今、この瞬間を精一杯生きていますか?

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zoom RSS この世のことは自分軸を持ちメタ認知が出来たら何とかなるけど、あの世のことは仏さままかせ

<<   作成日時 : 2018/09/25 23:47   >>

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 人間の煩悩からくる心理的な悩みは自分の内側に軸をしっかり持ち、耐えられない時は高みから自分を見下ろすような客観的な考え方ができれば、不治の病に罹るとか、不慮の事故に遭うとか、殺されない限り取り返しのつかないものである死は免れます。

 死の解決だけは自分の考えをスッカリ抜いて、止めて、疑いなく仏を信じるしかありません。メタ認知も思考ですから、それも捨てないとなりません。口にただ念仏を称えて、信じた振りをしていても、心のどこかで助かったのか助かっていないのか不安だったり、死後が気になって恐怖に怯えている内は本当に仏さまにまかせたとは言えません。ほんのわずかでも仏さまの願いに対して疑いが残っていても、迷いの六道からは抜けられません。また迷いのサイクルを繰り返す道が待っているだけです。悟りからは程遠い状態です。要するに助かったか、そうでないかだけです。間はありません。厳しい世界なのです。

 ターミナルケアで仏教を話すということは、こういう厳粛な事実をそのまま語ることになります。耳触りのいいことを言うのはうそをつくことになりますので、それはできません。本当の事を言うのは、多くの人が考える緩和ケアではないです。臨終の人に、仏さまの願いに対して疑いを持ったままだと救われません、落第ですと告げるのですから。話す方も聞く方もかなり厳しいです。臨終ぎりぎり間に合えばいいですが、間に合わない時は、また人間に生まれてくる時まで悟りはお預けです。それがいつになるかはわからないから「後生は一大事」なのです。

 昏睡状態の臨終の患者が突然意識を回復して、周りの人たちに対して「有難う」といって涙を流したとしても、それは救われたかどうはわかりません。きちんと仏教の話ができて、どのように有難いのいか、仏さまの願いへの疑いが晴れ、仏さまに完全におまかせの身になったのか詳しく聴くことも臨終の苦しい息の内では困難です。にこやかに息を引き取ったとしても、それが救われた姿かどうかは判断しがたいです。信心を獲得でいたか否か、それを判断できるのは自身も求道の道のりを歩き、真仮の水際を突破して、何人もの人に仏さまとのお出合いの直前までお手次で来ているひとです。

 誰でもが救われますが、今生に救われるとは限りません。いま、ここで救われますが、それは簡単ではないのです。仏さまの願いに対して疑いが一切なくなったときにだけ救われます。
感謝していること
 煩悩で欲しい、憎い、可愛いのは死ぬまでなくならないですが、仏の願いに対して疑いがすっかり晴れて、後生は仏さまにおまかせできたことは有難いと感謝して居ります。

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