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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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誰の庇護も要らないかのように自分の足で立てるまでには

2017/04/27 05:55
 無条件で慈しんでくれる親、特に母親を疑いなく信じて甘えられたなら、そこを基地として、徐々に遠くに離れていけるものなのかもしれない。幼児教育の教科書にはそう書いてある。ただ、そういう親がいたことは本当に幸運なことかどうかはわからない。そんな親がいないからこそ、人間ではない真理のようなものを探す機縁になることもある。

むしろ、親は初めから親ではなく、子どもを通じて、だんだんに親にならせてもらうのではないか。昔は子どもが多かったから、上の子どもと末の子では20年近く離れている場合もあり、その間何人もの子どもたちを育てる間に、人生経験をも積みやっと親らしくなる。今のような少子化の時代では、孫を持つ年代に初めて、親と呼べるような状態になるのだろうが、孫には責任がなく、結局は、親らしくもなれず、孫に対してもどう接したらいいのか分からないで人生を終えるひとたちもいる。

このように、親らしい親と呼べるひとがいないので、子どもの延長のような親に育てられても、心の拠り所はどこにもなく、混乱し、誰に対しても心を開けないまま成長し、周りの人たちの表面の心の揺れだけを敏感に察する習慣がついてしまい、それに翻弄される人生というのは休む暇も、息をつく時もない。心が落ち着くことがなく戦々恐々としていなければならない。

そんな中、誰かに頼ろうとする場合、その相手の候補者は、友だちでも特に親しいひとか、恋人か、パートナーである。ただ、個人として自分の足で立っている人でなければ、むやみに相手に頼り縋り、結局はお互いに傷つけ合うことになり、疎遠になり破局を迎える結果に至る。関係を保とうとするなら、騙し騙し、様子を見ながら、機嫌を取りながら遠慮して距離を取りながら、向き合うしかない。これでは、そこには完全にまかせられない不満が残り、ずっとモヤモヤしながら一生を送ることになる。それか、お互いのエゴをむき出しにして実際、戦い合い、傷つけ合い、疲れ果てては、一時休戦して、また同じことを繰り返す修羅界のような状態がそこにある。

どんなにもたれても、頼っても、縋っても、全部わかっていると受け入れてくれる大きな器の持ち主は、まず人ではありえない。それは真理のような何かであり、目に見えないものであるが、それとの邂逅を果たしたならば、もうほかにはなにもいらなくなり、そういうひと同士で、性質が似ているのならあまり問題もなく、静かに暮らしていける。

しかし、いまだ心が安定もせず、満足できない人たちの為にはなれないので、明らかに苦しいとわかっていても、力になれないかもしれないと予感しながらも、悲しい叫びをあげて呼んでいる人たちの元に引き寄せられ、向かってしまう。自分が救済するご縁となることは、まだそれが無理なのかもしれないと感じつつ、近くに行って引き返し、少し関わり、また離れてを繰り返して、一度に全部ではなく、徐々に力になっていくものなのかもしれないと最近は何となくわかってきた。

完璧主義ではないのだが、時間がないと焦るあまり、一度にとか、たくさん分かって欲しいとか欲張るので私は苦しいのかもしれない。仏教の師匠に「ゆっくりやりなさい、急ぐことはありません」と言われるのはこの所以かもしれない。

自分の足ですぐに立てる赤ん坊はいない。たいてい、一年かけてゆっくり立てるようになる。それと同様に温かく見護ってくれる真理や自身も立っている誰かや、これから立とうとしている同士と一緒に時間を共にして初めて立てるようになる。
感謝していること
ずっと昔から見護ってくださる御仏との邂逅が出来たことに私は感謝します。
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やっぱりめんどうだけど・・・・・・

2017/04/27 05:50
 今日はヨガの話を聞きました。
 ヨガは最終的に、心の池のざわめきがない状態を目指しているようです。
 これは三昧の世界に通じるように感じます。
 心が波立たないので、ありのままの状態が見えます。
 
幼少の頃虐待を受けた人たちは大人になったとき、優しさやよろこびのちょっとした顔動きのシグナルが見抜きにくい上に、怒りの表情のサインは敏感に感じてしまうようです。これって、とっても生きにくいですよね。人生損しているみたいに私には感じられます。他人のウエルカムなちょっとした笑顔には何か裏があるのではないかと懐疑心を持ち、反対に不快な感情には敏感に反応して、怒らせないように気を遣って生きないとなりません。

この場所は大丈夫、このひとは大丈夫と受け止めてくれるだろうと思われる状況に、徐々に慣れてきても、心の傷が大きければ大きいほど、安心できないでいるとか、どれくらい反発したら嫌いになるか試すのを止められないことを繰り返すひとを、私はとても不憫でなりませんが、本人はそのことに気づいていないことも多いのかもしれません。自分は友だちもたくさんいるし、楽しい人生を送っていると思い込みたいし、そうしなければ自分が崩壊してしまうという取り越し苦労をしているのかもしれません。

 助けられる双方のタイミングというのもあるようです。つまり心の準備とか覚悟とか言うものなのかもしれません。時節到来を待たないと物事は順調には進まないのでしょう。
 御仏が光明で照らしていても、心の器が蓋をしていたり、ひっくり返っていたら光は差し込みにくいでしょう。

 ひとの心に寄り添うというのは、それなりの覚悟や自身の心の強さなど要求されるものがとても多いのだと改めて知らされます。自分自身の心が折れないためには、共倒れにならないためには時期が来るまで、縁が熟すまで待っているしかないのでしょうか。
 
 心の波が静かで、いろいろなことが見えすぎることも、ありのままに見えてしまうがゆえに、本当に辛くなりますが、そんな時は心の蓋のオンオフを使い分け、辛くなるならその場所から離れるしかないのかもしれません。
感謝していること
 いろいろな人が使命を果たすために手伝ってくれている気がします。
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怖いものを見てしまいました。(意地悪オーラ)

2017/04/26 01:23
 ある人から言われました。
 「人は急に変われないから。意地悪な人が急に、それも心の底から優しく変わることなんて不可能だから!。」
 それはそうだなぁくらいに軽く考えていましたが、ある一連の事象を経て、いくらお人好しの私でも自覚できました。
 
何だかなぁと思っていた人と、この人、自己中、絶対超意地悪だと感じてた男性たちが、タブル意地悪オーラを周囲にまき散らしながら、にこやかな雑談交えてを並んで歩いているところに数日前にたまたま出くわしてしまいました。恐がりの私は、すぐに身体が反応してしまい、数秒後には全身に鳥肌が立ちました。話が聞こえてしまうともっと怖いと思って、距離を取っていましたが、多分、意地悪な内容の話で盛り上がっているような感じでした。本人たちは普段通り、普通なのですが、その意地悪を楽しんでいる雰囲気がナイーブな私の心に突き刺さり、空気となって消えてしまいたいと本気で感じました。意地悪な人は押しが強い人が多く、気弱で優柔不断の私には本当にきついです。
あのときのことは思い出すだけでも、フラッシュバックでめまいがして、私は意地悪な人、塩対応な人、心が寒さで凍りそうな態度の人とは二度と関わっちゃいけないし、避けないと精神が壊れると痛感した瞬間でした。
 やせ我慢というか、こちらの対応次第で相手がよく変わると甘くみていたこともありましたが、無理でした。私はひねくれた人や天邪鬼な人や意地悪な人はパスしないと心が凍り付いて固まってしまい、身動き取れなくなってしまうことを思い知りました。優しい人たちに囲まれて生きていこうと気持ちを新たにしました。
感謝していること
やっと目が覚めた気がします。意地悪な人に無理に好かれようとしなくていいんだって強く自覚できました。学校の桜の木が葉桜に変わり、藤棚は薄紫の花をつけていました。(笑)。庭の赤いバラも咲き始めました。本当に緑が美しい季節になりました。
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その人の中の真摯さだけ見てるんだけど、私はいつだって・・・・・・

2017/04/26 01:15
 年齢や年収や社会的立場がどうだって、どんな仕事をしてても、そんなの関係ない。
 どんなときにもね、私、その人の中の光ってるところ、真摯さ英語で言うとインテグリティだけ見てる。それ以外は別にどうでもいい。
 
私にとって損か得かとか考えたことはない。
 ただ、見習いたい、尊敬できるところを見てる。
 
心の中が透けて見えたらいいのに。
 それなら嘘ついたり思ってもいないこと言わなくていいのに。
 傷つけ合わなくて済むのに。

 これが三次元の制限であり修行であり醍醐味なんだ、楽しみなんだっていう人はね
 そういう人たちで集まって勝手にやってて頂戴!
 私は無理、ナイーブ過ぎて倒れちゃうから。

 出来るだけ綺麗なもの、嘘がないものを見ていたい。
 小さい人たちのお手本になるようなものを感じてたい。
 だからね、私自身がいつも透明で光を放っているよ!
 感謝していること
 私は私でいいんだっていろいろなひとやものが教えてくれることが有難いです。

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ロンドンでしたいこと

2017/04/23 21:26
 ロンドンが好きです。イギリスが好きです。ヨーロッパも好きです。
 古くて新しいものがとっても好き!
 欧州は15回くらい行ってるけど、まだ行きたい!
 映画もいい!街並みが好き!空がいい!

真冬のサンクトペテルブルグ・モスクワと春先のイギリス・ギリシャの旅で分かったの。
 日本にいると私は私じゃないみたいって
 ヨーロッパにいるとき、特にロンドンにいるとき私は自由な翼を持てる
 たぶん、研究もロンドンでしたほうが楽しく身の丈に合う!
 ロンドンを起点に欧州中を飛び回るの。
 今はね、羽をもぎ取られてた鳥みたいなの。

 古くて古い日本で地味で暗くて狭い研究は似合わない。
 きづいたの、私、私を自由にしてくれる人は同じくらい自由で強い心を持った人。
 変な意地張らないで、プライドも捨てて、ただ目の前の私にありのままで優しく向き合ってくれる人だと。日本にいるとどんどん心が追い詰められていく。

 流暢にはしゃべれないけど、語彙も洗練されてないけど、英語でしゃべってるときの自分が好き。時にウインクしながら、ジョークを交えて、にこやかに聞いてくれる世界の友だちが好き。たぶん、そのとき、そこには、垣根がないんだ。たまにしか逢えない、あるいはもう二度と逢えないから、嘘も隠し事も要らない。いま・ここを楽しもうと、真摯でいようとその時間を愛おしんで過ごす。メールとかチャットじゃなくて、お互いに自分の一番素敵な笑顔というプレゼントを贈り合って、お互いが掛替えのない人なんだって確認し合う。一期一会。

 友達は大事。目の前にいるその人が一番大事。誰よりも大事。これをいつも思い出させてくれるのは、私の欧州の、そして中国やアジアのほんの少しだけどアフリカや南アメリカの友だちたち。

 日本の友だちは私みたいに外国が好きな人と、私より精神年齢がおとなな人。そういう人たちは外国のお友だちと同じように私に接してくれるし、私の欲しいものをくれるし、私も自分の持てるものを全部あげる。それは笑顔であり、時には今まで得てきた知恵であり、臨機応変でその時の優しさを自由自在に表現できる子どもっぽさ、言い換えれば人懐っこさとでもいうものでしょうか。
 ロンドンでは、たくさんの笑顔に逢いたい、そして私もたくさんの笑顔を残してくる。
感謝していること
 お互いの笑顔を護れる人でいることが人生の最大のよろこびだと私にきづかせてくれたおともだちに有難く感謝します。
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私のターン

2017/04/23 21:18
 やっぱり言わなくちゃいけないことは、キッパリ告げないと・・・・・・
 止めて欲しいこと、改善して欲しいこと、心が凍るから絶対して欲しくないこと・・・・・・
 どうせ言っても分からないとずっと不満を抱えたまま縁を切るのは卑怯だと感じました。
 とっても不親切ですよね。もう、嫌われようとどうしようともう関係ないと思っていても、言うべきことはしっかり分かるように表現して去らないと・・・・・・
 過ぎてしまって、辛かったこと、悲しかったことはともかく、今後、どこかで何かの縁がないとも限らないので、ひととして最低限はして欲しいことは何らかの方法で表現します。今は、私のターンだと意識して、キリッとやり遂げます。
 感謝していること
 私はいろいろ大切な人がいますが、一人でいても大丈夫だし、私自身を大切にも出来るようになったので、こういう気持ちになれたのだと感謝します。

「めったに怒ることはないんですが・・・・・(読みたくない人はスルーしてください)」
 タイマン張れよな!
 言いたいことはと誰かを通してじゃなくて、本人に言えよ!
 MLとかで流して個人攻撃する奴って最低!
 自分は性格悪いです、卑怯者ですって、自己紹介とか告白してるのと同じってことわかんないんだよね。こういう奴らって。
 
それとね、病気を隠れ蓑にすんなよ!
 だから病気になるんだよ!
 元気な人には理由があるの。
 言い訳に使う病気が必要ないの。
 単純明快でしょ。
 つまり、病気の人は病気の状態がなんだかんだ言って必要で、真剣に直そうなんて思ってないの。大丈夫とか気の毒がられることのメリットの方が大きいの。
 身体に実際痛い目して、卑屈でつまんない生き方するなよな!
 人生一度なんだしね。今生は。
 愚痴はね自分より弱い人間に言っちゃいけないの
 その人が潰れちゃうから
 相手を選べよな。
 バッカじゃない、結局ね、自分さえよければいいんだよ、自分が誰かに何かしてやろうなんて気持ちが全くない、そんな奴は私は大嫌いだ
 私のターンでもね、私が言うことっていうのは、私自身もやだけど、今後ほかの人にして欲しくないことなんだ。言う相手も選んでんの。いったらわかるひとをね。私はやだって教えたよ。とりあえず言ったからねって。
でもいくら親切な私でもね、タイマン張れない、病気を隠れ蓑にする奴になんかは直接は言ってやんないよ。
 あとね、誰かを批判したらね、それを改善する対案を必ず出すこと。出せないんなら偉そうにいったらだめ。結果的に人格を否定したり、相手を追い込むことになるから。これも分かんない奴多いよね。本人は一人前のつもりだろうけど、未熟だよね。私の先生はさすがに偉いと感心した。上から目線じゃないけどね。改善点だけ一言あり、これが書けたらOKとだけメールしてくれた。
 なんかさ、自分が生み出してる外界とはいえ、しょーもなって呆れてる。
 以上、今、怒っていることでした。
 感謝していること
 つまんない奴とは金輪際付き合わない、縁を切ろうと決意できました。今、とても爽快な気分です。 
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ナンパ・お持ち帰り?

