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zoom RSS テーマ「死の解決」のブログ記事

みんなの「死の解決」ブログ


ひととひとは愛おしみ慈しみ合うために存在する

2018/06/16 11:06
 無常のいのちを抱えて不安な者同士が人間として生きています。

 それなのに、その無常からくる不安を劣等感という別物にすり替えて、他人を攻撃して見ないように、考えないように遠ざけている人がいかに多いことか。本末転倒です。

 ひととひとは真理のとの邂逅を経たら、慈愛、信愛の中で生きられます。真理を各自が平等に受け取り、それを讃嘆し、慶び合えるからです。そうなれたときから、人生の醍醐味を享受できる人生が始まります。

  くだらない競争や自慢や我慢などを繰り返すことに疲弊していませんか。目先の損得に神経をすり減らしていませんか。そんな人生なら死んだ方がましです。でも生まれてきてしまっていますので、どうせなら、真理に生きる道を選びましょう。

ひととひとは真理の光の中でともに慈愛、信愛の交流で本当に生きる楽しみを実感し、分かち合うのだということを覚えていてください。

感謝していること
今日も晴れて気分がいいです



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死の恐怖に怯える人に対しての応答

2018/06/10 23:07
 「僧侶、布教師として私は何ができるでしょうか」と友人に尋ねられました。

 「話ができずに、ただ本を置いてきました」と言われたのでこのように言いました。

 「なぜ、阿弥陀仏の本願の生起本末を分かり易く話してこなかったのでしょうか。あなたがお目当てのお約束ですよ。それを疑いなく信じたら、死後は阿弥陀仏のお浄土に生まれることができます。どちらが先かはわかりませんが、私は何もないまま、お浄土に参らせていただけることを慶んでおります。お浄土でまたお逢いしましょう。」と自信を持っていえないのでしょうか。

自信教人信、自分が救われることよりも難しいのは人に教えて信じてもらうことです。しかしながら、自分が生まれた時のことはよく分からずとも、他人が生まれるところは産婆として冷静に見ていられます。そして、弥陀の本願本当だったなと知らされることになります。そういうご縁を数多く重ねてきた私としては、友だちにがんばってほしいとエールを送らせていただきました。

感謝していること
 ターミナルケアのきちんとした論文を書き、それが起爆剤となり、多くの方々の救いにつながれば幸いです。そういうことをさせていただけていることに感謝します。


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「いのち」「命」「生命」

2018/06/05 17:30
 宗教的な表現は「いのち」がふさわしいのではないかと、大学院の医師でもある先生から言われました。確かに「命」や「生命」と漢字で書くと何か科学的、無機的な感じがします。仏教的「いのち」は三世を貫くものです。過去、現在、未来全ての「いのち」を問題にします。

ターミナルケアにおける心的援助活動の論文を完成させるべく日々格闘しています。講義の中で同じ先生にお尋ねしました。
「先生は死後を不安に感じている末期患者に『先に(お浄土に)行って待っていて下さい。私も後でまいりますから』と言われますか?」
 先生はお困りになり、次のようにお返事されるのが精一杯でした。
「私も必ず死ぬとは言いますが・・・・・・」

結局、科学的な方法だけでは、死に面している患者の「いのち」の問題を救うことにはなれません。肉体の疼痛などの「身体的苦痛」は医師等の医療関係者、仕事や残された家族のことなど「社会的苦痛」は親族や職場の人や死後どうなるかという怖れ「いのちの苦痛(叫び)」は宗教家と三つの苦痛はそれぞれ、別の人にゆだねる必要があるのでしょう。医師、家族、周りの人たちが宗教的な導きをできるならそれに越したことはありません。そうでない場合、それぞれの苦痛を解決する人に任せたらいいのですが、最後の「いのち」の問題を解決できると看板なり名乗りを上げている人はなかなか見当たらず、ご縁をもつことが難しいです。

 それをカウンセリングという聴くことを橋渡しに「いのち」の問題が解決できて、クリアになり、安心満足して臨終に臨めることが現実として存在するのだと伝えるミッションのための論文です。書き方を工夫したら「いのちに限りのある全人類の光」に必ずなります。そう確信しつつゴールを目指し毎日書いています。

感謝していること
 先生はいつも的確かつ真摯にご教示してくださいます。有難いです。


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真宗カウンセリングがターミナルケアにおいて果たす役割――心の叫びに応える――

