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この世で帰る場所、死んで還る場所

2018/09/26 09:51
 この世で帰る場所は生家でしょう。両親が他界するなど何らかの事情で帰る家がない人は本当にお気の毒です。私が死んで還る場所はお浄土です。お浄土がどういうところかはお経で書かれている以外には分かりません。行ってみたら、本当はそういうところではないかもしれません。でも全部仏さままかせなので何の心配もしていません。本当は仏さまといろいろお話ししたいところですが、還ったら、休まずすぐに、別の私が働くべき場所に赴きます。苦しんでいる人が無くならない限りお休みにならない仏さまのお手伝いの真似事をさせていただくべく、ただそれだけで存在しておるのだと最近は感じます。仏というのが何となくしっくりこない方は真理と置き換えていただいてもいいです。
感謝していること
 今日から講義が始まります。大学院で学生としていろいろなことができることに有難く感謝いたします。
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この世のことは自分軸を持ちメタ認知が出来たら何とかなるけど、あの世のことは仏さままかせ

2018/09/25 23:47
 人間の煩悩からくる心理的な悩みは自分の内側に軸をしっかり持ち、耐えられない時は高みから自分を見下ろすような客観的な考え方ができれば、不治の病に罹るとか、不慮の事故に遭うとか、殺されない限り取り返しのつかないものである死は免れます。

 死の解決だけは自分の考えをスッカリ抜いて、止めて、疑いなく仏を信じるしかありません。メタ認知も思考ですから、それも捨てないとなりません。口にただ念仏を称えて、信じた振りをしていても、心のどこかで助かったのか助かっていないのか不安だったり、死後が気になって恐怖に怯えている内は本当に仏さまにまかせたとは言えません。ほんのわずかでも仏さまの願いに対して疑いが残っていても、迷いの六道からは抜けられません。また迷いのサイクルを繰り返す道が待っているだけです。悟りからは程遠い状態です。要するに助かったか、そうでないかだけです。間はありません。厳しい世界なのです。

 ターミナルケアで仏教を話すということは、こういう厳粛な事実をそのまま語ることになります。耳触りのいいことを言うのはうそをつくことになりますので、それはできません。本当の事を言うのは、多くの人が考える緩和ケアではないです。臨終の人に、仏さまの願いに対して疑いを持ったままだと救われません、落第ですと告げるのですから。話す方も聞く方もかなり厳しいです。臨終ぎりぎり間に合えばいいですが、間に合わない時は、また人間に生まれてくる時まで悟りはお預けです。それがいつになるかはわからないから「後生は一大事」なのです。

 昏睡状態の臨終の患者が突然意識を回復して、周りの人たちに対して「有難う」といって涙を流したとしても、それは救われたかどうはわかりません。きちんと仏教の話ができて、どのように有難いのいか、仏さまの願いへの疑いが晴れ、仏さまに完全におまかせの身になったのか詳しく聴くことも臨終の苦しい息の内では困難です。にこやかに息を引き取ったとしても、それが救われた姿かどうかは判断しがたいです。信心を獲得でいたか否か、それを判断できるのは自身も求道の道のりを歩き、真仮の水際を突破して、何人もの人に仏さまとのお出合いの直前までお手次で来ているひとです。

 誰でもが救われますが、今生に救われるとは限りません。いま、ここで救われますが、それは簡単ではないのです。仏さまの願いに対して疑いが一切なくなったときにだけ救われます。
感謝していること
 煩悩で欲しい、憎い、可愛いのは死ぬまでなくならないですが、仏の願いに対して疑いがすっかり晴れて、後生は仏さまにおまかせできたことは有難いと感謝して居ります。
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聴聞

2018/09/24 22:10
「往生を全部おまかせしたお方との二人旅を命が終るまで精一杯させていただきましょう」。このような尊い御説法を聴聞させていただきました。
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なぜ多くの人達は完全な安心満足の状態を求めることを諦めるのか

2018/09/21 22:36
 そんなものがないと初めから求めない人もいます。その中の多くは安寧の気持ちをペットなどに求めたりもします。一般の人と呼ばれる人たちです。自分がいい人だと思っているのがたちが悪いです。

 途中で世間的に上手く生きているような偽善者に魂を売り渡す人もいます。これがモラハラになります。

 ずっと諦めないで、苦労して努力して、人間で癒しを求める人もいます。自分が努力した分、見返りがくると根拠のないことを信じていて、つねに敗北感を感じ続ける惨めな生き方です。普通の人もモラハラも被害者意識の彼らを食い物に市、しゃぶりつくして捨てます。利用され放題です。怒らないおとなしい場合、言いたい放題言われたり、愚痴のゴミ箱のようになります。

 いずれも真理を見ようとしませんし、真理から逃げています。真理を求めることは厳しい道だと感覚的に何となくわかっているからです。

 それでも敢えて、真理を探し、邂逅を求めるひともいます。宗教として真理を探究するひともあります。邂逅まで辿りついたら今生の目的が果たせたと言えます。そうでなくても上記の三種類でない生き方ができるので、その点ではましかもしれません。

感謝していること
研究を重ねているといろいろなことが分かります。有難いです。


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自分を善人だと信じて疑わない一般人のあなたのためにという明らかに弱い者いじめの説教は不気味で不快

2018/09/20 22:29
 何とも言えず善人ぶったところが中途半端で超不快。

 もっと自分を知りなよ。

偽善なんじゃないかなって。

 それと、ジワジワ真綿で締め付けるように他人の善意や道徳心を責めるのよしな。
 問題はそこじゃないでしょ。

 本当に賢く人格的にも優れてる人は、言いたくても黙ってるし、言いたくない事でもいうときもある。

 そういうの見習って真似しなよ。

 まあ、優れた人は眩しすぎて近寄れないし、見習うべきところを受け取れないんだろうね。善人様にはね。

 私は善人じゃないので、責められても、ああそうですかとだけ被害を避けるべく関わりを避ける開き直った短い返しで応えるだけだけど。

 気の弱い臆病で本当にいい人を虐めるところを見ていると不愉快。

 あなたの為なんかじゃなくて、憂さ晴らしをしているだけでしょ?

