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今、この瞬間を精一杯生きていますか?
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 日常のちょっとした嬉しい気付き、幸せになれる言葉、疑問に思っている事、色々書きますので、皆さんからも、沢山教えて頂けたら嬉しいです。☆印は主に仏教のことをかいています。関心をお持ちの方はご覧下さい。
 コメントではなく、メール(携帯はショートメールしか受信できないので出来たらパソコンにお願いします)や電話で、私と気持ちを共有したいと思われましたら、以下のアドレスに願いします。お待ちしております。
  stella.best18_@ksf.biglobe.ne.jp
携帯アドレスstella.best18_Asoftbank.ne.jp(Aを@に変えて下さい)どちらかというと、パソコンのメールを見ているときが多いです。 携帯番号 零7零五五零七一八四八(火曜から金曜まで午後12時半から1時)まで電源入れます。いつまで日本にいるか、生きているかわかりませんので、どうぞ、今のお声を聞かせて下さい。
 
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「完全に信じて疑いが晴れることが一番難しい」

2017/05/30 00:34
煩悩で作る罪で迷いの六道を回り、その煩悩を人間である私はどうすることもできないから、阿弥陀仏の本願を信じるしか救われる道はないと聞かされました。 

自分の心の中にちょっとの疑いがあって、それをなくすことが出来たら救われるとばかり軽い気持ちでいました。しかし聞法を重ねていくうちに、阿弥陀仏の本願を疑いなく信じることがどれほど難しいことか身を以て知らされました。

いま・ここで、そのまま、ただ信じることは至難のことだったのです。実際信じようとすると、あれこれ計らい、疑う気持ちがなかなか消えません。ほんの少しの疑いがあっても救われないので、懸命に疑いを無くそう、信じようと聞法を続けても一向に疑いはなくなりません。




畑の真ん中に石があり、それが邪魔だからどかそうとシャベルで掘っていったら、かなり大きな石だとわかりました。どうしたものかと途方に暮れて、それでも石を何とかしないと畑に作物を植えられないので、どかそうと懸命に掘っていったところ、石は畑全体に及ぶ大きさだったというようなことなのでした。疑いは私の中の一部でちょっと自分の機にあうような法話を聞いたらなくなると自惚れていたのが、私の存在そのもの全てで阿弥陀仏の本願を疑っていたと知らされました。




 迷った人間はその全部が悲劇的存在であるので苦しいのに、それを私たちは認められません。本当は苦しみであることを楽しいと勘違いしているので、少し辛いことがあると騒ぎ立てます。全部が苦しみであることが分からなくても、苦しいと感じることが出来たならそれは幸せなことです。よろこばしきことでもあります。苦しみを引き起こす迷いの状態から抜けようと自分の意志で仏教に向かい救われる縁手掛かりになるからです。




 お金や地位や名誉を得てもさほどよろこべないのは、それらは迷いの産物であると気が付いているからです。どんなに親しい人もどちらかが先立ちます。私たちは人も物も人間という迷いのスクリーンに映った夢幻の幻想だと薄々感づいているのです。




 本当は自分の力で信じきることはできなかったのだと、自力は間に合わなかったと知らされた時、信じる力など無かったとわかったとき、金輪際助かる縁手掛かりがないと信知したとき救われます。しかしながら、私たち人間の自惚れは非常に強くてなかなか疑いが晴れません。それを晴らすために阿弥陀仏のお約束を浴びるほど何度も何度も人間の口から説法で聞かせていただくのです。先に救われた人から、本当に救われることがあるのだから、信じてくださいと教えていただくのです。これが聞法とその後の御示談です。




 人間そのものが煩悩で出来ていて、どこをとっても疑いや煩悩だらけなのに、対症療法のようなことであれこれ煩悩にまみれた腐った脳みそをかき回しても救われることからは遠いのです。この身全部が阿弥陀仏を疑っている苦しみの原因であり、人間存在そのものが悲劇であるのが分かりません。私たちは気休めを求めて、こういう心持になれば楽になれると心理療法家のところで分析してもらい、もっともらしいことを言われて帰ってくるのですが、その痛み止めの効果は長続きしません。また別の問題が惹起してきます。人間のそのものが悲劇の樹木だとしたら、根幹を切り取らない限り、苦しみの花が咲き続け、悩みの実は絶え間なく現れます。




 雨の日や上がった後の水たまりを私たちは避けて通りますが、心の中は全部が水たまりのようなもので避けることなどできないのに、いいものがあり楽しめるのだと自惚れていますから、ずっと文句を言い続けなくてはならない人生を送ります。

人間同士も無明の闇を持ち、心が晴れていませんから、お互い信じられず疑心暗鬼になります。まるで捨て犬が保健所から引き取られて、欲しがっている飼い主の所に連れてこられた犬のように、与えられた餌も毒が入っているかと疑い、頭の方に手が延びると叩かれるのではないかと警戒します。盛んに吠え歯を剥きだし威嚇します。ただ、幸せになって欲しいだけなのにと残念で悲しい飼い主の気持ちなどお構いなしです。




阿弥陀仏に救われた人同士なら、阿弥陀仏との関係を御互いによろこべそうですが、煩悩を持った人間では、救われた味わいにどうしても温度差があります。同じように御恩報謝をする気持ちの溢れる人同士ならよろこべますが、中々そんな人には出合えません。法然聖人と親鸞聖人のように信頼し合える人に生涯何人かでも遇えたならそれで良しというところなのでしょうね。私はその何人かに出合えたので、今生はまあまあよかったのでしょう。




疑いが晴れ、人間に生まれることが出来て良かったと誰が見ていなくても、一人でいてもよろこべる身に救われる人が一人でも現れるように出来ることをさせていただきたく存じます。

感謝していること

 どんなご縁で疑いを晴らしていただけたのか今もって不思議です。


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なぜ目覚めの境地を伝えようとしないのか

2017/05/29 22:43
自身が六道の長い長の迷いから覚めた、廻心の体験をして、こんな素晴らしいことはなかったと知らされたのになぜ周りの人に伝えようとしないのでしょうか。
 目覚めを望まない人は反発して嫌うかもしれません。それでも伝えられなければその人は迷ったまま、また六道を経巡ることを十分に身を以て知らされたのに不思議でなりません。
 
 私には十分な能力がありません。話も下手ですし、表現力も人より劣り論文が上手く書けずに苦心しています。何一つ取り柄などありませんが、それでも御恩報謝の気持ちが止まりません。湧いてくるのです。それを誰かが見てくれるだろうと書いているだけです。また聞きたい人にお話をしていますが、そうでなくても身内や友達などに話したくて仕方がないのです。嫌われ馬鹿にされ離れていかれることも経験し、嫌な想いもたくさんしてきましたが、どうかご縁があり阿弥陀仏の本願を聞いて欲しいと、救われて目覚める体験をして欲しいと願う気持ちはなくなりません。

 私がお話しした人の中で、どれくらいの人が自身で念仏を称えるほかに一人でも多くの方々が真理を体得する言動を日常心掛けているかというととても悲しくなります。自分さえよければそれでいい、自分さえ尊いお話が聞ければいいという無慈悲な気持ちは芥川の『蜘蛛の糸』を連想させます。アメリカ人の仏教に関心がある人の話を鈴木大拙が翻訳したのを芥川がその物語にしたようです。主人公のカンダッタが自分だけ糸にしがみついて、後からのぼってくる人を振り落したり、血の池地獄にいる人たちをみて可哀想とも思わないそんなふうに思えてなりません。

 私自身も救われてからも、今までただ生きながらえているだけで、何もできていませんが、出来ることを少しずつでも精進してまいります。
 感謝していること
 真宗の肝要は阿弥陀仏に対する疑いが晴れることだと知らされ、それを論文の結論に持って行く方向性が定まりました。
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浄土真宗の教えの肝要

2017/05/29 22:38
「しかるに『経』に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」 (教行信証信巻 )
 浄土真宗は聞法修行という方法で救いを求める宗教です。親鸞聖人は仏説無量寿経下巻阿弥陀仏の本願の成就文の中にある聞其名号信心歓喜乃至一念」の「聞」というところからこのことを言われました「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり」と読み、これは無量寿仏(阿弥陀仏)の名を聞いて信じて喜び、わずか一回でも仏を念じてという意味です。仏願の生起本末というのはまず迷っている私たち衆生がいて、それゆえ阿弥陀仏がそれら者を救済する願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあることを聞くのです。本願成就文は、浄土真宗で、一切経の中で最も重要で大切なお言葉とされるものです。
 仏教にはいろいろな救済方法が説かれていますが、浄土真宗の救われる道は、阿弥陀仏の願いを聞いて信じることです。これが全てです。迷いから目覚めて新しい人生を歩み始めることが出来ます。ここに仏教における救いの全てがあります。
私たちは自惚れて、心の中の一部が迷っていてそれが何とか出来たら、幸せになれると考えますが、仏教的な見地から見ると全部が迷っているので、その総てを阿弥陀仏の本願を聞くことで転じ変わったとき本当の救いが訪れると説かれます。

 私は今、「真宗カウンセリング」の論文を書いていますが、一番の要はここにありました。他のカウンセリングが対症療法で個人の問題をピックアップし、それに焦点を当てて解決しようとするのに対して、真宗の教えをもとにしたカウンセリングでは全部がひっくり返って生まれ変わることを最終目的とします。これは大きな相違点ですが、自身の問題がそこにあるときづく人は稀であります。そこまでたどり着くにはほかのカウンセリングなども併用しながら、最終地点まで到達することが大切でしょう。
感謝していること
 この論文は昨年の秋からずっと取りかかっておりますが、何とか仕上げられる気がします。 
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気分が明るくなる言葉を多用する

2017/05/27 00:02
 長く生きられるようには私は感じられません。いつもこの人と逢うのはもしかしたらこれが最期かも知れないという気持ちで接しています。幼少の頃より恥ずかしがり屋で人見知りの私は思ったことが言葉に出来ず随分悩み苦しんできました。周りにハッキリ意思表示する人を見ると、言いたいことをそのままストレートに言えたらどんなにいいだろうかといつも考えていました。
 英語を学ぶようになり、あまり空気を読まず、謙遜もせず、ただあなたが大切だとストレートに言ってもてらいのないのが気に入っていました。英語で話すとき私は自由になれます。でも相変わらず内気なのは全部は払拭できずにはいますが、日本語を話すときよりはだいぶましかもしれません。

 博士課程を修了したら半分は外国で、もう半分は日本で大学の教師をします。大学院課の教員養成講座も昨年受けてみましたし、保育士と幼稚園・小学校教諭の勉強もし、資格も持っています。まあ小さい人たちと大学生は同じようなものだと思います。教師になったら学生には出来るだけ佳い言葉や励みになる言葉をたくさん浴びせかけてます。

 感謝していること
 真宗カウンセリングの話を思いがけず聞かせていただきました。論文で行き詰っていてヒントをいただけました。有り難かったです。
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ひととしての最大の役割とは

2017/05/26 04:46
 子どもたちや若い人たちを育てることです。
 彼らは未知の可能性を秘めています。
 それにきづかせて、サポートすることです。
 
 私はあとどれくらい生きられるかわからないので、あることを考えています。
 今までしてきたことを文章に残すことやワークショップなどで伝えること。そのために国内や海外のいろいろなところに行きます。

 私しかできないことをしていきます。
 いつか、私のしてきたことを若い人たちが引き継ぎ、さらに発展させ実践された時、私が今生この地球に生まれ、艱難辛苦を乗り越えてきたことが報われるのだと信じて。

感謝していること
 何時も見えない力に護られていることに対して感謝の気持ちで一杯です。だからいろいろあっても前に進める気がします。
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苦手な人に最低限していること

2017/05/25 21:57
 基本的に私は嫌いな人がいません。
 でも苦手な人、出来たら避けたい人は残念ですがいます。
 きっとそういう人は私に足りないところ、直した方がいいところを教えてくれています。私にとっては有難い人なんでしょう。
 一緒にいるのは余り気が進まないし、胃が痛くなるのですが、そういうひとと、どうしてもいないとならない時は肚をくくります。
 たぶん私が感じているように、そのひとたちも同様に私が苦手か嫌いでしょうが、それはお互いさまで仕方ありませんし、好きになってほしいとは言いません。ただ、大人ですので次のことだけは最低限していますし、苦手な人にも出来たらして欲しいです。

@ 挨拶
声に出して顔を見て(目までは見る自信がないときもあるので)しっかり挨拶します。
A 返事
何か聞かれたら返事をして、聞かれた内容には誠意をもって答えます。
B 周りの人への配慮
あの人が苦手なのだ周りに意識させないように、ほかの人と同様な態度で接します。
C 笑顔
相手にも周りにも私がその人が苦手だと悟られないようににこやかに対応します。
D 相手の機嫌を取るために悪く思われないような言動はしません。
お礼を求める気持ちが出るので、不満をもって、嫌々ながらせず、よろこんでさせていただきます。不満を押し殺して被害者の自分でいることは止めました。
E ポリシーに反する同調や謝罪もしません。
毅然とした態度で安易に同調せず、全く覚えや非がなければ謝らない、これだけはポリシーに反することは控えめに小さな声でもキッパリ嫌だと違うと伝えます。

どうして一部のひとは自分のプライドを守るために優しい言葉の代わりに否定・罵倒の語殺を繰り返すのでしょうか。「そうなんですね(あなたはそう思うんですね)」とそれが嘘かもしれないと思っても、他愛のない話の時は、受け流していたらケンカにはなりません。笑いかける代わりに睨んだりするのでしょうか。心が凍りそうになります。

モラハラ・DVを受けている人たちもそんな感じかもしれません。ただひととしてしたらいけないことを相手はしているのだというきづきとか、私のターンだとかいう発想がなくて、優しい振りをして死にたくなっちゃうか、ある時、溜まった怒りが満タンになり、爆発して縁を切るのでしょう。
モラハラの加害者は、余程、懲りて二度とひとに対して辛い思いをさせないと決意する機会がない限り改まらないでしょう。何度も人間に生まれ変わっては繰り返します。気の毒ですが、本人がきづくまで、放置して離れた場所から見護るしかありません。
感謝していること
周りの心優しい人たちのお蔭で、やっと、私はして欲しくないことを告げるなどして、自分を大切にできるようになりました。
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目的にひた走る超合理主義的生き方の功罪

2017/05/22 04:27

 なぜ急がないのだろうか?

