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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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人生は「五欲街道」の「五欲道路」を死に向かってひた走る

2017/07/29 09:24
 もしも迷いから覚めることが人生で出来ないとしたら、人生はただの苦しみでしかありません。街道沿いにはたくさんの魅惑的なものが立ち並び、そこで刹那的快楽を満たします。
この街道の旅は、どの道路を選択しようと先が見えない暗闇を行く者ばかりがいるので、誰と一緒に居ようとも安心も満足もできません。道にいるほかの人とは、暗くてお互いが見えず、気持ちを共有することも分かち合うこともできず、近づくとお互いの針が刺さり血が出るし痛いので、距離を取るのですが、離れても寂しくて、どうにもこうにも不安定で傷つけ合うことしかできません。

 暗いので互いの顔も見えず何を考えているのかも理解不可能す。たとえ親子・夫婦であったとしても疑心暗鬼が募るばかりで傷つけ合います。時にはわざと道を塞ぎ邪魔するような誰かに殺されるような気がして、それならばいっそ自分が殺してしまおうかという衝動に駆られたり、反対に面倒なので自分が死んでしまおうとしますが、ほとんどの人は、さすがにそれを実行することはできず、窮屈さを抱えながら、見ないように考えないようにして又走り続けます。

 暗闇の中、どこに向かって走っているのかもわからず、魂の連れもなく、休んでいると前に進めと急き立てられ、どうにもこうにも途方に暮れるばかりです。たまに同じようにくらい「五欲道路」で立ち止まり、光を探すひとと出合えます。そういうひとたちと一緒にいると一瞬走るのを止めて、このままこの道を行ってもいいのか考えますが、迷っている者同士なので途方に暮れるばかりです。

 また、本当にごくまれに、そのひと自身が光を放ち、闇に向かっている方向と別の道を行っている姿に遭遇できることがあります。このまま走っていても暗い心を抱えて迷いを繰り返すだけだから、こちらに向かって一緒に行きませんかと誘ってくれますが、縁が熟さないとみんなが行く「五欲街道」から外れることが怖くて、その誘いを断り、またもとの道路を走ることを選択します。ただ、あのひとはこの状態を抜ける道を知っていたのかもしれないと、記憶の片隅に何かを残して。

 そうしている内に、歳を取り、肉体が衰えてきて、思う存分、五欲を満たすこともなく街道の道路の途中で行き倒れていきます。死ぬ直前に、あのとき光を放っていた人から欲を離れる方法が聞けたのではないかと後悔しますが、時すでに遅しです。こういったと営みを、迷った魂はまた別の五欲街道に姿を変えては、生まれては死ぬことを延々と繰り返すのです。

 真理の光に出合ったなら、このままでは迷いを繰り返すから、あの光る方向に向かって行こうかというひとが一人でも現れることを願って止みません。
感謝していること
 光溢れるところに向かって何人かと御互いの顔を見ながらゆっくりと歩いて行けることを慶びつつ、さらにお連れとご一緒できる出合いのご縁がたまにあり嬉しい限りです。
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共感と同意の相違点――共生の試みと正当性に基づく論破という手段――

2017/07/28 09:48
  研究を続けていてふと疑問に感じることがあります。
  この研究はひとを幸せにするものだろうかと。
  「そうだよね、わかるよ。こういう気持ちなんだよね。その気持ちを大切にできるように世間の人に分かってもらえるような論文を書くからね。」
  
  私の研究の原点は自他の幸福にあります。それを抜かしたものは研究のための研究であり、ただの時間つぶしでしかないと私は認識しています。
  加えて、私は社会学者が苦手です。それで、社会学の手法で論文を書くことを諦めました。彼ら全部とは言いませんが、裏表が激しく、批判的で、物事を斜めから見る性格がよくなく、礼儀をわざと無視して失礼な態度を取る人たちが多いように見受けられます。そういう格好をするのが社会学者だという未熟なポリシーがあるのかもしれませんが、そんなものはどぶに捨ててしまったらいいと私は苦々しい気持ちでいます。
 別の学問、たとえば哲学や心理学等の人たちは、人間の幸福を追求しますので、まだましです。批判するより、共通すること共感を求めていきます。人を信じることが基礎にあり、それを超える真理を探している姿勢が見られます。
 
 ただ、どちらにしても、人間は一人では生きていけないから、依存や共依存でボロボロにならないように「相互依存」という形でどこかで妥協して甘え合って、ギリギリのところで自己が崩壊しないように防御の手段を取り生きながらえているのです。この親をはじめとする甘え合える人がいないと、うつ病や様々な精神疾患や肉体の病などで不調を訴えることになります。

 「分かってよ、こんなに辛いんだから」という共感を求める形の方が謙虚です。「俺様の言い分が正しいのだから、正義なのだから言うことを聞くのは当たり前だ」という上から目線の同意を押し付けるやり方が各種ハラスメントにつながります。 心や魂、スピリチュアルな感覚で捉えるものと、知識や理論で納得させられるものは大きな違いがあるのです。

 理屈では分かっていても、心の奥底でやっぱり嫌だということがあれば、それは、ずっと後を引きます。火種が残っている状態が続くのです。正義や理屈を振りかざす人と一緒に居ることはとても辛く楽しくありません。感じが悪いし、いい加減にしてとしか思えません。何も言わなくても、優しい眼差しで見つめてくれるような小さな子どもに頭でも撫でてもらった方がずっとましです。

 なまじっか頭の回転が速くていらぬ知恵を持つと人生苦しいです。斜めに見るのではなく、真っ直ぐにありのままの姿を認め、共感し甘え合える方がずっといいです。周りに泣きそうで壊れそうなひとがいるとき、辛いんだよね、頑張ってるよねってただ理屈など全く言わないで一緒に居てくれる人がいたら、心身の病にはかからずに済むことも多々あります。そういうことを疎かにして、正義の理論を振り回して、これこそが学問の王道だとばかり言い放つひとたちを北風の強制力ではなく、太陽の温かさで要らない名利の上着を自分から脱がせることも私の研究の目的の一つです。
感謝していること
 学問を進めていき、その目的は奇をてらう理論を展開し、見せびらかすことではなく、ひとの心の共感できるところを知り、自他ともに幸せになることだということがより鮮明に分かってまいりました。
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仕事に定義は不要、根底に慈愛があり、使命もしくは人生そのものとして上書きするもの、生きること

2017/07/24 23:38
 自ら看護師の資格を持ち、大学の教員として看護の分野で教える先輩の発表を聞きました。

 仕事をしているとき、ここぞというときには看護師として動いているというようなことを仰いました。自身の頭の中で定義があるわけでなく、現象学でいうところの何かかもしれませんが、知らない間に身体が動いていることを私も経験上知っています。私の使命を果たすための仕事を必要としているひとを目の前にしたら、そのように身体が勝手に動いて、言葉を発しているのです。

 私は真理との邂逅について話し、カウンセリングの技法を自身の使命を果たすための技術・仕事として捉えています。普段何気なく過ごしていても、本人からのサインがあれば、すぐに仕事に取りかかります。無常は迅速、その方も私も次のご縁まで生きていられるかどうか分かりません。だから、目の前のひともしくは電話やチャットなどで私に求めることがあれば、時間や体力が許す限り、向き合います。

 
 自身の身につけてきたことで役に立てるなら本望です。そこにあるのは熱意であり、両者にもたらされるものは感動です。しかしながら中途半端なのはお断りしていますし、見抜けます。一つしかない身体で出来ることは限られていますから、今何をすべきかその優先順位をいつも考えています。とりあえず、毎日書くこと、不特定多数のひとに送って、その中で、一人でも何かが伝わったらそれでその日の仕事をしたことになると信じて続けています。

何かに本気になったときは、形振り構わず、追いかけるものです。それをしないのは自分にとって大切なものが見つかっていないからです。余裕がある内は身体も心も動きません。本当に欲したら、それが自身のためになるものであれば、叶います。その見返りに、何かを要求されることなくすんなり手に入ります。

欲しいものは執着を超えます。それを欲しいことが潜在意識に深く落とし込まれ、当たり前になりますので、顕在意識で考えることもなくなります。獲られること身につくことが当たり前だと感じられるようになった頃、手に入っているものです。もしそうならなかったら、それは自分にとって要らないものであり、別のものがちゃんと与えられます。

 何かを頭で考えて、格好つけてしている内は半人前です。使命・仕事が身について離れなくなったとき、いざというとき無意識に、身体が動いてしまうまでになったときが一人前で本物になれたときです。


感謝していること

 一年半、ゼミや講義でお世話になった先輩が素晴らしい博士論文を出して修了していきます。さびしいですが、私も見習わせていただき、納得のいく博論を書いて修了します。

 


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熱意と感動で使命を伝えるには素直さと話し合える仲間が必要不可欠

2017/07/23 23:39
 まだ燃え尽きていない。

 熱が残っている。

 伝えたい感動がある。

 素直さもある。

 仲間も徐々に集まってきた。




 私はただ前に進むだけ。

 自動運転から見える景色は時々雨もようでもあるけれど、車の中から見ているので、濡れもしないし、自分の使命を邪魔するものではない。




 自分の可能性を信じて、世界に出て行こう。

 

 感謝していること

 また何か一つ要らないものがなくなり身軽になった気がします。


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今、爽やかに、軽やかに、笑って生きる

2017/07/22 10:28
 娘を産んで産院から自宅に帰ってきて、具合がよくなく、一月ほど寝たきりの生活が続きました。一時はトイレにも這っていくような状況でした。1メートル進むのに何分もかかりました。身体中の感覚が戻らず、このまま死んでしまうのではないかと本気で感じました。普通に歩ける、体のどこも痛くないで、他人の世話にならないで自由に何でもできることが当たり前ではなかったのだとその時、分かりました。

モラハラなどハラスメントをする人たちはいつまで生きていられると感じているのでしょうか。もし今日が今生の最後の日だったとしても、家族や周りの人たちに意地悪をするのでしょうか。そんなことをして何になるのでしょうか。人が悲しんだり慌てたり驚いたり苦しんだりするのを見ているのが楽しいのは劣等感からくるのでしょうか?広い宇宙から見たら芥子粒のような我が身を同様なちっぽけな他人と比べるどんぐりの背比べは楽しいのでしょうか?くだらない小さい人間が世の中にはたくさんいるのでしょうか?

 私にはひとと比べて威張って見下したり、嫉妬したりする気持ちが本当に分からないのです。物心ついた時から、今死んだらどうなるのだろうかという恐怖と戦ってきていて、周りの人間が、多少見かけがよくても賢くても裕福であっても、そんなことは二の次でどうでもいいことだったのです。どうせ死ぬときには置いて行かなくてはならないものですから。

 いずれ死ぬのなら、今を楽しく、明るく、優しい言葉を掛け合って生きたらいいのではないのかと子どもの頃から今に至るまで基本的な生き方は変わりません。それなのに自分を信じられない私は大きな声を出す圧力をかける人たちに屈してしまうことがありました。

真理との邂逅を経ても強く言えないで黙って怯えている癖は直りませんでした。

 でも、私が動かなかったら、問題を見過ごすのは違うんじゃないかと最近は考えるようになりました。今までの弱さを乗り越えて、文章やワークショップなどで自信がない人たちに真理との邂逅を教え、世間事でもハラスメントを乗り越える術を示していかなければならないのだとようやく重い腰を上げる決意をしました。

 とりあえずは、今書いている論文を仕上げ、関わっている研究会などでほかの人と一緒に出来ることを話し合いながら出来ることを実践してまいります。

誰かが笑顔で挨拶してくれて、嬉しそうにしているのを見ているのは、本人はもちろん、私もとても気分がいいし、生きていてよかったと感じられる瞬間です。そういう時を少しでも多く、見ていけたら幸いです。だから私もいつも機嫌よくしいてく所存です。


感謝していること

 元気で使命を果たせる身の上をよろこばすにはいられません。


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人生は軽く始まり重くなりまた軽くなる

2017/07/16 18:20
 二度目に軽くなったときが卒業の時なら、もう人間も卒業できるのかもしれません。

 まず軽く生まれ、マックス重いところに到達し、再び軽いところに入って、完全に軽くなる。

 前世でやってきたところから始まるとしたら、ほとんど最終の軽いところに入るまで各段階があり、苦しみも異なります。

 また、本当は卒業できている人が、重いところで長く経験を重ね、他人を救う術を学んだりすることもあるのかもしれません。楽しく楽で平板で薄い人生が幸せではないのではないかと最近は感じています。


 もう残り少ない私の人生において何をすべきか、自分の楽しみはただ他人の真摯なところを見ることくらいです。そういうところを少しでもたくさん見ることができる人と長く一緒に居たいです。

 多くの対話も要らないし、自分の使命を果たすのに障害にならないところで、淡々とひっそり生きていたいです。呼ばれたら世界各地どこへでも飛んでいけるように普段はリラックスしていたいです。

 誰かと何かを話したり、書いたものを読んだりすると、そのひとの底みたいなものが見えてしまって、何だか怖いです。重い場所の真っ最中にいる人たちと一緒に居るのは辛いです。

軽い場所で人生を謳歌している底が見えない人からは、いろいろ教えていただいています。どんどんそういう時間を増やして、そこで得たものをシャアしていこうと存じます。

 また始めの軽い時代を過ごす子どもたちからもたくさん学べ、共感できることも多いので、出来たら小さい人たちと一緒に過ごす時間を増やしたいです。いつか学校を創設したいという希望がありますが、それも早く実現したいです。

 感謝していること

 いいことばかりある訳じゃなくて、かなり辛いですが、使命を果たすためにいろいろなことで学ばせていただいているのだと有難く感謝しております。




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視座を上げると見えてくるもの

2017/07/16 10:26
 最終的には自身は生死を超え、全てがつながっていることが分かります。

 脳内の妄想でこねくりまわして拵えた自分を助けてくれると頼みの綱にしていたものなど何もなく、きれいさっぱりすっと消え、代わりに絶対的な安心と満足が心に広がります。

これら全てが一瞬で心にストンとおちます。

 そして、それが徐々に感謝という形で実感されてきます。




 視座が低く、自分と周りのものしか見えないと、災いや困難が降りかかってきたとき、何でも他人のせいにします。そして目の前の自分の欲を妨げ、怒りや愚痴の原因となるように感じられるものを攻撃して傷つけます。何の解決にもならないのですが、全体を見通せる位置になく、智慧が浅く正しく事象を認識することが出来ないので苦しさを払しょくするために周りのものに手当たり次第当り散らします。




 全てのことが自分に起こっているのではなく「自分のため」に自分に何かを知らせ教えくれるために惹起しているのだと分かるのは、精神的に成長でき、自分の人生に責任や覚悟が出来た時ですが、それまでは他人のせいにして逃げることに終始しているので、くるしみがリフレインし、増強されるばかりです。




