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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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どんどん夢や希望が色褪せていくけれど、御恩報謝は一時も消えない

2018/07/15 17:56
 あなたが欲しいものは何かと聞かれたら、特に何もないと応えます。
 昔からそうだったのかもしれません。
 阿弥陀仏におまかせの人生になっているので、やってきたことを粛々とこなしています。ただそれだけです。
 私は欲しいものはないのですが、まだ信心を賜っていないひとに対しては、一日も早く弥陀を疑いなく信じる身に救われていただきたい。ただそれだけが私の望みです。
 自分が救われたひとは、その境地を生きている限り、周りのひとたちに話をして欲しいです。
多くの真宗門徒が、「念佛や聴聞を慶んでいます」といいますが、「疑いなく弥陀を信じることが、今生でできるのだ、私が生き証人ですと話を毎日しております」という人には滅多に出合えません。
 おいしいものを食べても、素晴しい景色を見ても、周りの人達に話をしないではいられないのに、なぜ、救われた驚きと慶びを話せないのか不思議でなりません。心に大驚喜心があれば、溢れ、こぼれ出てくるはずです。それができないのは、嫌われたくない、変な人だと思われたくないからでしょうか。それとも自分の信心に確信がないからでしょうか。いずれにしても、いつかは死ぬ有限の命を持った凡夫の私たちですから、生きていいるうちに自身の使命を果たしたらいいだけです。特に、私がアシストして信心を慶ぶ身になった方々には、そのことを強くお伝えいたします。御恩報謝の道をともに歩いてまいりましょう。
感謝していること
御恩報謝の気持ちが絶えることなく出てくることは有難いです。
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どうしよう、悲しくて、苦しくて、涙が止まらない、こんなの嫌だ!

2018/07/11 23:59
 今生でのひととの別れ。

 おばあちゃんや先生たち、大学時代からの医師だった親友とはきちんとお別れができないまま終わりました。

 父とは中途半端な言葉をかけられて、そのまま意識がなくなってしまいました。

 今度は私の御恩報謝を蔭ながら応援してくれた方とお別れしなくてはならないようです。

 何で私を置いてみんないなくなちゃうの!

 泣いちゃいけないと思いながら、電話口で涙が止まりませんでした。

 「お浄土でまたお逢いしましょう」と静かに小さな声でお話しされるのに、また何とも言えない寂しさがこみ上げてきました。

 「あなたの道を真っ直ぐ進んでください」とメールもいただき、私には何ができるのだろうかと、ずっと一人で泣き続けています。

 
 人間は生まれたからには必ず死ぬとは頭では分かっています。でも、それが現実に目の前で、親しくしていたひとがいなくなる事実がわかると耐えられません。

 もうすぐ、私もお浄土に還らせていただきます。

 ただ、今は頭が真っ白で何も考えられません。あと数日、せめて今晩だけはこのどうにもならない気持ちと向き合わせてください。


 感謝していること

 真友がいなければ、怠惰で能力に乏しい私が御恩報謝の道を今まで歩んでは来られませんでした。誰も聞く人がいなくてもう話すのを止めてしまおうと思う度に、何度、励ましていただいたかわかりません。


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聖人一流章

2018/07/11 23:07
「仏のかたより往生は治定せしめたまふ」

仏さまの一人働きで、今生の、いま、ここで往生させていただく身に救われます。信心数え歌では「たすくる弥陀が手を下げて〜」とあります。私の力は何も間に合いません。何もないまま救われました。一息切れたら必ず極楽にまいらせていただきます。

 「仏のかたより」のところを拝読させていただいて、涙が止まらなくなった行信校の同級生の姿を見て、信心を慶ぶひとがいる、そして自分も信心を獲たいと強く思ったと龍大で学ぶ僧侶で大学院生の友だちが話してくれました。行信校で学んでいるときに彼も獲信できたとのことです。

 生死を超える信心決定する世界は蓮如上人が『御文章』で教えてくださるように現実にあるのです。一日も早く阿弥陀仏の本願にみなさまが救われることを念じて止みません


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他人をコントロールしてしまう、コントロールされてしまう癖

2018/07/10 23:20
 上下関係で生きている人たちは、このどちらかの役割を演じて生きています。

 これ以外の関係は居心地が悪いのです。どちらかの立場にある関係で物事が進んでいきます。親子、子弟、上司・部下、その他様々な関係でどちらかが上で、どちらかが下という固定的な役割を演じます。もちろん、お世話になりご恩のある人たちには敬意と尊敬の念を持って接することは大切ですが、人間は真理の元では平等です。

 真理との邂逅を果たした人たちにはそのことが確かに分かるので、上下関係では息苦しく、誰かをコントロールするのもされる関係からは離脱して生きていける道を模索し始めます。多くの人たちが、上下関係でしか生きられない中、そうじゃないところを生きるのは軋轢もあり大変ですが、それに左右されない真理との強い信頼関係があるので大丈夫です。

 また、尊大な自分でもなく、劣等感のあるものでもない、本来のそのまま、ありのままの無理のない生き方ができます。誰かに認められたい、勝ちたいという気持ちがだんだん薄れてきて、いつも真理に護られ、認められていることがとても嬉しく、感謝してご恩返しの生活になります。真理との邂逅ができると、死の不安の解消のほかにこんなこともあります。

感謝していること
 生きていて、この世で存在していていても、死んでもどちらでもいいし、何でもどちらに転んでも構わない感じです。不思議で有難いです。


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とりあえず怒らない!モラハラ加害者は親しい人と上下関係に囚われず生きる訓練を!

2018/07/08 23:48
 モラハラ加害者にとってもアンガ−コントロールはとても大切です。

 怒り、キレるのを我慢することです。

怒りたくなっても、威張りたくなっても、止める選択も出来ます。

 棘を刺したら相手は痛いだろうから、自分から離れてしまうだろうから、止めようと棘を引っ込めることも可能です。

 いつ気が付くかが大事です。

 相手に逃げられない内に「ごめんなさい」を言えるようになれることは難しいですが、出来ます。


 外面がよくて、いい人で通っても、大切な妻、夫、子どもなどに冷淡でキレまくっていると自分も近しい人たちもみんながダメになります。孫から先もずっと連鎖します。この連鎖をどこかで止めないとなりません。

 お金や地位や名誉などがあるから偉いんじゃないんです。それらは他人を仕合わせにするためにあるんです。それらを得るために我慢して着たストレスを盾に大切な家族に怒りをぶちまけ、怖がらせていては本末転倒です。口では称賛しても、心が悲しくいつも泣いている生活をさせていることを考えたら、もっと仲良く、怒らず、威張らず、やり直せるはずです。

  簡単なことですが、モラハラ加害者はそういう感覚が分からないので難しいです。
 怒りを抑えることと共に、「ごめんなさい」を誤魔化さずに言えるようになりことも大切です。

感謝していること
 お金地位名誉などを媒介に上下関係で生きる必要がない人生を生きて来られたことに感謝します。


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優秀で都合のいい者でなくなった(利用価値のない)被害者(サバイバー)の価値

2018/07/08 09:56
 モラハラ等のハラスメントを生きる基軸としている輩の、パートナー選びは、容姿でも職業、収入、家事能力でもありません。
 ただ、ひたすら、ハラッサ―の自己愛性人格障害に対して耐性を持ち、服従し、称賛の言葉や態度を与え続けられるか否かです。サバイバーは利用価値がないので用済みになります。
 
 ハラッサ―が今までの人生を反省し、サバイバーに罪滅ぼしをすることなど滅多にありません。サバイバーは我欲を満たさず不必要な存在ですから、ハラッサ―は次の捕食対象を求めて同じような自己愛を満足させる生活を送れるように気持ちを切り替えるだけです。
 ただ、別の優秀な被害者が見つからない間は、ハラッサ―の本分を発揮できない、気持ちの悪い状態を感じつつ過ごすことになります。

 ハラッサ―は外面がいいので、ハラッサ―であると被害者以外には見抜くことは困難です。被害者も初めはハラッサ―が人当たりがよく、いい人を演じるので騙されます。同居、婚約、婚姻、懐妊、出産という節目でもう相手が逃げられない状態になったときハラスメントが始まるからです。
 なぜ、結婚が決まったのに、子どもが生まれたのにすぐ別れる人たちがいるのだろうかと不思議に思う人がいるでしょう。それはハラッサ―のハラスメントが始まり、それにきづき、それを避けるために逃げたからです。いち早く、そこで逃げられた人は幸せなのかもしれません。仮にバツイチになっても、子供を抱えて一人で育てなければならなくなっても、その先の長く辛い服従人生を考えるなら離れるのは正解です。優秀な被害者は我慢強いので、長く辛い服従人生の法に幸せを感じて分かれない選択を取るのでしょうが、遣り切れない気持がします。
 
 結局自己愛を満たしたり、自己愛に奉仕することで自分を満たす依存者である関係から抜けないと本来の自分で生きられません。
 
上記のことは、そういう状況で生きている人以外、全くピンとこないかもしれません。依存・共依存の関係はその場に入り込まないと分かりません。入り込む要因を持たない人は入りませんし、入れません。入る要因を持っていない人は入りかけても、すぐ違和感を持ちその場には留まりません。逃げます。逃げられないのは、依存・共依存の要因を持つからです。

人間などに依存せず、真理を求めて真理との一体感を求めたらいいのですが、そういうことを教えてくれる人は滅多にいません。仮に教えてもらっても、そういうことを受け入れられる心境にいなければ受け取れませんし、受け取ろうという気にもなれません。

感謝していること
 我慢強くない私にはハラスメントは耐えられない世界です。不確かな依存・共依存関係ではない真理との邂逅ができたことに感謝します。
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騙されちゃいけない!セラピストの全部があなたの幸福を願っているわけじゃない

2018/07/08 09:18
 セラピストをしている理由は一つじゃない。

 利養――生活の糧を得るため

 名聞――名誉を得るため

 勝他――他人と比較し自身の能力の優位をよろこぶため

 仕事なので当然時間を区切り、報酬を得るし、何となくよくなった人が増えれば商売繁盛、自分の方がたくさんの患者を治せているという自己満足がある。要するに仕事なのである。何が悪いと言われればそれまでであるが・・・・・・。