 どうして寄り道・回り道をするのだろうか?

 なぜ感情的になり甘えて休むのか?

 せっかくここまで来たのに続きをしないで、なぜ戻る?

生き急ぐ私には未だによくわかりません。




 野球は投手が様々な投球法を駆使して、打者の所でボールを速くまたは様々に変化させて投げることで、何とか打たせないで投げ勝つことを研鑚します。打者はどんな変化球が来ようとバットに当て打ち抜き、出来るだけ遠くに飛ばして内野手に捕球されないで、外野フライにもならないヒットかホームランを目指します。

 直球ド真ん中ドストライクの重くて速い球が一番美しくて、理想の形であると信じて疑わない私は、自身の人生を生き急ぎ、時間を惜しみ、全力でその投げ方を追求してまいりました。




 真理との邂逅まではそれでよかったのかもしれません。脇目も振らず、少し回り道しているときづくと微調整しては、元に戻りどれくらい長距離のマラソンになるのか予測もしないで駆け抜けた半生でした。そのあと10年近く時が流れようとしていますが、未だ生き急ぐ癖はなかなか変わりません。

 

 今生で一息切れたら、また迷いの世界を輪廻しなければならないのに、なぜ急がないのかと焦る気持ちがあります。その時のご縁は見て取れるのに、どうにかその人にとってなにか特別なご縁が急にやってきてきづくんじゃないかと。ゆっくりするしかない、来世でもいいのだと割り切れたらいいのですが、そのようには私には感じられません。あまりにも真理との邂逅までの私からしたら迷った人生が苦しくて仕方がなかったからなのでしょう。色のない世界、砂をかむような味気なさ、光が見えず人々がぶつかり合って怪我をして文句を言い罵り合い、果ては殺し合う人間世界を見るにつけ、様々な想いを巡らせます。光が当たり、照らされたら別の生き方が出来るのにと、つい、仮定の状況を考えてしまいます。




 「人生は苦なり」を実感して、この状態から一日も早く、一秒でも速く抜け出そうという人は稀です。ほとんどの人が蜃気楼のような人生を煩悩の迷いの中で、損した・得した、好きだ・嫌いだ、プライドがどうこうとどうでもいいことに躍起になっています。それを見ながら、どうしたらこのひとたちが迷っていることがわかるのだろうかと考え込んでしまいます。




 そんな私を見るに見かねてか、直球ストレートの超速球ばかりを追求すしていても、消耗したり空回りして、肩を痛めることもあると、ほかの種類の投げ方を教えてくれる人たちがいました。負担がかからず、ゆっくりでも合理的で楽しくて楽な投げ方もあるのだと教えてくれました。

 彼らは、私に甘えて拗ねて怠ける様子を見せては、ほとんどの人たちは何もかも犠牲にして真理との邂逅を求めないのだと身を以て教えてくれました。それでも私は生来の癖が抜けきれず、最短距離ばかりを目指し、生き急ぎます。このまま休まず走り切り先を目指すのか、周りと同調しながらゆっくり行くのか、今、分岐点に来ているのかもしれません。

感謝していること

周りのいろいろな人や物が私の御恩報謝の人生に何らかの示唆を与えてくれている気がします。有難いです。


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スピリチュアル(一部真宗)カウンセラーとしての痛み

2017/05/21 20:41
 今、真宗カウンセリングの論文の草稿にかかろうとしています。昨年の秋に投稿しようとしたものでしたが、諸般の事情で延び延びになってしまっていました。今回はどうしても出したいと願っています。ただ、それは私の博士論文の提出の為の条件である3本の査読論文を早く揃える意図ではありません。
 投稿で載せた文章を一人でも多くのカウンセリングに関わっているひとに読んでもらいたいのです。というより、私のカウンセラーそして、ひととしての力不足のために中途半端になってしまったクライアントの方々への私が「あのとき」して差し上げたかったことメッセージとして書きたいのです。包容力のなさ、自惚れ、共感・受容できないもどかしさ等、今まで口では言い表せなかった忸怩たることを表現できたらと存じます。西光、ロジャーズ、ウィルバーなどの実践・理論を文章で書き、彼らがまた成し遂げていない領域に少しでも踏み込めたら幸いです。

 辛い状況が楽しいという目の前の人に「そうなんですね、楽しいんですね」と力なくしか応えられませんでした。「私はそういうのはあんまり楽しくないけど」と小声でつぶやくことしかできませんでした。自力が晴れて他力に生まれ変わった廻心の体験まで踏み込んで話せなかった私のこころには痛みがくすぶっています。
 そのひとたちが、本心から、心の底から楽しければ、何人かの仏教の友だちのように、いつも、ありのままそのまま、安心・満足のまま、静かに微笑みのうちに心を通わせることができるのにと悲しくなりました。せっかく心を開きかけてくれたのに、私が無理なカウンセリングもどきをしてしまったことがどうにもこうにも残念でした。こういう憶いがあるので怠惰な我が身に鞭打って頑張れるのかもしれません。
感謝していること
目の前にやってくる課題は結構ハードですが、やり遂げたらまた一歩、光に向かえる気がします。
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意地悪な人って余裕がないの?それとも頭が働かないだけ?

2017/05/20 20:38
 全てはつながっているのですが、生理的に気持ちが悪いもの、どうしても受け付けないものがあります。
 それは他人を見下す、もしくは羨ましがる顔です。元々の顔はどうでもいいというか気にならない質なのですが、ある人たちの表情に比較やジャッジが入った時の他人の顔が私には耐えられません。鏡を持っていって、本人に見せてやりたいところですが、そこまでして他人を更正させようという親切心もありません。親しい友だちならするかもしれませんが、そもそもそういう意地悪な類いの人とは友だちになる縁は避けてきているので、そんなことは無用です。

 つながっている他人(自分)に対して、したり顔(ドヤ顔)をすることは、結局は自分自身を貶めて、苦しめることにつながるのにと思うと、そんなことをする人たちに対して気持ちが悪くて拒否というよりも不憫で成りません。自分は性格が悪いと自己紹介しているのに気がつかないのでしょうね。とても疲れますし、感じ悪いし勘弁して欲しいです。特に論文などの締め切りに終われて余裕や時間がないときは見たくありません。いろいろ考えてしまうので。ただ起っていることを、そのまま起っているんだと認識している人たちと淡々と過ごせることが一番気分がいいです。どこにも引っかからずスムーズです。

 ただそれでは学びにならないので、時折恐怖が目の前にやってくるのかもしれません。この視覚的(加えて彼らの発することばによる聴覚的恐怖)は恐がりの私にとってはそのまま空気になって消えてなくなりたいほど心に刺さるのですが、仕方ありません。時間があるときはいいですが、そうでないときは避けられる忌まわしい光景や状況は見ないようにするのが精神衛生上好ましいととりあえず逃げて心を落ち着かせています。
どうも私は光り輝く美しいものや慈悲の思い遣りに満ちているものが好きで、闇の中からはあまり学ぶことが出来ない質なようです。
感謝していること
なんだかんだいっても、死に対する不安もほかも特になくなっているので、そのことには有り難く感謝していいます。
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本当に今生で願っていることとは

2017/05/18 23:36
 食べることによろこびを感じることも少なくなりました。
 大好きな誰かと食べると嬉しいですが、美味しいものが少しあればいいし、なくてもいいです。
 着るものも、高いものを買わなくなりました。バブルの頃のような服は着なくなりました。シックで上品な色じゃなくて、ピンクと白とかパステルカラーなど明るい服を着ていますが、それも特にこだわりがありません。
 表と裏に庭があって、薔薇や果実の木がある家に住みたかったですが、しばらくは今の家でいいですし。

 あんまり、何かを強く願うこともなくなりました。

 それでも、一人でも多くのひとたちと一緒に、お浄土に参りたいし、今生でご縁があったひとたちとは、そこで再会したいです。これが唯一の私の明確な願いです。
感謝していること
 庭の薔薇がとてもきれいにたくさん咲いてくれています。
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手放すと見えてくるもの

2017/05/15 19:39
 一生懸命追いかけてその真意を見定めようとしているときは気づかなかったことが、手放して一歩引いて客観的に見るようになると「そうだったんだ」とわかることがあります。
 気に入っていて自分が追いかけていたようだったけど、実はそう仕向けられていたことだったのかと感じたこともあります。何事にも受身な私は押しが強いひととか状況に引き寄せられ、ついふらふらっとついて行ってしまう傾向にあります。それではだめだと自重してきたのですが、習慣というかなかなか改まらないものだと呆れてもいます。優柔不断とかスパッと割り切れない所を改善することはこれからの私の課題でしょう。

 仏教の先生に教えていただいたように、日に何度も四弘誓願を称えて、軌道修正して行ったら、日本でもロンドンでもほかの所でもキリット方向が定まった生き方が出来るのかもしれません。精進してまいります。
感謝していること
 探していた本が見つかりました。今日は主担当の先生の講義だけ出て、後は論文の草稿完成の時間に当てる予定です。今日も空気が澄んでいて明るい部屋にいられて気分がいいです。
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さとりと救いについての研究

2017/05/14 12:56
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』

サリー・ボンジャース (著, 編集), 古閑 博丈 (翻訳)2014年

 この本は私の研究に関連する最先端のことが書いてある本の一つではないかと仏教の友だちに紹介してもらいました。

 
最先端の学問を研究し、文章化している自負が私にはあります。 自身が所属している大学院の研究科がそんな名前なので博士課程で出戻り転入したのですが・・・・・・

 以前から師事している仏教の先生は驚くほどストイックなのですが、教え子たちは先生から慈愛に溢れた指導を賜ることが出来ます。先生はタバコはむせるから吸わないし、酒も一滴も飲まない、家は出張した時しか空けない。宗教家としては当たり前のことですが、これを実践している指導者とは滅多に会えません。


 今の博士課程の大学院の先生たちは関東のT大出身の方が多いのですが、頭の構造が違う気がします。特に5歳以上、年上の先生たちは一見普通なのにその凄さを一年経った今分かってきました。先生たちは講義で自身の学問分野の最先端の内容で真剣勝負してくれています。それはそれで論文の内容を深めることができ、毎回私も予習をして臨んでいます。

 さとりとすくいについては、どうせ高度な内容はわからないから、学生との講義は2割の、博士論文は5割ほどの力で取り組むように仏教の先生から指導を受けていました。それも遅ればせながら1年経って、やっと懲りて取捨選択して気分がいい方向で論文に取り組めるようになりました。

 さとりと救いの話は、縁のある人以外には話したくありません。面倒だし疲れます。私は円満な人格の人としか一緒にいたくありません。ひとを羨んだり、屈折してあまのじゃくだったり、下世話な欲得にまみれたひとたちの話を聞くのが苦手です。波動が下がる気がします。目の前の人が話してほしい、さとりを開きたいと言われた時は割り切って、聞くのですが、別に楽しくてしている訳で趣味でもなく、本心はただ辛いです。普段は普通のことを普通に出来る人以外とは距離を取り、関わらないようにし、風がちょっと吹く度振動する心の安定を保っています。ここで言う普通のひとというのはジャッジすることなくただ出合ったことに感謝し、そのひとたちの幸せを願える人たちです。そんな人たちは滅多にいないことも知っていますが、仕方ありません。

 それでも、一部の先生たちを除いては何だかなぁと感じる大学院に身を置いているのは、外の自分のフィールドで、論文や学会発表の形として残しておけば縁がある人が見ることが出来るからです。博士論文を提出するには3本査読論文を通さないとならないので、お作法にのっとってとりあえずは書くことにしました。

 最先端の内容はさとりと救いですが、学問じゃない、科学じゃない、アカデミックじゃないなどと、分からん輩にいろいろ言われるのは気分が悪いので、付き合う人たちも厳選して、国内では高度な内容が分かる集まりの論文投稿や学会発表で表現していうと決意しました。そして来年はもう少し、スピリチュアルな点で進んでいるロンドン大学SOASで、最先端の学問が同じ土俵で語れる人たちと学んできます。先生だけではなく学生たちとも実りの多いディスカッションが出来ることを期待します。