 視座を上げる一つの方法として、自身の人間としての尊厳を追求することが挙げられます。いかにして自分を大切にするか、それを実現するためには高い倫理観、倫理の核心ともいうべきものに近づく努力をし始めると世界が変わっていきます。自分を大切にするということは自分を支えてくれている周りの人たちに感謝して同様に大切にすることにつながります。それが家族から学校、会社、地域、国、世界、宇宙へと拡大して行きます。

 ほかのひとを大切に想う度合いもどんどん深まり、表面的な一時凌ぎの優しさや思いやりではなく、未来も見据えた最大限の知恵を傾注した接し方になります。




 とことん、真理や周りの人たちと向き合い、もうこれ以上ないというくらい真摯な態度で接していくと、穏やかで温かく風が渡るような心境になれます。そうなるともう、意地を張ることもなく、思い遣りの全てを出し合っても大丈夫な体質になれています。裏切られる心配がなく、信頼できているので肩の力も抜けて軽やかに爽やかに生きられます。これが三昧の世界の一つの形なのかもしません。




 感謝していること

 自分のことばかり考えて、低いところにいると見えないものが、考え方を徐々に変えていくうちに景色が変化するものだということを身を以て知らされます。


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いま ここを生きる

2017/07/16 00:55

 http://ameblo.jp/twinflame1111/entry-12286059796.html

 一週間の接心の中で一番強く感じたことは「空」であり「無」でした。

 毎日座禅で公案を考えて、作務で掃除をして心を見つめ続けました。

 このブログの記事の最後の教室のような生活が続きました。

 書物やインターネットの環境から離れ、ただひたすら座禅で座りました。

 

 いま ここを生きているなら、ひとは横になるだけ、座るだけの場所があれば何も要らないのだと知らされました。

 ただ使命を果たしつつ、次の場所に旅立てるように空っぽのロッカーや本棚を掃除をする状況に今自身がいることもイメージだけではなく体験として感じられました。




 第三の教室にいる人同士と一緒のときは心が落ち着きます。

 でも、まだ私はその場所にほこりをまき散らしたり、拭いたところを泥足で汚したりしている状態です。第二の教室に未練はないですが、誰かと一緒に楽しみながら第三の教室で掃除をしながらお浄土への道を歩いて行きたいのです。

 

 ちょうど昨年の今頃、私はある人になぜか次のように宣言していました。

「仏さまのことは信じられたから、今度は生きている人間が信じられるようになりたい」

 とにかく私は当時人間が怖くて仕方ありませんでした。今でもまだ完全に怖くなくなったわけではありませんが。

 

金持ちケンカせずというのは、余裕がある人同士は相手を思い遣れるので、正しいことより優しいことを基準とした選択で相手を受け入れられるということは経験で知っていました。だから満たされず欲望を丸出しにするひとたちは自分にどんな危害を加えるか予測できないので怖いのです。お金や物を持たず、不遇な過去からのトラウマから脱け出せず、相手のエネルギーを奪って、困らせてしまっても、平気でいられる感覚には距離を置くしかありません。




精神性が対等か合わせようとしている人以外の関係は「依存」か「共依存」になります。それは個人として一人で立てていないからです。精神的に独り立ちで来て、ある時は相手を励まし、別の場面では自分が支え励ましてもらう「相互依存」でしか何の考えもなく安心して甘えられないことにもきづきました。




精神が不安定な時は、精神科や心療内科の薬の治療は功罪ありますが、「相互依存」出来るような状況で、しかるべき相手に出合えていない時は薬の力を借りることも仕方ないと思います。人として信頼関係を築いたり、悟りの境地をよろこび合える以前の問題です。




あれから一年、私にはひととして信頼し合える人が何人か見つかりました。彼らの人格そのものを私はリスペクトしています。

人間を信じたいと宣言したそのひとにもやっと私のことを信じてもらえるようになってきたみたいです。ずっと些細な何でもないことで、そのひとが怖かったのですが、正直に怖いと伝えようと決意できました。そして、そのひとが私を信じていると聞いて、私もそのひとのことを信じてみようと思えるようになり、気分が楽になりました。初め、直感でこのひとは信じられそうだと受け止めていたのですが、途中、大人というあくやバリアが思い出され、それを取り除くのに時間がかかってしまったようです。




不安からわざと意地悪をして相手の反応を見て試したり、脅かしたりする必要のなく信じられるひとが一人でもいたら人生が変わり、色付く気がします。

まず自分自身が、誰かの為にそうなれるように生きていたら、そういう人と出合えるけど、自分ばかり欲しがっている人には厳しいようですが、孤独から何時まで経っても脱け出せないと私には感じられます。




感謝していること

仏教の先生に枠が外れると、別の生き方が出来るようになるから、その課題を克服できるように頑張りなさいと言われました。まだまだ修行が足りませんが、助けて支えてくださっている方々に有難く感謝します。

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三昧を生きる

2017/07/16 00:30
 好きなことを好きといえて、自由自在に生きる。

 もう少し私には難しいです。

 これが仏教の先生に言われたバリアのようなものなのかもしれません。

 まだ、何も成しえていない、結果を残せていないことで自信がないのだと思います。

大好きな人にたまたま逢えたら嬉しい気持ちで微笑むことくらいはできるようになりました。でもまだ恥ずかしくてはにかむ様にしか笑えません。何のてらいもなく満面のこぼれる笑顔で「逢いたかったの」って言えるようになるのでしょうか。

 いろいろなことを感じないように蓋をする癖がいまだ抜けません。

 怖くて、遠慮したり、引いちゃったり、本当に無力な子どものようにしか生きられない私です。

 それでも、もう残り少ないであろう人生を、蝶が匂いに誘われて寄ってくる花のように、なおかつ、自然な麗しい日々を生きていく所存です。

 いま ここをただひたすらに生き切ってまいります。

感謝していること

 今日は友だち数人と心地よいときを過ごすことが出来ました。これからまた出かけます。


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幼稚園や小学校の先生の役割

2017/07/16 00:25
 先生には褒めてもらいたいのが小さいひとたちです。

 男の子たちは周りの女の子に褒められてもそれほど嬉しくありません。

 少し背伸びして、無理をしても優しく綺麗で大人の母親以外の女性に、いい格好をしたいのです。

 母といると泣き虫で甘えん坊でも、不思議と先生の前ではいろいろ頑張ってしまいます。


 先生もそこのところはよく心得ています。

 本当はできることでも、わざと困った振りをして助けて欲しいとお願いします

 先生の一大事、危機を察知すると、俄然張り切るのが男の子の性(さが)というか業というか、見ていて微笑ましいものがあります。


 5歳から10歳くらいの思春期までの男の子たちに適切な人格形成が出来たら、日本も世界も変わると私は確信しています。彼らの勤勉で律義で他人に奉仕するところがおとなから老人になるまでずっと続いたらいいのにと感じます。

 とにかく役に立ちたい、カッコいいと褒められたい一杯の男の子たちが真っ直ぐ育ってくれるような教育は必要です。


 これに対して女の子は気まぐれというか、先生や他人の為にじゃなくて自分にメリットがないと動かない傾向にあります。優しい子はみんなに対して同じように優しいですが、滅多にそんな子には出合えません。自分の為に生きるというのが女の子の性・業なのかもしれません。


 こんなことを書くとジェンダー・フェミニズムの研究者に怒られそうですが、そういう傾向は実際小さい人たちと接していて感じます。男の子たちはハンターであり、長じては物質的なお金や名誉や地位を得て、それからくる富を愛するひとに与え、護り役に立つことによろこびを感じます。女の子たちは終生、自分がいかに綺麗で素晴らしい資質があり、何事かを為せる存在か誇示することに躍起になります。

 
方向が他人に向くか、自分の方なのかその違いは大きいです。

 結婚式の当日以外でも、男性が前に出て威張るとろくなことはありません。そのいちばんの悲劇が戦争という殺し合いです。女性の活躍を蔭で支えるような生き方をしている人は穏やかで幸せそうに私には見えています。


感謝していること

 いろいろなことで私も今まで多くの男性たちに支えられ助けられ生きてこられたことに感謝します。


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どうせ死ぬなら使命を果たしつつ、後進を育てつつ優しく生きる

2017/07/14 07:56
 生きる目的は生死の迷いから覚めて、その状況に至る過程をほかの人に伝えて共有することでした。まだまだ道半ばです。

 本来のメインの目的が果たせたので、人生の楽しみは別に特にありませんし、若い人たちに持っているものや知識などを譲っていこうと考えています。

 それから、自分が敏感で少しのことで心が揺れ動くので、出来るだけ他の人を驚かせたり、悲しくさせないように優しく生きることに心がけたいです。




 世間的な欲の為に、自分のためにあれがしたい、これがしたいということは特にもうありません。どうでもいい気がします。

 ただ、自分と感覚が同じような人や同じくらい苦しんできたことがある人たちがまだ生死の解決が出来ていないのなら、世界中呼ばれたところに出向いて話をしたいです。できれば、本当に私を必要とする人や、私が使命が果たすのに協力してくれるひとと一緒の時間をたくさん過ごしたいです。それがよりよく実現出来るように文章を磨き、海外で学び、学会で発表するなどの経験をいまさらながらですが大学院で重ねています。そして、ご縁も広がっています。




 今までできなかったことが今少しずつできている気がします。気持ちがあっても道具や手段がそれに見合う適切で上等なものでなければ役に立ちません。それを学び直し探している最中です。真剣は真剣ですが、遊びながら楽しんで取り組めるとさらに成果が上がるのでしょう。三昧を生きていきます。




 感謝していること

 研究を進めると今までモヤモヤしていたことが明らかになります。

 大学院に所属して、リスペクト出来る研究者仲間との対話で、自分がどの方向に行けばいいのかも鮮明に浮かび上がることもあります。有難いです。

 


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聴くということ ――博士学位審査公聴会にて――

2017/07/13 22:21
 浄土真宗の説法を初めて聴いたときから、私は命がけの聞法を何十年も重ねました。

 今日聴くことが出来なければ、死んだ後、頭を下にして真っ逆さまに地獄に戻り、このチャンスを逃したら、この先とてつもない長い間、六道の迷いの世界をさ迷うことになるという危機感がありました。毎回、阿弥陀仏が出される真実の弾と自身の雑行・雑修・自力の弾との死闘でした。真実の智慧と慈悲の温かい憶いの籠った弾をひょい、ひょいとすり抜けるのが得意でした。そして、自身の我欲に塗れた煩悩の冷たい疑いの弾を阿弥陀仏に、出し続けることに何の怖れも戸惑いも感じることは無い恥知らずでした。




私の自性が真に照らされたのは阿弥陀仏の声なき声を聞いた時でした。音は何も聞こえませんでしたが、確かに温かく自身を佳い方向へ導く力をそこに感じました。相対的なものは何も見えない・聞こえない・触れることができないけれど確かにそこに何かがありました。




 阿弥陀仏だけではなくひととの関わりもこれと同じなのだと昨日気が付きました。

大学院の博士論文の審査会(博士学位審査公聴会)で、一緒に学んだ先輩が自身の何十年にもわたる活動を十年近くかかって論文にまとめたものを聞かせていただきました。先輩とは何度かお話ししただけでした。難病の親族を抱え、行政や団体の運動をしていく様子を淡々と文章に書かれていたことを知っていました。




私は早めに会場に着き、席を取り、先輩の労を労う話を少しして、別の講義に向かいました。他の学生にも出来るだけ前で聞くために席を取っておくといいと勧めました。講義を終え、会場の席に着いてからは、一言も漏らすまいとかつての説法を聞いていた時のような姿勢で真剣に聴きました。それが先輩に対して私がこの大学院で最後にしてあげられることでしたから。




とりあえず、私は餞に華やかな服を着て、化粧をしていきました。参加者の中にはラフというかルーズな格好の人もありましたが、私にはそれがどうしても理解できませんでした。先輩の半生記の活動を真摯に受け止める姿勢をまず服装をはじめとした態度で示すのが礼儀だと古い人間の私は感じられたからです。




こんなこともありました。小さい人の先生でもある私は誰かの話を疎かに聞くことには抵抗があります。特に一生懸命話しかけてくれる人に対しては全身を耳にして聴くことにしています。ロンドンで初めて会った連れ合いの幼稚園に通う甥が私にまるで先生に話しかけるように自分の知識を披露してくれました。

「ペロペロキャンディは英語ではロリポップって言うんだよ」

「僕の住んでるアストンタウンは地下鉄の二つのラインが通ってて便利なんだ」




 また、ふと見ると静かなところにあぐらをかいて座禅をしています。「ここは落ち着く」と言いながら。

「いろいろよく知ってるんだね、凄いね。流石だね」、「小さいのに座禅ができるんだ、最高!」と一々、驚いて三つSの褒め言葉を使って反応すると、照れていましたが嬉しそうでした。




 相手と真剣に対峙して、関わり、受け入れて、褒めるこれは基本です。

 これを学ぶために人間として生まれて来たのだと何かのご縁で再確認させられます。




感謝していること

 素晴らしい発表をされた先輩に有難く感謝します。博士論文の完成の励みに真摯な取り組みを見習わせていただきます。


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おそろいかそれ以上苦しんで、他人には同じ思いをさせないと決意した人となら・・・・・・

2017/07/12 00:46
 何だか辛過ぎて思い出したくないことが私にはたくさんあります。おそらく蓋をして閉じ込めているんだと思います。そうしないと崩壊してしまいそうだから。

 死の影に怯えて、怖くて、眠れない日々を送った何十年。

 自分も他人も信じられなくて、他人が怖かった長い時。

 過敏過ぎて傷つきやすいこころを庇いながら、泣かないで必死で立っていた数々の場面。




 決していい人でもなくて、情け深くもなく、器も大きい訳ではありません。

 でも、だからこそ、いま・ここでできるだけのことをしていこうとしています。

 私は他人の決意や努力の成果に対してリスペクトしています。

 最大限の応援や称賛を態度で示したいのです。




 こんなことがしたいといっても、どうせできないと言われ続けてきました。

 今までいろいろ頑張って来て私が本当に認めて欲しいことも、理解してもらえず滅多に褒められません。私にとっては表面的で取るに足りないことばかり、からかい・やっかみ半分でにやにやしながら褒め言葉を口にされると「気持ち悪い」だけです。




 だから、晴れの舞台にいる人の話に対して、長年の努力に対して敬意を示しながら、形に出して分かるようにして態度でよく頑張って来られましたとこれ以上真剣に聞けない位耳を傾けます。