 所詮、カウンセリング、セラピーといっても心の表面上のこと、対人関係のノウハウをちょこちょこっと伝えるだけ。傾聴という耳触りのいい言葉で、カタルシスを促しスッキリしたように見せかけるだけのこともある。患者の真の意味での幸福なんて願えない。自分自身も幸せじゃない人間が他人の幸せを願えるわけがないからだ。心の奥底の闇など問題にできるような、能力技術のあるセラピストや論文にお目にかかったことなどない。

 人を迷いから悟りに導く宗教家、心身を直す医師、教育者には仕事と割り切った利養、名聞、勝他だけではない身を削ってでも成し遂げずにはいられない使命のようなものが必要だと私は感じる。




 宗教はセラピーとは全く違う。根本的な心の闇を解決する。そこには利養、名聞、勝他など関係ない。ただひたすら、目の前の人の迷いが覚めることを願うのみ。自身が真の意味の幸福に導かれ、他にも同じように体験してもらうための研鑽の日々を送る。ただ、そういう宗教家に出合うことも本当に稀である。お経やお聖教の中にしか、もしくはもうこの世にいない、生きていない方々の文献からでしか、私自身は出合ったことがない。




 救われたことを慶ぶ人はたまに見かける。それを嘘だとは言わない。そうなんだろうと感じる。しかし、それなら、その慶びを伝える方法を研鑚して、多くの人たちに分けてあげたらいいのにと歯がゆい思いがある。所詮人生50年ないし100年の間のこと、それならくだらない利養、名聞、勝他に終始せず、また煩悩に翻弄されず、利他の精神で生きたらいい。救われた御恩を感じるなら、ただ、報謝の生活をすればそれでいい。生きていても、つまらないことばかりなので、ここは私の居場所ではない気もする。なので一日も早く故郷に還れることを私は願っている。既に死の解決も出来たので、あとわずかの残された命を有効に使って行く所存である。

感謝していること

 今、できることは粛々として、知り得た知識や経験なども文章などに残せるだけ残して、故郷に還ろうと思えることに感謝します


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ある人たちが傾聴を強調する本当の理由

2018/07/05 09:55
大学院で医療人類学を教えてくださる医師でもある先生と講義終了後に話をしていたふときづいたことがあります。 
 
私「今まで疑問に思っていたのですが、なぜ、「傾聴」もしくは、「共感」、「受容」、「自己一致」などをことさら重要性を強調する人たちがいるのでしょうか?」

先生「自分たちができていないからでしょう。はじめからできているなら空気のような感覚なので、何も言わなくても暗黙の了解となります。」

私「カウンセリングで相手を自分のことのように人間は考えることはできないと私は感じます。(心理学)研究者やセラピストには自己愛性人格障害をもつ人も多いように感じます。究極的には人を助けるのは、真理もしくは『真理のようなもの』の役割ではないでしょうか」

先生「私も人間には出来ないと感じます。」

私「宗教や心理学やカウンセリングは人を仕合わせにするものではないのでしょうか?」

先生「あなたの信じる仏教は違うかもしれませんが、ほかの宗教では突然創造主が切れて怒り出し、罰を与えたりするものもあります。西洋の精神分析も近代哲学も人を幸福にすることが目的ではありません」

私「・・・・・・」

 仕合わせ、幸福が人生の一義的な目的でなく生きている人がいるということを、普段から不思議に感じていましたが、先生との会話で思い知らされました。もちろん先生は、慈悲深く謙虚な方で、おそらく、さんざん苦労された方なので、敢えて私に短い言葉で端的に、人間の実態を教えてくれたのでしょう。
 別の私の親と同年代で、今も現役で研究者とカウンセリングを続けている先生の講義を聴きました。たまたま、先の大学院の先生が学生時代、大学の医学部でこの先生の講義を受講していたとのことでした。
今回の講義の中で、ご自身のことを「自分はアスペルガーではないかと感じている」という話を、先の先生に話したところ、「そんなことはないと思います」といわれました。私もそう感じます。自分勝手な振る舞いをしたり、突然切れて怒り出すなど学生やさほど親しくない人ばかりではなく、誰にでもしないような配慮ができる人は精神障害からは遠い人のような気がします。
感謝していること
 あるほんの限られた時間の、短い会話や言葉の中で、(そこに至るまで、いくつもの伏線があったのでしょうが)、何十年かの疑問が一気に晴れることもあるのだと感謝しております。
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


同じような人間が互いに引き寄せられる

2018/07/05 08:49
 https://www.mag2.com/p/money/408287

 フィリピン女性と結婚した50代の男性が求めていたのは、若くて美しい女性との結婚でいわばアクセサリー。その代わりに女は男の金を求めた。本国に妻子は帰国してしまったが、せっせと仕送りを続けた。男が定年退職になり、フィリピンで一緒に暮らしはじめた数か月後に、妻が22万で雇った殺し屋に殺害された。定職での収入が途絶え、搾り取れるものがほとんど無くなった後も、彼が死んだら、子どもが18歳になるまでお金がもらえることを知ったからだ。まさに金の切れ目が縁の切れ目だ。

 
 女も男もそこに信愛、慈愛などというものは存在しない。


 人はなぜ生きるか、何を求めているのか考えさせられる話である。目先のお金や楽な生活のために、歳の離れた冴えない外国人と結婚し、そこにひととして心が通うものやお互いが掛替えのない存在でありえることがないならば、その途中も終末も悲劇的なことの連続となる。そんなことを教えてくれる事例のような気がする。


感謝していること
 何の不思議か人生は、衣食住をただ満たすことではないと知らされました。どういうご縁があったのか、真理を求め、真理との邂逅を果たして、いつ死んでも魂の故郷に還れることは大いなる慶びです。


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涼やかな風と、にこやかな穏やかな光の中での日々

2018/07/04 09:40
 残り少ない自分の人生の時間を愛おしむように生きていきます。
 比べず、争わず、ただ感謝していきます。
 真理との邂逅の方向性を示し、磁石となり一人でも多くの人を引き付けて、故郷に還っていきます。
 昨夜は、涼しい風が吹いていて、木々の葉のこすれ合う微かな音を心地よく感じながら、夜の明かりが燦々と降り注ぐ大学の構内を図書館から体育館まで歩いていました。一日も早くこの場から巣立ち、本当の意味で使命を果たそうと決意しました。
感謝していること
 今できることを淡々と毎日こなしていくしかできません。そのご縁の中でしか、私にできることはないのかもしれません。日々のご縁に感謝します。
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サボったことや手を抜いたことがバレる怖さを知らない人

2018/06/28 16:28
https://ameblo.jp/giida/entry-12386917049.html?frm_id=v.mypage-checklist--article--blog----giida_12386917049

ひととの関わりや仕事で私は手を抜きません。何かを雑に扱うことは自分をも又雑に扱い粗末にすることだと知っているからです。サボったことや手を抜いたことがバレたとき、死ぬほど恥ずかしいです。相手に対してもですが、自分に対して死にたくなるくらいな気持ちになります。能力がなくて、不完全な仕事になるのは仕方ありません。それでも、その持ってる能力の内の最大限を示すことはできます。

他人を上下関係でしか判断せず、目上の人には従順な振りをして、目下には上から目線で接し、自分の道具にならないと分かった途端に切り捨てる人たちを沢山見てきました。とても悲しいことです。

眼の前や周りの人たちを自分の分身のように感じ、自分と同じように大切に心を込めて扱うことができたら、自他共に仕合わせな気分になれます。やってみたらわかります。

感謝していること
いいことも悪いこともいろいろな機会で見せてもらってこういう方向で生きていこうと知らされます。有難いです。


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査読文章に対するレスポンスをしていてきづいたこと

2018/06/28 13:26
 ある研究会で発表するように勧めていただき、その後、できたら論文も出してくださいとお声をかけていただきました。発表したそのままを文章にして投稿したところ、山のようなご指導が返ってきました。このような丁寧な査読をいただいたことは初めてだったので、私の論文に対しての研究者、もしくは一読者としての真摯な姿勢に心を打たれました。      

指導教員やほかの先生たちにも査読の内容をお話しすると、こんな丁寧で親切で希望の持てるような文章を書いてくれることは稀であるというようことを言われました。とりあえず、先生方には、「査読者の指摘の一つ一つに応えなさい」と言われ、そのように本文を改めて書き終り、今、査読者への返答・修正対応表を作っています。修正した論文と共に明日投稿する予定です。

博士課程では真宗の信心が体験を理論化した博士論文が残せるように、その研鑽の目的で出身校を選んで戻りました。本学の論文指導も丁寧ですが、学会でもこんなに丁寧に研究者としての教育的指導をしていただけるとは思いませんでした。もともと、本学の別の研究科でお世話になった先生からのお誘いでしたから、全部この大学院でつながっていると言えばそういうことにもなります。不思議なご縁を感じると共に、あともう少しですが、納得のいく文章に仕上げたく存じます。

修士の時の大学院の先生方にいつも言われていました。「研究者の日常は、決して派手なものではなく、地道な努力のつみ重ねであるから、そこのところを、そういうものだと理解して、日々、目的に向かって精進してください。」その言葉の重みが今になってやっと少しわかりかけてきました。
感謝していること
 たくさんの真摯な研究者に囲まれ、いろいろ教えていただきながら、後世のひとたちのいのちの叫びに応えられるような文章を書いていく、励みになっています。有難いです。

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なぜわざと意地悪するモラハラが止められないのか

2018/06/28 07:58
 自分ばかりが可愛いのかもしれませんが、だからといって他人に意地悪することは違います。他人が悲しんでいるのを見て嬉しい感覚は分かりません。

 癖なのでしょうか。嘘、誤魔化し、逃げ、威張る、無視などを繰り返すと人は離れていきます。この人は言い返してこないから、利害関係があるから、離れられないからなど、格下に思い見下していても、相手も成長します。そのうち、言い返してもくるときもあるでしょうし、この人とは理解し合えないと感じて、何も言わないまま去ってしまうかもしれません。利害関係から離脱する覚悟を持ち自立するか、魂レベルが格上の別の人の元へ行ってしまうようなこともあります。そうなったとき、いつまでも子どもじみて成長しないままの自分が知らされます。

