変われることとそうでないことがあるのかも

 ロジャーズがいう「内的準拠枠」というのは広げることも可能かもしれないが、よほど尊敬できるような器の広い人と出会うか、恋人や配偶者との感覚の距離を縮めたいと決意するとか、何か強い動機がないと変る必然性がないかもしれません。

 初めはいい人だと感じていたのが、肝心なところでは責任逃れや言い訳をするのを知って、他人がスウーっと引いていくのもタイムラグがあり一度にではありませんし。自分がおかしいのではなくて相手が変だと気にしないことも考えられます。

 私自身も広い器をもつわけではなく、もう無理、ありえないと距離を置く範囲が年齢を経るごとに広がってきています。それはお互い様で、自分も距離を置かれているのかもしれません。それはそれで構わないし、必然でしょう。無理をすることはないとあまり気にならなくなりました。

 それでも、ある人が変るんじゃないかと期待してしまうところがあり、しばらくしても、その相手が同じことを気づかないで平気でしていてやっぱりダメだったときの失望はとてつもなく大きいです。ハッキリ言わない私もよくないですが、感覚が違うのでしょうか。

 こんなことは私は絶対しないと思うことをする人としない人とはどこが違うのでしょうか。私は相手に負い目を感じさせることは出来るだけ避けています。誰かと関わるときできるだけ自尊感情を損ねないように、よいところを見つけたり、気持ちよく過ごせるように言動に気を付けています。できない約束はしないし、引き受けたことはしますし、できなくなったら謝ります。謝っても許してもらえないなら仕方がないと諦めますが、誠意を持って謝ります。口先だけで、いい格好をして、よく思われたいというのは信用を無くすことにつながるので避けています。

お世辞や愛想がなくて付き合いにくい、つまらない奴だといわれようとどうしようと自分を大きく、いい人に見せようとはしません。等身大の私でも構わないという人とだけ関わればいいと割り切っています。自ら墓穴を掘る危険は避けています。

一度ならず二度、三度と「もう無理」、「これはない」ということがあれば、何かもっと大きく、根本から違っているのでしょう。これは言葉で説明しても分からない感覚なのかもしれません。私に対しても、分からないだろうと注意してもらえていないのでしたら、とても悲しいし残念なことです。所詮短い人生、感覚の合う人としかいられないのでしょうか。それか、我慢して無理して受け入れるのでしょうか。器が広がれば我慢しなくなるのでしょうか。よくわかりません。

感謝していること
いい人じゃなくて、我慢しない私は器も許容範囲も小さく狭いので、反対に気持ちの大きいおおらかな人たちに許されつつ、生きているのかもしれません。有難いです。


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