2017/04/22 17:03
 知らない人について行ってはいけません
 小さい頃、周りの大人たちから言われました。
 大人になったら、街で知らない人が声をかけています。
 
 何だ?ゲーム?
 ついて行く人いるのかな?
 
 たいていの人は、ガン無視です。
 でも、中にはついて行く人がいます。

 怖がりな私は知っている人にもなかなか心が開けないでいます。
 なのに凄い人たちっているんだ。

 誰とも知らない人と一夜限りの逢瀬を楽しむなんて
 絶対想像もできないことができる人もいる。
 ひとじゃなくて物になってるみたい
 声かける人も、ついて行く人も

 楽しいのかな?
 私にはよくわからない。
 う〜ん。
 感謝していること
  怖がりで羽目を外すことが出来ませんが、それはそれで使命を果たすために刷り込まれた性格なのかもしれません。
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自分を一番大切にできるのは・・・・・・

2017/04/22 17:00
 他でもない自分自身です。
 それが本当にわかるのは、真理との邂逅を経て、自分が本当に大事にされていること、大慈愛の中にいることにきづいた時です。
 絶対に信じられる大きな安心、満足の支えを持つ自分の足で立つひと同士でなければ、お互いもしくは片方がもたれかかって、共倒れになります。
 それは怖いことであり、避けねばなりません。
 
 本当に心から信頼できる心境になったら、意地を張る必要もなく、裏も表もいいところも恥ずかしいところも見せられます。何もかも認めて許されることを知っているから。

 ずっと昔から、私は何かに護られている安心感があり、それが何かは分かりませんでしたが、辛くても生きてこられたのだと感じます。その何かである真理との邂逅後は、自分を大切に自分軸で生きていますが、時々そのことを忘れてしまうと苦しくなります。
 安心・満足して生きるということはきわもない空間を自由自在に自動運転もしくは自動飛行で楽しんでいる状態でしょう。
 感謝していること
  申請書を書いていたら、やっと自分の使命を果たすには何をしたらいいのかが見えてきました。
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直感を信じて!ダークサイドには足を踏み入れず、築かなくていい橋は架けない

2017/04/10 23:24
 ちょっとでもやだって感じたら、そこは居場所じゃない。快く受け入れてくれる場所にいるのがいい。我慢することなんかないんだ。直感は信じていいんだ。
 初め親切だった人が豹変したとき、何だか信じられなくて、いつかはまたあの優しいあの人に戻るんじゃないかって、本当はいい人なのに、私が何か言ったこと、したことが気にいんなかったから、私が原因であの人は意地悪な人に変わっちゃったのかもしれないなどとモラハラ・DVの被害者は感じます。いい人はずっといい人で、一貫性があります。親しくなったらもっといい人でいられるように努力します。
たぶん、急に意地悪になったのなら、そのターニングポイントは罠にはまった獲物が身動きできないか、魚を釣り上げて釣り針から外したと確認できた時です。獲物や魚は食べるか、毛皮を取るかなどもう自分のものなので、餌もやらなくていいし、大事にしなくても構わないのです。同じように自分の連れ合いやパートナーを「嫁」と称し、家事や子育てを押し付け、大人しく優しいのをいいことにいたぶる嗜癖がモラハラ・DVの加害者です。彼らは良心の呵責など感じません。生かさず殺さず、何かサプライズの贈り物をするとかよろこばせようなどとは一切考えることなどありません。 

 そんな相手、嫌いな人・嫌な気持ちになる人には近寄らないというキッパリとした信念を持ち、嫌なことはキッパリ嫌といい、決して未来に期待せず、今起きているままを冷静に受け止め、ダークサイドには足を踏み入れないこと。関係性を持つことを望まない人とは、敢えて、関わらない強い意志を貫くことに慣れていったら、生活が変わります。

 今まで退屈だと思っていた人たちが、実はいかに優しく真摯な生き方を見せてくれているか身に染みて分かります。他人に関心を持ち、いろいろ聞いてくれる人たち、一緒に楽しもうとしてくれる人たち、くだらないことで爆笑できる人たちは人生における宝です。刺激やスリルは要らないので、淡々と自分の使命を果たすことを応援してくれる人たちと一緒に生きていこうと決意しました。

感謝していること
 今日は午後から4コマ続いて講義がありました。どうなることかと心配していました。特に最終の時間のゼミはこじれた人と一緒にいるのはもうこりごりなので警戒していたら、入った途端、空気が柔らかくウエルカムな雰囲気でした。たまにはこんなこともあるのだと、ご褒美をもらったようで嬉しかったです。他の講義も有意義な内容でしたが、特に最後の時間は癒されました。
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真理という太陽に照らされて光る月でいる

2017/04/10 23:21
 私の存在そのものはただの器で、それも大したものじゃありません。
 でも、自分を手放して真理に身をまかせてから、その光に照らされて、御恩報謝の道をちょっとずつ歩き始めました。歩いては止まり、しゃがみこみ、この身が無くなってしまえばいいのにと思うくらい悲しみ、それではいけないと考えてはまた歩きだし、時には幻だとわかっている楽しみに心を奪われ、自分のことをよく知らない人たちの評価に傷つき、明るいこと眩しいことが嫌いな人たちに身体中黒い膜で覆われそうにもなりました。それでも膜を掛けられても、膜の上からの光でそれらはいつの間にかふっと消えていました。

 諦めず、また動き出せるのは、明るい光に照らされて、心が穏やかで、静かに今ある状態を慶べる身にさせていただいたことへの感謝の気持ちが続いているからです。

 私利私欲で何か私がすることではなく、真理と共に、生きとし生ける人の心を照らすことならきっと、上手くいくことを私は知っています。だから生きていられるし、いろいろ辛いこと、悲しいことがあってもそれをのり超えられます。

 もし、誰かが、私に光や明かりや優しさやその他、よいようなものを感じるとしたら、それは私自身のものではなく、真理が照らしていて、その反射で映し出されるものでしょう。そういうものが、みんなに分かるとか、求められるとは思いませんし、無理です。ご縁があり、何かできるなら、私は私の能力の範囲内で出来ることをしてまいります。

感謝していること
自分が居る場所で、出来ることをしていこうと決意できました。その場所が日本なのかロンドンなのかまたはほかの場所なのかは、マリオネットの私には想像がつきませんが、おそらく、きっと私がいろいろできる場所にいるのでしょう
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祝 キングが示唆したクイーンの私との今後の使命!

2017/03/09 14:10
 もつれた糸の綛は全く絡まらず、とうとう一本の糸に姿を変えました。
 謎が解け、私は大満足の境地にいます。
 
 キングはクイーンの私を少し前に見つけ出してくれていたのですが、今日はこんなことを言われました。
 「あなたは教えをもう説かなくても、書かなくても、何もしなくても構わない、ただ、生きているだけでいい、それだけであなたと関わった人は救われる」
 「えっ?!何、何ですか?それ」
 聞き返したのですが、キングは笑っています。

 あのペテルブルグのエルミタージュでの邂逅から、確かに私は変わりました。
 それが何なのか今一つ、掴みきれず、言葉には出来ていなかったのですが、何となく感じていました。「言葉には限界があるから、もういいかな」とも思いますが、博士論文やエッセーなどは趣味としてこれからも楽しみながら書いていこうと思います。

 「『三昧』の境地を共に世界に知らしめてしていきましょう。」ということらしいです。
 体験だけはわかるのですが、私にはそれを文章に書く術や能力がないので、それはキングにまかせます。行動と実践しか取り得のない私はそれを国内外の有縁の方々にお知らせします。英語は少しできるようにならないといけないかもしれません。

 おそらく、生まれた時から三昧の世界に生きていて、三次元の人間がよくわかっておらず、それで、私はずっと苦しかったのだと何となく理解が出来ました。浄土仏教でもどうしても親鸞聖人が分かりませんでした。善導大師・源信僧都・法然聖人にはとても親しみが持てたのですが。そして、キングやキングのお父上に対しても共感できていました。そのモヤモヤも晴れました。いろいろなことにきがつくと、より生き易くなります。
 こんな日が来るなどとは夢にも思えませんでした。
 自分は変わった人間で、誰とも理解し合えないと諦めていたことがウソのようです。
 
感謝していること
 得体の知れない『三昧』の主?にただひたすら感謝しています。
 
 
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疑いなく信じきれたら、大切な人を耐久力テストで悲しませない

2017/03/06 11:27
 里親や養子に行った先で、多くの子どもたちがすることの一つは、親になった人に対する耐久力テストです。この人たちは本当に自分を愛してくれているのか、それが気になるので試すのです。

その行為がどれだけ親を悲しませているか、考えなしで愛されることを熱望している彼らにはわかりません。

試さなくてもいいのに、どうして信頼してもらえないのだろうかと悲しい親の想いとは裏腹に、反抗したり、心を閉ざしたり、ありとあらゆる困った行為をして、反応を確かめます。どこまで困らせたら、自分を放り出すのだろうかと耐久力を試し続けるのです。子どもも親も本当に辛いです。弱さゆえの抵抗なので、心が強くなり、反対に親に対する心配りが出来るようになれば止まります。

また、男女の関係でも、特にエリートというカテゴリーに属する人たちは女性を信頼できずに、同じような耐久力テストをすることがあります。
なぜなら彼らの父親も母親や周りの女性たちを信頼できずに、畏れながら馬鹿にするというアンビバレンスな状態で接してきたから。自分は知性は勝るけど、感性はどうも敵わない。女性たちは行動力もあるし、共感して共生して生きる知恵も持っている。尊敬しながらも、自分をもっと大切にして欲しい、尊敬して欲しい、愛して欲しいと要求するのです。これらの変形がDVでありモラハラです。
素直に相手を信頼し、テストなんてしないで仲よく一緒にいろいろ楽しんだらいいのに、それをするのにはプライドが許さないのです。つまらないですね。命は短いのに。つまり他人(主に女性)を信頼できる心の強さがないのです。弱い人間なのです。
解決方法としたら、自分が愛して欲しいことより、相手を愛して幸せな状態や笑顔を見たいという気持ちが芽生えたら変わっていけます。

これら二つのことよりも大変なテストを私たちは仏さま相手にしています。
無条件で助ける、本当に心から大切におもっているという仏さまに挑戦するのです。疑うという刃を向け、頭の上に立ってあれこれ命令するのです。何も要らない、そのままと言われるのに信じきれない弱さをどうにもできないのです。テストをする気力も根気も失せた時、自分の力は間に合わないと知らされ、自力が廃り救われます。そのとき、本当に円満で完全な
智慧と慈悲を受け取ることが出来ます。

感謝していること
 意地や我慢をしている人たちを見て、自分も通って来た道だけれど、速く御仏に救われて欲しいと思えることに感謝します。
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自分の人生から逃げない覚悟と決意を持つ

2017/03/06 10:54
 誰かのせいにするのは簡単です。
 ただ、それは逃げているだけ。
 全部を引き受けた時から、本当の人生が始まります。

 私にはわかりません。
 人のせいにする人の気持ちが。
誰かの為に何かをするという人の気持ちも。
私が誰かの為にしたいから、それでしているだけです。
私がしたいのです。
そこを間違ってはいけません。