 そういう偽善が見え隠れして、関わりたないし、一緒にいるのもだめ。


 めんどくさく、ウザい人たちは周りに害悪をまき散らすので、消えて欲しいけど、その人たちもそれで学んでるのだし、自分が距離を取ったらいいだけだときづいた。

感謝していること
 いろいろおかしなことを学ばせていただき感謝していますが、もうお腹一杯なのでいいです。

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自力の話をいくら極めても他力にはならず、別の方向に行く意味

2018/09/19 23:54
 自力を積み重ねた先が他力ではないからです。自力の最高峰が他力でもないです。
 全く性質も次元も異なるものです。

 法然聖人も親鸞聖人も蓮如上人も信心を得る過程の具体的体験はほとんど語っていらっしゃいません。私も聞かれれば話しますが、自分からは言いません。また、具体的な話をするとそれにこだわってしまい、救われるのが遠回りになり遅くなるので言わないことにしています。その代わりに仏教を求めている人たちにはお経やお聖教の文言などは伝えます。仏教徒でない人や信仰を持たない人達には、他力から見た自力を手放す方向の話をします。

自力の人には自力も他力もどちらも分かりません。他力のひとには自力も他力もよく分かります。他力が分からん人で後生が苦になって仏教を求めていない人にあなたの話は難しいとか心に響かないと言われても、仕方のない人たちだと感じるだけです。譬えを出したり角度を変えても、自力を捨てたい、他力が知りたいと真剣になっていないひとにはおとぎ話にしか聞こえないことも十分わかっています。また恩寵主義の有難いのが信心だとして自力が廃ったことが問題になっていない人達も何だかなぁと感じます。分かる人には分かる、分からない人には分からない世界だからです。

分からない人でも二通りいます。お前の話し方が下手で難しいからわからないし、心に響かないんだと私のせいにする人たちもいます。別の人たちはよく分からないけれど、自分の常識を超えた世界があるのかもしれないと考えます。私は誰かの煩悩を分かることができる思いません。自分の心の風景と他人の心で見たものは違うことが分かっているからです。自分自分は正直でいますが、共感や受容はできるし適当に合せますが、他力のわからない話を時々混ぜて話すと、分からないと怒りだす人と、不思議だけれどそういうことがあるのかもしれないと感じる人いろいろです。

ある程度まであなたのことは分かっていると付き合わないと、人間は心の底から分かり合うことなどできないのだという厳粛な事実に気が付きません。何時まで経っても、人間同士が分かり合えるという甘い幻想にしがみつきます。面倒で仕方ないですが、真剣にカウンセリングなどを極めようとすると違う方向に行くので適当にかつ常に自力を手放す方向性を示しながら楽しむことにしています。こんないい加減なことをしていても、真剣になる人には真剣に応えるし、初歩の人には初歩の対応、これが対機説法の真似事のカウンセリングというものかもしれません。所詮方便ではありますが、自力で必死になっている人にはそれが分かりませんので、厄介でウザくて面倒です。でも仕方ありません。本人たちは彼らなりに真剣なのですから。上から目線のように取られたら失礼します。

感謝していること
 ずっとメタ認知の感覚を持って生きてきているので、死なずに済んだのだと感謝しています。生来、喜怒哀楽に対しては私は薄い気持ちしかありませんでしたが、さらに最近は、アッサリしてきています。
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結婚はモラハラ目的ではなく、お互いをありのままに受け要るためのもの

2018/09/17 18:10
 余計な執着や比較を持つ人と、それを超え、そんなことでは安寧満足の内に生きられないことにきづいている人とでは住む世界が違うのです。だから相交わることはありません。途中で片方がきづいた場合、モラハラは逃れられますが、きづかない相手と違う世界で生きることは一種の修行のようなものとなります。その修行で一生を終えるか、別の環境で自分が成すべきことをするかは思案のしどころです。
 
同じようなきづきの内にいる人と一緒にいることが情緒の安定をもたらし、トラブルも避けられます。それでも、何とかきづく方法があるのではないかと、私は模索しています。最近は、真理との邂逅がそのカギを握っているような気がしてなりません。この真理との実践事例を集めて、なんらかの道しるべが確立できたら、人間同士もっと優しく暮らせる気がします。研究はまだ端緒に就いたばかりなので、まだ見通しがついていませんができることを粛々としてまいります。

感謝していること
何かの渦中にあるのではなく、客観視した時、はじめて研究が始められることにきづきました。有難いです。
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ひととしての真摯さや矜持を持つことを頑なに拒否するモラハラ加害者の生き方

2018/09/17 17:43
 自分自身をメタ認知できる能力があり、どうするか選べる知恵を持つ人達には、罪悪感を感じるのを拒否する生き方を選べます。
そして楽に楽しく生きる方法として、他人に虐待し、責任を押し付け続ける生き方を選択します。こんなことをすると自分自身の魂を何者かに売渡し、真理からどんどん遠ざかる気がします。それでも、そうせざるを得ない状況に追い込まれた人達は、他人を虐め抜き、自身の責任を押し付けることでこころの安定を図るのです。罪悪感から逃げるには、自分の罪悪感を肩代わりしてくれるような、被害者体質の人を常に側に置いておく必要があります。

このようなモラハラ加害者体質にも一応は良心というものがありますが、その良心を感じると苦しいので、自分が好き勝手しても、反撃してこない獲物を見つけると、上記のような態度を繰り返すのです。

