もうこれでいいと自分で決めた信心

 真実信心を賜るまで、たくさんの勘違いを体験する人もあります。
 まだ信心を賜っていないのに、自分は信心を獲得していると思い込んでいる人にもたくさん会いました。
 仏教の勉強をしている人でも間違いやすい事なのですが、ほとんど仏教を知らない人が感覚的に自分は救われていると思いたいのだということと、救われているのだと信じて疑わないで、それを口にする何とも言えない恐ろしさにびっくりしてしまいました。

 御仏を疑う「疑心」があることなしと知らされる「廻心」のハッキリした体験もないのに、自分が救われていると豪語できるのは無知とは言えど迷った人は何でも言ったり、真実の教えを謗るのだと改めて知りました。
 
「疑心」がどんなに恐ろしいかは真実信心を賜った人しかわかりません。また多少なりとも仏教の勉強をした人ならこれがあるから救われないのだということは頭では分かっているはずです。
 その前提でいつも話をしていましたし、何度も「信疑決判」によって救われているか否かが判断できると言ってきましたが、思い込みの激しい人たちには受け入れる事は出来ないのでしょうか。
 
 何度も、何度も「仏願の生起本末」の話を繰り返して聞いて、疑いが完全に無くなったのが真実信心だということであることを話していかなければなりません。真宗の集まりで「信疑決判」が抜けてしまっては意味がないことを説法や談話会でハッキリとお聖教の根拠を出して話しているところがあるのかどうかも怪しい気がしますが。
感謝していること
 今日は連れ合いがランチを御馳走してくれました。剣道の小学校最後の試合から夕方帰ってきた娘と夜には『アナと雪の女王』を3人で観に行きました。中学になったらもうこんなこともなかなかないのかもしれません。これも連れ合いのポケットマネーで今日は結構な出費でしたが、娘と私の合格祝いということで有難く受け取らせていただきました。

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