私は自分の使命を果たすために生まれました。
誰かにそれを邪魔されたという自覚はありません。
使命の遂行が止まり、回り道しているように思えても、それは何らかの意味があると思ってきました。
誰かを恨んだり、憎んだり、羨ましがったりしたことはありません。
分からないと思ったことはありますが。

他人の為に生きていると思っている人は、たった今から考え方を180度変換した方がいいです。そんなことをしていると人生がつまらなくなってしまうし、思い切って生きられないからです。
全部自分の楽しみであり、自己責任です。自分で計画してきた人生をそのままなぞって学んでいるのに過ぎないのですから。その学びを誰かに変わってもらうことはできません。自分自身で克服する課題なのです。
ただ、教えてもらったり助けてもらうことはできます。楽しみ方が分からなかったり、一緒に何かしたら何倍も楽しめそうなら、教えてとか、一緒にやってとお願いしたらいいだけです。受け入れてくれる人も、拒否する人もありますが、それはその人の都合なので仕方ありません。一緒に出来る人、楽しめる人とやっていくしかありません。

人生は思うより長いようで、短いです。
他人は思うより気難しかったり、優しかったりします。
外の世界や他人へのアプローチとトライの繰り返しです。
行動するかしないか、前に進むかとどまって悶々と苦悩して愚痴を言うかそれだけです。
どちらを選ぶのも本人次第。
私は行動の人なので、どちらに転ぶかはわかりませんが、熟慮の上の覚悟と決意を持って、人生を駆け抜けていく所存です。
この一年で、いろいろなことがあり、結構、吹っ切れたところがあります。
感謝していること
有情無情さまざまなものに感謝しきりです。

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男子の永遠のマドンナ〜虹色の嬉しい関係の女子〜

2017/03/01 11:34
 男子が憧れる女子は次の三つの要素を満たす人でしょう。




 T綺麗、U優しそう(実はしっかりしていて自分で何でもできることもきづいている)、そしてV自分のことを一番大切にしてくれる人。




 まず、綺麗というのは客観的に周りと比べてではなく、男子、本人の中の理想の美しさが基準です。その人を見ているだけで、心が癒され暖かくなりウキウキするので、ずっと見つめていたい人に引き寄せられます。




 雰囲気が優しい人でないと元々怖がりの男の子は近づけません。でもその優しさには強さの裏付けがあることを彼らはもちろん知っています。優しく強い人の側に寄っていきます。




 そして一番重要なのは日頃はみんな平等に慈愛の念を持って接しているけど、実は自分が一番大切にされているという根拠のない自信・信頼が持てることです。自分を大切にする人がほかの人をひどく扱えるはずはありません。そんな人ならがっかりですが、二人きりの時にはもちろん、ほかの人といてもさりげなくあなたは特別だとサインをくれたらそれだけで納得できます。もちろん、女子もいつも、偽りなく、真摯な態度であらねばなりませんが。




 最初、それはお母さんや幼稚園や小学校の先生かもしれません。小さい時、そんな素敵な人と一緒にいられた男子は、女子を護るナイトのような生き方をします。将来、自分の片割れ、分身であるマドンナに出合ったときの練習をします。一方、女子も男子が無償で尽くしたくなるような素敵な人でい続けることが大切です。




「僕が護ってあげる。助けてあげるから、どんなことでもするから、ただ近くで笑っていてね」




 思春期以降、マドンナと出合い、親や先生に対する何色かの限られた感情だけではない虹色の慈愛のパターンを共に享受できたとき、光に満ちた旅が始まります。




 素敵男子・女子の愛おしい日々を自ら実践し、ちいさいひとたちや周りの人たちを応援できたらと存じます。




感謝していること




 自身の子どもとして、男の子は恵まれませんでしたが、先生などの立場で、お預かりしたナイトのような小さい紳士たちと過ごせた経験は私にとっての宝物であり、これからもそういう男子と出合えることを願っています。



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基本的には相手がその気になるのを私は待っています

2017/02/27 23:13

 お蔭様で何かにつけて恵まれているので、私は自分からこうしてもらいたいということがあまりありません。また、誰かに自分から何かすることも、その人の学びやそれを経た成長を考えるとうかつにできません。
 何かしていただいたことに対しては感謝し、何らかの形でご恩返しはしますが。自分から何かするのは相手の方の負担になる気がして、気が進みません。無理やり何かをするのはどうも。何かの研究や仕事でご一緒することで、対等な関係でお互いが必要とするなら、それがいいです。 

 でも本当は利害関係がないのが一番いいです。ただ、その人と一緒にいたくて、逢いたくて、逢っているときも、別に何も話さないで、お互い自分のことをしていて、気配を感じてるのがいいです。何か美味しい料理でよろこんでもらいたいとも思いますが、時間がないので、長年アルバイトで作っていたサンドイッチくらいしかできません。

 本当に時間がないし、考えることが一杯あって、ほかに何もしたくないので、何とか時間を見つけて一緒にいられるなら、例えるなら、半分眠りながら本を読んでいるところを見ていたいです。言葉にすると憶いとは違ったことが伝わる気がするので、黙ってしまいます。何でこんなにシャイなのかと自分でも不思議です。

 今までの人生もずっとそうでしたが、これからも気質はあまり変わらない気がします。誰かが何かをして欲しいと言ってこられたら、俄然張り切るのですが、そうでないと怠惰で重い腰が上がらず、ぼんやりと春一番を心地よく感じて過ごしてしまいそうです。何かできることがあれば遠慮なくお申し付けください。
感謝していること
 優しい人たちに囲まれて幸せな時間を送っています。有難いです。
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輪廻・循環・円環・融解・溶解他

2017/02/27 01:38
 縺れた糸の固い結び目がほどけた途端に、スルスルとかせの塊がどんどん小さくなっていくような感覚を私は今味わっています。結び目は意外な感じであれっという意外な感じでなくなったのですが、糸が何の抵抗もなく真っ直ぐになっていくことに慣れていない私には、新たな感覚の意外性を楽しむ余裕もなく、戸惑いが感じられるばかりです。
 こんな楽なことで本当にいいの?
 今までの強い抵抗を伴うやり方は何だったの?

 ふと、気がついたんです。
 周りの大切で大好きな人たちが信じられることを。
 彼らが何をやってて、言っているかという言動では一喜一憂しないことを。
 今でも私は心の狭い人間であることには変わりませんが、それでも仕方がないなと大切にしてくれる母や友人たちの私に対する気持ちを知り、私も同じような気持ちになれるんじゃないかって。
 そうしたら、鉄道の駅員さんやコンビニや様々なショップの店員さんたちも周りの人たちと同じように感じられてきたのです。
みんなつながっている感覚が一度に洪水のようにどっと押し寄せてきました。バリアとかブロックのような物が地面に吸い込まれていくようなそんな感じでもあります。

 まるで物心ついた頃から小学校低学年くらいまでの小さいときの私に戻ったような感じです。その頃の私はただ、ただありのままの世界を見て聞いて感じていました。

「そうなんだ」がキーワードでした。
 
 エンパス体質の私は、目の前の人たちの喜怒哀楽をただ黙って感じて受け止めていました。

 大切なものを奪われたと泣いている人、今から死ににいくと嘆き悲しんでいる人たちの話を無言で、時には「悲しいんだよね、でも、大丈夫、私はいつも味方だし側にいるよ」「死んじゃいたいくらい辛いんだ、でも、本当に死んじゃったら、私が悲しいから止めてね」などと冷静に時には、涙を流しながら伝えていました。

 子どもの私の心が浮き立つような言葉をかけてくれる人は稀にありましたが、ほとんどは小さな私が聞き役でした。だから、人間という生き物はどんなに年を重ねても弱くてズルくてでもたまに気まぐれで優しかったり親切だったりする仕方ないものなので、真理とか御仏に身をゆだねるしか私自身の魂のようなものを癒やす術はないのだとぼんやりと分かっていたような子どもでした。三次元の肉体を維持する為には他人に対する絶対的な末通る慈悲は実践できず、時には駆け引きや偽りもせざるを得ないのだと悲しくもありました。
 
 周りの人たちの様子の見たまま、聞こえたままがまるで自分のことみたいに、または心の嘆きを敏感に感じてしまうナイーブな私を信頼して愚痴や不満をぶつける人がいても、私で出来ることはしてあげようと受け入れていました。いつも機嫌良く情緒は安定させるようにして、自分は間違っていなくても聞き流したりして、他人と比較もせず、勝ち負けに拘らず。過ぎ去ったことは忘れる性分だったのが幸いしていたから、私自身には死にたくなっても、それを実行に移さなくてもよかったのかもしれません。

 ただ、それでも何も思わないわけではなく、やっぱり他の人と同じように悲しかったり辛かったりもしますが、一瞬の間に修復されたり、消え去ったり、ダイヤモンドの表面をかするように傷がつきにくかったようです。

 数え切れないほど生まれ変わり死に変わりを繰り返している気がする私は、今生が終わっても別の形でどこかで生きているのでしょう。これが輪廻・循環・円環。自分も周りの人も初めて会うような人もみんなつながっていて、仕方のない愛すべき人たちであるような感覚が融解・溶解。
 そして、それらを全て包含する果てしない拡がりに充満しているのが、真理とか智慧・慈悲・光明などと呼ばれるものなんじゃないかなと最近は感じられるのです。
感謝していること
 母の器の大きさを感じられ、驚いています。頼りないと思っていた母ですが、おばあちゃんと一緒に暮らしている間に薫陶を受け、父亡き今、花開いた感じです。真理との邂逅の話はまだもう少し分からないかもしれませんが、実家の女主人の風格を示してくれます。まるで皇太后のようです。
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論文と平行して取り組む課題

2017/02/13 18:44
 フェミニズムやジェンダーは論文に放り込むとして・・・・・・
 もう一つ私が今生で成し遂げる予定としてきた使命をこの旅行で思い出しました。
 
それは教育です。
 小学校までの小さい人たちとその親たちへの教育です。
 保育士・幼稚園&小学校教諭の資格を取ったのは学校を作るためでした。日本語教師やカウンセラーの資格を取ったのもその一環といえばそうかもしれません。

 かつて、高校時代まで、自身がどうしても相容れなかった学校を快適なものにすべく、今までになかった教育施設を作る計画をしていましたが、途中、カウンセリングの勉強や大学院で論文を書くなどの用事を作ってしまい、少し遠回りしたようです。でも、その間学んだことがおそらく学校設立には欠くべからざるものであるように確信しています。

 ネパールでは教育に対して親御さんたちの熱い気持ちがあるようです。そこで教師を育成する人材が求められているというのです。誰かと協力して、人材を集め、理想の詰まった学校を作れたらと思います。特別な給与は要りません。ただ、仏教の阿弥陀仏の願いやワンネスの考え方などを入れて、子どもたちやその親御さんたちが生きる希望を持てる学校が作れたらとだけ思っています。

 こうやって宣言したら、お金を出してくれる人が出てくる気がします。人材は私がいままで関わった人たちやこれから縁のある人たちを何とか集められます。私の家のリビングには学校の絵と願いが叶ったよろこびや感謝を記したものが額に入っています。毎日見ていますが、いつか絶対成し遂げる日が来るのだと思っていました。

 論文は確かに大変ですが、それは通過点です。私が本当にしたいことは、世界の多くの人たちに生きるよろこびをもたらすことです。そのことを忘れないようにと言われた気がしました。
 感謝していること
 帰国を知らせると母がとてもよろこんでくれました。有り難いです。 
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大いなる真理に身をまかせること

2017/02/03 15:24
 自分以外の他人に何かを求めて幸せにしてもらおうとしてもそれは叶いません。
 そんな能力を持っている人間はいませんから。
 みんな自分のことで一杯一杯でアップアップしています。
 誰かに何かを求めると、その何かを奪うことになります。
 どんなに頑張っても、人間どうしは持っているものの奪い合いにしかならない気がします。奪い合う関係には疲弊しかありません。

 御仏の願いを賜ったとき、私は例えようのないよろこびを静かに味わってから、これで自分が実際感じられたことを周りの人たちにも、お話しできるのだという別の嬉しさがあふれてきました。仏教の教義ではハッキリ救われることが説かれているのに、自分自身の体感がないまま人に話をすることがとても情けなく辛いことでしたから。

でも、伝えることが自分が体験することよりももっと大変だとすぐに知らされました。そして、御仏の願いとか真理とかを本当に求めている人がほとんどいないことも。自分が特殊な感覚を持ち、多くの人とは異なった生き方をしていることも。それから、試行錯誤を重ね、分かり易いく論理的な話の流れや例えを追究しました。また、ご縁のある方を見極める力もついてきました。自分自身のエンパス体質もオンオフの操作が少しずつできるようになり落ち着いてきました。これからどのように御恩報謝が出来るのか今それを博論に取り組みながらゆっくり考えています。

 感謝していること
 本当に周りの人たちが優しくて涙が出そうになります。有難うございます。
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人間として最も恥ずべきこと

2017/02/02 08:59

 「他人に負い目を負わせること」だと身内から私は教えられました。
 言葉で直接言われたことはなかったのですが、そういう生き方をしない周りの大人たちを見て私は育ちました。こういうことをしたらいけないんだと、胸に深く刻んで成長しました。
 
 それでは、反対にもっとも尊いことは何か考えてみました。
 今生で真理との邂逅が出来るように励まして、自分自身に対する慈愛の気持ちや勇気を持てるように側で見護ることです。人間のそれはちっぽけで末通らないもので、本物の慈悲に到達するまでの代用品かもしれませんが、真理というものを知っているらしいあの人がいるのだから、自分もそういうようになりたいという気持ちになってもらえるならそれはそれでいいです。
 あまり優しくもなく、思い遣りもない私ですが、御仏の慈悲に少しでも近づけるようになります。
感謝していること
「人に負い目を負わせてはいけない」ということを深く理解している友だちがいてそのことを語り合いました。
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この世の学問なんて相対的で時空を超えるものは何一つないのに何で威張るの?