被害者側が、何とか罪悪感を与えて、改心して欲しいと願っても、劣ったものと見なして、馬鹿にしているのでそれは叶いません。モラハラ加害者はあらゆる屁理屈や信じられない言い訳や嘘で、罪悪感を巧妙な手口を使ってすり抜けるのです。

できれば、逃げられなくなる状況に陥る前に、モラハラをするような人たちとは距離を置き、関わらないのに越したことはありません。それでも、モラハラ加害者は、被害者を確保する手立てにおいては優れた能力を発揮します。加害者は、モラハラをしないでは生きられないので、それは死活問題だからです。もうこれで大丈夫だというとき、婚姻届を出したとき、もしくは子どもが生まれた時など、一番愛情を分かち合える時に、豹変します。モラハラ加害者はモラハラをするために結婚して、子どもを釣るのです。周りの人たちは、なぜ、そんな幸福絶頂の時に別れたり、するのかといぶかりますがそういうことです。

世の中にモラハラなど無くなり、自分が自分らしくありのままで真摯に矜持を以て生きられるようになることを私は願って止みません。

感謝していること
執着や他人と比較する感覚がどんどん薄れてきて、モラハラに対する抗体が高まってきた気がします。有難いです。
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一緒にいて消耗する人とは距離を置く癖をつける

2018/09/16 22:40
 特別、なことをしてくれる人なんて要りません。
 相手が、気分の悪くなるイレギュラーなことをしてくれなければそれでいいです。
 
何か聞いて、もし知っていたら、それに対して真摯に応えてくれる。
 知らなかったら、知りませんとだけ答える。もしほかに知っていそうな人がいたらそれを紹介する。とても簡単なことです。
 誰かの何かの役に立てるならよろこんで、自分の知っていることは私は伝えようとしています。
 
 何かの集まりを呼びかけた時、とても嫌なことがあります。
 たとえ、リタイア後の人であったとしても、誰も暇な人はいません。
 みんな時間をやりくりしています。
 ただ、空いている日を言えばいいのに、予定を変更したので行けます、大丈夫と言ってくる人いますよね。その言い方は、今後は、止めた方がいいです。
 忙しいのに、わざわざ時間を取ってやっているという、嫌な感じがします。
 他のことの方が大事だけど、時間を作ったからという恩着せがましい感じを他人に与えるということが分からないのでしょうか。分からないなら仕方ありません。
 
 今目の前にいる人に対して、上から目線で低く扱うこと、負い目を感じさせること、疎外感や、仲間外れなどしている人は尊敬されません。スウーっと人がいつの間にか周りから離れていきます。同じように他人を大切にしない表面だけいい顔をする人が寄ってきて、気持ちの裏を読んだり、駆け引きや損得勘定でしか付き合えません。それが刺激的で楽しいなら、死ぬまで続けてくれて結構です。私はずっとそういう自分が消耗することを避けてきてし、これからも関わりません。

 消耗しそうだと感じたら、引いて距離を取る癖をつけると、案外気分良く過ごせます。お試しあれ。

感謝していること
 8月からの日本や海外のフィールドワークなどより帰国して10日ほど経ちます。昨日まで論文に取り掛かっていたので、休んだ気がしませんでしたが、これからはしばらく、家でゆっくり休めそうです。好きなものを食べて、バスタブにつかりながら、いろいろ考えようと思います。休息がとれるのは有難いです。
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傾聴的カウンセリングと信心の沙汰の関係性

2018/09/15 14:39
 生まれてから今に至るまで、ずっとですが、私は人間の煩悩の喜怒哀楽にさほど関心がありません。醒めた目で世の中を眺めてきましたし、ずっと変わりません。どうせ今生、後は死ぬだけなので、私にとっては、何もかもが、どうでもいいのです。ただ、例外として、親しくしていた身近な人が死ぬという最悪の事態だけは耐えられません。どうしても執着してしまいます。他はなんとでも取り返しがつきます。生き別れになったり、絶縁状態であっても、プツンとキレた糸はまたつながることもあるかもしれないし、つながらなかったらそれは縁がないと諦められます。でも、真理との邂逅を済ませ、よろこびの気持ちを分かち合っている人が死んでしまったら、リアルタイムで、もう姿を見ることもできないし、声を聞くこともできません。これほど悲しく辛いことはありません。

  自身が今死んだらどうなるのだろうと物心ついた時から気になっていて、それをずっと思い悩み解決できた経験があり、それ以後は、同じように死の解決をしたい人に話をしたり、文章を書いて余生を送っています。私自身は、相変わらず、世間の人たちが好むような喜怒哀楽に対して弱い関心しか持てずにいます。死の解決が済んだからといって、急に人格が変わり、いい人になる訳ではありません。反対に、特別、薄情になることもありません。以前とあまり変わりませんが、強いて言えば、人が死ぬこと以外は執着が減り、淡々とした水のような関わり方をだんだんに好むようにはなりました。

 こんな状態であるにもかかわらず、死の解決の話をしようとすると、ほとんどの人がいきなり本題に入らせてくれません。まず、心理的もしくは人間的問題を口にします。私は内心どうでもいいのにとか、これが解決しても別の問題が惹起するだろうと聞いています。「黙れ」とか「聞きたくない」というのは自分がされたら嫌だし、関係がそこで終わってしまうので、とりあえず聞きます。もし、自分がこのような事を言われたら、モラハラの被害を受けたと捉え、その人との信頼関係が終わり、即座に距離を置くので、私はよほど腹に据えかねる場合で、自分から縁を切りたいとき以外は、絶対に口にしません。

