瞑想に逃げる人がいます。敢えて私は逃げると表現しますが、それらは、いま、ここで死を乗り超えられる方法ではありません。即効性がありません。今臨終という時に、座禅や瞑想で自分の力(自力)で救われようとあがいても間に合いません。おそらく、自惚れ心から、自分で何とかすれば何とかなるという気持ちが取れないのでしょう。その自惚れが木端微塵に打ち砕かれるのが臨終ですが、臨終では遅いのです。




臨終を今に持ってくることが大切です。今死ぬという気持ちになれば、中途半端なものでは間に合わないと確信できます。そして淘汰されていった先で本当に救われるものに出合えます。それが私は真宗の弥陀の本願でした。他にも全く自力を廃して他力に入れる教えがあるのかもしれませんが、まだ確信には至っていません。今後の私の研究の課題でもあります。




感謝していること

私自身は本当にいろいろなものに恵まれて、何も欲しいものはありません。しいてなにかと言われれば、一緒に生死を乗り超える安寧・満足の身に一人でも多くの方がきづかれることでしょうか。幼少の頃からの人生の課題であった死の不安が全くなくなったので、同じような不安を何とかしたいと思っている方が同様な気持ちになれることをお話しさせていただけることを有難く感謝しております。


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完結する生死の解決を知る人はほとんどいない

2017/12/23 22:48
 宗教・カウンセリング・人的援助・社会福祉といっても死の不安を完全に払拭できる境地を指し示すことを教えるものに巡り遇うことは稀です。それに遇えたひとは人間に生まれた本当のよろこびを知ることが出来たひとです。

 その真理のようなものをどう表現すればいいか、いつもいつも考えながら日々を送っています。多少なりとも前進していきます。同じように生死の解決を望んでいる人が地球上に少なからずいる限り、何らかの形で、とりあえず文章で残せたら幸いです。

 感謝していること

 何の不思議かたとえ臨終が今来たとしても何の不安もないことは有難いです。


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さまざまなハラスメントについて

2017/12/20 08:44
 重松清の『青い鳥』の中に登場する先生がいじめをこんなふうに言っていました。

 「ひとを踏みにじって、苦しめるのが、いじめ・・・・・・。

 ひとを苦しめていることに気づかず、苦しくて叫んでいる声を聞こうとしないのが、いじめ・・・・・・。」

 ひとを踏みにじるというのは、ひとを馬鹿にし、負い目を負わせて苦しめることだと私は理解します。そして、嫌だ、止めて欲しいということをしっかり受け止めることなく、

「そんなこと」とつまらないことだと見なして、取りあわないことだと感じます。嫌だとか止めて欲しいと言われたら、嫌なことは、止めると言えばいいだけです。何か配慮や言い分があっても、余計なお世話になっているなら止めたらいいだけです。

 「嫌だった」のは「嫌だった」のだから、それでも止めないのはいじめです。

 

また別の場面では、こうも言っていました。

「皆さんも本気で聞いてください、ひとが本気でしゃべっていることを本気で聞くのは、あたりまえのことです」

 誰かが本気で何かを言っているときは、たとえそれが嘘のような話でも、自分に不利な話でも、言い訳や自分を正当化するための嘘はつかず、本気で聞くのが当たり前です。

 

 嫌だ、止めてといったことを止めないひとや、本気で何か言ったことに対して、はぐらかすようなことをする人は友だちでも何でもありません。自分の心身を護るために離れましょう。距離を置きましょう。

 先日他界した大学院の先生は私にいつもにこにこした笑顔で自ら挨拶してくださり、非礼はきちんと言葉にして詫びてくれました。見習わせていただきたい立派な方でした。

 感謝していること

 モヤモヤしているいじめやひとの本気の話は本気で聞くことなどを作家の重松さんは的確に表現されています。私も生死を超える転迷解悟のことを分かり易く博士論文に書いていきたいと強く決意する機縁となりました。有難いです。


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言葉にならない、言葉が出て来ない、またはどもってしまう

2017/12/16 09:06
  内向的な私は言葉を飲み込む癖があります。

  小さい頃から言いたいことを言えずにいました。

  どう言っていいか、どの言葉を使えばいいかの選択、これを言うと相手が気分を害するのではないかという遠慮などがありました。空気を吸うように何でもすらすらと言えたらいいのにと思うこともありました。つっかえつっかえ、気を遣いながら話をするのは本当に面倒でしたが、そういう気質だったので仕方ありませんでした。