2017/01/29 00:37
 もっともらいし、理屈や理由がないと納得できない人が研究者となり、道楽の学会という集まりを作って少人数の内輪の仲間たちで、称賛し合います。機関誌にはお作法があり、お作法を護らない論文は、門前払いもしくは最低評価を付け、コメントさえつけません。
なんてくだらないことが横行しているのでしょう。
 
誰かの新説でコロッと、今までの学問体系が変わるのが世の常です。バッカみたいって思います。真理なんて仏教以外に初めからないって私は確信しています。なぜなら、身体で真理との邂逅を体験したから。そんなのウソだ、気が変になったのだと言われても別に動揺もしません。化城だと言われても構いません。なぜなら救われる人が一人もいない教えなどナンセンスだからです。
もちろん、釈尊や龍樹・天親・善導・法然といった善知識方と、人格や才覚や知識や指導力が同じなどと言っているのではありません。救われたといっても、自力が廃り、他力を賜っただけです。ただの出発点を通っただけです。だから、その後も、真理と三次元の世界の自他を区別する冷たい境遇の中で翻弄され、幸せだけど孤独で淋しい気持ちで生きてきました。

統計がなんだ、平均がなんだ、そんなの母集団や、質問の方法を変えるだけで違う結果が出て来るじゃない。本当につまんなくて馬鹿げてる。そんなんじゃない、正統派の研究をしたいって心の奥底から今、とっても感じてる。

どうしたら、人と人が思い遣れるか慈愛の気持ちを持って、清々しく笑い合って生きられるかを提示するのが真の学問の意味だと私には思えます。つまんない権威や名声のために一生を棒に振るような生き方はしたらいけません。そんなことをしたら臨終にきっと後悔します。

若い人たちと共に、新しいアプローチの人を幸せにする学問を実践形式で、さらに雇用を生むなど社会に貢献したりできるようなものを立ち上げていこうと最近は計画しています。

感謝していること
あまりにも、理不尽なことばかりなので、心が弾けて、何か始めてみようと考えるようになりました。でも、相変わらず、論文に目を通して、コメントを考えてもいます。
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他人に非道なことができる人は自分を大切にできない人

2017/01/29 00:30
 ハッキリ言い切れます。ハイ。
 自分と他人を区別して、他人の人格を否定するようなことができる人は、全部、自分が嫌いで仕方ない人です。たとえ自分にとって不都合な人であっても、何らかのきづきをくれる人だと私は理解しておりますので、その人の存在を消すことはもちろん、いい部分を見つけてそこだけフォーカスしていきます。

 不思議なもので、自分の意識が低くなっていると、他人に対した時、相手の低い部分だけが見えてきます。同じ言動をしている相手でも、特に問題がないと捉える人と、あの人は気を付けた方がいいと捉える人では、見ている部分が違うのです。高い意識で生きている人は相手の上澄みの部分を見ていて、低い意識の人は欠点に目が行くのです。

 だから、全然的外れな噂を立てられても、それを流している人とは関わらないことです。そんな噂など笑って問題にしないし、かえってそんなことはないよと言ってくれる人が本当の友だちですから。噂を信じたり、気にする人はそこまでの人ですから、私なら距離を置きますし、そうしてきました。意識が上がると、当然のことですが、付き合う人が変わっていきます。慣れ親しんだ人間関係は離れがたいですが、勇気を出して新しい人との出合いを求めることも大切です。

 自分が大切なら他人に対しても非道な人はできないので、いいところも認めつつ、あえて、非難したりはしませんが、後ろ向きとか、器の小さい人といると、暗くなったり、イラッとするので、できたら前向きで、器の大きい、明るい人と一緒にいることにしています。
感謝していること
 心をオープンにして、自由に生きていると同じような人が集まってきて楽しいです。
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相手を怒らせないよう忍耐の上に成り立っている関係は止めて、繰り返さない

2017/01/28 12:01
 他人の顔色を窺がうことに慣れてしまっていると、どんな時も、目の前の人が気にいる自分でいないと愛されないと思い込むのかもしれません。期待される自分像を拵えて、その自分が理想としている自分を演じ続ける。
 
幼少の時のトラウマがそうさせているのかもしれません。親や祖父母や周りの人たちはありのまま・そのままの小さい人を赤ん坊の時は無条件に愛していますが、だんだん大きくなるにつれて、ああなって欲しい、こうなって欲しいと望みを持ち、それをうかつにも口に出すようになります。子どもたちは愛されたい存在ですから、それを聞くと、周りの大人たちが望んでいるような自分でいようと努めるようになります。どうすれば愛されるかを常に考え、そういう言動を取るようになります。

特に親がいつも完璧で卒がないように見えるような家庭で育つと、失敗することは許されない強迫観念に近いようなものを感じるようになり、家でも常に気を張って暮らすようになります。反対に親や祖父母や兄弟姉妹が頼りなく見える場合も、自分が何とかしなくてはと、気が抜けません。酸いも甘いも噛み分けて、ただ、どんな言動も受け止め泰然としてくれる存在に出合えないと小さい子どもの自分が満たされないまま大人になります。

大いなる存在、御仏などを敬う宗教が家庭にあれば、いいのですが、残念ながら日本にはそのようなものがほとんどなくなってしまっています。物心ついた時から、人間には私を救う力はないと達観し、家の仏壇に安置されている阿弥陀如来に救いを求めていました。その時から私の真理との邂逅の求道が始まりました。仏さまと心が通い合う身になることを人生の目的と定め、ほかのことは差し置いて、そのことだけを願い生きてきました。人生の折り返し地点くらいで、何の不思議か阿弥陀仏の御本願を賜ることが出来ました。

心は安心満足になりましたが、三次元の人間として生きていくのはとても辛いことでした。真理の世界と現実の世界とのギャップに悩み、周りにその境地を理解してもらえる人もなく、「幸せな孤独」を抱いて生きてまいりました。ここ数年は、同じように阿弥陀仏に救われた内外のいくらかの人たちと御仏の御名を称えつつ、お互いが地球のどこかで自分のことを思い出してくれていることを嬉しく感じながら生きています。たまには逢いにいって、よろこびを分かち合います。

一人でも多く、このような境地に出られるよう、阿弥陀さまのお話をしてまいります。目の前の人に気にいられるように、怒らせないように、我慢しながら言いたいことを慎重に選んで付き合う関係は不毛なので、いつかはきっとお終いにします。

感謝していること
 何も考えない言動をしても、全部わかっているからと受け止めてくれる人は、仏さまだけではありません。仏さまの御心を信受させていただいて、それを心の底からよろこんだいる人も成り得るのではないかと最近は感じます。

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自分自身を大好きになって、信頼していく

2017/01/27 09:50

 「愛される人はいいな」某テレビドラマの中で主人公の男性が言っていました。
 自分に自信がない彼は、彼を愛してくれている彼女のことを信じられなくて、わざとそっけなくしたりして傷つけてしまいます。
 もし、自分自身を愛し信じられたら、彼女に対しても同じように愛し信じられたのでしょう。ドラマの最後の方では、彼は自分としっかり向き合い、自分の殻を破り、彼女と愛のある関係を築けるようになっていきました。

 誰かを信じるためには、逆説の様ですが、自分としっかり向き合って、自分を大好きになって信じることが最初で、ずっとそれが維持されていくところまで到達できたら、自利利他の生き方になります。

 そこまでになれるまでに、本当は真理との邂逅が必要ですが、それに至るまででも信じるきっかけとなるのは、励ましてくれるのは、すでに自分が大好きで信じられている三次元で人間として生きている人なのかもしれません。そういう人の出合で、その人から溢れ出ている慈愛を感じて、心が触れて、徐々に自分と向き合って、強くなれたり、自信が持てるようになります。

感謝していること
 今日は晴れています。素敵なことがある予感がします。
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いつもずっと逢いたかった人を見つけたらハグしちゃうかな

2017/01/26 12:37
 スピリチャルの部分でいつもつながっていると思ってても、やっぱりリアルで逢いたい。本当に愛おしい人。私の内面が創りだした存在かもしれないけど、本当に大切で大事でずっと一緒にいたいと思っていた人の姿を見つけたらぴったりくっついて離れないかも。外国の友だちに逢いに行ったとき、彼女をバス停で見かけた時お互いが磁石のように引き合い、ハグしていました。それから帰国まで、慣れない英語で会話するというより、一緒にいる空間を目いっぱい楽しみました。一緒にご飯を食べ、乗り物に乗って出かけもしましたが、ただ一緒にいられたらそれだけでよかったんだって、帰ってきてから分かりました。

  外国じゃなかったら実際は、人目を気にしてハグとかできないかもしれないけど、大切な人とは心の中でいつもハグしていたいです。あの人だけが大好きとかじゃなくて、目の前にいる特定されない人たちにもどんどん、おもいが広がっていく感じです。自分の残りの人生があとどれくらいかわかりませんが、一瞬一瞬を大切にして、愛する人たちを心の中で抱きしめ、一緒に笑って過ごしてまいります。
 感謝していること
  大切で大好きだと感じられる人たちがどんどん増えていくのはとても望ましく、嬉しいことだと感謝しております。
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男の子のヒーロー願望について

2017/01/25 12:07
 小さい子たちの先生の私は男の子たちがヒーローごっこをしているのを目を細めてみています。「先生を護ってあげるね」とか男の子たちに言われて、実際うるさくてどうしようか考えていると、「先生困ってるやろ。静かにせなあかん」などとほかの子たちをたしなめる姿には胸キュンです。彼らは自分のお母さんや姉妹たちにもそうしているのかどうかはわかりませんが、小さいながらも立派なヒーローのように感じられます。
高いところのものを取ってくれたり、パソコンの操作を教えてくれたり、たくさんある単純作業やちょっとしたお願いなどを軽いフットワークで手伝ってくれる大人の男性たちに助けられて今まで生きてきた気がします。私がフワフワして頼りない外観だからかもしれませんが、有難く行為は受け取っています。私はお菓子を差し入れたり、笑顔でお礼を言うくらいしかできませんが、その優しさに本当に感謝しています。

 ただ、完璧なヒーローみたいなところだけじゃなくて、男性たちがうじうじ悩んで、優柔不断なところや容姿コンプレックスを感じているところなどを蔭で見ていて、それもなんだかとっても可愛いなって胸がキュンキュンします。強がってカッコつけてるところも、悩んでいる弱い部分も全部含めてありのまま・そのままが大好きだと女性が感じているってことを知らない人が多い気がします。こういうことがよくわかってきたら男性たちは少し楽になれるのかもしれません。女性も威張らないし、強い振りをしない優しい男性と素敵なパートナーシップを築いて行ける気がします。
 
何事も中庸・中道、つまりバランスが大切ですね。

感謝していること
床暖房がとりあえず直りました。この冬はこれで温かく過ごせます。
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男性の持つ根深い容姿コンプレックスについて

2017/01/24 14:14
 芸能人は別として、日本で男性で容姿がそこそこ端麗で、オシャレのセンスが良くて、小ざっぱりとしていて、なおかつ、いい香りがするような人とは滅多に出合えません。特に研究者の中でそんな人を探そうとすることは、雨夜に星を求めるがごとしで、徒労に終わるどころか、絶対にないことなのだとダメだしされるような気がしますので、そういうことは皆諦めてしません。