 苦労したことは宝物と同じです。たぶん同じくらいかそれ以上傷ついて泣いて悲しんで怖くて震えて不安だったことがあったひとじゃないと怖い。そして、本当は、それを他人には絶対にしないように表面上にこやかで少し緩さや隙を見せている人じゃないと安心して満足して一緒にはいられないのかもしれません。

感謝していること

 何十年も、膝に爪を立て目を三角にして聞法に励んだ日々を一週間の座禅で思い出しました。一生懸命な人に対してはおそろいの真剣さをこちらも示していこうと決意できました。


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蛙化現象

2017/07/10 10:33
 グリム童話の『蛙の王さま』をモチーフにした現象らしいです。エヴァンゲリオンの劇場版の「airまごころを君」にの最後の場面の「気持ち悪い」というセリフを思い出してしまいました。

http://globo-site.com/kaerukagenshou/

相手をありのままそのまま受け入れることは難しいですが、このハードルをクリアできたら居心地のいい「相互依存」の関係になれそうです。


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人間に生まれて来た意味

2017/07/09 18:42
 迷いを抜けるためです。
 人間の時にしか迷いを抜けることはできません。
 苦しみが重くのしかかるようなところ、楽しすぎるところでは迷いを迷いと感じられず、どうしたら抜けられるかなどとは考えられません。
 
 浄土真宗の聴聞で初めて聞いた説法は「人身受け難し」でした。
 迷いの六道で迷い続ける私たちは人間に生を受けた今、阿弥陀仏のご本願の生起本末を聞き疑いなく信じた時、この迷いのサークルから抜け出ることが出来ます。
 そもそも六道の中では、地獄・餓鬼・畜生界に生まれるものがほとんどで、人間に生まれることは有難いのだと「盲亀浮木」の譬えで聞きました。それまでの人生がかなり苛酷できつくて何度死のうと考えたかわからず、何でこんな苦しいところに産んでくれたのかと両親を恨み憎んできた人生が180度変わったのもこの時でした。

 どんなに辛くても苦しくてもこの迷いを抜けて悟りの世界に出るまで死なずに生きていようと決意した私はそれから28年聞法修行に打ち込みました。そしてやっと生死の解決ができました。迷いから覚め、いつ死んでも安心満足できる今・ここの境涯を生きることができるようになりました。

 生い立ちや成長期やその後の人生で泣くに泣かれぬほど辛いこと、苦しく悲しい別れなどを経験された方も、迷いから覚めたとき、これらの苦しみはどうしても通らなければならない方便で、必要なものだったのだと信知する時が来ることをお念じ申し上げます。
感謝していること
 生まれてこられたことに、両親に感謝しております。
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HSP 敏感すぎる人たち

2017/07/09 18:37
 https://susumu-akashi.com/2016/10/hsp/#i
 怖がりだったり、目に見えないものを感じたりするのは私がHSPだからかもしれません。
 同じような感覚の人といるととても安心して信頼できることにきがつきました。
 非HSPやアスペルガーのひとたちとは分かり合うことが困難ですが、おなじHSPのひとは外国の人でも何の垣根もなく分かり合えるのはこのせいだったのかもしれません。
 また論文のテーマが増えてしまいました。
 感謝していること
 心配していた禅病にもならず無事帰宅できたことに感謝いています。 
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今度はもう逃げたくない

2017/06/28 09:39
 怖がりの私は何か少しでも不安を感じるとひとと距離を取ることで逃げていました。

 器が小さく自分の受け入れられる以上のことであると判断すると、関わりを断つことで自身を何とか支えて保身に回っていました。

 何でこんなにひとが怖いのだろうかと不思議でした。これといったハラスメントを受けているわけではないのに、丁寧に親切な相手の中の一瞬のなにかヒャッとしたところを感じるとそこばかりが強迫観念となり、心の中で大きくなっていくのです。

 ほとぼりが冷めたころ、また向き合うのですが、やっぱり怖くてまた逃げてしまいます。こんなことを繰り返していると自分自身が嫌になってしまいそうなので、仕方なく、正直に私が臆病で怖がりである種の潔癖な概念を持っていることをかなり婉曲な表現で伝えましたが、分かってもらえているかどうかわかりません。

敏感な私は、心が揺れるばかりなく、凍りついて動けなくなってしまうことがあり、それでも耐えて、そんな自分と向き合ってきました。泣きそうになりながら泣いてはいけないと我慢し、何とか自分を保ってきましたが、そうすると心に澱のように何かが溜まっていって、もう無理と限界を感じると逃げ出すことの繰り返しでした。

その根本原因が相手のことを私自身が信頼し切れていなかったのだと、あるひととの関わりでわかりました。信頼していたら、そのひとの言葉で一喜一憂することもないのだし、何かの一言で突然嫌いになったりもしないのだということにもきづきました。

よく考えてみたら、私自身も信頼している人に対してそのひとがいうことで突然関係が切れることはありません。根本的に信頼しているので何か考えがあっての発言だとできるだけよいように解釈しますし、あまり気にしません。私にこれと同じことを教えてくれていたように感じました。

座禅の接心に行き、心のリハビリを済ませたら、もう少しだけしゃんとできるでしょうか。周りの人に甘えてばかりで、自分自身は何もできていないのは私が周りばかりではなく自分自身をも信頼できていなかったからかもしれません。




感謝していること

自分の弱さをきづかせてくださり、何とかしようという気力をくださる全てに感謝します。


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ひととしてリスペクトできるかどうか

2017/06/28 09:33
 あるとき、あるひとと知り合い友だちになる、同性として異性として意識してただ愛おしい掛け替えのない人だ感じながらお付き合いし、心を通わせるいろいろな段階を踏んでひとはさまざまな関係を結び深めていきます。初めは本当に細いすぐにも切れそうな糸を紡いでいき、少しずつその糸が太く強くなっていきます。

 ただ、そのひとと一緒に居たいと思って、逢う度または電話やチャットでたわいもない話を何度も繰り返し、相手を信用する状態から信頼できるようになります。

 つまり、この人は自分を単に利用しようとするのではなく、いつもできることがあれば相手の為に何かしてあげたいと思ってくれているという人だと双方で感じられるようになります。お互いに自分の出来る精一杯を差し出して、頼り頼られ支え合いたいと感じられたら、依存状態から抜け出せます。依存というよりも無償の愛を与え合う関係に昇華できます。見返りを求めることがない関係です。できないことはできないと告げ、断れる潔さも持てます。出来る範囲で精一杯のことをしようとするのは、相手にいい格好をすることを止めたこと、ありのまま、そのままの自分を見せても逃げないし、呆れられないという信頼関係が出来たことを意味します。

 あるひとを信用し信頼できるようになる前提になるのは、ひととしてリスペクトできるか否かではないかと感じます。そのひとの目に見えないスピリチュアルなところと通じ合えるとかもしれないと何となく感じて、その予感をしっかり確かなものにしていくこと。一回一回の逢瀬の真剣勝負を重ねていくのだと体験から知らされました。次に逢うことがないかもしれない、ひとの生は一期一会の連続である無常のときであることが分かることが前提です。それが身に染みて感じられたひとたちは、互いに慈しみ合い、人生の醍醐味である優しさを分かち合う珠玉の時間と空間を持つことができるようになります。

 分からない人たちは信頼関係が築けず、楽しく過ごしている人たちの、周縁で依存・相互依存を繰り返し傷つけ合い、分からないから悪口を言って睦みあう人たちを羨ましがるという構図なのかもしれません。

感謝していること

 一時の感傷ではなくしっかりした信頼関係の土台の上に展開される出来事を体感する縁に恵まれていることに感謝します。 


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学問を飯のタネや名声を得るためにすることなかれ

2017/06/27 23:05
 清貧に徹しろというのではありません。

 その研究者のしていることが周りの人の役に立つのなら、回り回って生活に困ることは無いかもしれませんし、それでも裕福にはなれないかもしれません。

 妻子を養う余裕がなく、一生独身で過ごさなければならないかもしれません。毎日毎日本の山に埋もれ、パソコンの画面を見続ける日々をこの先、何十年も過ごすことになるかもしれません。

 ただ、それは研究者に限ったことではありません。自身の使命や目的を果たすために生きているひとは多かれ少なかれ似たような境遇にあります。私も自身の迷いを晴らし、死の解決が出来るまで40年の歳月を費やしました。たとえ、十年や二十年芽が出なくても、続けて精進すれば、脇道にそれることなく初心を貫けばきっと、何らかの手応えや成果は得られるはずです。

何回も生を経ても成し遂げられるかどうかわからない先の見えない宗教的邂逅よりは少なくとも、努力したらそれなりの結果は出るはずです。必死で課題に取り組んでいたら見てくれている人は必ずいますし、同じようなスタンスで名利の為ではなく、学問の為の学問ではないものに取り組んでいる人と出合えます。

研究を志し、大学院に進学してから私はたくさんの先生との出合いを通して今に至っています。何だろうこれはというのもありましたが、たいていは何らかの示唆や学びがありました。そして、その時その時で、自身の研究とちょうどいい先生や研究仲間と出合えるのだと私は確信しています。たまたま私の論文の主担当の先生は私にとっては日本で一番私の論文の完成に力になってくれる指導者であると尊敬の念を持ちながら、毎日の研究が続けられます。研究者としてはもちろん人として信頼しております。

それはどういうことかというと先生には「嘘」がないのです。私の問いかけに常に真っ直ぐに応えてくれます。元々T大学出身で賢くていらっしゃるのですが、講義やゼミの私や他のひとたちへの発言への素早く短い反応や次のゼミまでのメーリングリストでの補足など漏れがないのです。私が本当は大切なことではあったのですが、どうせ先生には関心がないだろうと、冗談めかした質問に、先生はその場では当たり障りのない答えをしました。でも、すぐメールで補足意見として添付の文章をアップされました。私の質問の応答が分かり易く書いてありました。「どうせ〜」という考えは捨てないとならないとその時ハンマーで頭を殴られた気がしました。そうなんだ、これが大学院の講義やゼミなのだと思い出されました。

 修士の時も他大学で、定年退職後の70歳前後の先生たちは私に本当に研究者生命をかけて講義や個人のメールなどでご指導下さいました。これが学問を長年続けている人たちの学生への問いかけであり、それがそのまま、私の研究に新しい何かが生まれるように願っている教師としての態度なのだと何度も目から鱗が剥がれ落ちました。

 学会の地位や退職後の身の振り方などではなく、研究者としての在り方、自身が何を世界に貢献できるかを考え、いかに今指導している学生を自身を超える研究者として育てることができるかを定年までの残りわずかの時間を見据えていらっしゃるのがひしひしと感じられます。

 意欲や世界への貢献は持ちつつも、論文を書く技術が未熟で見当違いの論文の読み方をしてしまう私ですが、冗談めかして言ったけど、実は聞きたかったことにも真摯に応えてくださる研究者としての姿勢を私は見習おうと、コメントを出しましたが、先生のコメント同様、私のコメントの真意もほかの人には受け取ってはもらえなかったようです。打てば響くような膨大な知識や機智やお人柄らくる優しさ・ユーモアを私はとてもリスペクトしています。

 あるときK大出身の医師をしている先生の講義と重なってしまっていて、先に受講しようと約束していたので途中で抜ける旨を申し上げたら「M先生の方がいいのか?」と言われ、困っているとまた「M先生の方がいいのか?」と言われました。次の瞬間にやりとしたので、気の弱い私をからかっていたのかもしれませんが、真相は分かりません。今は亡きK大出身の医師だった大学時代からの友人T君と同じ位かそれ以上に賢く対話を楽しめる先生たちに囲まれて、本当に出身校に戻ってこられたことを心からよろこんでおります。

 私が学部時代、大学院に進学する人は稀でした。なぜなら英語の外に第二外国語の試験もあったからです。学部卒業後、子どもが中学に進学した際は、時代が変わっていて、他大学の社会人入試で、研究計画書と専門の筆記試験と面接だけで修士に合格できました。

 R大学の私の所属する研究科は若干名ではなくかなりの人数を受け入れます。博士課程の編入試験は研究計画書と面接だけです。学際的な研究も大歓迎なところなので、定年後や子育てが一段落した人たちにもっと学問の楽しさを味わっていただけたら幸いです。別に大学からは宣伝量を貰っているわけではないのであしからず。

感謝していること

明日はアカデミックライティングの講義です。カナダ人の先生が英文を添削しながら講義してくださいいます。いつも楽しみにしております。


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悟りと救いについて(死の解決&境界)

2017/06/27 09:30
 悟りを獲ることすなわち自分自身が何者かを知ることのメインの目的は、もちろん「死の解決」です。言葉を換えていうと肉体の死によって自己が消滅することのない永遠の命を持つものであること、連続性を知ることです。生きている自分が死ぬことで存在そのものの滅亡や真っ暗な闇の中に放り出されることであると予感し、不安が一杯に広がる状態から解放される瞬間です。私は幼少の頃から死を怖れ、解決する方法を追い求めました。そして、仏教に巡り合い、聞法修行を重ねていき、自身の力でそれを解決することが出来ない、それは真理(阿弥陀仏)によってでしかできなかったのだと身体を通して知らされました。

 それはこんな感じです。全ての自力を総動員して全力で目一杯抵抗して、生も根も尽きた時、もう自身の力は間に合わないと絶望の谷底に堕ち込んだと同時に救われました。数えきれない漆黒が無数に終わりがない重なり合いを思わせる闇を感じたそのとき、急に世界が開け明るくなりました。「自分の力で無明の闇を晴らすことはできなかったのだ」と知らされました。ただ単に頭で分かった理解したというのとは全然違います。もう自分の力ではどうすることもできないのですから、何をしてもどうあがいてもう一ミリたりとも動くことが出来ません。這い上がることもできません。完全にもう動かなくなっているのですから。また、どん底の一番下にいるのですから、これ以上、下方に堕ち込むこともありません。

そのとき、身体がふわっと軽くなり、心によろこびが溢れ出し、今まで経験したことの無い興奮状態が続きます。これを悟りというのかもしれませんが、体験したひとにしか分かりません。私は一時間もしないうちに現実の状態に戻りましたが、数時間、一週間、何か月もその恍惚状態が続き人もいます。しかこれは理解できない話です。私の場合は、自身が救われるよりも、もっと苦しんでいる人がいたらそのひとが先に救われることを願っていました。本当に苦しんでいる人が仏の正客であると感じていたからです。その正客になれた嬉しさから、まだ苦しみ悩みの渦中にある人たちに、自分が伝えようという気持ちが湧きあがってきました。

