どうか、今、救われて御恩報謝の嬉しさを思う存分味わってください

 「食べ物と念仏」は分け合ってよろこぶものだとおばあちゃんはよく言っていました。
 幼い私には何のことかよく分かりませんでした。
 おばあちゃんは、念仏講で配られるお供物の饅頭などのお菓子を自分は食べずにいつも私たち孫に3つずつ持ち帰って来てくれました。2つしかないときはそれを均等になるように分けて与えてくれました。
 「おばあちゃん、いつも私たちにお菓子のお土産をくれるけど、おばあちゃんは食べてるの?」
 あるときこのように尋ねました。するとこのように答えてくれました。
 「孫がいない人なんかは自分が食べる人もあるけど、たいていはね、お茶だけ飲んで、家に持って帰ってるよ。孫のよろこぶ顔が見たいから自分は食べないんだよ。あのね、お念仏の集まりでは『食べ物と念仏』は分け合うものだって教えられるから、そこでのお供物を独り占めして食べちゃう人はいないよ」
 
こう言われたので、
「じゃ、私の分をおばあちゃんに分けてあげるよ」と饅頭を半分に割っておばあちゃんに差し出すと
「有難う、その優しい気持ちだけでおなかが一杯になっちゃったから、今度おなかが空いているときにちょうだいね」こういって、おばあちゃんはいつも受け取りませんでした。
 傍らで、妹や弟は何も考えずにただ饅頭を美味しそうに食べていましたが、その様子も目を細めておばあちゃんは見ていました。

 その頃、おばあちゃんはまだ御仏に救われていなかったのでしょうが、自分はいつも後回しにして、子どもや孫やほかの親戚などいろいろな所から声がかかり呼ばれて、手伝いに行っていました。
 いつも周りの人のお世話に奔走していました。
 ずっと家にいて欲しいけれど、出かけて行ってよろこばれる人があるのなら、寂しいけれど我慢しようと思っていました。
 自分は一番たくさんの時間、おばあちゃんと居られて、食べ物も分けてもらっているし、呼ばれるってことは好かれていて、役に立っているのだろうからと納得していました。

 救われてから、「念仏」を「信心」に含めて考えるようになりました。
 食べ物などの生きていくのに必要なものをみなさまに提供するのと、御仏の願いをお伝えすることは両方大切なことなのだと。
 人間は食べなくては死んでしまいますが、食べてさえいればいつまでも生きていられるわけではありません。ただ食べて生きていても、それで人間として、安心満足する生き方が出来るわけでもありません。

 人間に生まれてこられてよかったと、御仏の願いを賜って、狭いところに殻を被って引きこもっていた自分が、広い世界に出て、これから先に生まれるお浄土への道を御仏と一緒に歩いていけるよろこびを今、味わってください。
 そして、救われた方は、それを人さまにお伝えする御恩報謝をすることでさらに、よろこべる体験をしてください。
 これは自身で身体にかけて実践した人のみが味わえるよろこびです。
 どうか、今、救われこのような身になってください。

感謝していること
 誰かがよろこんでいるところを見聞きすることは、自分のことのように、もしくは自分のこと以上に嬉しく感じられます。

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