 これに対して、女性は化粧などでごまかせるので、元々は凡庸な容姿でも、努力でそこそこそれなりには見えることが出来ます。ほんとうはそのまま、ありのままで輝いている人が素晴らしいのでしょうが、それは内面から出るもののなせる業で、それこそ研究者で外見が素敵な男性と滅多に会えないのと同じくらい難しいです。

 最近、男であることの辛さ、劣等感というようなことを見聞きしたり、読んだりして、いろいろ考えます。

 女性のほとんどは死ぬまで女を捨てず、三十代までの多くの男性も男を捨てていない気がします。だから年配の女性でも身なりには気を遣い、何となく安心できますし、そんなに一緒にいるのが嫌という人はいません。でも、男性の四十代を超えた人たちで男を捨てたような人はただ、不気味な感じであまり近寄りたくありません。そんな人たちでお金や地位を持っている層は始末に悪いです。こちらがいつも機嫌よく、大人しくしているのをいいことに、やたら上から目線で、威張り散らし、甘えてきます。こいつは何を言っても怒らないし、好き放題しても構わないと決めつけ、横暴な言動を取ってきます。同じように失礼な態度を取るとその人たちと同じ人間に成り下がるので、出来るだけ避けるようにはしています。

 これが私が年寄りの男性が苦手な所以です。本人たちが自分自身におそらく感じているように「可愛くない」んです。
可愛くない人たちに威張られると、生理的嫌悪感のプラスしたマイナスの感情が怒涛のように込み上げ溢れ、キレそうになるのを必死でこらえて耐えていた時もありますが、最近は何だか哀れに感じられ、こちらのターンになったような気がします。

 年齢を重ねて「可愛くない」男性でも、謙虚さや、思遣りや、器の大きさを示す言動があれば、高級クラブのお姉さんのところに行かなくても、周りのそれなりに器の大きい知的でそこそこ綺麗な女性たちと友だちになり、お互いが獲たい知識欲も満たせるものです。
 
 容姿も含めて、誰かと対等に話をしたり関わりたいと思ったら、何らかの努力が必要です。お金や地位はあっても、見かけも磨かず、器の小さく料簡の狭い男たちに未来はありませんし、見捨てられます。若い人たちは、オシャレに気を遣ったり、物の言い方をスマートにするなど、それなりに全ての面で必死に努力していて、器云々は別としても、威張らないだけましなので、女性たちの多くは、そちらに流れていってしまいます。でもこじれて、ひねくれて、自分を客観視していない老害を流す人たちには気に入らないし、なんで大したことないあいつがモテるのかと、不思議ですが、おそらく、彼らは一生きづかずにいるかもしれませんね。そんなこと誰も教えてくれませんから。

 もともと、男女ともに映画スターのような美男美女は滅多にいません。でも、生まれ持ったものをいかに劣化させず、維持しようかと努力することや、内面を磨くことで人を気分よくさせることをしている人たち同士は、それなりに心地よく過ごしているのが、この制限が一杯ある三次元の世界なのだと感じます。どうせ、生きるなら遊び気分で楽しく生きていきたいものですね。

 それから、容姿が美しい友人たちに聞いた話ですが、彼女らは男性はござっぱりして似合うファッションを身に纏っているなど最低限のことをしていれば、背が低かろうと太っていようと余り見た目で判断しないし、「美女と野獣」みたいに釣り合わないと周りが捉えようと、全く気にしないということでした。中身重視らしいです。容姿にを気にするくらいなら仕事や自分の好きなことに取り組みたいと自分も感じているようです。つまり、男性は(女性もですが)器を広げて、毅然としていたらいいのかもしれません。
感謝していること
 遠く離れていて、悟りの感覚を共有する別の言語を使っている人と、翻訳機を通して言葉を送る間に、感覚で分かり合えているということを感じました。相手の言おうとしていることをお互いに感じて、その通りのことを次に書いていました。嬉しい発見でした。
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返信をしないという相手の選択」を尊重する態度が出来る人とはなかなか会えない

2017/01/22 06:35
自分ひとりで自分の幸せを完結してたら、自分以外の人に幸せにしてもらおうという期待しなくてもいいです。

 心の隙間を埋めてくれる人を誰か探してきて、無理やりそれを何とかしてもらおうと期待しようとしても無理です。自分が愛されたい、癒されたいと思っている人がほとんどですから。

 それでも、死んじゃいそうに寂しくて、誰かに頼りたいとき、何とかしくれそうな人が近くにいたら、恥も外聞も捨ててお願いしたらいいです。でも断られたら、「やっぱりだめか」って思ってスッパリ諦めたらいいです。別の人を探しましょう。

 そうしているうちに、人では自分の心を癒すことが出来ないし、御仏など宇宙の真理との邂逅をした上で、自分自身が自分を癒しエネルギーチャージをして、それを他人に分けてあげる側になるしかないと悟ります。

 一つ注意ですが、今、周りに自分を癒してくれそうな人がいない時、かつて懇意にしていて今は音沙汰がない人を無理やりコンタクトを取って何とかしようなどと言うのは無理があります。音信不通とか縁が遠のいているというのは、相手側につきあいたくないという何らかの理由があるからです。過去は済んだこと。みんな今目の前にあることに向き合っていて、それに忙しいので、邪魔をしたらいけません。

 メールでも返事が要らないと書かれた時や、Cc Bcc で伝えるときは基本的に、返事は求められていません。とくにBccでメールを受け取ったときは、絶対返事はいらないという意図が込められています。本当にただの報告です。だから返事をもらうと嬉しいけど、「う〜ん」ていう感じです。Ccで集団のみんなに当てたメールなどでは、自分が書いた内容の一部の確認をもらうくらいで構いません。

 要するに私は手紙的な内容以外のメールが苦手というか嫌いです。メールではなくできれば、言いたいことは報告も含めて直接本人に伝えたいです。物理的に無理な時は、できるだけ短いメッセージで伝えます。
 
 私はおもいと言葉と行動は一致させるようにしています。だから、私に関しては言っているそのままが、本心だと取って一向に構いません。自分を殺傷を目的で向かってくるとか、悪意をばら撒いて失脚させる人に対しても、気が弱いので相手を睨んだり、冷たい目で見ことはできません。そんなことは滅多にないですが。もちろん、日常でも咳払いとかも下品に感じるし自分では絶対しません。自分がされると嫌だなことは基本しません。親にもするなと言われていた舌打ちというのは神経に触りますのでこれは錐で刺して回される感じがして、それをする人とは距離を置くことにしています。波動が下がる気がします。その後はひっそり身を引くことを常としています。

 仕事や学習などで期限があることは返事をお願いしますが、ほかは本人にまかせます。返事が来なくても構いません。それはその人の選択なのだと態度を尊重するからです。私も基本的には同じようにされたいというのもあります。

 でも、職業病なのか、相手の時間を搾取したくないという癖がついているのか、失礼がない程度に、報告や連絡などは相手から聞かれない内に、こちらからさせていただくことにしています。お相手に、あれはどうだったと聞く手間を掛けさせるのは申し訳ないからです。お互い忙しいのですが、自分の手間や時間を使うことの方で相手がことの経過を納得してくれたらそれでいいです。
感謝していること
 論文で頭の中が一杯で、会話も日常の行動も最小限で済ます節約モードに入っていますが、周りの人がそれを理解してくれていて、許してもらえていることに感謝します。
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足るを知る

2017/01/20 19:45
お蔭様で、今のところ、何の不安もなく暮らしております。
 元々のんびりしていて、あくせくするのが苦手なので、そういうものを引き寄せて生きているのでしょう。本当は南の島でエメラルドグリーンの海を見ながら潮風に吹かれて、何もしないで、ただぼーっとしていたいです。そうしていたいのですが、今生での使命を果たさす役割もあるので、サマーバケーションくらいでいいのかもしれません。
 
 幼少の頃、おばあちゃんの同居する本家に嫁いだ母がこう言っていました。
 「何もないところから、家のものを一つ一つ揃えていく生活の方が良かったのに」
 そこには感謝の気持ちがあまり感じられなかったので、私はこう言いました。
 「いろいろなものが揃っていても、それを感謝して使わせてもらって、別のことで周りの人の役に立てるようにしたらいいんじゃないの。実際何もない人たちにはこんなことは言ってはいけない言葉かもしれないよ。」

 初めからいろいろなものは揃っていても、おばあちゃんと両親と子供三人で暮らすのはかなり大変な時もありました。田んぼが道路として売れたとき、急に家が豊かになりました。小学校低学年の時です。私は月賦で買ってもらった木製の机を使っていましたが、妹や弟はスチールのいろいろ飾りのある机を買ってもらい、家も新築して、借家なども持つことが出来ました。同時に、親戚とお金のことで揉めたのを目の当たりにしたのもこの時でした。

 今頃になって、最終課程の博士論文を書いているのは、これで両親に対して御恩の少しでもお返しできるかもしれないという気持ちからです。「勉強が好きなんですね。」とよく言われますが、ローンで買ってもらった机で、初めに勉強した記憶がずっと心に残っていて、ただ勉強できることが嬉しくて、だから誰かに勉強しろと言われた記憶がなく、淡々と読んだり書いたりすごしてきて今に至っております。

 京都の今の大学に初めに通ってから、ずっと結婚するまでひとり暮らしをしていました。週末に仏教の話を日本全国に聞きに行くために、アルバイトをするなど余裕があまりない暮らしをしていました。衣食住に困ったことはありませんが、それなりに倹約・節約した生活を送っていました。今でもそれは変わりません。お金はお金を大切にする人や多くの人を喜ばせる人の所に集まります。それ以前の問題として、使わない人はお金がたまります。自動販売機で飲み物を買うという感覚が今でもわかりません。水筒やネットで買った水などを持って出かけます。そうしてためたお金で海外に出かけたりしていますが、そこでもあまりお金を使いません。親が必死で働いている後姿を見てきたせいかもしれません。

 成長して後は、メンターや会社の社長が食事を会う度に、お礼は無用とご馳走してくれていました。私も早くお金を稼いで、ご飯をご馳走し出来るようになります。年配の方々には、ごはんをご一緒しだけではなく、チップの渡しかたや人の上に立つことや気持ちよく働いてもらうための心得なども教えていただきました。「衣食足りて礼節を知る」「金持ちケンカせず」などのことわざを体験を通して学びました。

 今でも、私はそれほど、贅沢な暮らしをしていませんし、これからも、ただ必要なものが読めて、書けて、発表できて、たまにワークショップなどをしながら、仏教のお話がして行けたらそれだけで満足です。働きながら倹約もして、縁があればいつでも外国にも行けるし、ある程度満足した暮らしはできるという根拠のない自信があります。「不活の恐れなし」とでもいうのでしょうか、これは仏教で救われた人は5つの恐れが無くなるということの一つですが。

 このように、人に対しても物に対しても執着がさほどなく、私を必要としてくれる人の傍らにいつでも行きたいし、居たいです。すべて御仏におまかせしているので、私は操り人形のように、言われるまま、命じられるままに粛々と生きていく所存です。
 感謝していること
 今日は晴れていて気分がいいです。
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もし今日が人生最期の日なら何をおもうかな

2017/01/20 19:36
阿弥陀仏への御恩でしょうか。
 それから、恩師・両親・家族・友だち・周りの人たちへの感謝。
 そのときまで、ほんのわずかしかないかもしれませんが、この先の人生を、光の中で、ピンクなどの明るい色の服を着て、微笑んでいると私はそう決めています。
 
 幼少の頃から、ずっと、怒ったり、睨んだりされると、弱い私は心臓の動悸や脈が上がります。だから、出来るだけ穏やかに過ごしています。論文で言語操作をしょっちゅうしないといけないので、日常では疲れるので、言葉を執拗に駆使した話はしたくありません。

 フィニッシュまで、だんだんにソフトランディングをしつつ、穏やかに自分の使命を果たしていく所存です。誰かと争ったり、余分な欲を起こすと泣く人が出て来るので、そこら辺は適当でいいです。仕事などで考えるとき以外は、ぼーっと静かにしていたいです。同じようにしていられる人がいたら、一緒にいてもいいし、いないなら一人でもよろこべる身の上にしてくださった御仏の御恩を感じつつ、今生を終わっていきます。
感謝していること
 好きな服を着れて、食べるものにも困らず、雨露、寒さ暑さもしのげる家があり、生活は上手く回っていることに有難く感謝しております。
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音沙汰がない人は放っておく

2017/01/19 08:56
 音沙汰がないというのは、今は、縁がないのでしょう。
 最近私は、今、ここを生きることにしています。
 連絡がない人は、何かそれなりに関わりたくない理由があるのだと思います。
 忙しいとか、病気とか、最悪の場合、死んだとか。
 それでも、必要があれば、本人が連絡できなくても、その人の周りの人に頼んだりします。また、いろいろな縁で、何らかの知らせを受け取ることが出来ます。