 各々が真摯な態度で一人でいても自分が生き甲斐を感じられたなら、別の誰かと一緒にいたら、何倍も楽しくなれます。自分の足りないところや欠点を補ってもらおう、劣等感を見ないように意地悪する相手を探し続ける生き方は不毛です。誰かが去って、次の獲物も全く捕まえられなくなったとき、本当に一人になったとき、それは臨終かもしれませんが、酷いことをし続けていたときがつくのかもしれません。そういう意地悪な人の犠牲者になる必要はありません。嫌なことは嫌、出来ない事は出来ない、止めて欲しいことは止めてと勇気を出していうか、いっそのこと離れてしまうか自分に合う生き方を探しましょう。中途半端なのが一番苦しいですから。

感謝していること
こうなれるまでは大変で時間もかかるけれど、決意ができると気持ちが楽になるのだと知らされます。


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何か嫌なことをされたら、とりあえず言い返せるのが対等な関係

2018/06/27 08:16
http://mora110.blog.fc2.com/blog-entry-191.html

 「こんなことをされるのは嫌なんだけど」

 「それはきがつかないでごめんなさい」

 とてもシンプルで簡単なことです。

 でも難しいです。

 「こんなことをされるのは嫌なんだけど」

 「それはわざとじゃなくて、こういう理由があったから・・・・・・」

 言い訳されたり、嘘をつかれると、もう何を云っても無駄だから、相手との距離は広がり疎遠になります。この人は人を思い遣ることができない人だと認識します。関わっても、またはぐらかされたり、嘘をつくなど粗雑に他人を扱う人は尊敬できず、仲良くなれませんし、信頼できません。


 失敗を恥だと思い、言い訳をし、自分には非がないようにするのは見苦しいです。

  潔くありません。

  なぜ、ごめんなさいの一言が言えないのでしょうか。

  謝らなくてもいいです。相手が嫌がることを二度としない旨を告げるだけでもかまいません。自分が嫌だと言うことを相手がしないしないという表明が為されたら安心します。

 誰でも、自分が嫌がることをする人とは何かしたくもないし、一緒の空間でいることすら避けたいと言うことを理解できない人が多すぎます。たとえば、モラハラ、DVをする人たちはその典型です。嫌なことをする人との絆やつながりを強要させることは苦痛以外の何ものでもありません。所詮親子も夫婦も自分以外の他人です。自分が絆を求めても、それは半分であり、残りの半分の絆を結べるかどうかは相手次第です。断る自由もあります。相手が嫌がるようなことをすれば、当然、心地よい関係は保てませんし、相手から関係を断ち切られることも覚悟しないとなりません。

  親子、夫婦などの家族という関係を盾に相手に不快な思いをさせるのは一種の甘えです。そんな甘えは要らないし、不愉快で嫌な絆など断ち切ってしまったらいいです。離れられない事情がある場合、何となく不気味さを感じる素っ気ない態度で適当な距離を保つご近所の人やあまりなかのよくない挨拶だけするクラスメートなどと同様に考えておいたらいいです。本当に面倒です。


感謝していること
  どんな人間とも絆など初めから無いもので、お互いがその都度、構築していくものだと幼少の頃から感じている私はあまり他人に期待しないので気が楽です。


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一人で頑張っているという気持ちを手放す

2018/06/25 01:28
 幼少の頃から青年期にかけて家族の温かさを肌身に感じられなかったひとは、ここ日本では近年とても多いのかもしれません。それでも自分が覚えていない赤ん坊の頃、乳を与え、おむつを洗って交換してくれ、保育園、幼稚園から中学、高校もしくは大学までの間、食費学費を捻出してくれたのは両親や祖父母やほかの同居しているひとたちでした。何もできない赤ん坊や子どもは放って置かれたら確実に死にます。今まで生きながらえられたのは、その大人たちの献身的な養育のお蔭です。

 親に放置された、苦学して大学を出たといっても、今があるのはその親や周りの大人たちのそれまでのお世話の賜物です。一人で大きくなった、頑張ってきたといっても、それは学齢期から義務教育が済んで、徐々に一人でいろいろなことができるようになってきてからのことです。それまでのことを忘れているだけです。親も自分自身の人生があり、様々なストレスを抱えて、一杯一杯で生活の糧を得るために働いています。そのことも忘れてはなりません。

 感謝しなさいといわれると、反発するのかもしれません。それでも、食べたいものも食べず、着たい服も着ないで、子どもを世話し、色々な苦労をのりこえて仕事や家事をして養ってくれた親に私はとても感謝しています。私の両親やおばあちゃんほど私は自身の子どもに何もできていません。だから感謝して欲しいとは言わないし、言えません。でも、自分の赤ん坊が生まれて、何もわからないまま夫婦で世話をしたとき、自分はどのように愛されて大切にされていたのかがきっと分かります。お腹が空かないように、機嫌よくいられるように、清潔を保ち、身体が少しずつ大きくなり、色々なことができるようななることをどんなにかよろこび見守ってくれたかにきづきます。

 一人で生きられる人はいません。大人になってからでも、先生や友だちや同僚などの支えでどれだけ心が癒されたことか分かりません。様々な機会に多くの人たちから心をかけてもらったことを思い出します。最近の大阪北部の地震でさえ、棚から物が2,3個転がり、ほとんど何も被害がなかったのにも拘らず、日本各地、そして外国の多くの友だちがどうだったか心配してくれ、無事が確認できるとそれをよろこぶ言葉をメールで頂戴しました。日頃、連絡を取りあっていない友人も心をかけてくれていたのだと改めて知らされました。私も大阪の友だちの安否を気にし、生活が困っていないかを心配しました。

 お世話になった方々や友人に対して元気な時、調子のいい時はお節介になるかもしれないから、ご無沙汰していても、命に関わるようなこと、とても不自由なことになっているのであれば、何かできることがあればさせていただきたいと常々感じています。

感謝していること
 父に先立たれ、一人で暮らす母がとても寂しく暮らしているのを知り、月一度くらいの割合で帰省して元気な顔を見せたいと考えております。親はいてくれるだけで有難いです。


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気にならないことと嫌で止めて欲しいこと

2018/06/24 14:19
 ものの善悪は幼少の頃からどうでもよかったのです。

 正しいかそうでないかはどうでもいいのです。

偉そうに誰かを評価することは苦手です。


 私の自分以外の誰かに対する判断基準は、気にならないことと、嫌で止めてほしいことこの二つしかありません。

 誰かに自分の価値観を押しつけようとは思いません。

 気にならないことをする人たちと一緒にいればいいだけです。

  嫌なことを止めて欲しいと伝えても、変化がなければ離れるだけです。

 他人を変えようとしてもそれは無理な話です。

 嫌なことを嫌だと言われても変えられないで、それ以降も故意に続ける人とは縁がないと私は認識しています。

 何か告げるのは一度で十分です。知らせても、それでも嫌なことを続ける人は、自分がやりたいことをする欲の方がその人には大事なのです。嫌だと言われたことを本気で止めようと本人が決意して止めるまで関わってはならないのです。

 とりあえず、一度は嫌だと感じることは言ってみることにしていますが、よほどの時です。それを軽く受け止める人は人生を大切に生きていない気がします。そういう人たちとは関わったらいけないのだと、残り少ない人生を考えたとき決意しました。冷たいようですが、今生の使命を果たすことに専念いたします。

感謝していること
 何度も同じことをあまり言われたことがありません。ついうっかり癖で止められないこともたまにあり、それは差し引いても、嫌だと言われたことを改めるように心掛けます。私のようにもう縁がないととらえて、私から離れたひともいたかもしれません。嫌だと敢えて伝えてくれるのは、まだご縁を持ちたい気持ちがあるからだと有難く感謝しております。


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無明の闇を破って迷いから覚める以外は別にどうでもいい

2018/06/24 13:54
 無明の闇を破って長い迷いから覚める教えに反することは間違ったらいけません。

 そのほかの他人との関わりは、一緒に暮らしたり、大切な仕事をする以外は、誰が何をしていようともどうでもいいのです。みんな好きに生きたらいいのです。たとえば、おたくと言われる趣味に嵌まろうと、好物のカップラーメンばかり食べようと、仕事が疎かになったり、健康を害するなどの結果を引き受けるのはその人なので、そういうことは別にどうでもいいのです。ある人が人間的に成長する人生を送ろうと、そのまま何も学ばなかろうと、本人次第だとしか私には考えられません。冷たいようですが、誰がいうどう人生を送ろうと無明の闇が破れ、迷いから覚めたそれでいいのです。ただそれだけです。

 できるだけ、私は自分以外の誰かに対して、本人の好きなように生きられることを応援します。他人に余計なことをして自分の時間をかけたにも拘わらず恨まれたりするのはもったいないです。何を云っても他人は自分のやりたいようにしかしません。それを見ているしかありません。同居する家族や仕事仲間には嫌なことや困ることは言いますが、それも直らないなら仕方ないというスタンスです。

ただ、無明の闇を破り、迷いから覚めることに関しては、辛抱強く、言い続けていかなくてはなりません。どんなに非難攻撃されても、それは曲げられません。受けたご恩が大きいのでそれだけはどうでもいいことにはなりません。

感謝していること
 元気に好きなことをして生きていられることに感謝します。


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無明の闇が晴れなくても平気でいられるのはなぜ?

