最近の記事

最近書いたものをまとめてみました

先日、信心の沙汰をした人と電話で話をしました。疑いが晴れたので、疑っているままで救われるのが尊い本願だと誤魔化すために称えていた念仏と違う念仏が出てくるようになったといわれていました。このまま、しばらく様子を見てくださいとお伝えしました。

「お手次ぎ」と「受け念仏」という概念を知りました。法座で話しの合間に合いの手のように念仏する老人たちにずっと違和感がありました。かつてのアイドル歌手の歌の合間に「〇〇ちゃ~ん」と叫ぶ人たちに対する嫌悪を惹起し、今でも超苦手です。私は大切なおもいは内に秘めます。

「お経の中にその名号を聞くと言われたのは凡夫そのままのお助けということ」
これに対してどう受けるか?

 もしもう少し生きられるなら、若いひとたちが後世の役に立つことをするお手伝いができたら嬉しいです。そうなれるといいなぁ

 世の中には信心獲得の人と未信の人がいます。信心の人の中にも仏恩報謝のために、阿弥陀仏のご本願をお話しされる方も、自分一人で法話や念仏を慶ぶ方もあります。私は残り少ない今生のいのちを一人でも、一言でも多くの方々に弥陀ましまして、今ここで救われることをお話ししています。

 学問の世界でもどういう方から教えを受けるかで、その後の研究や影響が異なってきます。御恩報謝の道も、どのような方から話を聞くかで、信後の活動が違ってきます。法然聖人を師に持たれたからこその親鸞聖人の御活躍だったのでしょう。

 「生けらば念仏の功つもり 死なば浄土へまいりなん とてもかくてもこの身には 思いわずらうことぞなき と思いぬれば 死生共にわずらいなし」(『法然上人行状絵図』巻第二十一)

 宗教的体験(信心獲得)をもって生死超える道を未だ知らない世界中の学者たちが、どうして真の人生観・死生学など語ることができようか。アカデミック人生論を私は誠に遺憾に感じます。

 生死を分けて死生学や人生哲学を講義し論文を書く世界中の学者に物申す。あなたたちは何もわかっていない。ただ、金や名誉や地位の為のくだらない仕事にくみしているだけだ!必ず臨終に大きな悔悟の念を起こすだろう。よくよく反省しなさい。

 信心がない人のことを批判するばかりで、信心のない人たちに自ら歩み寄り、対話を重ねて信心を賜ってもらう研鑽を怠っている人たちが、私は残念で遺憾です。でも、仕方ありません。御恩報謝の気持ちがないひとにいくら何を言っても始まりません。せいぜい自身の信心だけよろこんで自慢する生き方を楽しんでください。

 御縁、仏縁、宿善の薄い人たちは真実の仏の願いを話すと、鋭い刃でこちらに切り付けてきます。「お断りします」「聞きたくない」「取るに足らない話をする時間泥棒」悲しみながらも、今私が逃げたらほかに話す人がないと耐えるのは本当に辛いことです。

 私ただの凡夫なので、謗られ罵倒され罵倒されようと別に構いません。でも真実の仏の願いを謗る罪を造らせるのは残念で悲しいです。謗ることもご縁になると教えられても、仏さまに申し訳が立ちません。悔しくあわれで、悲しい中を生きていくのが娑婆世界というところなのでしょうか?辛すぎます。

 今死ぬと思えないから、信心の話など聞きたくない、お断りしますなどと呑気なことが言えるのだ。もう人生の折り返しをとっくに過ぎていながら、まだ、金や名誉や地位が欲しいのか?迷いの六道をまた輪廻されるのでしょうね。曠劫を迷い続けると親鸞聖人は仰せです。

オックスブリッチだ、ハーバードだ、極東の東大、京大だと威張ってみても、生死を超える道に出ていなければ、ただの自己満足の構ってチャン。やがて特別養護老人ホームで、風船バレーやペットボトルボーリングをしている仲間たちを馬鹿にしつつ、孤独に死ぬ怖い未来が待っています。

「遺体や遺骨を遺族に受け取り拒否される人生って一体何?」自治体から身内の死亡の連絡を受け、火葬代だけ払い、火葬場で見送りもせず、後はおまかせ。電車の網棚や公衆トイレ等に遺骨を放置された人を誰が嗤うの?人生を考え直さないと。

 どこからきて、何のために生まれ、生きて、どこに行くかすら分からないくせに学生たちの仕分けをして偉そうに教える教員に嫌悪感と違和感、そして憐れみの混じった感覚を抱きます