 渇き切って、水を探し回っていたところ、あるのは濁って飲めないようなものばかりでした。それでも飲まないと死んでしまうので、綺麗な水を求めて必死になって様々な人間が求める快楽も欲も後回しにして、ひたすら渇きを癒す水を探し回って何年もかかり、もう無理かもしれないと諦めかけたとき、何の不思議か美味しい清水を見つけ飲むことが出来ました。それを口に含んで息を吹き返したら、水を求めて苦しんでいる人たちの声や影が感じられて、愚図愚図している場合ではない、この水のありかを伝えないといけないという気持ちに駆り立てられました。そして数時間後、インターネットでの布教を始めていました。それはほぼ毎日、9年近く続いています。

「無明」が完全に晴れたら、他者との境界がどうなっているかも、だんだんに知らされます。ひととひとは本来はつながっていますが、三次元に生きているので、お互いが風船のゴムの薄い膜のような隔たりが感じられます。その境界が厚いものだと多くのひとは勘違いして傷つけ合います。そして傷つくとさらにその膜を厚くして自衛のための武装して行きます。 本当は、針でチョンと突けばいっぺんに割れてしまい、内と外との同じ組成の空気が一緒くたになってしまうようなそんな境界ですが、その膜一枚で分かり合えないものですね。ひとというのは。

ひととひとは、わからないところもあるけれど、お互いさま、所詮膜の外も内もただの空気が充満しているだけだと真理の光に導かれて、ふっと分かった人から楽になれる世界が開けるのですが、中々そこまで到達するのは大変です。偶像崇拝が役に立たないいことは分かっても次のことは理解しがたいです。

六道輪廻での円環・循環の中での迷いの中に自信がいること。そしてそこから抜け出したらアクティブな無、一人でいても寂しくも冷たくもない空である仏の三昧の世界があること。悟りを生きているときに獲た人は死んで三次元の肉体を失ったときに、その殻が破れて心が通じ合える世界を感じられるのでしょうが、生きているときにそれをずっと感じながら生きたのは仏となった釈迦です。他にもいるのかもしれませんが私にはわかりません。ただ、たまにその膜が一瞬消えて、真理とつながることができるときがあるのかもしれません。

悟りの話をしているとき、ご縁の深い人が真理との邂逅を目前にしているとき、私は何も話さず黙ります。そして真理とその人とのつながりが見られるのを待ちます。そのときふっと自身の境界が消え、何とも言えない静寂なそれでもほの明るく温か所にいる感覚を私は体験しています。私のライフワークはこれらを文章で書き、先生に仏教での表現方法を教えていただきながら完成させ、知らせることです。自身の為でなく、救われる前にどうにもならない無明の闇に苦しんでいたひとたちの光となります。

 なぜ仏教であるのかというと、慣れ親しんだということもあります。お経・お聖教を見聞きすると心身がよろこびに満ち溢れ、痺れます。そのほかに、別の宗教や無宗教の人にも通じる自力を捨てて他力に入る方法は、速く救われ、易行であるからです。早く救われても禅のように難解は理解力に乏しい子どもや老人にはハードルが高いです。易行であっても年数がかかるものでは命が尽きてしまい、また六道の迷いを繰り返すことになります。このような理由で私は仏教での悟りと救いの方法を選び、随時応用してお伝えしてきましたし、これからもそのようにしてまいります。

感謝していること
久しぶりに悟りの救いの話の続きが書けました。
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出合いに感謝!

2017/06/21 08:11
  今日はずっとお話ししたかった方とお会いできました。本当に嬉しかったです。以下のようにお礼のメールを書きました。
 今日は有り難うございました。
 自分の進むべき道や心理学やスピリチュアルのことを聞いていただきとても嬉しく存じます。今、二条校舎のラウンジでメールを書いています。木曜の講義までに読んでくるようにといわれたレヴィストロースの本がもう少しで読み終わるので、とりあえずお礼を申し上げようと思いました。

 9年前に真理との邂逅を果たしてより、毎日のように、同じような境地に救われたい人が読んで救われることを書いていて、これを大好きな出身校で博士論文として残そうという意図を受容していただけました。
 来年はロンドン大学のSOASに留学に行き、帰ってきて博士論文をまとめ、主担当の先生と一緒に大学院を修了します。一日も早く世界やこの大学への御恩に報いて働けるようになります。何度も同じことを申し上げますが、改めてそのように決意しました。

 世界が私に求めること、私でなければ出来ないことをしてまいります。フワフワしてつかみ所がなく、ちょっとしたことで泣きそうになる臆病で怖がりでみっともない自分と向き合いながら、先生が身体にかけてなさってきたことを別の形でとりあえず今は大学院の今いる研究科、自分の居場所で精進してまいります。
 
 自身の今の担当の先生に論文の書き方はよくよく教えていただき、書いていく中で、また方向性も定まることと存じます。今回の西光義敞先生の論文も締め切りに間に合わせようと図書館に一月間籠もってとりあえずは結果結論まで行き着くことが出来ました。難しそうだという先入観で避けていたケン・ウィルバーもなんとなくすっと入ってきました。彼の考え方を広めることがなぜ真宗の発展になるのかも理解できました。

 それが済んだので、真宗が欧州で広がることに寄与した稲垣瑞劔先生・久雄先生親子を次は書きます。データが山ほどあり後は淡々と書いていくだけですが、投稿先は一番、多くの人が救われ、よろこんでもらえるところを選んで、よく考えて出します。オープンダイアログとホリスティック教育のことを論文に書き投稿を済ませて稲垣久雄先生とおそろいのロンドン大学SOASに留学します。

 自分の今までの人生が無駄ではなかったし、待っていてくれている世界の誰かのために頑張っていこうと再確認できたことに感謝いたします。
感謝していること
 ご紹介していただいた友だちに感謝しております。
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きっと あなたのところに逢いに行くね、私、だから生きてて、待っててね!

2017/06/19 01:46
 世界中の、死刑囚のところ、刑務所、少年院、難民キャンプ、やっと自由な場所に助け出されたひとたちがいるところ、小さい女の子や男の子たちの集まってるところ。
 私は自力を手放して他力にすぐに救われる話をしに行きます。
 もう少し、生きていて待っていてください。

 ちゃんと私の日本語を英語やほかの国の言葉で訳せる友だちをロンドンに探しに行きます。もちろん先生のロンドンや欧州でされてきたことを研究に行くんだけど、同時並行で世界中に住んでる友だちをSOASで探すの。たくさん友達を作って帰ってくるの。

 わたし一人の力は小さいけど、友だちが助けてくれたら、たくさんの人を今生で迷いから覚めて覚りに導ける。今は、論文を書いてるけど、これが修了したら、来てほしいって人たちのところに行くから。きっと。だから生きて待っていてください。

感謝していること
 今日久しぶりにたまたま、あったひとに私が本当にしたかったことを語ってしまいました。今、死の恐怖に怯えている人たちや迷いから覚めて悟りの世界に出たい人のところに行きたいんだって私ずっと思っていたんですね。それが分かったことに感謝します。
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ひと(女性)は物じゃない!

2017/06/16 23:51
 戦闘状態においてひとは人間性を失い野獣化してしまうのだろうか?
 私の単純な疑問です。平和時においても男女とも頭でも心でも魂をも超えた、霊的レベルで徹底してわかり合おうと出来るような、無償の愛を与え合える相手でないと性的関係には絶対ならないというストイックなひとはいないのだろうか?
 
今日は慰安婦についての講義を拝聴しました。
 自身の亡き父は昭和10年生まれでした。父より5歳くらい上の人たちは軍人として戦地に行っていました。それらのひとたちは90歳近いですが、異国に送り込まれ、慰安所の存在を知っています。妻子や恋人がいる兵士は、慰安所には近づかなかったと聞きました。誰もが慰安所を利用したわけではないようです。
 バブルの頃、東南アジアへの買春ツアーがありましたが、ポリシーとして参加しなかった人もいます。お金や機会があれば、よく知らない女性と関係を平気で持てる男性ばかりではないと私は考えます。

 慰安婦の少女像が世界各地に置かれることに対して私には正直言って違和感があります。あの像の女性がなぜ少女じゃないと生けないのだろうか?
 女性を抽象化したもので、戦争の性被害を世界に知らしめる物ではいけないのか?そこに想像力の欠如と被害者のいじましさを感じてしまうのは私だけだろうか?

 意志の余り強くない周りにいる男性たちが戦場に行ったり、徴兵されて軍事教育を受けることで、レイピストの感覚を植え付けられるのを私は我慢できません。私の友人は徴兵のある国にいます。彼は銃を持つことに抵抗が有り、徴兵を拒否しています。ただ銃の問題と言うより、彼の女性に対する感覚を変容させ、女性を物化する麻痺することにことにつながる人殺しの練習をする徴兵制度を私も憎みます。保育所や老人施設などのボランティアを同じだけしたらいいような法律を若い当事者や女性たちが言い出せないでしょうか。
 世界が平和になるように、私は宗教を通して活動してまいります。
感謝していること
 わかっているつもりで分かっていないところのあるところをいろいろ教えてくれた先生に感謝します。
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理論と実践の関係(浄土仏教の救い)

2017/06/16 06:39
  まず考えることから始まります。
 どうして自分は苦しいのか。
 周りの人も苦しんでいる。
 どうしたらそこから脱け出せるのか。

 釈尊は自分でそれを何とかしようとしました。
 七高僧方は初めは仏教の教え自分で考えて何とかしようとしましたが、最後は結局
釈尊が説かれた浄土仏教の阿弥陀仏の本願に帰依して救われました。もしかしたら
釈尊の様に自力で救われる能力がおありになったかもしれません。それでも祖師方が
阿弥陀仏の本願で救われ、その教えを文章で後世の私たちに残されたのは、弥陀の本願が全ての人が救われるのに、一番易しくて、早く救われる方法だったからです。

 いろいろな救われ方があるのかもしれません。でも、仮に救われる方法があったとしても、老若男女全ての人が、頭脳明晰でなくても、ただ救われたい、幸せになりたい一般の人が、それを理解し、実際修行できるものでなければなりません。

 源信僧都、法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と浄土仏教は連綿と引きつがれました。江戸時代にはたくさんの妙好人を輩出しています。一般の人が救われるのが浄土仏教であり、浄土真宗なのです。まず、説法を聞くこと、そしてその後平易な言葉で信心を既に賜った善知識と御同行と御示談をします。座談会のようなものでそれぞれの心の内を包み隠さず話します。疑いが晴れない苦しい気持ちをみんな初めは持っていますが、それが晴れた人たちの生き証人としての話を聞き、元気付けられふと救われる時まで何回も話をします。

 聞法は理論的なことを聞く場でもあり実践の場でもあります。理論と言っても、私たち無明業障の怖ろしき病を持った凡夫がいて、それを何とかしようという阿弥陀仏の本願があり助かってお礼の念仏を称えられるようになるまでのお話を聞くのです。これを仏願の生起本末といいます。自分は限りある命を持っていて、迷っており、それを何とか今生の今、ここで救われたいと願う人たちが、聞くことでいつかきづきます。その後、それを既に助かった善知識である僧侶や御同行たちが見護られながら一緒に話をします。何と手厚く優しい修行でしょうか。私のような怠惰で根性もなく一人では何もできない者にとって、一番機に合った方法でした。

 理論は大切ですが、身体にかけてしていかないと机上の空論になります。自分自身の問題とならないからです。いま、ここで自分が救われないとならないと真剣に思えた時、救われます。どうか一日も早く救われてください。

感謝していること
 釈尊やその教えを引き継いで教えてくださった、後の善知識方への感謝の気持ちで一杯です。
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大切なものはなかなか見えない

2017/06/15 08:38
メーテルリンクの『青い鳥』を子どもの頃何度も繰り返し読みました。

 子どもたちは様々な場所で幸せの象徴である『青い鳥』を探しますが、みんな偽物。

 家に帰ってきたらかごの中に『青い鳥』はいました。

 

 灯台下暗しともいいます。

 実は本当に大切なひとやものは自分の近くにあるのかもしれません。

 遠くに何かを求めるよりも近くに大切なものがある

 その遠くにあると思うものが、心の中にだんだん近づき大きくなったとき、ふと各自の『青い鳥』が見えます。




 一年かかるかもしれないし、一ヶ月かもしれません。一週間とか三日かもしれません。

 遇ったその日に見つかる人もいるかもしれません。

 躰で確かめるんじゃなくて、見つめ合った瞳の中のその人を感じて、ただ愛おしいとわかった瞬間に『青い鳥』が目の前に見えます。




 『セックスと嘘とビデオテープ』、『マドンナのスーザンを探して』、『美女と野獣』などの映画の中にその感覚を私は見付けた気がします。

 対話を重ねること、何も言わなくても同じ場所で一緒の時間を過ごすこと、相手の表面じゃなくて心の中の全部を見ることが大事です。全部なんて短時間では見られないけど、これから先、その全部を一緒に見ていきたいと思える人と一緒に居るのが幸せです。

 

 一緒のことがしたいならそれは素晴らしいけど、別のことでもいい相手のすることを認めて手を差しのべあえる思い遣り、自分を後回しにしても相手をおもえるとき嬉しさがあります。理由なんてないけど何よりも愛おしいと心からおもえるひとに出合えたら素敵です。容貌や持ち物や性格や身体の相性など全部通り越して、存在そのものを慈しみ愛で「目合う」ものです。

『青い鳥』は家でいつも彼らの全部を見ていてくれました。

感謝していること

 今日も晴れて天気がいいです。


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まず何が一番大切か、それが問題

2017/06/15 08:33
 稲垣瑞劔師は村で一番、仏教の聴聞を聞きに行っていると評判の女性に会いもせず、写真も見ず結婚相手として選んだと聞きました。相手ももちろん、仏法熱心な人ですからよろこんで妻となってくれたそうです。

 自分が目指すところのものを支え合える人と一緒いられることが何よりも大切です。
 どちらかが犠牲になるのではなく、よろこんでお互いを支え合える関係だと感じ合えたらきっとそのひとのそばで添い遂げるのがいいです。
 容貌や資力や身体的相性など衰え、変化して行きますが、そうではない真摯さや信頼関係を瑞劔師は大事だと感じていたのでしょう。

 心は仏さま同士としか一緒「おそろい」にはなれないけれど、お互いの使命を果たすことを助け合える人のそばに居ることが最も大切だと私には思えます。

感謝していること
 いつもふらふらしてなかなか御恩報謝できない私を支えてくださる御仏に感謝します。
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この世でおそろいの真剣さでお互いに向き合うことはできない