2018/06/24 05:28
 物心ついた時から、名前は分からなかったけれども、ほの暗い闇が心を覆い、離れることはありませんでした。それがだんだん色濃いものとなり、9年前に晴れました。その闇を持っている間は、何をしても生きた心地がしませんでした。

 この闇を晴らす方法が見つかったのは小学校の半ば10歳の頃でした。それから、色々な縁を求め始めました。高校2年が終わった春休み、市の図書館で歎異鈔を3回謹書しました。それでも、阿弥陀仏はどのように助けて下さるか、どう信じたらいいのか、どうなったときが本当に救われた時なのか分かりませんでした。親鸞聖人は信心一つで救われると言われるのに、なぜ念仏が書かれているのかも疑問でした。これは唯円が書いたものだろうと言われている書物だと知ってはいるもののあまりにも有名で、この中に無明が晴れる手掛かりがある気がしていました。

 確かに歎異鈔は美文で親鸞聖人がおっしゃったのだろうことが書かれていますが、教行信証やほかの書物や親鸞聖人のお手紙である御消息を拝読した方がいいことをそのあと18歳から真宗の教えを聴聞するようになってきづきました。親鸞聖人が書かれた直接のお言葉を拝読し味わうことが大切です。そのように感じております。


 無明の闇が晴れても、それでも、慣れ親しんだ人間世界が名残惜しい部分もあります。それでも、無明が晴れて何も持たないままお浄土に生まれさせていただけるよろこびの方がどれだけか嬉しいことか。こんなことを親鸞聖人はご自身の書かれた著書の中でたくさん教えてくださいます。歎異鈔はこれを知るきっかけにはなるものの、単体では不十分なところがあります。その一つの大きな問題として、信心を書きながら念仏も書いてあり、信心と念仏どちらで助かるのかが紛らわしいところにあります。




 10歳の時、鎌倉新仏教で法然聖人は念仏、親鸞聖人は一歩進めて信心で助かる教えを広められたと学校で習いました。その信心を獲ることでこのくらい心が晴れるのだろうかと漠然と感じ、歎異鈔を書き写したことから、その後長い年月を経て、やっと信心の本当の意味が分かりました。そして信心の意味が知りたい人のために毎日文章を書いています。ときにはカウンセリングの技法を使って話し、いろいろ試行錯誤を続けながら、私のように無明の闇が引っ掛かり、何とか晴らしたいと感じている人の資助になれたら幸いです。

感謝していること

 心を覆っていた無明の闇がすっかり晴れ、阿弥陀仏を疑わなくなってから、心の景色が変わり、モノクロだったのが天然色になりました。人間というもののよいところもそうでないところも味わいつつ、浄土への二人旅を楽しめるようになったことは有難いです。

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ちょっとしたことでもそれがその人全体を表すこと

2018/06/23 18:34
 ご飯を一口御茶碗に残す。

 靴を脱ぎっぱなしで、揃えず、靴箱に戻さない。

 扉を開けてたまま閉めない。

 机の上が常にぐちゃぐちゃで作業の空間が開いていないし、机の下に本や書類が散らばっている。

 タンスに衣類が挟まったまま少し空いて、閉まっていなくても平気。

 字が汚い、汚い字を人に見せても平気。

 ごめんなさいやありがとうが言えない。

 何か指摘されると、言い訳をし、あなたも出来ていないと反撃する。

 挨拶に無視や会釈で済ます。

 気にならない人は気にならないでしょうが、私はダメですね。

 感謝の気持ちが感じられない、詰めが甘い、頭の中が整理できていない、他人への思い遣りが欠如していて、自他共に雑に扱う、他人は間違っていて、自分は常に正しいと自分を正当化する、嫌だと言われたことを受け止められない等々、気になりますし、上記のことを一つでもする人には、大切なことは任せられません。


感謝していること

 親や周りの大人に言われたのではなく、きちんとしている姿を見せていただけたことに感謝します。


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短気は損気

2018/06/22 22:53
 小さい頃におばあちゃんからよく言われました。短気でいいことは何もないから、もしカッとなって怒っちゃっても、すぐに謝ったらいいんって。すぐカッとなる怒りん坊の人はまたキレられると嫌だから、周りの人が近寄らなくなるし、頼ってもらえなくなるし、表面だけの付き合いで信用してもらえなくなるから、死ぬわけではないしと気を長く持つといいということでした。

 大人として自身の子どもやペットのように誰かほかの人から激怒を以てしつけられる必要も感じないし、そんな風に上から目線で威張って、コントロールしようとする人とは疎遠になります。それぞれの能力は違っても、お互いリスペクトする気持ちが無くなった時点でもう関係は切れています。関わってはいけない人のリストに入って、そこから抜ける、日の目を見ることはありません。それで丁度いいのだと感じます。合わない人とはスゥーッとすれ違うようにできているんです。

 自分が絶対正しいと思うから、短気を起こして激怒します。自身の子どもならまだしも、同じ大人同士でたとえそれが仕事のことであっても、嫌な感じで接する人はそういう人同士でハラハラドキドキのゲームを楽しんでください。そういう環境は疲れるので離脱したら気分が晴々して気持ちがいいです。放置する、必要最低限しか関わらないようにしたら、そういう状態に慣れてくるものです。

感謝していること
 なんだかんだ言っても、短気で怒りん坊な人は嫌がられて、周りがそういう性質に耐えられなくなり離れる、同じような人たちが集まるかのどちらかだということが知らされます。有難いです。


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過去は済んだこと、臨終を見据えて、今を生きる

2018/06/21 04:57
 過去のことは恩を受けたことを、どこかで誰かに返していくことだけ覚えていて、臨終に思い残すことがないように、今をしっかり生きるしかないと知らされます。
 今を生きるには、自分自身が何をしたいか、したくないのかをしっかり見極め、自分を大切にし、自分がして欲しくないことは他人にしないことなのかもしれません。
 嘘をつき誤魔化す自分を続けていると感覚が麻痺していきます。損得だけでひとを判断すると自分もその人たちから同じように扱われます。結局、自分のしたことが自分に戻ってきます。

 今、死出の旅路のその時に自分があると仮定しても、もうするべきことは全て済ませたと安寧満足の気持ちでいられるように、自分の使命や今生で為すべきことをしっかり見据えて生きていくと改めて決意しました。

感謝していること
 最近は論文に熱中していますが、真剣に何かに取り組むといろいろなことが知らされ有難いです。
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最後はお人柄

2018/06/20 20:55
 医療ケアもカウンセリングも布教も最後は「お人柄」。

 死に直面し、死の恐怖に怯えているひとに、正直で誠実な何とかして力になりたいという、ひととしての真摯さが最後にものをいいます。

 最低限の技術必要ですが、それを凌ぐのは「お人柄」。

 これを論文にどう表現できるか考えています。

 何かすることではなく、共にあること。

 生きる望みを絶たれた人と、そこに一緒にいること。

 それができる能力を持ち、それをして欲しいと望まれる「お人柄」があるひとが必要とされます。

 感謝していること

 ずっと疑問に思っていたことをどうやって文章にできるか考える贅沢な時間を持てることに感謝します。


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嘘や故意に傷つけられたら、誰かとの関係は終わる

2018/06/20 20:50
 たとえ小さな嘘でも、誤魔化しでも終わります。
 目の前の人を大切にするひとは故意に誰かを自分の感情のままに傷つけることはしません。もし、過失でそうなってしまっても、許してもらえるまで謝ります。
 一度でも何かあると、また同じことをされるのではないかと信用できず、信頼関係がそこで途絶えます。無理して信じようとしても、また嘘をつかれるのでは、傷つけられるのではないかという疑念が頭をもたげてきて、やっぱり駄目だと辛い気持ちが出てきます。損な気持ちを抱えたまま、以前と同じような気持ちで一緒にはいられないのだと知らされたことが何度かあります。

 特に、仏教を説く立場の人の場合、仏さまの信用まで無くすことにもなりかねません。それで仏縁が切れることもあります。仏教から離れないにしても、もうその人からは何も聞くことができなくなります。救われる道から遠ざけることはとても悲しく残念なことです。立場を弁え、自身の使命を果たすことが肝要です。

 潔癖すぎると言われるかもしれませんが、ひとは同じような感覚や価値観の人たちと一緒にいられたら、それでいいのだと感じます。そうでなかったら、すれ違いが生じ、生き別れになります。妥協して人とは付き合わない、深い関係になるまでに相手を見極めて、それでも途中で「もう無い、もう無理」と感じたら、潔く離れる決意をした方が気持ちが清々しいです。嘘や打算や妥協や我慢をする付き合いはどこかで破綻が来ます。それが早いや遅いかの違いです。どうせなら、3度目くらいで見切りをつけた方がいいでしょう。あまりにもショックな場合は1度でもう関係を断つ覚悟を持った方がいいです。

 ひとはそれほど急に変われません。誰かを失うことが死ぬほど辛いとかいうような余程の状況でなければ、同じことを繰り返され、悲しみ失望する日々が続きます。どこかで見切り、縁切りをしない限り、仕合わせな気分からは遠いままです。反対に、自分が気分良く真っ当に生きていれば、同じ感覚の人と出合えます。そういうものです。

感謝していること
 付く縁、離れる縁いろいろですが、選べる縁は選んでいこうと決めてから気分が楽になりました。
 
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人間のできることの限界を知って教えを説けるか否か

2018/06/20 09:43
 大学院で論文を手厚く指導して頂いていますが、相互の遣り取りを通して指導して頂けるのは、投稿する本人がもうこれで完成と手放すまでです。指導する方は方向性を示してはくれますが、文章を書くのも手放す時期を決めるのも本人です。よき指導者はできるだけ無駄なことはせず、終着点を目指して方向を教えてくれます。
  
宗教家の役目といっても真理との邂逅ギリギリまで寄り添い励ますしかありません。
教えを説き、話を聴き心に寄り添い、話し合い、最終的に相手が自分の力を手放す気持ちになったときには、もう本人と真理とのつながりを見守るしかありません。自分が引くところを弁えて、そこに行くまで陰に陽に心は片時も離れず共にあります。
愚痴も泣き言もすっかり出し終えたら、真理との邂逅を求める気持ちが出てきたら、すかさず引きます。その引き際が見極められるのが本当の宗教家です。自分が救われた誕生の時は無我夢中で分かりませんが、ひとが救われるところに何度も立ち会うことでその引き際がわかるようになります。このことは経験したひとにはよく分かることですが、そうでないと分からないでしょう。

感謝していること
 講義で使っていた本から論文の論点を根拠付ける内容が下りてきました。有難いです。
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今、目の前にある自身の使命を果たすしかありません

2018/06/18 06:32
 自分にしかできないことがあります。ほかの人には絶対にできないことが。

 それを遂行するために生まれ、生きています。

 自分のためでもあり、ほかの人のためにもなります。なぜなら、自分と周りはつながっていますから。自分がよくなれば周りもよくなります。反対は敢えて言いません。

 
 今日も一日、自分が生まれて生きて、残せることを少しでもさせていただきたく存じます。


 感謝していること

  いろいろなご縁が怠惰な私を叱咤激励してくれます。有難いです。


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気は抜かず、力を抜くといろいろ手放せる

2018/06/17 11:56
 こうあらねばと何かにしがみついていると肩は凝るし、他人との壁も出来るし、いいことはほとんどありません。目の前にやって来たことを受け入れ、今、この瞬間を全力で楽しむと空気が変わります。相手に合せ、関係性を感じながら、合意点を探したらいいです。先入観や偏見があると楽しめません。損な生き方です。正しさより楽しさを基調にして生きた方が嬉しいです。
 
