昨日のこと


「最後の最後、何とかすれば何とかなれるという、自力我慢の心が抜けないその方に、私は何を話したらいいのだろうか」とこんなことを道中考えながら自転車をこぎました。衣笠の大学から、途中、朱雀の自宅で御説法のCDをカバンに入れて深草の大学の正門に向かいました。

 「まだ、楽がしたい。現世利益を求める気持ちが抜けません」と仰るその方に言いました。

 「いつまで生きているつもりですか。長綱をはいていないで、臨終を今に持ってきてください。今死んだら、大事にしている身体さえも焼かれていくのですよ。
 何もあてにならないものに、どうして頼ろうとするのですか。生死を超えるために何か一つでも役に立つ、間に合うことがあるのですか。
 地獄と聞いても驚かない、極楽に行きたくもない。この迷った娑婆が大好きで、救われたいなどと全く思っていない逆法の屍が私であり、疑いを自分の力で晴らすことなどできなかったと知らされたとき、このまま、ありのままの私を救ってくださる阿弥陀仏のご本願が賜れます。
 空っぼで何もないところに、仏智が満入します。まだ何かある、何かできる、間に合うものがあるというのは、阿弥陀さまの頭の上で、腐った脳みそをかき回して、あれこれ計らい、必ず救うという命懸けの広大無辺なお力に底を敷いているのです。私が救われないのは阿弥陀さまの能力不足と。 
 どうか、阿弥陀仏に、今、ここで救われてください。命がある内に本願を賜ってください。」

 こんな話をした帰り際にその方は言われました。

 「救われたらあなたのように遠くても、寒くても、いても立ってもいられず、救われたいひとに話に来られるのでしょうね」

  「特別なことではありません。当たり前のことをしているだけです。私にとっての御恩報謝は、阿弥陀仏のご本願が生きて働いていることをお話しして、一人でも多くの方々と極楽に参らせていただくことです。能力のない私はまだ何もできていません。それが申し訳なくて、ご縁のある方があれば、少しでもお話しさせていただいているだけです。」

  このように申し上げて、まだご本願を賜っていらっしゃらないことが残念でしたが、龍大を後にしました。夜でも朝でも聴聞ができるようにCDをお渡しして、ご縁を念じつつ、後はその方と、阿弥陀如来の間のことで、私はもうここまでと。

感謝していること
 最近は、御縁の深い方々が、途絶えることなく私の周りに集まって、阿弥陀さまのご本願を聞いてくださることが嬉しくて仕方がありません。

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