2017/06/14 22:43
 <どちらかが先に行き、追いついたと思ったらまたおいて行かれ、いつまでたってもぴったり「おそろい」の憶いでいられるひとはたぶんいない>
 これが私の今のところの結論です。
 いつか人間じゃなくなったとき、そこで一緒のひとたちが「おそろい」のひとでしょう。
 私は欲張りで、妥協したくないのでひとに憶いを求めることは止めました。いろいろ走り回ってもがかないとこう考えるところに至ることはなかったのでしょう。
 感謝していること 
  新しい見地から、物事を感じ再構築していくことはとても新鮮で生甲斐を感じます。
 
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自らが周りを照らす明かりになる――命懸けで生きること――

2017/06/14 08:29
あのときから、私の新しい人生が始まりました。真理との邂逅を果たしたその時からです。それでも私はその魂の転換点がどれほど重要であるかが分からず、御恩報謝の真似事をしながら、自分がすると決めた方向に向かって生きてきました。そうしているうちに、余計なものはそぎ落とされ、真っ直ぐに自分の使命を果たすべく進んでいることに気が付きました。出合うべき人に出合うし、すべきことをしていました。だから今は肩の力を抜いて、流れに身をまかせている状態です。仏教の先生から言われました。「あなたは今までは80%自分の思い通りになるような生き方をしてきましたが、今は20%くらいになってきたようです。どんどんバランスがよくなってきています。」

 自力を手放したのに、煩悩はそのままの凡夫である私はそれまでの強烈な自我意識から離れられずにもて余していました。自分で何とかしようとしなくてもハンドルをきつく握りしめなくても、ただ手を添えるだけがおそらく今の状態で、それすらもいらない「おまかせ」になれた時が三昧の世界に常住する一歩手前なのかもしれません。これは怠惰で根性とかやる気とかいうものを持ち合わせていないことを嘆く私がパラダイム変換するようなものかもしれません。自力を手放しても、まだ煩悩具足の人間として別のハードルがあることに気が付かされました。この癖のようなもの、酔っ払いの酔いがだんだんに覚めるような、また、生まれたての赤ん坊が徐々に目が見えて視界がはっきりしていく過程が浄土への道のり、旅であるのでしょう。

 では一緒に、上野千鶴子の『<おんな>の思想わたしたちは、あなたを忘れない』という本の中の文章を読んでいきましょう。
自力から離れるまでの私は以下の森崎や上野のような捉われを最大限に心に持ち、真理との邂逅を手に入れようともがいていました。男女のかかわりではなく、真理と私との一対一の在り方を求めて生きていました。私と男性の相手ではなく真理と置き換えて読んでいただけたら、私が表現しようとしていることはお分かり頂けると思います。

  真理をひと、人間と同じようにしか捉えられない私のジレンマは何十年も続きました。それが色も形も重さも匂いも何もないものであること、「空」とか「無」のようなものでああるけれど、それは全てでもあることを突然知らされた時、ある種のきづきをえました。それは自分の力は一切間に合わなかったという自力がすっかり消えた瞬間でした。格闘していた客体は一瞬でなくなり、なくなったところにはただ感謝の気持ちが一杯に溢れていました。

『第三の性』という本があります。1965年の本で今から約50年前の本です。著者の森崎和江はその本の中で男女の性的関係について「性交渉は、文明を抱くようなもの」といいます。また「性の交換は、千万のことばよりもふかく個体の基本的資質を表明するんです。わたしはそこにあらわになるものを、男あるいは女の普遍性と個の特殊性とのかねあいとして凝縮させ、そして内的な交換をふかめていきたいとうろうろしつづけました。」
これに対して、上野千鶴子は著書である『<おんな>の思想わたしたちは、あなたを忘れない』の中にこう述べます。「こう考える女に、そして男にも、すくなくとも援助交際や売買春はできないだろう。裏返しにいえば、援助交際も売買春も、性に対するみくびりのもとでしか可能でない。対象をみくびった者には、それに見合うだけの対価しか、与えられないということだ。」そして上野はまた森崎の次の文章を引用します。「わたしは性の交換が、その世界で果たす役割をみきわめようとすることが、このように存在のすべてにかかわってしまうことをかなしみました。」

  性的関係が自身の存在全てにかかわってしまいことをかなしみむと森崎は言います。男女の性の交換は互いの言葉や身体全てをかけて、男女がお互いの普遍性と個別性を凝縮させるような内的交換をふかめていく交渉であり、世界で果たす役割を見極めようとすること即ち文明を抱くようなものであることだと彼女は言います。そして上野は性の対象を「みくびった者には、それに見合うだけの対価しか、与えられない」と言います。

人生やパートナーだけではなく一切の他人に対する「みくびり」を持った人間はそれに見合う対価しか与えられない人生を歩むのだというモヤモヤしたことを私は文章で見つけました。自分自身を「みくびった」結果として世界やパートナーからの「みくびり」を受けるということがここでは書かれています。

釈尊は臨終にお弟子で従妹の阿難に自ら照らす自灯明になりなさいという遺言を残されました。そのようでいられるように精進してまいります。

感謝していること
自分自身を本当に大切に感じられるようになるには、本当に大切にしてもらっている実感が必要不可欠です。それは真理との邂逅でしか獲られません。邂逅が出来ても酔いがさめるまで、視界がはっきりするまでは揺り戻しで苦しみます。そんな中、周りの人たちに支えられ生かされつつ、御恩報謝をさせていただける身をよろこばずにいられません。
「愛着は、プライベートまで見たときに湧き出てくる」
https://happylifestyle.com/1820
 告白とはプライベートを告白することだと今更ながら知りました。
 昔から自分のことを言われていても、他人事のように聞いていることがありました。
 いろいろな点で、どうも天然というか鈍感なところがあります。
 ずっと昔のことです。1年くらいの期間、まあよく話をする人が、自分からプライベートなことを話してくれたことがあります。そのとき、癖でそれに関することをいろいろ質問してしまいました。もしかしたら、自分の口から言葉に出して私という他人に言うことが出来たら、口に出せるくらいのたいした問題じゃなかったんだと思ってもらえるんじゃないかと思ったこともありいろいろ聞いてしまいました。
私にもいろいろ辛いことはありましたし、嫌な目にも遭ってきたのですが、でもその類の話に関することは私には経験がなく、何て言ってあげたら心が軽くなるのだろうかと考えて、何か言いましたが憶えていません。
そのことがある何か月か前、私が自分の悩みを相談したときは「どうしたらいいの、どう言ったら」と悩んでくれたので、「あなたが思ったこととか、体験してきたことをただ話してくれたらいいし」と私自身は言いました。以前にもいくつかの問題を相談したことがあって、とても親身になって考えてくれていました。聞いてくれただけで嬉しかったし、それでもいろいろ言ってくれることで元気になれました。
ただ、そのひとは別に悩んでいる様子でもありませんでした。そういえば、あなたは私のことをこういうイメージで見ているかもしれないけど、本当はこういうこともあるんですよとプライベートの自己開示をしてくれていたのかもしれません。もっと仲良くなれるためのきっかけになるように勇気を出して話してくれたのかもしれません。そのとき、私は何も考えていないで、能天気すぎて、心に寄り添えていたのかよくわかりません。ひととして力になれないと諦めてしまい、それ以降はそのことには触れずにいました。逃げたわけではないのですが、寂しい気持ちや分かって欲しい気持ちに応えられずいたことを思い出してしまいました。
「告白とは濃く吐く」ことだというのはダジャレっぽいですが、そんなものなのかもしれないと、ふと目にとめたネットの記事を見て気づきました。
感謝していること
 今日は仏教の先生宅で勉強会がありました。先生にお会いできることがただ嬉しいです。

「日常の言葉でなく学問的言葉で理解可能だという怪」
 いくらこれは嫌だと訴えかけても理解してもらえなかったことを、例えばマルクス主義やフーコーやヘーゲルなどの考え方を引いてきて、それらの立場だとそれがこうこうこういうことになり、問題点はここにあるという風に言い換えたらスッキリわかったと口にする人たちがいることに私は驚きを隠せないでいます。
ばっかじゃない!ばかにすんなよ!
なんなの?
いいかげんにして!
でもそもそも、な〜んにもわかってないんじゃないかと私には感じられます。なぜならそれは全部自分の人生とは別に起きてるのです。
他人事だから。
痛みを引き受けてないから
自分の傷がじくじくうずかないから
高みから・安全地帯から問題を見てるから
そこに自分を超越したような真理がある宗教的観点からくる慈愛がない学問なんて何の役にもならないんです。机上の空論ほど人を傷つけ、自分も成長できないことはありません。
学問だ、科学的な医学だと偉そうなことを言いますが、ほとんどが構ってチャンから脱け出せていないうつ病すらなんとかできないでいます。
私の博士論文担当の先生はこういいます。
「ひとを救えるのは宗教と愛と学問だ」
学問は道楽という気がしないでもありませんが、本人は学者という仕事をしているのでまあいいです。
宗教的邂逅でもいい、心から信頼して愛し合える人が出来ることでもいい、学問の根拠付けなど無くたって幸せに生きられます。
真宗の妙好人と呼ばれる人たちは学問がなくても貧乏でもそれを超える信心があり幸せでしたし、大恋愛を経験した人や今その最中の人は愛しい人と同じように周りの人に大きな愛を持って接することができます。誰に強制されなくても機嫌よくホコホコした気持ちでいられるのです。
感謝していること
学問の領域に自らを浸してみないとわからないこともありましたが、何かくだらないとだけわかったのは有難いです。それをどうくだらなくするかが私の腕の見せ所なのかもしれません。




 


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○○「だから」好きは我欲を満たすアクセサリー、○○「でも」好きなら何より愛おしいひと

2017/06/12 11:23
 なぜパートナーや片思いの相手を好きなのか考えたことがありますか?

 ほんとに心から相手のことが何より愛おしいなら、どんな欠点があろうと好きでい続けられ、嫌いになることはありません。

 本来、好きになる理由なんて本当はありません。

 ただ愛おしくて、そのひとの存在そのものに感謝できます。

 自分に真っ直ぐに笑いかける笑顔を見ていたい、ずっと笑っていられるようにその可愛らしい笑顔を護ってあげたいとだけ感じられるひとが本当に好きなひとです。




 「だから」という理由があるなら、その理由が無くなったときに関係は破綻します。

 「どうしてだろう?何で好きなんだろう?」と考えてもこれだという理由が分からないけど、「でも」嫌いになれないのなら、きっと見返りもいらなくて無条件で好きなんです。




感謝していること

 理由もなくただ愛おしい何人かのひとと巡り合えたことに感謝します。

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自分が克服したい何かを既にクリアしたひとを求める

2017/06/12 07:22

  このひとなら自分自身も分からない何かを克服できるかもしれないと感じられるひとに誰しも惹きつけられます。このひとなら自分のモヤモヤした心の闇を照らしてくれるのではないかというひとを見つけたら、蝶が花に導かれるように近づいていきます。これをご縁と呼ぶのかもしれません。
 もしもそういうひとと出合ったら、離れてはいけません、離してもいけません。納得いくまで教えてもらってください。どうしたらいいのかを。きっと教えてくれるでしょう。直感を信じてください。どうしても、遇いたいと思っていたら、そういう人と巡り合えます。自分にぴったり合ったひとと遇えます。モヤモヤしたものが何なのか、それをなくすにはどうしたらいいのか、教えてくれるはずです。克服したい何かが晴れたならどうなるか間違わないように、本当にできているのかも何度も確かめてくれます。
 ずっと探していたらいつかは見つかりますから、諦めないでください。見つけたら恥や外聞を捨てて、必死になって食い下がって目的を達成してください。
 Good luck!
感謝していること
 今日は座禅の会があるかと出かけましたが、別の日に変わってしまっていたようです。代りに作務をさせていただきました。植木の刈込みをしました。茶摘みはしたことがありますが、大きな刈込鋏を持つのは初めてでしたがいい経験をさせていただきました。
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なぜ人を殺めてはならないか、それと同様なことをしてはならないのか

2017/06/11 22:47

 これをしたら人間の皮を被った獣になると私が感じていることが二つあります。これらは死んでもしないと決めていたし、これからもしないことでもあります。




まず一つ目は殺人。二つ目は売買春です。前者は他人の身体を殺すこと、後者は大切なものを金銭や物を媒介にして自分と他人の霊性(スピリチュアル)両方を殺すことだと私は感じます。特に後者は霊性(スピリチュアル)な部分を自他共に立ち直れなくします。殺人であり自殺行為です。心が抜け殻になるので、一度足を踏み入れたら後は坂を転げ落ちていくばかりです。




昔、見たドラマで『不良少女と呼ばれて』というのがあり、その中のセリフで「殺しと売りだけはするんじゃないよ」という内容のものがありました。はっきり覚えていませんが、殺人と売春はするなということです。確かにそうだとその時感じました。その二つの方法で命(霊性)が奪われたら、もう取り返しがつかないのだと。後者は霊性の殺人と自殺行為であると私は認識しています。




法律を学んでいるとき憲法は13条が要の中の要であり、個人の尊厳がそこにあるのだと耳にタコができるくらい聞きました。今はI塾の塾長I先生の言葉のシャワーを司法試験の勉強期間中に浴びました。日本国憲法には戦争放棄があります。人を殺さない、霊性(スピリチュアル)を殺さないことを個人の尊厳と言い換えたとしたなら、日本は「ひとを殺さない」ことを決めた世界に類を見ない憲法を持つ誇り高い国であり、それが実現できているならば、日本に生きている私たちは幸せです。




私は現在の博士課程で通う大学の法学部で学びました。司法試験の受験勉強もしていましたが、自分は法律家になるより、小さい人たちの先生になろうと、独学と通信の大学で保育士と幼稚園・小学校の教諭の資格を取りました。しかし、組織の歯車になるよりカウンセラーとして心のケアが出来る心理士の資格を取ることにしました。別の大学の三年次編入では心理学をはじめとした文系科目全般とコンピュータを学び、産業カウンセラーの資格を取得しました。その大学の修士課程ではまだ足りていなかった文学と歴史を学びました。




そして振り出しの大学の博士課程に戻り、本丸の宗教の論文を書くことにしました。これは小学校時代からライフワークとして関わっていた、浄土真宗の教えを論文として残すことが目的です。私がしてきた布教やセッションの功績を残そうというのではありません。それは私自身ではなく、私の仕事を評価した後世の人たちがすることです。博士論文は真宗の教えを残すことに尽力した稲垣瑞劔・久雄親子と伊藤康善と西光義敞と彼らに影響を受けたひとたちについて書きます。海を渡ってユーラシア大陸を越えて、ロンドンまで船旅をされた稲垣久雄先生が父君の書籍とご自身の英語力で真宗を欧州に伝えたことも紹介します。そのためにロンドン大学のSOASに来年一年は留学する予定です。