 どうしたら目の前の人によろこんでもらえるだろう、そんなことを考えながらリラックスして、自分の得意なことをしていこうとしています。役に立てることもあるかもしれませんし、ないかもしれません。それはそれでいいのでしょう。どうしてもこうあらねばという考えに凝り固まると、ひとをコントロールしてしまいがちになります。そこには自由はないし、疲れてしまいます。それは自損損他です。

 感謝していること
縁がある範囲でできることを粛々とこなしていくと、自然に道ができている気がしてきました。
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利他の行為(真摯な生き方→オープン、素直、誠実、対等、謙虚、感謝、優しさ)は全部自分に再現される

2018/06/16 18:27
 全部自分以外のひとのためになっているようですが、相手もまた同様に扱ってくれるので仕合わせな気分でいられます。自分が扱って欲しいような言動を他人にすると、周りのみんなが自分の望むようなことをしてくれるようになります。実践したらわかります。始めは妬んで悪意を持つ人もありますが、気にせず自分の思うように真摯に生きていけば、同じようなひとを引き合い、集まります。違う生き方の人は苦しくなって逃げ出します。眩しすぎて、側に寄りつけなくなります。そういうものです。試してみてください。

感謝していること
自分で選んでいるのかもしれませんが、あまり違和感がないようなひとたちが周りにいてくれます。

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ひととひとは愛おしみ慈しみ合うために存在する

2018/06/16 11:06
 無常のいのちを抱えて不安な者同士が人間として生きています。

 それなのに、その無常からくる不安を劣等感という別物にすり替えて、他人を攻撃して見ないように、考えないように遠ざけている人がいかに多いことか。本末転倒です。

 ひととひとは真理のとの邂逅を経たら、慈愛、信愛の中で生きられます。真理を各自が平等に受け取り、それを讃嘆し、慶び合えるからです。そうなれたときから、人生の醍醐味を享受できる人生が始まります。

  くだらない競争や自慢や我慢などを繰り返すことに疲弊していませんか。目先の損得に神経をすり減らしていませんか。そんな人生なら死んだ方がましです。でも生まれてきてしまっていますので、どうせなら、真理に生きる道を選びましょう。

ひととひとは真理の光の中でともに慈愛、信愛の交流で本当に生きる楽しみを実感し、分かち合うのだということを覚えていてください。

感謝していること
今日も晴れて気分がいいです



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自己愛性人格障害(モラハラ)と自己中の違い

2018/06/16 11:02
 自己愛性人格障害は病気です。自己中は子どもだったり、世間慣れしていなくて自分中心に世界が回っている人を指しているようです。両者はオーバーラップしているかもしれませんが、慎重に症状で見極めることが肝要です。

 前者は明らかに障害であり病気なのです。病気は専門の医師やカウンセラーなどの治療機関に相談するしかありません。無料で引き受けてくれるのは公立の精神保健福祉センターなどです。もしくは、費用は高額になるかもしれませんが、専門に治療に当たっているカウンセラーにお願いするかです。ただし、本人が本気で自分の病状が気になり、克服したいと考えた時だけです。周りが何を言おうと無駄です。


全国の精神保健福祉センター一覧

http://www.mhlw.go.jp/kokoro/support/mhcenter.html

 とりあえず、モラハラを甘く見ないことです。モラハラ加害者はもし自分がモラハラをしていることにきづいても止めないことが多いです。なぜなら、「モラハラで得ている快感を放棄してまで、止めるメリットがない」からです。捕食した獲物だけがターゲットなので、そいつを魂が壊れるまでいたぶることでストレスを解消します。こいつは自分より下だ、いたぶっても自分から離れられない心境、状況にあるとセンサーが察知するとモラハラが始まります。そのほかの人たちには外面がいいので一部の勘のいい人たち以外には、いい人で通っています。そう、関わる人によって態度を変えるのです。彼らは基本的に損得でしか人との関わりを考えられません。損得を超えた優しさ、思い遣りなどは彼らの脳には存在しないかのようです。損得抜きに何かしたことも、きちんと回りまわって返ってくることを知りません。気の毒な人たちです。


 若いときはまだお金や仕事やほかの環境で守られていますが、定年後などに家族から疎まれ、嫌われ、縁を切られます。そうならないうちにきがつくことを念じます。

感謝していること
直ることと直らないことがあるということがハッキリわかり気分がいいです。


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ふと目が合って微笑み合う贅沢な瞬間

2018/06/15 19:07
 ゼミや研究会の集まりの中で、興味深い意外な内容が語られた時、誰かと何気なく目が合って「そうなんですね」と無言で微笑み合うことが結構あります。同じような理解を共にしていたのだと後から感じられました。真摯な態度でその場に臨み、発言をされる方を鑑に研究を続けられることは有難いです。

 誰かと逢っているとき、そのひとが素敵な笑顔と共に優しさをくれることもあります。「じゃあまた」と言った別れ際、飾らない微笑みを差し向けるひともいます。お互いを愛おしむような純粋で雑味のない素顔は清涼剤のようにスッと爽やかな気分になります。人生は辛く哀しいことも数多くありますが、ふと誰かが見せる微笑みに何だかもう少し頑張れるのではないかと勇気つけられることがあります。

感謝していること
 あまり何も考えず、何かいいな、面白い、またねという誰かの表情に癒されながら、また一日が終わろうとしています。今日はトールペインティングのお稽古でした。長いこと続けられるのもご一緒する仲間のお蔭です。


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忍耐、妥協、損得勘定を交えない関係

2018/06/15 16:09
 合うひととは忍耐、妥協、損得勘定は感じません。
 これらに該当するようなことはしません。
 もし、そういうふうに取られてしまっても、ふと表情が曇ったらすぐにきづき、必ず謝罪があります。そういう場面は滅多にありません。
 
 とにかく、対人関係の要は、目の前の人が少しでも悲しむ、苦しむことはしないのが原則です。それができ人と感じたなら、知り合いと割り切って、用事があっても、事務的な依頼という味もそっけもないものにとどめます。相手に聴く時もはい、いいえで終わるようなものにします。話しかけられたときは、短めに終わらせます。

 相手を見て、選んで、どういう対応をすればいいか、相手によって態度を変えるのはよくないという良心の呵責はモラハラや自己愛性人格障害には通用しません。少しでも故意に上から目線でくる、自分の手足のように使おうとする人たちに対しては、私はあなたの獲物ではありませんと毅然と示すべきです。心の吸血鬼に噛まれて、自身も吸血鬼になっている暇は短い人生にはありませんから。第一、自分を苦しめる奴の餌食になり、人生を無駄にするのは勿体ないです。

 自分が大切にできたら、自分を大切にしてくれる人の優しい心遣いが感じられるようになります。まず、自分を好きになり、大事にするところから始めたらいいです。きっと少しずつでしょうが、人生がよい方向に回り始めます。
感謝していること
 いろいろありますが、周りの方々によくしていただけていることにきづかされて、何とか生きていられます。 

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心が通い合えるひとばかりならここに生まれてきた意味はなかった

2018/06/15 15:02
 もしも、人生が思い通りで、順風満帆でスイスイと進んでいくなら、私が生まれてきた意味はなかったのかもしれません。自身の目的は果たし終えたのに、まだ生きているのは、使命が残っているからでしょう。その使命は、グダグダの状態に足を突っ込んでいたら果たせないので、巻き込まれないように、一歩引いたところから成し遂げようと決意しました。

 割り切り、切り替え、客観視など本当はあまり得意ではなく、ただのんびりと気の合う人たちと余生を送れるなら、楽をしていたいです。それでも、賜った御恩の広大さに押し出され、よろこんで自分の能力の発揮できることを粛々とさせていただきます。

感謝していること
 分かり易く、丁寧に仕上げることで何かしら救いのヒントになるかもしれないと感謝しつつ論文を仕上げています。


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なぜ私が自己愛性人格障害者(モラハラ加害者)を認識できるようになったのか

2018/06/15 14:58
 まず、私自身が人生を他人と比べて生きていず、理想的な自分や劣等感のある自分がありません。常に素の状態で誰とでも接しているので、人によって態度を変える人が嫌だ、変だという違和感があります。

 次に、劣等感を晴らすための捕食をするターゲットを見つけて心身ともに痛めつける必要がないので、そういう場面を見ると異常としか感じられません。特に子供たちはそれをむき出しにするので思春期までは本当に辛い環境にありました。

 大人でも、下手に地位や名誉がある立場の人が、劣等感を持つと部下や妻、夫をモラハラのターゲットにする例も見てきました。

 「これってモラハラ?」ときづくと、それなりの方法で対処できるようになりました。

それを研究として論文で、自己愛性人格障害や、モラハラ加害者本人やで彼らのために苦しんでいるひとたちのためになるような要素も書いていきます。

 中道の素の自分で生きるのが一番自分も他人も楽で気分がいいです。そうなれるようなものを文章で発表していきます。人を疑わず、良い面ばかりを見ていく生き方は変えないまま、人生が辛いと感じている人の力になれたらと存じます。

 劣等感や、優越感が未だに自分自身ではどんなものか想像でしか感じられませんが、それでも、それを超越したところにある心境を明らかにしてまいります。

感謝していること
ややこしく面倒ではありますができることを粛々とさせていただけることは有難いです。


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ひととしての真摯さ

2018/06/15 08:22
 ひととして真摯に生きているひとは、自分が生まれてきてよかったと自分と親を肯定しています。そこから始まります。

これができるまでは、思い遣りや優しさを持つひとではありません。ただの自己愛の塊です。自己愛性人格障害、もしくはモラハラと呼ばれている人たちです。他人は自分の欲望、すなわち讃美するものであり、生活の足しになる手足であり、召使いとしかみなしていません。自分に劣等感を持ち、ありえない理想の自分を演じます。劣等感と理想の間を行き来します。ニュートラルで素の自分を素通りして、見ないようにするので本来の自分とは、和解して仲良くすることはできません。何をしても空回り、達成感も、ほかのひととの温かい心の交流を持つこともできず常に渇いています。