感謝していること
  昨日の仏教の勉強会では先生は皆さまと有意義な時間を過ごせたことに感謝します。


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人生は苦なりを通った後の、境界のないところ

2017/05/13 09:02
 肉体を持つ三次元の人間は自分と他人を区別して、いろいろなものを分けることで知恵が発達してきました。それでいい気になっているところがありますが、結局、二元論は境界という壁を作って、人と人や人と物を隔ててしまい、かえって苦しむ結果となってきました。多くのひとは、そのことにきづかずにいます。そしてより進んだ科学的発展に頼り、分かるはずのない人間の心を分析し、様々な心理学理論や療法を考えては挫折します。
 思うに、便利なものがあってもそれを使いこなす知恵を持っていないと持て余すのでしょう。核物質の取り扱いも諸刃の件です。平和利用にも使えますし、人類虐殺の恐ろしい武器にもなります。使う人の匙加減一つで有用にもなり、殺人に手を貸すことにもなります。
 三次元の身体を持つ人間には様々な快楽がありますが、肉体という器を持つが故の限界や苦しみを通り、それを乗り越えたところにしか本当の安寧や満足がないということにあるとき気が付きますが、その境界をどうこえるかについて知っている人はほとんどありません。宗教の深い教えではそれを解いていますが、一般の表層の心しか捉えられない人たち(これがほとんどですが)には難解でそれらをほとんど理解できません。学問的素養ではなく心のセンサーが精密であり、感度がよくないとキャッチできないと言い換えた方がいいかもしれません。その間を埋め、なんとか分かりやすい表現や例えなどを使って人々の苦しみを取り除き、自分を超えて境界がなくなった世界を顕すことは困難ですが、それが出来たらどんなにいいかと感じます。
 今、論文作成の為にこんな本を読んでいます。
『無境界―自己成長のセラピー論』 - ケン・ウィルバー平河出版社 (1986)
『トランスパーソナル心理療法入門』 - 諸富 祥彦 日本評論社 (2001)
『生きていくことの意味―トランスパーソナル心理学・9つのヒント (PHP新書)』 - 諸富 祥彦 PHP研究所 (2000)
感謝していること
 今日は月一度の仏教の勉強会があります。先生や参加者の方々にお目にかかれるのを楽しみにしております。

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海外の友だちと海外でいるときに本当の私に戻れる

2017/05/10 05:30
 物心ついた時から息を吸うのも苦しかった記憶が甦りました。
 本当の自分じゃない私の仮面をつけて生きなければならない苦痛を感じていました。
 そうしなければ他人が私を受け入れてくれないこと小さい私は感じ取っていました。

 特に本音と建前を使い分ける大人たちや小さいのに空気を読むことを強要する小学生たちの中で、肉食動物のライオンと行動を共にしなければならない草食の鳴くことすらできない小さなウサギのような立場にあることをずっと感じていました。

 そんな中、働いて自分の収入を得てから、私は海外旅行に出かけることを覚えました。絵画が好きで美術館を回りながらその土地の雰囲気を味わいました。一人旅、ツアー全部含めて30回以上出かけています。何より拙いですが英語という共通語のツールをもって現地の人たちと会話するのが好きでした。子どもが生まれると、彼女の将来の留学先を肌で味わってもらおうと、1歳半から高校1年の現在に至るまで、今年3月の中学卒業旅行の英国・ギリシャの旅も含めて10回以上連れて行きました。

 海外の中で私は英国が好きです。十数回出かけています。あの人たちの真摯でシャイなところが好きです。徐々に打ち解ける感覚が好きです。常に連続して親密さがどんどん上書きされる感じです。努力が報われる気がします。
 
 日本人の場合は、仲良くなれても、その後、男女共にいわゆる好き避けといわれるような逆戻り現象があり、それは耐えられない苦痛を感じ心が凍ります。信頼関係を作っても、毎回、新しい名前を付けて保存されるファイルで対応され、それがどんどん増えるような感じで、「ほんとに勘弁してよね、いつも感じ悪いし、私、時間ないんだし前のファイルから始めてよ!」と感じて疲れ果ててしまいます。プライドが高いのでしょうか、そんなものドブに捨てちゃえといつも心の中でつぶやく私がいます。

 たぶん、こんなことを繰り返していると私は壊れる気がしました。だから、将来は半分は海外で仕事をして過ごし、春や秋の気候がいいときに日本でいられたらと思います。「あなたじゃなくちゃできない仕事だし、来てください」と呼んでもらえるように今は実力を蓄えています。

 お願いです。日本人も外国の方も私に対しては本音と建前を使い分けず、空気を読まないでください。出来たら半分眼を閉じて私があなたたちがとても好きだという感じを心の奥のセンサーで感じ取ってください。
感謝していること
 仏教のご縁で知り合ったひとたちには最後のお願いのようなことを言ったことが全くありませんが、日本人でも海外の人でも、彼らとはお互いに初めから何も気を遣わないでいられます。本当に仏さまが合せてくださったとしか思えません。
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既存の考えを超える世界があるならそれを受け入れてみよう

2017/05/06 18:08
 こんな風に感じ始めたら、これまでの辛さを脱する準備ができたのかもしれません。
 いくら考えを深めても、それは自分の中の知識が増えたり、深まったりするだけです。自分の中の迷いをかき混ぜるだけで、自分を超えるものではありませんし、自分の握っているものを手放したことになっていません。

  真理との邂逅は、自我などのもろもろの自分が持っている自力を手放さないと受け取れませんが、それを手放すのは迷いの命が死ぬことですから大変な勇気が要ります。それでも、もう自分の力が金輪際間に合わないと感じられた時、手放すことができます。そのきっかけはいろいろです。仏の教えを聞くこと、座禅・瞑想することなどで自分の心を見ていくことなどが今知られている方法ですが、ほかにもあるかもしれません。

  縁のある人たちは、それらを見つけて、真理との邂逅を果たします。その上、先人が残した宗教等の物語の側面も学び、三昧の世界で静かな安寧の中でなおかつアクティブな御恩報謝の生き方が出来ます。
  迷いの中でトラウマを抱えたひとたちが同じような境遇の人とだけ一緒にいると、その中の誰かが、自分より恵まれた状況になったとき置いて行かれたようになり上手くいきません。煩悩で作る罪や罰とはかけ離れた、全く異なった真理の世界で楽しく生きているひとの幸せそうな様子を感じながら、自分もそうなりたいと願い、生きていくのが苦しみから脱け出せ、それに近づくコツです。そうはいっても、慣れ親しんだ罪や罰から脱け出すことは難しいようです。真理の世界に多くのひとが救われるようになれば、変化がみられるのかもしれません。そうなれるように救いの世界を言語化していますが・・・・・・
  
 感謝していること
  何も要らないということを説明しても分かってもらえません。ただ、空気みたいにいられるだけでいいのに。見かけたら挨拶くらいしてもらえれば、それ以上は、何かして欲しいとも思いません。研究についてはお互いに何か発見があればいいとは考えますが、それも別にどうでもいいです。真理との邂逅を願っている人がそれを果たしてもらえたらそれだけでいいです。
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今日の今の一番最高な自分を提示する

2017/05/06 18:03
明日は来ないかもしれません。
 いろいろ積み上げてきて、自分の人生の中で今日が一番完成度が上がっています。それを活かさないと勿体ないです。いつかもっと今より何かできる自分になったら、それを見せてよろこんでもらおうと思ったとき、そのひとはもうこの世にいないかもしれません。

 今の姿を、今のままの能力の限りを使って、誰かの何かの役に立つことを積み重ねていきましょう。何もできないなら赤ん坊のようにただ笑っているだけで、それで周りを和ませることが出来ます。誰かの屈託のない笑顔を見るだけで生きる希望が持てます。何か役に立つ知識なんかよりも、誰かが目の前で自分にあたたかい微笑みを送ってくれる方がずっとましなときもあります。ただ、心をあたためてくれるだけで、むしろその方がいいってこときづいているひとは少ないかもしれません。

 本でも知識は得られますが、知識を持つ、そのひとが生きているなら、逢いに行き、講義や講演やワークショップに足を運ぶのは、ひととしてのあたたかさを感じるためです。その知識を生み出した根源を受け取るためです。人としての真摯さは文章にも溢れますが、それを実際同じ空間にいて感じることは格別嬉しいことです。かりにそのとき、何も言葉で教えてもらわなくても、心で何かを受け取れることもあります。ただ、黙って話を聞いてくれるだけのときもあります。そのひとの今の全部を受け取りに自分もその人にあげられるものを提示しに足を運びます。未来じゃなくてリアルタイムのその人や自分の今を確かめに。

 SNSなどの毎日更新される文章も、その日のその時の一番新しくてその人にとって最高のメッセージを受け取るために読みます。先生や友だちと会う時は、自分も今の一番の笑顔や思い遣りや、いつもあげられないかもしれないけど、何か新しくわかったことなどを提示し、同時に受け取っても来ます。

 明日はないかもしれません。いつか誇れる立派な自分になったらその時にと思うより、今の精一杯の自分を差し出すことの連続が誰かと生きることなのだという気持ちで恥ずかしい未熟な自分を晒しています。
感謝していること
 何一つ洗練されていないし、役に立っているかどうかも分かりませんが、それでも一緒に笑って過ごしてくれる周りの人たちに感謝します。
 
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光を受けて心満たされている同士の関係は見返りを求めず風通しがいい

2017/05/05 10:59
 風薫る五月となりました。
 光と風をこよなく愛する私にふとしたきづきがありました。
 
 真理の中にいることに目覚めた者同士の関係です。
 同じ光を十分享受していて、心が満たされているので、他から何か足す必要がありません。何の見返りもいらず、それぞれが一人で立っていて、何も欠けていない円満な状態なので、風通しのよい爽やかな関係でいられます。ありのままの自分でいられるのは、こういうときで、こういう感覚だったんだときづきました。

 仏教の先生や友だちいるとこ、私は私らしくしていられます。何かして欲しいこともありませんし、一緒にいるだけで、それだけでいいのですから。
 こんなふうにいられる仲間が私の周りだけじゃなくて、世界中に広がっていったらいいのにと思って、私はロンドンに留学する決意をしました。

 不幸な生い立ち・病気・思うような仕事に就けずに収入が低い・恥ずかしがり屋で本音が言えない等いろいろ悩むことも多いかもしれませんが、いつになっても完全な自分になどなれっこありません。
 
 不幸なことも病気も思うに任せない状況もそのまま、ありのままで受けとめてもらえたと信じて疑わない状態になるには真理との邂逅しかあり得ません。

 生きている生身のひとに頼ったら、そのひとが死んだり倒れた時に共倒れになります。
 この世は三次元の相対的な世界ですから、いつまで経ってもこれで完璧ということはありません、どこかで限を付けるしかありません。その限はいま、ここなのですが・・・・・・

感謝していること
 もう一つの私の好きなものである薔薇たちが一斉に美しく咲き誇ってくれています。 
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もしかしたらやっとスタート地点に立てたのかも

2017/05/03 20:44
 自力を捨てて他力に入りたいと言われるひとに対して、まず、好かれようとすることなく、嫌われても別にかまわない、ただそのひとのありのままを受け止めようとライフヒストリーを聞きます。その人が話しやすいところから聞きます。長くなろうと相手が気が済むまでは吐き切らないと自力を手放すところまで至りません。
 
 こちらがもう無理というような悲惨な話も数えきれないくらい何度も聞きました。でも顔色一つ変えずに延々と聞き続けます。語り尽くしてもらうことが目的なので、もう思い残すことがないというところまで全部聞きます。

 なかなか話が聞けない時は、仕方ないので、私がより詳しい状態や人生の転機になったことなど質問します。極たまにわざと正反対な強がりを言うひとに対しては、私には手に負えませんので別の人のところに行ってくださいといいますが、ある程度覚悟して来られているので、あまりそういう人には出合いませんでした。ただ、二度とそのひとに会わないかもしれないというスタンスで話しているから正直に気持ちを話してくれているのかもしれません。
 家族や友だちは本当にめんどうで手がかかります。縁が熟すまで天邪鬼な態度と向き合わないとなりません。何かしら話そうとしてくれた時、それはやっとスタートラインに立ったのかもしれないとふと思いました。その後は、本人が必要なら話を継続してくるだろうし、そうでなければそれきりそれ以上の自己開示はないかもしれません。

 今、締め切りがあるものに取り掛かっているので、本来の私の使命の対応がなかなか果たせませんが、縁があればいろいろ進展するのかもしれません。何だか嫌われていると感じて悲しかったことも、そうではなかったのかもしれません。私でも本当に嫌いなら、話しかけるどころか一緒に一秒でもいたくないでしょうし。

感謝していること
 何百人もの世界中の人たちのライフヒストリーを聞くことも私の使命なのでしょうか?それはそれで役に立つなら有難いと感じます。
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誰の庇護も要らないかのように自分の足で立てるまでには

2017/04/27 05:55
 無条件で慈しんでくれる親、特に母親を疑いなく信じて甘えられたなら、そこを基地として、徐々に遠くに離れていけるものなのかもしれない。幼児教育の教科書にはそう書いてある。ただ、そういう親がいたことは本当に幸運なことかどうかはわからない。そんな親がいないからこそ、人間ではない真理のようなものを探す機縁になることもある。

むしろ、親は初めから親ではなく、子どもを通じて、だんだんに親にならせてもらうのではないか。昔は子どもが多かったから、上の子どもと末の子では20年近く離れている場合もあり、その間何人もの子どもたちを育てる間に、人生経験をも積みやっと親らしくなる。今のような少子化の時代では、孫を持つ年代に初めて、親と呼べるような状態になるのだろうが、孫には責任がなく、結局は、親らしくもなれず、孫に対してもどう接したらいいのか分からないで人生を終えるひとたちもいる。

このように、親らしい親と呼べるひとがいないので、子どもの延長のような親に育てられても、心の拠り所はどこにもなく、混乱し、誰に対しても心を開けないまま成長し、周りの人たちの表面の心の揺れだけを敏感に察する習慣がついてしまい、それに翻弄される人生というのは休む暇も、息をつく時もない。心が落ち着くことがなく戦々恐々としていなければならない。

