布教はまず相手の話を聞くことから始まる

 真宗カウンセリングの論文を書いています。その中で、カウンセリングを学びながら布教活動をした人たちの文章に触れながら、自身の活動の振り返りをしています。

 初めは、阿弥陀仏の本願(真理)を前面に打ち出して話していましたが、それでは何だかちっとも前に進めない感じがありました。そのうちにきづきました。まず、どんな人も例外なく、自分の話をきちんと聴いて欲しいのです。聴いてくれる人が今までいなかったのです。何か話しても、途中で遮られたり、分析まがいのことをされて決めつけられたり、否定されたり、見当違いの励ましをされたり、勝他の為の質問をされたり、これでは話す気持ちが失せてしまいます。私自身も、求道中のほとんどの期間、他人にじっくり、ただ聞いてもらったことがほとんどありませんでした。ただただ、共感と受容をもって、正直な態度で聞いてもらうロジャーズ方式がよいのでしょうが、そういう訓練をしている人は稀です。どこかで聞いている人自身が出て来てしまい、話をする人は話すのを諦めてしまいます。

 ライフヒストリーでもいいし、その時感じていることでも何でも構いません。本人が気にかかっていることを打ち出してもらうのが始まりです。これが十分になされないと次に進めません。このことにきづいてからは、ひたすら、あたかも自身がその人であったならどのような気持ちでいるのかということだけに集中して聴き、確認し、その人が話し易いような質問を交えることに専念しました。一番大切なのは相手に対する尊敬の念です。負い目を感じさせることが少しでもあれば、そこで関係は切れます。ゲームオーバー、お終いなのです。信頼関係が無くなるとはこういうことです。

このような対話においては、デリケートで、ナイーブな関係を支える優しさかつ強さが、話し手である布教者するカウンセラーには要求されます。話し手の態度や人間観が前面に出てくるので、知識や技術のみでは太刀打ちできないのです。研鑽の途中でそれは痛感してきました。忍耐強さと諦めないで待つことも必要です。これは双方に言えます。話し手と聞き手の真摯な関係が維持できなくなったとき、人を変えるか、時を待つのかの選択が迫られる気がします。

 話し切った、聴き切った後、この段階で、真理との邂逅がふっと訪れます。つまり阿弥陀仏の本願を聞く体験を獲られます。本当に賢い方が人間で話してくれる人が誰もない場合は、稀に書物で救われることもあります。しかし、それは滅多にあることではないことを愚鈍な私は実感しております。何度も、何度も気が済むまで聴いてもらって、はじめて仏の願いにきづかせていただきます。

感謝していること
 本当にたくさん聞いてもうことができたことに感謝します。


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