 こういう自己愛性人格障害、モラハラの人たちに素人が関わっても、反ってミイラ取りがミイラになるのがおちです。モラハラ体質の輩は自分の都合だけでひとを判断します。自分に利害関係があり立場が上のひとたちには迎合します。そして利害関係のない下のひとたちには讃美を求め、それをしないなら徹底的に苛め抜きます。関わっても何も得ることがないのに、話を合わせてモラハラ体質の輩の自己愛を満たすのは時間の無駄です。

 ひとは同じようなひとが引き合います。扶養義務もなく、離れられるなら距離を置き、離れるに限ります。肉親、夫妻、子などがモラハラ体質だった場合、距離を置いて、いうことを全部聞かないことです。相手を褒めることもなく淡々と隙間風が吹くような冷たい不気味な関係をモラハラの加害者は嫌いますので、そういう人物を演じるしかありません。それは不本意ですけれど、唯一の防御なので仕方ありません。自己愛が強くない、モラハラ体質ではないひとたちと交流を持つことで気晴らしをしましょう。

 もう立ち直れないほどのショックとか、周りのひとがスウーッと引いていって、一人になったとき、始めてひとの温かさや優しさ寛容さ忍耐などを知るのかもしれません。自分は他人を自分を讃美するためのものであり、奴隷や召使のように扱ってきたけれど、ひととひとは共生するもの、お互いに優しくあるものだときづくのかもしれません。
 きづくのが臨終ならとても悲しいです。若い元気な時にきづいて感謝の念を持ち、思い遣りと優しさの中でみなが生きられることを念じます。

 ひととしての真摯さを持つひとと一緒に生きていき、そういうひとがいいときでも、常に自分を護ってくださる真理と共に残りの人生を歩いてまいります。

感謝していること
 無理なものは無理なのだと知らされた上で、自分ができる何かを模索していこうと決心できてとても嬉しいです。
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外観や容姿の功罪

2018/06/13 18:38
 ふと思い立って友人に尋ねたことがあります。

 「あなたは身長が高い上に、足が長いけれど、それで得したことがある?」

 間髪入れずに彼は答えました。

 「特にないね、そういえば今、思い出したけど、妻に容姿のことで得したことがあるかどうか聞いことがあった。思春期頃から、何とも思わない人に好かれて辛いばかりだったけれど、あるときから、世間はそういうものだと達観したって言ってた。」

  彼の妻も透明感があり、同世代よりも10歳から20歳くらい若くみられる砂糖菓子のような人で、羨ましがる人が多い気がします。それでも本人はいい気分でいるわけではないようです。どうも、貶されて悪く言われるのも嫌だけれど、周りの人とは友だちとして一緒に食べ物が美味しいとか、景色が綺麗とか、気遣いや思い遣りに感動したり、そんな普通のことを一緒に楽しめるだけでいいと思っているようです。仕事仲間は多くの人の役に立てるように精一杯知恵を絞って、切磋琢磨したらするとかメリハリをつけて、その場で、気分良く過ごせたらそれで構わないらしいです。

 背が高くて、足が長くても、いつも高いところにある物を取って欲しいわけでもないし、歩幅が広くて出かける時ついていくのが大変かもしれません。一緒に暮らしている人にとってはさほど嬉しくはないかもしれません。そんなことより、何も言わなくてもついでにお茶を入れてくれたり、ちょっと話に出たものを覚えていて買ってきてくれたり、そういうサービス精神みたいな方が嬉しいかもしれません。外見が綺麗な人と暮らしていても、歳をとると若い時とは違う容姿になります。心が美しいならそれはあせるどころか、ますます磨きがかかって優しく穏和になるかもしれません。

 目を閉じてその人を感じてみるとか、ちょっと気を抜いた時の、その人の声の優しさや謙虚さなどに触れられたとき、何だか得をしたって私は嬉しくなります。

感謝していること
 最近は、あまり長く生きられな気がして、今を生きようとしていて、雑多なことは気にしないでいられるようになり有難いです。


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死の恐怖に怯える人に対しての応答

2018/06/10 23:07
 「僧侶、布教師として私は何ができるでしょうか」と友人に尋ねられました。

 「話ができずに、ただ本を置いてきました」と言われたのでこのように言いました。

 「なぜ、阿弥陀仏の本願の生起本末を分かり易く話してこなかったのでしょうか。あなたがお目当てのお約束ですよ。それを疑いなく信じたら、死後は阿弥陀仏のお浄土に生まれることができます。どちらが先かはわかりませんが、私は何もないまま、お浄土に参らせていただけることを慶んでおります。お浄土でまたお逢いしましょう。」と自信を持っていえないのでしょうか。

自信教人信、自分が救われることよりも難しいのは人に教えて信じてもらうことです。しかしながら、自分が生まれた時のことはよく分からずとも、他人が生まれるところは産婆として冷静に見ていられます。そして、弥陀の本願本当だったなと知らされることになります。そういうご縁を数多く重ねてきた私としては、友だちにがんばってほしいとエールを送らせていただきました。

感謝していること
 ターミナルケアのきちんとした論文を書き、それが起爆剤となり、多くの方々の救いにつながれば幸いです。そういうことをさせていただけていることに感謝します。


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誰かに評価されたり、しない人生がいい

2018/06/09 18:31
 自分が決めて、いろいろ選んで使命を果たせるように学んでいる人生で、ほかの迷った人間にいろいろ文句を言われるのはまっぴら御免です。少なくとも、大学院以外では、そういう人たちとは距離を置いて生きています。面倒なんです。本当にウザい。

評価をするというのは上から目線以外の何者でもありません。あなたに評価してなんていらないし、頼んでもいません。こんな気分です。

大学院の先生方も先輩たちも研究者仲間という意識を持って接してくださる人たちは、お互いの研究をリスペクトし合います。まともな人を選んで論文の書き方などライティングのテクニックは指導していただきますが、内容についてはおかしな突込みや質問をされたことはありません。さすが博士課程の最終の学びだとこれについては感心しています。自身で苦労して学び、論文で新しい知見を残そうと苦心したことがある人たちは違うのだと知らされます。

味わいは各自異なるでしょうが、一味の信心をよろこぶ人たちにおいて、評価は要りません。もし、信心を獲ていないのに、獲たと勘違いしている人があれば、いづれは分かります。自分で何となく肚のすわりがよくなく、疑いがふと出てきます。薄紙一枚の疑いとも言われます。これが出てきたら、もう一度、信心を獲た人から聞き直したらいいです。それ以外は、ともに御仏の願いを有縁の方々にお話ししながら、今生の残りの人生を穏やかに送ったらいいです。

なんだか、面倒なことが多くて、バッカみたいって、怠惰な私は普段はいろいろなことで煩わされず、ぼんやり笑って過ごしています。

感謝していること
 いろいろなことがどうでもよくて、これだけはもう無理、もう無いと思うこともありますが、それは競争じゃなくて、人に負い目を感じさせる人だったり、くだらないことで威張ってウザい人なので、ただ避けたらいいのだというスタンスでいると楽です。
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今できることを粛々とこなす

2018/06/09 08:09
 今生の自身の学びや使命を生きることしかないのだと知らされます。

 それぞれが学び、使命を果たすために生まれて来たのに、私たちは自分に目を向けずに、他人の欠点や、他人にされたことばかりを気にして、自身の学びや使命を果たすことが疎かになっています。

他人は他人の学びや使命の中に生き、孤軍奮闘しています。それはその人にしか分からないことです。何かの点で助けることはできても、本人が決めて実践するしかありません。助けてくれと頼まれたら出来ることはしたらいいけれど、余計なことをすると、今生でのその人が学び、使命を果たすことが疎かになり、遅れたりします。

  それぞれが自身の学びや使命を果たすために必死に生き、その中で同じような学びをして使命を果たしていくと、そんな生き方を助けてくれる人とは親しくなるものです。自分が助けることもできるかもしれません。また知らない間にお互いが助け合っているかもしれません。

 学び、使命を基軸にしてぶれないように突き進んでいくことは、易しくはありません。なぜなら、煩悩を満たすために欲を起こし、それが叶わないと怒り、いかれない相手には愚痴を起こすからです。学びが広く深く難しいと人生のかなりの時間をそのことで費やすことになります。ぼんやりして、余暇をのんびり過ごす時間がほとんどない人生となります。使命を果たす内容が身の丈に余るほどのもので、多くの人にとって享受されるような崇高なものであると、誤解をされるような非道徳的なことをしないように身を律していく必要があります。

それでもしなくてはならない学び、使命はほかならぬ自分が選択して生まれてきました。今生ではそれを放棄して、次の生に回すのもありかもしれませんが、私はそれを選ぼうとは思いません。

この先、どんなことがあっても、誰かがたすけてくれることもあるかもしれませんが、当てにせず、それはそれで有難く受け取り、まず自らの道を歩んでいく覚悟ができました。

人の人生は直接は変えられませんが、自身が自分の学び、使命に専念し、必死になる姿を見ていて、自分の学びや使命にきづくことは大いにありうることです。それは意図したことではなく、広まっていくという表現が合います。

 誰かに期待することもなく、自身の目の前の課題を粛々に独力で取り組んだ結果が多くの人に役に立てたら今生の使命を終えます。ただそれだけです。

感謝していること
 自身の課題を真剣に取り組むと周りの人たちが驚くほど協力してくださいます。不思議で有難いです。


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佳きこと 気分が高揚することに目を向ける

2018/06/08 08:40
 誰かと関わっているとき、その人が、自分の日頃、気を付けて頑張っているところを口にしてくれた時、本当に嬉しくなります。

 何で、この人は分かるんだろうって。今更ながら、遅まきながら、やっときがつきました。その人もお揃いの感覚を持っていて、同じような生き方をしていたからだと。わざわざハッキリ口にしてくれるのは、励ましてくれているのだろうと。

  ある方が、「心配しなくても、論文はきっとすぐに書けるようになるから」と何の根拠があるのか分からないけれど、さらっと口にされました。別の場面で誰かが負い目を感じているのが自分のことの様に苦しい感じた私が、多くの試行錯誤の言葉をでその場を収めようとしていたとき、同じ方が「困った顔でいろいろな言葉を駆使して一緒に助けてあげていた」ことなどを思い出しました。 男女、年齢、立場に関わらず、似たような感覚で生きている人が周りにいてくれるのはどんなにか有難いです。