  

大学時代のサークルの同期のひとが吃音でした。彼は東海地方の私立の有名校からT大に進学した超エリートコースを進んだ学生でした。その後、約20年かけて吃音を克服したようです。どのようにされたのかは不明です。優秀なだけではなく、とても優しい人でした。当時は吃音は口の形や喉などの形態の不具合、もしくは極端に恥ずかしがりやなど心的なことでなるのかよく分かりませんでした。

いまでも本人たちほどは分かりませんが、重松清の『きよしこ』と『青空』を読んで、ただ喋るだけなのに本当にいろいろ考えなくてはならないことが分かってきました。私のしゃべることへの息苦しさと少しだけ似ているところが感じられました。場面緘黙が数回起こったことがあり、数カ月続いたこともあります。私も言葉に対してはとてもナイーブで吃音の人の気持の全ては分からないでしょうが、ほんの少しなら分かる気がします。

心の中や文章では次々出て来る言葉が、誰かとの対面ではなぜ、つっかえたり、全く言葉にならず、出て来てもくれないのだろうととても不思議です。歌ならつかえずにメロディーに乗せて歌えますが、アドリブの会話はとても気を遣います。研究内容なら言えても、個人的な話ではどう言おうか、どう表現すればいいのかと考えながら、言葉を選んでいる自分が居ます。


 本来大切なことや相手を思い遣る話は、ゆっくり、手探りで静かに進行していくものなのかもしれません。こんなことが感じられました。

感謝していること
この単語の頭の一言は言いにくいとか、普段あまり気にしなくてもしゃべることができることは有難いです。
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死の解決が人間の究極的目的

2017/12/06 23:39
 もし、あとわずかの命だと分ったとき、人は何を思うでしょうか。

 お金があるなら、仕事を辞める人もいるでしょう。

 家族や友達と残された時間を過ごしたいと人が多いかも知れません。

 でも、死んだ後の世界のことが気になって、暗闇がいつも迫ってきて、何をしてもよろこべない不安をどうするのでしょうか。


 私は物心ついたときから、死が怖くて、その解決を求めてずっと生きてきました。

 ようやく10年くらい前に今死んでも安心していられる心境にならせていただけました。

 私は仏教の浄土真宗の教えで阿弥陀仏の本願との邂逅で救われました。もしかしたら、外の教えや心理療法などでも同じような心境に救われるかもしれません。


今後の研究の課題としたく存じます。

 感謝していること
 どういきるかもおまかせとか遊びになり、死の解決をさせていただき、いつ死んでも安心満足していられる身でいられることに感謝します。

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何度も繰り返してるのでわかること、嫌ならとりあえず身をスッと身を引くこと

2017/12/02 21:44
 身を引いても、それでもなぜか離れられないならきっと、それは本当に運命なのでしょう。離れられないと諦めるところまで縁があるならそれはそれで大切にしないとなりませんが、離れてスッキリする場合もあります。試してみないと分かりません。

  たいていの場合は、前を向いて進むことで忘れられて、何か別の事に心が惹かれます。それで、スッキリするなら早めに、嫌なこと気が進まないこととは距離を置いた方がいいでしょう。何でも味わい切ってみるよことです。そうしたら、時間の経過と共に何が嫌なのか、本当は嫌じゃなかったのかということが分かってきます。

  何もしないで頭の中で考えているだけでは、先に進めません。

感謝していること

 今日は大阪まで出かけました。ある説明会に行ってきて、実際、その仕事のことをよく知っている人に質問して腑に落ちることがありました。有難いです。


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自己を正当化するために他者を責める究極は戦争、どこかで止めないと

2017/11/30 17:20
 「人を殺す実弾が入っている銃で訓練したことが嫌だったんだよね。それが嫌で徴兵、避けて来たんだよね。いつかは銃を打つ訓練が始まることは頭では分かっていたけど、実際、してみて嫌だったんだよね。今の本当に持って行きどころのない辛くて悲しい気持ちを数か月後に訓練が終わるまで、銃を扱う時は、いつも忘れないでいて。元の生活に戻ったら、きれいさっぱり忘れてもいいけど」