2018/05/30 07:21
  同じテーマの論文を、一昨年の秋から準備して、昨年投稿の今頃、同じところに投稿しようと締め切りを前に同じように考えては書いていました。それでも思うようなものにならず、昨年は見送りました。そして、今年は別のところに学会発表して、論文を投稿しました。その論文の内容は概論的なものになりました。今回の文章はターミナルケアに絞ります。

「わたしはもうだめなんじゃないでしょうか」
心の叫びを打ち明けるクライアントへの真宗カウンセリングが果たす役割を書き切ります。明後日締め切りなのでかなり厳しいです。それでも、この論文の完成を心待ちにしてくれている人が背中を押してくださっています。

「わたしはもうだめなんじゃないでしょうか」
この切実な想いを誰にも打ち明けられずにいる、まだ見ぬ人のためにも書きます。
みなさまにも応援して頂けたら幸いです。

感謝していること
憶いをどこかに発表できることはすばらしいことだと有難く感謝しております。
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死後の世界、どこへ行くのか、どうなるのかが苦になるか否か

2018/05/27 23:07
 みながみな、後生を苦にするわけではないのですね。
 私は物心ついた時から、常に死のことを考え、怖れ続けていました。
 人は生まれたからには必ず死にます。
 遠いところに住む、知らない他人の死を見聞きしても、あまり驚きませんが、身近な肉親や友人がこの世を去るとどんなにか心が寂しくなります。そして自分もやがて、このように冷たくなって焼かれていくのだと頭では分かります。しかし、しばらくすると、生きるのに必死になり、死ぬことなどすっかり忘れてしまいます。

 飛行機が離陸したら、着陸する場所がなければ安心できません。降りる場所があって飛び立ち、飛行ができます。人生も生まれて生きていても、死んでから行く先が今ハッキリしていないと、人生そのものが不安一杯で何をしても満たされません。それでも、死を誤魔化して、美味しいものを食べ、旅をし、恋をして結婚し家族を持ち過ごしているとき、若くても死ぬこともあります。

 突然でも、分かっていても親しい人がこの世を去ることで、自身の死を直視して、生死を超える教えを求められたら、その人は佳き人生の先生となります。そういう人がいなくても死が気になる人はあまりいないのかもしれません。

 なぜ、死のことばかり書くのかと問われても、それを苦にして、解決を求め、今死んでも安心満足の身に救われ、行く先がハッキリしているからとしか答えられません。
 どうか、いま、ここで救われてください。
感謝していること
 死ぬことが怖くて苦しいと感じられたことが不思議で有難いと感謝しております。
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私も後で行くから、お浄土で待っていてね

2018/05/25 08:37
 「疑いなく阿弥陀佛を信じたら、浄土に参ることができます」。

 「私も後で行くから、お浄土で待っていてね」。

 このように信頼する僧侶、医師、看護師から終末期の患者さんが言われたら、ふっと救われることがあります。彼らは自分の力で救われる縁も手掛かりもないので、他力を信じるいちばん近いところにいるのです。もし、それらの職業の人たちがまだ救われていなくても、自身があたかも救われた気持ちになって自信を持って、佛の代官として、語りかけたなら、死を目の前にした人たちには「響く」ものがあります。患者が信頼する人たちの口を通して直の阿弥陀仏の召喚(呼び声)を聞くことになるのです。

  もしできるなら、それらの人たちは、生前に一日も早く患者さんより先に救われたらいいです。それは難しいことですが、願えばいつかは叶います。それ以前でも、教えを知ることで話ができるので、救われた立場として、話をされると患者さんにとっても自身にとっても死を逃げないで過ごすことができます。いくら死を見慣れていても、その先の救いなしに死の宣告をするのは誰でも辛いです。それを自分も死にゆく人たちも共によろこべるなら、僧侶、医師、看護師などの職業観は全く違ったものに転じ変わりません。

 ただ、中途半端な関わりや自信のない言葉では患者さんには伝わりません。その場では、自分が救われていると自分も信じ切ったつもりで、真摯にできれば患者さんの手を握りながら目を見つめて、しっかり役目を演じきってください。

 救われていなくても話はできます。言葉かけはできます。聴聞・教学があります。自分の信じる宗教がいまここで救われるなら、その宗教を話してあげても構いません。そう私は感じます。ただ、私は真宗で救われたので、それしか知らないので、阿弥陀佛の願いを、救いをお話ししております。