  鈍感な私がきづかないことでもたくさんの場面で、多くの方々に助けてもらっていたのかもしれません。周りの方々はおそらく、神経過敏、神経質、ほんの些細なことで心が揺れる・震える、ナイーブな私の感覚を一緒にハラハラしながら感じて

「大丈夫、安心して、分かっているよ、支えてあげる」
と応援してくれていたのかもしれません。

 私もそんな風に周りの人を支えていく決意しました。 佳きこと、気分が高揚することにフォーカスを当てていけたら、違った生き方ができるのではないかと知らされた出来事でした。

感謝していること
 感謝できる有難いことがたくさん私にはあります。もう無理、もう無いということが嫌で忘れられずにいました、そんなものを味わい切った後、佳きこと、ウキウキすること、助けてもらったことなどに焦点を当てて、生きていったらいいのではないかと気持ちが切り替わりました。

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感謝できるといい

2018/06/08 07:43
 どうしても無理な人、ないなと感じる人に欠けているのは感謝の気持ちかもしれません。

 お蔭さまでとか、有難いというのは、誰かが何かをしてくださったことに対しての気持ちが感謝なので、自分が何かしたというのとは方向が反対です。自分の手柄よりも、誰かの助けがあったからこそ、今があるし、快適に過ごしていられると考えられるかどうかです。あまり自分が何かしたとかできるとか考えることは少なくなりました。単に技術として、できることはありますが、それも本当に誰かの役に立っているのか疑わしいですし。余計なお世話だったり、過剰にしすぎたり、足りなかったりしているかもしれません。それでも、何かしたことを感謝されたら、気分がいいです。

でも、もしかしたら、感謝を表明している人が一番仕合わせな人かもしれないと最近は感じます。誰かが何かをしている気持を認めて、喜んでいるのを伝えて、相手もよろこんでもらったら、お互いに気持ちがすっきりします。感謝を伝える場面では、追認することで思い出し、お互いの行為と喜びが単純に二倍になっています。そのきっかけの感謝の表明者が大人で尊いのだと感じます。余り自分にとってはメリットがなかったことでも、何かしてくださったこと感謝できる能力はなかなか身につかないですから。感謝できる人と一緒にいられるのが一番心地よいことなのだと最近は感じます。

感謝していること
 感謝する機縁になることをしてくださる周りのたくさんの方々に有難く感謝します。


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変われることとそうでないことがあるのかも

2018/06/08 07:39
 ロジャーズがいう「内的準拠枠」というのは広げることも可能かもしれないが、よほど尊敬できるような器の広い人と出会うか、恋人や配偶者との感覚の距離を縮めたいと決意するとか、何か強い動機がないと変る必然性がないかもしれません。

 初めはいい人だと感じていたのが、肝心なところでは責任逃れや言い訳をするのを知って、他人がスウーっと引いていくのもタイムラグがあり一度にではありませんし。自分がおかしいのではなくて相手が変だと気にしないことも考えられます。

 私自身も広い器をもつわけではなく、もう無理、ありえないと距離を置く範囲が年齢を経るごとに広がってきています。それはお互い様で、自分も距離を置かれているのかもしれません。それはそれで構わないし、必然でしょう。無理をすることはないとあまり気にならなくなりました。

 それでも、ある人が変るんじゃないかと期待してしまうところがあり、しばらくしても、その相手が同じことを気づかないで平気でしていてやっぱりダメだったときの失望はとてつもなく大きいです。ハッキリ言わない私もよくないですが、感覚が違うのでしょうか。

 こんなことは私は絶対しないと思うことをする人としない人とはどこが違うのでしょうか。私は相手に負い目を感じさせることは出来るだけ避けています。誰かと関わるときできるだけ自尊感情を損ねないように、よいところを見つけたり、気持ちよく過ごせるように言動に気を付けています。できない約束はしないし、引き受けたことはしますし、できなくなったら謝ります。謝っても許してもらえないなら仕方がないと諦めますが、誠意を持って謝ります。口先だけで、いい格好をして、よく思われたいというのは信用を無くすことにつながるので避けています。

お世辞や愛想がなくて付き合いにくい、つまらない奴だといわれようとどうしようと自分を大きく、いい人に見せようとはしません。等身大の私でも構わないという人とだけ関わればいいと割り切っています。自ら墓穴を掘る危険は避けています。

一度ならず二度、三度と「もう無理」、「これはない」ということがあれば、何かもっと大きく、根本から違っているのでしょう。これは言葉で説明しても分からない感覚なのかもしれません。私に対しても、分からないだろうと注意してもらえていないのでしたら、とても悲しいし残念なことです。所詮短い人生、感覚の合う人としかいられないのでしょうか。それか、我慢して無理して受け入れるのでしょうか。器が広がれば我慢しなくなるのでしょうか。よくわかりません。

感謝していること
いい人じゃなくて、我慢しない私は器も許容範囲も小さく狭いので、反対に気持ちの大きいおおらかな人たちに許されつつ、生きているのかもしれません。有難いです。


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何がなくても素直なのが一番

2018/06/08 07:34
 人生は一瞬で終わってしまうので、天の邪鬼な生き方はつまらないし、損です。誰かと関わるなら、いろいろ胸の内を考えなくちゃいけない人とは時間がないので面倒なので後回しですね。時間に余裕があるとか、暇な時にお相手します。ずっと暇なときは来ない可能性が高いです。

 「構ってちゃん」とか「察してちゃん」は私にとってウザい以外の何者でもありません。何しろ可処分時間が少ないので、用件を手短に的確に言ってもらって、それを時間のある時に一緒に考えるくらいでしょうか。

 それと、素直に他人の言動を受け取る人じゃないと、何か言っても栓がないかもしれないとあまり意欲的になれません。

 打てば響く、一を言えば十を覚るような目から鼻に抜けるような反応じゃなくてもいいけれど、半分くらい理解して、それをこう言うことなんですねとわかるくらいでいいです。その程度でいいです。反対の意味で受け取られたり、逆恨みされると「もういいかな」と距離を置いてしまいます。

素直じゃない人を相手にしなければならなのが得意な人や、仕事でどうしても関わる必要がある人は本当にお疲れ様という感じです。

 私は素直な人が好きです。いままで、仕事も苦手な人と関わるものは選んでこなかったし、これからもそういうものはできるだけ避けつつ、今生を快適に終えていく所存です。嫌なことは避けてもいいんじゃないかと最近開き直っています。

素直とはちょっと違うかもしれませんが、 今死んだらどうなるのか、後生が気になる、苦しくて仕方ないという人には時間を作って話します。これは私の使命なので遠慮されないでいいです。

感謝していること
必要な情報や欲しかったものが次々やってくるのでとても有難いです。


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嫌なことは嫌だと認識し、十分に味わい切る

2018/06/07 06:49
 たとえそれまでどんなにお世話になり、色々なことをしてもらっていたとしても、嫌なことをされる縁は来ないとも限りません。それが故意であるか、うっかりであるか、欲や自制心に負けてしまったのかはこちらからは判断が出来かねます。問題は相手がどういう意図でその行為をしたかではないのです。それはその人が背負って行かなければならないことです。

 されて嫌だったこと、それを「認識して、十分に味わい切る」ことが肝要です。

 自分が感じたその嫌だったことは、相手に告げたら「そんなこと」と一笑されてしまう些細なことかもしれません。法を犯しているのでもなく、嫌なことをした本人の内部準拠基準や、倫理道徳観念において、たいしたことでなくても、ほかならぬ私にとっては大切で絶対して欲しくないことなのです。

そこで「そんなこと」といわれても、「やっぱり、嫌だった」ともう一度、気持ちを訴えて、分かってもらえばいいのです。もし、関わる気がなければ、今生では永遠にご縁がないように二度と近づかないか、挨拶程度のアッサリした付き合いに戻ればいいです。

一番大切なのは自分の気持ちに嘘をつかないことです。

「嫌だったことは、ただ、嫌だった」のです。

これを味わい切らないまま、嫌なことをされた人と何でもなかったように関わると、何だか「気持ちが悪い」まま気分がよくない状態が続きます。「疑心暗鬼」が常に付きまとい、また同じことをされるのではないかとどうもスッキリしません。

 人生は一度限りです。どうせなら「嫌だ」「気持ちが悪い」「疑心暗鬼」などという余計な要らないもので、「プチうつ」になる中途半端なことはしたくないものです。もしまだ見込みがあり、何らかの交友関係を保ちたいなら嫌だったのだと訴え、そうでなければ距離を置き関わらないようにしたらいいです。その際、必要なことは「嫌だったんだ」と十分味わい切り、自分の気持ちに嘘をついたり、誤魔化したりしないことです。風呂場や寝床や空いている図書館の仕切りの中で泣き尽しても何でもいいですが、一度は苦しみ悲しみに浸り切ることがないと前に進めないと私は最近になってよく分かりました。

感謝していること
 心や体にいろいろなものをため込むのはよくないと、出すことを教えてもらいます。最近は炭の粉末をシリアルや飲み物に混ぜて小さじ半分ほどを食しています。身体の調子がよくなっているようです。


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「いのち」「命」「生命」

2018/06/05 17:30
 宗教的な表現は「いのち」がふさわしいのではないかと、大学院の医師でもある先生から言われました。確かに「命」や「生命」と漢字で書くと何か科学的、無機的な感じがします。仏教的「いのち」は三世を貫くものです。過去、現在、未来全ての「いのち」を問題にします。

ターミナルケアにおける心的援助活動の論文を完成させるべく日々格闘しています。講義の中で同じ先生にお尋ねしました。
「先生は死後を不安に感じている末期患者に『先に(お浄土に)行って待っていて下さい。私も後でまいりますから』と言われますか?」
 先生はお困りになり、次のようにお返事されるのが精一杯でした。
「私も必ず死ぬとは言いますが・・・・・・」