浄土真宗の教えはほかの仏教と同じように四苦八苦と言われる苦しみの中でも一番苦しい「死の解決」を説いています。いつ死が訪れようとも「いま・ここで」その死を乗り越えることができる教えです。これを「信心獲得」とか「信心決定」と言います。自力を手放して他力に入る教えとも表現されます。人間に生まれた時にしか死を乗り越えること、自力を手放して他力に入ること、すなわち、迷いの六道を離れ、悟りの世界に出ること(六道出離)はできません。人間に生まれることは盲亀浮木の例えのように本当に難しく、ほとんどのものが三悪道に生まれる中、生まれられたので有難いと言われます。そんな千載一隅のチャンスに恵まれながら、他人を殺し、自殺するなどとんでもないことです。だから殺人はしたらいけないのです。同様に霊性(スピリチュアル)を殺す買売春もしてはなりません。




私はフェミニズムをアカデミックの立場ではなく、何千人の女性たちの声を実際聞いて考えてきました。彼女らの痛み・憤り・苦しみ・悩み・身体的・経済的脆弱さなどを肌で感じてきました。自分自身も痴漢という犯罪やモラルハラスメントで随分苦しみ悩みました。それが、命を粗末にして霊性を殺すのと同様な苦しみを引き起こす買売春に間接的につながっていることがだんだんわかってきました。女性が何の制限も受けずに自分たちが生きたいように自由に生きられる世の中になることこそが、女性の笑顔を護ることが本来大好きな男性が自分や他人を殺すことの無い方向で生きられるのではないかと考えます。




そういう世の中になるために、逆説的ではありますが、人間にとって一番の苦しみである死の解決がいま・ここで、生きている間にすぐに出来る浄土真宗の教えを論文で残して一人でも多くのひとに知ってもらい、百年後やずっと後の人にも知らせていく所存です。




感謝していること

論文を手伝ってくれている先生や友だちそして家族に有難く感謝しています。


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将来、痴漢加害者にならない幼児・児童に対する心の教育

2017/06/11 21:08
http://niphredil.hatenablog.jp/entry/2015/04/17/150406
 日本人は大人同士がハグする習慣がありません。
 男女では配偶者か決まったパートナー以外でハグすると周囲から怪しげな目で見られます。ただ、握手しただけで胡散臭い目で見られます。
 
 乳幼児の頃はことあるごとに抱っこされていたのに、小学校に入ると母親をはじめ他人との身体的接触がどんどん減っていきます。甘えん坊の子どもたちはおじいちゃんやおばあちゃんに抱っこしてもらったりしますが、それも中学生になるころにはなくなります。このように、日本人は男女に関わりなく特定のパートナー以外との身体的接触には慣れていません。
 それなのに、なぜ、電車で痴漢行為が起きるのかが私には不可解です。
 身内や知り合いとの接触がないのに、見も知らない他人のそれも触られたくないセクシャルな部分になぜ触れるのか。他人の心の中に土足で踏み込む行為であり、それ以降の人格形成や進学先や職種などに影響を与えるなどとは痴漢行為をする不埒な奴らには想像もできないでしょう。
 
 私は東京の大学受験に行く電車の中で初めて痴漢に遭いました。何とも言えない気持ちを抱えながら入試を受けました。浪人することになり、都内の予備校に通う電車の中で、もう一度痴漢に遭ったので、それ以降は、男装をして野球帽をかぶり通学することにしました。でもそれも嫌になり、結局、始発で早朝出かけるか、時間はかかっても各駅停車の電車に乗ることにしました。結局、自転車で通える京都の大学に進学しました。仕事も自転車かバスで通うところで働きました。修士で通った大学への通学は女性専用車両に毎回乗りました。今も大学院には自転車で通っています。
 セクハラといえば、痴漢に遭っただけですが、私の人生を変えました。痴漢に遭うかもしれない電車に乗って東京大学に通う気にはなれず、京都に行き、仕事も電車に乗るところでは働きませんでした。
 私は未だに、思春期の私に人間(男性)不信の種を植え付けた痴漢を許せないでいます。内気な私は幼少の頃より誰か(異性)に性的な対象として見られることがさえとても嫌でした。異性に触られそうになると素早く身を交わし逃げていました。自分の身体は自分で守らないといけないと感じていました。でも満員電車の中での痴漢は避けることが出来ないし、声を上げることも無理でした。大人になって満員のバスの中で女性が「さわんじゃねいよ!」って大声を上げたのを「おまえみたいなブス、誰が触るんだよ」と茶化した奴がいました。私は怒りが込み上げ、何もできなかった無力感と重なり、痴漢の記事を見るたびに自身の体験やそのことを思い出します。
 私はレイキが出来ますが、触らずちょっと手を離したり、遠隔ですることにしています。それは痴漢のトラウマが関係していないとは言えません。また、大人になった今でも、風俗で働く人たちの気持ちがどうしてもいまだに分かりません。そういうことでお金を稼ぐことは私には絶対できません。
 乳児や幼稚園児や小学校の男の子たちが抱っこしてくれと来たら、よろこんでしますが、大人は無理です。看護職や介護職のような身体の接触がある仕事は無理です。心のケアをするカウンセラーも傷に触ること、すなわち、クライアントの辛い過去の話を傾聴することを20代のころから何万人もしてきましたが、かなり疲れます。その都度辛くなります。できたらそれはとばして、仏教やスピリチュアルな話だけで終わらせたいのですが、90%のひとたちはそれを誰かに言わなくては先に進めないので聴くことにしています。
 このように他人の身体だけではなく心に触れることに対して私はとても神経を使います。それでも誰かがしなくては、引き受けなければならないのです。だから比較的ダメージが少なく悟りに直結する心に触れることはさせていただいています。
 もちろん過去等触れないでも、真理との邂逅の話だけで救われる人も少数ですがいます。そういう時は、内心ほっとします。辛い過去の中に子どもの頃の性的虐待を話す人がかなりいます。そのひとたちは私以外には話したことがないという例もかなりありました。性的虐待の話は痴漢に遭った時の悔しさしか分かりませんし、家庭内での虐待やシングルの家庭での両親の不和や淋しさや辛さはわからないながらも、ただその人たちが話したいだけ聞くことにしています。どんなに時間がかかっても、納得がいくまで膿を出し切らないと、仏教やスピリチュアルの救済のところまでたどり着けないのです。
 身体的・肉体的苦痛を背負ったことで、真理との邂逅が出来、長い迷いから覚め、一息切れたら浄土に行ける身になれたことを有縁の人によろこんでもらうのが私の使命であり仕事です。世界中の性的虐待を受けたひとや不幸な生い立ちや経験のある人たちの話を通訳を介してでも聞いて行けたらとも考えます。一人でも縁のある人たちに自力を手放し、他力に救われた私が出来ることをしてまいります。特に世界の小さい子どもたちに、嫌がる人の身体や心を触らない人でいるように、また自分の身体は自分で守る話をしていこうと思います。私はいろいろな資格を取りましたが、今後は活かしていく所存です。
感謝していること
物心ついた時から人間ではなく真理しか頼れないと感じていたこと、女性として生まれたこと、小さい頃から子どもでいることを許されずカウンセラーのような役割を続けてきたことが嫌な時もありましたが、今はそういうことになっていたのだと感じます。

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障害者運動で当事者運動か本人運動かわかりませんが、本当に大切なことは何?

2017/06/11 20:50
運動の主体の名称の違いが「当事者運動」か「本人運動」かで内容がどう違うのかは私には区別がつきませんが、そのひとたちが「どのように生きたいのか、周りとどのように共生したいのか」その内容そのものが明確なことが大事です。
 
 最終的には、障害を持つ人たちが、その障害をもっていてもそうでなくても幸せだと感じられるところがゴールでしょうか。障害をもっていたからこそ、こんな経験が出来たと感謝出来たらなおいいでしょう。
 ただ、これではスピリチュアル的なゴールと受け取られてしまうかもしれません。制度とか法律とかで差別をなくすような社会的・外的な運動も大事だとは思いますが、相対の三次元の身体を持つ人間は比べることを簡単にやめられません。
 
だから、本人の内面が変わることで、他人の評価で上がり下がりのない心の状態に変容を迎えることが理想です。言い換えると「自分で自分を責めることを止める」生き方が出来るようになると言い換えた方がいいかもしれません。
 これは不幸な生い立ちや家庭環境などで苦しんでそこから抜けられない人や全ての苦しみ悩みを抱えている人たちにも同様に言えることですが。
 
ついつい癖で、精神分析や認知行動療法などの手法でカウンセリングしてしまい、自信を持っているはずの宗教的・スピリチュアルな解決の方向に本人が向くように話すことを忘れたり遠慮して迷走し、「力になれない」と愚痴を言い、反省しています。真理との邂逅があり、今死んでも後悔しない身に救われること以外の根本的な解決がないとわかっているのに、別の方法を取ってしまうのは私の弱さにその根源があることにきづきました。
 
少しずつ、自分が博士論文として書き残したいことも見えてきた気がします。私の論文はおそらく、いろいろな人や物との関わりの中で、より鮮明に深まってそれが文章になっていくのでしょう。
感謝していること
 今日は久しぶりに晴れました。気分がいいです。
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自分の直感を疑いなく信じること

2017/06/09 20:28
 いろいろなひとに遇い、いろいろなものを見るにつけ、私はその場3秒ほどで感じるものは大体当たっていました。でもそれを信じられずに多くの辛い経験をしてきたので、私は自分の直感を信じることにしました。こういう考え方に切り替えてからは、後でやっぱりあの時感じていたことが当たっていたと感じられたとき、「そうだったんだ」と妙に割り切れています。それであまり期待しないでいられて随分生きやすくなりました。
 
暗い・消極的・生気がない・ワクワク感がない
 こんな時はきっとこの人やものとは縁がないだろうとわかっちゃいます。その時は自分に得になりそうでも、無理に合わせると自分にも相手にもよくないことが起きます。人は自分にとって一番いいことがやってきてそれを選んだらそれが今生での学びにつながるのだと感じます。

 苦手なところ、嫌なところに焦点を合わせると死にたくなるので、なるべく楽しそうでワクワクと気持ちが高揚する人や物と関わることが大事だと痛感します。カウンセリングでも過去の辛いことを分析するより、いま・ここで楽しいことをしていき、楽になることをしていく方にフォーカスを当てていった方が佳い縁や結果が現れます。私は周りの人にいつも心から笑っていて欲しいです。
 合わない人は残念ですが仕方ありません。待つしかないです。自分で気が付いてご縁を持ちたいと羞恥心やプライドを打ち破って来られないと、また以前のもやもやとした感じを繰り返すことになりますから。このもやもやが合わないって直感です。もやもやからワクワクに求めるものを多くしていくのが使命を果たし、幸せに生きられるコツです。
感謝していること
 先生をはじめ皆とてもワクワク感を私に提供してくださり有難いです。
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何よりも愛おしいひととは

2017/06/07 18:00
存在そのものです。
 そのひとが自分に何かしてくれるという利害関係はないのはもちろん、外見や資力でも知性でもありません。それらを目的とした関係は相手が病気で寝たきりになったり、外見が老化したり、破産したとしたらあっさり破綻します。
 一緒に居て楽しいより、安心でき何も考えずにいられる感覚を共有できることです。
 かりに裏切られたとしても仕方がないと感じられるほどの信頼関係です。
 無償の慈愛と言い換えてもいいかもしれません。何かを受け取りたいのではなく、ただそのひとが生きていてくれて、幸せに笑ってくれてさえいたら、それで自分は満足だという関係です。

 悲しいかな、人間には自分に余裕がなければ、ひとを思い遣ることはできません。余裕のある立場の人同士が「おそろい」の等価的慈愛関係を交換し合えたらそんなに素晴らしい状態はありません。
 人間を超えた真理との邂逅があり、それが臨終まで続いたならきっと同じような絶対的な信頼関係を一生涯保ち続けられます。初め煩悩が気になりますが、それはだんだんにどうでもよくなります。こういう感覚の人が増えたら世界が平和になると私は確信しています。そのための研究をしているところです。
感謝していること
 同じように真理との邂逅をした人たちとはスピリチュアルな絆で結ばれている感覚があり、その「何よりも愛おしい」ひとたちとの出合いにとても感謝しています。
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慈愛の等価性「おそろい」の憶い

2017/06/05 07:57
 同じくらいの深さや広さの慈愛を持っている人同士が引き合う気がします。 
 「おそろい」じゃないと満足できないんだと。安心できるってそういうことなんだと。
 その「おそろい」の親の所に生まれてるんだけど、それが分からなくてすれ違う。パートナーや友だちは選べるから、「おそろい」の人とじゃないと上手くいかないってことやっと最近分かりかけてきました。どちらともなく居心地が悪くて離れてそれっきり。反対に、おんなじひととばかりいたくなるのは無意識に「おそろい」を求めて安心したいんじゃないかって。ちょっと間が空いても「おそろい」のひととだと前の時の続きの心地よい優しさに包まれるように感じる。寂しくなったり何か辛いことがあると無性に逢いたくなるのはそんな「おそろい」の感覚を持つ人です。
 
 自分もそうだったけど、初めから親じゃなくて、少しずつ親になっていく感じです。高校生になったばかり娘の親の私はまだまだ新米で途上です。90代のおばあちゃんが70代のパパにかけていた眼差し、80歳のパパやママの私に対しての憶い。
 年月をかけて長いこと醸造されたその慈愛の中で私は生きてきました。
 おばあちゃんやパパに私はどれだけご恩返しが出たのでしょうか。そんなことを振り返る間もなく、あっけなく先に逝ってしまいました。出来ることならずっと一緒に居たかった。私の方が先だったらよかったのにと思いましたが、そうしたら彼らが悲しむ時を過ごすのかな。

 三次元の身体を持つ人間なので、それぞれの寿命で一緒に居られる期間が異なります。だから、生きている間に、照れや恥ずかしさを乗り越えて、少しでも優しくしていたいと痛感します。それは肉親だけじゃなくて、周りの自分と関わっている人たち全てにも「おそろい」の慈愛が感じられたら、きっと本当にお互いが掛替えのない人になりうるんでしょう。「おそろい」じゃなかったら物足りなくて、一緒にはいられないのかも。慈愛の「おそろい」の人の所じゃないと収まらないし、居心地が悪い。

  年齢性別国籍全部関係なしに、いずれ死に逝く身体を持つ人間として、慈愛の光がほぼ等しいような人たちと、それを与え合い、感じ合い、受け止め合えたら、寂しくないのかもしれません。あのひとも、このひともつながっていて、今どうしているんだろうと考えているとき、相手も私のことを気にかけてくれている「おそろい」の気持ちがあれば人生って生きている意味があるし、それほど悪くないんじゃないかって感じます。