 徴兵された外国の友だちにこのように伝えたいです。

 嫌だという気持ちは十分味わってください。そして逃げないで味わい切ったら次に進めます。自分を責めないで、何かを擁護したり、無理やり許す前に嫌だと感じている自分を意識してください。いまここを感じることが大切です。ただ、自分が今直面していること全てには何らかの学びがあるのです。それはその人にしか分かりませんが、その時か、ずいぶん経ってかは時期は分かりませんが、いつかはこの事にきが付くために学ぶために、ああいう状況に在ってああいうことをしていたのだと、分かる時が来るでしょう。

 同時に、周りの誰かが嫌だと言っていたら「嫌だったんですね」と受け止めてあげてください。許せとか、嫌だと思うのは間違っているとかいう前に。

誰かにされて嫌だったことがあったとき、飲み込んでしまって何でも無いような振りをして自分を誤魔化すことが私は常でした。

しかし、少し前こんなことがありました。ある人に勇気を振り絞って「〇〇されたことが嫌だったんですが・・・・・・」と告げた時、真摯に受け止めてもらえず、どうでもいいような言い訳をされました。言葉を失っていると、その人が私に対して

「自分もあなたに〇〇されて嫌でした」と次の瞬間に言われたことがありました。

「そうですか。では二度としません」とだけ私は答えました。

 「そうだったんですか。同じことはしないようにします」と私が答えたのと同じようにだけ言ってもらえたら良かったんです。過去に遡って謝ってもらおうとは思っていませんでした。言い訳は本人にとっては正当性の根拠のある事実だったのかもしれませんが、私はただ悲しかったのです。同じときに私がしたことに対して不満を言われて、更に辛くなってしまいました。極めつけは次の言葉でした。

「お互いに欠点のある人間同士なので何かあったら遠慮しないで言っていくようにしましょう。」

自分が正しいとか、あなたも間違っているところがあるなどという展開を私は期待してはいませんでした。正しいとか間違っているとか自分を正当化することなどが聞きたかったわけではありません。でも、私はその人に自分が嫌だったことに対して勇気を出して告げられたことがとても嬉しかったのです。いつも自分を責めて嫌だと言えない気弱な私から変われた気がしました。

別の事でどうにもならないほどショックな出来事がありました。なぜだかわからないタイミングで嫌だったんですと告げた同じ人に「困ったことがあって・・・・・・」と話していました。自分が嫌だと思わないよう、どう落とし前をつけようか、にいろいろ言い訳をしてると

「それはそれ、〇〇されたことが嫌だったんですよね」と言われました。

「えっ?」と一瞬戸惑いましたが「はい」と口にしていました。

「あっ、嫌だったんだ」とその瞬間コトリと心に落ちました。

「嫌だって思ってもいいんだ」と嫌だと思っている自分を自分が許すことが出来て、やっと、その嫌なことを手放すことが出来ました。

その人に話す前に、あまりに辛くて、信頼できるような医師や心理士や教員など数人に解決法を尋ねていて、ある程度は頭では納得していたのですが、どうしても許せなくて、忘れられなくて、ちょっとした行き違いとか未遂とかかすり傷程度の事故のようなものとも割り切れない、そんな自分も嫌で、何から何まで嫌になっていました。少し後、私がその人にされて嫌だったことはスルーされて言い訳されたのに、その人は他人の事に関しては「嫌だったんですよね」とキッパリ言っていたのが、とても不思議でしたが、そのときは、自分が長いこと苦しんでいたことがスッと楽になったことに気を取られていましたので矛盾にきが付きませんでした。でももしかしたら、その人は私が「嫌だったんですけど」と言ったことをずっと考えていたのかもしれないし、そうでないかもしれません。それはその人の問題で、私は何とも言えませんが。まあ、こんな風に考えられるのはその人とは対等な関係だと感じているからでしょう。

大切な人であればある程、喜怒哀楽の嬉しい楽しいのみならず、怒りや悲しみも遠慮しないで、大声で怒鳴るとかキレるとか暴力をふるうとかトラウマになるようなことは避けて、寂しい辛い嫌だと静かに告げることも時には必要です。そうした経験が、同じようにほかの誰かからマイナスの感情の吐露がなされたとき、心に寄り添えるのではないでしょうか。