そんな中、誰かに頼ろうとする場合、その相手の候補者は、友だちでも特に親しいひとか、恋人か、パートナーである。ただ、個人として自分の足で立っている人でなければ、むやみに相手に頼り縋り、結局はお互いに傷つけ合うことになり、疎遠になり破局を迎える結果に至る。関係を保とうとするなら、騙し騙し、様子を見ながら、機嫌を取りながら遠慮して距離を取りながら、向き合うしかない。これでは、そこには完全にまかせられない不満が残り、ずっとモヤモヤしながら一生を送ることになる。それか、お互いのエゴをむき出しにして実際、戦い合い、傷つけ合い、疲れ果てては、一時休戦して、また同じことを繰り返す修羅界のような状態がそこにある。

どんなにもたれても、頼っても、縋っても、全部わかっていると受け入れてくれる大きな器の持ち主は、まず人ではありえない。それは真理のような何かであり、目に見えないものであるが、それとの邂逅を果たしたならば、もうほかにはなにもいらなくなり、そういうひと同士で、性質が似ているのならあまり問題もなく、静かに暮らしていける。

しかし、いまだ心が安定もせず、満足できない人たちの為にはなれないので、明らかに苦しいとわかっていても、力になれないかもしれないと予感しながらも、悲しい叫びをあげて呼んでいる人たちの元に引き寄せられ、向かってしまう。自分が救済するご縁となることは、まだそれが無理なのかもしれないと感じつつ、近くに行って引き返し、少し関わり、また離れてを繰り返して、一度に全部ではなく、徐々に力になっていくものなのかもしれないと最近は何となくわかってきた。

完璧主義ではないのだが、時間がないと焦るあまり、一度にとか、たくさん分かって欲しいとか欲張るので私は苦しいのかもしれない。仏教の師匠に「ゆっくりやりなさい、急ぐことはありません」と言われるのはこの所以かもしれない。

自分の足ですぐに立てる赤ん坊はいない。たいてい、一年かけてゆっくり立てるようになる。それと同様に温かく見護ってくれる真理や自身も立っている誰かや、これから立とうとしている同士と一緒に時間を共にして初めて立てるようになる。
感謝していること
ずっと昔から見護ってくださる御仏との邂逅が出来たことに私は感謝します。
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やっぱりめんどうだけど・・・・・・

2017/04/27 05:50
 今日はヨガの話を聞きました。
 ヨガは最終的に、心の池のざわめきがない状態を目指しているようです。
 これは三昧の世界に通じるように感じます。
 心が波立たないので、ありのままの状態が見えます。
 
幼少の頃虐待を受けた人たちは大人になったとき、優しさやよろこびのちょっとした顔動きのシグナルが見抜きにくい上に、怒りの表情のサインは敏感に感じてしまうようです。これって、とっても生きにくいですよね。人生損しているみたいに私には感じられます。他人のウエルカムなちょっとした笑顔には何か裏があるのではないかと懐疑心を持ち、反対に不快な感情には敏感に反応して、怒らせないように気を遣って生きないとなりません。

この場所は大丈夫、このひとは大丈夫と受け止めてくれるだろうと思われる状況に、徐々に慣れてきても、心の傷が大きければ大きいほど、安心できないでいるとか、どれくらい反発したら嫌いになるか試すのを止められないことを繰り返すひとを、私はとても不憫でなりませんが、本人はそのことに気づいていないことも多いのかもしれません。自分は友だちもたくさんいるし、楽しい人生を送っていると思い込みたいし、そうしなければ自分が崩壊してしまうという取り越し苦労をしているのかもしれません。

 助けられる双方のタイミングというのもあるようです。つまり心の準備とか覚悟とか言うものなのかもしれません。時節到来を待たないと物事は順調には進まないのでしょう。
 御仏が光明で照らしていても、心の器が蓋をしていたり、ひっくり返っていたら光は差し込みにくいでしょう。

 ひとの心に寄り添うというのは、それなりの覚悟や自身の心の強さなど要求されるものがとても多いのだと改めて知らされます。自分自身の心が折れないためには、共倒れにならないためには時期が来るまで、縁が熟すまで待っているしかないのでしょうか。
 
 心の波が静かで、いろいろなことが見えすぎることも、ありのままに見えてしまうがゆえに、本当に辛くなりますが、そんな時は心の蓋のオンオフを使い分け、辛くなるならその場所から離れるしかないのかもしれません。
感謝していること
 いろいろな人が使命を果たすために手伝ってくれている気がします。
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怖いものを見てしまいました。(意地悪オーラ)

2017/04/26 01:23
 ある人から言われました。
 「人は急に変われないから。意地悪な人が急に、それも心の底から優しく変わることなんて不可能だから!。」
 それはそうだなぁくらいに軽く考えていましたが、ある一連の事象を経て、いくらお人好しの私でも自覚できました。
 
何だかなぁと思っていた人と、この人、自己中、絶対超意地悪だと感じてた男性たちが、タブル意地悪オーラを周囲にまき散らしながら、にこやかな雑談交えてを並んで歩いているところに数日前にたまたま出くわしてしまいました。恐がりの私は、すぐに身体が反応してしまい、数秒後には全身に鳥肌が立ちました。話が聞こえてしまうともっと怖いと思って、距離を取っていましたが、多分、意地悪な内容の話で盛り上がっているような感じでした。本人たちは普段通り、普通なのですが、その意地悪を楽しんでいる雰囲気がナイーブな私の心に突き刺さり、空気となって消えてしまいたいと本気で感じました。意地悪な人は押しが強い人が多く、気弱で優柔不断の私には本当にきついです。
あのときのことは思い出すだけでも、フラッシュバックでめまいがして、私は意地悪な人、塩対応な人、心が寒さで凍りそうな態度の人とは二度と関わっちゃいけないし、避けないと精神が壊れると痛感した瞬間でした。
 やせ我慢というか、こちらの対応次第で相手がよく変わると甘くみていたこともありましたが、無理でした。私はひねくれた人や天邪鬼な人や意地悪な人はパスしないと心が凍り付いて固まってしまい、身動き取れなくなってしまうことを思い知りました。優しい人たちに囲まれて生きていこうと気持ちを新たにしました。
感謝していること
やっと目が覚めた気がします。意地悪な人に無理に好かれようとしなくていいんだって強く自覚できました。学校の桜の木が葉桜に変わり、藤棚は薄紫の花をつけていました。(笑)。庭の赤いバラも咲き始めました。本当に緑が美しい季節になりました。
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その人の中の真摯さだけ見てるんだけど、私はいつだって・・・・・・

2017/04/26 01:15
 年齢や年収や社会的立場がどうだって、どんな仕事をしてても、そんなの関係ない。
 どんなときにもね、私、その人の中の光ってるところ、真摯さ英語で言うとインテグリティだけ見てる。それ以外は別にどうでもいい。
 
私にとって損か得かとか考えたことはない。
 ただ、見習いたい、尊敬できるところを見てる。
 
心の中が透けて見えたらいいのに。
 それなら嘘ついたり思ってもいないこと言わなくていいのに。
 傷つけ合わなくて済むのに。

 これが三次元の制限であり修行であり醍醐味なんだ、楽しみなんだっていう人はね
 そういう人たちで集まって勝手にやってて頂戴!
 私は無理、ナイーブ過ぎて倒れちゃうから。

 出来るだけ綺麗なもの、嘘がないものを見ていたい。
 小さい人たちのお手本になるようなものを感じてたい。
 だからね、私自身がいつも透明で光を放っているよ!
 感謝していること
 私は私でいいんだっていろいろなひとやものが教えてくれることが有難いです。

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ロンドンでしたいこと

2017/04/23 21:26
 ロンドンが好きです。イギリスが好きです。ヨーロッパも好きです。
 古くて新しいものがとっても好き!
 欧州は15回くらい行ってるけど、まだ行きたい!
 映画もいい!街並みが好き!空がいい!

真冬のサンクトペテルブルグ・モスクワと春先のイギリス・ギリシャの旅で分かったの。
 日本にいると私は私じゃないみたいって
 ヨーロッパにいるとき、特にロンドンにいるとき私は自由な翼を持てる
 たぶん、研究もロンドンでしたほうが楽しく身の丈に合う!
 ロンドンを起点に欧州中を飛び回るの。
 今はね、羽をもぎ取られてた鳥みたいなの。

 古くて古い日本で地味で暗くて狭い研究は似合わない。
 きづいたの、私、私を自由にしてくれる人は同じくらい自由で強い心を持った人。
 変な意地張らないで、プライドも捨てて、ただ目の前の私にありのままで優しく向き合ってくれる人だと。日本にいるとどんどん心が追い詰められていく。

 流暢にはしゃべれないけど、語彙も洗練されてないけど、英語でしゃべってるときの自分が好き。時にウインクしながら、ジョークを交えて、にこやかに聞いてくれる世界の友だちが好き。たぶん、そのとき、そこには、垣根がないんだ。たまにしか逢えない、あるいはもう二度と逢えないから、嘘も隠し事も要らない。いま・ここを楽しもうと、真摯でいようとその時間を愛おしんで過ごす。メールとかチャットじゃなくて、お互いに自分の一番素敵な笑顔というプレゼントを贈り合って、お互いが掛替えのない人なんだって確認し合う。一期一会。

 友達は大事。目の前にいるその人が一番大事。誰よりも大事。これをいつも思い出させてくれるのは、私の欧州の、そして中国やアジアのほんの少しだけどアフリカや南アメリカの友だちたち。

 日本の友だちは私みたいに外国が好きな人と、私より精神年齢がおとなな人。そういう人たちは外国のお友だちと同じように私に接してくれるし、私の欲しいものをくれるし、私も自分の持てるものを全部あげる。それは笑顔であり、時には今まで得てきた知恵であり、臨機応変でその時の優しさを自由自在に表現できる子どもっぽさ、言い換えれば人懐っこさとでもいうものでしょうか。
 ロンドンでは、たくさんの笑顔に逢いたい、そして私もたくさんの笑顔を残してくる。
感謝していること
 お互いの笑顔を護れる人でいることが人生の最大のよろこびだと私にきづかせてくれたおともだちに有難く感謝します。
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私のターン

2017/04/23 21:18
 やっぱり言わなくちゃいけないことは、キッパリ告げないと・・・・・・
 止めて欲しいこと、改善して欲しいこと、心が凍るから絶対して欲しくないこと・・・・・・
 どうせ言っても分からないとずっと不満を抱えたまま縁を切るのは卑怯だと感じました。
 とっても不親切ですよね。もう、嫌われようとどうしようともう関係ないと思っていても、言うべきことはしっかり分かるように表現して去らないと・・・・・・
 過ぎてしまって、辛かったこと、悲しかったことはともかく、今後、どこかで何かの縁がないとも限らないので、ひととして最低限はして欲しいことは何らかの方法で表現します。今は、私のターンだと意識して、キリッとやり遂げます。
 感謝していること
 私はいろいろ大切な人がいますが、一人でいても大丈夫だし、私自身を大切にも出来るようになったので、こういう気持ちになれたのだと感謝します。

「めったに怒ることはないんですが・・・・・(読みたくない人はスルーしてください)」
 タイマン張れよな!
 言いたいことはと誰かを通してじゃなくて、本人に言えよ!
 MLとかで流して個人攻撃する奴って最低!
 自分は性格悪いです、卑怯者ですって、自己紹介とか告白してるのと同じってことわかんないんだよね。こういう奴らって。
 
それとね、病気を隠れ蓑にすんなよ!
 だから病気になるんだよ!
 元気な人には理由があるの。
 言い訳に使う病気が必要ないの。
 単純明快でしょ。
 つまり、病気の人は病気の状態がなんだかんだ言って必要で、真剣に直そうなんて思ってないの。大丈夫とか気の毒がられることのメリットの方が大きいの。
 身体に実際痛い目して、卑屈でつまんない生き方するなよな!
 人生一度なんだしね。今生は。
 愚痴はね自分より弱い人間に言っちゃいけないの
 その人が潰れちゃうから
 相手を選べよな。
 バッカじゃない、結局ね、自分さえよければいいんだよ、自分が誰かに何かしてやろうなんて気持ちが全くない、そんな奴は私は大嫌いだ
 私のターンでもね、私が言うことっていうのは、私自身もやだけど、今後ほかの人にして欲しくないことなんだ。言う相手も選んでんの。いったらわかるひとをね。私はやだって教えたよ。とりあえず言ったからねって。
でもいくら親切な私でもね、タイマン張れない、病気を隠れ蓑にする奴になんかは直接は言ってやんないよ。
 あとね、誰かを批判したらね、それを改善する対案を必ず出すこと。出せないんなら偉そうにいったらだめ。結果的に人格を否定したり、相手を追い込むことになるから。これも分かんない奴多いよね。本人は一人前のつもりだろうけど、未熟だよね。私の先生はさすがに偉いと感心した。上から目線じゃないけどね。改善点だけ一言あり、これが書けたらOKとだけメールしてくれた。
 なんかさ、自分が生み出してる外界とはいえ、しょーもなって呆れてる。
 以上、今、怒っていることでした。
 感謝していること
 つまんない奴とは金輪際付き合わない、縁を切ろうと決意できました。今、とても爽快な気分です。 
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ナンパ・お持ち帰り?

2017/04/22 17:03
 知らない人について行ってはいけません
 小さい頃、周りの大人たちから言われました。
 大人になったら、街で知らない人が声をかけています。
 
 何だ?ゲーム?
 ついて行く人いるのかな?
 