 サイコパス、モラハラ加害者(自己愛性人格障害)とは関わってはいけない。彼らは内省も、感情を言語化することもできない。これらを価値のないコスパの悪いものだと切り捨てるロジックを振り回し、誤魔化して煙に巻くのが得意だから。

 本当に頭が良い人は永遠の安寧、生死出る道、真理の邂逅を目指す。本当に綺麗な人は、内面の美しさを追求し、外見の美しさを他人にきづかれ、心の目が曇ることで、嫌な思いをしないよう普段は美しさを表に出さずに隠して、決してひけらかさない。

 ほとんど勉強せず、トップクラスの成績で難関国立医学部に入って出て、医師をしている友だちが何人かいます。その人たちから見下されたことはいまだかつてありません。世間的な記憶力などの頭のよさよりも、ひととしていま、ここで楽しむ時間を一緒に過ごしています。

エネルギー、オーラと一緒にたまに感じる何かがあります。スティッキー:いわゆるねばった、剥がしても油じみが残るような後味の悪さがある感覚です。でも、最近は、はりつかないうちにスッと少しズレるか、高速風力で飛ばすか、ぼやぼやしていて、付いてしまっても、高圧水流のイメージで洗い流します。

「宗教観を持たない日本の東大をはじめとする有名大学の男子学生やOBの精神年齢は幼稚園以下」
 決して、幼稚園児を馬鹿にするわけではありません。幼稚園児の中にも宗教観が育つ環境にあり、真剣に人生と対峙している男の子がいることを幼稚園の教員資格を持つ私は知っています。彼らに対しては尊敬の念を持って未来に素晴らしい活躍をされることを願っております。

 馬鹿野郎という言葉があります。この言葉においては、馬鹿は男と相場が決まっているのかもしれません。女が寄ってたかって、男をいたぶり、「突起物の付属する物」扱いする場面は全くないとは言いませんが、極めて少ないです。ほとんどの女性はだだ生活するだけで、本当に困難な状況に置かれていて、二流紙民扱いをされ、家事ロボットとして家庭では夫や子どもに扱われます。馬鹿野郎にそんな扱いを受け、こき使われる女性ですが、仕返しをしません。
 なぜなら、女はくだらないことに関わっていられるほど暇ではないからです。学齢期にはスクールカーストで気を使い、大学でやっと勉強に専念できると思ったら、大学の後半では卒論と並行して、就職活動が待っています。
 かなりの差別を潜り抜け、上手いこと就職して後、資格があるとか特出した能力を持ち自身で会社を立ち上げるなどする特別な機会に恵まれる女性もいます。しかし、現在の日本において、ほとんどの女性は責任のある仕事を任せてもらえません。正社員にしがみつくのは、非正規になるとボーナスも出ず、時給千円以下のパートタイムの仕事しかないからです。だから結婚しても、家事子育で夫の協力をほとんどあてにせず、感謝もされず、当たり前のような扱いで、家庭のあらゆる役割を一人で引き受け抜け殻のように疲れ果てる人生を送ることになります。

 このように女性たちは常に生活の家事に追われ、さらに補助的な家族を賄う金銭を得るための仕事に疲れ果てています。だから、男性を玩具にして性欲を満たしたりする時間などほとんどありません。そんなことをするなら何もせずに寝ていた方がよっぽどましです。
 学歴を鼻に掛けない、本当に優秀な男性たちもいます。彼らはもともと天才的な能力を持っているので、それが当たり前で、誰かに褒めてもらおうとは思っていません。今さえよければいいという刹那的な考えばかりではなく、先を見通す能力もありますので、そんなことより人生の意味を考えたり、真理との邂逅を済ませて今生を終えることに専念します。

 同時に、今、このときを楽しむ術を常に考えています。元々頭が良いので、その場の空気や他人の気持ちをすぐに把握できるので、他人に引け目を感じさせることは避けますし、一緒にいてとにかく楽しいし疲れません。

余談ですが、女性でも本当に心の中からも滲み出る美しさを持った人たちはそれを自慢することはありません。むしろ外面を褒められることを嫌悪します。なぜ内面のことについて話ができる人が少ないのだろうかといつも疑問に感じています。そういうものなのです。