感謝していること

 辛い経験を共有してしまった相手に助けられるのは不思議ですが、有難いと感謝しています。


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一緒に悲しみ泣いてくれるのは味わい切って乗り越えたサバイバー

2017/11/30 11:57
 まだ克服できていないとお互いの傷を舐めあうことになります。
 死と向き合に等しい心情や局面に逃げないで極限まで対峙し、乗り越えた優しく強いひとでないと、本当の意味でほかの誰かを助けられません。
 自分が癒されるために、他人や周りからよいものを吸い込むのではなく、苦しみや愁嘆の声を引き受け、自分は後回しにして、よろこびや楽しみに変えて吐き出す覚悟がなければ他人は救えません。
 
その意味では佛さまなのですが、感じることは出来ても、姿も見えず声も聞こえません。だから誰か人間の姿を通して、佛さまの御心を知らさて頂くしかありません。できたら、自分自身がそのようでいられるのが一番です。

感謝していること
こんなに幸せにしていただいているのだから、もっともっとその心境が分かってもらえるように表に出していきたいと感じられるようになったのは有難いです。
 
 
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どうしようもなく辛くて悲しいとき誰に気持ちを聞いてもらう?

2017/11/30 11:01
 行き場のない遣り切れない気持ちを共に味わい、なおかつ壊れそうになっている脆いギリギリな部分を支えてくれる優しくて強いひとです。




 辛い出来事をとても嫌だと思っているのに、それでも感じないようしている私に「嫌だったんでしょ」って追認して感じ切るように促してくれるひと。




嫌だった原因になった人のことを悪く思いたくないイイひとから抜けられなくて、自分を責めてたくさんの言い訳を並べているのを「それはそれ、でも嫌だったんですよね」と逃げ道を断ってくれるひと。




持ちこたえられなくて、結局、壊れて、崩れちゃってバラバラになっちゃったとしても、また欠片(ピース)を一緒に組み立てて最後の一つが填るまで、一緒に気持ちに寄り添ってくれるひと。




お互い欠点を持つ人間で、相手の弱さや我儘で勝手なところ、誤魔化したり、すぐばれるような嘘をつくところなどを知った上で、それでも「仕方ないひとだなぁ」と引き受けて、立ち直れるように願いながら一緒にいてくれるひと。




いつも相手も裏も表もさらけ出せているから、共に嫌な気分を感じ合えるし、「嫌だ」って認めちゃっていいと断言できる。大きな包容力があるから愚痴も優柔不断さも引き受けることを「いいですよ」って一言に優しくて強くて温かい思い遣り全部含めて示せるのでしょう。




もし、別のひとが同じことを、同じ言葉で言って、寄り添ってくれても、嫌だったことをきっちり認められないでしょう。支えてくれながら、一緒に痛みを感じて嫌な感じを味わい切って、もうそこから離れてもいいよって背中をそっと押してくれるに至るまでの心の動きは私にもたらさないでしょう。単なる言葉を超えた何かがあるのかもしれません。相手と対等であるということも重要なファクターかもしれません。




私はまだまだ、器小さく狭いです。でも、困っている人が目の前に現れたら、佛さまや私が本当に困っているとき助けてくれたひとみたいでいたいです。




感謝していること

 佛さまは見えませんが、代わりに人間の姿となり、その言動で御心を見せてくれているのだと感じます。


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私に生まれたこと、私でいられることに感謝出来ると・・・・・・

2017/11/28 23:44
 自分以外の人や出来事に感謝していた私ですが、自分自身に感謝したことがなかったことにきが付きました。取るに足らないちっぽけな私をそのまま救ってくださった佛さまへの感謝や御恩の気持ちはずっと続いています。それでもその佛さまが大好きだ、可愛いと大切にしてくださっている私自身をそのまま受容できていなかったのです。

受容もしくは共感することはカウンセリングでも大切なファクターです。佛教のお話はさせていただいていても、実存的なことや真理の話は好きですが、煩悩で作る悪や諸々の人間のトラブルを自身の狭い器で受け止めることが出来ず逃げてきました。さらに優柔不断で嫌なことも嫌なんだと認められず、色々な言い訳を付けて嫌だとか苦手だとか感じないように誤魔化してきました。