 たいていの人は、ガン無視です。
 でも、中にはついて行く人がいます。

 怖がりな私は知っている人にもなかなか心が開けないでいます。
 なのに凄い人たちっているんだ。

 誰とも知らない人と一夜限りの逢瀬を楽しむなんて
 絶対想像もできないことができる人もいる。
 ひとじゃなくて物になってるみたい
 声かける人も、ついて行く人も

 楽しいのかな?
 私にはよくわからない。
 う〜ん。
 感謝していること
  怖がりで羽目を外すことが出来ませんが、それはそれで使命を果たすために刷り込まれた性格なのかもしれません。
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自分を一番大切にできるのは・・・・・・

2017/04/22 17:00
 他でもない自分自身です。
 それが本当にわかるのは、真理との邂逅を経て、自分が本当に大事にされていること、大慈愛の中にいることにきづいた時です。
 絶対に信じられる大きな安心、満足の支えを持つ自分の足で立つひと同士でなければ、お互いもしくは片方がもたれかかって、共倒れになります。
 それは怖いことであり、避けねばなりません。
 
 本当に心から信頼できる心境になったら、意地を張る必要もなく、裏も表もいいところも恥ずかしいところも見せられます。何もかも認めて許されることを知っているから。

 ずっと昔から、私は何かに護られている安心感があり、それが何かは分かりませんでしたが、辛くても生きてこられたのだと感じます。その何かである真理との邂逅後は、自分を大切に自分軸で生きていますが、時々そのことを忘れてしまうと苦しくなります。
 安心・満足して生きるということはきわもない空間を自由自在に自動運転もしくは自動飛行で楽しんでいる状態でしょう。
 感謝していること
  申請書を書いていたら、やっと自分の使命を果たすには何をしたらいいのかが見えてきました。
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直感を信じて!ダークサイドには足を踏み入れず、築かなくていい橋は架けない

2017/04/10 23:24
 ちょっとでもやだって感じたら、そこは居場所じゃない。快く受け入れてくれる場所にいるのがいい。我慢することなんかないんだ。直感は信じていいんだ。
 初め親切だった人が豹変したとき、何だか信じられなくて、いつかはまたあの優しいあの人に戻るんじゃないかって、本当はいい人なのに、私が何か言ったこと、したことが気にいんなかったから、私が原因であの人は意地悪な人に変わっちゃったのかもしれないなどとモラハラ・DVの被害者は感じます。いい人はずっといい人で、一貫性があります。親しくなったらもっといい人でいられるように努力します。
たぶん、急に意地悪になったのなら、そのターニングポイントは罠にはまった獲物が身動きできないか、魚を釣り上げて釣り針から外したと確認できた時です。獲物や魚は食べるか、毛皮を取るかなどもう自分のものなので、餌もやらなくていいし、大事にしなくても構わないのです。同じように自分の連れ合いやパートナーを「嫁」と称し、家事や子育てを押し付け、大人しく優しいのをいいことにいたぶる嗜癖がモラハラ・DVの加害者です。彼らは良心の呵責など感じません。生かさず殺さず、何かサプライズの贈り物をするとかよろこばせようなどとは一切考えることなどありません。 

 そんな相手、嫌いな人・嫌な気持ちになる人には近寄らないというキッパリとした信念を持ち、嫌なことはキッパリ嫌といい、決して未来に期待せず、今起きているままを冷静に受け止め、ダークサイドには足を踏み入れないこと。関係性を持つことを望まない人とは、敢えて、関わらない強い意志を貫くことに慣れていったら、生活が変わります。

 今まで退屈だと思っていた人たちが、実はいかに優しく真摯な生き方を見せてくれているか身に染みて分かります。他人に関心を持ち、いろいろ聞いてくれる人たち、一緒に楽しもうとしてくれる人たち、くだらないことで爆笑できる人たちは人生における宝です。刺激やスリルは要らないので、淡々と自分の使命を果たすことを応援してくれる人たちと一緒に生きていこうと決意しました。

感謝していること
 今日は午後から4コマ続いて講義がありました。どうなることかと心配していました。特に最終の時間のゼミはこじれた人と一緒にいるのはもうこりごりなので警戒していたら、入った途端、空気が柔らかくウエルカムな雰囲気でした。たまにはこんなこともあるのだと、ご褒美をもらったようで嬉しかったです。他の講義も有意義な内容でしたが、特に最後の時間は癒されました。
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真理という太陽に照らされて光る月でいる

2017/04/10 23:21
 私の存在そのものはただの器で、それも大したものじゃありません。
 でも、自分を手放して真理に身をまかせてから、その光に照らされて、御恩報謝の道をちょっとずつ歩き始めました。歩いては止まり、しゃがみこみ、この身が無くなってしまえばいいのにと思うくらい悲しみ、それではいけないと考えてはまた歩きだし、時には幻だとわかっている楽しみに心を奪われ、自分のことをよく知らない人たちの評価に傷つき、明るいこと眩しいことが嫌いな人たちに身体中黒い膜で覆われそうにもなりました。それでも膜を掛けられても、膜の上からの光でそれらはいつの間にかふっと消えていました。

 諦めず、また動き出せるのは、明るい光に照らされて、心が穏やかで、静かに今ある状態を慶べる身にさせていただいたことへの感謝の気持ちが続いているからです。

 私利私欲で何か私がすることではなく、真理と共に、生きとし生ける人の心を照らすことならきっと、上手くいくことを私は知っています。だから生きていられるし、いろいろ辛いこと、悲しいことがあってもそれをのり超えられます。

 もし、誰かが、私に光や明かりや優しさやその他、よいようなものを感じるとしたら、それは私自身のものではなく、真理が照らしていて、その反射で映し出されるものでしょう。そういうものが、みんなに分かるとか、求められるとは思いませんし、無理です。ご縁があり、何かできるなら、私は私の能力の範囲内で出来ることをしてまいります。

感謝していること
自分が居る場所で、出来ることをしていこうと決意できました。その場所が日本なのかロンドンなのかまたはほかの場所なのかは、マリオネットの私には想像がつきませんが、おそらく、きっと私がいろいろできる場所にいるのでしょう
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祝 キングが示唆したクイーンの私との今後の使命!

2017/03/09 14:10
 もつれた糸の綛は全く絡まらず、とうとう一本の糸に姿を変えました。
 謎が解け、私は大満足の境地にいます。
 
 キングはクイーンの私を少し前に見つけ出してくれていたのですが、今日はこんなことを言われました。
 「あなたは教えをもう説かなくても、書かなくても、何もしなくても構わない、ただ、生きているだけでいい、それだけであなたと関わった人は救われる」
 「えっ?!何、何ですか?それ」
 聞き返したのですが、キングは笑っています。

 あのペテルブルグのエルミタージュでの邂逅から、確かに私は変わりました。
 それが何なのか今一つ、掴みきれず、言葉には出来ていなかったのですが、何となく感じていました。「言葉には限界があるから、もういいかな」とも思いますが、博士論文やエッセーなどは趣味としてこれからも楽しみながら書いていこうと思います。

 「『三昧』の境地を共に世界に知らしめてしていきましょう。」ということらしいです。
 体験だけはわかるのですが、私にはそれを文章に書く術や能力がないので、それはキングにまかせます。行動と実践しか取り得のない私はそれを国内外の有縁の方々にお知らせします。英語は少しできるようにならないといけないかもしれません。

 おそらく、生まれた時から三昧の世界に生きていて、三次元の人間がよくわかっておらず、それで、私はずっと苦しかったのだと何となく理解が出来ました。浄土仏教でもどうしても親鸞聖人が分かりませんでした。善導大師・源信僧都・法然聖人にはとても親しみが持てたのですが。そして、キングやキングのお父上に対しても共感できていました。そのモヤモヤも晴れました。いろいろなことにきがつくと、より生き易くなります。
 こんな日が来るなどとは夢にも思えませんでした。
 自分は変わった人間で、誰とも理解し合えないと諦めていたことがウソのようです。
 
感謝していること
 得体の知れない『三昧』の主?にただひたすら感謝しています。
 
 
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疑いなく信じきれたら、大切な人を耐久力テストで悲しませない

2017/03/06 11:27
 里親や養子に行った先で、多くの子どもたちがすることの一つは、親になった人に対する耐久力テストです。この人たちは本当に自分を愛してくれているのか、それが気になるので試すのです。

その行為がどれだけ親を悲しませているか、考えなしで愛されることを熱望している彼らにはわかりません。

試さなくてもいいのに、どうして信頼してもらえないのだろうかと悲しい親の想いとは裏腹に、反抗したり、心を閉ざしたり、ありとあらゆる困った行為をして、反応を確かめます。どこまで困らせたら、自分を放り出すのだろうかと耐久力を試し続けるのです。子どもも親も本当に辛いです。弱さゆえの抵抗なので、心が強くなり、反対に親に対する心配りが出来るようになれば止まります。

また、男女の関係でも、特にエリートというカテゴリーに属する人たちは女性を信頼できずに、同じような耐久力テストをすることがあります。
なぜなら彼らの父親も母親や周りの女性たちを信頼できずに、畏れながら馬鹿にするというアンビバレンスな状態で接してきたから。自分は知性は勝るけど、感性はどうも敵わない。女性たちは行動力もあるし、共感して共生して生きる知恵も持っている。尊敬しながらも、自分をもっと大切にして欲しい、尊敬して欲しい、愛して欲しいと要求するのです。これらの変形がDVでありモラハラです。
素直に相手を信頼し、テストなんてしないで仲よく一緒にいろいろ楽しんだらいいのに、それをするのにはプライドが許さないのです。つまらないですね。命は短いのに。つまり他人(主に女性)を信頼できる心の強さがないのです。弱い人間なのです。
解決方法としたら、自分が愛して欲しいことより、相手を愛して幸せな状態や笑顔を見たいという気持ちが芽生えたら変わっていけます。

これら二つのことよりも大変なテストを私たちは仏さま相手にしています。
無条件で助ける、本当に心から大切におもっているという仏さまに挑戦するのです。疑うという刃を向け、頭の上に立ってあれこれ命令するのです。何も要らない、そのままと言われるのに信じきれない弱さをどうにもできないのです。テストをする気力も根気も失せた時、自分の力は間に合わないと知らされ、自力が廃り救われます。そのとき、本当に円満で完全な
智慧と慈悲を受け取ることが出来ます。

感謝していること
 意地や我慢をしている人たちを見て、自分も通って来た道だけれど、速く御仏に救われて欲しいと思えることに感謝します。
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自分の人生から逃げない覚悟と決意を持つ

2017/03/06 10:54
 誰かのせいにするのは簡単です。
 ただ、それは逃げているだけ。
 全部を引き受けた時から、本当の人生が始まります。

 私にはわかりません。
 人のせいにする人の気持ちが。
誰かの為に何かをするという人の気持ちも。
私が誰かの為にしたいから、それでしているだけです。
私がしたいのです。
そこを間違ってはいけません。

私は自分の使命を果たすために生まれました。
誰かにそれを邪魔されたという自覚はありません。
使命の遂行が止まり、回り道しているように思えても、それは何らかの意味があると思ってきました。
誰かを恨んだり、憎んだり、羨ましがったりしたことはありません。
分からないと思ったことはありますが。

他人の為に生きていると思っている人は、たった今から考え方を180度変換した方がいいです。そんなことをしていると人生がつまらなくなってしまうし、思い切って生きられないからです。
全部自分の楽しみであり、自己責任です。自分で計画してきた人生をそのままなぞって学んでいるのに過ぎないのですから。その学びを誰かに変わってもらうことはできません。自分自身で克服する課題なのです。
ただ、教えてもらったり助けてもらうことはできます。楽しみ方が分からなかったり、一緒に何かしたら何倍も楽しめそうなら、教えてとか、一緒にやってとお願いしたらいいだけです。受け入れてくれる人も、拒否する人もありますが、それはその人の都合なので仕方ありません。一緒に出来る人、楽しめる人とやっていくしかありません。

人生は思うより長いようで、短いです。
他人は思うより気難しかったり、優しかったりします。
外の世界や他人へのアプローチとトライの繰り返しです。
行動するかしないか、前に進むかとどまって悶々と苦悩して愚痴を言うかそれだけです。
どちらを選ぶのも本人次第。
私は行動の人なので、どちらに転ぶかはわかりませんが、熟慮の上の覚悟と決意を持って、人生を駆け抜けていく所存です。
この一年で、いろいろなことがあり、結構、吹っ切れたところがあります。
感謝していること
有情無情さまざまなものに感謝しきりです。

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男子の永遠のマドンナ〜虹色の嬉しい関係の女子〜

2017/03/01 11:34
 男子が憧れる女子は次の三つの要素を満たす人でしょう。




 T綺麗、U優しそう(実はしっかりしていて自分で何でもできることもきづいている)、そしてV自分のことを一番大切にしてくれる人。




 まず、綺麗というのは客観的に周りと比べてではなく、男子、本人の中の理想の美しさが基準です。その人を見ているだけで、心が癒され暖かくなりウキウキするので、ずっと見つめていたい人に引き寄せられます。




 雰囲気が優しい人でないと元々怖がりの男の子は近づけません。でもその優しさには強さの裏付けがあることを彼らはもちろん知っています。優しく強い人の側に寄っていきます。




 そして一番重要なのは日頃はみんな平等に慈愛の念を持って接しているけど、実は自分が一番大切にされているという根拠のない自信・信頼が持てることです。自分を大切にする人がほかの人をひどく扱えるはずはありません。そんな人ならがっかりですが、二人きりの時にはもちろん、ほかの人といてもさりげなくあなたは特別だとサインをくれたらそれだけで納得できます。もちろん、女子もいつも、偽りなく、真摯な態度であらねばなりませんが。