 特に、親という存在はおそらくずっと自分を気にかけてくれています。ただ自分のことで精一杯で余力が無かったり、愛情表現が上手くできなかったりするときもあるでしょうが、その親を選んで生まれて来たのですから、きっと「おそろい」だったのでしょう。おばあちゃんもパパももういませんが、一人さびしく暮らすママのこと幸せを念じてこれからは生きていきます。周りの「おそろい」の人たちも同様に大切にして生きていきます。
感謝していること
一番大切にしなくてはならない大事な人のことを当たり前に考えて疎かにしがちだということを知らされました。ママも含めておそらく何度も一緒に生まれ変わってきている周りの大切な人たちと「おそろい」の憶いを共有していきます。
 
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自分にとって必要な人とは

2017/06/04 12:43
潜在能力を認めてくれて、必要な時お願いしたら、それをサポートしてくれる人です。これがわからないから、これを手伝ってほしいからと言われた時にだけ助けてくれて、後は黙って見ていてくれる人です。ほかはたわいもない話をしながら一緒にいると楽しいというより落ち着いていられる人です。楽しくないより楽しい方がいいでしょうが、安心して何も考えないでいられる人の方がいいです。

基本的な信頼関係の上で必要以上に気を遣うこともなく、無理しないでいられるのと、相手を見下してぞんざいな扱いをするのは違いますが、見分けがつきにくいので、全ての場面で一様に丁寧に親切にするのがいいですが、気持ちに遠慮があるのかないのかではリラックス度が違ってきます。この人は信用できる人だとわかったならそれ以降は付き合うのは楽になるのですが、疑い深い人はなかなかそれが出来ません。進んでは後退するのを繰り返します。過去の不幸な出来事がそうしているのかもしれませんが、気の毒ですが仕方ありません。自分で気が付くのを待っているしかありません。

自分が一番輝いていられるのを利害関係なしによろこんで願ってくれるのは親だけです。非常に稀ですが、先生や配偶者や友だちにも一部そういう人がいますが、一生涯何人かしか合えない確率です。だから親が生きている内に大切にしてあげてください。他の自分を助けてくれている人たちにも、出来る範囲で何かしてあげられるといいです。

自分にとって必要な人は大切な人でもあるので、そのひとたちがよろこぶことや嬉しいことをしてあげられるとお互いに本当に気分がよくなります。これは人間に生まれてきた醍醐味です。

感謝していること

何かして差し上げたい人が周りにいてくださることに感謝します。自分が生まれてご縁になった親やおばあちゃんに感謝します。


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「やせたら着ようとしている服はずっと着れない」

2017/06/04 07:31
今着れない服はもう着ることはないので思い切って手放しましょう。きついのに我慢して着ているのは、その無理が周りにも気づかれています見た目も痛いし、身体もしんどいし、ろくなことはありません。自分に合ったものを見に着けることが肝心です。

 親子関係は自活してその家を離れられるまで離脱は無理かもしれませんが、友だち恋人妻・夫などは選べますから。今、合わないと感じたならば距離を置くことはできます。残念ですが仕方ありません。自分が成長して大きくなったらそれに見合う人と付き合いたくなります。心がささくれ立ってトゲトゲしているときにそれを、気持ちに余裕がないひとや素直で免疫のないひとに向けたら傷ついてしまいます。共倒れになります。

ひとと関わる時には、何かを当てにしたり、奪おうとすると、関係は破綻します。何か奪おうとしてくる相手には大抵は身構えます。そして時間や自尊心や楽しい気分をとられないように、距離を取られます。通常は相手に何かを与えられるものを自分でも持つようなWin−Winの関係にならざるを得ません。

もし相手が溢れる愛を持ち、柔軟な心があり、自分と比べ物にならない器の親や教師のようなひとが周りにいてくれたらそれはラッキーです。今は甘えさせてほしいという態度を示した上で、お願いしたらそれはOKでしょう。でも、そういうひとは滅多にいませんし、ずっとそんなことをしていたら、そのうち寛大なそれらの人たちにも飽きられてします。立場上はいきなり切られることはないにしても、自分が気が付いて、相手によろこんでもらえるようなる方が建設的ですし、自分も誰かに同じように接してあげよう、見習わせて頂こうという気持ちになれます。

ひとついえることは、ありもしない未来に期待するのはよした方がいいということです。今の状態は、自分が不快であることをハッキリ相手に告げないと改善しません。相手はその状況が心地いいのでそうしているのですから。相手が嫌な思いをしているかもしれないという良心の呵責は少しはあるのかもしれませんが、それよりも自分の満足を優先させる子どもなのです。これを食べると太るとわかっていても、誘惑に負けて美味しいからと言って食べる人の心境にも似ています。

仮にそのひとが自分に対してこどものようにモラハラじみた行為で気を引こうとしている人なら、それはその人がそのアプローチは危険なやり方で、相手を不快にさせるだけで、いつかは縁がきれるものだと分かってもらうしかありません。私はモラハラをされるような人間ではないし、温かい微笑みの中でいっしょにいられる人としか付き合えないときっぱり宣言して、相手が変わるかどうかしばらく見極めて、無理なら縁がなかったのでしょう。

要するに人生は短く、いつ死ぬかわかりません。そんな中で、窮屈で似合わない服を我慢して着ることをやめるように、人間関係も無理はせず、自分と合わない状況は思い切って見直していった方がいいです。被害者でいることは加害者を増上させることにつながりますし、嫌なことや嫌だと言える関係でないと、今も未来も快適に付き合うことは難しいです。

感謝していること。
 学校の構内や通学途中でたくさん花が咲いていて、心が和みます。


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何もしないでただ笑ってそこに一緒にいられるひとがいい

2017/06/01 17:20
 こんなこと言ったら変に思われるんじゃないか、嫌われるんじゃないかと怯えてびくびくしながら誰かと一緒にいるのは疲れます。好き嫌いはあるかもしれないし、仕方ないけど、せめて挨拶くらいはさわやかに、にこやかにしていて欲しい。何だか波動が下がるような態度をわざわざされても何だかなぁってさらにどっと疲れます。できたら、そういう同士で暗く低い波動の中でリラックスして欲しいです。私は自然光の明るさで中庸がいいです。

 

 日頃考えることがあまりにも多いので、ただボーっとしていたいときがあります。話すのも何か考えないといけないから疲れるし、顔を見て何にも言わないで、過去も未来も全部忘れて、今だけの静かな時を過ごせるひとがいたらこんなに贅沢なリラックス法はありません。




 そんな仏さまのような人と一緒にいる機会が訪れるようになるには、自分自身がそういうオーラを出すしかないかな。

 ただ目の前に誰かがいて、一緒にご飯食べたり、お茶を飲んだりそんな贅沢な時間を過ごすことを覚えてしまうと日常のあまりにも煩雑で忙しい暮らしに疲れてしまうのですが、たとえ短時間でも、ゆとりのある時を心掛けて作るようにしていきます。




感謝していること

 かなり疲れていますが、たとえ完璧でなくても、自分が手掛けたことが形となって残るのは嬉しいです。


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「完全に信じて疑いが晴れることが一番難しい」

2017/05/30 00:34
煩悩で作る罪で迷いの六道を回り、その煩悩を人間である私はどうすることもできないから、阿弥陀仏の本願を信じるしか救われる道はないと聞かされました。 

自分の心の中にちょっとの疑いがあって、それをなくすことが出来たら救われるとばかり軽い気持ちでいました。しかし聞法を重ねていくうちに、阿弥陀仏の本願を疑いなく信じることがどれほど難しいことか身を以て知らされました。

いま・ここで、そのまま、ただ信じることは至難のことだったのです。実際信じようとすると、あれこれ計らい、疑う気持ちがなかなか消えません。ほんの少しの疑いがあっても救われないので、懸命に疑いを無くそう、信じようと聞法を続けても一向に疑いはなくなりません。




畑の真ん中に石があり、それが邪魔だからどかそうとシャベルで掘っていったら、かなり大きな石だとわかりました。どうしたものかと途方に暮れて、それでも石を何とかしないと畑に作物を植えられないので、どかそうと懸命に掘っていったところ、石は畑全体に及ぶ大きさだったというようなことなのでした。疑いは私の中の一部でちょっと自分の機にあうような法話を聞いたらなくなると自惚れていたのが、私の存在そのもの全てで阿弥陀仏の本願を疑っていたと知らされました。




 迷った人間はその全部が悲劇的存在であるので苦しいのに、それを私たちは認められません。本当は苦しみであることを楽しいと勘違いしているので、少し辛いことがあると騒ぎ立てます。全部が苦しみであることが分からなくても、苦しいと感じることが出来たならそれは幸せなことです。よろこばしきことでもあります。苦しみを引き起こす迷いの状態から抜けようと自分の意志で仏教に向かい救われる縁手掛かりになるからです。




 お金や地位や名誉を得てもさほどよろこべないのは、それらは迷いの産物であると気が付いているからです。どんなに親しい人もどちらかが先立ちます。私たちは人も物も人間という迷いのスクリーンに映った夢幻の幻想だと薄々感づいているのです。




 本当は自分の力で信じきることはできなかったのだと、自力は間に合わなかったと知らされた時、信じる力など無かったとわかったとき、金輪際助かる縁手掛かりがないと信知したとき救われます。しかしながら、私たち人間の自惚れは非常に強くてなかなか疑いが晴れません。それを晴らすために阿弥陀仏のお約束を浴びるほど何度も何度も人間の口から説法で聞かせていただくのです。先に救われた人から、本当に救われることがあるのだから、信じてくださいと教えていただくのです。これが聞法とその後の御示談です。




 人間そのものが煩悩で出来ていて、どこをとっても疑いや煩悩だらけなのに、対症療法のようなことであれこれ煩悩にまみれた腐った脳みそをかき回しても救われることからは遠いのです。この身全部が阿弥陀仏を疑っている苦しみの原因であり、人間存在そのものが悲劇であるのが分かりません。私たちは気休めを求めて、こういう心持になれば楽になれると心理療法家のところで分析してもらい、もっともらしいことを言われて帰ってくるのですが、その痛み止めの効果は長続きしません。また別の問題が惹起してきます。人間のそのものが悲劇の樹木だとしたら、根幹を切り取らない限り、苦しみの花が咲き続け、悩みの実は絶え間なく現れます。




 雨の日や上がった後の水たまりを私たちは避けて通りますが、心の中は全部が水たまりのようなもので避けることなどできないのに、いいものがあり楽しめるのだと自惚れていますから、ずっと文句を言い続けなくてはならない人生を送ります。

人間同士も無明の闇を持ち、心が晴れていませんから、お互い信じられず疑心暗鬼になります。まるで捨て犬が保健所から引き取られて、欲しがっている飼い主の所に連れてこられた犬のように、与えられた餌も毒が入っているかと疑い、頭の方に手が延びると叩かれるのではないかと警戒します。盛んに吠え歯を剥きだし威嚇します。ただ、幸せになって欲しいだけなのにと残念で悲しい飼い主の気持ちなどお構いなしです。




阿弥陀仏に救われた人同士なら、阿弥陀仏との関係を御互いによろこべそうですが、煩悩を持った人間では、救われた味わいにどうしても温度差があります。同じように御恩報謝をする気持ちの溢れる人同士ならよろこべますが、中々そんな人には出合えません。法然聖人と親鸞聖人のように信頼し合える人に生涯何人かでも遇えたならそれで良しというところなのでしょうね。私はその何人かに出合えたので、今生はまあまあよかったのでしょう。




疑いが晴れ、人間に生まれることが出来て良かったと誰が見ていなくても、一人でいてもよろこべる身に救われる人が一人でも現れるように出来ることをさせていただきたく存じます。

感謝していること

 どんなご縁で疑いを晴らしていただけたのか今もって不思議です。


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なぜ目覚めの境地を伝えようとしないのか

2017/05/29 22:43
自身が六道の長い長の迷いから覚めた、廻心の体験をして、こんな素晴らしいことはなかったと知らされたのになぜ周りの人に伝えようとしないのでしょうか。
 目覚めを望まない人は反発して嫌うかもしれません。それでも伝えられなければその人は迷ったまま、また六道を経巡ることを十分に身を以て知らされたのに不思議でなりません。
 
 私には十分な能力がありません。話も下手ですし、表現力も人より劣り論文が上手く書けずに苦心しています。何一つ取り柄などありませんが、それでも御恩報謝の気持ちが止まりません。湧いてくるのです。それを誰かが見てくれるだろうと書いているだけです。また聞きたい人にお話をしていますが、そうでなくても身内や友達などに話したくて仕方がないのです。嫌われ馬鹿にされ離れていかれることも経験し、嫌な想いもたくさんしてきましたが、どうかご縁があり阿弥陀仏の本願を聞いて欲しいと、救われて目覚める体験をして欲しいと願う気持ちはなくなりません。

 私がお話しした人の中で、どれくらいの人が自身で念仏を称えるほかに一人でも多くの方々が真理を体得する言動を日常心掛けているかというととても悲しくなります。自分さえよければそれでいい、自分さえ尊いお話が聞ければいいという無慈悲な気持ちは芥川の『蜘蛛の糸』を連想させます。アメリカ人の仏教に関心がある人の話を鈴木大拙が翻訳したのを芥川がその物語にしたようです。主人公のカンダッタが自分だけ糸にしがみついて、後からのぼってくる人を振り落したり、血の池地獄にいる人たちをみて可哀想とも思わないそんなふうに思えてなりません。

 私自身も救われてからも、今までただ生きながらえているだけで、何もできていませんが、出来ることを少しずつでも精進してまいります。
 感謝していること
 真宗の肝要は阿弥陀仏に対する疑いが晴れることだと知らされ、それを論文の結論に持って行く方向性が定まりました。
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浄土真宗の教えの肝要

2017/05/29 22:38
「しかるに『経』に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」 (教行信証信巻 )
 浄土真宗は聞法修行という方法で救いを求める宗教です。親鸞聖人は仏説無量寿経下巻阿弥陀仏の本願の成就文の中にある聞其名号信心歓喜乃至一念」の「聞」というところからこのことを言われました「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり」と読み、これは無量寿仏(阿弥陀仏)の名を聞いて信じて喜び、わずか一回でも仏を念じてという意味です。仏願の生起本末というのはまず迷っている私たち衆生がいて、それゆえ阿弥陀仏がそれら者を救済する願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあることを聞くのです。本願成就文は、浄土真宗で、一切経の中で最も重要で大切なお言葉とされるものです。
 仏教にはいろいろな救済方法が説かれていますが、浄土真宗の救われる道は、阿弥陀仏の願いを聞いて信じることです。これが全てです。迷いから目覚めて新しい人生を歩み始めることが出来ます。ここに仏教における救いの全てがあります。
私たちは自惚れて、心の中の一部が迷っていてそれが何とか出来たら、幸せになれると考えますが、仏教的な見地から見ると全部が迷っているので、その総てを阿弥陀仏の本願を聞くことで転じ変わったとき本当の救いが訪れると説かれます。