「どうにもならない我儘や愚痴を言っても構いませんか」と言ったとき、
「いいですよ」と言ってもらえたことがとても嬉しく感じました。
「そうされたこと自体は嫌だったんですよね」と代りに自分の本音を言ってもらえた時、背中を押してもらえた気がして、スッと楽になりました。ずっと我慢していてキレた時とは正反対でした。

私自身でも我儘や愚痴を言うことを許したり、嫌なことは嫌なんだと感じたりできるようになりたいですし、私がしてもらったように、相手の気持ちを受け入れたり、嫌なことや許せない恥ずかしい、みっともないマイナスの感覚も自覚して、逃げないで受け入れて味わえるようになるようになってもらえる話し相手でありたです。

私に生まれて、私でいることに感謝出来たら、そのような私を同じように感じて、佛さまだけでなく、周りの方々にも大切にしてもらえる感覚を味わえる気がします。

感謝していること
実感として、私自身に生まれてたことに、初めて感謝しています。
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光明に触れ、酩酊から醒めると、徐々に煩悩が歓喜になり光輝きだす

2017/11/26 12:51
 煩悩が光明に照らされると、懺悔となり歓喜に変わりよろこべます。
煩悩はそのままで、本当に生きている実感が持てます。
魂・精神を真理(のようなもの)に完全にわかってもらえている安堵の気持ちで満たされます。真理(のようなもの)といつも一緒なので、他人と比べて誇ることもなく、そのまま、ありのままの状態が嬉しいのです。

 こんなふうによろこんでいる人が増えたら、地球の波動は上がっていき、貧困も飢餓も徐々になくなっていくのかもしれません。煩悩の真っただ中の暗く狭いところにいると、強い縁がない限り惑業苦で苦しみからの離脱は難しいです。疑いが晴れて、そのままの自分が受け止められているとよろこべたら、他人と比べることもなく、他人から搾取することもなくなるので、兵器も軍隊も徴兵制度もなくなるような気がします。私はそんなときが一日も早く来ることを願って、真理との邂逅の方向を文章や対話などで表現していく所存です。

感謝していること
日々学びがあり、それもまた人間としての醍醐味のような気がします。



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自分の気持ちをしっかり感じて“でも私はこっち”ってしたいこともそうでないことも選んで生きる

2017/11/23 10:06
 聞き分けが良くて、人に不快感を与えたくないとか、即行動してなるべく物事を先延ばししないようにしようと心がけて生きてきました。

 でもしたくないこともあります。いいことなのだけれどどうも気が進まないとか、体が動かないこともありました。そんなときとても無理していたと思います。

 

 最近はやりたくないことはやらないことにしてます。でもしなくちゃいけないこともあります。そんなときは、やりたくないけど、やりたくないこっちをすることにしているというように、嫌だけどこっちをすることにしたと能動的にしていると意識してすることにしています。




 ただ、もう一つできるようになりたいことは、大切なことを相手の目を見て伝えることです。どうしても言葉を飲み込んじゃう癖があって、そのときに言えないことがたくさんありました。そんなときは、忘れないうちに次に逢った時に「この間言い忘れちゃったんだけどね」って言おうと思っています。だって、また逢えるかわかんないし、私、いつ死んじゃうかわかんないし。




 自分の心が何を感じているか感じることは快感です。私は今日あるワークショップに参加して、自分が速く歩くことが好きだと気が付きました。いつもパソコンなどの重い荷物を持っているのでゆっくりしか歩けなかったので長いこと気が付かずにいました。




 感謝していること

 ワークを一緒にしてくださった方に感謝します。私もその方のように自然体で生きていこうと感じました。


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愛していいよ、愛されていいよで始まり終わる日々

2017/11/21 22:06
自分に自信がなくて、余裕がなくて、器が小さくて、いろいろなものを受取ったり受け止めたりすることが怖くて、逃げてばかりいましたが、それでは自損損他になることにきづきました。

 何に注目し、焦点を当てて生きるかがとても大切です。残された人生の可処分時間を、出来るだけ有意義に使命を果たすためにおもいと言動を一致させて、生き抜く、生き切る所存です。

感謝していること

 宇宙の真理の智慧の慈悲の中で自分を愛し大切な人の愛を受け入れることの重要さを知らされます。


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