 最初、それはお母さんや幼稚園や小学校の先生かもしれません。小さい時、そんな素敵な人と一緒にいられた男子は、女子を護るナイトのような生き方をします。将来、自分の片割れ、分身であるマドンナに出合ったときの練習をします。一方、女子も男子が無償で尽くしたくなるような素敵な人でい続けることが大切です。




「僕が護ってあげる。助けてあげるから、どんなことでもするから、ただ近くで笑っていてね」




 思春期以降、マドンナと出合い、親や先生に対する何色かの限られた感情だけではない虹色の慈愛のパターンを共に享受できたとき、光に満ちた旅が始まります。




 素敵男子・女子の愛おしい日々を自ら実践し、ちいさいひとたちや周りの人たちを応援できたらと存じます。




感謝していること




 自身の子どもとして、男の子は恵まれませんでしたが、先生などの立場で、お預かりしたナイトのような小さい紳士たちと過ごせた経験は私にとっての宝物であり、これからもそういう男子と出合えることを願っています。



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基本的には相手がその気になるのを私は待っています

2017/02/27 23:13

 お蔭様で何かにつけて恵まれているので、私は自分からこうしてもらいたいということがあまりありません。また、誰かに自分から何かすることも、その人の学びやそれを経た成長を考えるとうかつにできません。
 何かしていただいたことに対しては感謝し、何らかの形でご恩返しはしますが。自分から何かするのは相手の方の負担になる気がして、気が進みません。無理やり何かをするのはどうも。何かの研究や仕事でご一緒することで、対等な関係でお互いが必要とするなら、それがいいです。 

 でも本当は利害関係がないのが一番いいです。ただ、その人と一緒にいたくて、逢いたくて、逢っているときも、別に何も話さないで、お互い自分のことをしていて、気配を感じてるのがいいです。何か美味しい料理でよろこんでもらいたいとも思いますが、時間がないので、長年アルバイトで作っていたサンドイッチくらいしかできません。

 本当に時間がないし、考えることが一杯あって、ほかに何もしたくないので、何とか時間を見つけて一緒にいられるなら、例えるなら、半分眠りながら本を読んでいるところを見ていたいです。言葉にすると憶いとは違ったことが伝わる気がするので、黙ってしまいます。何でこんなにシャイなのかと自分でも不思議です。

 今までの人生もずっとそうでしたが、これからも気質はあまり変わらない気がします。誰かが何かをして欲しいと言ってこられたら、俄然張り切るのですが、そうでないと怠惰で重い腰が上がらず、ぼんやりと春一番を心地よく感じて過ごしてしまいそうです。何かできることがあれば遠慮なくお申し付けください。
感謝していること
 優しい人たちに囲まれて幸せな時間を送っています。有難いです。
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輪廻・循環・円環・融解・溶解他

2017/02/27 01:38
 縺れた糸の固い結び目がほどけた途端に、スルスルとかせの塊がどんどん小さくなっていくような感覚を私は今味わっています。結び目は意外な感じであれっという意外な感じでなくなったのですが、糸が何の抵抗もなく真っ直ぐになっていくことに慣れていない私には、新たな感覚の意外性を楽しむ余裕もなく、戸惑いが感じられるばかりです。
 こんな楽なことで本当にいいの?
 今までの強い抵抗を伴うやり方は何だったの?

 ふと、気がついたんです。
 周りの大切で大好きな人たちが信じられることを。
 彼らが何をやってて、言っているかという言動では一喜一憂しないことを。
 今でも私は心の狭い人間であることには変わりませんが、それでも仕方がないなと大切にしてくれる母や友人たちの私に対する気持ちを知り、私も同じような気持ちになれるんじゃないかって。
 そうしたら、鉄道の駅員さんやコンビニや様々なショップの店員さんたちも周りの人たちと同じように感じられてきたのです。
みんなつながっている感覚が一度に洪水のようにどっと押し寄せてきました。バリアとかブロックのような物が地面に吸い込まれていくようなそんな感じでもあります。

 まるで物心ついた頃から小学校低学年くらいまでの小さいときの私に戻ったような感じです。その頃の私はただ、ただありのままの世界を見て聞いて感じていました。

「そうなんだ」がキーワードでした。
 
 エンパス体質の私は、目の前の人たちの喜怒哀楽をただ黙って感じて受け止めていました。

 大切なものを奪われたと泣いている人、今から死ににいくと嘆き悲しんでいる人たちの話を無言で、時には「悲しいんだよね、でも、大丈夫、私はいつも味方だし側にいるよ」「死んじゃいたいくらい辛いんだ、でも、本当に死んじゃったら、私が悲しいから止めてね」などと冷静に時には、涙を流しながら伝えていました。

 子どもの私の心が浮き立つような言葉をかけてくれる人は稀にありましたが、ほとんどは小さな私が聞き役でした。だから、人間という生き物はどんなに年を重ねても弱くてズルくてでもたまに気まぐれで優しかったり親切だったりする仕方ないものなので、真理とか御仏に身をゆだねるしか私自身の魂のようなものを癒やす術はないのだとぼんやりと分かっていたような子どもでした。三次元の肉体を維持する為には他人に対する絶対的な末通る慈悲は実践できず、時には駆け引きや偽りもせざるを得ないのだと悲しくもありました。
 
 周りの人たちの様子の見たまま、聞こえたままがまるで自分のことみたいに、または心の嘆きを敏感に感じてしまうナイーブな私を信頼して愚痴や不満をぶつける人がいても、私で出来ることはしてあげようと受け入れていました。いつも機嫌良く情緒は安定させるようにして、自分は間違っていなくても聞き流したりして、他人と比較もせず、勝ち負けに拘らず。過ぎ去ったことは忘れる性分だったのが幸いしていたから、私自身には死にたくなっても、それを実行に移さなくてもよかったのかもしれません。

 ただ、それでも何も思わないわけではなく、やっぱり他の人と同じように悲しかったり辛かったりもしますが、一瞬の間に修復されたり、消え去ったり、ダイヤモンドの表面をかするように傷がつきにくかったようです。

 数え切れないほど生まれ変わり死に変わりを繰り返している気がする私は、今生が終わっても別の形でどこかで生きているのでしょう。これが輪廻・循環・円環。自分も周りの人も初めて会うような人もみんなつながっていて、仕方のない愛すべき人たちであるような感覚が融解・溶解。
 そして、それらを全て包含する果てしない拡がりに充満しているのが、真理とか智慧・慈悲・光明などと呼ばれるものなんじゃないかなと最近は感じられるのです。
感謝していること
 母の器の大きさを感じられ、驚いています。頼りないと思っていた母ですが、おばあちゃんと一緒に暮らしている間に薫陶を受け、父亡き今、花開いた感じです。真理との邂逅の話はまだもう少し分からないかもしれませんが、実家の女主人の風格を示してくれます。まるで皇太后のようです。
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論文と平行して取り組む課題

2017/02/13 18:44
 フェミニズムやジェンダーは論文に放り込むとして・・・・・・
 もう一つ私が今生で成し遂げる予定としてきた使命をこの旅行で思い出しました。
 
それは教育です。
 小学校までの小さい人たちとその親たちへの教育です。
 保育士・幼稚園&小学校教諭の資格を取ったのは学校を作るためでした。日本語教師やカウンセラーの資格を取ったのもその一環といえばそうかもしれません。

 かつて、高校時代まで、自身がどうしても相容れなかった学校を快適なものにすべく、今までになかった教育施設を作る計画をしていましたが、途中、カウンセリングの勉強や大学院で論文を書くなどの用事を作ってしまい、少し遠回りしたようです。でも、その間学んだことがおそらく学校設立には欠くべからざるものであるように確信しています。

 ネパールでは教育に対して親御さんたちの熱い気持ちがあるようです。そこで教師を育成する人材が求められているというのです。誰かと協力して、人材を集め、理想の詰まった学校を作れたらと思います。特別な給与は要りません。ただ、仏教の阿弥陀仏の願いやワンネスの考え方などを入れて、子どもたちやその親御さんたちが生きる希望を持てる学校が作れたらとだけ思っています。

 こうやって宣言したら、お金を出してくれる人が出てくる気がします。人材は私がいままで関わった人たちやこれから縁のある人たちを何とか集められます。私の家のリビングには学校の絵と願いが叶ったよろこびや感謝を記したものが額に入っています。毎日見ていますが、いつか絶対成し遂げる日が来るのだと思っていました。

 論文は確かに大変ですが、それは通過点です。私が本当にしたいことは、世界の多くの人たちに生きるよろこびをもたらすことです。そのことを忘れないようにと言われた気がしました。
 感謝していること
 帰国を知らせると母がとてもよろこんでくれました。有り難いです。 
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大いなる真理に身をまかせること

2017/02/03 15:24
 自分以外の他人に何かを求めて幸せにしてもらおうとしてもそれは叶いません。
 そんな能力を持っている人間はいませんから。
 みんな自分のことで一杯一杯でアップアップしています。
 誰かに何かを求めると、その何かを奪うことになります。
 どんなに頑張っても、人間どうしは持っているものの奪い合いにしかならない気がします。奪い合う関係には疲弊しかありません。

 御仏の願いを賜ったとき、私は例えようのないよろこびを静かに味わってから、これで自分が実際感じられたことを周りの人たちにも、お話しできるのだという別の嬉しさがあふれてきました。仏教の教義ではハッキリ救われることが説かれているのに、自分自身の体感がないまま人に話をすることがとても情けなく辛いことでしたから。

でも、伝えることが自分が体験することよりももっと大変だとすぐに知らされました。そして、御仏の願いとか真理とかを本当に求めている人がほとんどいないことも。自分が特殊な感覚を持ち、多くの人とは異なった生き方をしていることも。それから、試行錯誤を重ね、分かり易いく論理的な話の流れや例えを追究しました。また、ご縁のある方を見極める力もついてきました。自分自身のエンパス体質もオンオフの操作が少しずつできるようになり落ち着いてきました。これからどのように御恩報謝が出来るのか今それを博論に取り組みながらゆっくり考えています。

 感謝していること
 本当に周りの人たちが優しくて涙が出そうになります。有難うございます。
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人間として最も恥ずべきこと

2017/02/02 08:59

 「他人に負い目を負わせること」だと身内から私は教えられました。
 言葉で直接言われたことはなかったのですが、そういう生き方をしない周りの大人たちを見て私は育ちました。こういうことをしたらいけないんだと、胸に深く刻んで成長しました。
 
 それでは、反対にもっとも尊いことは何か考えてみました。
 今生で真理との邂逅が出来るように励まして、自分自身に対する慈愛の気持ちや勇気を持てるように側で見護ることです。人間のそれはちっぽけで末通らないもので、本物の慈悲に到達するまでの代用品かもしれませんが、真理というものを知っているらしいあの人がいるのだから、自分もそういうようになりたいという気持ちになってもらえるならそれはそれでいいです。
 あまり優しくもなく、思い遣りもない私ですが、御仏の慈悲に少しでも近づけるようになります。
感謝していること
「人に負い目を負わせてはいけない」ということを深く理解している友だちがいてそのことを語り合いました。
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この世の学問なんて相対的で時空を超えるものは何一つないのに何で威張るの?

2017/01/29 00:37
 もっともらいし、理屈や理由がないと納得できない人が研究者となり、道楽の学会という集まりを作って少人数の内輪の仲間たちで、称賛し合います。機関誌にはお作法があり、お作法を護らない論文は、門前払いもしくは最低評価を付け、コメントさえつけません。
なんてくだらないことが横行しているのでしょう。
 
誰かの新説でコロッと、今までの学問体系が変わるのが世の常です。バッカみたいって思います。真理なんて仏教以外に初めからないって私は確信しています。なぜなら、身体で真理との邂逅を体験したから。そんなのウソだ、気が変になったのだと言われても別に動揺もしません。化城だと言われても構いません。なぜなら救われる人が一人もいない教えなどナンセンスだからです。
もちろん、釈尊や龍樹・天親・善導・法然といった善知識方と、人格や才覚や知識や指導力が同じなどと言っているのではありません。救われたといっても、自力が廃り、他力を賜っただけです。ただの出発点を通っただけです。だから、その後も、真理と三次元の世界の自他を区別する冷たい境遇の中で翻弄され、幸せだけど孤独で淋しい気持ちで生きてきました。

統計がなんだ、平均がなんだ、そんなの母集団や、質問の方法を変えるだけで違う結果が出て来るじゃない。本当につまんなくて馬鹿げてる。そんなんじゃない、正統派の研究をしたいって心の奥底から今、とっても感じてる。

どうしたら、人と人が思い遣れるか慈愛の気持ちを持って、清々しく笑い合って生きられるかを提示するのが真の学問の意味だと私には思えます。つまんない権威や名声のために一生を棒に振るような生き方はしたらいけません。そんなことをしたら臨終にきっと後悔します。

若い人たちと共に、新しいアプローチの人を幸せにする学問を実践形式で、さらに雇用を生むなど社会に貢献したりできるようなものを立ち上げていこうと最近は計画しています。

感謝していること
あまりにも、理不尽なことばかりなので、心が弾けて、何か始めてみようと考えるようになりました。でも、相変わらず、論文に目を通して、コメントを考えてもいます。
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他人に非道なことができる人は自分を大切にできない人

2017/01/29 00:30
 ハッキリ言い切れます。ハイ。
 自分と他人を区別して、他人の人格を否定するようなことができる人は、全部、自分が嫌いで仕方ない人です。たとえ自分にとって不都合な人であっても、何らかのきづきをくれる人だと私は理解しておりますので、その人の存在を消すことはもちろん、いい部分を見つけてそこだけフォーカスしていきます。