 私は今、「真宗カウンセリング」の論文を書いていますが、一番の要はここにありました。他のカウンセリングが対症療法で個人の問題をピックアップし、それに焦点を当てて解決しようとするのに対して、真宗の教えをもとにしたカウンセリングでは全部がひっくり返って生まれ変わることを最終目的とします。これは大きな相違点ですが、自身の問題がそこにあるときづく人は稀であります。そこまでたどり着くにはほかのカウンセリングなども併用しながら、最終地点まで到達することが大切でしょう。
感謝していること
 この論文は昨年の秋からずっと取りかかっておりますが、何とか仕上げられる気がします。 
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気分が明るくなる言葉を多用する

2017/05/27 00:02
 長く生きられるようには私は感じられません。いつもこの人と逢うのはもしかしたらこれが最期かも知れないという気持ちで接しています。幼少の頃より恥ずかしがり屋で人見知りの私は思ったことが言葉に出来ず随分悩み苦しんできました。周りにハッキリ意思表示する人を見ると、言いたいことをそのままストレートに言えたらどんなにいいだろうかといつも考えていました。
 英語を学ぶようになり、あまり空気を読まず、謙遜もせず、ただあなたが大切だとストレートに言ってもてらいのないのが気に入っていました。英語で話すとき私は自由になれます。でも相変わらず内気なのは全部は払拭できずにはいますが、日本語を話すときよりはだいぶましかもしれません。

 博士課程を修了したら半分は外国で、もう半分は日本で大学の教師をします。大学院課の教員養成講座も昨年受けてみましたし、保育士と幼稚園・小学校教諭の勉強もし、資格も持っています。まあ小さい人たちと大学生は同じようなものだと思います。教師になったら学生には出来るだけ佳い言葉や励みになる言葉をたくさん浴びせかけてます。

 感謝していること
 真宗カウンセリングの話を思いがけず聞かせていただきました。論文で行き詰っていてヒントをいただけました。有り難かったです。
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ひととしての最大の役割とは

2017/05/26 04:46
 子どもたちや若い人たちを育てることです。
 彼らは未知の可能性を秘めています。
 それにきづかせて、サポートすることです。
 
 私はあとどれくらい生きられるかわからないので、あることを考えています。
 今までしてきたことを文章に残すことやワークショップなどで伝えること。そのために国内や海外のいろいろなところに行きます。

 私しかできないことをしていきます。
 いつか、私のしてきたことを若い人たちが引き継ぎ、さらに発展させ実践された時、私が今生この地球に生まれ、艱難辛苦を乗り越えてきたことが報われるのだと信じて。

感謝していること
 何時も見えない力に護られていることに対して感謝の気持ちで一杯です。だからいろいろあっても前に進める気がします。
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苦手な人に最低限していること

2017/05/25 21:57
 基本的に私は嫌いな人がいません。
 でも苦手な人、出来たら避けたい人は残念ですがいます。
 きっとそういう人は私に足りないところ、直した方がいいところを教えてくれています。私にとっては有難い人なんでしょう。
 一緒にいるのは余り気が進まないし、胃が痛くなるのですが、そういうひとと、どうしてもいないとならない時は肚をくくります。
 たぶん私が感じているように、そのひとたちも同様に私が苦手か嫌いでしょうが、それはお互いさまで仕方ありませんし、好きになってほしいとは言いません。ただ、大人ですので次のことだけは最低限していますし、苦手な人にも出来たらして欲しいです。

@ 挨拶
声に出して顔を見て(目までは見る自信がないときもあるので)しっかり挨拶します。
A 返事
何か聞かれたら返事をして、聞かれた内容には誠意をもって答えます。
B 周りの人への配慮
あの人が苦手なのだ周りに意識させないように、ほかの人と同様な態度で接します。
C 笑顔
相手にも周りにも私がその人が苦手だと悟られないようににこやかに対応します。
D 相手の機嫌を取るために悪く思われないような言動はしません。
お礼を求める気持ちが出るので、不満をもって、嫌々ながらせず、よろこんでさせていただきます。不満を押し殺して被害者の自分でいることは止めました。
E ポリシーに反する同調や謝罪もしません。
毅然とした態度で安易に同調せず、全く覚えや非がなければ謝らない、これだけはポリシーに反することは控えめに小さな声でもキッパリ嫌だと違うと伝えます。

どうして一部のひとは自分のプライドを守るために優しい言葉の代わりに否定・罵倒の語殺を繰り返すのでしょうか。「そうなんですね(あなたはそう思うんですね)」とそれが嘘かもしれないと思っても、他愛のない話の時は、受け流していたらケンカにはなりません。笑いかける代わりに睨んだりするのでしょうか。心が凍りそうになります。

モラハラ・DVを受けている人たちもそんな感じかもしれません。ただひととしてしたらいけないことを相手はしているのだというきづきとか、私のターンだとかいう発想がなくて、優しい振りをして死にたくなっちゃうか、ある時、溜まった怒りが満タンになり、爆発して縁を切るのでしょう。
モラハラの加害者は、余程、懲りて二度とひとに対して辛い思いをさせないと決意する機会がない限り改まらないでしょう。何度も人間に生まれ変わっては繰り返します。気の毒ですが、本人がきづくまで、放置して離れた場所から見護るしかありません。
感謝していること
周りの心優しい人たちのお蔭で、やっと、私はして欲しくないことを告げるなどして、自分を大切にできるようになりました。
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目的にひた走る超合理主義的生き方の功罪

2017/05/22 04:27

 なぜ急がないのだろうか?

 どうして寄り道・回り道をするのだろうか?

 なぜ感情的になり甘えて休むのか?

 せっかくここまで来たのに続きをしないで、なぜ戻る?

生き急ぐ私には未だによくわかりません。




 野球は投手が様々な投球法を駆使して、打者の所でボールを速くまたは様々に変化させて投げることで、何とか打たせないで投げ勝つことを研鑚します。打者はどんな変化球が来ようとバットに当て打ち抜き、出来るだけ遠くに飛ばして内野手に捕球されないで、外野フライにもならないヒットかホームランを目指します。

 直球ド真ん中ドストライクの重くて速い球が一番美しくて、理想の形であると信じて疑わない私は、自身の人生を生き急ぎ、時間を惜しみ、全力でその投げ方を追求してまいりました。




 真理との邂逅まではそれでよかったのかもしれません。脇目も振らず、少し回り道しているときづくと微調整しては、元に戻りどれくらい長距離のマラソンになるのか予測もしないで駆け抜けた半生でした。そのあと10年近く時が流れようとしていますが、未だ生き急ぐ癖はなかなか変わりません。

 

 今生で一息切れたら、また迷いの世界を輪廻しなければならないのに、なぜ急がないのかと焦る気持ちがあります。その時のご縁は見て取れるのに、どうにかその人にとってなにか特別なご縁が急にやってきてきづくんじゃないかと。ゆっくりするしかない、来世でもいいのだと割り切れたらいいのですが、そのようには私には感じられません。あまりにも真理との邂逅までの私からしたら迷った人生が苦しくて仕方がなかったからなのでしょう。色のない世界、砂をかむような味気なさ、光が見えず人々がぶつかり合って怪我をして文句を言い罵り合い、果ては殺し合う人間世界を見るにつけ、様々な想いを巡らせます。光が当たり、照らされたら別の生き方が出来るのにと、つい、仮定の状況を考えてしまいます。




 「人生は苦なり」を実感して、この状態から一日も早く、一秒でも速く抜け出そうという人は稀です。ほとんどの人が蜃気楼のような人生を煩悩の迷いの中で、損した・得した、好きだ・嫌いだ、プライドがどうこうとどうでもいいことに躍起になっています。それを見ながら、どうしたらこのひとたちが迷っていることがわかるのだろうかと考え込んでしまいます。




 そんな私を見るに見かねてか、直球ストレートの超速球ばかりを追求すしていても、消耗したり空回りして、肩を痛めることもあると、ほかの種類の投げ方を教えてくれる人たちがいました。負担がかからず、ゆっくりでも合理的で楽しくて楽な投げ方もあるのだと教えてくれました。

 彼らは、私に甘えて拗ねて怠ける様子を見せては、ほとんどの人たちは何もかも犠牲にして真理との邂逅を求めないのだと身を以て教えてくれました。それでも私は生来の癖が抜けきれず、最短距離ばかりを目指し、生き急ぎます。このまま休まず走り切り先を目指すのか、周りと同調しながらゆっくり行くのか、今、分岐点に来ているのかもしれません。

感謝していること

周りのいろいろな人や物が私の御恩報謝の人生に何らかの示唆を与えてくれている気がします。有難いです。


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スピリチュアル(一部真宗)カウンセラーとしての痛み

2017/05/21 20:41
 今、真宗カウンセリングの論文の草稿にかかろうとしています。昨年の秋に投稿しようとしたものでしたが、諸般の事情で延び延びになってしまっていました。今回はどうしても出したいと願っています。ただ、それは私の博士論文の提出の為の条件である3本の査読論文を早く揃える意図ではありません。
 投稿で載せた文章を一人でも多くのカウンセリングに関わっているひとに読んでもらいたいのです。というより、私のカウンセラーそして、ひととしての力不足のために中途半端になってしまったクライアントの方々への私が「あのとき」して差し上げたかったことメッセージとして書きたいのです。包容力のなさ、自惚れ、共感・受容できないもどかしさ等、今まで口では言い表せなかった忸怩たることを表現できたらと存じます。西光、ロジャーズ、ウィルバーなどの実践・理論を文章で書き、彼らがまた成し遂げていない領域に少しでも踏み込めたら幸いです。

 辛い状況が楽しいという目の前の人に「そうなんですね、楽しいんですね」と力なくしか応えられませんでした。「私はそういうのはあんまり楽しくないけど」と小声でつぶやくことしかできませんでした。自力が晴れて他力に生まれ変わった廻心の体験まで踏み込んで話せなかった私のこころには痛みがくすぶっています。
 そのひとたちが、本心から、心の底から楽しければ、何人かの仏教の友だちのように、いつも、ありのままそのまま、安心・満足のまま、静かに微笑みのうちに心を通わせることができるのにと悲しくなりました。せっかく心を開きかけてくれたのに、私が無理なカウンセリングもどきをしてしまったことがどうにもこうにも残念でした。こういう憶いがあるので怠惰な我が身に鞭打って頑張れるのかもしれません。
感謝していること
目の前にやってくる課題は結構ハードですが、やり遂げたらまた一歩、光に向かえる気がします。
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意地悪な人って余裕がないの?それとも頭が働かないだけ?

2017/05/20 20:38
 全てはつながっているのですが、生理的に気持ちが悪いもの、どうしても受け付けないものがあります。
 それは他人を見下す、もしくは羨ましがる顔です。元々の顔はどうでもいいというか気にならない質なのですが、ある人たちの表情に比較やジャッジが入った時の他人の顔が私には耐えられません。鏡を持っていって、本人に見せてやりたいところですが、そこまでして他人を更正させようという親切心もありません。親しい友だちならするかもしれませんが、そもそもそういう意地悪な類いの人とは友だちになる縁は避けてきているので、そんなことは無用です。

 つながっている他人(自分)に対して、したり顔(ドヤ顔)をすることは、結局は自分自身を貶めて、苦しめることにつながるのにと思うと、そんなことをする人たちに対して気持ちが悪くて拒否というよりも不憫で成りません。自分は性格が悪いと自己紹介しているのに気がつかないのでしょうね。とても疲れますし、感じ悪いし勘弁して欲しいです。特に論文などの締め切りに終われて余裕や時間がないときは見たくありません。いろいろ考えてしまうので。ただ起っていることを、そのまま起っているんだと認識している人たちと淡々と過ごせることが一番気分がいいです。どこにも引っかからずスムーズです。

 ただそれでは学びにならないので、時折恐怖が目の前にやってくるのかもしれません。この視覚的(加えて彼らの発することばによる聴覚的恐怖)は恐がりの私にとってはそのまま空気になって消えてなくなりたいほど心に刺さるのですが、仕方ありません。時間があるときはいいですが、そうでないときは避けられる忌まわしい光景や状況は見ないようにするのが精神衛生上好ましいととりあえず逃げて心を落ち着かせています。
どうも私は光り輝く美しいものや慈悲の思い遣りに満ちているものが好きで、闇の中からはあまり学ぶことが出来ない質なようです。
感謝していること
なんだかんだいっても、死に対する不安もほかも特になくなっているので、そのことには有り難く感謝していいます。
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本当に今生で願っていることとは

2017/05/18 23:36
 食べることによろこびを感じることも少なくなりました。
 大好きな誰かと食べると嬉しいですが、美味しいものが少しあればいいし、なくてもいいです。
 着るものも、高いものを買わなくなりました。バブルの頃のような服は着なくなりました。シックで上品な色じゃなくて、ピンクと白とかパステルカラーなど明るい服を着ていますが、それも特にこだわりがありません。
 表と裏に庭があって、薔薇や果実の木がある家に住みたかったですが、しばらくは今の家でいいですし。

 あんまり、何かを強く願うこともなくなりました。

 それでも、一人でも多くのひとたちと一緒に、お浄土に参りたいし、今生でご縁があったひとたちとは、そこで再会したいです。これが唯一の私の明確な願いです。
感謝していること
 庭の薔薇がとてもきれいにたくさん咲いてくれています。
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手放すと見えてくるもの

2017/05/15 19:39
 一生懸命追いかけてその真意を見定めようとしているときは気づかなかったことが、手放して一歩引いて客観的に見るようになると「そうだったんだ」とわかることがあります。
 気に入っていて自分が追いかけていたようだったけど、実はそう仕向けられていたことだったのかと感じたこともあります。何事にも受身な私は押しが強いひととか状況に引き寄せられ、ついふらふらっとついて行ってしまう傾向にあります。それではだめだと自重してきたのですが、習慣というかなかなか改まらないものだと呆れてもいます。優柔不断とかスパッと割り切れない所を改善することはこれからの私の課題でしょう。

 仏教の先生に教えていただいたように、日に何度も四弘誓願を称えて、軌道修正して行ったら、日本でもロンドンでもほかの所でもキリット方向が定まった生き方が出来るのかもしれません。精進してまいります。
感謝していること
 探していた本が見つかりました。今日は主担当の先生の講義だけ出て、後は論文の草稿完成の時間に当てる予定です。今日も空気が澄んでいて明るい部屋にいられて気分がいいです。
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