  そして、話している内に、心理的・人間的問題は、本当は軽い類の問題であると、話した人は何となく気づく人もたまにいます。私が、それらよりももっと深刻で今生で息が切れるまでに解決しなくてはならない死の問題の方向を見ているからなのかどうかは分かりません。対話を重ねていき、どういう方向でこの人と関わろうかとその都度考えます。

対話は大切だと感じます。特に初めのうちの傾聴を経て、相手がどんな人か知るところまで関わること抜きにはその先に進めません。例外として、いきなり仏教の話ができた人も何人かいました。そういう人たちとは今でも深い信頼関係が継続しています。これは例外であって滅多にないことだと今更ながらに知らされます。

私としては、人間同士の関係は、深くかかわることをあまり望みませんので、あまり気が進みませんが、自分がずっと悩んできたことが解決できたので、それを望んでいる人は放って置けません。本当にうっすらと使命感はありますが、私は妙好人ではないので、いい人じゃないし、いい人にはなれません。死の解決を話すことは趣味でも生き甲斐でもありませんが、ほかに何もしたいこともないのでさせていただいています。死の解決を望んで話してくれと言ってきた人に話し、成就した瞬間だけは達成感がありますが、その人たちの煩悩が無くなったわけではないので、じきにいろいろ文句を言いだしたり、一緒にほかの誰かに対して話をしたいとも言い出さないことに対して、こんなものだと薄い関心しか持たなくなります。余り感動的な話じゃなくてすみません。

感謝していること
 死の解決ができただけで、それだけで、私は、今生は常に安寧の時間を過ごしていられるので満足だと有難く感じております。


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宮本常一の対話・文章にみた、ざらざらごつごつして何か引っかかる感覚

2018/09/14 09:23
 私はインタビューよりも何倍ものカウンセリングや布教(信心沙汰)での対話をしています。自分でいうのもおかしなことですが、私は、おそらく、インタビューアーとしてよりよく質問し、聴けるのではないかという感覚があります。
 
従来のカウンセリングのやり方といわれる、ただ傾聴するのみの在り方であるならば、私はカウンセラーには成り切れていないかもしれません。対話というのは相手の言うことに応じて、応答していくものです。しかしながら宗教カウンセリング、及びスピリチュアルカウンセリングにおいては、ある一定の方向性があるのです。それは真理のようなものとの邂逅を目指し、自力を徹底的に排除していく過程なのです。

一般の人間の悩みである人と人の関わりや愛着や貧・病・争は、本人が自分の内面から引き出す従来のカウンセリングでも間に合いますし、そのようなカウンセリングの態度が良い場合も多いです。
しかしながら、生死いづべき道や人間存在としての悩みは自分の中に解決方法などありません。自分ができることがあるとすれば、真理のようなものの存在を知らせてもらい、ただ自力を手放すこと一つです。これはできることというよりも、出来ない事を知らされ、真理のようなものにゆだねるやり方です。相談者の内面にあるものを聴き続けても、それは相対的なことで栓がなく、延々と限りなくエンドレスな状態です。それから抜ける智慧を宗教は示すのです。

宮本常一という民俗学者がいました。彼は人の話を聞き出すのがとても上手でした。相手の懐にするりと入り込んで、ほかの人が聞き得なかったことを聞き出しました。インタビューといっても対話です。対話は相手との相互作用なのです。話す方は相手がどこまで自分の話を聞いてくれるか常に見極めます。話しながら、次に話す内容を考え、少しずつ小出しにして、理解してくれたなら、その先を話し、そうでないなら別のもっと浅い話をするか話題を変えたりもします。
学問の世界には質的調査というものがあります。量的調査という多数の人に行うインタビューやアンケートとは異なるものです。ある個人とじっくり関わり話を聞いていくものです。そのとき聞き手が器の大きい何でも受け入れてくれるそう経験豊かな人であるか、大学を卒業して、大学院に入りようやく研究者の道に入ったような社会経験も内容な人とでは、話し手の放す内容はおのずと異なることは当然です。

人文科学において、有用な仕事を残す研究者もしくはカウンセラーのような仕事をする人は、大きな器で研究対象や相談者を否定せずに受け止める度量・器量ある人です。これは訓練というよりもその人の生まれ持った才覚や気質が大きく関係するので、ある一定のレベルからはその才能の有無で進めなくなります。そのときに別の道を行くか、しがみつくかはその人の考え一つです。

才能のある人の話や書く文章や対話の内容は滑らかな美しいものではなく、ある意味ざらざら、ごつごつしたひっかかりのあるものであることが、多くの論文を読んで、もしくは対話を重ねて、きて分かり始めたところです。換言すると、このひっかかりが分かるということは、自身がそのことに深い関心を持ち関わろうという意思の有無であります。文章や対談でひっかかりをある種心待ちにして探してやろうという楽しみがこの頃は出てきました。これが研究の醍醐味なのかもしれません。

感謝していること
 論文を書いていて、結論がなかなか見つからなくて、あれこれ寄り道をしていましたが、その中で何か一筋の道が見えてきました。有難いです。
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真理とは縁がある人にしか響かず、縁のない人は知ることもない

2018/09/12 23:54
 これは厳粛で納得できる理に適う事実です。

 まず、縁がないから、ある人たちにはやって来ないのです。

 仮に縁が側を通ったとしても、敢えて嫌って避けたりすることもあり、きづきません。

 何かの拍子に真理の書いてある文章を読んでも、自分に関係のあることだとは感じられず、表面でしか意味が取れずにいて後々まで残りません。同じ文章を読んでも、受け取り方は千差万別であり、そこから学ぶ人もあり、怒りを感じる人もあり、何も感じない人もあるのです。