  宗教心もなく、中途半端な学歴信奉主義の親に育てられた、プライドだけ高い馬鹿野郎がサイコパス、モラハラ加害者(自己愛性人格障害者)になります。彼らの両親や先祖も同じカテゴリーの輩で、連綿と連鎖するのです。
その連鎖の外で生きている人たちは、彼らのことを理解する事は出来ません。少なくとも今生では無理です。だから、関わってはいけないのです。関わると、レイプされたり、慰めものとして性的恥辱を与えられたり、優越感を満たすために「頭が悪い」「馬鹿女」とほかでもない「馬鹿野郎」たちに愚弄されます。

宗教心がしっかりした家庭で育ち、人生の意味を真剣に考え、真理との邂逅を求めるひとたちの中では到底考えられないことが、ここ日本では起こっています。日本だけでなく世界中であるのでしょうが、宗教を信奉する人たちが政権や社会の中枢の重要な地位にある場合、サイコパスやモラハラ加害者は睨みをきかされて、大きな顔は出来ないのです。日本の場合、リーダー的存在にあるものが、無宗教であったり、おかしな考え方をするサイコパスやモラハラ加害者であることが考えられ、とても危機的状況であります。

直木賞作家の姫野カオルコさんは怒りを持って、『彼女は頭が悪いから』という小説を書きました。私も同様に怒っています。この行き場のない怒りを、多くの方々と共有したいと存じます。

感謝していること
世の中には真っ当な考え方を持つ人もいます。そういう人たちはもっと声をあげないといけません。姫野さんの小説でそれを痛感しました。

理不尽なことには怒っても構いません。許さなくてもいいです。目一杯怒らないと、いつまでも怒りの炎は消えません。怒りの原因の本人にぶつけるのが一番ですが、死んでしまっていたりなどでできない時は、反面教師にします。自分は絶対同じことは死ぬまでしないと決意します。

「出ていけ」、「黙れ」というハラスメントキーワードを発する人たちって何様?自身も家庭や学校や職場などで言われてきたの?大切に丁寧に扱われてこなかったの?これらを発した途端、相手との関係が終わるけどきづかない?サイコパスだからわざとなの?自分が言われても平気?

他人を尊敬・尊重できる人は同様生き方をするひとたちからは同じように扱われます。一方、サイコパスか粗野で自己中の人たちからはいくら心を尽くしてもとんでもなく酷い扱いを受けます。関わる相手を慎重に選ばないと、ボロボロの抜け殻になります。

「昨日のこと」
「最後の最後、何とかすれば何とかなれるという、自力我慢の心が抜けないその方に、私は何を話したらいいのだろうか」とこんなことを道中考えながら自転車をこぎました。衣笠の大学から、途中、朱雀の自宅でCDをカバンに入れて深草の大学の正門に向かいました。

 「まだ、楽がしたい。現世利益を求める気持ちが抜けません」と仰るその方に言いました。

 「いつまで生きているつもりですか。長綱をはいていないで、臨終を今に持ってきてください。今死んだら、大事にしている身体さえも焼かれていくのですよ。

 何もあてにならないものに、どうして頼ろうとするのですか。生死を超えるために何か一つでも役に立つ、間に合うことがあるのですか。

 地獄と聞いても驚かない、極楽に行きたくもない。この迷った娑婆が大好きで、救われたいなどと全く思っていない逆法の屍が私であり、疑いを自分の力で晴らすことなどできなかったと知らされたとき、このまま、ありのままの私を救ってくださる阿弥陀仏のご本願が賜れます。

 空っぼで何もないところに、仏智が満入します。まだ何かある、何かできる、間に合うものがあるというのは、阿弥陀さまの頭の上で、腐った脳みそをかき回して、あれこれ計らい、必ず救うという命懸けの広大無辺なお力に底を敷いているのです。私が救われないのは阿弥陀さまの能力不足と。 

 どうか、阿弥陀仏に、今、ここで救われてください。命がある内に本願を賜ってください。」

こんな話をした帰り際にその方は言われました。

「救われたらあなたのように遠くても、寒くても、いても立ってもいられず、救われたいひとに話に来られるのでしょうね」

「特別なことではありません。当たり前のことをしているだけです。私にとっての御恩報謝は、阿弥陀仏のご本願が生きて働いていることをお話しして、一人でも多くの方々と極楽に参らせていただくことです。能力のない私はまだ何もできていません。それが申し訳なくて、ご縁のある方があれば、少しでもお話しさせていただいているだけです。」

このように申し上げて、まだご本願を賜っていらっしゃらないことが残念でしたが、龍大を後にしました。夜でも朝でも聴聞ができるようにCDをお渡しして、ご縁を念じつつ、後はその方と、阿弥陀如来の間のことで、私はもうここまでと。