 不思議なもので、自分の意識が低くなっていると、他人に対した時、相手の低い部分だけが見えてきます。同じ言動をしている相手でも、特に問題がないと捉える人と、あの人は気を付けた方がいいと捉える人では、見ている部分が違うのです。高い意識で生きている人は相手の上澄みの部分を見ていて、低い意識の人は欠点に目が行くのです。

 だから、全然的外れな噂を立てられても、それを流している人とは関わらないことです。そんな噂など笑って問題にしないし、かえってそんなことはないよと言ってくれる人が本当の友だちですから。噂を信じたり、気にする人はそこまでの人ですから、私なら距離を置きますし、そうしてきました。意識が上がると、当然のことですが、付き合う人が変わっていきます。慣れ親しんだ人間関係は離れがたいですが、勇気を出して新しい人との出合いを求めることも大切です。

 自分が大切なら他人に対しても非道な人はできないので、いいところも認めつつ、あえて、非難したりはしませんが、後ろ向きとか、器の小さい人といると、暗くなったり、イラッとするので、できたら前向きで、器の大きい、明るい人と一緒にいることにしています。
感謝していること
 心をオープンにして、自由に生きていると同じような人が集まってきて楽しいです。
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相手を怒らせないよう忍耐の上に成り立っている関係は止めて、繰り返さない

2017/01/28 12:01
 他人の顔色を窺がうことに慣れてしまっていると、どんな時も、目の前の人が気にいる自分でいないと愛されないと思い込むのかもしれません。期待される自分像を拵えて、その自分が理想としている自分を演じ続ける。
 
幼少の時のトラウマがそうさせているのかもしれません。親や祖父母や周りの人たちはありのまま・そのままの小さい人を赤ん坊の時は無条件に愛していますが、だんだん大きくなるにつれて、ああなって欲しい、こうなって欲しいと望みを持ち、それをうかつにも口に出すようになります。子どもたちは愛されたい存在ですから、それを聞くと、周りの大人たちが望んでいるような自分でいようと努めるようになります。どうすれば愛されるかを常に考え、そういう言動を取るようになります。

特に親がいつも完璧で卒がないように見えるような家庭で育つと、失敗することは許されない強迫観念に近いようなものを感じるようになり、家でも常に気を張って暮らすようになります。反対に親や祖父母や兄弟姉妹が頼りなく見える場合も、自分が何とかしなくてはと、気が抜けません。酸いも甘いも噛み分けて、ただ、どんな言動も受け止め泰然としてくれる存在に出合えないと小さい子どもの自分が満たされないまま大人になります。

大いなる存在、御仏などを敬う宗教が家庭にあれば、いいのですが、残念ながら日本にはそのようなものがほとんどなくなってしまっています。物心ついた時から、人間には私を救う力はないと達観し、家の仏壇に安置されている阿弥陀如来に救いを求めていました。その時から私の真理との邂逅の求道が始まりました。仏さまと心が通い合う身になることを人生の目的と定め、ほかのことは差し置いて、そのことだけを願い生きてきました。人生の折り返し地点くらいで、何の不思議か阿弥陀仏の御本願を賜ることが出来ました。

心は安心満足になりましたが、三次元の人間として生きていくのはとても辛いことでした。真理の世界と現実の世界とのギャップに悩み、周りにその境地を理解してもらえる人もなく、「幸せな孤独」を抱いて生きてまいりました。ここ数年は、同じように阿弥陀仏に救われた内外のいくらかの人たちと御仏の御名を称えつつ、お互いが地球のどこかで自分のことを思い出してくれていることを嬉しく感じながら生きています。たまには逢いにいって、よろこびを分かち合います。

一人でも多く、このような境地に出られるよう、阿弥陀さまのお話をしてまいります。目の前の人に気にいられるように、怒らせないように、我慢しながら言いたいことを慎重に選んで付き合う関係は不毛なので、いつかはきっとお終いにします。

感謝していること
 何も考えない言動をしても、全部わかっているからと受け止めてくれる人は、仏さまだけではありません。仏さまの御心を信受させていただいて、それを心の底からよろこんだいる人も成り得るのではないかと最近は感じます。

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自分自身を大好きになって、信頼していく

2017/01/27 09:50

 「愛される人はいいな」某テレビドラマの中で主人公の男性が言っていました。
 自分に自信がない彼は、彼を愛してくれている彼女のことを信じられなくて、わざとそっけなくしたりして傷つけてしまいます。
 もし、自分自身を愛し信じられたら、彼女に対しても同じように愛し信じられたのでしょう。ドラマの最後の方では、彼は自分としっかり向き合い、自分の殻を破り、彼女と愛のある関係を築けるようになっていきました。

 誰かを信じるためには、逆説の様ですが、自分としっかり向き合って、自分を大好きになって信じることが最初で、ずっとそれが維持されていくところまで到達できたら、自利利他の生き方になります。

 そこまでになれるまでに、本当は真理との邂逅が必要ですが、それに至るまででも信じるきっかけとなるのは、励ましてくれるのは、すでに自分が大好きで信じられている三次元で人間として生きている人なのかもしれません。そういう人の出合で、その人から溢れ出ている慈愛を感じて、心が触れて、徐々に自分と向き合って、強くなれたり、自信が持てるようになります。

感謝していること
 今日は晴れています。素敵なことがある予感がします。
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いつもずっと逢いたかった人を見つけたらハグしちゃうかな

2017/01/26 12:37
 スピリチャルの部分でいつもつながっていると思ってても、やっぱりリアルで逢いたい。本当に愛おしい人。私の内面が創りだした存在かもしれないけど、本当に大切で大事でずっと一緒にいたいと思っていた人の姿を見つけたらぴったりくっついて離れないかも。外国の友だちに逢いに行ったとき、彼女をバス停で見かけた時お互いが磁石のように引き合い、ハグしていました。それから帰国まで、慣れない英語で会話するというより、一緒にいる空間を目いっぱい楽しみました。一緒にご飯を食べ、乗り物に乗って出かけもしましたが、ただ一緒にいられたらそれだけでよかったんだって、帰ってきてから分かりました。

  外国じゃなかったら実際は、人目を気にしてハグとかできないかもしれないけど、大切な人とは心の中でいつもハグしていたいです。あの人だけが大好きとかじゃなくて、目の前にいる特定されない人たちにもどんどん、おもいが広がっていく感じです。自分の残りの人生があとどれくらいかわかりませんが、一瞬一瞬を大切にして、愛する人たちを心の中で抱きしめ、一緒に笑って過ごしてまいります。
 感謝していること
  大切で大好きだと感じられる人たちがどんどん増えていくのはとても望ましく、嬉しいことだと感謝しております。
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男の子のヒーロー願望について

2017/01/25 12:07
 小さい子たちの先生の私は男の子たちがヒーローごっこをしているのを目を細めてみています。「先生を護ってあげるね」とか男の子たちに言われて、実際うるさくてどうしようか考えていると、「先生困ってるやろ。静かにせなあかん」などとほかの子たちをたしなめる姿には胸キュンです。彼らは自分のお母さんや姉妹たちにもそうしているのかどうかはわかりませんが、小さいながらも立派なヒーローのように感じられます。
高いところのものを取ってくれたり、パソコンの操作を教えてくれたり、たくさんある単純作業やちょっとしたお願いなどを軽いフットワークで手伝ってくれる大人の男性たちに助けられて今まで生きてきた気がします。私がフワフワして頼りない外観だからかもしれませんが、有難く行為は受け取っています。私はお菓子を差し入れたり、笑顔でお礼を言うくらいしかできませんが、その優しさに本当に感謝しています。

 ただ、完璧なヒーローみたいなところだけじゃなくて、男性たちがうじうじ悩んで、優柔不断なところや容姿コンプレックスを感じているところなどを蔭で見ていて、それもなんだかとっても可愛いなって胸がキュンキュンします。強がってカッコつけてるところも、悩んでいる弱い部分も全部含めてありのまま・そのままが大好きだと女性が感じているってことを知らない人が多い気がします。こういうことがよくわかってきたら男性たちは少し楽になれるのかもしれません。女性も威張らないし、強い振りをしない優しい男性と素敵なパートナーシップを築いて行ける気がします。
 
何事も中庸・中道、つまりバランスが大切ですね。

感謝していること
床暖房がとりあえず直りました。この冬はこれで温かく過ごせます。
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男性の持つ根深い容姿コンプレックスについて

2017/01/24 14:14
 芸能人は別として、日本で男性で容姿がそこそこ端麗で、オシャレのセンスが良くて、小ざっぱりとしていて、なおかつ、いい香りがするような人とは滅多に出合えません。特に研究者の中でそんな人を探そうとすることは、雨夜に星を求めるがごとしで、徒労に終わるどころか、絶対にないことなのだとダメだしされるような気がしますので、そういうことは皆諦めてしません。

 これに対して、女性は化粧などでごまかせるので、元々は凡庸な容姿でも、努力でそこそこそれなりには見えることが出来ます。ほんとうはそのまま、ありのままで輝いている人が素晴らしいのでしょうが、それは内面から出るもののなせる業で、それこそ研究者で外見が素敵な男性と滅多に会えないのと同じくらい難しいです。

 最近、男であることの辛さ、劣等感というようなことを見聞きしたり、読んだりして、いろいろ考えます。

 女性のほとんどは死ぬまで女を捨てず、三十代までの多くの男性も男を捨てていない気がします。だから年配の女性でも身なりには気を遣い、何となく安心できますし、そんなに一緒にいるのが嫌という人はいません。でも、男性の四十代を超えた人たちで男を捨てたような人はただ、不気味な感じであまり近寄りたくありません。そんな人たちでお金や地位を持っている層は始末に悪いです。こちらがいつも機嫌よく、大人しくしているのをいいことに、やたら上から目線で、威張り散らし、甘えてきます。こいつは何を言っても怒らないし、好き放題しても構わないと決めつけ、横暴な言動を取ってきます。同じように失礼な態度を取るとその人たちと同じ人間に成り下がるので、出来るだけ避けるようにはしています。

 これが私が年寄りの男性が苦手な所以です。本人たちが自分自身におそらく感じているように「可愛くない」んです。
可愛くない人たちに威張られると、生理的嫌悪感のプラスしたマイナスの感情が怒涛のように込み上げ溢れ、キレそうになるのを必死でこらえて耐えていた時もありますが、最近は何だか哀れに感じられ、こちらのターンになったような気がします。

 年齢を重ねて「可愛くない」男性でも、謙虚さや、思遣りや、器の大きさを示す言動があれば、高級クラブのお姉さんのところに行かなくても、周りのそれなりに器の大きい知的でそこそこ綺麗な女性たちと友だちになり、お互いが獲たい知識欲も満たせるものです。
 
 容姿も含めて、誰かと対等に話をしたり関わりたいと思ったら、何らかの努力が必要です。お金や地位はあっても、見かけも磨かず、器の小さく料簡の狭い男たちに未来はありませんし、見捨てられます。若い人たちは、オシャレに気を遣ったり、物の言い方をスマートにするなど、それなりに全ての面で必死に努力していて、器云々は別としても、威張らないだけましなので、女性たちの多くは、そちらに流れていってしまいます。でもこじれて、ひねくれて、自分を客観視していない老害を流す人たちには気に入らないし、なんで大したことないあいつがモテるのかと、不思議ですが、おそらく、彼らは一生きづかずにいるかもしれませんね。そんなこと誰も教えてくれませんから。

 もともと、男女ともに映画スターのような美男美女は滅多にいません。でも、生まれ持ったものをいかに劣化させず、維持しようかと努力することや、内面を磨くことで人を気分よくさせることをしている人たち同士は、それなりに心地よく過ごしているのが、この制限が一杯ある三次元の世界なのだと感じます。どうせ、生きるなら遊び気分で楽しく生きていきたいものですね。

 それから、容姿が美しい友人たちに聞いた話ですが、彼女らは男性はござっぱりして似合うファッションを身に纏っているなど最低限のことをしていれば、背が低かろうと太っていようと余り見た目で判断しないし、「美女と野獣」みたいに釣り合わないと周りが捉えようと、全く気にしないということでした。中身重視らしいです。容姿にを気にするくらいなら仕事や自分の好きなことに取り組みたいと自分も感じているようです。つまり、男性は(女性もですが)器を広げて、毅然としていたらいいのかもしれません。
感謝していること
 遠く離れていて、悟りの感覚を共有する別の言語を使っている人と、翻訳機を通して言葉を送る間に、感覚で分かり合えているということを感じました。相手の言おうとしていることをお互いに感じて、その通りのことを次に書いていました。嬉しい発見でした。
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返信をしないという相手の選択」を尊重する態度が出来る人とはなかなか会えない

2017/01/22 06:35
自分ひとりで自分の幸せを完結してたら、自分以外の人に幸せにしてもらおうという期待しなくてもいいです。

 心の隙間を埋めてくれる人を誰か探してきて、無理やりそれを何とかしてもらおうと期待しようとしても無理です。自分が愛されたい、癒されたいと思っている人がほとんどですから。

 それでも、死んじゃいそうに寂しくて、誰かに頼りたいとき、何とかしくれそうな人が近くにいたら、恥も外聞も捨ててお願いしたらいいです。でも断られたら、「やっぱりだめか」って思ってスッパリ諦めたらいいです。別の人を探しましょう。

 そうしているうちに、人では自分の心を癒すことが出来ないし、御仏など宇宙の真理との邂逅をした上で、自分自身が自分を癒しエネルギーチャージをして、それを他人に分けてあげる側になるしかないと悟ります。

