罪悪感の追求から離れられるまで

 真理を受け取ろうと邂逅を望んだ時、いい人にならねばと考える人が多くいます。悪を止め、善を行じる仏教でいわれる廃悪修善のことです。

 しかし、悪は底なしです。それを見ていっても、限も際もありません。そして三次元の人間として、生きるためには悪は造らなければならないものです。

 問題はそこではないのだときづいたときから、真の意味での求道が始まります。では善悪を超えたものとは何か、それが真理というのであればそれをどう受け取るのかに気持ちが向きます。それは宗教と表現されるところのものです。

 それを受け取るには疑いという蓋があるうちは何か安心満足ができません。そこを乗り越えたら本当に自分と一体化した気持ちになれます。だからといって、安易なまじないや奇跡でそこを突破できるわけでもありません。そこまでの過程を私はいろいろ説明してきました。それをまとめてきちんと文章化している最中です。以下に分かり易く誤解の内容に表現できるか、大学院に身を置きつつ、模索しています。

 罪悪を突き詰めていく過程で、自身のものばかりではなく周りの人たちの罪悪が気になり、争いを引き起こすことが20世紀では頻繁にあり、大きな戦争が度々ありました。これからは罪悪をみていくのではない、無常やほかのものでの真理との邂逅の道を私は模索しております。大変な道のりですが、できるところまでで今生の使命は終わります。

感謝していること
 罪悪を気にする人たちの間にあって、私は様々な違和感や忸怩たる気持ちを抱いてきました。これを活かし忘れることなく生かして人々が真理との邂逅を目指せる道筋の一つを提示できたら幸いです。


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