 この世の中は本当にそれぞれが求めるちょうどいい程度のものを、受け取ります。

 逆に言えば、縁が来たならばどんどん流れに沿って、真理を受け取り、その意味が教えられる訳でもないのに分かってきてしまいます。

 これを不平等と感じるか、摂理の在り様と捉えるかはひとそれぞれでしょう。それ程、縁というものは不思議なものであり、また有難いものでもあります。


 この世は、人間の世界というものは自分がしたことが全部報われる世界ではないことがだんだん知らされてきました。ほとんどの人は過去世も未来世も信じないので、今生で自分のしたことが返ってくると期待します。過去世でまいた種が表せれること、今生でまいた種がずっと後で芽が出ることなど思いもよらないのでしょう。

 善いことを続けて行っても、誤解され、お節介だと嫌われ、何もしていないのに疎まれることの方が多いのです。釈尊でさえ謗る人や無関心の人もありました。従兄弟の提婆達多に至っては釈尊を仇のように憎み殺そうとさえしました。

 こういう不条理なことが横行する人間の世で、自分のしたことが報われるのは一部のことでしかないことを皆薄々感じていますが、表立って大きな声で言うのは憚ります。だから、今は辛いけれど我慢したら人も環境も変わると辛抱して苦しむ人が出てきます。そういう人には、もう我慢しなくていいから、自分に合う、自分が学べる別の環境を探したらいいと言ってあげたらいいです。我慢強いばかりに暴力や暴言の中で真理との出合いも出来ずに今生を終わってしまうのは残念ですから。

 私の蒔いている真理との邂逅を促す種は、一向に報われないかもしれないし、誰も読まないかもしれませんが、それでも一人でも誰かが何かを感じてくれたらいいと諦めずに続けて書かせていただいております。

感謝していること
 今日は聞法会館の昼の御法座に参詣して、その帰り、売店で論文の資料になる新刊本を見つけました。有難いです。


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言葉では伝えられない・伝わらないその先のこと

2018/09/12 09:39
 相互に受け入れる気持ちを持った者同士が、互いの言葉を以て、そのままのありのままの透明な自分を出し切って、受容し合い、共感し尽くしたところまでの話し合い、もしくは、カウンセリングすらなされることなく多くの人の人生が終わっていきます。欲や怒りや愚痴である煩悩の話ならいくらでもできますが、それは取りとめも栓もなく一時の満足をもたらす夢物語であったことをその終焉で人間は思い知らされます。

毎日が多忙で、次から次へとこなさなければならない仕事や時間に追われる現代社会の中で、誰かと真摯に関わり合い、胸の内を洗いざらい打ち明けることもないまま、何のためにどこに向かって生きているのか分からないまま臨終を迎えます。自宅あるいは病院の寝床の上で、はじめて人はその人生を振り返ることになります。事故死や突然死でなく、不治の病を患い病床にある時になって、やっと人は自分の人生と向き合い、自分がしたことを振り返り、次に自分はどうなっていくのかに心がかかりはじめます。

そうなったときに、どんなに言葉ではわかり合えていたと感じていた誰も一緒に死んでくれる訳でもなく、蓄えた財産や知識は何も間に合わず、自分この先どうなるのだろうかという自身の「存在そのもの」の悩みに直面するのです。それまで悩みは生きるために「何を持つ」かの問題であり、「存在そのもの」の悩みは陰に隠れている人がほとんどです。「何を持つか」の自他の競争に精力を傾け、それに終始します。ただ、生きること、今のルーティンワークをこなすことしか考えにないので、何のために生きて、死んだらどうなるのかなどは考えず、見ないようにします。そのつけが臨終に突然やってきて、多くの人は狼狽え慌てます。

そんなとき、身近な親しい誰かやカウンセラーなどが話を聞いてくれようとします。今まで時間がなく話を聞いてもらえなかったので、「何を持つ」かを必死になってきた人生を振り返り、話をします。話を十分に受け入れてもらったとき、自分が本当にしたかった話は「存在そのもの」の話であったことにきがつきます。友人・知人や宗教家ではないカウンセラーは、死を目の前にした人たちの「存在そのもの」の話ができる専門家ではありません。「存在そのもの」への悩み、不安は言葉にならない、言葉を超えた真理もしくは宗教的な領域であるので、その専門家にゆだねるしかありません。

しかしながら、十分に「何を持つ」か必死に生きたことを誰かに話し終えてからでないと、「存在そのもの」の悩みに行きつかないこともあります。それゆえ、話を聞いてくれる近しい人やカウンセラーの存在の存在価値があるのです。「何を持つ」かだけを聞いてもらっただけで満足する人もあります。それはそれで構いませんが、その先の言葉も及ばない分野は専門家の仕事です。それにきづくまでの十分な話し合い、分かち合いを家族や友人、もしくはカウンセラーは担うことになります。仏教で真実に至るまでのものを方便と言いますが、そのような役割であり、これはこれで大切なことであり、ここを通らないと「存在そのもの」の悩みがあることを知り、それを解決するところには到達できないのです。

臨終のその最期にいきなり「存在そのもの」の悩みは、突如姿を現しますが、そうなる前に、平生元気な時に、その悩みを真理との邂逅を果たすことでできます。臨終はそれができる最後のチャンスですが、そこまで延ばすことは、悩みを取り去ることができない内に命が終る可能性のあるとても危険な賭けのようなものです。

どうか一日も早く、「何かを持つ」悩みから「存在そのもの」の悩みにシフトし、その悩みをスッカリ晴らして、残りの人生を送られることを念じて止みません。
感謝していること
 「存在そのもの」の悩みは、真理との出合うことで、全てをゆだねられたときに、驚くほど速く見事に跡形もなく消えます。臨終までに間にあったことに感謝します。
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日本が誇れる公設の水道技術