 自分から関わる時は責任が生じますから、その覚悟がない限り、放っておくことが大切です。
 
ただ、自分の余命があとわずかでどうしても逢いたいとか、自分は元気だけれど相手が生きて元気にしているかどうか知りたいとかなら、思い切って逢いに行かないと心残りでしょう。相手とアポがどれようが取れまいが、そういう時は身体が動いてしまいます。そういうものです。どうしても何かしたいとき、人は恥も外聞もなく、行動します。反対に言うと、行動できないというのは何かのブロックがあります。相手に悪く思われたくないというだけなら、それはおもいが浅いし、行動に簡単に移せますが、その深層に何かがあるから重い腰が上がらないのです。

自分の足りない所を癒してもらう理由で、疎遠になっている人と連絡を取るのは動機が逆な気がします。そういうことで縁を持とうとすると癒されなかったり、逢うことを拒絶されたりします。むしろ、自分が相手に対して何かできることがないかという気持ちで行けば、相手が自分を必要としていないで、拒絶されても別に、今、そういう需要はないのかと割り切れます。

特別、気になったり、親しかったり、恩を受けたりした人以外は、自分から何かするのは、あまり気がすすみませんし、佳い結果につながらないと思います。お互いの波動が合わないと、嫌な思いをするだけですから。むしろ、向こうからやってきたことや、共通の用事がある時に限って、コンタクトを取り、関わる方がいいでしょう。

自分自身が愛が溢れて、自分を癒せるようになり、人にも分けてあげられるようになると、こちらからコンタクトを取ろうとしなくても、向こうから自然にいろいろしてくださいと言ってこられます。腐れ縁とか、嫌々している気配を感じたら、それは波動が低いし、拗れているので、それを建て直すよりも、思い切って一度、クリアにしてまた始めから関係を構築し直した方がいいでしょう。

最近面倒なことが、嫌になり、いろいろ見直しを始めていて、スッキリしています。
そうなったとき、残るのが本当に真摯な人たちであり、信頼できる関係なのだと感じます。そしてとても優しく居心地がいいものでもあります。
意地を張ったり、拗れたり、拗ねたり、器が小さい人たちと関わると、波動が低い方に引っ張られ、辛いおもいをしますので、出来るだけ反対の方向の真摯な尊敬出来る人たちを選んで一緒にいると物事がスムーズに進み、裏切られることもなく気分が高揚してきます。人と仕事は選ぶことが大切です。

感謝していること
ある企画から撤退することに決めました。そのことを報告しに行くと、相手の方もその方向でお考えで既にメールをくださっていました。そのメールが愛に溢れたものだったので、退いたことが良かったと心から感じられました。私のジョークにナイスな返しもいただけました。有難いです。
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引き際、けじめ、後始末等々・・・・・・

2017/01/19 08:51
 前を向いて歩くことは私に課せられた使命です。
 一秒たりとも止まっていられません。
 
 今の私の課題は博士論文を書くことです。これは使命を果たすためにクリアしていかなければならない課題であると痛感しているので逃げないで取り組んでいます。だんだん嵌ってきましたが、そのうち大好きになれたらと思います。目的を達成するために可処分時間を精査していこうと決意したところです。もちろん論文を主に考えていきますが、それはあくまで布教の手段の向上です。
 残された時間のない私は、恥も外聞もなく、必死で、阿弥陀仏の御本願を有縁の人たちにお話ししてまいります。そのための引き際、けじめ、後始末をしてまいります。
 
本当は、誰とも何も話さなくてもいいのが一番です。心が通い合う相手と、できれば、たまに同じ空間でいて、顔を見て微笑みあえたら、それだけでいいです。一瞬のときめきで構いません。同じ気持ちでいる人が、遠くにいても、相手のことを私が、思い出せるだけでいいのです。私のことをおもってくれてなくてもいいです。見返りは要りません。私がこんなにも大切におもえる人がいてくれたのだと感謝出来たらそれでいいのです。傷つくことを恐れていた自己満足の時からはちょっと抜け出られた気がします。

「来るものは拒まず、去る者は追わず」

これが私の今生での信条です。

以下のゲシュタルトの祈りとも似ています。

ゲシュタルト療法の創始者、フレデリック・S・パールズ(独・精神科医) の言葉

「ゲシュタルトの祈り」

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きています。
私はあなたの期待に応えるために生まれてきたのではありません。
あなたもまた私の期待に応えるために生まれてきたのではありません。
私は私、あなたはあなた。
もし私たちの心が通い合うのなら、それはとても素晴らしいことです。
もし心が通わなくとも、それは仕方のないことです。
感謝していること
 いろいろきづかせてくださる周りの方々に感謝しております。
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大切な人の心にちょっとずつ触れる

2017/01/15 10:57

 『星の王子さま』のなかで、キツネが王子さまに他者との関係は少しずつ縮めるものだと教えるところがあります。このことは、気弱で人見知りが激しい私には最近特に納得できます。日常の表面的な会話等では分からないような、相手の小さな息つかいや感性など細かなことはある程度長い間、両者が伝えてはそっと返す、ガラスのボールでの優しいキャッチボールのような心の交流が不可欠だと痛感しています。
潜在意識ではつながっている気がしても、言葉(書いたものも含む)や感性(直接逢えなくても遠くからでも)で確認できないと三次元では安心・満足できません。
 大切な人がいたら、その人の好きな本や映画や趣味などに自分自身も本気で没頭してみると距離がどんどん近づいて、あまり何も話さなくても温かい雰囲気で一緒に過ごせる気がします。
 感謝していること
 ワークショップに参加したり、企画するのはとても楽しいです。ご縁に感謝します。
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信じられたときとは疑うことに疲れ果てて白旗を上げたとき

2017/01/12 22:57
 もちろん仏さまや人を簡単に信じられる人もいることはいます。
 でも、大部分が人生に困難を感じ、罪悪感や被害者意識なども合い混ぜで生きているので、信じることは簡単ではありません。疑いの余地のないものにまで疑わずにはいられないのが人間の悲しい性です。

 仏さまへの疑いはようやく晴れましたが、その後、人間に対するそれを克服する過程では、かなり厳しく困難な道のりが待っていました。人間、全員を疑わないというのではなく、ある人に対して、この人になら騙されても、地獄に堕ちても構わないと親鸞聖人が法然聖人に感じられたように信じることができたのです。そこには何の見返りもなく、ただもう疑うことに降参したといった状態です。

 そこまで至るにはたくさん傷つけられたように感じ、もう素直なありのままの私でいよう、抵抗するのは止めようとある時から感じられ、そのままの状況が続いています。仏さまと人で信じる対象は違いますが、信じ方は同じような経過をたどった気がします。ただし、仏さまは私を傷つけることは一度もなかったことが違っています。また、傷つけられたと感じたのも、私の心のブロックがそうさせていた、臆病で不器用なボーダーラインを飛び越えられない気弱さで、そうなってしまった感じです。今度こそ、信じようとして向って行った結果、いつもあえなく撃沈されて、ぼとぼ帰ってきた感覚です。それをもう止めようと決意できました。

 信じきるということはとても勇気のいることでした。信じる対象が絶対裏切らないか、裏切られても後悔しない自分でいる状態まで気持ちを持って行かなくてはならないからです。幼少の頃から、かなり辛く苦しいことを実際、経験し、見聞きしてきましたし、それをたくさん心の中にストックしていますが、それは一つ一つが私にとっては宝物だったのかもしれません。苦しく辛いことしか人間を成長させないことを信じるということの課程で私は知り得ました。
感謝していること
広く大きくあたたかい感覚を受け取ることが出来たことを嬉しく感じます。三次元の人間としての醍醐味をもって、遊び感覚で生きられることは私にとって、この上もないよろこびです。 
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Fragile(壊れやすさ)とvulnerable(傷つきやすさ)の相違

2017/01/12 22:45
 前者は物が壊れる人の身体の表層が実際、擦傷などで傷つく感じがします。
 後者は人の心の奥で深く傷つく様を表現している気がします。

 ジェンダーの差異による男女の理解が難しい点は、後者のより入り組んだ被害者意識のようなものを包含する言葉がそれをよりよく表現していると私には感じられました。
 何も考えなくて、素直なのが一番ですが、周りに意地悪をする人がいると、特に心身をいじめぬかれるなど不遇な環境にあると構えてしまうのは仕方のないことです。

 常に強く優しく、見返りも求めず、命も惜しまず自分に慈愛の念を持って接してくれるのは仏さまだけだと感じて、私は仏さまの願いをそのまま賜りました。しかしながら、煩悩を持ったまま残りの人生を全うしなければならない矛盾と直面して、よろこびはもったまま、長いこと煩悶の日々を送っていました。

 最近、やっと、そこから脱け出せた気がします。
 分かり合えない人は、分かり合えないと認識することが大切だとわかりました。
 その上で、最善のことをしたらいい、その人にとって自分が今、必要でなければ、遠くで見守っていて、何か求めてきたら出来ることをしたらいいと割り切れました。

 必要とされているなら、その度合いに応じて、してほしいことを出来る範囲でして差し上げたらいいのではないかということも分かりました。誰が一番というのでもなく、その場その場に、今この瞬間、目の前で助けて欲しい人にふさわしいことを全力でしていこうと思います。それを八方美人とか受け取られるのもあまり気分がよくないですが、仕方ありません。ただ、一番大切にしたい人は、その人と一緒にいることで、周りの人たちに慈愛を感じてもらえる人で、対等でいられる一緒に使命を果たせる人です。これはよく分かって欲しいと思っています。

 表面的な壊れやすさの修復は私でなくても、医師・心理士や看護師などの施術者や弁護士などにしてもらえばいいでしょう。私はもっと奥深い存在の意義や迷いから抜け出ることや日々明るく楽しく共に生きられることをお話しし、ワークショップを行い、文章残していこうと今は考えています。

 壊れやすさ、傷つきやすさはスクリーンに映った夢幻のことであり、真理との邂逅の後それが自覚できたら、人生は真の意味で遊びになります。それをお伝えしてまいります。
 感謝していること
 いろいろありますが、自分が使命を果たすための軸がぶれずしっかりしていたら、目的と違う人は去り、助けてくれる人は集まって来るものだと実感し、感謝しております。
 
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自分が信じられて、はじめてほかの誰かも信じられる

2017/01/09 08:27
 自分が信じられないとほかの人を信じられません。
 自分に優しくなれたとき、ほかの人に対しても優しくなれます。
 自分自身がとっても好きな人だけが、周りの人たちも好きになれます。

 自分がいつか、ただ、柔らかな優しくてあたたかい光の中でいたときと同じように微笑んで、大好きな誰かと過ごす準備ができている確信があれば、きっとすぐにそういう状態に移行できます。その確信は緩く穏やかなもので、必死に歯を食いしばるようなものではなく自然になされるものでしょう。
感謝していること
 この冬は暖かく過ごしやすいです。今日もたくさんいいことがある予感がします。
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全てにおいて最後は信じることなんだ

2017/01/05 21:02
 新しい年になりました。本年もよろしくお願いします。
 阿弥陀仏のお約束を疑いなく信じることばかりを私はずっと言い続けてきました。仏さまは信じられても、人間は子どもの頃からのトラウマからか、無理かと諦めていました。「それではだめでしょう,人も信じないと」と、年末にすでに疑いを手放した友だち(彼女には春に話して以来よろこんでいる)に言われました。
 「私に足りないところはそこかも知れない」と感じました。どこか人間を信用しきれないところがありましたし、今でもかなり恐がりで人見知りの私が自分の殻をどのように破って行くかが今後の課題でしょう。何となく信じられるんじゃないかというちょっとだけ根拠がある明るい展望を持っています。
 感謝していること
 いろいろな人に支えられ、教えられています。有り難いです。
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気持ちを新たに始めてみよう

2016/12/25 14:41
 今までいろいろなことをしてきましたが、阿弥陀仏のお約束を受け取ること以外は、夢中になったことがありません。疑うことを排除して極力自分の気持ちを見ていった結果、信じる気持ちが全くないことに気が付くという自己矛盾が知らされた日々でした。信じる気持ちがないということに疑いが晴れ、そんなものでもそのまま救うという願いを受け取らせていただいたので、私の人生の宿題はこれで相済みです。救われた時は、ただただ嬉しかったのですが、すぐに、自分だけ心が晴れて澄み渡る心境に救われていたのでは申し訳ない、この境地を有縁の方に一人でも多くお話ししていこうと決意しました。

それから、また苦難の道が始まりましたが、今度は阿弥陀さまとご一緒させていただいているので、心強くもあり、苦労のし甲斐もあります。自動運転のように身をまかせているので、自分では回り道のように感じるときがあっても、時間が経つとあれはあれでよかったとか、そういうことだったのかと分かる時が来ました。

脇目も振らず、一心に、御仏に救われ、死の恐怖がなくなることを夢中で求めてきたので、普段の生活はどうやって維持してきたのかよく覚えていません。人間としての辛さや痛みはナイーブでちょっとしたことでも動揺して振動するので大変で、人生は苦しいことがほとんどで、ほっと息をつく暇もないほどだった気もします。

 今は、少し余裕が出来たのか、阿弥陀仏に救われた人でも人間としては分かり合えない人たちもいることもいるし、救われていない人でも心が通じ合える気がする人もいることも分かってきました。できることなら、ご縁のある人たちはみな阿弥陀仏の御本願に救われて欲しいです。そこまで行かなくても、心が通じ合い柔らかな温かい気持ちで一緒にいられる時を過ごせたらと願っています。
感謝していること
 阿弥陀仏に救われるご縁になることの次に、人を本当に大切にすることや思い遣ることが私にはまだわからないので、子どもの頃の何も考えていないで、周りの人の善意をそのまま受け取れた状態から始めてみようとしています。周りの人たちにはよくしていただいており、感謝しております。
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今、生きている実感を持っていたい・・・・・・

2016/12/21 00:15
 もし、自分の命がもう残りわずかなら何がしたいか考えます。父が他界し、命なんて儚いものだと身を以て知らされ、自分の人生を考え直しているところです。

 博士論文を出して博士号を取得するために出身校の大学院に戻りました。他の大学じゃなくてここしか私の思い描く論文は完成できないと何となく感じたからです。それでも、自分の思いを整理して表現するに至るまで半年くらい時間がかかってしまいました。その間父のこともあり、中断も余儀なくされました。この頃やっと、論文に集中できる環境に身を置いて、参考文献を読んだり、論文の計画を立てられるようになってきました。

 今は、論文を書くことに集中しています。ほかのことは特にしたいとは思えません。先人の文章では、新しい発見や、自分と同じ道を行っていたのだと感動することも多く、この頃は、気が付くと時間が経つのも忘れて文字を追い続けています。
 
 「今までのことがあったから、今のあなたがある」こういってくれた人がいます。

 本当にそうだと思います。様々な論文を拝読していて、苦しかったり、悲しかったりしたし、何となく回り道だった気がしたけど、私にとっては、全部必要なことだったのだとその言葉にやっと実感が持てるようになりました。

 使命を果たすべく論文を書いていて、本当は分かり易い言葉で誰にでもわかるように書きたいのです。でも、お作法や型を身に着けてその上で、書けるようになるために今は博士課程に身を置いています。だから、速くその書き方に慣れて、どんな書き方であっても、多くの人が分かるように書けるようになります。地頭も特別賢い訳でもなく、飲み込みもよくなく(身体の喉も丈夫じゃないです)、ひたすら精進するしかない私ですが、出来るところまでやってみようと思います。

 もしもあと何か月かしか生きられないなら、もしかして今日が死ぬ日だったらと覚悟して、研究を第一として、目の前の人が生きる希望を持てるように真摯に生きてまいります。それと、大好きな人を近くで少しでも感じていたいです。
感謝していること
 この頃、論文一色になっている私ですが、家も学校も全てが研究がとてもはかどる環境になってきたことに感謝します。
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あるとき誰かの真摯さが感じられたら、その先、自分がどうしていくか(軸)が定まる

2016/12/17 23:01
 真摯さを受け取れるのは対等な関係が構築できると確信したときと同時な気がします。
 何らかのパッションが感じられたとき、いつもは幾重にも理論武装してクールさを装っているその人が無防備なありのまま、そのままの赤ちゃんみたいに向かってくる姿を見たら、日頃の作られた姿じゃないその人を感じられます。笑えちゃうくらい不器用で必死でひたむきなところがどうしようもなく愛おしく、もしもこの人が私を裏切っても、何かどうしようもない理由があってのことで、私が犠牲になることで幸せなら別にいいやって思えてしまう瞬間です。
 
 表面的なことはほかの人との兼ね合いで、いつも楽しい状態をキープできなくても仕方ないこともあります。だから、小さい細々したことはあまり気にしないでいて、心の中でお互いに信頼できていたらそれでいいんじゃないかって、割り切れるような真摯な人と出合えたら、そんな人とは一生涯で何人かで合えるかどうかなので大切にしましょう。その人が何をしてくれるかじゃなくて、自分がその人に何ができるかをお互いに憶い続けられます。

 男女に関係なく、お互いが表面的に波がしきりにたって、揺れ動く心よりもさらに深い海のようなところでつながっている真摯な感覚の人を一人でも見つけられた人生はその先、いままでより味わい深く、人間としての醍醐味が感じられていきます。相手の目に見えて聞こえる言動より深い何かを感じていこうといシフト転換ができます。メールやラインというツールの言葉に頼るものよりも確実な心の遣り取りが始ります。深いところの何かを感じようと目をつぶっているような状態なので、その人が目に見えておしゃれしてきていていたことを後でそういえば、いつにも増して素敵だったし、あのとき褒めてあげればよかったと後悔することもたまにあるので、現実もきちんと生きていい気分を何倍も楽しもうと思っています。
感謝していること
特に何も特別なことも起きないけど、論文を書くために集中できる環境を支えてくれている人たちに感謝します。
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宇宙人宣言〜博論のめどがつくまで人間止めます〜

2016/12/10 22:31
人間らしい生活を止めて、宇宙人のような生活に突入しようと決めました。

 最近、いろいろ嫌なことがあって、ストレスになっていて、いろいろな人と話をして解決策を見つけていました。その甲斐あって、今日人間らしい生活をストップして、論文に専念しようと決心しました。昨日相談した人には、査読論文3本通るまでつまんない生活が続きますよといわれました。つまんない生活?覚えがあります。本当に味も素っ気もない生活。
 
 去年の今頃、修論の追い込みでいつ食べたのか寝たのかわからない生活をしていました。少し何か見えてきて、紅葉の色は甦って来たけど、まだ結論が書けなくて、頭の中が同じようなところをぐるぐる回ってて、生きているのに死んでるような日々を送っていました。

 そして出身大学に戻った4月からはアントワープの発表の準備で忙しくしていました。梅雨の季節からは、咳が止まらなかったり、ひどく体調が悪くなり、場面緘黙とかにもなってて、保健センターのベッドで休んだりして何とか7月の講義終了まで乗り切りました。
 
 その頃から父の病気が深刻だと聞かされ、アントワープの発表の前に急きょ帰省して、様子を見に行きベルギーから帰国後すぐに、父の手術が決まり、看病に帰りました。退院したので後期の講義の1週目に京都に戻り、論文を書き上げ提出して、また戻ったら、父が昏睡状態になり再入院して帰らぬ人になってしまいました。
 葬式を出した日、夫と娘と京都に帰り、翌日から講義に戻りました。その後も、辛いことが重なり、また、場面緘黙になりかけ、これではいけないと思って何とか少しずつ話をしたら、やっと最近は半分くらいは話せるようになりました。

 そして昨日、やっと光が見え始めました。
 去年の今頃からと同様、論文提出直前のような状態になることを、私は故意に避けていたことに気が付きました。つまんないし、退屈で、嬉しくもなく、ただただ苦しくて、ひたすら本を読み、パソコンに向かう日々でした。そのつまんなさに我慢できるのか、戻れるのか、でもきっと戻らないと最短で修了できないんだろうということは漠然と考えていました。戻るのが怖かったので、いろいろ逃げ道を作って、その論文に集中する生活を考えないで遠ざけていたのだと思います。

 これからは、宇宙人のつもりなので、誰に何を言われても次のように想い、気にしないことにします。
「そうなんだ」「なるほど」「そうきましたか」「そういうことですね」「了解しました」「承りました」「OKです」「許可します」「十分確認しました」「もう好きにしてください」「どうぞ、ご勝手になさってください」
感謝していること
 今日、私がこのように気持ちを切り替えることが出来たのは、今日まで、ずっと何かあるといつも話を聞いて優しく励ましてくださっていたある方のお蔭だと有難く感謝しています。
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振り返ると仏教を聞くことに大半を費やした人生

2016/11/30 22:42
 無常観があまりにも強く、死の恐怖の解決が出来たらもうそれで、人生は終わっても構わないと感じていました。だから、今、それが済んでいるので、私の人生は遊びです。しかしながら、同じように無常観で苦しんでいる人のために、死の恐怖の解決ができる仏教のお話をしていくために残りの人生を駆け抜けてまいります。
 若い頃、日本中、もしくは海外で聴聞し、その旅費や宿泊代を捻出するために大学時代のアルバイトや社会人になってからも休む暇なく働いていた日々を私は後悔していません。友だちや周りの人には恵まれましたが、特に遊びもせず趣味も読書くらいで、それも仏教や人生に関係する物を読みあさっていました。それでも、私は生きた阿弥陀さまと出値え、今御恩報謝の暮らしをさせていただけていることがとても嬉しくて仕方がありません。どこまで何が出来るか分かりませんが、遊びながら、精進してまいります。
 感謝していること
  世間の人が求めるような快楽も感じず、贅沢もしていませんが、今生きていることを楽しんでおります。
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前を向いてとにかく進む

2016/11/30 22:37
 余裕があって、よろこんで与えてくださるものは遠慮なくいただいてきました。両親は京都の大学に行く私のために学費を払い仕送りをしてくれました。仏教の講演会ではいつも元町会議員で手広く自営業をしていたご隠居さんがお昼をご馳走してくれました。仕事をしていた時、社長が出張で京都に来るとやはりご馳走になっていました。子どもが生まれてから、仕事をすっぱり辞め、夫が働いてくれて、私の研究を支えてくれています。大学院の先生や友だちにも本当にお世話になって、少しずつですが研究の方向性が見えてきました。阿弥陀仏の救いを共によろこび、御恩報謝させていただいている法の友もいます。人だけではなく、家電製品にも私は助けられてきています。何年も働いてくれている電化製品や相棒のパソコンなしでは一日も暮らせません。全てが有難いです。

 ただし、困っている人に、余裕がない人に何かをねだって「欲しい」といった記憶がありません。大変な中でも、よろこんで何か物を与え教え、心を掛けてくださる方々もありましたが、それは有難く頂戴しました。それでも、自分で欲しいものは何とか自分で手に入れることが出来たのは、大学に行かせてもらえて、周りの人の理解があったからなのでしょうが、使命を果たすためだったからのような気がします。いろいろな方々に、ほんとうによくしていただいたので、これからは私がご恩返しをする番だと痛感しております。前を向いて一歩ずつ、真摯に進んでまいります。どうぞ、皆様のお力添えをよろしくお願い申し上げます。
感謝していること
論文を書くために仏教のことが書かれた本を拝読していて、聴聞してきた何十年かの日々が懐かしく思い出されました。御仏の光明のお育てにあずかってここまでこられたことを改めて知らされ、有難く感謝しております。
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人間の器について

2016/11/29 20:35
  金融系の上場の大手企業の役員をしている高校の同級生の友だちが言っていました。
 女性で幹部として出世するのは「器の大きい人」だと。
 男性でも器の大きい人といると本当に自由で気分がいいです。私も周りの人にとって、自分の器を今よりも少しずつでも広げていこうとその時感じました。
 
 特に攻撃してくるとか意地悪な人以外とは私は友達感覚です。海外で、特に欧州やその影響下にあった国々で、街で出会ったり、エレベーターに乗ったりするとき、とっさに、にこやかにほほ笑んで挨拶する感覚の延長という感じでしょうか。私は他人に対して何も意思表示しなくても分かり合えるとは全く感じていませんし、単一民族意識の恐ろしさを幼少のことから感じているので、とりあえずあなたの敵ではありませんからとあいさつするなどしています。常に相手にフレンドリーに警戒心を持たないようにするのは努力がいることで大変だと思う人もあるかもしれませんが、慣れてしまえばそういうものとしての言動が意識しないでも取れます。

 これは周りの人を信用していないということではありません。「親しき仲にも礼儀あり」ということです。私は人に何かしてもらうのが苦手です。自分から何か欲しいとか、したいとかは滅多に言い出しません。出来ることは自分でしますし、自発的にしていただいたりすることに対してはとても申し訳なく感じて、お礼を欠かしません。誰かがしてくださったことを当たり前だと思ったことは一度もありません。