 一つ注意ですが、今、周りに自分を癒してくれそうな人がいない時、かつて懇意にしていて今は音沙汰がない人を無理やりコンタクトを取って何とかしようなどと言うのは無理があります。音信不通とか縁が遠のいているというのは、相手側につきあいたくないという何らかの理由があるからです。過去は済んだこと。みんな今目の前にあることに向き合っていて、それに忙しいので、邪魔をしたらいけません。

 メールでも返事が要らないと書かれた時や、Cc Bcc で伝えるときは基本的に、返事は求められていません。とくにBccでメールを受け取ったときは、絶対返事はいらないという意図が込められています。本当にただの報告です。だから返事をもらうと嬉しいけど、「う〜ん」ていう感じです。Ccで集団のみんなに当てたメールなどでは、自分が書いた内容の一部の確認をもらうくらいで構いません。

 要するに私は手紙的な内容以外のメールが苦手というか嫌いです。メールではなくできれば、言いたいことは報告も含めて直接本人に伝えたいです。物理的に無理な時は、できるだけ短いメッセージで伝えます。
 
 私はおもいと言葉と行動は一致させるようにしています。だから、私に関しては言っているそのままが、本心だと取って一向に構いません。自分を殺傷を目的で向かってくるとか、悪意をばら撒いて失脚させる人に対しても、気が弱いので相手を睨んだり、冷たい目で見ことはできません。そんなことは滅多にないですが。もちろん、日常でも咳払いとかも下品に感じるし自分では絶対しません。自分がされると嫌だなことは基本しません。親にもするなと言われていた舌打ちというのは神経に触りますのでこれは錐で刺して回される感じがして、それをする人とは距離を置くことにしています。波動が下がる気がします。その後はひっそり身を引くことを常としています。

 仕事や学習などで期限があることは返事をお願いしますが、ほかは本人にまかせます。返事が来なくても構いません。それはその人の選択なのだと態度を尊重するからです。私も基本的には同じようにされたいというのもあります。

 でも、職業病なのか、相手の時間を搾取したくないという癖がついているのか、失礼がない程度に、報告や連絡などは相手から聞かれない内に、こちらからさせていただくことにしています。お相手に、あれはどうだったと聞く手間を掛けさせるのは申し訳ないからです。お互い忙しいのですが、自分の手間や時間を使うことの方で相手がことの経過を納得してくれたらそれでいいです。
感謝していること
 論文で頭の中が一杯で、会話も日常の行動も最小限で済ます節約モードに入っていますが、周りの人がそれを理解してくれていて、許してもらえていることに感謝します。
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足るを知る

2017/01/20 19:45
お蔭様で、今のところ、何の不安もなく暮らしております。
 元々のんびりしていて、あくせくするのが苦手なので、そういうものを引き寄せて生きているのでしょう。本当は南の島でエメラルドグリーンの海を見ながら潮風に吹かれて、何もしないで、ただぼーっとしていたいです。そうしていたいのですが、今生での使命を果たさす役割もあるので、サマーバケーションくらいでいいのかもしれません。
 
 幼少の頃、おばあちゃんの同居する本家に嫁いだ母がこう言っていました。
 「何もないところから、家のものを一つ一つ揃えていく生活の方が良かったのに」
 そこには感謝の気持ちがあまり感じられなかったので、私はこう言いました。
 「いろいろなものが揃っていても、それを感謝して使わせてもらって、別のことで周りの人の役に立てるようにしたらいいんじゃないの。実際何もない人たちにはこんなことは言ってはいけない言葉かもしれないよ。」

 初めからいろいろなものは揃っていても、おばあちゃんと両親と子供三人で暮らすのはかなり大変な時もありました。田んぼが道路として売れたとき、急に家が豊かになりました。小学校低学年の時です。私は月賦で買ってもらった木製の机を使っていましたが、妹や弟はスチールのいろいろ飾りのある机を買ってもらい、家も新築して、借家なども持つことが出来ました。同時に、親戚とお金のことで揉めたのを目の当たりにしたのもこの時でした。

 今頃になって、最終課程の博士論文を書いているのは、これで両親に対して御恩の少しでもお返しできるかもしれないという気持ちからです。「勉強が好きなんですね。」とよく言われますが、ローンで買ってもらった机で、初めに勉強した記憶がずっと心に残っていて、ただ勉強できることが嬉しくて、だから誰かに勉強しろと言われた記憶がなく、淡々と読んだり書いたりすごしてきて今に至っております。

 京都の今の大学に初めに通ってから、ずっと結婚するまでひとり暮らしをしていました。週末に仏教の話を日本全国に聞きに行くために、アルバイトをするなど余裕があまりない暮らしをしていました。衣食住に困ったことはありませんが、それなりに倹約・節約した生活を送っていました。今でもそれは変わりません。お金はお金を大切にする人や多くの人を喜ばせる人の所に集まります。それ以前の問題として、使わない人はお金がたまります。自動販売機で飲み物を買うという感覚が今でもわかりません。水筒やネットで買った水などを持って出かけます。そうしてためたお金で海外に出かけたりしていますが、そこでもあまりお金を使いません。親が必死で働いている後姿を見てきたせいかもしれません。

 成長して後は、メンターや会社の社長が食事を会う度に、お礼は無用とご馳走してくれていました。私も早くお金を稼いで、ご飯をご馳走し出来るようになります。年配の方々には、ごはんをご一緒しだけではなく、チップの渡しかたや人の上に立つことや気持ちよく働いてもらうための心得なども教えていただきました。「衣食足りて礼節を知る」「金持ちケンカせず」などのことわざを体験を通して学びました。

 今でも、私はそれほど、贅沢な暮らしをしていませんし、これからも、ただ必要なものが読めて、書けて、発表できて、たまにワークショップなどをしながら、仏教のお話がして行けたらそれだけで満足です。働きながら倹約もして、縁があればいつでも外国にも行けるし、ある程度満足した暮らしはできるという根拠のない自信があります。「不活の恐れなし」とでもいうのでしょうか、これは仏教で救われた人は5つの恐れが無くなるということの一つですが。

 このように、人に対しても物に対しても執着がさほどなく、私を必要としてくれる人の傍らにいつでも行きたいし、居たいです。すべて御仏におまかせしているので、私は操り人形のように、言われるまま、命じられるままに粛々と生きていく所存です。
 感謝していること
 今日は晴れていて気分がいいです。
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もし今日が人生最期の日なら何をおもうかな

2017/01/20 19:36
阿弥陀仏への御恩でしょうか。
 それから、恩師・両親・家族・友だち・周りの人たちへの感謝。
 そのときまで、ほんのわずかしかないかもしれませんが、この先の人生を、光の中で、ピンクなどの明るい色の服を着て、微笑んでいると私はそう決めています。
 
 幼少の頃から、ずっと、怒ったり、睨んだりされると、弱い私は心臓の動悸や脈が上がります。だから、出来るだけ穏やかに過ごしています。論文で言語操作をしょっちゅうしないといけないので、日常では疲れるので、言葉を執拗に駆使した話はしたくありません。

 フィニッシュまで、だんだんにソフトランディングをしつつ、穏やかに自分の使命を果たしていく所存です。誰かと争ったり、余分な欲を起こすと泣く人が出て来るので、そこら辺は適当でいいです。仕事などで考えるとき以外は、ぼーっと静かにしていたいです。同じようにしていられる人がいたら、一緒にいてもいいし、いないなら一人でもよろこべる身の上にしてくださった御仏の御恩を感じつつ、今生を終わっていきます。
感謝していること
 好きな服を着れて、食べるものにも困らず、雨露、寒さ暑さもしのげる家があり、生活は上手く回っていることに有難く感謝しております。
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音沙汰がない人は放っておく

2017/01/19 08:56
 音沙汰がないというのは、今は、縁がないのでしょう。
 最近私は、今、ここを生きることにしています。
 連絡がない人は、何かそれなりに関わりたくない理由があるのだと思います。
 忙しいとか、病気とか、最悪の場合、死んだとか。
 それでも、必要があれば、本人が連絡できなくても、その人の周りの人に頼んだりします。また、いろいろな縁で、何らかの知らせを受け取ることが出来ます。

 自分から関わる時は責任が生じますから、その覚悟がない限り、放っておくことが大切です。
 
ただ、自分の余命があとわずかでどうしても逢いたいとか、自分は元気だけれど相手が生きて元気にしているかどうか知りたいとかなら、思い切って逢いに行かないと心残りでしょう。相手とアポがどれようが取れまいが、そういう時は身体が動いてしまいます。そういうものです。どうしても何かしたいとき、人は恥も外聞もなく、行動します。反対に言うと、行動できないというのは何かのブロックがあります。相手に悪く思われたくないというだけなら、それはおもいが浅いし、行動に簡単に移せますが、その深層に何かがあるから重い腰が上がらないのです。

自分の足りない所を癒してもらう理由で、疎遠になっている人と連絡を取るのは動機が逆な気がします。そういうことで縁を持とうとすると癒されなかったり、逢うことを拒絶されたりします。むしろ、自分が相手に対して何かできることがないかという気持ちで行けば、相手が自分を必要としていないで、拒絶されても別に、今、そういう需要はないのかと割り切れます。

特別、気になったり、親しかったり、恩を受けたりした人以外は、自分から何かするのは、あまり気がすすみませんし、佳い結果につながらないと思います。お互いの波動が合わないと、嫌な思いをするだけですから。むしろ、向こうからやってきたことや、共通の用事がある時に限って、コンタクトを取り、関わる方がいいでしょう。

自分自身が愛が溢れて、自分を癒せるようになり、人にも分けてあげられるようになると、こちらからコンタクトを取ろうとしなくても、向こうから自然にいろいろしてくださいと言ってこられます。腐れ縁とか、嫌々している気配を感じたら、それは波動が低いし、拗れているので、それを建て直すよりも、思い切って一度、クリアにしてまた始めから関係を構築し直した方がいいでしょう。

最近面倒なことが、嫌になり、いろいろ見直しを始めていて、スッキリしています。
そうなったとき、残るのが本当に真摯な人たちであり、信頼できる関係なのだと感じます。そしてとても優しく居心地がいいものでもあります。
意地を張ったり、拗れたり、拗ねたり、器が小さい人たちと関わると、波動が低い方に引っ張られ、辛いおもいをしますので、出来るだけ反対の方向の真摯な尊敬出来る人たちを選んで一緒にいると物事がスムーズに進み、裏切られることもなく気分が高揚してきます。人と仕事は選ぶことが大切です。

感謝していること
ある企画から撤退することに決めました。そのことを報告しに行くと、相手の方もその方向でお考えで既にメールをくださっていました。そのメールが愛に溢れたものだったので、退いたことが良かったと心から感じられました。私のジョークにナイスな返しもいただけました。有難いです。
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引き際、けじめ、後始末等々・・・・・・

2017/01/19 08:51
 前を向いて歩くことは私に課せられた使命です。
 一秒たりとも止まっていられません。
 
 今の私の課題は博士論文を書くことです。これは使命を果たすためにクリアしていかなければならない課題であると痛感しているので逃げないで取り組んでいます。だんだん嵌ってきましたが、そのうち大好きになれたらと思います。目的を達成するために可処分時間を精査していこうと決意したところです。もちろん論文を主に考えていきますが、それはあくまで布教の手段の向上です。
 残された時間のない私は、恥も外聞もなく、必死で、阿弥陀仏の御本願を有縁の人たちにお話ししてまいります。そのための引き際、けじめ、後始末をしてまいります。
 
本当は、誰とも何も話さなくてもいいのが一番です。心が通い合う相手と、できれば、たまに同じ空間でいて、顔を見て微笑みあえたら、それだけでいいです。一瞬のときめきで構いません。同じ気持ちでいる人が、遠くにいても、相手のことを私が、思い出せるだけでいいのです。私のことをおもってくれてなくてもいいです。見返りは要りません。私がこんなにも大切におもえる人がいてくれたのだと感謝出来たらそれでいいのです。傷つくことを恐れていた自己満足の時からはちょっと抜け出られた気がします。

「来るものは拒まず、去る者は追わず」

これが私の今生での信条です。

以下のゲシュタルトの祈りとも似ています。

ゲシュタルト療法の創始者、フレデリック・S・パールズ(独・精神科医) の言葉

「ゲシュタルトの祈り」

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きています。
私はあなたの期待に応えるために生まれてきたのではありません。
あなたもまた私の期待に応えるために生まれてきたのではありません。
私は私、あなたはあなた。
もし私たちの心が通い合うのなら、それはとても素晴らしいことです。
もし心が通わなくとも、それは仕方のないことです。
感謝していること
 いろいろきづかせてくださる周りの方々に感謝しております。
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大切な人の心にちょっとずつ触れる

2017/01/15 10:57

 『星の王子さま』のなかで、キツネが王子さまに他者との関係は少しずつ縮めるものだと教えるところがあります。このことは、気弱で人見知りが激しい私には最近特に納得できます。日常の表面的な会話等では分からないような、相手の小さな息つかいや感性など細かなことはある程度長い間、両者が伝えてはそっと返す、ガラスのボールでの優しいキャッチボールのような心の交流が不可欠だと痛感しています。
潜在意識ではつながっている気がしても、言葉(書いたものも含む)や感性(直接逢えなくても遠くからでも)で確認できないと三次元では安心・満足できません。
 大切な人がいたら、その人の好きな本や映画や趣味などに自分自身も本気で没頭してみると距離がどんどん近づいて、あまり何も話さなくても温かい雰囲気で一緒に過ごせる気がします。
 感謝していること
 ワークショップに参加したり、企画するのはとても楽しいです。ご縁に感謝します。
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