結局、科学的な方法だけでは、死に面している患者の「いのち」の問題を救うことにはなれません。肉体の疼痛などの「身体的苦痛」は医師等の医療関係者、仕事や残された家族のことなど「社会的苦痛」は親族や職場の人や死後どうなるかという怖れ「いのちの苦痛(叫び)」は宗教家と三つの苦痛はそれぞれ、別の人にゆだねる必要があるのでしょう。医師、家族、周りの人たちが宗教的な導きをできるならそれに越したことはありません。そうでない場合、それぞれの苦痛を解決する人に任せたらいいのですが、最後の「いのち」の問題を解決できると看板なり名乗りを上げている人はなかなか見当たらず、ご縁をもつことが難しいです。

 それをカウンセリングという聴くことを橋渡しに「いのち」の問題が解決できて、クリアになり、安心満足して臨終に臨めることが現実として存在するのだと伝えるミッションのための論文です。書き方を工夫したら「いのちに限りのある全人類の光」に必ずなります。そう確信しつつゴールを目指し毎日書いています。

感謝していること
 先生はいつも的確かつ真摯にご教示してくださいます。有難いです。


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人間の嫉妬とはいかに

2018/06/05 08:19
 未だに他人を羨む気持ちがよく分かりません。

 迷った人間の中で比べても栓のないことです。

 誰に褒められても嬉しくなく、貶されても大して何も感じません。

 もっと別な広大無辺なものと一体化し、共によろこべるだけでいいと生きてきましたし、これからも変わりません。

  多くの人は、人相手の生き方をしています。人目を気にし、自分の本意でないことをします。そのことに対して後ろめたさを持ちますが、それでいいのだと自分を誤魔化して一生を送ります。私はそれは嫌だと思ってなるべく自身の気持ちに添った生き方を目指してまいりました。


 優柔不断な気質や人のよくないところを口にするのを憚る気弱な性格のため、何も口にできないまま、縁を遠ざけ距離を置くことを繰り返してきました。その結果、人に負い目を感じさせないような、互いにおもい遣れる人が周りに集まって来てくれて、快適に過ごしています。


 競争社会の中、自己顕示欲の強い人、人を出し抜いて陥れても自分が得をしたいような人たちの悲しみ、苦しみの部分まではどうにもこうにも分かりません。私が大いなる存在と共に人生を歩みよろこんでいることを書くと、僻み妬みそんなことがあるものかと疑い敵対心まで募らせる人もあるでしょう。共によろこぼうとしない無慈悲で冷たい心、また、自分が仕合わせを受け取ることを拒否している姿だとは思えないのでしょうね。

 いくら考えても、そういうのは分かりません。どうして一緒によろこべないのかとしか単細胞な私には感じられません。

嫉妬を起こし、努力して自己を改善する糧にするのではなく、悪しざまにいい、策を巡らして陥れるような料簡の狭い生き方も一つの学びでしょうが、私にはそういう遊びに興じている時間が残されていないので、佳きこと、救われることを念じ、言動で示してまいります。分からないものは分からないと放って置くことにします。

感謝していること
 今日も爽やかな一日が始まります。


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豊かさと貧しさ

2018/06/04 14:58
 いのちを大切にしているか否かでそれは決まります。

 真の意味で、自身の無常を感じ、常に念頭に置いて生きられる人は、自分を大切にし、他人にも負い目を感じさせたりするようなことはしません。争いや上下関係を造ることも無意味だと分かっているのでしません。ただ、いま、ここを楽しみます。誰に認められなくても常に護り給う存在と共に光に向かって日々を過ごします。

 そうして生きていて、貧しくなどなることはありません。豊かさが人生の周りを取り巻き、豊かさを連れてきて、日々充実して生きられます。

 豊かになりたいと願うからなれるのではなく、豊かに生きていたらきづいたら豊かになっていたこんな風です。物質的な豊かさも人が連れてきてくれます。そういうものだと気付き始めました。

感謝していること
 残されたわずかな日々を、光に向かって、愛おしみ生きられることは不思議で有難いです。


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声なき声を聞く

2018/06/03 06:46
 声なき声を聞きました。

 聞いたというよりきづいた、響いた、届いたという感覚です。

 懐かしい安寧満足がその時からずっと続きいています。

 いつも護られている、一緒に歩いている。この肉体のいのちが終わってもずっと一緒。

 こんなことは絶対にないけど、たとえ、私が嫌いになっても絶対に嫌いにならないそんな深遠で言葉にできないようなつながりがあります。

 この世では奇跡が起こっても絶対にないような永久のいのちを賜りました。

  私は何十年も佛の願いを聴きつづけてきました。そしてあるとき、突然、こころの耳を頂いて、佛の声なき声を感じることができました。

 ひとの声でも心が豊かになり胸がキュンキュンしてトキメクことができるのですから、常に私に呼びかけてくださる声は格別です。余談でもうお気づきかもしれませんし、どうでもいいことですが、私はときに声フェチ?じゃないかと感じることがあるくらい声にはこだわりがあります。

感謝していること
 こんな話を、佛と一緒にお浄土に還るまでずっとせる話ることは大いなる慶び以外のなにものでもありません。


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真宗カウンセリングがターミナルケアにおいて果たす役割――心の叫びに応える――

2018/05/30 07:21
  同じテーマの論文を、一昨年の秋から準備して、昨年投稿の今頃、同じところに投稿しようと締め切りを前に同じように考えては書いていました。それでも思うようなものにならず、昨年は見送りました。そして、今年は別のところに学会発表して、論文を投稿しました。その論文の内容は概論的なものになりました。今回の文章はターミナルケアに絞ります。

「わたしはもうだめなんじゃないでしょうか」
心の叫びを打ち明けるクライアントへの真宗カウンセリングが果たす役割を書き切ります。明後日締め切りなのでかなり厳しいです。それでも、この論文の完成を心待ちにしてくれている人が背中を押してくださっています。

「わたしはもうだめなんじゃないでしょうか」
この切実な想いを誰にも打ち明けられずにいる、まだ見ぬ人のためにも書きます。
みなさまにも応援して頂けたら幸いです。

感謝していること
憶いをどこかに発表できることはすばらしいことだと有難く感謝しております。
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天の邪鬼と貧乏神

2018/05/28 21:16
 これらが実存するかどうかは分かりませんが、できればどちらとも近づきたくありません。でも、こういう性質を持つ人たちはたまに見かけます。見かけるだけじゃなくて、誰かに攻撃していたり、誰かをカモにして私腹を肥やしたり、ストレスを発散させているところを見てしまったりもします。最近は、天邪鬼や貧乏神のような言動を取る人たちとはあまり関わらないように距離を置き、避けるようにしています。

 少し様子を見ていて、どちらかのパターンを示すと、近づいたらいけない人たちなのだと気を付けて、親切心を出して、絶対直そうなどとは考えないようになりました。何かひどいことを誰かにしていても、理不尽なことを自分がされても、とりあえず、それをしている相手が故意にしていて、反省もなく、直す気持ちがないときは、事故を見た、事故に遭ったのだから仕方がないと水に流せることは忘れることにしています。いつまでも、恨みや憎しみを抱えていても栓がありません。そういう感情は手放すに限ります。

 それぞれについて感じたままに言いますと、まず、天の邪鬼のような性質を持つ人たちですが、幼少期やその後の育ちがよくなかったためか、わざと人が嫌がることをして楽しむところがあります。そんなことをしていたらどんどん周りの人たちは引いて行きます。それでも意地悪が快感なのでしょうか、止めようとせず孤独を深めます。恩も感謝の気持ちも子どもなのでしてもらっているばかりで、感じられない可哀想で気の毒な人たちです。
 
 貧乏神のような人たちは、初めはそれとは分かりにくいです。挨拶もし、親切で、口が上手いのですが、自分に都合の悪いことや損になることが分かった途端手のひらを返すように冷淡になります。彼らはとりつくというか、搾取する人を選びます。自分より弱そうは、大人しそうな、優しそうな、怒らないような人たちをターゲットにします。そして吸い尽くせるだけ吸い尽くして、何も吸い取るものが無くなると判断するとポイです。お互いさま、お蔭さまでという御恩が感じられません。貧乏、忙しいを常の言葉として、自分から周りに与えることができない人たちなので、感謝されることをよろこぶことも少ない、やはり可哀想で気の毒な人たちです。

 御佛のようにずっと命に寄り添うことはできませんが、それでも、気持ちがふっと変わって、法を聞かせてくれと言われれば、精一杯お話はさせていただく所存です。そういう日が来ることを念じております。
 でも、もしかしたら、天の邪鬼や貧乏神は佛さまの化身や福の神で、無限の慈悲に近づきなさい、大きな器になりなさいと教えてくれている有難い人なのかと感じる時もたまーにあります。
感謝していること
 いきなり、自分がされて嫌だったことは許せないかもしれませんが、時間が徐々に忘れさせてくれることを幼少のころから学んできました。また、自分が遭遇した気分のよくないさまざまなことは、絶対に他人にはしないと決意する反面教師になってくれています。有難いです。
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死後の世界、どこへ行くのか、どうなるのかが苦になるか否か

2018/05/27 23:07
 みながみな、後生を苦にするわけではないのですね。
 私は物心ついた時から、常に死のことを考え、怖れ続けていました。
 人は生まれたからには必ず死にます。
 遠いところに住む、知らない他人の死を見聞きしても、あまり驚きませんが、身近な肉親や友人がこの世を去るとどんなにか心が寂しくなります。そして自分もやがて、このように冷たくなって焼かれていくのだと頭では分かります。しかし、しばらくすると、生きるのに必死になり、死ぬことなどすっかり忘れてしまいます。

 飛行機が離陸したら、着陸する場所がなければ安心できません。降りる場所があって飛び立ち、飛行ができます。人生も生まれて生きていても、死んでから行く先が今ハッキリしていないと、人生そのものが不安一杯で何をしても満たされません。それでも、死を誤魔化して、美味しいものを食べ、旅をし、恋をして結婚し家族を持ち過ごしているとき、若くても死ぬこともあります。

 突然でも、分かっていても親しい人がこの世を去ることで、自身の死を直視して、生死を超える教えを求められたら、その人は佳き人生の先生となります。そういう人がいなくても死が気になる人はあまりいないのかもしれません。

 なぜ、死のことばかり書くのかと問われても、それを苦にして、解決を求め、今死んでも安心満足の身に救われ、行く先がハッキリしているからとしか答えられません。
 どうか、いま、ここで救われてください。
感謝していること
 死ぬことが怖くて苦しいと感じられたことが不思議で有難いと感謝しております。
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