 自分自身が使命を果たすために日常の家事も最低限のことしかせず、仏教の話をしたり、学校に行って本を読んだりパソコンで文章を書いている生活をしていてそれを家族が支えてくれていることは本当に有難く感謝しております。家事が嫌いというよりもそれに費やしている時間がないのです。10分で食べる食事にそれ以上の時間を使う気はありません。同時並行で圧力鍋で煮込むとかグリルで焼くとかするのも時間がもったいない気がします。多少食べないときがあっても、大丈夫になってきていますので、ちょっと一般とは違うライフスタイルを取っています。のような生活をそ維持するために協力してくださる方々に感謝して、機嫌よくにこやかにすることくらいしかできないと自覚して、出来るだけ穏やかに楽しく暮らしています。
 使命を果たすためには、まず、周りの人と仲良くなり、その輪を広げていくことが肝要となりますので、自分と関わる人たち全てにこちらから心を開いていくようにしています。受け入れてもらえない場合もありますが、それはそれで構いません。とりあえず、共感したり仲よくしていける人を増やしつつ、御恩報謝の暮らしを続行していく所存です。これは器を大きくしていくこととつながる気がします。
感謝していること
 今まで出合ったり、SNSでやりとりしている世界中の人たちと仲良くしてもらえていることがとても嬉しく感謝しております。
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欲と嫉妬について

2016/11/28 11:24
幼少の頃から私は特に何も欲しくありませんでした。
 だから、特にこれが欲しいとねだった記憶もありません。
 必要なものは買ってもらいましたが、それ以上のものは心の底から欲しいとは思いませんでした。
 だから人と争って何かを獲得するとか、それこそ人のものを盗るとかそんなこととは無縁の生き方をしてきました。
 何か欲しいと言うのは足りないと感じるからなのでしょうか。
 
嫉妬も必要最低限のもの以外はいらないので、持ちませんでした。
 自分が満たされていたら欲しくなし、人を嫉妬することもなかったのかもしれません。
 家が大金持ちでもなく、天才的頭脳を持つ容姿端麗でみんなからちやほやされる人生ではありませんでしたが、自分が過分に欲しくなくて足るを知る生活を無意識にしてきました。だから、今でも、「欲しい人」や「嫉妬する人」の気持ちが分かりません。

 その時、あるもの持っているものに感謝してきました。
 それは、人間が死すべき存在で、容姿も衰え、死ぬときには何一つ持っていけないという考えが根底にあったのだと思います。
 
 人に対しても「欲しい」や「嫉妬」は感じません。
 その時のご縁で、私をまたは私が必要な人と暮らし、助け合う感覚です。家族も友だちも周りの人みんなに対して、私は優劣を感じません。

 嫉妬とか独占欲とかは何だか器の小さい人の感覚のような気がします。また独占欲(嫉妬)で意地悪をする人に対しては子どもじみて悲しく残念ですが、こんな経験も過去にたくさんしてきました。私は一貫して、秘密とか特別扱いが苦手です。

 私が特に心を掛ける人は、助けたいし、助けられるのは、今本当に苦しんでいる人であって、欲や嫉妬で燃え盛る炎の中にいる人ではありません。私自身がそのような状態がわからないうこともありますが、欲や怒りや愚痴の煩悩のまたその底にある迷いの無明にきづき、それを何とかしたい人に応えるのが、それこそが、私の使命だからです。
 今衣食住の生存に必要な社会福祉政策や援助は要らないとは言いませんし、必要に応じでそれを考え実施する人がしたらいいと思いますが、私が今生、人間として生まれて遂行する使命ではないとハッキリきづきました。あとどれくらい生きられるか分からないので、私は自身の使命を果たすことを中心に生きていきます。

 人はそれぞれの環境で、いろいろな人に出合い、物に恵まれていますが、必要な時に必要なだけのご縁に出合えます。なぜなら、阿弥陀仏の光明は迷いを迷いと分かるゴールに向かっての学びを生きることを支え、導いているからです。だから、それに必要なものが備わり、やって来るのです。おそらく「欲しい人」「嫉妬する人」はそれがその人の学びにはまだ必要なのです。

 何となく、日頃感じていたことがふっと腑に落ちたので書いてみました。
感謝していること
 何もなくても、一人でもよろこべる感覚が持て、今も満たされていることはひとえに阿弥陀仏のご加護だと有難く感謝します。 

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過去の記録(仏典・論文等の書物)と現在の実態(日々の出来事)

2016/11/15 18:33
 釈迦の説法を再編した仏典を多くの人が解釈し、読み解きそれを布教してきました。そして阿弥陀仏の本願も話され、多くの人が信心を賜ってきました。ネパール・インドはもとよりアジアや世界中の国々に仏教は翻訳され広まってきました。翻訳は「膨張」していきました。その過程で、釈迦が説いたものと別の形になっていったものもあったでしょう。しかしながら、悟り救いが説かれ、六道輪廻や解脱が出来たのなら私はそれはそれで構わないと感じます。経典を編纂し解釈した時点で、釈迦の話からは離れてしまっています。いかに優秀な編者や解釈者が携わっていたとしても、ズレが生じるのは否めません。さらに、釈迦は将来仏典そのものもなくなり、阿弥陀仏の本願のみが残るであろうという予言を残しています。

 では、言語も解釈の違いも超越して仏教が伝わった要因は何かと考えました。それは悟り、目覚めといった廻心、自力から他力への心の人知には及ばず、説明できない境地に達した人たちが存在し、その人たちの口によって手によって話され記録されたものが語り継がれ残されたことではないでしょうか。つまり、人から人へ、胸から胸への伝わり方と、救われた体験の記録が書かれたものの熱エネルギーが後世へ綿々と伝わったのでしょう。

 ただ、翻訳や解釈の膨張によって逸脱した部分は元も仏典に戻って軌道修正したり、救いの話をしていて行き詰ったときにそれらに戻ってみるとか先人の業績を尋ねてきづきをもらうことは必要ですし、自己流でしていってはもっと混乱し、大きく悟りや救いから離れることになります。

 このように、過去の記録も現在起こっていることも全てが関連していて、疎かにはできません。ただ、どちらを優先させるかといえば、今苦しんで救いを求めている人の救済です。それありきで、そのことが成就されるにはどうすればいいかを考えて実践していくのが布教活動です。名誉やお金を求めて、学問の為の学問をしている暇はありません。そんなものは何かをした後におのずとついてくるものです。目的になってしまっては本末転倒です。お米を取れば藁もついてきます。藁を取ることが目的ではないことをゆめゆめ忘れてはなりません。常に何のために仏教を話しているのか、これが忘れ去られたときに、布教活動は無意味なものになります。
感謝してること
 覚悟という言葉を聞かせていただき、布教するものとしての覚悟ありきで私は生まれ、生きているのだという自覚が思い出されてきました。縁に触れ軌道修正されることは有難いことです。
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何をどうする覚悟なのか

2016/11/15 18:27
 使命を果たすことを最優先するのが今の私の覚悟なのです。
 それは阿弥陀仏の願いを世界中の人たちにお話しすること。
 これを一番しやすいような人たちと関わり、場所を移動して、適切な仕事を選んでまいります。何が一番最適なのかその場その場で考えます。
 
 今までの出来事は『ローマの休日』のアン王女の短いバカンスのようなものだったのかもしれません。私の場合は、自分の家の女王です。私の休日においては、思うように上手く遊べなくて苦しみがほとんどでしたが、それもみんな佳き思い出でした。何かが終わったから、きっと何か新しい展開になることでしょう。
感謝していること
 さよならを言う代わりに、どうでもいいことしか話せなかった自分を「なんて愛おしいんだろう」って感じられるようになったことに感謝します。
  
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自分が全面的に受容されていると気付くことが全ての解決の道

2016/11/04 10:26
 これは簡単なようで、最も難しいことでもあります。
 自分を自分が受け入れること、自分で自分を愛することでは解決になりません。
 真理のようなものすっぽり全身が包まれ護られて、二度と離れることがない感覚をずっと保ち続けている人は稀です。全ての人に、早くそういう身になってほしいですが、こればかりは自分自身で求める覚悟が出来なければ難しいです。特に周りの大好きな人にそういう境地に達してもらいたいと思っても、求める心は私には与えることができません。ただ待っているだけです。
 
大切な人は別のものをいつも掴んでいました。タバコ、酒、ギャンブルetc.
別の大事な人もプライド、支配、独占欲etc.
そんなんじゃなくて、御仏の智恵と慈悲の光明を受け取ったらいいのにと無言で念じ続けても一向に分かってもらえませんでした。
まず、自分が満たされていないと他人に対して意地悪になります。仕事関係や友だちや知り合いの人になら親切にできるのに妻や恋人には甘えて、威張って、愛を請います。請われても何ともできないので、従うか離れるかしかありません。
悲しい現実ですが、縁がない人には何もできません。
感謝していること
少しでも何か取っ掛かりがあれば、心に満たされない空虚さを抱えている人たちに阿弥陀仏のお約束の話ができることを有難く感謝しています。
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思う存分弾けましょう

2016/11/04 09:56
「主体的に生き、何度も失敗し、傷ついて、また立ち上がった先に見えるもの」
 受け身の人生にもう終わりを告げませんか。
 たかが何十年か積み上げてきて獲た名声や地位や外側の自分じゃない自分に別れを告げ、
 本当の自分を生きませんか。

 自分が可愛いからこそ、一度きりの人生敢えて勝負してみませんか。
 赤ん坊だって何度も転んで立てるようになり、歩け、そして走れるようになります。それを私たちはしてきているのです。それなのに、大人になると傷つくことを恐れ、思い切っていろいろなことが出来なくなります。

 大好きな人にとびっきりの笑顔を向け、優しく思い遣りのある言葉を掛け、至福の時を過ごしていたのは、自分自身も何の屈託もなく相手にそのように接してもらっていたからです。安全な家族から離れていくと、心に傷を負い、人にばかり愛を請う人たちを見ることになります。知らず知らずに彼らと同じような言動をまねるようになっていきます。

 プライドや見栄や独占欲や支配欲で接したら、相手は言うことを聞くかもしれませんが、逃げられます。逃げられない立場なら怖がり、恐れ、内心馬鹿にして尊敬などされず諾々と従うだけです。そこに慈愛は存在しません。他人をないがしろにする人は相手からもそのような仕打ちを受けます。ただそれだけです。

 自尊感情の欠落した人は、心に刃を持っています。笑いかけても、優しくしても返ってくるのは傷つけることで関わろうとする態度です。相互に優しさを交換するのではなく、ただ自分が発散させるサンドバックを探しているからです。私はあなたのサンドバックではないとはっきり宣言しない限り、それは続くことになります。

 共に真理との邂逅を求め、求められたらまだの人たちに一緒にお伝えすることが本当の幸せになる道です。赤ん坊以下の受け身の生き方を見直し、主体的に自他ともに明るく楽しい人生を生きましょう。始めは受け入れられないかもしれませんが、それでも照れずに馬鹿正直に何度否定され非難されても実践して数えきれないくらい傷ついたら、その分優しくなれます。
感謝していること
 阿弥陀さまの御心を常に感じているので、私にはストレスを発散するサンドバックは不要なのはとても有難いです。
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正しさなんかより楽しい方がいい!

2016/09/08 19:01
 お勉強とかはどうかしらないけど、ライフワークの研究は自分もたくさんの人たちも楽しめるものが本物だと感じます。

 客観とか正しさなんて本当は存在しないもの、単なる攻撃の防御の手段であって、過去や未来には使えるけど、今役に立たないものを必死に訴えるのは時間とお金の無駄ですね。




 今、ここにあるのは温かい気持ちだけ。自分を愛おしく感じ同じくらい周りの人たちが大事で仕方ない感覚。ホカホカして出来立てで冷めてなくて、生まれたての赤ちゃんのようにそのまま手あかが付いない今の嬉しい気持ち。




 ねえ、どうしよう、どうしたらいいの、こんなに好きでもいいかな。

 時間が止まってる気がする。

 ずっと一緒にいたい。

 大切な人たち・・・・・・

 

 そんな風に生きている人たちが感じられることのお手伝いや何かヒントの提示をすることが本当の研究であり、学問だと私には感じられます。

 

感謝していること

 見返りなんていらない、ただ自分や周りの人たちが愛おしくて大好きでいられることは素晴らしいんだと言える世の中を御仏はお示しくださいます。


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全部手放したら、ただそこにいるだけで嬉しい人になる

2016/09/08 18:54
自分自身が満たされ、自立していて、自由でいられたら、他人を束縛すること、コントロールのない関係になれます。

 何かを握っていているか、足りないものがあるように感じて、誰かに依存していて、自由が感じられなかったら、他人も自由に開放することはできないのでしょうね。コントロールしちゃうんでしょうね




 条件付きの友だちというのは私には苦痛です。性別・年齢・収入とかの差があってどちらかが何かを譲るとかはあっても、尊敬出来て、精神的には対等なのがいいです。




 一緒にいると自由になれる、ありのままの自分でいられる人と出来るだけ長く一緒の時間を過ごせたら、使命を果たす元気がもらえるのかもしれません。相手が時には何かヒントをくれたり手伝ってくれるのかもしれません。でも何もしてくれなくてもいいと思えるのが一番いいです。ただどこかで、その人が生きていてくれているだけで嬉しい人で私もいたいです。

感謝いていること

 誰かのために何かをしたいと思って生きられることはとても有難いです。


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