心身の快楽を悦び、他の迷った人間より優れていることを楽しむ慢心が夢幻だとなぜきづかないのだろう?

肉体の快楽は一瞬のものです。スポーツを例に考えるとよく分かるでしょう。気分がいいのはほんの一時のことです。苦しい練習は嫌だけれど、それを経ないと上手くなれないジレンマなどいろいろな葛藤があります。趣味でしていても、いつも楽しい訳でもなく、怪我をしたり、疲労が襲ったりもします。男女の楽しみもしかり。簡単に手に入る異性はすぐ飽きるし、時間とお金と戦略を以て特別な相手を手に入れたとしても、日常生活を共にし始めるとメッキが剥げる部分を見ることも多々あります。たとえ、どんなに好き合っていてもどちらかが先に死にます。永遠など何もありません。

 骨と血と肉などで構成される人間に特別素晴らしい超人的な人がいるとも考えられません。周りを見渡せば似たり寄ったりの下らない名利に振り回される人ばかりです。そんな中、真理を求め、真理との邂逅を果たし、真理に生きている人は滅多にいません。そういう人をめざし、目標にし、自身の至らなさを反省するご縁にしたらいいのです。でも、自分が劣っているとは思えず、相手の欠点ばかり探して優位に立とうという気持ちはおそらく死ぬまでなくなりません。

 真理との邂逅を果たした人は、迷った人間ではなく真理と共に生き、真理に近づけるような生き方をし、肉体の死は単なる通過点で、同じような状態をその先もずっとしていくことになります。自身を後回しにして、迷っている人にきづいて欲しいと願い、できることを粛々としていく人生を送ります。

 迷っている最中は、欲しい、憎い、可愛いばかりが心の中に湧き起こってきて、真理の方向に向くことは難しいのでしょうか。私にはよくわかりません。

感謝していること
 欲・怒り・愚痴もほかもお腹一杯で生まれてきてしまい、どうしてこんな言動を周りの人たちはするのだろうかとずっと不思議でした。そんな中、誰かが死ぬことに対する悲しみ、自分や誰かがないがしろにされる痛みはくり返し、嫌というほど味わいました。だからそれには寄り添えます。寄り添えるように体験させていただいたのかもしれません。有難いです。


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