所詮、夢幻の世と信知できたのだから、そこで快適に過ごす道を行けばいいだけ

 全てを真理に委ねて、後生はおまかせなのに、私は全力疾走を止められずにいました。ふと、全力で取り組むやり方とは異なった視座を持ち、にこやかに優雅に生きてみてもいいのではないかという考えが浮かびました。全力で遊びのない生き方は自分ばかりではなく他人も疲れるかもしれません。怠惰なことを恥じ、時間内にできるだけの用事を詰め込んでこなしてきました。しかし、これがよかったのかは、私があまり気分がよくなかったことが多かったことからも違う気がしてきました。どういうやり方をしても結局は同じなのかもしれません。

 嫌なことと遭遇したら、それは嫌なことなのだと感じ、それがどんなふうに嫌だったのかをしっかり味わった後、いい勉強をさせていただいたと感謝できるようになって相済みなのかもしれません。私はやっと嫌だと感じられるようにはなり、嫌だと口にすることができるようにもなりました。そして、ただ、人間という入れ物を持った私が嫌なことを経験することで、真理との邂逅の話をするとき、認知的ではなく、情緒的に他人に対して共感、受容できるように少しは、なれたことに感謝できることも、徐々に増えてきました。最終的に、メタ認知の視座にまで落とし込めたら、そこで本当にその体験を手放せるのかもしれません。痛みを伴いはしますが、より、鮮明にきづく体験をさせていただいたとでもいうのでしょうか。三次元でしか体験できないものなのでしょう。

 しかし、同じ身体を持つことでの体験なら、嬉しいことや楽しいことを選んで、夢中になり、それを周りの人と慶び合うことを今後は選んでしてまいります。完全に他人を理解するのは難しいでしょうが、重なり合う部分が多い人を選んで、より多くの時間を接するようにしていけば、あまり嫌な気分にならないかもしれません。試していきます。

感謝していること
 合う人とは合う、合わない人とはどんなにたくさんの言葉を用い、時間を費やしてもすれ違い、傷つけ合うということを実感することができるようになりました。有難いです。

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