「私も後から行きますから、先に行って待っていてください。お浄土で再会するのを楽しみにしています」

 このような言葉を死に逝く人はどんなにか、有難く受け止めます。

感謝していること
 仏教を褒めること、疑うことともに深いご縁として響くことになります。


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観念の死と現実の死の大きな違い

2018/05/24 05:04
 我が身の後生が苦になり出してからが本当の人生です。それまでは、人生が始まっていません。肉親が不治の病に罹り、余命いくばくもないとき「私は死ぬんじゃないかしら」と聞かれた時どう応えますか?自分の命がもう残り僅かな時、同じように周りに聞いた時どう応えますか?これは人間としての問題です。理屈ではいくら考えてもわかりません。死を目の前に引き寄せて真剣に考えてみてください。どのように言って欲しいですか。そしてどのような救いを与え、与えて欲しいですか。

 観念の死と現実の実際の死は異なります。そこのところが分からない人だらけで、だからいろいろな問題が起こり続けるのかもしれません。

感謝していること

 生死の解決をさせていただくご縁になってくださった方々に有難く感謝します。


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人間にとって唯一平等なのは必ず死ぬ存在であること

2018/05/23 08:39
自分も必ず、絶対に死ぬときがくるのだという自覚があると、日常の些細なことはどうでもいいように感じます。どうせ臨終には何も持って行けないのです。それなら目の前にある物を十分堪能して少しでも優しい言葉を掛け合って生きようと分かってきます。

 いつまでも生きていられるという幻想から、競争し、お金や地位や名誉といったアクセサリーを取り込み飾り立てるのです。

 臨終の場面を思い浮かべてみてください。親しい人たちが周り集まってくれている自分が浄土に旅立つ別れのとき、浄土での再会を共に確信しつつ、しばしの別れだと言い合えることがどんなに心強いか。これは簡単によく分かる人には分かる、分からない人には全く分からない話です。臨終に自分が次にどこに行くか、生きている、いま、ここでハッキリ知らされることが大切なのです。それが分かれば、無駄に人間同士が傷つけ合わずに済みますし、優しく思い遣りを持った言動を続けて共に労わり感謝しながら充実した人生が送れます。

感謝していること 
 仮に今不治の病にあり、じきに死ぬとわかっても、多少の寂しさはありますが、これといった不安もなくいられるようになったことは、本当に不思議で有難いです。


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一人でも、何がなくてもよろこべる

2018/05/20 15:38
 誰かといなくて一人でも、自身の才能、知恵、美貌、物質的なお金や物、地位名誉、何もなくてもよろこべることが究極的な安心満足です。

 外界からさまざまなものが飛び込んできます。
綺麗なもの、美味しいもの、功績、勝者などなど。
何か違うと感じてしまうのは私だけでしょうか。そういうものをただの装飾品で、それも薄っぺらいものだと感じてしまいます。あっても邪魔にならないのかもしれませんが、さほど必要とも感じません。

 私にとって、本当に必要なものは、私の気持ちを全て御見通しの真理の存在との心の触れ合いです。これさえあれば生死を乗り越えられます。一度、気持ちが通じ合えば二度と離れることがありません。

 お誕生日を迎えた方や自分の誕生日にはこのことを共によろこび合えたらと存じます。

感謝していること
 ご縁に値えたことが不思議で有難く感謝します。


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今を問うのがカウンセリング

2018/05/18 23:26
 カウンセラーという立場でお金をもらって仕事をしたくないのでしていません。それでもここ9年くらいそんなようなことを続けています。初めは仏教の「生死を超える話」・「きづきの話」のために仕方なくカウンセリングもどきをしていました。しかしながら、このカウンセリング的な聞き方を経ないと、仏教の話に進めないことがだんだんわかり、途中、カウンセリングや心理学の勉強をして、認定心理士や産業カウンセラーの資格を取りました。今でも、ときどき、カウンセリングのワークショップなどにも参加しています。

 勉強した結果は、自身がしていることの理論的裏付けができたことくらいでしょうか。実践で半分の年月を費やした後、カウンセリングと心理学の勉強をしたので、特に真新しい発見というのはありませんでした。結局、カウンセラーの最低限の技術面と、態度、そして人間観が大切だと知らされました。自身のことは誰かに聞いてもらわなければ、なかなか分かることではないのだというのは、仏教を求めた最後の方でそうしてもらっていたので、同じような聞き方をしていました。

「そうなんだ」「そういう風に感じているんだ」こう言うしかありません。自分がもしその人の立場なら、そう感じているまま、ありのままの共感を持って受け入れるしかあり編ません。否定や批判をすることもできますが、それをしても、今、分からないなら、言葉を重ねても無意味なので言わなくなりました。私はこう感じるというのは言いますが、それを受け止めようと受け止めまいとそれは仕方のないことだと考えながら言います。その人によります。聞き入れてもらえそうなときは言いますが、そうでないときは黙っています。

 なぜ、どうしてという質問をしても無駄で、結局、本人がきづいて変るのを待つしかありません。過去のことを問いただしても無意味です。否定も上辺の励ましもしません。分析もしません。その人が感じていることを鏡になって引き出す感じです。鏡がないと見えないことがほとんどですから。その鏡として歪みのないよう、最大限きをつけます。ただそれだけです。なによりも、今が大事で、今、縁が熟すようにならないと始まりません。今、聞けるなら聞ける、ダメならまたご縁があれば、そんな感じです。今生ではご縁がないのかもしれませんし。それでもその人ができるだけ早く真理との邂逅ができる話をする機会が来ればと願ってやみません。

感謝していること
 カウンセリングの文章を読んでいて、自分のしてきたことの振り返りができて、とても嬉しいです。


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タイトル 日 時
本当に頼れるのは解決の道筋を教えてくれる人
 生死を超えることにしても、大学に受かることでも、身心の病が治ることでも、実際そういう身になれることを知っていて、どうしたらなれるかを教えてくれるひとでなければ役に立ちません。自分がなりました、できましといくら嬉しそうに語られても、一人で自慢して、よろこんでいる人は信用しません。 ...続きを見る

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2018/05/12 08:53
仮に瞑想などで人間人格最高峰を極めても、気を抜くと戻り、死の前で無効
 瞑想などで、人格が優れたものになっても、気を抜くと戻ります。 人格の最高の極みに上っても、死の前では何も役に立ちません。  なぜ、そのものズバリの死の解決をしないのでしょうか。  方法を知らないからでしょうか。  そこまで深い考えに至っていないからでしょうか。  私にはよく分かりません。 ...続きを見る

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2018/05/11 09:33
死後、通夜も葬儀も法事も墓もない人生って?
 最近では、葬儀が密葬、家族葬という形で行われることもあります。身内がいないと行政が火葬して共同墓地に葬られるそうです。何とも言えない気持になります。たとえ自分がお葬式に行けなくても、ほかの人たちが故人を偲ぶセレモニーをされていたなら何となく気が済みます。 ...続きを見る

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2018/05/05 22:53
今生を学び切る覚悟
 だらだら過ごしても、覚悟や決意を持って過ごしても同じ一生です。 ...続きを見る

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2018/05/05 15:53
人生の最期はどうしたいですか
 家族や親しいひとたちに看取られて「お浄土でまっているから、元気に仲良く暮らすように」と言って還るのが理想でしょう。それができたら自他共に今生の生を全うできたように感じられます。 ...続きを見る

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2018/05/05 09:52
生きる目的は人間関係の調和ではなく生死を超えること
 いくら仲良く元気に暮らしても、いつかは老いて死んでいきます。 ...続きを見る

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2018/05/03 23:31
丁寧に憶いを伝え合う
 「どちらが先に還っても、またいつか必ず逢えるから」と言える関係はかけがえのないものです。そんなことを口に出して、または文章ででも、あなたに遇えてよかったとの憶いを込めて言い合えるひとがいることを私はとても嬉しくてなりません。辛い環境にいなければならない、大病をして心細いようなときでも、あのひとといずれはまた遇えるということが心に安寧をもたらします。 ...続きを見る

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2018/04/29 23:20
心も身体と同様、対症療法では完治しない
 論文作成の為に文献を読み進めていくと、いろいろ知らされることがあります。  その中で、心の問題も対症療法をするカウンセラーでは解決できないということが分かりました。言い換えれば、根本的な問題である「死の解決」ができないでいるうちは、ある問題は解決できても、また、どんなにいいことを言われても、それはその場の痛み止めくらいにしかならないということです。 ...続きを見る

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2018/04/29 07:48
研究、特に人文系、その中でも心理学に関わっている方へ
 研究やその過程において、他人に嫌な気分を感じさせるのはただの自己満足の域を抜けていません。研究とは自身の貴重な学びの時間を切り売りしてまでしているものなので、それに見合うものがもたらされないとなりません。自分にとってでもですが、他人にも恩恵をもたらすものでなければ意味がありません。そこら辺を勘違いしている人が多いように見受けられます。 ...続きを見る

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2018/04/27 08:01
生死出る道を今、ここで求める
 ひとは無常を感じる縁がないといつまでも生きられるという妄想を持ちます。 ...続きを見る

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2018/04/22 00:24
私のたのしみ
 お浄土でまた有縁の方々と、お目にかかれるのが私の唯一の楽しみです。寿命はそれぞれの業のなせること、私かほかのみなさまが先か分かりませんが、また必ずあえる、このこと一つが楽しみです。本当に今生は佳きご縁を賜りました。様々な辛いこと哀しいことも、このことを思い出すだけで、すっと消えていく気がします。私は今まで大したことが出来ておらず、これからもどうなるか何が出来るか未確定ですが、共に疑いが晴れてよろこび合える方々とまた最高の場所(故郷)で再会できることは、この世のどんなことよりも嬉しいです。本当に... ...続きを見る

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2018/04/12 08:41
何らかの死の淵を感じる状況に在るあなたへ
 病院で医療器具につながれている友だちがいます。 ...続きを見る

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2018/04/06 00:58
全く何も要りません、信じようとする心も捨ててください
 自分の力は全部間に合いません。 ...続きを見る

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2018/04/06 00:52
今、ここで信じられているかが大切
 他は何も要りません。 ...続きを見る

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2018/04/06 00:48
「何も考えずただ存在していることをよろこべる」
 ずっと死の不安を抱えて生きていました。ひとときも心が休まる時がありませんでした。誰にも自分の本当の気持ちを打ち明けることもできずにいました。これが人生なら何と苛酷なものだろうと半ば呆れめつつ、もう半分は何とかできる方法を探し続けた毎日でした。親は分からないだろうという確信がありました。大人になったとはいえ、まだ人生の途上で未熟な上に、同じ苦不安定な人生を生きているのに、私やほかの子供まで育てないとならないことがとても気の毒でした。だから親が困るようなことや手のかかることは一切しないようにしよう... ...続きを見る

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2018/03/30 08:23
自惚れが取れない人間の悲しい性
 謙虚であり続けたいと心がけています。 ...続きを見る

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2018/02/23 22:43
研究者でありかつ宗教家としての使命を果たす上での葛藤
 やはり花山信勝氏も同様なこと感じて、似たような評価や批判を受けたのかもしれないと資料を調べていく内に感じました。研究者としてはひよこの私ですが、人々に迎合して教えを曲げることも、死すべき存在であることをごまかし、自分が分らないことを分った風に云う事も、自分の価値観や信念をごまかすことも出来ません。 ...続きを見る

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2018/02/23 22:14
まだ死なないと思うので真理に真摯に向き合えない
 戦犯であった土肥原賢二さんが真理を体得したい、そのために宗教に向き合いたいと考えたとき、禅宗では自分は理屈としては分からないこともないが、体験ということになるとピンとこなかった。親鸞聖人の伝記や、浄土三部経や正信偈、蓮如上人、法然聖人の伝記を読み、阿弥陀仏の本願でしか救われないと納得した。その後念仏を称えるようになり、有難くもあった。それでも「徹底を欠いていた」のは恐らく「生」に対する陰影があったからであろうが、死刑の宣告を受けた時、カラッと晴れ渡った気持ちになり、全身全霊をあげて、念仏するよ... ...続きを見る

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2018/02/21 12:50
人生は苦なり――時折ホッと一息つき、また苦しみが続く――
 物心ついた時から、人生は火のついた家にいるか、もしくは水中で溺れていて時折水面に顔を出すようなものだと感じていました。家は安心する場所なのに火がついていて、どんどん燃え広がっていく。それなのに、その危機の中にありながら、まるで火事場にいるを忘れ、熱さに慣れてしまいますが、炎や火の粉が降りかかってきて、こんなことをしていてはいけないと我に帰ります。いつも溺れているようにもがき苦しんでいる中で、ふと水面に顔を出せるときがあり、一瞬、楽になっても、また大きな波にのまれて苦しい水面に引き戻されることの... ...続きを見る

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2018/02/20 22:03
放って置いてくれないひとたち
 政治家・芸能人は特にプライバシーなど無きに等しいです。 様々なスキャンダルを記者が狙っています。お金になりますから。 芸能人はともかくとして、政治家は公僕・公人として使命を果たさなくてはならないので、せめて在職中は身辺を綺麗にして、怖い言葉を使わず、言いたくないことは微笑みでスルーするくらいしか放って置いてくれないひとたちから逃れる術は考えられません。ある種、面倒なことも仕事の内と引き受けると肚を括る覚悟がないとやっていられません。 ...続きを見る

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2018/02/20 21:58
生きてきて人生の終わりに出来ること
 旅行で介護をしているひとが参加していました。97歳のお母さんをディサービスに預けて、9日間仏跡巡りを一緒に楽しみました。15年くらい介護に専念しているようです。 お母さんは頭もしっかりしていて、感謝もするし、たまには冗談も言うし介護も普通の仕事の様だとその人は言いました。介護と言っても今まで一緒に暮らしてきた親などの生活の御手伝いをする自分の仕事だと捉えていけば違った人生を歩めるのではないかと考えさせれられました。 ...続きを見る

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2018/02/19 13:47
カウンセリングはその目的が肝要
 今、死に臨まんとしてその実存的な解決をしたい人等、例えば死刑囚や不治の病を宣告された人や家族。世間一般の人間関係や労働問題等で困って解決したい人では、カウンセリンセラーの種類が明らかに違います。一方は、宗教や思想的な観点から、他方は経験的実践的観点からのアプローチをすることが多いでしょう。とりあえず両者は、区別される問題なのです。それを一緒くたにすると問題は解決するどころか混迷を深めます。 ...続きを見る

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2018/02/18 18:34
釈尊が牢獄でビンバシャラ王にされた教誨
 来週末、京都の同志社大学で学会発表をしますが、取材旅行から帰ってきてあることにきが付きました。ビンバシャラ王にされた釈尊のお話は教誨の始まりであったのではないかということです。釈尊は、請われて死を待つ王の幽閉されている牢獄に木蓮・阿難両尊者と共に赴き、説法をされました。二度と娑婆世界に出ることのない、死を待つしかない身の上を嘆きつつも、生死を超える出世の道、迷いから覚めた境地に今ここで救われたいと願うビンバシャラ王のために釈尊は説法をなされました。   王の牢獄から、霊鷲山が見える位置... ...続きを見る

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2018/02/17 11:01
人生は苦の連続、苦しみは止まらないという厳粛な事実
 このように疑うことなく感じられた時、私は自分の力の限界を受け入れました。  誰かの何かをもってしても、この現実・現状・事実は全く変わることはないのだと知らされた時、真理に身をゆだねました。自分へのこだわりが無くなりました。  死すべき肉体を持った人間は、その最後が来ることをきづいてしまったときから、苦悩の旅が始まります。きづいてしまったからには後戻りはできません。どんな栄耀栄華の身に在りながらも、快楽を感じても、これらは一時の物で、死ぬという事実は変えることは出来ないのだと常に頭の中で声が... ...続きを見る

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2018/02/17 00:21
貧病争を超えた境地
 煩悩があるままで、それがよろこびに転じ変わる「転悪成善」の境地に生きているいまここでなれると仏教では説かれます。 ...続きを見る

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2018/01/30 08:34
信疑決判
 最近、江戸時代の法話での言説を分析しています。その中に「信疑決判」という言葉がたくさん出てきます。真宗の教えの大切な言葉であり、これがしっかり心にコトリと落ちている人はどれくらいあるのでしょうか。 ...続きを見る

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2018/01/27 20:46
ひととひとがわかり合えるたった一つのこと
 自分が死すべき存在であることです。 ...続きを見る

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2018/01/23 23:08
真宗カウンセリングの発展形→生死を出づる対話→トランスパーソナルセラピー
 病や死の恐れなどの実存の苦しみを語り合う場所は、ここ日本ではなかなか見つかりません。人々は宗教を怖ろしいものや非科学的な一段低いものと見做し避けるようになりました。宗教を信じる人というのは心の弱い人たちだと軽蔑する人たちすらあります。宗教に対する無知からくるものでありますが、非常に残念で悲しいことです。 公立の学校では政教分離の政策の為に宗教は語られません。 ...続きを見る

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2018/01/21 09:29

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