2018/09/11 12:54
 そのほとんどを地方自治体が担う水道施設の高度な技術の有り難さを海外にいる時に実感します。海外旅行に行くとき水を持参します。そして帰る時までに使い切るということを繰り返してきました。フィリピンではホテルにミネラルウォーターが常設されていて、水を買うことはありませんでした。持参の水もあまりました。中国では列車の移動などもあり、そこには熱湯しかありませんでした。だから途中、1元の550mlの水と、帰りの船のために4元の4ℓの水を二回買いました。船には水があり、少し余りました。

 私が旅行した海外の国で日本人の私が蛇口から水道水が飲める国は少ないです。そのためいつも大き目のスーツケースに炭酸入りのミネラルウォーター何本か入れていきます。これは大変な負荷をもたらしますが、水を海外で買うと高いし、不安なので飲みなれたものを持参します。

 そして下水道の設備が整っておらず、トイレで使用した紙は備え付けの容器に捨てるところが多いのにも不便さを感じます。臭いもきつく、見た目もよくなく、何とかならないものかといつも困っています。話はずれますが、ホテルや一部の場所以外ではトイレットペーパーもなく、より高額なティッシュペーパーを買わなければなりません。トイレットペーパーを置いておくと持って行ってしまう人があるらしいです。これにも違和感があります。たとえ紙といえども他人の物を持って行くのはいかがなものかと思います。

 日本が誇れる水道技術は高速鉄道などよりも役に立つと私には感じられます。民間に移行するのではなく、地方公共団体の仕事として、海外の水道事業に貢献することを願います。災害の時も、公設であるが故に、復旧も早くできます。また、ライフラインで、不払いがある時に、一番最後に止まるのは水です。それほど水は大切です。

 安易にいのちの最後の砦である。民間に仕事をまかせることは危険だと私は危惧します。海外でも民間に委託して、国民が高額の水道代を払うことになるなど、酷い状態になり、また慌てて公設にした例がいくつもあるのになぜ今、時代の逆行をするのか理解しかねます。

 私は世界中を旅して、日本の水道技術ほど他国の役に立つものはないと、それを誇り、色々な国の人に話しています。海外に出ないと今、当然にある物の有難味は分かりにくいものです。

感謝していること
 日本に帰ってきて、トイレが綺麗で、水も何の心配もなく使えることが有難いと感謝しております。
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人間同士における信頼関係

2018/09/10 11:19
 分かり合おうとしても別の業を持っているので完全にわかり合うことはできません。
 歩み寄り、近づく事はできますが、それも限界があります。
 親や近しい人である配偶者や恋人などが話を聞いてくれたとしても、別の人間なので完全な一致をみることはできません。訓練を積んだカウンセラーなら表面的には受け入れてもらい、自分の気持ちを理解してもらえたという気持ちになることもありますが、究極のところでは孤独を癒すことは皆無であると知らされます。

 信頼関係の最も強い絆であると認識されているものは、親子関係です。親が子どもを養育することを放棄すると世間から当然の如く非難されます。子どもが親に対して肉体的、精神的に危害を加え、殺すような存在であったとしても、それを何とかするのが親の役目だと世間の無責任な人たちは言い続けます。
次に強いとされるのは夫婦や恋人の関係です。婚姻届という紙で契約を結ぶことにより、行政から多少の恩恵を受ける代わりに、貞操義務という信頼関係が課されます。恋人は形としての縛りはありませんが、片方が不貞に及ぶとその時点で関係が破棄されますので、夫婦と似たような信頼関係が求められます。

実際手をかけて相手を殺すとか、傷つけるとか、不倫をするとかはしなくても、心で傷つけ殺し、他者との不倫を考え、言葉で威圧して相手を黙らせたり、罵ったりすることは日常に行われますが、それは身体的な作為ほど大して問題にされません。しかし、心がその人の存在の元であり、行動よりも簡単にできる言葉もその人の人格を表します。
何をやっているか、何を言っているか、そして何を思っているかをトータルで見ていく必要があるのです。

よくよく人間の本性を見ていくと、結局自分が大事で、他人のことは後回しである人間の本性に辿りつきます。欲や怒りや愚痴の煩悩が出たら平気で他人を傷つけ、殺すことも厭わないのが人間の本性なのです。ただ、縁が来ないからしないだけです。
しかるべき縁が来たら何でもする人間ではありますが、真理との邂逅ができた人はこれらがよくわかるので、自重して生きるようになります。周りの人に対してもなるべく自分を後回しにして、その人が真理との邂逅ができるようなサポートに回ります。なぜなら、自分はもう真理との間の信頼関係ができているので、人間に対してそれほど信頼関係を強要する必要がないからです。そして同じような体験ができた人同士では、真の意味で心から、お互い譲り合い、思い遣ることができます。

以上、分かる人には分かりますが、分からない人には分からない話です。

感謝していること
 人間に対して過剰な信頼関係を求め、縛ることが無くても平気になったことは有難いと感謝しております。
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共に死すべき存在と認識し、死の解決の上、損得や上下関係を超え互いに愛おしく感じられる関係

2018/09/09 20:37
 たぶん「黙れ!」とかいう暴言も、ストレスを晴らすどんな暴力も必要のない状況になります。
 ただ生きていてくれたらいい、何もしてくれなくても、言わなくてもいいから、穏やかにこの世に存在していてくれさえすればいいだけです。その人の存在そのものをリスペクトするだけです。

 私はこの世に何も未練はありません。ただ、自分が不安で仕方なかった死の解決を文章にしたためてから、いのちを終えたいと願っています。食べたいものも着たい服も住みたい大きな家も行きたいところもありません。もちろん、来てくれと言われれば行きますが。私には望みも願いもありません。ただ、死すべきことを認識し合えた人同士が、死の解決を終えて穏やかに互いを慈しみ合って生きていられたらそれだけでいいです。他には何も要りません。

 仏教も含めた人々の夢を運んだシルクロードを旅して、人生は儚い夢であるとさらに深く確信しました。欲望は尽きませんが、終わりは必ず来ます。いろいろなことを整理して、これは残したいというものだけ残して、故郷に還っていきます。

感謝していること
 有情無情の様々なお蔭で生きていられることを有難く感謝します。
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眼に見えないものが大事だってわからない?

2018/09/09 13:40
 言葉や態度で私は自身の娘や周りの人たちにどれくらいこのことを伝えて来たか分かりません。でも、目に見えないものの重要性を自分が望むようには伝わっている感覚がありません。
 
態度で見せても、地味であまりにも控えめで伝わらないのか、言葉も表面が行き違ってそれを修復できないままでいるのか、そこら辺がよく分かりません。物事はいのちも含めて無常で今の形の輝きをこの先、とどめません。過去に執着してもそれは終わったことです。未来は来るか来ないか分かりません。
 
 今、真理との邂逅を果たし、全てを分かち合い、いのちすらまかせられる状態を永遠に獲られた時から、真に私の存在が輝き始めます。安寧と満足の中の私がいつまでも続く大きないのちの力や智慧の光に護られているのを楽しめます。

感謝していること
 特別なことがなくても、どんなことをしていても、なぜか大きないのちの力や智慧の光に護られ満たされていて、無理しなくてもちょうどいい感覚を続けられていることに感謝します。
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仏教が民衆の信仰として残った最後の場所で私ができること

2018/09/09 12:02
 私が出会った、インド・中国・フィリピンでは、自国の人から阿弥陀仏や南無阿弥陀仏を教えられた人は皆無でした。 阿弥陀仏や阿弥陀仏の本願や日本人から聞いたり、経典や聖教で知っている人はいても、本当に救われる道、真理として知る人はいませんでした。

 とても残念で悲しいことです。

 しかしながら、大乗相応の地、日域である日本には浄土真宗が根付いています。そして、阿弥陀仏の願いが説法として東西本願寺を始め、日本全国の別院、そして海外の別院で説かれています。そこでご縁を結ぶ人もあります。本当に救われる人も僅かですがあります。

 英訳の翻訳本として稲垣瑞劔氏の歎異鈔やほかの書籍はヨーロッパで読み継がれていて、真実信心を求める人たちもあります。鈴木大拙氏の禅を中心とした仏教の翻訳とは別のルートでそれらは欧州の人々に根付いています。隔年で欧州真宗会議が行われています。前回のベルギーのアントワープは発表させていただきました。今回のサウサンプトンはシルクロートツアーと重なりご縁がありませんでしたが、行われたそうです。


 昨年はロシアのサンクトペテルブルグとモスクワに行きました。中国は香港の2回も含めて5回行きました。台湾の5回も含めると10回以上行っています。この二つの国や地域に、仏教や宗教の話をすることはかなりの地慣らしが必要な気がします。インドやネパールも同様な感覚を持ちます。

 まず、日本や欧州で論文や学会発表をし、それを見聞きした他の地域の人がいつかは阿弥陀仏の本願に興味を持ち、信仰として関わり、救われることを念じて止みません。

感謝していること
 いろいろな地域に実際行ってみて、自分の使命をより迅速に多くの人たちに伝えられるプランを建てられることは有難いと感謝しております。
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人間の誰に認められなくても真理と一緒ならそれで構わない

2018/09/08 19:37
 創造主なんていない!

 何できづかないの?

 真理は誰も造らない。

 ありのままを尊重し、よりよく存在できるように力添えするだけ。

 気まぐれで、私を造り、罪と罰を与える創造主なんていらないし、親もいらない。


 私は私で自由だし、人間の誰がいなくても真理と共にいる感覚が続いている。

 それが書けたらどんなにいいかって感じる。


 自分の顔写真も、美味しい食べ物も、どこか珍しいところに行ったことも、単なる自慢でSNSに載せるのは変だと思う。

 そんなことを今回の旅で感じた。

 もっともっと大切なことがあるじゃないの?

 それをきづくのは今生?それとも何回も生まれ変わったずっと先?

 死んじゃう前に、みんながきづいてくれたらいいっていつも願ってる。

感謝していること
 どこにも求めるものはないし、求める人もいない、心の中にある真理のみしか信用できない。それを死ぬまで突きつけられ続けるのが真理との邂逅後の世界なのでしょうか。有難いけれど、反面、辛いものですね。


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ユートピアなんてどこにもない!

2018/09/08 19:27
インドにも中国にも日本にも、ユートピアというような場所はありません。

 私はそこに実際行って来て確かめてきました。(笑)




 ユートピアの存在は真理との邂逅を果たした心境にあります。

 それは形ではありません。あくまでも感覚を超えた自身の存在のみ。

 形のある物しか信じられないから、人はそれで苦しみます。

 

 探して探して、確かめて確かめて、見つけても信じられなくて、疑い続けて、傷つけ合い、しまいには壊してしまいます。それは本当の信頼関係ではないからです。

 何もしなくても、何も言わなくても、相手が自分に関心がなくても、ずっと心をかけていられるのが本当に心がつながった関係です。




 人間同士ではできません。真理との邂逅をした人同士なら、真理とのつながりを通して分かり合えることも少しはあります。でも所詮煩悩を持った人間同士、不完全です。肉体を離れ仏同士に成れたとき、完全につながれます。それまでは、不完全であることを認め合いながら、分かり合えるところにファーカスしていくしかありません。そう割り切れる人の間なら少しは休めます。緊張していなくて済みます。




 感謝していること

 形を離れ、心の目でいろいろなものを見ることができるようになり、要らないことを思わなくなり、少しは楽です。私は何も考えないでいられる人といるときか、ものを書いている時間が一番自由でいられます。そういう時間は有難いです。


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自分の機嫌を自分で取れないなら赤ん坊からやり直せ!

2018/09/08 11:44
 喜怒哀楽の調節ができず、突然泣き出して、誰かが慰めに回る。

 我慢していて、耐えられなくなり、誰かに看病させる。

 心身共に酷くなる前に予測できることは、早めに自分で何とかすべし。

 それができないから、人間同士、摩擦が生じる。




 赤ん坊の時からネグレストや虐待を受ける環境にいたなら、そこからやり直すしかない。

 それをしてくれる人は滅多にいないが、探し続けるのも人生かも。




 誰かの世話になり、助けられる時が終ったら、今度は助ける役割をする。

 そうなれるまでに、限りなく人間に生まれる必要がある人もある。




 何かとても面倒。

 もう、終わりにしたいけれど、エンドレスに感じられるのが迷いの世界。

 真理との邂逅で迷いが終わっても、また迷いに関わる不思議な智慧のシステムは人間の知識や感覚・感情を超える。




感謝していること

 静寂で更に求めるものがない満たされた世界があることを信知出来たことはとても不思議で有難いです。


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悪口は冗談だと赦し空気を読まなくてもいいし、殴る素振りは既に殴っている事実

2018/09/08 11:09
 他人に対して云った悪口は、後で冗談だと言い訳されても、それは本心です。
 殴る素振りも同様、既に殴っています。

 後付けの、言い訳は絶対信じてはなりません。

 悪口をいう人、人に暴力を加える人は自分が悪口を言われるか、別のストレスで、それを解消する獲物に当たっているだけです。言い訳をされても、そういう事実があったことを重く受け止めるべきです。
なぜかというと、満たされている人は悪口を言いませんし、暴力とは無縁です。

誤魔化されてはなりません。

悪口や、暴力の全くない世界は存在します。それは悟りの世界です。みんなが自分を後回し持して、まだ悟っていないひとを応援する世界です。そこまで行けていなくても、悪口や暴力を拒絶し、そんなこととは無縁の人生を送っていくべく精進してまいりましょう。

誤魔化されてはいけません。その人から出た悪口、暴力は後で言い訳して打ち消しても、許されることはありません。そういう人なのだと注意して、距離を取り、そうでない人たちと一緒にいることをお勧めします。まだ、刺激がほしいとかいうのなら敢えて止めませんが、いづれはそういう刺激もお腹一杯になって、もう結構という時が来ます。そう感じられる時まで、刺激ごっこを堪能してください。自虐や虐待に満ちた心身の痛みを通り抜けないとそれは痛いし、抜けようとは思えないのかもしれません。まあ楽しんでくださいとしか言えません。

感謝していること
悪口、暴言、暴力に無縁な世界を信知することができたことに有難く感謝します。
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執着・慣れ合い・偽(仮)の共感、受容、一致からの脱出

2018/09/08 10:46
 人間は群れて生き、限られた例外を除いては、一人では生きられない生き物です。
 他人との関わり合いの中で、本当に価値のある物を見つけます。
 そこにたどり着くまで、かなり長い距離を要します。

方便として、孤独を誰かといることで紛らわせようとします。
分かり合おうとすればするほど、誰かに依存し、執着してしまいます。
それが無理だと早々に諦めた人が、いわゆる一般の人、普通の人です。

諦められず、寄りかかろうとする人がいます。捕食者とでも言ったらいいでしょうか。捕食物である寄りかかられた方も、単なる人間なので、一杯一杯なので逃げたり、廃人化したり、死んだりします。

人生が苦しいのは、完全に自分をわかってくれる人がいないことが分からないで、不完全な人間に依存し執着するからです。
大きな器を持ち、何でも受け入れる真理の中に融合して、ありのままで生きられるような方向を示してくれるひとや書物に出合い、回心の体験ができたら、今生は成功です。それ以外は夢幻であるといつ気が付くか、それはその他人次第です。

感謝していること
何の不思議か一直線に真理を追求する気持ちが、人生の初期に芽生えたことに有難く感謝します。
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承認欲求

2018/09/07 23:57
 これ、苦手。
 まず、ほかの人間に褒めてもらおうと思ったことが一度もない。
 容姿も、才能も、どこかへ行ったことも、珍しいものを食べたことも、ただ事実がそこにあるだけで、それでいい。
 承認もだけど、共感も、容認も、一致も要らない。
 みんな違って、それでいい。

 べたべたした関係は苦手。
 水のような、さらりとして、流れていくのがいい。

 安定しない、無常の世の中を常のものとして考えるからそこに執着が生じる。
 そして、他人を縛り、命令し、言うことを聞かせようとする。
 それが、諍いや戦争を引き起こす。
 自分さえよければ、他人はどうでもよく、自分の手足のように使う奴隷のようなもの。
 限りなく使い倒して、ボロボロになり使用不可能になるまで利用し、動かなくなり、死ねば、ポイ捨てして忘れる。

 これが承認欲求の本質。別名自己愛性人格障害(モラハラ)
 怖い!
感謝していること
 安心満足は真理との邂逅から得られるということを、身を以て信知出来たことに、有難く感謝します。
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上海からの蘇州号上で天の川を見ながら感じたこと

2018/09/06 21:21
 私は自分が好きなことをして、望むように生きていく!
 誰かに何か言われようと、それはその人の考え。
 私は私の感じるままに、自分の道を行く。
 誰にも私に指図も強制もできない。
 
 次はどこの星で、どういう人生を送るのだろうかと一瞬思ったけれど、どこでもかまわない。別にどこにも生まれなくてもいいけれど、迷い苦しむ人がいて、助けて欲しいと願うなら、それができる光の存在でいる。
感謝していること
自分の残された命を愛おしみ生きていこうと改めて決意できました。

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