感謝していること
 最近は、御縁の深い方々が、途絶えることなく私の周りに集まって、阿弥陀さまのご本願を聞いてくださることが嬉しくて仕方がありません。

 宗教だけでなく研究において、直感等の感覚は大切です。何かが降りてくるというもの以外にも、何となく気が進まない、読む気がしないという対象は要注意です。それは研究に値しないものであることが多いです。そんなときは、さっさと切り上げるてほかにいく勇気も必要です。

 昨年の夏の十日間余り、私はどうしようもなく嫌な体験をしました。つまらない慢心から人間はこんなにも嫌な奴になれるのだろうかという驚きが今でもあります。それを反面教師にしたり、乗り越えようとしましたが無理でした。その痛みを死ぬまで持ち続けていってあげようと最近決意できました。

 教員やカウンセラーはまず、目の前の人が何を感じているのかを聞くことに専念します。取るに足らないこと、とんでもない誇大妄想を耳にしても、怒らず、決して黙れと言ってはなりません。なぜなら、黙れ、出ていけと言われたら、弱い立場のその人は、無言でその場を去らないとならないからです。

 未信の人たちの言葉は氷のように冷たく突き刺さります。腐った脳みそを掻きまわして出てきた言葉をそのまま、信心の沙汰をしてくれる他力を知った人に吐きだします。御仏と共に、信心の人は憐れみ悲しみながら涙をこらえ黙って聞きます。信後、初めてこの苦しみにをきづきます。

 どんなことをしても何とか救われて欲しいと願うこころを知らない未信の人たちは好き放題の暴言を吐きます。なぜ救ってくれないのかと、腐った脳みそを総動員し、仏さまのお約束を疑い、底を敷きます。浅ましい、大変な罪ですが、御仏と一緒に泣きながら、ただ聴くしかありません。

 ライトワーカーや信心の沙汰をする他力のひとはなぜ、法を謗り、煩悩塗れであることを恥じ知らない好き勝手放題の人たちの為に、自分の時間を費すかといえば、自分もかつてこころをかけていただきながら、通った道だから耐えられるのです。

ほとんどの人は広大無辺な真理を見ず、狭く暗い卵の殻の中で、腐って死にます。素晴らしい境地を未だ知らない人たちなので、その狭く、腐敗臭のする場所が好きなんです。憐愍の念が湧きますが、御縁がない、もしくは薄い人たちなので仕方ありません。でも不請の友を買って出ます。

布教師も含めひとに教える人たちの養成の要は教え子の人格の涵養を常に念じられるか否かです。感じていることに耳を傾け、否定することなく、より佳き方向を示役目を果たすだけです。彼らはしばしば自分を超える素晴らしいことを教えてくれます。なぜなら、教え子は自分よりも偉大で、無限の可能性を持つからです。

 自身の能力の限界と若いひとたちの可能性を知っているから教員をしているのです。学校に雇われ、養われなくても、本も売れ、世界中から講演、講義などの依頼があります。その方が自由だしやりがいがありますが、できないから宮仕えをするしかないのです。そこのところを勘違いないように!

「お前は馬鹿だ!」これを暗に言われたことがあります。「周りの人たちはみんな自分より賢いと思った方がいいですよ」と。
「それは私が馬鹿だと、馬鹿にしているんですか?」と聞き返しました。その後、周りの人と私は真摯に関わっているけど、自分を卑下はしないと伝えました。

多種多様なことを知るのが賢い人ではありません。大量の知識はかえって人を不安に追い込みます。相対の知識には限がないからです。要る物要らないものを峻別し、必要なもの、大切なものだけと深く狭く関われるのが本当にものを知る優れた人です。多くの人はそれを知りません。

蓮如上人は親鸞聖人の教えを捻じ曲げていると宗教の学会で得意げに根拠を挙げて発表した研究者がいたそうです。

「無礼者!」「愚か者!」「馬鹿野郎!」としか信心決定の身の上からは言えないと内に秘めて真宗学者が冷静に反論したそうです。

宗教研究と信仰体験は切り離せません。客観的に再現性を求めるのは、相対の考え方です。信仰はただ私一人の身の上に起きる一回性の出来事なのです。信心獲得した体験がない者に、その重大性が分かりません。今生で救われないなら迷いの道を繰り返す悔恨の念の危機感を持たずにいられません。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック